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動物は等価交換を理解できない。それは、感覚所与を優先するからだ。3+3=6という数学は理解できない。イコールがわからない。
感覚所与とは、感覚器に与えられた一次情報だ。例えば、白という字を黒の鉛筆でかく。感覚所与ては黒だ。そういうことだ。
だけど人間は違う。労働がお金になると言うことが理解できるからだ。働くとお金がもらえる。そのお金で好きなものが手に入れられる。と、繋げて考える事が出来る。金がすべてだと言うわけではないが、金がすべてだと言う人は、全てのものは交換可能だといっているということになる。そういう人は、まさに、頭の中に住んでいるということ、外の違いを、感覚という違いを無視しているのだ。
動物と人との違いのひとつは、人は他人の立場に立つ事が出来るということだろう。
人の意識の特徴は「おなじだとするはたらき」である。
そして、おなじ、おなじ、を繰り返していくとどうなるか。それは、ピラミッドの頂上に全てを含んだ唯一の存在となる。西洋では神という。
同じ立場に立脚する文明社会に、違うものはないだろうか。それは、アートだ。オリジナルにこだわるものだ。ピカソの絵をコピーしても、それは複写であってオリジナルではない。芸術におけるオリジナルは絶対的である。芸術が感覚からはじまる以上、それは当然である。世界を感覚で捉えたら、同じものは一つもないから。同じものがひとつもない世界で優れたもの、それを芸術作品というのだろう。真理は単純だが、事実は複雑だ。それは、感覚所与は多様だけど頭のなかではその違いを同じにする事が出来るから結果が単純になる。
芸術は宗教とも関連する。同じを中心とする一神教と、違うを認める多神教だ。
コンピューターは芸術を創るのだろうか?それは無理だろう。芸術に前提となる唯一性をもたないからだ。もちろん、コンピューターが創ったものを芸術と呼ぶことは可能だ。ただし、それは、作品から唯一性が失われていることになるが。生演奏がいあのは、そこに唯一性があるからだ。数学が、もっとも普遍的な意識的行為の追求、つまり、同じの追求だとすれば、アートはその対極をしめる、いわば、違いの追求といえる。アートは数学的にいうと、数学的なには誤差に過ぎないということになるかもしれないが、その誤差が非常に大きいと言える。その誤差の集合体が芸術であるのだろうか。
最後に本書は、現代の感覚所与を排除し、デジタルな1と0の世界に邁進していることについて、それが少子化を招いているという。デジタルは外乱をきらう。答えの分かるものを好む。感覚所与を押さえ込み、全てをデジタルに置換し普遍のものとして保存できるようにする。感覚的な雑音を排除することは、自分以外に受け入れることを拒否することだ。結婚相手や子供は自分にとっては雑音でしかない。現代の若者は、それを許容できなくなっている。
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・われわれの意識は、多くの場合、感覚所与をただちに意味に変換してしまう。「焦げ臭い」から「火事じゃないの」という判断にただちに移行する。そうなると、それまで「その匂いがしていなかった」ことは忘れられてしまう。「匂いがなかった」状態から、「匂いが存在する」状況に変化したことは意識せず、焦げ臭い「感覚所与」=火事(意味)が意識の中心を占めてしまう。一般的に言うなら、だから「意味のない」感覚所与を無視することに、多くの人は意識的ではなくなるのである。それがヒトの癖、意識の癖だといってもいい。
・すべてのものに意味がある。都会人が暗黙にそう思うのは当然である。しかもそれを日がな一日、見続けているのだから。世界は意味で満たされてしまう。それに慣れ切った人たちには、やがて意味のないものの存在を許さない、というやはり暗黙の思いが生じてくる。
・この本の文脈でいえば、「分けない主義者」は同一性つまり意識を重視し、「分ける主義者」は違いの存在、すなわち感覚所与を重視する。たとえ虫好きの酒席での議論とは言え、じつはヒトの世界認識がそこには関わってくる。
分類学や解剖学のような「古臭い」分野は、常にこの問題を基本にしてきた。世界認識のいわば根本なのだから、そこでの食い違いは喧嘩になって当然であり、だから喧嘩をしていいのである。そこに「正解はない」からである。差異と同一性、それは人類の抱えるじつは大問題である。
・現代社会のように、情報が溢れている中で育つと、すべては説明可能だといつの間にか信じ込む。少し意地が悪いと思ったけれど、私は言葉の限界についての無知を注意しただけである。クオリアは言語にならない。むしろ「感覚からわれわれが受け取るもののうち、言語化できない部分、ないし言語化しようがない部分をクオリアという」そう定義してもいい。
すでにくり返し述べたように、言語は「同じ」という機能の上に成立している。逆に感覚はもともと外界の「違い」を指摘する機能である。そう考えれば、感覚が究極的には言語化、つまり「同じにする」ことができないのは当然であろう。
・建築で問題になるのは空間である。ここで意識ではなく、感覚のほうに基準を置くとする。すでに述べたように、感覚はひたすら違いを指摘する。百人のヒトがいれば、全員が違うヒトである。同じように、向かい合って話をしているとき、お互いに見ているのは相手の顔である。ヒトはすべて、いつでも、互いに違うものを見ている。「そうではないでしょう。同じ空間を共有しているんじゃないですか」意識はそういう。
・すべての学問は意識の上に成り立っている。それなら意識を考えることは、自分が立っている足元を掘り起こすことである。学問が意識をタブーにしてきたのは、それが理由であろう。学問こそが、典型的に意味の上に成り立っているからである。でもここまで都市化、つまり意識化が進んできた社会では、もはや意識をタブーにしておくわけにはいかない。
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随筆のような自由な文章のせいかもしれないが、自分の知識や興味の在り方に問題があるのだろう。平易な言葉だけど難しい本だった。でもまたいつか読み返してみたい。
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「感覚」と「意識」に関する本。
物事の同一性に立脚する文明社会にとって唯一性が重視される芸術とは一種の解毒剤。外界に対する違和感を指摘する機能である「感覚」を言語化、つまり同一視することはできず、そこを何とか伝達可能にしようとする試みが芸術。おもしろい。
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養老先生の本は「バカの壁」に続いて2冊目。
もうはっきり分かった。私には養老先生のスタンスは全く合わない。
ご専門に関係する脳科学的な話題は理路整然としているけど、哲学や社会学的な話題はだいぶ乱暴が過ぎるように感じる。この人はすぐこういうご自分の専門外の話題にも結びつけてさもありなんといった風に話したがる(なお、私はそのこと自体は別に否定しない。ちゃんと裏付けのある評論ならば。)けど、まるでワイドショーの司会者のようなお粗末なもので、色々と突っ込みどころが多すぎると感じ、途中で読むのをやめた。
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まるが逝き、養老センセも「知の引き継ぎ」兼ねてまじめに遺言書く気になったかと手にしたが、初版の発売日見て勘違いに気づく。まるが登場する件は楽しめるが、全体的には…。「雑草は大事」同感。「都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する」「感覚入力を一定に限ってしまい、意味しか扱わず、意識の世界に住み着いている」のは誤り。
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養老孟司の書き下ろしの本である。
著者自身が述べているように、これまで出版された本の「まとめ」のような内容であるから、私は概ね理解できたが、本書に対する低評価のレビューを見て驚いた。養老孟司の本はいつも発見がある。私はそう思うが、低評価が付くのはなぜだろう。読み解けていないのは低評価を付けたその人なのか、それとも自分なのか。そんなことを考えながら読んだ。
本書で改めて著者が強調しているのは「意識と感覚の問題」である。「意識は同じ」と主張するが、「感覚は違う」と主張する。
そして、養老氏があることを言うとき、やはり「同じ」と「違う」が話題になる。例えば、絶対音感について。動物には絶対音感があり、人間にはない。
しかし、赤ん坊には絶対音感があるはずと述べる。つまり、赤ん坊と動物の聴覚は同じであり、大人と動物は違う。低評価のレビューを読むと、特にこの部分に対する指摘が多い。絶対音感に関する氏の主張はデタラメだと。その指摘は正しいのかもしれないが、それは枝葉の問題である。氏は「動物は感覚の世界に、人間は意識の世界に生きている」と主張するために絶対音感の例を挙げたに過ぎないからだ。枝葉にこだわると幹を見失う可能性がある。
思えば、書物は文字である。言葉である。つまり、意識である。本を読むという行為は「意識の世界」そのものである。そこではやはり、「同じ」なのか「違う」のかということが問題になる。
養老氏の本はいつも気軽には読めない。論理を丁寧に追いかけていかないと、途中で分からなくなる。
それでも本書の理解度は8割程度。終盤は理解できないところがあったが仕方がない。相手は知の巨匠である。時をみて再読しよう。
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読書開始日:2021年11月27日
読書終了日:2021年12月4日
要約
①感覚所与を意味のあるものに限定し、世界を意味で満たす。それがヒトの世界、文明世界、都市社会。
②都市社会の弊害は全てに意味があることを強い、意味ないものを徹底的に排除する。それにより人間本来の死生観との乖離が起きている。人生についても意味あることへの強迫観念が強いられる。
③意識と感覚の違い自体を意識することが重要。
所感
養老孟司さんの本は本当に面白い。
都市社会を、説明によって理解することができた。
意味の強要。
自分も経験してきた。
自分はSNSから距離を置いた。
この意味の強迫がとても居心地悪かった。
残された学生生活、残された20代、楽しまなきゃ損。俺はこんだけ楽しんでる。談笑だけでは飽き足らず、一生残る情報として書き記す。自分が精一杯自分の人生に意味をつけた証として。
既に一般市民の若年層にも意味強いは浸透している。
個性尊重もそのせいだ。
個性なんてものは今の自分がそもそも個性で、その個性すらも諸行無常。
自分なんてない。
むしろせせらぐ川のように流動的に、時に濁流のように、移ろうものが自分だ。
その中でもイメージする川に矯正する、矯正してもらえるような存在が必要。
その関係は、もちろん移ろうを前提とした関係だ。
前提は前提としていながらもそこに向かうことにきっと幸福はある。
意味づけがダメと言っているわけでは全く無いんだ。
ただそこには人間としての感覚も入れないと、ただのコンピューターに成り下がる。
再読したい。
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養老孟司さんの「壁シリーズ」です。
「意味があるとは」「イコールとは」「意識とは」などの側面から、都市化した社会について考察された本です。
ぜひぜひ読んでみてください。
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「人と動物に違いはあるのか〜医学的観点から〜」
医学の観点から人と動物はどのように違うのか。
今の時代に沿った、変わるもの変わらないものについても紹介されている。
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壁シリーズの第5段です。古本屋で見つけたので購入してみました。今どきの話題にふれつつ、愛猫まるをたまに登場させつつも、『バカの壁』と同じように、けっこう集中力と頭脳労働が求められる本です。「おじいちゃんの遺言かぁ、モー娘みたいにタイトルに「。」つけちゃって可愛い〜」なんてニヤニヤしながら読むと痛い目にあいます。さすが壁シリーズ。
自分は建築について考察する部分で、けっこう腑に落ちました。空間を共有すると簡単にいうけれど、確かにそれぞれの体験は全然別だよなと。
たとえば実家にしても、その家にいる感覚は、親と子ではまったく違うでしょう。自ら数十年ローンを組んで、日々苦労と充実感を重ねながら自分の稼ぎで手に入れた家に住む人間と、なんとなくあるのが当たり前な感覚で住む人間の体験が、同じであるわけがないのです。でも、そんなことも、こうしてあえて意識しなければ、存在しないも同然です。それを、私たちはごく普通に同じ空間を共有していると信じています。
これは改めて考えると、怖い事だし、同時に心踊ることでもあります。他人の体験は永遠に自分のものにはならなず、想像したとしてもそれは「仮にその状況にある自分」の体験でしかないという、この分からなさ、ある種の断絶の感覚こそ、逆にいえば新たな体験を予感させる要因だからです。
すべて分かりきった世界にどんな喜びがあるというのでしょうか。人や事物にレッテルを貼り、分かったつもりになる時に人は、自分自身の「思考」もしくは「記憶」しか見ていません。
もちろん、どうにもよく分からない「他者」はストレスの元ではあります。だから排除しようという恒常的な意識の働きがあるのでしょう。でも、言ってしまえば、意識(思考)にとって、身体こそがまず最初の大自然であり「他者」なのです。
「意識」は永遠に若く元気で生きるべきだと考えますが、「身体」は自然の法則にしたがい粛々と死にむかいます。そんな自然たる身体を、思い通りにしたところで、グロテスクな結末にしかならないのではないでしょうか。オルダス・ハクスリー『素晴らしい新世界』がまさにそんな世界を描いています。養老先生の本を読んでから読むと、かなり面白いと思います。
というようなことを、読みながらつらつら考えました。
ひとまず、養老先生の遺言は、個々人が生々しく体験する刺激であるところの感覚所与と、思考が作った抽象概念は、現代人が思っている以上に乖離してきており、社会がだいぶまずいことになってるぞ〜そろそろ身体に気づけ〜、という事だと受け取りました。
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「ぼちぼち死んでも当たり前の年齢(80歳)になった。それなら言い残したことを書いておこう。とは言っても当面死ぬ予定はない・・・」 動物とヒトとの違い、ヒトが 生きるとはどういうことか? を思索し、デジタル社会での人間関係 の息苦しさから解放されるには〝考え方ひとつで、人生は凌ぎやすくなる〟と説く、養老先生が書下ろした10章の『遺書』▷ヒトの「意識」という照明は、眠ると消え起きると点灯する。身体の都合、脳の都合で戻る。▷「脳」が消費するエネルギ-は、覚醒している時と寝ている時、ほとんど違わない・・・など。
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養老孟司(1937年~)氏は、東大医学部卒、東大大学院基礎医学博士課程修了、メルボルン大学留学、東大教授、東大総合研究資料館館長、東大出版会理事長、北里大学教授等を経て、東大名誉教授。専門の解剖学に加えて脳科学などの見地から多数の一般向け書籍を執筆しており、『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞(1989年)、2003年に出版した『バカの壁』は、出版部数400万部を超える戦後日本の歴代4位となっている。尚、現在までに「壁」シリーズとして、『死の壁』、『超バカの壁』、『「自分」の壁』、『遺言。』、『ヒトの壁』の計6巻を刊行し、シリーズ累計の出版部数は660万部超。
私は新書を含むノンフィクションを好んで読み、興味のある新刊はその時点で入手するようにしているが、今般、過去に評判になった新書で未読のものを、新古書店でまとめて入手して読んでおり、本書はその中の一冊。(シリーズの中では『バカの壁』、『死の壁』を読んだ)
本書は、『バカの壁』以降「聞き書き」が続いた中での久し振りの「書き下ろし」で、養老先生が、最近の世界・社会は変だと感じる中で、何故そう感じるのかを筋書き立てて書いたもの、見方を変えれば、「ヒトとはなにか、生きるとはどういうことか」をまとめたもの(養老先生はそう言っている)である。
聞き書きの本は一般に理路整然としていないことが多く、本書は書き下ろしということで期待したが、やはり、所謂教養新書的ではなく、エッセイ的な書き振りなので、読後感は必ずしもすっきりはしない。
それでも、私なりの理解をラフにまとめると以下である。
◆通底するテーマは「同一性(同じ)」と「差異(違い)」の二項対立であり、それは、「意味・意識」と「感覚所与」、「理論」と「現実・事実」などと言い換えられているが、私の理解では、更に、「抽象」と「具象」、或いは「左脳的」と「右脳的」などとも言えるように思う。
◆そして、動物とヒトの決定的な違いは、動物は後者(差異)しか理解できないのに対し、ヒトは進化の過程で前者(同一性)も理解できるようになったということである。そして、現代のヒトは前者を追求するあまり(都会的な生活や情報のデジタル化はその典型)、すべてのものには意味がなければならないと思い込み、かつ、自分に理解できないものの存在を許さなくなっている。
◆前者を理解できることがヒトがヒトであることを特徴付け、その結果、言葉、お金、民主主義、宗教(究極は一神教)が生まれたのであり、そのこと自体を否定するわけではないが、一方で、前者と後者の乖離が、様々な社会問題における分離・対立を生んでいるのも事実であり、ヒトはもっと両者のバランスを考えて生きるべきである。
私は本書を読みながら、これまでに読んだ様々な本を思い出したのだが、例えば、ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー『サピエンス全史』では、ホモ・サピエンスがあらゆる生き物の頂点に立てた最大の要因として、「虚構」を認知・共有できるようになった「認知革命」を挙げているが、これは養老先生の言う「同一性(≒抽象)」という概念を獲得したことと同意である。また、現在の現代思想(=ポスト・モダニズム思想)は、「同一性」を重視した���大きな物語」を前提としたモダニズム思想のアンチテーゼとして、「差異」に着目した議論を展開しており、そのあたりは千葉雅也の『現代思想入門』等に詳しいが、これは、養老先生がもっと「差異」を意識すべきということと合致する。更に、山口周の『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』では、今のビジネスにおいては、MBAのような画一的な知識よりも美意識が大事だと書かれているが、これは本書の中で、「アートは「同じ」を中心とする文明社会の解毒剤」と言っていることと繋がる。要するに、本書に書かれていることは、現在実に様々なところで注目・議論されているテーマなのである。
「同一性」の追求によって進歩してきた現代文明は、IT、バイオテクノロジー、プラネタリーバウンダリー、資本主義等、様々な意味において分岐点にあり、「差異」の重要性を再認識するべきという主旨に同意する。
(2022年12月了)
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養老先生の書き下ろし。2度目の挑戦で読了しました。頭の出来が違いすぎるのか、理解不能な箇所もありました
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「意識」「感覚」というものについて、神経や解剖生理学の立場から書かれている。数式が出てきたり、哲学的な内容に触れたり、社会問題に物申したりと、著者の見識の深さに唸らされる。理論的な正しさだけを求めるのではなく、感覚的な部分ももっと大事にしてよいのだなと感じて、どこか安心した。