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「八角山」という単語で結ばれた夫・周造さんを見送り、近くに娘と孫がいる一人暮らしの桃子さん。したがって、独り言と妄想の世界にどっぷり。頭の中には、「柔毛突起」と呼ぶ多様な人格が棲みついて、東北弁で、泣き笑い喚く。一人生活での無音な世界。分かるわ!頭の中では様々な会話も。人は、マンモスの時代から生きて死んで生きて死んで生きて死んで、気の遠くなるような長い時間をつないでつないでつないで、おらがいる。そして、やがておらも死んで孫・さやちゃんに春がくる。さあて、おらへのお迎えはいつだべか。ちょっと、疲れたわ。
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桃子さんは、亭主に早く死なれ、子供らと疎遠になり、独りで郊外の新興住宅地に住む七十五歳の女性です。
雑然とした部屋のなかで、桃子さんの思考は飛びます。脈絡も無く細切れの思考が行ったり来たり、とらえどころがありません。
孤独になること、老いること、私は想像してもうまくできなくて、怖くて、まだ考えたくないと思ってしまいます。
でも、長い年月をかけて人は変わり、変わっていく“途上の人(p97)”なのだと、桃子さんは気付きます。
惚れた男周造の死を受け入れるための意味、一点の喜びも見つけます。“おらは独りで生きでみたがったのす。”“周造はおらを独り生がせるために死んだ。”(p137)と考えます。“失って得た人生なのだな(p153)”と気付きます。
独りになるとは、解放され、自由でもあるのだと思い、少し前向きに考えられるようになりました。
筆者が“六十三歳の新人”というのも、勇気をもらえました。私は東北弁に馴染みがないのですが、何故か心にすっと入ってきました。
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芥川賞受賞作ということで手に取りました。
所々に岩手弁が出てきますが、
初めは読みにくいかと思いましたが、
徐々に慣れてくるとそれが良い味を出していて
桃子さんの心の奥底の本音、叫びが語られているようでした。
高齢で夫とは死別し、子供とは離れて一人で暮らしをしていると
寂しかったり何かと不自由が出てくると思います。
夫と死別をしたことに対しての悲痛な想いが伝わり、
こんな想いをするかと思うと今の結婚生活を大事にしたいという気持ちや
相手を思いやる気持ちを更に強くしなければいけないと思いました。
そして誰もが通る老いという道。
それなりに覚悟をしているつもりでも、
こんなにも身に堪えてしまうかと思うと
いつか自分や身近な人達が訪れるかと思うと
胸が苦しくなる思いでした。
けれどその一方で老いは未知なる世界で誰もが踏み入れずに
自分で自由に歩いて行ける道という例えがあったように、
視点を変えることで暗いイメージでなくなるのが不思議でした。
人が恋しくて寂しい時には人だけに頼らず、
全てのモノに対して耳を傾けるという考え方も
今の私にはとても心が救われる思いだったので
これからの生活に役立てたいと思いました。
行き着く所は年齢が若かろうが高齢だろうが、
その時を精一杯に生きることが大切だということが
身に沁みて伝わりました。
玄冬小説の誕生と本の帯では書かれていましたが、
まだ年齢的に未熟なせいかそこまでの境地には至りませんでしたが、
これからの人生を歩んでいく上での糧になりそうな作品でした。
また歳を重ねてから再読したら現実味が増し、
考え方なども変わってくると思うので読んでみたいと思います。
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読みながら、自分の老い先のことに思いを馳せる。後悔が多いかな。やりきった感が少しでもあるように、今からでも頑張ればなんとかなるのかな?
そしてお亡くなりになるところまで描かれるのがと思ってたらホンワカ終わったんですね。
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芥川賞受賞作ということで読んでみた。
旦那に先立たれた老女の生き方が描かれた作品。
標準語で「自分は自分で(生きて)やるよ!」と表現されるりも、東北弁の「おらおらでいとりいぐも」という方が、この物語の本質を表しているのかも・・・
厳しい寒さの中、生きていく北国の表現でこそ、老後の苦労を生き生きとさせているように感じた1冊!
さて、自分だったらどこまで一人きりになっても強くいきれるか?!疑問だなぁ~
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第54回文藝賞受賞作にして、第158回芥川賞受賞作である。普段は芥川賞に関心がない自分が、本作を手に取ったのは、著者の若竹千佐子さんが高校の先輩に当たると知ったからであり、63歳という遅いデビューに興味を持ったからである。
一言で言ってしまえば、テーマは「老い」。かつて、東北の故郷を飛び出し、夫に先立たれた、どこにでもいそうな女性、桃子さん。娘との関係はどこかギクシャクしている。生きる意味を自問自答する、代わり映えのない毎日。
タイトルからして東北弁だが、東北弁の独白が多いのが大きな特徴と言える。故郷を出て長いのに、なぜか桃子さんの身内に湧き上がる、東北弁。それらが突きつける、過去と現在。自分自身、東北出身であり、本作の東北弁はすっと入ってきた。
たまたま、主人公の桃子さんは東北出身という設定だが、地方出身者なら共感できる点は多いのではないか。そして、桃子さんに、自分自身の将来を重ね合わせずにはいられないだろう。これは我々読者の未来であり、現在でもある。
誰にでも等しく訪れる「老い」。終盤のある告白は、偽らざる夫婦の本音でもある。誰に責める権利があるのか? 現実に、このように感じた経験者は多いはずだ。どこかユーモラスな響きのタイトルに込められた意味を、ようやく知ることになる。
明るい話とは言えないが、必要以上に重いわけではない。これはすべての人の物語だ。老後の不安は尽きないが、「老い」は悪いこととばかりではない。そう考えなければ、超高齢化社会は迎えられない。
桃子さんの人生が、どれだけ残されているのかわからないが、結末にほっとした。自分も平均寿命までは生きたいものだが、さてどうなるか。
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独りで生きるとしたこれから自分の将来が楽しみになる。どこにも所属しないって自由。東北弁のなんてリズミカルなこと。
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これは老いではなくもはや狂気。方言それほど馴染みなくはないけれどここまで来たらなんだか読みにくさの方が先に来てしまって。
死を受け入れるのは生を受け入れるのと同じくらいシンドイ。あ、逆か?どちらに入れ替わってももうどっちでもいいようになってきてしまいそう。
心の内面をこんなにも吐露してしまって自分はスッキリできたでしょうね。いえ皮肉とかではなく羨望なのかも。
芥川賞ということで。
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芥川賞第158回受賞作
にしては面白い!と言っては失礼?
みなさんが書いている通り方言がきつく、その点では少し流し読みみたいになってしまった。でも、方言がイヤだからではなく心地よかったと思う。
自分は自分。それで孤独なら仕方ない。でも孤独は寂しい。
でも孤独ではないんじゃないの?
年を取って孤独にならないようにするためには、友人よりも、若い夫か子供・孫が重要になってくる。
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日高桃子がこれまでの生活を思い起こす話だが,東北弁が良い.ニュアンスはよくわからないが,方言でしか表せないことがきっとあるはずだ.娘の直美や息子の正司のことも出てくるが,思い出の中に出てくる人物,汽車であったウイスキーを飲むおじさん,病院でバッグのなかを探る女,一緒に働いたトキちゃん,夫の周造の墓に山を越えて行く場面が良かった.最後に孫のさやかが現実に戻してくれた.
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桃子さんが対面で座っているおじさんのルーティンを盗み見する場面が好きです。
小さいころ左右がわからず、右足のやけどでやっと区別がつくようになった時の次の描写、「やけどしたのは右足だった。おかげでおらはもう右に悩まなくなった。右と思った途端、てらてらした四角いやけどの跡がすうすうして、ほらこっちこっちと教えてくれた。なんだか足にも心があるようだと思ったりした」などは座布団一枚でしょう!
夫が突然亡くなり、「おらの人生は言ってみれば失って得た人生なのだな、失わなければ何一つ気づけなかった」という諦念を含んだ感謝の悟りも味わい深い。
明るいラストシーンも好きです。
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第158回芥川賞受賞作品。
脳内東北弁にての内面多重人格的会話を通して、主人公の配偶者の出会いと別れを描くことで、重苦しくなりそうな話が剽軽な感じになっていました。
読み始めは方言や構成になれなかったのですが、主人公が配偶者を失くした哀しみや老いの寂しさがひしひしと伝わりながらも、東北の原風景と同じような主人公の生き抜いていこうとする力強さに圧倒されました。
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自分も絨毛突起の一つとなり、何か勝手に喋りたくなる。
一人暮らしの老後はこんな感じなのだろうか?。母や祖母の中の絨毛突起を想像する。
発音が出鱈目でも声に出して読んでみたくなる。
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きっといつか読み返したくなる一冊。ストーリー自体に起伏はないけど、それでも死と生と愛とが激しく渦巻いている。
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句読点少なく硬さも感じ、(読みづらい文章だな…)と読み進んでいたのが、後半ちょっとすぎの「、意味なのす」の呼吸は効いている、と思った。ラストは自分としては拍子抜けしたがそれだけ引き込まれていたようです。
しかしこの本、男性も面白く読めるのかしら?とソボクな疑問、しかし老齢も極めてくると性差も関係なくなる??と雑な感想すみません。