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10年ほど続いた内戦に苦しんだバルカン半島の難民の、食べ物にまつわる思い出語りをまとめた本。飢餓に苦しむ日々あり、停電で冷凍庫の肉を次々と焼いていくパーティーあり、キロ単位で出てくる野菜と大家族で食べる特大サイズの料理ありといろいろなお話がある。みんな着の身着のまま逃げ出し、家族や大切な人たちの安否も分からず、もしくは失い…と悲惨な境遇の中でも女性たちはどこか楽しげに料理のことを話すのが印象的。
「なぜ私がこんな状況の時に、市場にいつも通っていたかというとね、それは料理をするということは、家族がみんな仲良しだという感じを生み出してくれるからなの。料理をするということは、家族を集めるということなの。こうした状況のなかで、正常な気持ちを生み出してくれる、それは異常なことが起こっていることに対する抵抗でもあるのよ。」
前に読んだ戦争などのトラウマについて書いた本でも、難民キャンプでは女性の方が精神的に強いということが書いてあった。トラウマは常識や日常からの脱落であり、日々料理をし、洗濯をし、立ち働く女性は日常とリンクし続けて精神を安定させやすいと。料理をし、食べ、それを語ることは、私は日常を捨て去りませんという抵抗なのだ。強いなあ。グーラッシュは美味しそうだし作りやすそうなので、自分でも作ってみようかと思う。
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著者はセルビアで長く暮らす日本人。現地の親しい友人や出会った人々に戦時下の体験を聞き、「食べ物」をキーワードにしてまとめている。
人種、宗教が複雑に入り交じる土地柄、父母や祖父母の時代から常に戦火と隣り合わせだったことがわかる。
旧ユーゴスラビアの内戦は90年代の話だが、自分にとっては90年代とは、つい最近のことである。
だからこそ、そんな身近な時代に、このような苦難が起きていたことに衝撃を受けた。
日本で50年以上平和な暮らしをし、食べ物にも困らずにいられるのは、実はすごく幸福なことであり、決して当たり前ではないことを感じる。
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筆者とほぼ同じ世代の私、綴られている日常が、ついこの間のことなのに、「こういった時間が流れていた」ことを知る驚きでじっくり読んだ。
「国家としてのセルビア」は内戦続きで同じことばかりしているが個人としてのセルビア人には愚かなことをした人もいた・・との語り。
1990年代のユーゴ戦の中で「民族問題は昔からあったし」と軽く言いつつ、「毎日を生きる為に」それを深く考える暇がなかったという女性。
筆者の友人や仲間、催し物で知り合った人との語りから言葉を紡ぐ作業は東欧の見知らぬ街でも連綿と続いていた日常生活の愛おしさが見えてくる。登場する人物には大学教授、建築家をはじめインテリや上層部が多い。指定にも立派な経歴を持って羽ばたく人たちも。
こういった伝承の語りの中で必ずと言って登場するのは「あの頃は今より幸せな時代だった・・食べ物とは心配・恐怖・アイなどをみんなで分け合う場所・・食卓はそんな所・・戦争で家が失われた」の類の呟き。半分は当たっているだろうけれど果たしてそうだろうか。
古代~中世~近世~そして現代・・社会が変容する様にそれが持つ意味は変わって行くはず・・良しあしは別として。これは宿命かと。
ノスタルジックな想いだけで読むのでは勿体ない山崎さんの良書。
ダッハウ収容所、フジコヘミングウェイの演奏、チャルダッシュの音色が頭の中に見え、聞こえつつ読む東欧スラブ、そしてオーストリアハンガリー帝国とムスリムの終わりの見えない闘いの中での料理の数々が愉しかった。ロシア、ドイツの家庭料理と日常に似たものが多かった。
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戦時下に何を食べていたの?
ユニセフの配り物?
以外に?思ったより、個性豊かな食事風景に少し安堵。国民性の違いも面白かったです。
でも、このような本は、もう無くならないと
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日本にいるとあまり詳しく知ることのないユーゴスラビアでの内戦。知る機会があるとしても、どういう理由で戦い、どの国が勝って、地図がどう変わったのかという概要。
でも一番知らなければならないのは、地図を眺めているだけでは見えてこない、その土地に暮らす人々の暮らしだ。民族に関係なく仲良く暮らしていた人たちが、ある日突然敵同士にされ、住む土地を奪われ、悲しみを背負わされる。
もし日本で同じようなことが起こったらどうする?と想像しながら読んだ。