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犯罪被害者(の身内)になるとはどういうことか、という冷徹な事実に迫るノンフィクション
2019/02/04 17:51
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投稿者:YK - この投稿者のレビュー一覧を見る
2004年佐世保市において、当時11歳の少女が同級生を学校の教室内で殺害するという痛ましい事件が発生しました。殺害されたのは当時毎日新聞佐世保支局長の娘さんでした。本書は当時佐世保支局に勤務していた記者が、マスコミという報道する側として、そして被害者の関係者という報道される側として、両面からこの事件を描いたノンフィクションです。本書は事件の推移の説明、被害者の父である佐世保市局長、加害者の少女の父、被害者の少女の兄へのインタビューから構成されています。
20歳に満たない未成年による犯罪は「少年法」が適用されるのですが、実は少年法は14歳以上にしか適用されません。14歳未満の子供の犯罪については「児童福祉法」が優先され、犯した罪の責任よりは更生に重点がおかれます。11歳で同級生を殺害した「罪」を問うのではなく、そのような状況に追い込まれた少女は「社会の網の目から零れ落ちた被害者」としてみなされ、刑事上の責任は問えないのが現在の法律体系なのです。
わが子を殺害され、なのにその加害者への法の裁きも期待できない状況に直面し、しかし一方で罪を問うても亡くなった娘さんが戻ってくるわけではない。そのあたりの葛藤を、著者は丹念に掬い取っています。
犯罪被害者(の身内)になるということはどういうことなのか、という冷酷な事実を描き出したノンフィクションです。
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投稿者:しーれ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「あの子」に、この文章を読んでほしい。親兄弟の気持ちを知ってほしい。そして、いつか必ず…。彼女は、それをするべきだと思える人間なのだろうか。
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とても素晴らしいノンフィクションなんだけど、読んですぐには感想が書けなかった。被害者の父の部下という立場から書かれているそれは肉親の手記にも近くて、ジャーナリズムであるかというとそうではないのかもしれない。結局犯人の少女については迫り切れていないのが歯痒くもある。後半で突然出てきた実兄への聞書きが一番読み応えがあった。
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書名は被害者怜美さんのすぐ上の兄の言葉。寛容さが窺えるが、その兄も高校を中退するほどの喪失感を味わっていた。
加害女児についても知り、妹からの相談も受けており、事件に最も身近な存在の一人であった。
思い返すことは、いろいろあったであろう。
怜美さんの父は新聞社の支局長。一般の人よりは事件や事故といったものに接する機会は多い。
3年前に妻を亡くし、何とか立ち直りかけたところでの事件。ショックは大きかっただろう。
マスメディアに勤める責任感から事件直後に記者会見をしたが、2回目はドクターストップがかかった。
加害者家族の立場も慮り、怒りのぶつけどころもなく、やるせなさを感じる。
加害女児の父は娘が生まれた直後に脳梗塞で倒れている。不自由ながらもつましい生活を営み子育てをしてきた。
事件の責任を重く受け止め、読まれていない被害者父への手紙を書き続ける。
2人の父の話は読んでいてつらい。我が身に起きたらと考えるとやり切れなくない。
インタビューした著者もきつかっただろう。
解説はスタイリスト伊賀大介という人物。上の方々を賞賛する言葉を書いているが何か評論しているような印象を受ける。
読書をするのは何故か。たいていの人は趣味である。であれば、楽しみということである。
でも、読者は事件や当事者たちを楽しんでいるのであろうか。
そんなことはないと否定してみる。では、何故読むのか。それは知ることによる満足感。
もっといえば、知ることによって書のテーマに参加し、何某か社会に還元できるという期待を得ること。
よいことをしているという自己満足。
しかし、本当によいことか。
本書は新聞記者により書かれたものであり、テーマは事件報道にもある。
大衆の満足感を満たすために憶測で先走る報道。構図を単純化する解説。
それらがどれほど当事者たちを傷つけるか。
「毒を食らわば皿まで」ではないが、知ろうとしたなればとことん知らなければいけない。
当事者と同様に悩み、苦しみ、深みにはまり、解のない答えをいつまでも探し続ける。
少しでも長い時間その世界に居続ける。
それは一旦知ろうとした人の義務でもある。
読書は楽しみだけに行うのではない。
そこにわからなければいけないことがあるから、読むのである。
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2004年に日本中を震撼させた小学校6年生による同級生殺人事件。
被害者の父親の部下であった著者が、まさにライフワークとも言える力の入れようで、見事にまとめた一冊。
加害者とも顔見知りであった被害者の兄の告白には胸をつまされる。
いくら加害者の良い面を知っているとしても、ここまで言えるだろうか?
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偏ったニュースの報道だけではわからない。被害者の家族、加害者の家族、周辺の人々が、真剣に真っ直ぐに、被害者の事、加害者の事、この事件の事について考えて闘っている。誰を何を責めるべきかわからなくなってくる。
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2004年6月に佐世保市で起きた、小学校6年生の女子児童が同級生の女児をカッターナイフで殺害した事件を取り上げたノンフィクションである。2014年に単行本で出版され、2018年に文庫化。大宅壮一ノンフィクション賞、開高健ノンフィクション賞の最終候補にもなった。
著者の川名壮志氏は、事件当時、被害者となった女児の父親(毎日新聞佐世保支局長)の部下であり、大手新聞社の地方局という環境から、被害女児と毎日顔を合わせ、夕飯も一緒に囲む、極めて近い存在であった。
本書は二部構成となっており、第一部は、事件当時の状況を著者の立場から振り返ったもの、第二部は、事件から時を経て、被害女児の父親、加害女児の父親、被害女児の3歳上の兄の三者の思いを聞き書きしたものである。
私は本書を読了して、他の多くの本を読んだ後とは異なる、極めて居心地の悪い心境になった。というのは、大抵の本は、読中あるいは読後に(場合によっては読む前にさえ)、その作品に対する自分の立ち位置が明らかになるものであるが、本書の読後は、それが定まらなかったのである。
起こってしまった、信じられないような事実と、その事実に深く関わった人たちのそれぞれの思いがどのようなものであったのかを読みつつ、同情や怒りのような安易な感情は湧きにくかったし、何らかの教訓やメッセージが得られたわけでもない。本書から読み取ることができたのは、事件によって、全ての関係者が、それまでの生活を永遠に失い、苦しみを味わうことになってしまったということであり、更に付け加えるなら、人の心というのは誰にもわからないものなのかもしれない(もしかすると、本人にさえ)ということである。
私は、「謝るなら、いつでもおいで」という言葉はいったい誰のものなのだろうと思いながら読み進めていたのだが、これは、事件から10年経って、被害者のお兄ちゃんが語ったものである。そして、この重い作品の中で、唯一その言葉に救いが見られた気がしたのである。
(2018年9月了)
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最初は直近の佐世保同級生殺害事件と間違えて本を購入した。2014年に起きた佐世保高1同級生殺害事件よりも、10年前に起きた11歳女児のこれは、まだわかっていない事があるのかもしれないが、高1女学生のそれよりも遥かに単純な事件だった。この本は、事件の本質を解明するよりも、事件を起こした周りの人間(被害者父親、加害者父親、被害者兄、被害者部下で新聞記者の著者)の心の襞を記録したノンフィクションである。
油断していた。昼下がりのファミレス、被害者父親の記者会見の代わりの手記を読んでいる途中、涙を堪えるあまり「うっ、うっ」とかなり大きな声を出してしまった。毎日新聞佐世保支局長だった御手洗氏は、事件当日の夜、異例の被害者父親本人の記者会見を行う。「自分も逆の立場ならば会見をお願いするだろう」と考えて応えたものだ。八尋弁護士はこの淡々と答える会見を見て「これはもう壊れちゃっている。誰かが止めないと」と思ったそうだ。医師の診断書を得て、2回目の会見ストップの本人と報道陣の納得を勝ち取ったのだ。会見の数十分前に勧められて書いた、被害者娘に呼びかける形の手記が、ものすごいものだった。「さっちゃん。今どこにいるんだ。母さんには、もう会えたかい。どこで遊んでいるんだい。」そう始まる手記は、あくまでも12歳娘のために書いたものだが、充分報道陣をも満足させる被害者の心情と家庭環境を説明する所もあった。数分で書いたとは思えないほど、文章が練られていた。私は泣きながら、「これが新聞記者なのか」と思った。
この作品には、普通の殺人事件ノンフィクションとは違い、著者が直接の部下というだけでなく、日頃から社屋の3階に住んでいた御手洗さん家族とは親しかったという事情がある。著者自身も事件によって大きな傷を負い、それでも事件報道をしないといけない新聞記者の描写が多くを占める。よって、入社4年目の駆け出し記者の「重大事件報道とは何か」を描くものになっている。横山秀一の小説(「クライマーズ・ハイ」等)を思い出した。
また、第二部の三つのインタビューがすごかった。3人とも、被害者と近かった著者だから聴くことの出来たのだと思う。御手洗氏の判決数年後の気持ち、加害者父親の気持ち、そして10年後、妹と加害者の「ケンカ」を承知しながら何も出来なかった事を抱え込んで中学、高校、大学を過ごした被害者兄の気持ち。兄の「あいてが近づいて、一度きちんと謝る。謝ってもらった後は、お互い自分の生活にもどる。」という一見加害者を赦しているかのような微妙な気持ちは興味深いものだった。三者三様、同じものを見ていても見事に見えている景色が違うと思った。直前まで、何一つ前兆を捕まえることは出来なかった二人の男親よりも、歳が三つしか離れていないお兄さんの思う犯人像の方が、1番現実に近くリアルなのだと思う。この景色の見え方、様々な人気作家の小説に似ているが、私は宮部みゆきの小説をずっと思い出していた。
そして、1番重要なことがある。犯人の「声」が著者の取材の中に一切入っていないどころか、この本を書いた当時は20歳になっていたはずの、「女性」の近況、心情を伝える��切の情報を全て、わざと書いていなかったのである。一つは、この本の書きたいものは著者の周りの人物像だったからだ。もう一つは、この本の全てが、今は自由に本を買うことのできるその女性に向けて書かれたものだからだろう。
2018年7月読了
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2004年佐世保市において、当時11歳の少女が同級生を学校の教室内で殺害するという痛ましい事件が発生しました。殺害されたのは当時毎日新聞佐世保支局長の娘さんでした。本書は当時佐世保支局に勤務していた記者が、マスコミという報道する側として、そして被害者の関係者という報道される側として、両面からこの事件を描いたノンフィクションです。本書は事件の推移の説明、被害者の父である佐世保市局長、加害者の少女の父、被害者の少女の兄へのインタビューから構成されています。
20歳に満たない未成年による犯罪は「少年法」が適用されるのですが、実は少年法は14歳以上にしか適用されません。14歳未満の子供の犯罪については「児童福祉法」が優先され、犯した罪の責任よりは更生に重点がおかれます。11歳で同級生を殺害した「罪」を問うのではなく、そのような状況に追い込まれた少女は「社会の網の目から零れ落ちた被害者」としてみなされ、刑事上の責任は問えないのが現在の法律体系なのです。
わが子を殺害され、なのにその加害者への法の裁きも期待できない状況に直面し、しかし一方で罪を問うても亡くなった娘さんが戻ってくるわけではない。そのあたりの葛藤を、著者は丹念に掬い取っています。
犯罪被害者(の身内)になるということはどういうことなのか、という冷酷な事実を描き出したノンフィクションです。
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友人が貸してくれたので手に取り、ちょっとセンチメンタルな導入部分に若干引いたものの、読み進めていくと期待以上によかった。新聞記者ならではの筆力。大きく二部構成にして前半でルポ後半で当事者ひとりひとりの言葉を採録したのも効果的だった。なんども涙し、また少年審判について知らなかったことが多いことに気づく。
p70 だが人はこうして、望みもしない圧倒的な出来事に対峙させられた時、反射的に自分にとって日常的なスケールでものごとを組み替えてしまうのかもしれない。
P100 児童自立支援施設には「加害者」という考え方がまず存在しないことだ。
p201 ここまで刑事裁判と違いがあるのは、少年審判では、国が親代わりとなって少年少女の処分を考えるという「国親思想」が根底にあるからだ。【中略】だがピカピカの理想と、でこぼこの現実は、いつも折り合いがつくとは限らない。
P253 「なぜこういう事件が起きたか」の原因ではなくて「なぜ防げなかったのか」を考える上では、周りの人間、親だとか先生だとか、周りの取り巻く人たちが考えなきゃいけないと思う。(御手洗氏)
P258 彼女がきちんと罪を償って更生して…というのは加害者側が負うべき義務であって僕が直接関わる話ではないと思う。だから許すとか許さないというレベルの話にはならないんだよ。(御手洗氏)
P260 要するに、あの子とあの子の家族はやり直しができるんですよね。でも僕のところはやり直しができない。失ったまま。
P254 とりわけ際立っていたのは加害少女の代理人を務めた山元弁護士の存在だった。【中略】事件の暴風の只中にいるとき、代理人のこうした水先案内のあり方が、実は想像以上に重要なのである。
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謝るなら、いつでもおいで: 佐世保小六女児同級生殺害事件 (新潮文庫)
結局、なぜ、あんなことに、あんなひどいことになってしまったのか。
●田舎の中でも、辺鄙なエリアに住んでいる。(=子どもにとっては「移動の自由」を奪われたようなもの)
●家庭が大変な状況で、好きなことを諦めざるを得ない
●家族は愛にあふれている。だからこそ、不満が言えない。
●小学校高学年、自我が確立され、「自分は世界に一人」だと知る年頃。
●転校生の、土地に縛られない、利発な明るい女の子。
これに加えて
●インターネットは解禁なので、外の世界がいかに広く、自由で、キラキラで、そしてエロもグロも知っている。
さらに、理由を付け加えるならば、発達障害。(これは、一見しては分からない程度、らしい。)
重なりに重なってしまった。全部重ね合わせると、そういうこともあるかもしれない、という気はする。もちろん、逆算してそう思うだけだけれど。
小学5~6年、これまで素晴らしいと思っていた世界を嫌いになったり、呪ったりしたくなる年頃だ。今までのように無邪気でいられない、自分自身に腹が立つこともあるだろう。そんなときにインターネットの中に野放しっていうのは、やっぱり危ないんじゃないかな。(彼女の家には、そうせざるを得ない事情があった、とはいえ。)
ネットの情報の渦、チキンレースのごとき過激さ競争、それが流れ込んできたとき、支えきるだけの精神力は、小学生には、まだないでしょう。脳みそばかりが大きくなってしまって、潰れてしまう。
ネットのせいにするのは安直なようだが、でも、上記の中でできることがあるとすれば、本人の理解力が満ちるまで、ネットからは遠ざけることくらいしか、大人にできることはない。
それから、彼女の家庭には、もうちょっと社会的なケアやフォローが必要だったんじゃないだろうか。
事件のあらましに続いて、被害者のお父さんの話、加害者のお父さんの話、そして、被害者のお兄さんの話。
どれも、聴きごたえがある。
悪人がいないのに、どうしてこうなってしまったんだろう。
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加害者の女の子はその後謝りに行ったのかな、行ってて欲しいな。
被害者家族も加害者家族も本当にまともな人ばかりで(著者がよっぽどまともな人なのだろう)、小説じゃないから奇跡みたいな救いはないんだろうけど、お兄ちゃんの言う通り、みんな普通に生活していてくれたら本当にいいと思う。
あとがきで伊賀さんが言ってた通り、読んでる間中いろんな思いが頭の中をかけめぐった。それはここにはとても書けないので自分のメモに残しておきます。
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この事件は「本当にあったこと」だ。その事実が重すぎる。
衝撃と戸惑いと悲しみとなぜが今になっても渦巻いてしまう。
その事実に逃げずに向き合った1冊だ。
どんなにか苦しい作業だっただろうと思う。
身近にいた人だから書けた。身近な人だったからここまで迫れた。
だが、できれば、・・・本当に可能であればこの本が書かれなかった時に
戻ることができたら・・・
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2004年長崎県佐世保市の小学校が舞台となった、11歳の少女による同級生殺害事件。被害者の父親は毎日新聞のデスク。その部下の記者であった著者は、否応なしに事件後の報道に関わることになるのだが、それだけではなく、事件のほとぼりが冷めても、上司であった被害者の父親、被害者の兄、そして加害者の父親から話を聞き続ける。被害者の隣人としての立場と新聞記者としての立場に引き裂かれた経験は、それだけ強烈なものだったのだろうと思う。その葛藤は、本書のいたるところに読み取れる。ただ、いくら話を聞いて、取材を重ねても、結局「なぜ」という問いは答えにたどり着くことはない。それでも前に進まなければならない被害者家族の苦悩、そして表題に現れた境地に心を打たれる。
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2004年に佐世保市で起きた、小学6年生女児による殺人事件。
被害者遺族の少女の父の、当時の部下が書いたルポタージュ。
事件のことは覚えていましたが、報道で見ていただけなので、改めてネットで調べてからこちらを手に取りました。
嫌だなと思う相手に対して、いなくなればいいと思ってしまうことは、少なくないと思います。
でもそこから、相手を殺める行為につながってしまい、それがたった11歳の少女の行為だったという衝撃。
少年法でも裁けなかったこの事件の真実を複雑な気持ちで読み進めました。
残された人達が、それぞれの立場で苦しんでいる様子に胸が痛みます。
また、被害者遺族の懐の深さには頭が下がりました。
その中でも、今回まで知らなかったお兄ちゃんの存在。
そしてタイトルの言葉。
そのお兄ちゃんを中心とした作品もあると知り、読んでみようと思っています。