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保育実践へのエコロジカル・アプローチ アフォーダンス理論で世界と出会う みんなのレビュー
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2022/04/26 09:52
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以下引用
環境は現在のところ、保育者が構成する対象でありつつ、子どもが能動的に関わる対象でもある
保育者が経験する環境を内容としての環境の理論のなかに位置づけることはできないのである
保育の環境とは、保育の現場を生きる保育者とこどもたちにとっての環境で有り、環境のリアリティは、保育における出会いのなかで経験されるものである
★★保育のなかで出会う環境のリアリティを保育学の俎上にあげるためには、一人称の保育者の経験の記述から出発していくことがもとめられる。
⇒あわ居の場合は、「お客さんの感じたあるいは発見したあわ居でのリアリティの一人称的記述」が必要なのだと思う。
★このとき出会われる環境は意味や価値を伴って保育者に経験されるものであると同時に、保育者がそれを手掛かりにして保育実践を行うものである。それは、主観的な実在であると同時に、物理的な実在としても捉えなければならない。
環境は外部にある実在として、「意味」や「価値」に満ちたものとして捉えられる。人間を含む動物は、これらの実在を共有し、それぞれ異なるアスペクトを知覚することで、多様な意味や価値を伴った世界を経験する
保育環境には未だ潜在する、保育者および子どもの単独の視点からは汲みつくすことのできない「意味」や「価値」が潜在している。エコロジカル・アプロ―チによる環境の記述は、アフォーダンス概念を手掛かりに、保育者や子供が経験する「意味や価値」のリアリティを記述しつつ、その出会いの条件となっている環境の実在を考察しようとするものである。
⇒これをうちの場合にひきつけて考えると、お客さんによる一人称的な、「あわ居」での出来事やそこで見つけたあわ居の「価値」を記述していくことで、あわ居という環境の実在や潜在性を考察していくことが必要になるということかな
エコロジカルアプローチは、保育者-環境-子どもの関係を系として捉え、そのトランザクションそのものを記述しようとする。そして記述された環境の意味と価値は保育者を中心としたコミュニティのなかで共有され、探求されるものとして位置づけられる
★★エコロジカルな環境は、ありふれたものでありながら、未だ出会われざる側面を隠しつつ、そこにある。
⇒この意味では、あわ居という「環境」であったり、その環境に潜在的にある意味や価値を、どうその環境に「実在」するものとして、現前させ、共有させていくことができるかが大きな課題であるように思う
★エコロジカルアプローチが省察の対象とするのは、あくまで私にとってのそこにある環境であり、私的な関心と状況の偶然性によって貫かれた一回性の環境との出会いのリアリティである
★しかし、私にとってそこにある環境から出発する探求は、必ずしもひとりよがりで閉鎖的な探求ではない。私的な出会いの経験が省察され、言語化されるとき、その出会いは公共的な意味を帯びる可能性を帯びている
★★それらの実践上重要な概念が、語りというコミュニケーション上の制限を超えて、より広い公共性を持つためには、そのリアリティを「書き留めることによって生き返らせる」ような厳密な書き言葉として表現されることが必要になる
⇒このあたりは、歴史記述や詩とも大いに関連するところだなという気がする。たしかにそこでおこったとか、たしかにそのときにあったというものを、いかにアクチュアルな記録として蓄積できるかというところかな。そこで起きていることととは、その環境への「付箋」のようなものは、その人の身体と環境との相互作用の中に「ことば」として蓄積されるものだから、逆に言えば、それを形として残さない限りは、本棟はその環境に「感じ取れ」たり、その環境に「ある」ものも、ないものとして忘却されるということが起きてしまう。
保育実践者で有りつつ保育研究を行う者が、自身の生活の意味すなわち保育実践の意味を決算報告し、次なる実践のなかで働いていく概念として自らの環境との出会いの経験を蘇らせていく行為
保育の現場は、保育者のねらいを実現する手段としても、子どもにとって有用な経験ないとしてもとらえきることのできない予測不可能な環境がある。そしてそのような環境との出会いを通してしか生じえない、保育者や子どもの自己変容につながる重要な体験がある。このような出会いは、偶然性に貫かれているが、それでも保育者が潜在する環境の意味や価値を聴き取ろうとする姿勢をもつことで、新たな仕方で世界と出会い、生活のなかで日常をこえていく保育実践を生み出していくことができる
★保育者の立場から環境や出会いについて語ることを貫きつつ、それらを教育哲学の言語との対話を通して概念化することで、エコロジカルアプローチが提示される
★EAは保育実践と哲学的考察を往還することで、実践と理論が両輪となった保育学となることを目指す
⇒まさに、うちもこれがやりたい
★★ひとりの保育者として、そこにあるものに潜在する意味と価値を探究することが、保育者としての自己変容につながっていく。環境はつねに異なる仕方で出会われる可能性をもっている。保育者が未だ出会われていない環境を気に留めることにより、保育者自身の新たな環境との出会いと新たな子ども近いへの道筋がひらかれる
⇒あわ居で考えれば、あわ居いという「環境」に潜在する意味や価値を、お客さんとの相互作用の中で探求すること、それによって自分たち自身もかわっていくことがしたいのだなと思う
★こどもが生きる世界の意味や価値を抜きにした機能主義的記述によって、それを捉えることはできない
⇒少し飛躍するかもしれないが、「語り=そのひとのことば」を喚起する環境としてあわ居がありつつ、その語りによりあわ居が形成され続けていくというイメージを得るなぁ。
保育という臨床的な場面に身を置く者にとって、観察は観察される側に影響を与えずに行うことが不可能であり、その場で出会われる事象を記述するためには、その方法が関与しながらの観察であることが前提となる
保育において環境は保育者と子どもの相互の関りのなかで生きられるのであり、保育環境を記述するためには、一方的に動物を観察する機能主義的記述からは一線を画さなけれ��ならない。
★生きられた環境として探求すべきなのは、ある動物種の世界からは例外のようにすら見えるこの固有の個体による、生きた環境であるといえる
意味付与がが、常に独我論の可能性をはらんでいることを考慮入れた上でなされなくてはならない
デューイは、「生命/生活」とは、環境への働きかけを通して、自己を更新していく過程であると定義している。
習慣が機械的な行動様式になるか、成長を促すものになるかを左右するのは知識。デューイは、知識の機能を、「ある経験を他の経験において自由に利用できるようにするものにすること」であると定義する。
習慣は効率的な行動様式を形成するが、その効率性は、有機体と環境との関係が通時的に一定の様式を保っていることを前提にしている。ある状況において適用的であった行動様式が、環境の変化により通用しなくなった場合、人間は知的な省察を行い、新たな習慣を再構成しなくてはならない。そのような変化にさらされたとき、古い行動様式にとらわれ、環境への再適応が試みられない場合、人間の成長は疎外されることとなる
人間が社会的環境との相互作用のなかで獲得する知識は、ある一定の状況におけるある対象の適用可能性を決定するところの、その対象との諸関連の認知である。
経験の連続的構成として成立している教育の過程が、教師の特定の意図や目的により、完全に制御されるものではないという点
★★教師は、当面の目的をもって環境を構成することになるが、それは教育に最終的な目的を提供するものではない。子どもに対して選ばれる環境は、そのときの子どもの成長の可能性を鑑みて、選ばれるのであり、環境それ自体もまた変化の過程のなかに置かれている。教育は環境を通してなされるが、その環境の意味は、一回性の出会いのなかで規定されているものであり、なおかつそれが子どもの成長につながるものであるのかどうかが、その都度判断せなばならない
デューイにとって教育の手段としての環境の意味は、成長を導く経験の中でその都度捉えなおしていくもの。こような意味で、教育の過程に関与する教師は、自分自身もまた成長の可能性に開かれている必要がある。
⇒その意味では、あわ居は「教育の手段」としての「環境づくり」をしているのだなぁという自己認識を得た。そしてそれは、その「環境」はその都度変わるから、内が固定的になることもありえない。またここでの環境には無論、「人」もアクターとして含まれている
★★教育はこの環境を通してなされるが、教育的状況において環境は、常に変化のなかに置かれ、多様な意味や価値を含む者として経験される。教育の手段としての環境は一義的に固定できるものでなく、教師と子どもの相互作用のなかでその意味を探究されるもの
教育的状況は、私ー環境ー子どものトランザクションとして捉えられる。このとき、それぞれが変化しながら関わりあっているものとみなされる。
★★教育の手段としての環境への関心
⇒自分らのテーマはここなのだなと思う。
設備とは教育の手段であるとともに、幼児の生活のなかで幼児によって生きられる意味や価値を伴って��験されるもの
保育研究全体を俯瞰した場合、環境の認識論は客観主義的なものが支配的であり、その認識論により捉えられるのは、環境の意味や価値の個別性を排除した一般的機能をもつ環境である。個別的に生きられた環境の意味が学術研究として位置づけられるのは困難
★★環境は予め設定された仕掛けで一意的に決定づけられるものではなく、むしろ活動の真っただ中で他者の意図や自らの意図と関係しながら、創発的に見出されるもの
⇒この意味では、あわ居というのは、客体の環境ではなくて、その都度お客さんとの相互作用の中で立ち上がった「生きられた環境」の総体として、その環境はあるということなのだといえる
★創発的な環境はそれを構成した側の予想を超えた意味を持つものとして出会われている。そのような論点は、環境を通した保育でいえば、保育者の意図からは外れるが想定はできるような仕方で出会われる環境の存在を指し示している。さらに環境は時として、想定を完全に声、有用性の枠組みをはみ出した形で自己を変容するような衝撃をもって出会われることもある。
有用性の視点により前景化するのは、環境が偶然性を伴い、想定を超えて出会われるものであるという視点であり、そのような環境についての理論化を試みる課題が十分に手を付けられていない
関与なき観察により得られたデータを分析することにより、観察者自身により子どもとともに生きられた経験のリアリティはえがけない
子どもにより生きられた環境が、目的達成のための手段という枠組みのみにより理解できないことは、予想を超えた子どもの行動と日々でであっている保育実践者には納得しやすい
行動のためのデザインのために切り出された環境と、実践において創発的に出会われる環境との間には決定的な違いがあり、後者に伴う偶然性は環境との出会いを研究することを難しくしている。
生きた事実を扱うことは、質的な時間を扱うことであり、研究者自身が身体を伴って現場に流れる時間を生き、実存的変容を伴う思索からっ論を生み出すことを意味していた
生活の小さなひとこまのなかで喜びや驚きや謎をもって出会う出来事を、保育者自身の感受性を通して記述、考察していくことは、保育学にとって決定的な重要性をもっている
保育における出会いは、そのような揺れ動く関係のなかで記述されるべきもの
臨床の知は、外部からの観察によるのではなく、身体を備えた主体としての自分を含めた全体を見通す洞察によってもたらされる、探求によって力動的に変化する知
観察するまなざしによっては、人間としての育ちの根底を支える共感の関係に入り込むことはできない
記述の手法化や理論家は、生きた事実そのものについての問いを隠蔽し、生のリアリティを理解する妨げとなる
環境を論じる際、それを経験する当事者の視点は常に見失われやすい
環境を構成するという視点がもつ有用性の枠組みと、想定外であるという有用性を超えた枠組みをいかに両立させるか
★子どもにとっての意味ついて、面接やインタビューの手法を取り入れて明らかにしようとする環境もある。体験の当事者性を考察に取り入れている研究も出てきている。子どもへの面接やインタビューで語られた環境
この時解明される保育環境は、意味付与の過程を省察することで得られる空間経験の主観的側面に限定されている。(⇔つまり環境側からの働きかけから、その場が立ち上がってきたという記述がないということかな。場所への意味付けやそこが生きられた空間になることには、環境や空間に配置されたものなどのエージェンシーがあるはずなのに、そうしたエコロジカルな視点が欠けていることを批判しているのだと思う)
そうした方法は、主体と主体とのあいだで生きられる関係の質について明らかにする上では有効であるが、環境を記述することには適合しにくい。経験の状況や環境が背景可するという問題点。主観による意味付与という形になっている。(環境からの働きかけのベクトルが逃されているということかな)
⇒論点は「人対人」が前景化しており、環境や状況が後退していることと、あとは、主体が環境にどう意味付けするのかというベクトルばかりで見られて、環境側からの作用についての考慮がないということかな
★支配は意味の付与として達成され、表象の対象はノエマに還元される。思考するものが、思考されるものに対して行使する支配。このような支配が、意味付与によって達成されてる
⇒これ、障害者アートと芸術の制度にも同様だが、結局はその「名づけ」に際して、一方通行だということだと思う。「あいだ」での相互作用があって、それを名付けることが「他者」であり、そのときそれぞれは相互作用前と異なる場所にいることが前提されているはず。支配は、そうではなく、排除として、既存の枠組みの中で、「ラベリング」をする。そこに「あいだ」はない
他者、表象する主題化をまぬがれる唯一のものであると位置づける
他者は、私が所有しえるすべての観念をあふれ出ていく。私たちは、他者に意味を付与することができないのだ。
他者が、私の観念を超えていくのは、他者の語る言葉こそが、意味付与を条件づける意味作用として現前するものであるから
★ことばはつまり、思考の機能を存在させはじめ、意味作用の最初の同一性をことばを語る者の顔として与えるのである。ことばが作動するのは、意識の内部においてではない。ことばが他者から私に到来s、意識を問いただすことで意識のうちに反響してゆく。これは意識に還元されることのないできごとをかたちづくるものである
★レヴィナスは、わたしたちが対象を思考し表象できるのは、それが他者から到来することばに条件づけられているためであると述べる。思考は、ことばをかたりだすことである。
★私が他者を主題化するのではなく、他者は世界を主題化する起源なのである、現実存在を成り立たせているもの。意味とは他者の顔のことで、語の使用のいっさいは、ことばという本源的な対面の内部にあらかじめ位置づけられている。
他者の語ることばが教えとして到来するということによってのみ、世界は主題となることができる。私たちが自由を行使することのできない他者の語ることばこそが、世界の起源であり、私たちは無限なるも���との関係のなかで思考することができる
現象学的に記述されることになる環境は、原理的にすべてノエマとしての環境である。ノエマである以上、その環境は意味を受容する側であり、意味付けるのは常に主体の側である。このことは、主体が環境の実在に対して決定的な支配をもつことを理論的に認める立場に立ちことんある。記述された環境は、同の支配、つまり意味付けられたものの枠組みの中に閉鎖されることになる
対象が抵抗することなくノエマに還元されるものであるのに対し、他者はことばを語ることができることで、自分に固有の現出をまもることができる。みずからことばを語る「顔」は、私の表象が構成する自由をことばによって問いただすことにより、わたしのうちにある「他者」の観念を溢出し、無限なものとして現出する
★意味付ける者は、外囲部から到来する。この外部性、つまり他なるものとの関係の中にこそ、人間が認識によるいっさいの同への回収という全体性を抜け出していく通路が開かれる
保育実践の現場において、植物であれ、動物であれ、あるいはものであれ、重要な「ことば」をかたる「他なるもの」であり得る。
★生きられた環境を条件づける意味や価値が、私の主観により自由な意味付与によって構成されているのではなく、私から分離された実在であり得ることを指ししめす
★経験の省察は、生きた身体を伴った主体による経験と知覚の記述を方法とするが、その記述は環境を主観による意味付与の記述の背景に退かせることもなければ、表象された対象としての意味に還元することもない。私自身のより良い保育実践へ向けた探求のなかで記述される環境の実在/リアリティは、他の保育実践者にとっても「そこにある」ものとして共同的に探求され得るもの
⇒これ大事な論点だな。うちも、あくまで「あわ居」という環境の中で、その環境を構成するアクターとして人がいるということを忘れてはならないと思う。
★★私たちが、経験する世界は多様であるが、それは共通の環境によって支えられている。環境の意味や価値は、多様な経験の条件となるものであり、環境を記述し理解していくことは、私たちが経験を共有し、共通のリアリティを探究する実践へとむすびついていく
⇒★★これがやりたいのだと思う。環境としての「あわ居」と、しかしそこでずれる価値や意味としての「あわ居」を感じ取れるようにしたい。環境を記述しつつも、しかしそれが記号的な一元的な意味付与に回収されるのではなく、個別的なエコロジカルな意味作用の蓄積としてありつつ、それがその環境にさらに潜在し、内在している価値や意味を「予兆」させ、兆候させるような、そういうメディアを作りたい。多様な意味作用が起こる基盤structureとしてのそれでありつつ、そこに個別な生きられた空間が並存する場としてのあわ居を記述したい
保育実践研究を、経験の記述とそれについての省察という終わりなき探求の過程に位置づくものとして捉えなおす
★★★プラグマティズム(実践主義)において、経験を言語化することは探求の終わりを意味するのではない。記述され、名付けられ、言語化された経験は、それがひとつの解���された真実を表現するものであるかのように思われがちだが、しかし、その結果は「われわれがそこにとどまることができる謎への解答ではなく、謎をとくための道具となる」ものであり、実践者の経験の流れの中で働くことにより、「現存のリアリティが変えられてゆくかもしれない方向を指し示す」ものなのである
⇒「兆候」が同時に記述されるということかな
★★個々の子どもにとっての経験の意味を対話的に問い直し、子どもの現在のありようと未来の可能性に照らして、その都度価値判断を行うのが、保育者が身を置く教育課程なのである
実践研究の目的は、経験に完全な観念を与え、経験を固定することにあるのではなく、常に実践するものが、経験を再構成するための道具になっていく、終わりなきプロセス
★観察される主体は、観察する主体が知っている以上のことを常にしっている
生態学的情報ん基づく直接経験と、処理情報に基づく関節経験の差異。
生態学的情報の探索が自らの仕方で行われることの重要性
出会いは、環境を探索することで実現するものであり、出会いがもつ固有の事実性=リアリティが、自らの仕方でそれが行われることによって確証される
生活への愛。日常経験にかかわるエロス-人間として生きることは、世界におけるその人の場所を、周囲の事物と周囲の人々の両方を楽しむ特別な方法として経験すること
★生態学的な環境は、生物に共通の意味と価値の資源であり、他者理解とは、未だ私が出会わざる意味や価値を他者の姿を通して共有しようとする営み
アフォーダンスは、直接経験可能な実在だが、ノエマとして主体の内部に回収されるものではない
私たちが、こどもともに、そこにあるリアリティを共有しうること
そこにあるものは、わたしたちが自由にそれに意味を付与することができる対象ではない、
園庭の庭には私たちが未だ気づいていない価値が潜在している。
環境の意味は、保育者によって一様に固定できるものではない。保育にとって環境構成が重要なのは言うまでもないが、さらに重要なのは、構成した環境が子どもにとってどのように経験されているかという事実。いかに環境を熟知し、狙い通りの環境構成が行えたとしても、環境の意味や価値は異なる仕方で見出され得る。むしろ、そのことの内に寄り添っていくことの保育の奥深さがあるのではないか
★★人の方もそれとともに変わってゆくようなものこそ、その人の本当の環境なのである
保育者は自己と切り離された反響を操作することで、こどもに影響を与えているのではなく、環境を変化させることで、自らも変化し、そのような変化の全体が子どもにとっての保育環境として機能している
保育者は物的環境を整備するものであると同時に、自らも子供にとっての人的環境として存在している。そのような複雑な様相を持つ保育実践の名を捉えていくために、環境を人間と独立した要素として扱うのではなく、保育者-環境-子どもという系の全体性を損なわない形で人間と環境のトランザクションを記述する理論が求められる。
こどもは自ら能動的��環境に働きかけるが、こどもが働きかけることのできる環境は、文化や過程の養育方針に制限されている
みたされざる意味とは、周囲を取り巻いているが、いまだその可能性が知覚されていりない情報のこと
★明確な理解はできないが、そこに何か大事なことが潜在しているという感覚
★みたされざる意味とは、意味ある何かが進行しているという知覚によってその存在が明らかになるものであり、その場の成員にとって確定していない意味を伴った環境
環境ということばは、一歩間違うと、ある特定のねらいを対象に付与して子供に与えることが、環境を通した保育であるような印象を与える
豊かな保育の可能性をもつ道具や教材が配備されていても、それに子どもが関わらなければ、その環境は保育環境にはならない
保育における物的環境は、意味が固定した対象として捉えられるものではなく、保護者、子ども、事物の三者関係の中でその意味が実現するものとして捉える
子どもがどのように物的環境を経験し、どのような意味を看取しているかを理解するために、保育者は、周囲の事物の意味を既存の認識の枠組みから解釈するのではなく、みずからにとって未知である事物の意味に対して開かれた姿勢をもって臨む必要がある
木の枝自体は多様な行為の可能性を備えているが、それらのほとんどは利用されない形で環境に存在しているみ
★身近な環境に満ち溢れている意味や価値を選択的に知覚することで生活しつつ、そのような意味や価値の多くが気づかれていない。私たちの周囲を取り巻いているが、いまだその可能性を知覚されていない情報、それをリードは、みたされざる意味と呼んだ。
⇒あわ居はこういう「みたされざる意味」を互いが「予兆」する場でありたい。あわ居にアクセスすることが、こうしたみたされないものを、あわ居に「予知」するというところのプロセスから成立するようになることが次の目標かな
★自然を体験するための環境を用意すれば、それだけで豊かな保育ができるわけではない。「自然体験」のプログラムに参加することが自己目的化し、その中での体験内容について吟味がなされないことへの批判
自然体験が十分に深まらないのは、自然という環境との出会いが固定化しているため
★★それまで出会われていなかった環境に潜在する価値の記述でありつつ、未だ「出会われていない環境」がそこにある可能性を指し示すことでもある。そしてその経験の記述が次なる保育実践に向かう者に読まれ、気に留められるとき、その保育実践者の周りにもまた「デわれていない環境」が実在することとなりえる。「出会われていないがそこにあるもの」の可能性を指し示し、無限化する
★記述は環境を主題化するが、それによって環境を全体性へと還元することはできない。環境は保育者にとって常に潜在しつづける可能性を持つことで無限化する。その無限化する環境は、他なる者。常にわたしの意味付与の機能の及ばないあ、他なる者として到来する可能性をもって潜在している
EAに基づく保育実践研究は、環境の経験を記述し、それを他の保育実践者と共有することで、それ���れの保育実践者が「そこにある」環境の経験を更新するための道具となる。
環境は個人がそれぞれの生活のなかで、それぞれの仕方で日常を超えていくメディアであり、そのリアリティを共有することが可能な共通の資源
★日常(routine)を有用性の原理に基づく思考・行動様式に回収される傾向をもつものであるとらえ、生活(life)が日常を超え出ていくことで更新され、その活力を回復するものである
★有用性の原理が支配する日常では、モノはすべて労働のための材料、手段となり、世界は手段-目的関係に分裂する
あるモノが、非-知の体験を引き起こすとき、そのものは生成体験のメディアともなっている。
記述してきた環境は、このような生成体験のメディアを具体的に示したもの
生成体験のメディアを記述しようとする試みは、メディアを体験の再生産のための手段に還元する危険も抱えている。体験それ自体は言語化しえず、一回性の性質をもつものであるが、その体験が生み出されるプロセスを対象化して認識しようとすることは、体験を操作可能なものとして有用性のエコノミーに回収することになりかねない
★環境の意味や価値が強い印象を伴って他者との関りのなかで出会われるとき、自己の知覚を組みなおす生成体験が生じる
水たまりは、時として、生成体験=自己変容のメディアとなりうる
⇒うちは広い意味では、「生成」のメディア、環境をつくっているといえるのかな
記述に共有された。環境を現実化しようと意図することは、こどもをして何かに出会わせようとすること、それは逆に出会いの妨げになる
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