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昭和40年生まれの著者が、少年時代から青年時代にかけて起きた社会的な出来事をまとめたドキュメンタリーノベル(?)。同じ時代を生きた者として興味深く読んだ。帰還兵・横井さん、鹿児島の五つ子ちゃん、グリコ森永事件など、マスコミの功罪を考えた。大阪万博の裏事情はまったく知らなかったのでおもしろかった。いい時代だったとは思わないが、令和の現在も本質は変わらない気がする。
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S40年男だし、元商社マンだし、一応、気にはしている作家さんだけど、芥川賞受賞作品は響かなかった。
本作も、文体が通常と異なる、読点で繋がる文がダラダラ続く著者独特の文体で、とっつきが悪い。ただ、題材が「昭和」で、そこに大いに親近感と興味を持って読み進むことが出来たのは幸い。
そして本書の言わんとするところも、昭和を通じて見せる今の世相、断末魔を迎えつつある近代の社会システムへの警鐘であろう。
無責任なマスコミに囲まれる五つ子の家族から見えるメディアの身勝手、横暴。大阪万博という国家レベルの大事業に一見思えるイベントの背後の個人の事情を目玉男を通じて描き出す。28年間、己の才覚だけでジャングルの中でのサバイバル生活を生き抜き帰還した元日本兵は「帰ってきた途端、金なしでは一週間だって生活できない、情けない身体に変わり果ててしまった、金という権威に負けて、服従させられている!」と驚く。何をか言わんをや、だろう。
幼少の頃の遠い記憶の中でも、思い出深い、大阪万博(S45/1970)、楯の会事件(S45/1970)、元日本兵帰還(S47/1972)、五つ子誕生(S51/1976)、グリコ森永事件(S59/1984)を順不同に取り上げ、その折々の登場人物を軸に、但しあくまでフィクションという姿勢は崩さず、実名は出さず、NHK記者、仕立屋の元日本兵、『葉隠入門』の著者、キャバレー好きの政治家(←これは意外な喩え方だったなあ)と、ボカしてるんだかボカしてないんだかの不思議な筆致のルポルタージュのように話は展開していく。
いちばんのハイポイントは、大阪万博の用地買収の裏話のあとに展開される目玉男のクダリだろうか。小柄な老人として、この万博のシンボルタワーを創造した芸術家も登場する。正直、大阪万博は、会場入りした覚えはあるが、広いアスファルトの通路を走り回り、ひょっこりひょうたん島の着ぐるみに追いかけられて怖かったという思いでしか残っていない。おそらく同じく当時5歳だった著者も、印象的な視覚情報だけが脳裏に残っているだけだろう。この目玉男の事件などは、まったく記憶にない話だった。
そんな事件を振り返り、著者は述懐する。
「こういう面白い事件、後の時代であればぜったいに起こり得ない、人に語って聞かせたくなるような事件がじっさいに起こった分だけ、やはり当時の世の中はまだまともだった、そう思いたくもなってしまう、核エネルギーの平和利用は可能であると主張し、交通事故死の急増も繁栄のためには免れ得ない犠牲と諦めていた、有機水銀化合物をそのまま海に垂れ流しての希薄化されるのでさしたる問題はないと信じ込むほど、我々はじゅうぶんに無知で、蒙昧ではあったが、自分たちの理解を超える事象に対してまで恥ずかしげもなく知ったか振りをするほどは、傲慢ではなかったということなのか?」
つまり今の世の中は、知ったかぶりして傲慢にも、目の前にある問題から目を背けている、というのが著者の主張か。いや、「?」で結んでいるあたり、断定は難しいだろう。
なにしろ、本書の冒頭の一文が、こう語っている。
「幸福の只中にいる人間がけっしてそのことに気づかないのと同様、一国の歴���の中で、その国民がもっとも果報にめぐまれていた時代も、知らぬ間に過ぎ去っている。」
時代の評価は後の世になってからなのだ。
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「幸福の只中にいる人間がけっしてそのことに気づかないのと同様、一国の歴史の中で、その国民がもっとも果報に恵まれていた時代も、知らぬ間に過ぎ去っている。」
冒頭の文から引き込まれる。その同じ行から、グリコ・森永事件が描かれる。一気にその時代に運ばれる。
子供時代であったが、その割には印象に残っている事件が次々描かれる。
すごい出来事が次々起こっているのに、のんびり子供時代を送っていた。
作家の取材力と想像力の境目がはっきりしないが、事件の当事者の心中に入り込みながら、読み進める。
太陽の塔の目玉男の話、完全に忘れていた。その後、この人はどう生きられたのだろう。
グリコの社長一家も五つ子のご家族もまだまだご活躍の中、大胆な小説だなとも思う。
その点、横井庄一さんの話は安心して読めた。
渦中にある時は、評価できない。
今の時代をこの小説のように50年後に振り返ってみたらどうなるのか。
評価できない、といっても、どう考えてもいい評価になるわけがない。それがわかっていて、どんどんダメな方向に進んでいるのをボーッとしていていいのか。
いい方向に向かっていくと考えたい。でもそれは、リニアモーターカー(万博の時代からすでにあった話とは。50年前の話にまだこだわってるって笑える)とか、そんな方向ではないはずだ。
「蒙昧」の時代は続くのか。一体いつまで?
50年後に今を振り返ることのできるこの国や人は存在してるのか?
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【語りの魔術で蘇らせる、戦後日本の生々しい手触り】語り手を自在に換えつつ大阪万博、日航機墜落事故など、狂騒と蒙昧の戦後を彩った様々な事件とその陰にある無数の生を描き出す長篇。
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フィクションといわれても、同時代人にとっては、あぁーあれね、あの人ね、てな感じで記憶をくすぐられる。面白くて一気に読んでしまった。
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鶯茶色のすっきりした表紙がしっくりくるような内容で,読むほどに面白く他にもいろんなニュースがあったはずだが,選ばれたニュースで時代の雰囲気とか実は知らなかったこととか,忘れていたことを思い出したりした.そして今現在に続く例えばマスコミのあり方や人々の節操のなさ,交通事故の多さに注目しているのも我が意を得たりという気がした.たくさんの人に読んで欲しい本です.
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この本すごい。好き。私的に今年No.1の本。知性にも感性にも響く。20世紀後半のこんな語り方があるなんて。
最初に読んだ磯崎さんの作品が『終の住処』だったのですが、これが読んだ当時の私にはあんまり合わなかったので、以後、手に取る機会がなかったのだけれど、改めて他の作品も読んでみます!
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日本蒙昧前史
著者:磯崎憲一郎
発行:2020年6月25日
文藝春秋
こんな小説があるのか!という驚異の作品だった。たぶん、これは傑作なんだろうと思う。
会話がほとんどない。少し出てくるが、普通は改行して「」に挟んで会話文を作るが、改行は一切なし、「」はあるが地の文の中に閉じ込めて間接話法に近いような言い回しで表現している。
段落替えも少ない。つまり、1段落が非常に長い。
信じられないほどの長文ばかり。野坂昭如のように、通常なら「。」で区切る文も「、」で済ませてつないでいく。例えば、「○○○した」という文も「、」でつなぐ。そこに接続詞もない。
240ページ余、ずっとこの調子。240ページだと、通常は250枚、10万字ぐらいだろうけど、同じ250枚としても文字数は1万字よりだいぶ多いのではないだろうか。
とにかく地の文で一気にまくし立てるように進めていく。語っていく。「グリコ森永事件」と思われる事件でマスコミ放送された子供の声による「場所指定」の言葉から始まり、グリコ社長と思われる男の話になり、日航機墜落の話から、なぜか総理になる前(田中角栄に敗れたばかり)の福田赳夫と思われる政治家の高級キャバレー通いの話へと進み、その話が中心となり、NHKの山下記者と思われる五つ子ちゃん誕生の話がチラリと出てきて、最初の区切りが終わる。
次は五つ子ちゃんの話が中心となる。NHK山下記者を思わせる人の人生について語る。高校生の時に奥さんになる女性と知り合い、結婚し、子供が生まれ、マスコミの取材攻勢に悩まされ・・・
次は、1970年の大阪万博で太陽の塔の〝アイジャック〟をした男の話。北海道旭川での幼少期から北大へと進学し、事件を起こすまで。そして、ジャックしていた1週間余に読んだのは「葉隠入門」だったこと、そして、その作者(三島由紀夫のことだろう)が割腹自殺したことで締めくくり。
最後の話は、その万博開会式に貴賓席に来ていたノーベル賞作家(川端康成のことだろう)の自殺から始まり、グアムから帰還した元日本兵(横井庄一さんのほかない)の話となり、彼が見合い結婚し、選挙に出て落選する話、その後に夫婦で真に平穏な人生を送る。
固有名詞は、NHKと日航ぐらいで、個人については一切出していないが、あきらかにすべて特定できる書きぶり。
1960年代半ばから1970年代半ばまでのクロニクルを、それこそ半藤一利風に語っていく史実ものかと勘違いしたくなるが、我々がテレビや新聞で眺めてきたのはそれらの出来事の外観に過ぎず、その当事者になったフリをして著者の創作で語っていった〝嘘〟の塊がこの小説。史実と違うことも多い。例えば、大阪万博の会場が千里丘陵に選ばれた理由の一つに中国縦貫道により中国や九州からの交通の確保とされているが、当時、まだ中国縦貫道はなかった。千里丘陵の前は生駒山麓が有力候補地だと書かれているが、それもデタラメで本当は大阪市内の南港というのが真実だ。
しかし、そうした〝嘘〟があたかも真実でノンフクションのように響き、読者である我々が妙に納得し、共感してしまう理由。歴史の真実を知ってしまったかのよう���錯覚。これはなんだろう。陰謀論がはびこる昨今に対する警鐘ととれないこともない。
磯崎憲一郎という芥川賞作家の作品は、たぶんこれまで読んでいないようにも思うが、受賞作ぐらいは読んでおかないと話にならないというぐらい、すごい作品だった。
なお、「日本蒙昧前史」のタイトルの解釈についてだが、小説全般に蒙昧な時代の有様が描かれているので、蒙昧な時代の前半史という意味に取れるが、ところが、太陽の塔事件に絡んで、「人に語って聞かせたくなるような事件がじっさいに起こったぶんだけ、やはり当時の世の中はまだまともだった、そう思いたくもなってしまう、核エネルギーの平和利用は可能であると主張し・・・」というような下りがあるのを見ると、蒙昧な時代になる前の歴史、という意味にも取れる。
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いやはや凄い著述。1970年、80年代の出来事(登場順に、グリコ森永事件・豊田商事会長殺傷・日航機墜落事故・角福戦争・五つ子騒動・大阪万博土地収容問題・太陽の塔占拠目玉男・三島由紀夫自決・浅間山荘事件・横井さん帰還等)について、まるでその場に居合せたかの様な詳細な記述が延々と続く。それも「…であった、…していた、…した、…だった、…」と、普通なら句点で切るところを読点で延々繋いでいくという独特な語り口。最初は戸惑うも、次第にそれを良い勢いに感じる様になって読み進みました。
あの当時は「我々はじゅうぶんに無知で、蒙昧ではあったが、自分たちの理解を超える事象に対してまで恥ずかし気もなく知ったか振りをするほどは、傲慢ではなかった」「当時の世の中はまだまともだった」という気は確かにする。
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まさに帯分通り「語りの魔術」
昭和の時代に実際に起きた出来事が神の視点で語られていく。
タイトルも改行の少なさもあって苦戦するだろうと思っていたが、語り手さんの話を聞くような感覚でするすると読めてしまった。
実際にその時代のことはあまり知らないのでどこまでがフィクションなのかはわからないが、当時を知らない人の方が面白く読めるのかもしれない。
確か、文學界で続編が掲載されていた気がするので
そちらも単行本化することを期待。
あと梨ちゃんが言っていた通り、カバーの手触りが最高。
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事前に設計図をつくらず、冒頭の一文を決めて「場当たり的に書き進める」、著者の磯崎健一郎さんのインタビュー記事を読んで知った、磯崎憲一郎さん独自の創作手法。
その技術の凄さに圧倒されたし、こういった歴史的な出来事を題材とした小説をあまり読んでこなかったにも関わらず、こんなにも勢いよく滑るように読めてしまったのは、その滑らかな文章技術にあるのだろう。
冒頭のグリコ・森永事件から、日航ジャンボ機墜落事故、大阪万博開幕から太陽の塔の目玉男事件、日本初の五つ子誕生、ロッキード事件、グアム島の密林に二十八年間身を潜めた元日本兵等、昭和の20年間を虚構を交えて綴られた小説。
神の視点で、語り手を自在に換えつつ、固有名を伏せた状態で語られている。改行も殆どなく、本来ならば句点がくるであろう部分に読点が用いられ、流れるように話が進んでいく。
この小説の中には、心にグッときて、読んだ後も頭の中でぐるぐるしている言葉が多くあるので、いくつか引用して残しておこうと思う。
「我々はじゅうぶんに無知で、蒙昧ではあったが、自分たちの理解を超える事象に対してまで恥ずかし気もなく知ったか振りをするほどは、傲慢ではなかったということなのか?」(P,169)
「金という権威に負けて、服従させられている!本来的には延々と続く労働から人間を解放する機能を担っていたはずの貨幣が、逆に人間を束縛している!これはまったく信じ難い事態だった。」(P,230)
「私がどうしても受け容れることができないのは、世の中のありとあらゆる価値が、金額で、数の多少で推し量られるようになってしまったという愚かさ、馬鹿さ加減、ただその一点であります」(P,234)
「世の中の興味関心が薄れ、忘れ去られた後でも、虚構ではない現実の人生は途切れることなく続いている、この日の出来事はその証明に他ならなかった。」(P,244)
等々、挙げたらきりがない!
特に、「幸福の只中にいる人間がけっしてそのことに気づかないのと同様、一国の歴史の中で、その国民がもっとも果報に恵まれていた時代も、知らぬ間に過ぎ去っている」という言葉は、読む前と読んだ後では心にくるものが違った。
主題とは関係ないが、とにかく活字不足で活字が読みたい!というときについ手に取ってしまうような、改めて文章を読む楽しさを味わえた一冊でもあった。
第2部が載っている文學界の10月号、買っておけばよかった〜( ; ; )
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ルポルタージュ的にエピソードをつなぎ合わせ、時代をあぶり出す意図か。下手な伏線の回収など期待するほうが愚昧。
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グリコ森永事件、角福戦争、横井庄一さんの帰国、五つ子誕生・・・。今となっては歴史上のできごとのように遠い昔になってしまったようにも思えるが、虚構を交えながら細部を書き込んだこの本を読んで、当時の大騒ぎの様子や世間の雰囲気がくっきりと思い返された。さすがに唖然としたのは、国、大阪府、財界で費用負担や責任の所在などを醜く押しつけ合った末に何とか開催したものの、実際には外国人来場者がほとんどなかったという大阪万博のこと。「人類の進歩と調和」を表向きの理念としたが、誘致の動機は単に経済効果(大阪府の金儲けの手段)だけだったという。歴史は繰り返される。愚かに。