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旅行中に少しずつ読み進めた本。
旅行中に紀行文集を読むのは、あらためて自分の旅の魅力も再発見できる気がしていいものだなぁと実感した。村上春樹さんの文章に英文和訳のようになっているところが散見されて、これもまた紀行文感が出ているようにも思う。
世界は広くて、文化も自然も人々も様々で、そしてなぜ人は旅をするのかと考えると、好奇心とか新たなことを知ることとかいろいろなんだろうけれど、この本を読んでいちばんぴんときたのは、自ら積極的に情報を取りに行く、ということ。
あふれる日本の情報をシャットアウトして、自分の場合は語学力が貧困なので外国語で周りでわしゃわしゃ話されてもなんのストレスにもならない。情報ではなく音にすぎないから。その代わり、聞きたいことは聞くし、見たいものは見る、知りたいことは知ろうとする。日本にいたら、否応なく流れ来る情報に飲み込まれるけれど、旅行(海外)では自分に主導権がある。それが自分にとってすごく居心地がいいんだなぁ、ということに、うっすら気づいていたものの、言葉としてはっきり頭に浮かべることができたのはいいタイミングでこの本を読めたからだと思う。
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中学か高校の時にお兄ちゃんの持ってたノルウェイの森を読んで苦手意識を持ってた村上春樹(映画版は松山ケンイチが絶妙にえろくて大好き)。
この本を飲んで意外と自分と感性が似てる、ユーモアも好きかもと思ったので今度小説を読んでみよう。
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体調の悪い一日じっと休んでおこうかという日に読むにはこころなごむ本。この頃の村上春樹の小説を読んでがっかりしたことを少し緩和する「遠い太鼓」からの紀行文が並んでいる。
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単行本を本屋で初めて見た時に
村上春樹の紀行文集ということで
読んでみたい気持ちはあったのだけど
結局は文庫本になってから読むことになった。
世界一周や少し変わった旅行記を読むことが
多かったからか優雅で知的な旅に感じられた。
タイトルについて作中で述べられているけれど
旅は何があるか分からないから面白い。
また来熊(らいゆう)したくなる。
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半分は村上春樹さんの思い出の地を巡る旅行記です。
ドラマチックな展開も、体系的な知識の習得も期待できませんが、とても気楽に読めます。
「なにがあるか分からないからそれを確かめに旅行に行くんだ」みたいなくだりがありますが、旅行をそんな風に位置づけられれば、それは筋金入りの旅行者です。
こういう旅行の仕方ができたら本当に楽しいだろうな、という気になって、やがて、旅行に行きたいな、に至る。
そういう本です。
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とても心和む紀行文でした。
遠い太鼓に収録されていた場所を再訪するくだりは中々興味深く読めました。
熊本に来ることを来熊(らいゆう)というんですね。埼玉の熊谷でも似た言葉を使うことがあるなぁと思いました。
いずれにしても、旅っていいですね。私も人生を豊かにしてくれる旅に出てみたくなりました。
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・ボストンはジョギングには理想的-18
・クレイジーな人にはレースの翌日こそ素晴らしい-23
・1000年以上も言語構造が変わらないアイスランド語。外来語ですらアイスランドに丁寧に置き換える-33
・はぐれ子パフィン救出作戦-42
・世界というのはとてつもなく広いはずなのに、同時にまた、足で歩いてまわれるくらいこぢんまりとした場所でもあるのだ。(数ある仏像の中から、自分と結びついたものの存在を感じて)-178
2019/11/01
P14-15
ボストンの夏は誰がなんと言おうと素晴らしい季節だ。ハーヴァードやBU(ボストン大学)の学生たちが必死にレガッタの練習をしている。女の子たちは芝生の上にタオルを敷いて、iPodを聴きながら、すごく気前のいいビキニ姿で日光浴をしている。アイスクリーム売りがヴァンの屋台を出している。誰かがギターを弾いて歌を歌っている。犬がフリスビーを追いかけている。でもやがてニューイングランド独特の、短く美しい秋がそれにとってかわる。僕らを取り囲んでいた深い圧倒的な緑が、少しずつほのかな黄金色に場所を譲っていく。そしてランニング用のショートパンツの上にスウェットパンツを重ね着するころになると、枯葉が吹きゆく風に舞い、どんぐりがアスファルトを打つ「コーン、コーン」という乾いた音があたりに響きわたる。その頃にはもう、リスたちが冬籠のための食材集めに目の色を変えて走り回っている。
ハロウィーンが終わると、このあたりの冬は有能な収税士のように無口に、そして確実にやってくる。川面を吹き抜ける風は研ぎ上げたばかりの鉈のように冷たく、鋭くなってくる。僕らは手袋をはめ、毛糸の帽子を耳で引っ張り下ろし、時にはフェイスマスクまでつけて走る。でも冷たい風だけならまだいい。我慢しようと思えば、なんとか我慢できる。致命的なのは大雪だ。つもった雪はやがて巨大なつるつるの氷の塊となり、道路を塞いでしまう。
→みずみずしく詳細で情緒的な表現。鮮明に浮かんでくる。流石。
P22-23 レース後とその翌日。
→レースを走り終えた達成感とその誇らしさ、それを出場者同時で称え合う喜び。100ハイに似ている。
P44-45
はぐれ子パフィン救出作戦を求めて地元の小さな自然博物館へ。
→いいな。文化に直接触れている感覚。葛西臨海公園にアイスランドから送られたパフィンがいるらしい。何かの繋がりで、身近にあるものにも愛着が湧くのはいいことだ。会いに行きたいな。
P53
でもたとえ大きな樹木がなくても、漠然と広がる溶岩台地がどこまでも苔の緑に包まれ、あちこちに小さな寒冷地の花が可憐に咲いている様は、なかなか美しいものだ。そういう中に1人で立っていると、時折な風の音のほかには、あるいは遠いせせらぎの音のほかには、物音ひとつ聞こえない。そこにはただ深い内省的な静かさがあるだけだ。そういうとき、我々はまるで、遠い古代に連れ戻されてしまったような気持ちになる。この島には無人の沈黙がとてもよく似合っている。
→こういう静かで美しい景色がずっと広がってるんだろうな。行ってみたいな。
P54
そのようにアイスランドの人たちは、植物をとても大事にしている。どこのレストランに入っても、テーブルに小さな花が飾ってあるんだけど、よくよく見るとそれらは全て人工的に造られた花である。それも、バラとかカーネーションとかの鮮やかな花ではなく、ひっそりとした、名も知れぬ高山植物のイミテーションなのだ。そんな地味な造花を造っている国は、世界広しといえども、たぶんアイスランドくらいのものではないだろうか。これも慣れるとなかなか悪くないもので、植物の貴重な国で、精一杯自然の美しさを楽しもうとしている人々の気持ちが、じわじわと伝わってくる。
→こういう些細な文化のかたちを見つけられるようになりたいな。
P56-57
それらの風景は、写真に撮ることさえはばかられた。そこにある美しさは、写真のフレームにはとても収まりきらない種類のものだったからだ。我々の前にある風景はその広がりと、そのほとんど恒久的な静寂と、深い潮の香りと、遮るものもなく地表を吹き抜けていく風と、そこに流れる独特の時間性を「込み」にして成立しているものなのだ。そこにある色は、古代からずっと風と雨に晒されて、その結果出来上がったものなのだ。それはまた天候の変化や、潮の干満や、太陽や移動によって、刻々と変化していくものなのだ。いったんカメラのレンズで切り取られてしまえば、あるいは科学的な色彩の調合に翻訳されてしまえば、それは今目の前にあるものとは全然別のものになってしまうだろう。そこにある心持ちのようなものは、ほとんど消えてしまうことになるだろう。だから我々はそれをできるだけ長い時間をかけて自分の目で眺め、脳裏に刻み込むしかないのだ。そして記憶のはかない引き出しにしまい込んで、自分の力でどこかに持ち運ぶしかないのだ。
→カメラも良いけど。俺はこっち寄りだな。それでも思い出すために、カメラで切り取って、それを記憶に寄せるように手を入れる手間を惜しまない人が、僕は好き。
P203
素敵な生活だと思うでしょう?うん、確かに素敵な生活だった。実際にイタリアで生活していると、様々な現実的トラブルがほんとうに次々にーまるでロールプレイング・ゲームのようにー襲いかかってくるのだけれど(いま思い出してもついため息が出る)、それを補ってもあまりある美しいものが、それらの日々には含まれていたような気がする。生きることの本来の自由さ、ひとことでいえばそういうことだろうか。それは日本にいてはなかなか味わうことのできない種類の自由さだった。
→海外で、特にイタリアで暮らすとか本当に大変そうだ。それだけにタフになれそう。
P166
僕も「何ごとも体験だから」と思って、まだ暗い早朝の時刻に道端に正座し、僧侶たちに餅米ご飯を「差し上げ」てみた。まぁ、ほんの真似事のようなものなのだけど、それでも実際にやってみると、そこにある土着の力みたいなものを、その本物さを、不思議なくらい強く肌身に感じることになった。宗教家はよく「たとえ形だけの真似事でも、実際に続けているとそれはいつか本物になる」みたいなことを言うけど、確かにそう言うところはあるからもしれない。
→やってみたいな、托鉢体験。
P176
…細かい歴史的事���や宗教的背景がそんなにわからなくても、ガイドブックを頼りに、自分1人でいろいろと想像を巡らせながら歩き回っているだけで、けっこう楽しめます。というか、その方がむしろ自分のペースで移動できて都合がいいかもしれない。そこでいちばん大事なことはー僕の個人的な意見を言わせていただければーとにかくゆっくり時間をかけることだ。
ルアンプラバンで歩いてのんびり時間を巡りながら、ひとつ気がついたことがある。それは「普段(日本で暮らしているとき)僕らはあんまりきちんとものを見てはいなかったんだな」ということだ。僕らはもちろん毎日いろんなものを見てはいるんだけど、でもそれはみる必要があるから見ているのであって、本当に見たいから見ているのではないことが多い。電車や車に乗って、次々に巡ってくる景色をただ目で追っているのと同じだ。何かひとつのものをじっくりと眺めたりするには、僕らの生活はあまりに忙しすぎる。本当の自前の目でものを見る(観る)というのがどういうことかさえ、僕らにはだんだんわからなくなってくる。
でもルアンプラバンでは、僕らは自分が見たいものを自分でみつけ、それを自前の目で、時間をかけて眺めなくてはならない(時間だけはたっぷりある)。そして手持ちの想像力をそのたびにこまめに働かせなくてはならない。そこは僕らの出来合いの基準やノウハウを適当にあてはめて、流れ作業的に情報処理ができる場所ではないからだ。僕らはいろんなことを先見抜きで観察し、自発的に想像し(時には妄想し)、前後を量ってマッピングし、取捨選択をしなくてはならない。普段あまりやりつけないことだから、初めのうちはけっこう疲れるかもしれない。でも身体がその場の空気に馴染み、意識が時間の流れに順応していくにつれて、そういう行為がだんだん面白くなってくる。
P178
細かい事情はよくわからないのだが、ラオスの人々は何かがあると寺院に彫刻を奉納するみたいだ。お金持ちは大きな像を奉納するし、そうじゃない人たちは小さな像を奉納する。それがこの国での信仰心の発露であるみたいだ。だからとにかくたくさんの仏像・彫刻が寺院に集まってくる。そしてよく探せば、その中にはどうしてかはわからないが、僕と個人的に結びついている(としか見えない)ものがちゃんと存在しているのだ。そして僕は自分自身のかけらみたいなものを、そこでー余った時間と自前の創造力をもってーちょっとずつ拾い集めていくことができる。なんだか不思議な気がする。世界というのはとてつもなく広いはずなのに、同時にまた、足で歩いてまわれるくらいこぢんまりとした場所でもあるのだ。
P178-181
ルアンプラバンの街の特徴のひとつは、そこにとにかく物語が満ちていることだ。そのほとんどは宗教的な物語だ。寺院の壁にはあちこちに所狭しと、物語らしき絵が描かれている。どれも何かしら不思議な、意味ありげな絵だ。「この絵はどう言う意味なのですか?」と地元の人に尋ねると、みんなが「あぁ、それはね」と、進んでその物語の由来を解説してくれる。どれもなかなか面白い話(宗教的説話)なのだが、僕がまず驚くのは、それほど数多くの物語を人々がみんなちゃんと覚えているということだ。言い換えれば、それだけの多くの物語が、���々の意識の中に集合的にストックされているということになる。その事実がまず僕を感動させる。そのようにストックされた物語を前提としたコミュニティーができあがり、人々がしっかり地縁的に結び付けられているということが。
「宗教」というものを定義するのはずいぶんむずかしいことになるが、そのように固有の「物語性」が世界認識のための枠組みとなって機能するということも、宗教な与えられたひとつの基本的な役割と言えるだろう。当たり前のことだが、物語を持たない宗教は存在しない。そしてそれは(そもそもは)目的や、仲介者の「解釈」を必要としない純粋な物語であるべきなのだ。なぜなら宗教というのは、規範や思惟の源泉であるのと同時に、いやそれ以前に、物語の(言い換えれば流動するイメージの)共有行為として自生的に存在したはずのものなのだから。つまりそれが自然に、無条件に人々に共有されるということが、魂のためにより大事なのだから。
僕はルアンプラバンの街の寺院を巡りながら、そんなことをあれこれ考えてしまった。思索というほどのことでもないけれど、頭がついそういうことについて思い巡らせてしまう。たぶん時間が余っていたからだろう。
P183
「ラオス(なんか)にいったい何があるんですか?」というヴェトナムの人の質問に対して僕は今のところ、まだ明確な答えを持たない。僕がラオスから持ち帰ったものといえば、ささやかな土産物のほかには、いくつかの光景の記憶だけだ。でもその風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている。その時の心の震えが思い出せる。それがただの写真とは違うところだ。それらの風景はあそこにしかなかったものとして、僕の中に立体として今も残っているし、これから先もけっこう鮮やかに残り続けるだろう。
それらの風景が具体的に何かの役に立つことになるのか、ならないのか、それはまだわからない。結局のところたいした役には立たないまま、ただの思い出として終わってしまうのかもしれない。しかしそもそも、それが旅というものではないか。それが人生というものではないか。
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じっくり海外で生活するようなスタイルの旅行を自分もしてみたい。ただの観光地巡りではなく、その国に暮らす人の日常や空気に馴染むような旅行記。
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タイに旅行に行ってきた。そのおともに。
旅行は、普段いやでも入ってくる情報に受動的になっている自分をちょっとお休みして、「見たいものを想像力を働かせてみる」のが大切だ、というような件を読み、
私の印象に残るものは何だろうと思ってみる。
今回のタイ旅行、同僚の方の夫妻に同行する感じで行ってきた。
なかなかぶっ飛んだ人たちなので、昼間からビーチで酒を飲み、夜はクラブでさらに飲み踊り明かし、現地でしか楽しめないようなことをしに毎年タイに行く人たちだ。
ゆえにクラブだ酒だと、普段行きもしないところに行きつかれてしまう。
そんな中、能動的も何もあるかと思っていた自分がふと民家の門扉に目を奪われる。
何てことはない、ちょっとしゃれた感じの、でもどこにでもあるような家庭の門扉。そのデザインがすごく美しくて。
そう思い返すと、タイはあらゆるとこにささやかで繊細な装飾が施されている。
食べ物の切り方しかり、食べ物の盛りつけ方しかり、民家の建物の門やら壁のデザイン、道の伝統のデザイン、寺院の壁の装飾などなどなど。
日本はもっとシンプルだから(ものにもよるが)、そういったこまやかだけれど生活にしっかり根付いている感覚というものに、この国の豊かさを感じた。
恐らくこの本を持っていかなければ、きれいな装飾は目に入っても、そこまで能動的に見ることはなかったのではないか。
ということで感謝。
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村上春樹さんの旅行記は、飾らない言葉で綴られとても読みやすいが、この旅行記集の中では特に2つの切り口が印象的だった。
1つは『川』をテーマにした観察と記述。ボストンでもラオスでも熊本でも触れられているが、その土地その季節によって川の表情は全く異なる。そんな描写が散りばめられていて、情景が浮かんでくるだけでなく、何かしら懐かしい感情も湧き上がってくる。
たぶん常に流れているから『時間』と相性がいいのだろう。その川を目にしながら感じたことを言葉にするときに、その場に生活している人だけでなくその人たちの過去や、自分と関わりのあった人たちも登場してくる。そこにハッとさせられる。
もう1つは自らが以前滞在もしくは生活した土地を久しぶりに訪れる設定での旅行記。ボストンもギリシャもイタリアも、再来者として足を踏み入れている。
初めて触れ合う感動も大きいが、再び訪れることで過去の自分との接点が現れるのが面白い。
「かつて住民の一人として日々の生活を送った場所を、しばしの歳月を経たあとに旅行者として訪れるのは、なかなか悪くないものだ。そこにはあなたの何年かぶんの人生が、切り取られて保存されている。塩の引いた砂浜についたひとつながりの足跡のように、くっきりと。
そこで起こったこと、見聞きしたこと。そのときに流行っていた音楽、吸い込んだ空気、出会った人々、交わされた会話。もちろんいくつかの面白くないこと、悲しいこともあったかもしれない。しかし良きことも、それほど好ましくないとはいえないことも、すべては時間というソフトな包装紙にくるまれ、あなたの意識の引き出しの中に、香り袋とともにしまい込まれている。」
引っ越しを少なからずしてきた自分にとって、このフレーズは心の奥の方を通り抜ける感じがした。そして少し苦い匂い。
村上春樹さんは、心の柔らかい部分の輪郭をキレイに切り取って取り出し、それを表現する力が飛び抜けている方だと思う。
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他人の金でファーストクラスの豪華旅行三昧。うらやまし過ぎる。「旅の直後に文書を残しておけば良かった」には同感。これこらやってみるか。
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村上春樹のエッセイを初めて読みました。物足りない面とさすがだなと思う文章があり、他のエッセイも読んでみたいと思います。
特にボストンとトスカナは行ってみたくなりました。キャンティ・クラシコ、飲みたいです。
"あまりある美しいものが、それらの日々には含まれていたような気がする。生きることの本来の自由さ、…それは日本にいてはなかなか味わうことのできない種類の自由さだった。"
他の旅行についても文章にしておくべきだった、と述べられており、私もそのとき感じたことを留めたいと思いました。
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村上春樹の紀文集。
作中あまり印象に残らないラオスからなぜタイトルをとったのか疑問だったが、その答えはあとがきにあった。「人々が不思議に思う、何の変哲もない場所にも何かしらの訪れる価値や意味がある」。なるほど。
村上さんに独特で的確な表現は健在でどの作品も小粒ながらウィットに富んでいて面白いが、個人的にはアイスランド編か熊本県編が好きだ。
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村上春樹氏の旅行記。
アイスランド、ポートランド、トスカナの話が面白かったな。
気ままに住みたい国や街に住んで、食べたいもの食べて、その地で仕事して。そんな生活してみたい。
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村上春樹が訪れた数々の国が取り上げられ、一緒に旅をしているような細やかな描写、頭の中をのぞいているような逞しき想像力の右往左往に五感が作動する。
脳内海外旅行。お気に入りのエッセイ、ベスト10入り。