紙の本
基層信仰論を批判
2020/07/24 17:29
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:K2 - この投稿者のレビュー一覧を見る
中世前期を中心に、山の宗教の変遷を解説した意欲作。院政期が画期になるとのこと。山頂よりも裾野の重要性を強調する。冒頭と末尾で「基層信仰論」を批判的に取り上げている。著者の主張は理解できるが、本書の核心部分の叙述との関連は今ひとつ明確ではない。
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<目次>
序章
第1章 山の宗教の原像
第2章 山の宗教の変質
第3章 山の宗教と中世王権
第4章 山の宗教の裾野のひろがり
第5章 山の宗教の変質と近代化
終章
<内容>
最初の部分は原初的な山の信仰から始まり、仏教と絡みながら、修験道が展開していった辺りはわかった。その後、熊野詣と院政は何とかついて行けたが、里山論議から他の村落(荘園)と争論になったあたりから、ついていけなくなった。かろうじて、最後の近代のスポーツ登山との関係は掴めたが…。ちょっと失敗だった。
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菊地大樹『日本人と山の宗教』読了。
最近出た講談社現代新書。
「山の宗教」がそれ単体で生じたのではなく仏教の色濃い影響下で「里山」の宗教として成立した過程を描く。中央権力との関わりも一方的な支配ではなく、地方の諍いが中央に波及するという視点も。
羽黒の山伏修行を思い出しつつ読んでたら無性に山に登りたくなった。
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自分がたまに楽しんでいる低山の山道を歩きながら、同行の仲間と、どうしてこの道が出来たのだろう?誰が作ったんだろう?という会話をなんとなくしています。ケモノ道だったところに修験道の行者が通ったり、山窩の人たちが通ったり、林業のために整備されたり、みたいなことかな、と想像して、いつもはそれで終わり。でもたまたま手にした本書によって、日本人にとって山というものの歴史をダイナミックに感じることが出来ました。それは、山頂というゴールについての物語ではなく、山と麓の間の中間部をめぐる歴史なのでした。そこに、神道と仏教、都と地方、天皇と上皇という日本という国の成り立ちのための要素がなだれ込んでいるのです。題名からは予想出来なかった、知的な興奮を覚えました。序章で著者は『古代における大陸からの宗教的影響、分権的な中世社会が統一権力の形成へ向かう過程、そして近世幕藩制社会の成立から宗教社会の近代化といった、日本列島全体を覆う大きな社会的変動とのかかわりを踏まえながら、山の宗教の輪郭を描くことを目指したい。』と宣言していますが、なんかその壮大な意気込みに巻き込まれました。本書の狙いの「山と人の宗教誌」は現在の登山ブームへの視点も与える現在進行形の日本人の心性の物語なのでもあります。一方、終章で、『「山と人の宗教誌」は、まもなく語ることさえ不可能な段階に突入しつつある。』と危機感も表明しています。次に山歩く時の目の配り方が変わりそうな読書でした。
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山岳信仰というと、つい山頂の信仰であるように感じてしまうけれども、江戸時代までに行き渡っていたものはいわゆる里山を中心とした信仰なのですね。まさに羽黒山はそうした山ですね。
三輪山も山頂が御神体ではなく、山裾のあたりだと聞いたのを思い出します。寒河江の慈恩寺がなぜすごいのかも解説してありました。一切経というものが山形に、あの時代にあるということがすごいのですなー。行っとけばよかった。
月山が魂の帰る場所というところから、生まれ変わりという信仰に繋がる話も納得。
単に、山中異界としてこの世のものではないものを見るのではなく、地続きの里山として山を抱擁して考えてゆく必要がある。
コロナが終わったら山に登りたい。
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ずっと気になってる修験のこと。
この本では歴史的な概略が一望できる。
その初期から中央と結びついていたこと、
信徒をガイドする特権、
地元との関係、
南北朝の頃はすっかり武士のようだったこと、
権力とかなり近い関係があったこと、
などなど。
だけど実のところその始まりから「それツァムやん」としか思えないんやけどね。
御嶽山に登ったとき、「講」の御一行も来ていた。白装束で六根清浄とか言いながら登るってなんか映画みたいじゃの〜と思いながら眺めてたのを覚えてる。
う〜ん。行場の山めぐりしてみたくなるやん。
#読書メモ #日本人と山の宗教 #菊池大樹 #修験