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【村上作品の原風景がここにある】村上春樹が初めて自らのルーツを綴ったノンフィクション。中国で戦争を経験した父親の記憶を引き継いだ作家が父子の歴史と向き合う。
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村上春樹さんの父親の話。
いつもの小説とは全く別のものです。
でもそのおかげで?村上春樹さんの生い立ちが垣間見えた気がしました。
なんの偶然か両親の元に生まれ育つ。その環境を選べるわけもなく、それこそ雨粒のひとつのように。
でもその生い立ちがあったからこそ村上春樹さんの小説があるんだなと思います。
『降りることは上がることよりずっとむずかしい』
この言葉はとても深い。
イラストもその時代を偲ばせるようですてきでした。
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2020年4月27日読了。
●P52
いずれにせよその父の回想は、群島で人の首が
はねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い
僕の心に強烈に焼き付けられることになった。
ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似
体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ
重くのしかかってきたものをー現代の用語を借り
ればトラウマをー息子である僕が部分的に継承し
たということになるだろう。人の心の繋がりとい
うのはそういうものだし、また歴史というのもそ
ういうものなのだ。その本質は<引き継ぎ>とい
う行為、あるいは儀式の中にある。
その内容がどのように不快な、目を背けたくなる
ようなことであれ、人はそれを自らの一部として
引き受けなくてはならない。もしそうでなけれ
ば、歴史というものの意味がどこにあるだろう?
●P99
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私はこの本を読めて良かったと思います。
正直、村上春樹さんは小説よりもエッセイのほうが好きで、この村上春樹さんの語り口調がとてもいい。
戦争のこと、こわかったです。具体的な数字で書かれるとその数さえ想像できないけれど、こわくなります。
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村上春樹の最新刊。
余りエッセイをちゃんと読んだことがなかったが、この本は面白かった。阪神間の文化を肌で知っているかどうかでツボにハマる場所が違うかもしれない。
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父について語る、のは、息子からして難しい。私もそうだが、父が昔どうだったかなんて、興味はあっても聞けない。今後も聞くことはおそらくないんじゃないかと思う。
猫を棄てるエピソードから始まるこの語り。量もちょうどよく、読みやすかった。
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何か新しく書き下ろしたものが入っているかなと期待もあったが、昨年の文芸春秋6月号に特別寄稿されていたものと全く同じものであった。
異なる点といえば、彩度を抑えた淡い色彩のイラストが添えられていることくらい。書籍自体のサイズは新書をひとまわり大きくした程度で、あまりの小ささに驚いた。
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村上春樹による村上春樹のためのメモワールといったところか。
市井の人々にとって戦争とは何だったのか、といった事柄を書きたかったようにも思えるのだけれど、この分量ではやはり突貫工事的な印象が強くて、あまり響いてこなかった。
村上春樹は好きな作家なので、もうすぐ出版される短編集「一人称単数」に期待。
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村上春樹 さんの、亡くなられたお父様の事を綴られたエッセイ。
静かで染み込むような文体と、味のあるイラスト(台湾のイラストレーターの方との事です)が、程よくマッチしていますね。
すぐに読めてしまう長さなのですが、結構内容は濃いように思いました。
村上さんと父親との共通の思い出だけでなく、父・千秋さん個人のヒストリーも掘り下げていて、千秋さんが体験された戦争の事が特に印象に残りました。
他の方のレビューでもありましたが、村上さんが『ねじまき鳥クロニクル』や『辺境・近境』等でノモンハン事件を取り上げているのも、千秋さんのいかれた戦地とは異なるようですが、この辺りからきているのかな、と憶測しました。
こうしたルーツをたどる作業は、自身の父親に対する複雑な思いを浄化するものでもあったのかもしれませんね。
タイトルの『猫を棄てる』は、村上さんが幼い頃、理由はわからないけど父親と一緒に海へ猫を棄てにいったエピソードからきています(結局、猫は戻ってきたのでご安心を!)。
個人的に、もう一つの猫エピソードの、松の木に上ったまま降りられなくなった猫はどうなったのか気になりますが、きっと無事に自分で降りれたに違いない・・と勝手に思い込むことにした次第です。
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2020年14冊目。
いつか、「書く」ことで向き合いたい過去。それは自分にもあり、去年ものすごい決意と労をもって、なんとか書き上げることができた。
それを思い返すと、村上春樹さんが20年近く疎遠になっていたという父親のことを今作で描き上げるまでにどんな感覚があったのか、少しだけ気持ちを寄せることができた気がする(僕と比べるのはとてもおこがましいけれど)。
タイトルにある「猫を棄てる」は、まだ父親との交流があった幼い頃の村上さんが、一緒に文字どおり当時の飼い猫を海岸まで棄てにいったエピソードだ。そんな思い出話から、いつの間にか父親の戦争体験の記録と、その心情の想像へと移り変わっていく。ちなみに、終盤にも猫のエピソードが出てくる。決して主題にはならないが、物語をドライブさせていく導き手としての役割を猫が担うというのは、村上さんがこれまで書かれてきた小説と似ている。
いち個人が書く追想録であり、しかもその題材が著者の父親ともなれば、読み手である僕らからしたら「他人の他人」の話だ。それなのに、なぜか読み手にとっても肌が触れているような感覚が、村上さんの文章からは生まれてくる。ごく個人的なことが、個の境界の輪郭を広げ、他者を内包する。
この「集合的」な感覚は、このエッセイの主題でもあると感じる。
「偶然がたまたま生んだ真実」でしかない僕たちの人生は、「一滴の雨水」に過ぎないという。簡単に大地に吸い込まれ、あっさりと消えていく。しかし、それでも一滴の雨水には意味があるのではないか、と続ける。
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しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。たとえそれがどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられて消えていくのだとしても。いや、むしろこう言うべきなのだろう。それが集合的な何かに置き換えられていくからこそ、と。(p.96)
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トラウマが世代を越えて継承されていくように、たった一滴の記憶もまた受け継がれていく。村上さんが父親のことを書き、それを読んだ者の記憶に残っていくように。
でもそれ以上に、「語り継がれないもの」すら集合的な記憶の一部となっていくのではないか、という不思議な感覚が残った。この作品に記された村上さんの父親の記録も、語られたこと以上に語られなかったことのほうがずっと多いはず。何ひとつ語り継がれずに終わる人だって少なくないかもしれない。
それでもなぜか、誰に知られることもなく砂のなかに吸い込まれていった一滴の雨水にさえ意味があるような気持ちが、この本を読んでいて湧いてきた。大地に吸い込まれ、ずっと地下のほうで大きな水脈と合流し、吸い上げられた水がいつか誰かの口に届く。そんなイメージかもしれない。
自分もいつか、集合的な何かに戻っていく個体なのだと思う。語り継がれるような何かを持てるのか、何一つ語り継がれない存在で終わるのかを問わず。そんな一生をどう生きてみようか、と、陳腐なことを思う。
ご本人��父親とのことを書くにあたり、「喉に引っかかった小骨のようだった」と語る。この作品を書き上げることで、その小骨は外れたのだろうか。処女作『風の歌を聴け』のなかでご本人が書かれた、この言葉を思い出した。
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今、僕は語ろうと思う。もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎないからだ。(中略)それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。(p.8)
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読者に読んで欲しくて書いたものではなく、村上さんが自身のために書いて残した作品だと思います。
101ページ中、84ページまでは父親の人生が淡々と語られています。
84ページ以降ラストまでに、この作品の全てが詰まっていると思います。
大切な人(ペットも)を亡くすと、心にすっぽりと穴が空き、その人の存在が大きくなって、その人の人生のこと、あの時一体どういう気持ちだったんだろう、きっとこう思っていたんだろうなどと思い巡らせます。
その方が自分にとって大切であればあるほど、そして心が優しく繊細な人ほど、自分の関わり方について、後悔し自責の念にかられてしまうのではないでしょうか。
そしてその人の人生の軌跡を辿り、過去に戻って考える作業はとても尊いものだと思います。
『父の死後、自分の血筋をたどるようなかっこうで、僕は父親に関係するいろんな人に会い、彼についての話を少しずつ聞くようになった。』
『僕らは似たもの同士だったのかもしれない。良くも悪くも。』
そしてこの世に生を受けて全うすることとは、きっとこういったことなのではないか、という著者なりの人生観は深く心に染みます。
父や母の人生があのとき違っていたら・・自分はこの世に存在しなかった。
もし若いときに、他を優先せず父親との接点を持つことに取り組んでいたなら・・。
たまたまの偶然で人生は形成されているに過ぎません、
言い換えれば膨大な数の雨粒のうちの名もなき一滴に過ぎません。しかし一滴なりの思いや歴史があり、それを受け継いでいくという責務があります。
『いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。
それは、この僕はひとりの平凡な人間の、平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。
しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。
我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実としてみなして生きているだけのことなのでなあるまいか。』
『言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。』
この世に生まれて色々な人と関わりながら生きて死んでいくということは、奇跡の塊だと思います。
そして絶妙なタイミングや案配で、著者と猫との思い出が語られるところが、只者ではない彼の作品ならではだと感じました。
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父について語るとき、戦争は避けられない。村上春樹の視点においては、それは切り離せないものなのだろう。だから、父について語るとき、それは戦争の話になる。何があったのかは断片的に聞いただけ。改めて聞くこともできない。
そんなことは、人間関係で多々ある。推測する。その周辺を埋める。核心はわからなくても、周辺を調べて、推測する。
それは、中心を書かずに周辺を描くという村上春樹の小説に対するアプローチそのものだ。小説を書くとき、言いたいことを書くなら、原稿用紙3枚半で足りる、とインタビューで答えていたように、本質なんてあやふやなものは、書かない。人間理解とは、細かな周辺なのかもしれない。
それが、猫を棄てるエピソードであり、降りられなくなった猫のエピソードなのだろう。
「何はともあれ、それは一つの素晴らしい、そして謎めいた共有体験ではないか。」
これでいいんだろう、と思った。
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心象風景のような話から始まり、そういった話にはめっぽう弱い私はノスタルジックなムードに酔い、大切にしたくて、じっくりじっくり読んだ。
父と戦争が直結し、村上作品に意味を持たされていることはよく語られることだけれども、その真相を知りたいというような気持ちで興味深く読み進めた。
父を想うノスタルジックなムードと相反するような戦争という事実。小説とは異なる形で融合され、小説よりも甘く味つけられている。戦争を語っているのに不謹慎といわれるだろうか?
小説よりもエッセイが甘いなんて、素敵だと想うけど。
戦争がもたらす悲劇のようなこと、
抗うことの出来ない悪に自分はどう対峙するのかを村上作品から読み取ってきたような気がするけど、もしかしたら、それは不健全な読み方だったかもしれない。
抗うことの出来ない悪によって、人生を大きく変える。それでも、人々は静かに生きていることに意味を見出す。こちらの方が、腹落ちするな。
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初めての村上春樹の本だと思います。
父親についての話。
戦争での経験を思い描いていく
ちょっとした思い出から書いていく
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村上春樹が、彼自身の父親について語った個人的な記録。
あるいは、父親の半生と、村上春樹さんの個人的な人生の一部の記録。
父親と過ごした時間と離れていた時間。そして、父親の死とともに向き合った時間。
失われたもの、あるいは、ずっと“そこに”“そのまま”あるもの。
春樹さんの父親がくぐり抜けた圧倒的な“暴力性”を包んだ戦争の体験。
それとまったく対比的な、春樹さんの子ども時代の2つの猫のエピソード。
「僕らは似たもの同士だったのかもしれない。良くも悪くも。」
この言葉には、いろいろな想いが込められていると思う。
そして、読者である自分には、少なくとも自分には、「なぜ村上作品には父親が登場しないのか?」という問いに対する答のようなものが少しわかった。