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私小説とあるけれど、作者の本についてのエトセトラ。
本の博学ぶりに驚愕。中野のお父さんシリーズも納得です。
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好きな日本語の使い手がいます。一人は芥川龍之介、そしてもう一人、北村薫です。
この私小説の作者の使う日本語の巧みさにいつも憧れます。このように語ることができるならどんなに素敵なことだろうと思います。
素敵なフレーズがページの中に次々に登場します。そのフレーズは巧みにつながり、広がっていきます。どこかで機会があったら使ってみたくてたまらない言葉です。
どのページにも、その言葉だけを切り抜きたいような表現があります。読み終わって無作為に開いたページには「他者の作品によって自己を語るのが評論家だ」の語句がありました。その通りです。しかし、半可通の私がこれを借りたら、うさん臭く聞こえるかもしれません。この私小説の中にあっては、すべての語句がそこにあるのがふさわしく、説得力をもって響いてきます。
「仮に時を経て通じることがなくなっても、人々はある瞬間に、そういうしかなくて言葉を口にする」という語句もふわりと開いたページの中に見つかります。引用なら「フレーズ」の中に打ち込むのがルールだと解っていますが、どのページにも「フレーズ」があることを書き留めておきたくて、2ページだけ、こちらに記したところです。
この度も極上のミステリーを読み終えた気分です。
読み終えるまで2年かかっているのは、発刊後すぐ購入し読み始めたのですが、読み終えるのがもったいなくなるいつもの気分にかられ、三分の二を読んだところで中断したためです。読んでいる途中の思いを熟成して、今、読み終えました。
次の作品はいつ読めるのでしょう。そればかりを思います。
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目次
・よむ
・つき
・ゆめ
・ゆき
・ことば
・はな
かなわんなーと思う。
もちろん作家相手に本のことでかなうわけはないのだが、中学生の頃、学校帰りに芥川の文庫本を読み、その巧さに感心したってところを読んで、かなわんなーと思う。
中学生が芥川を読んで、その面白さに感心するのは、ままあると思う。
が、その巧さに感心って…。
巧さに感心するのは、既に創作者の視点を持っているから。
それに引き換え、私はいつまでたっても読者の視点からしか本を読めない。
でも、それもまた楽しいから、いいか。
本を読み、何か気になる部分があるとする。
調べる時もあれば、気にかけて終わることもある。
そういう部分が、いつか何かのきっかけで、つるつると解けていくことがある。
または疑問が疑問を呼び、謎を解く手がかりを探るうちに巨大化する謎。
もはや私には何が何やらだけど、謎に向かっていくわくわく感はわかる。
この本は、本にまつわるあれこれを書いてあるけれど、決して読書エッセイなんかではない。
私小説と言う態になっている。
巧いよなー。
”それぞれの位置から向かい、それぞれの収穫をする。
それこそが、読むことの面白さだ。”
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上には上がいるものだなぁ
円紫さんとわたしシリーズで北村薫さんの小説に出会い、その博識に驚きつつ、読んでいるとまるで自分まで賢くなったような気分になったものだ。
北村薫さんの知識量は凄い、彼以上に本に関する知識が深い人なんているとは思ってもみなかったけれど。
そんな北村さんも驚くほど、北村さんの疑問に打てば響くようにすっと答えを差し出す新潮社の編集者や編集長。
なるほど出版の世界はこんなに奥深いのか、上には上がいるものだ。
出会った言葉に持つ疑問。
そこからそれを解く楽しい旅が始まる。
私にとって馴染みのない作家の記述部分は正直、???で読み流す感じになってしまったけれど、それでも楽しく読めた。
驚いたのは、『松島や、ああ松島や松島や』の有名な俳句は実は芭蕉が詠んだものではないということ。
昔は芭蕉の作として習った?ような気がするが、実はそうではなかったと。
売らんがために『盛る』ことは江戸時代からあったんだなぁ。人の考えや思いって、今も昔も変わらないものなのか。
あと、昔の人の教養の深さにも驚いた。
高校生で、ラテン語でノートの題を書いたり、それを一瞥して誤りを正せる先生が、今いるだろうか。
学ぶ楽しさ、面白さ、というものが時代が進むにつれ、隅っこに追いやられ、いまの私たちは低俗化しているんじゃないかって思ってしまった。
読みながら、神保町へ行き古本屋巡りをしたくなった。
北村薫さんの他のエッセイも読みたくなった。