紙の本
仏法での討論
2021/10/31 22:34
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
書名が中公新書の「徳一と最澄」を逆にした「最澄と徳一」なのは意識して書かれているのだろう。
徳一の側の主張が最澄による反論での引用や源信の引用などでしか伝わっていないので、実際には何を主張していたのかは、それ以上は分からないとしても、南都六宗の仏教の立場で論じる徳一と天台宗の立場で論じる最澄とでは反発し合うだけだっただろう。
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因明という論争のルール
2021/10/24 09:18
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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
最澄と徳一の論争から因明という当時の仏教界での論争ルールが紹介されている。問答している双方が承認していない概念を用いるのは無効な主張である(共許)、矛盾する2つの主張が同時に成立してしまう論は過失(相違決定)など興味深かった。古代インドで生まれた異宗教対話を前提とした対話方法(因明)がすでに日本に伝わり最澄と徳一に共有されていたことがすごいと感じた。
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新しい仏教の本
2022/01/02 22:53
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投稿者:あ - この投稿者のレビュー一覧を見る
最澄のことは知っていましたが、徳一のことは全く知りませんでした。興福寺の法相宗のことは知っていても、どのような宗派なのかもわかりませんでした。哲学的な仏教のようです。そのようなことが分かりやすくまとめられています。
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スマートにまとまった1冊
2021/11/29 11:35
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
著名なお坊さん・最澄とマイナーなお坊さん・と徳一。当書はこの2人による、仏教の解釈をめぐる論争をまとめた1冊です。
文章がスマートに書かれており、読みやすくまとまっているのが好印象です。紙幅も薄いので、気軽に読める1冊となっています。
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書かれている内容は難しい。使われている漢字すら難しい。仏教関連の固有名詞だからしょうがないけど。でも最澄と徳一の論争の背景はもとより、資料の量からして最澄側の分量が多くなってしまうとはいえ、お互いの論の組み立て方や思想を形作った事柄が整理されてわかりやすく記述されている。(と言っても中身がどこまで理解できたかは怪しい)
最澄と徳一の論争もさることながら第五章の最後から終章に書かれた筆者の「論争」そのものに対する捉え方や歴史の使用方法に対しての考え方、さらには本書で説明されている因明(読んでいて新鮮な考え方だと感じた)などの研究エリアに対する考え方など、本書そのものをめぐるメタな視点についての記述に知的好奇心を刺激された。
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日本天台宗の開祖である最澄と、東国での布教にたずさわっていた法相宗の徳一とのあいだで展開された「三一権実論争」について、ていねいな解説をおこなっている本です。
三一権実論争は、平安初期に天台法華教学にもとづく一仏乗の立場を打ち出した最澄と、三乗を墨守する奈良仏教最大勢力である法相宗との対決という見取り図で理解されてきました。しかし著者は、こうした見取り図は唯一のものではなく、さまざまなコンテクストからこの論争が生じた理由や論争そのものの展開を見ることが可能であると主張します。とりわけ本書では、論争がはじまる以前から、その下敷きになるような対立が、法相宗と三論宗とのあいだに存在していたことを指摘します。さらに論争の展開についても、因明論と呼ばれる論争のルールにかんする解説をおこない、そのルールを最澄と徳一の両者がどのようにつかって相手を批判していたのかということが解き明かされています。
著者のアプローチは、基本的には歴史学的なものであり、仏の慈悲のおよぶ範囲について、最澄と徳一それぞれの主張がどのような思想的な意義をもっていたのかという興味にこたえてくれる本ではないように思います。しかし、教説の正統性に依拠したり因明論にもとづいておたがいの主張の正否を明らかにするという論争のありかたが、当時においてどのような思想的意味をもっていたのかということや、あるいはそれが現代においても課題となっている宗教観の対話にどのような示唆をもたらすのかということについても触れられており、そうした意味でもこの論争を解釈する見取り図がひとつではないことを教えられたように感じています。
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徳一の名前を知ったのは、学生時代に読んだ司馬遼太郎の『街道をゆく』だった。確か、徳一との苛烈なやり取りが最澄の命を削ったというようなことが書かれていたように思う(うろ覚えなので、ちがったら失礼)。以来、徳一は異様な僧侶として私の脳裏に記憶された。
本書はその徳一と最澄の論争を扱った書籍である。タイトルをみて、「おおっ」と思い、即購入した。一読、新書ながら、かなり骨太な書である。出てくる仏教用語はもちろん、書物の漢字がまた読書を困難なものとする。しかし、学問として熱い!
これを読むと、原始仏教や唐代の仏教、そして浄土宗ら鎌倉新仏教が出来るまでの南都六宗や天台宗などの日本仏教のおおまかな思想の流れがつかめる。そして、最澄の考えもトレースできる。
一切衆生悉有仏性。全ての人がブッタになれるというのは、現在の日本の主だった仏教の共通理解である。しかし、最澄と徳一が生きた時代はそうではなかった。彼らはこの命題の正誤を巡り、激しく論争を繰り返す。因明という仏教論理学は初めて知った。こんな現代のディベートのようなことをして思想を高めていたとは。教相判釈という仏教特有のあり方もまた興味深い。
本書の終わりに、筆者は「実用的な過去」と「歴史学的な過去」という歴史の語りのあり方を述べる。歴史学を学んだ者としてとても共感する。
おそらく、私は本書の内容の半分も理解はできていない。しかし、地獄に落ちる覚悟をして論争に臨んだ徳一。仏教の大きな流れの中で大局的中視点に立って論争に臨んだ最澄。どちらもカッコいいと、それだけは思う。