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投稿者:イシカミハサミ - この投稿者のレビュー一覧を見る
表題作「変半身」と「満潮」を収録。
表題作は舞台の演出家(?)との共作のような作品らしく、
なんとなく規模感の大きい話にしようとしたような痕跡があって、
いつもと違うような雰囲気。
満潮の方が読みやすかった。
性別はオスとメス、オトコとオンナでセットのもの。
もちろん付随する行為も自然とそうなる。
現代は性をとてもプライベートなものとして扱うけれど、
誰かと共有することが前提のもの。
そのあたりに矛盾があるんだなあ、と思う。
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投稿者:ヤマキヨ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「コンビニ人間」ではコンビニ店員という器(着ぐるみ)に入ることで、仮のアイデンティーを手に入れて社会との設定んを持っていました。本作では、自分という器はあるけれど、教えられればその都度心情や世界観はリセット。リセットされた自分の同一性って?
器も変われば、中身も変わり、背景である世界だってどこまで恒常的したものなのか。そもそも自分が見ているものって本当に存在しているのか。逆に見えていないものを信じていいのか。なんか足元がふわふわぐらぐらしてくる読後感です。
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どうしたのだ、わたしは。
村田沙耶香さんの性の話ほどワクワクと共感に溢れた作品なんてない、と思っていたのに…
作品の内容に触れる前に、この作品の背景の説明が必要だ。
冒頭で、こう説明がある。
「本作は、村田紗耶香と松井周が三年におよぶ取材・創作合宿を経て、共同で原案を創り、それぞれ小説と舞台として発表するプロジェクト=inseparableのために書き下ろされ」た作品だそうだ。
解説では、「演劇版と共有するのは千久世島という場といくつかの設定だけで、ストーリーはまるで異なっている」とのこと。そして「どの村田作品にもまして演劇的な趣が強いのは、この創作プロセスとも無縁ではないだろう」。
演劇的な趣。
なるほど。いつも奇抜だけれどその世界観にするっと入り込める村田作品と比べて、今回はなかなか入り込めなかったのはそのせいなのか。
本作品を読んでいる間じゅうずっと、この作品を読んでいる自分を、もう一人の自分が見つめているような、そんな感覚が抜けなかった。
「変半身」と書いて、「かわりみ」と読む。
なぜこの字を当てたのか、作品を読み終えると納得する。
しかし、展開的に、タイトル的に、掘り下げるのが「変半身」であってほしかったのだ。
「変半身」は結局手段だったように感じてしまって、すごくもったいないような、そんな気がしてしまっている。もっともっと、クローズドサークルと性とアイデンティティ、みたいなところにぐいぐい持って行ってほしかった。これは、欲張りなんだろうか。でも、これまで彼女の作品を読み進めてきたファンとしては、やはりちょっと、期待しすぎてしまう。
「変半身」のラスト、展開のついていけなさに加え、ほぼ「ポーポー」のみで占拠されたページにぎょっとしたし、「満潮」では「潮を吹けない」ことに対するコンプレックスや、「潮を吹く」ことに対する蔑視がわたし自身に特になく、寧ろ「潮を吹ける」っていいな、でも掃除大変だし別に吹けなくても…という、特に大きな感情の変化は訪れることはなく…
両作品に共通するもの。それは、「中身」の重要性だと思う。島が「島」であることに囚われ、島民がその外面に振り回される姿、膣の中身という見えない場所に秘められたもの。いずれも、「見えない」からこそ外面で体裁を保とうとする。両作品は、その「見えない何か」に一生懸命向き合い、探っている。自分だけのそれ、というものを見つけたい、名付けたい、という気持ちの強さが伝わってくる作品だった。そう考えると、これまでの村田作品よりもまた一段階深みを増している、と言えるのだろう。
しかしなんというか、今回はいつにもましてぶっ飛んでいて、途中で置いてけぼりにされてしまったような、そんな感覚が消えないのである。
そして、本作品以外にも最近、村田さんの作品がどんどん文庫化されていて嬉しい。
先日仕事帰りに、どうしてもほしい本があって大きな本屋さんをぷらぷらして、その時に村田さんの最新エッセイ「私が食べた本」を見つけた。目次に金原さんの「星に落ちる」を見つけて、大好きな作家さんが大好きな作家さんの本を推している!この悦び��!
次は「星に落ちる」を読もう。
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狂気そのもの。読んでいて圧倒されたしおいて行かれた。
訳が分からなかったが、それであってこその村田さんの作品なので、今回も楽しく読めた。前半の「ポーポー」という単語だけが書かれたページはさすがに気持ち悪くて笑いながら読んだ。結末が全く予想できなかったが、逆に予想できた人はいるのだろうか。モドリやポーポー様が偽りだったのではなく、「世界」事態が偽物だった。今こうやって話している言語も立っている場所もすべて偽り。書いていてよくわからなくなってきた。モドリで高木君が卵を産んでいるシーンは最高に気持ちが悪くて想像するだけで嫌になった。
「満潮」はモドリの話よりさらに訳が分からなかった。旦那はなぜ潮を吹くことにこだわっているのか、主人公の友人はなぜそこまで旦那を拒絶し、非難するのか。そしてなぜ主人公は一緒になって潮を吹こうをしたのか。すべてが謎で一つも理解できぬまま終わってしまった。もう一度挑戦したい。
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大好きな村田沙耶香ワールド
彼女の小説は純文学なんだろうか
どちらかというと近未来SFみがあって面白い
彼女が追求する性はどこに向かうんだろう
一般的ではなく、かといって全拒否型でもなく、恐れと興味が入り混じっている
いつも、こんな方向に話が向かうのかと驚く
短編二編のうち、「満潮」は変わらず奇妙な話だけれど、ある意味理想の夫婦の形なのかもしれない
お互いを理解し、許容し合い、同じ方向を向いて歩いていく
奇妙だけど理想形
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村田沙耶香ワールド全開。何だこりゃ?というのが正直な感想。常人の発想ではない気がしてならないが、それが彼女らしさなのであろう。好き嫌いが分かれると思う。
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変半身と満潮の2本立て.
変半身:奇祭って元は悪ふざけじゃねって,妄想していたことを思い出した.どんな変な話でも,ウソと切り捨てることはできない,「オッカムの剃刀」教の信徒じゃなきゃね.結局,何かを信じるしかないのだけれども,おかしいと感じたらいつでもその信仰を棄てられるかかな.まあ,これも信仰なんだけど.
満潮:うーん,潮か.佳代さん友人の雪子さんが,あんなに潮に嫌悪を感じているのが謎だった.女の人にとっては嫌なことなのかな-.
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■変半身(かわりみ) 原案=松井周・村田沙耶香
演劇も巻き込んだプロジェクトについては対談がネットにいくつかアップされているが、やはり周囲の影響ありとはいえ、村田沙耶香自身の作品だと思う。
というのも、性や出産への違和を離れた「コンビニ人間」以後の作品に、案外素直に連なる内容だからだ。
あるいは「タダイマトビラ」からの直接の流れでもある。
島という舞台が大事で、今後も島を描くかもと村田沙耶香がインタビューで言っていたが、そもそも本作以前でも団地は島のような限定的な舞台だった、だから島を発見したというよりは、今まで描いていた舞台を島に置き換えればなおよしと気づいた、という程度にすぎないだろう。
で、内容について言うと、やや図式的すぎるかな、と思うが、今まであまりなかった大人数入り乱れてのカーニバル的なシーンは、新鮮。
「真実「っぽいもの」を飲み込め! 世界中の詐欺師に騙されろ!」
という叫びも含め、テンション高いな~と笑ってしまった。
確かに成立の経緯もあって、やや異色、というか傍流をマンネリズムで誤魔化したという印象を持ってしまう可能性も無きにしも非ずなのだが、そもそも村田沙耶香は暗中の手探り、書くこと=考えることが作家性なのだから、こういう一作があってもいいじゃない。
■満潮
「星が吸う水」「ハコブネ」+近作多い「やさしい夫もの」「気遣いあう夫婦もの」。
「僕の潮は僕のものだ」という名言が生まれたと思いきや、それを塗り替えるように「私も噴くことにしたから」と。
このセンスよ。
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風刺が得意ではないのだけれど、これは気持ちよく読めた。架空の島に住んでいる3人から見える“ニンゲン”の滑稽さやそれに迎合している人々と俯瞰で見ている人。みんな今のこの国
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解説にあった、「手垢にまみれていない言葉で、小説にしか辿り着くことのできない場所に手探りで触れようとする」という文章に、昔からの村田沙耶香さんの性を扱った作品のイメージが少し開けた気がしました。
性を扱ってはいるが、人間の持つ身体的かつ、精神的な神秘性を問いかける内容は、小説だけが持つ言葉の力や、その表現の模索の末にある希望なのかもしれませんね。
ちなみに、ここまで書いてきたことは、「満潮」についてです。
そして、もう一つの表題作「変半身(かわりみ)」ですが・・・「しろいろの街の、その骨の体温の」や「消滅世界」、「地球星人」とは、手触り感が全く異なるし、いろんな意味で驚きました。
まず思ったのは、人物設定が全て薄っぺらなことで、陸や花蓮、高城など名前があるが、女性A、女性B、男性Cでもいいんじゃないかと思えるくらい、印象に残らない。
薄っぺらなのは舞台設定も同様で、果てには物語の内容までがそう感じられて、疑問符ばかりが頭に浮かび上がったのですが、一応、読み終わった後で、舞台公演を模した、馬鹿にしてしまいそうな非現実感だけど、現実的になるかもしれない怖さを醸し出している狙いも感じたが、これは問題提起をしただけの作品だと、失礼な書き方かもしれませんが、私にはそう感じられました。
何かを拠り所にしないと生きられない人間への、痛烈な皮肉を表している点に関しての異存は全くないのですが、それとは別に、人間はそこまで愚かではないし、人間なめんじゃないぞという、内から沸沸と湧き起こるのを抑えられない衝動的な思いもありました。
ごめんなさいね、育ちが悪いもので。
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変半身(かわりみ)
p.71
"「お帰りがちゃ」"
この辺からん?って思い始めた。
このお話、舞台もあったらしいんだけど狂気過ぎる。ずっとみんなでポーポー言ってたのかと思うとゾッとする。
満潮
いつか二人で一緒に吹けたらいいね♪とか言ってて怖い。
でもどっちのお話も全員真剣だから馬鹿にできない。
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故郷の島の秘祭、大人になるという裏切りと喪失、相変わらずの悪趣味な極端さ、暮らしすらブランディングの道具にしたり。
そしてまーたスクラップ&ビルド!
ぜーんぶ投げ出したような開放感。
変化の母は飽きだよなって思うけども、はー、その肩の荷、捨ててもいいんや...。
「満潮」の方は別に痛みのどこかに共感した訳でもなく感動を誘うような話でもなかったんやけどなぜか不意に泣きそうになったり。なんでや。
胸がぎゅううとなった。
どっちの話でもそうやけど夫婦の形がなんか共犯めいてて良いんだよな...。
取り繕わなくてもいいし、取り繕うことを手伝ってくれる存在。
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実ははじめての村田沙耶香作品。
にしてはかなり刺激が強かった。
人は何かを信じていたくて、それが真実かどうか正しいかどうかなんてどうでもいいんだろうな。
狂気さにハマる感じがあるの分からなくない。
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人間は常識に洗脳されている。だから生きづらい。
生きづらいなら自分がポーポーだったことを思い出せばいいんだ。
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ついに表紙まで~笑
となった何冊目かの村田沙耶香先生の本。
今回も村田沙耶香先生じゃないと書くことのできない世界でしょうね(^-^)
狂気さは中身より表紙のが狂気を感じました。
でも、内容と合ってますね。
良いです(^-^)