紙の本
ケアの定義
2022/11/15 16:32
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投稿者:いほ - この投稿者のレビュー一覧を見る
内容の重要さは、他のレビュアのおっしゃる通りです。きわめて重要であること、いっさい異存ありません。
強調したいのは、(これまで岡野八代さんの著作に引用のかたちでとりあげられたことはあったのですが)B.フィッシャー・J.トロントの最広義のケアの定義が、はじめてはっきりとトロント自己引用岡野訳出というかたちで(十分こなれた訳で)紹介されていることです。今後これが定訳となるでしょう。
ジョアン・トロント,岡野八代訳「ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ, 白澤社, 2020」p.24 [Fisher and Tronto 1990: 40]の再録「もっとも一般的な意味において、ケアは人類的な活動 a species activity であり、私たちがこの世界で、できるかぎり善く生きうるために、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる。世界とは、わたしたちの身体、わたしたち自身、そして環境のことであり、生命を維持するための複雑な網の目へと、わたしたちが編みこもうとする、あらゆるものを含んでいる」
本の体裁はソフトカバーで一見「軽い読み物」的なルックスですが、各方面で必携文献になるとおもいます。
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以下引用
もっとも一般的な意味においてケアは人類学的な営み、それを市場に任せてしまっている
ケア提供者は比較的権力がある立場にいます。子どもたちにとって保護や食事を与えられるのは、彼女たちのケア提供者のおかげであり、その権力をふるってしまうこともできる
人類史のほとんどを通じて、ケア実践は社会的地位の低い人びとに結び付けられてきました。合衆国でこどもを世話する労働者は、最も低賃金で働く労働者のなかにはいります。最もその価値を認められてこなかった人たち
権力者であるとは、ケアをめぐる嫌な部分を他者に押し付け、自分にとって価値があると考えるケアの義務だけを引き受けること
ケアは患者の命を助けたり、学生が目を見開く瞬間に立ち会ったり、愛する人から感謝の愛撫を受け取ったりするといった幸せなときばかりにみちたものではありません。
★わたしたち自身が仲間である市民たちから受け取ったケアにお返しをし、かつ、わたしたちが他の市民たちに与えたケアを彼女たちもまたお返ししてくれるであろうということを、信じられることが必要
民主主義の定義:ケア責任の配分に関わるものであり、あらゆるひとが、できるかぎり完全に、こうしたケアの配分に参加できるこをを保証する
自由市場が自由で民主的な市民を生むということが前提になっている。ケアの観点からは大きな欠陥
ケアは、世帯、市場、政府の3つに依存-ケアを受け取れるかどうかはお金を持っているかに左右される
市場第一のケアは新自由主義的。共にケアするという意識を失わせる
市場第一市民
市場の見地からは誰にでも平等に開かれている
市場は専門職に就いている市民のために設計されている。より多くの経済的資源を持つものは、こうしたケアをより多く買うことが出来る
すべてのひとにとってよく生きるための鍵は、ケアに満ちた生活を送ることです。必要な時に人は他者から良くケアされあるいは自分自身でケアできる生活
★わたしたちの社会が何に価値を置いているのかを明らかにし、他方で、社会的な評価を与えないどころか、時にその価値を貶めながらも、誰かが担わないといけないとされる活動が存在し、そして実際にその活動を担っているひとがいることに気づかされるのである
ケア労働は、社会の中心に据えられている生産、経済活動や政治と切り離せない、権力と財の不平等
ケアを中心に不平等や格差が構築されていることを見えなくしてしまう。
既存の政治、既存の社会が、特権的に、ケア活動に関sンがなく担わなくてもよ
★わたしたちの社会は、特権的な無責任さによって維持されている、もっといえばその無責任さの「つけ」を、ケア活動が担わされる人々が支払わされている
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本書では、ケアを切り口に世の中の不平等を提示し、新たな民主主義の形を提案している。
ケア活動は誰にとっても必要(一人で生きていける人はいない)だが、現在はその責任を社会的弱者に押し付けているようにみえる。
行き過ぎた資本主義の結果、ケアを受け取れるかどうかはお金をもってるかどうかに左右される。民主主義は皆に平等であることを求めているにも関わらず。
富を求めて競争するより、信頼に基づきケアの責任を引き受けて助け合う方が幸福度があがるのではないかという著者の提案は同意できるものであるが、
現実的にどのように実行していくかまでは記載がない(解決が難しい社会問題であるので当然ではあるが、、、)
私自身もアイデアがあるわけではないが、本書はそれを考えるきっかけになりうるように感じた。
不平等なケアを平等にしていく方法、一例をあげるとイクメンの表彰 (女性がケアすることが当然という前提があるが故に、男性が子育てを行うことが特別視されている不平等な世の中を皮肉にも表している)がないような社会を少しづつ創っていくべきだと感じた。
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ケアの倫理、ケアの定義、ケアは日常生活のやりとりすべてで政治的なもの。ケアに関心を向けケアを共にすることで連帯できる。民主主義 市民が自らの決定を監視し、再評価するプロセスを何度も繰り返すことにより 市民ができるようになれ!日本はまだまだですね!
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ケア労働者の視点から、ジェンダー平等を考え、ケアに満ちた社会を目指す政治理論入門書となっている。
第3章に「フォルブルの寓話-競走とケア」では、
A国は、走れるものは、全力で走れ
B国は、性的分業
C国は、共にケアする/ケアと共に
A国は、極端な格差拡大となり、脱落者が続出し、競技に負けることを確信する。B国は女性蔑視が深刻化し、女性たちは男性たちの態度にあきれ、ストライキに入り、競技を続けられなくなる。C国は、みんながケアを負担することで得られる自由と平等は、構成員の間に連帯感も作り出した。
こうして、競技の勝利は、C国にもたらされるたのだった。
B国についての性差別は、「走る代償として女性を支配できる、といった動機が必要とされたのだった」。支配の理論こそ、世界で蔓延る女性蔑視、男尊女卑ではないか?ケアを通じて、全世界の人が、自由と平等を勝ち取るチャンスになるのではないか。
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保育士や介護士が身内に多いのですが、仕事の大変さや業務量と比較して給料が圧倒的に低いことをずっと疑問に思っていました。
人間として社会で生きることは本来すなわちケア活動である、そう言えるくらいの重要な活動が、どうしてこうも軽視され、私的なもの、家庭内のものとして周縁に追いやられ、ほぼ無視されているのか。その疑問に対する答えがこの本で説明されています。さらに、ポストコロナ時代をわたしたちはどう生きるべきかが明確に示されている。とても腑に落ちたし、こんな政治こそ支持したいと思いました。
「市場第一の民主主義から、ケア第一の民主主義へ」
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ケアの倫理とフェミニズムの理論から民主主義を再構成したトロントの考えを著者が翻訳し、現在の日本の状況、そしてコロナ禍で明らかになったケアの問題について整理した著作。今後のケア労働を考えていくのに大事な視点を学んだ。
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コロナ禍でエッセンシャルワーカーの重要性が見直されているらしいが、一方では「経済を止めるな」で、行きつ戻りつしながら私たちはどうにか日常を生きている。医療者ももちろんエッセンシャルワーカーであり、我々には患者に伝染してはいけないという厳しい職業倫理を求められる。
小児科医が日常的に取り扱っている「育児」という最も根本的なケアも、コロナはその困難さを炙り出しているように思う。本書は「ケアの倫理学」を推し進めたトロントの著作をもとに、政治や民主主義まで射程を広げている。
ケアの実践には、ケアの4つの局面(1.関心を向けること(caring about)、2.配慮すること(caring for) 3. ケアを提供すること(caregiving) 4. ケアを受け取ること(care-receiving))を意識することが重要である。そこに必然的に含まれる権力関係は、ケアが非常に政治的な行為であることを物語っている。
第2、3章の訳者の論からは、歴史的にいかに特権階級がケアを女性に押し付けてきたか(「特権的な無責任」)というフェミニズムの視点が前面に出過ぎている気はするが、本書の最も重要な主張は、「ケアの民主化をどう推し進めていくか」に尽きるだろう。
小児科医は、日常の外来で育児に関わり、入院する病児のケアにも深く関わる。逆境体験の子どもの心理ケア/トラウマインフォームドケアや、社会的養護を要する子どもへの社会的なケアにも積極的にコミットしていく必要がある。新しい時代の子育てのモデルを作っていくことは、ケアの民主化を推し進めていく一歩となると信じて、できることをやっていこう。
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ケアというと、何か特別なことと思いがちだ。医療や福祉の専門職の仕事も連想される。しかし、昨今話題となっているケアの定義は広い。それは、母親が子どもに向ける愛情であったり、町で見かけた高齢者への配慮であったり、職場の同僚への気遣いであったりする。“ケアはどこにでもある。わたしたちはみな、ケアを提供するものであるだけでなく、ケアを受け取る者でもある”。
しかしながら、ケアは多分に政治的であるとトロントは指摘する。日常生活においても、制度的なレベルにおいても。だからこそ、ケアは、社会的地位の低い者、特に女性に押し付けられてきた。
資本主義が高度に発達した現代にあって、経済的に恵まれた者は、より良いケアを買うことができる。一部の者が、他の者を利用していい存在と見なす社会は健全なのか。本質的に不平等さをはらむケア実践は、平等を謳う民主主義にあって、どう編成されるべきなのか。トロントの講演録をベースに、岡野さんが考察していく。とても示唆的である。
岡野さんは、歴史的にケア実践が公私二元論に貶められてきたと指摘する。つまり、ケアは私的な取るに足らない領域だという先入観を排除し、より公の領域として捉え直すべきという提言だ。政治はケアの領域を、国民個人に丸投げ、市場原理に任せ切りにしてはいないか、との問いである。それは大きな政府がケアをすべて引き受けろということではない。ケアの必要があることを認識し、支えるということである。
コロナ禍でケアの重要性が再認識されている。本書の刊行は、2020年秋。最後に岡野さんは、本書が出るころには、政治はケアの視点を踏まえ過去のコロナ対応を検証し、見直しをしているだろうかと書く。さて…。