投稿元:
レビューを見る
「動ポ」の頃の東さんのような文体と、まるで大学で講義を受けているかのような懇切丁寧な脚注。
文系軽視の日本社会を「人文学への信頼の失墜」と自己批判しつつ、著作によって回復させようとする試み。
当時は近しい考えを述べていた、と吐露しつつ徹底されている落合・成田(というか、人工知能民主主義への)批判。
ルソー人物伝から繰り出される社会契約論の再解釈。
常に誤り、訂正するのが民主主義であり、ひいては生きていくということであり、理解するのではなく変化させていくのが哲学の役割という明瞭な論旨。
なんの事前情報もなく、ふと東さんの最近の仕事を一気に読みたいと思って手に取ったのですが、コロナ禍以降の取り組みの集大成で、大変労作でした。
投稿元:
レビューを見る
人間への諦念を前提とした内容ながらも、これをポジティブ、いやニュートラルに捉えられる読後感だった。人間とは、決して合理的で強い存在ではなく、情念に振り回され他者を傷つける弱い存在である。これを、だからといって単純に人間を排除する思想に走るのではなく、それでも過ちを訂正し続けていくからこそ持続可能であると結論付けている。それは、悲観主義ではなく、かといって理想主義でもない、とてもプラグマティックな考え方に思えた。
カール・ポパーが提唱したように、一見すると絶対的だと思われる科学でさえも、その正しさは常に暫定的なものでしかなく、それは反証可能性に開かれている。同様に、正しさの基準も時代や文化によって驚くほど変わる。発話は他者によって誤読され、訂正され、再解釈されていく。人間のコミュニケーションとは、所詮そのようなものでしかない。このような前提に立てば、データや AI に意思決定を委ねる「人工知能民主主義」も、科学やテクノロジーという一側面に依存しているに過ぎない。そのような似非的な「一般意志」には、統計学的な代表性しか現れず、固有名や個々の意志は排斥されてしまう。そこには主体性は宿らず、人間性の退化を招くことになってしまう。人間は不完全な存在であり、不完全にしか物事に関わることはできないが、だからこそ、常に過ちを発見し、正していく「訂正可能性」を持つことができる。そして、不完全な存在だからこそ、正しさを探求し続ける自由が保証される。本書を読んで、プラグマティズムへの関心がより強まった。
投稿元:
レビューを見る
観光客の哲学の続編として、同書で序説に留まっていた家族の哲学を、ヴィトケンシュタインとクリプキを参照した言語ゲームをもとに訂正可能性の哲学として発展させ回収している。
後半はシンギュラリティ肯定論への反証論理の提出という形で、上記の訂正可能性の概念を活用しながら、著者の過去の著書たる一般意志2.0をアップデートする内容で、これからのあるべき民主主義についての示唆を提示して結論とする流れになっている。
様々な思想家の論理構造(あるいは再解釈された論理構造)の間の鏡像性を手がかりに議論を発展させる批評的理論構築が、丁寧な整理のもとで示される。当たり前だが、完全に固有の新しい民主主義のあり方が結論として提示されるわけではないし、結論だけ取れば「〜ではない」といった、受容されている世界の見方の否定にすぎないか、あるいは個別に見れば自ずと明らかな示唆(リバタリアニズムの肯定的受容や取組の持続可能性の重視、正しさを訴求的に訂正する態度といったもの)といえる。本書の意義はそれを読者に腹落ちさせる著者の論旨の組み立て方であると感じられ、その狙いは特筆すべき水準で達成されている。
投稿元:
レビューを見る
『訂正可能性の哲学』を読んでいるあいだずっと感じてたのは「とてもエヴァっぽい」ということだった。「AI民主主義」に対する否は、要するに「人類補完計画」を拒否するということにあたる。LCLの海に溶けてATフィールドを失うということは、つまりは固有名を失うことだ。だからこそ『Q』においてシンジがシンジとして救出されることが必要だったんだといまわかった…。要するに、訂正可能である固有名としての「人間」にしか、世界を訂正することもまたできない、ってことなんだろう。
投稿元:
レビューを見る
この本は、これからも何度も読み返すことになる。考え続けることの意味を、こんなにも優しく分かりやすく語りかけるような本を書いてくれたことに感謝する。人間とは、迷って間違ってどうしようもなく、だからこそ愛おしいんだ。
それから、理系の夫と文系の私で、「自然」という言葉の定義が違うのだろうな、という事に気が付かされた。違うところから出発して、議論を深められたらよい。
投稿元:
レビューを見る
p169 ルソー 社会契約論
一般意志 社会全体の意志
特殊意志 個人の意志
全体意志 特殊意志の集まり
p170 統治者が一人なら、君主制。少数なら貴族制、多数なら民主制
p187 ルソーは一般意志には公共性が宿ると記した。だからこそ一般意志は全体意志と区別される
p215 特殊意志は実在する。全体意志も実在する。しかし一般意志は実在しない。それは社会が生まれたあと、訂正によって遡及的に発見されるものに過ぎない
p224 特殊意志は実在する。全体意志も実在する。しかし一般意志はそのように単純に実在するとはいえない。なぜならばうしろに訂正可能性の論理が隠されているからだ。人口知能民主主義はそんな訂正可能性を消してしまうので危険なのだ、というのが本論の言いたいことである
p231 ビックデータ分析は、個人を対象とした予測はできず、群れを対象とした予測した提供することができない
それは裏返せば、ビックデータ分析は、本性上、例外を常に群れの一部としてとりこみ、その例外性を消去してしまうことを意味している
p249 監視資本主義においては、プラットフォームの利用者は商品の売り手ではない。むろん買い手でもでも作りてでもない。流通する商品を作り出すための物、つまり素材に過ぎない
p326 ぼくたち人間は。絶対的で超越的で普遍的な理念を、相対的で経験的で特殊的な事例による訂正なしには維持できない、そのようなかたちの知性しかもっていない。政治の構想もまたその限界に制約される
だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない。それが本論の主張であり、本当は一般意志2.0でも伝えたいことだった。
投稿元:
レビューを見る
観光客と家族との繋がりがいまいちよく分からない。観光客の章がない方がスッキリ読める
なぜ観光客という概念を強引に入れているのだろう?そこにこそ著書のこだわりがあるのではと思います。
投稿元:
レビューを見る
『観光客の哲学』の続編である本書は前書の主張を引き継ぎつつ新たに”訂正可能性”という概念にポジティブな可能性、それは究極のところ、民主主義社会における新たな可能性を見出す。
本書の主張は、末尾に収められた以下のようなテクストで要約される。
”だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない”(本書p326より引用)
”ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ”(本書p343より引用)
前著の『観光客の哲学』では「敵か味方か」という二元論を超える存在として”観光”という行為にスポットライトがあたっていたが、その二元論には「◯◯は正しい」という価値判断があり、その価値判断に合致したものが味方とみなされる。昨今の社会分断を見れば明らかなように、現代社会はこの”正しさ”をひたすらに追求してきているように思う。
しかしながら、我々は常に正しい判断を下せるわけではない。むしろ自らの”誤り”に気づき、その意見を変えていくことこそが重要であり、”誤り”、ひいては”訂正可能性”をポジティブなものとして受け入れるべき、という著者の主張は、極めてアクチュアルな意見提起であると私は強く感じた。
投稿元:
レビューを見る
正しさとは正しさを求め、訂正し続ける姿勢にしかあり得ない。結論にはとても勇気づけられた。政治に限らず、生き方や行動のあり方として、非常に納得のいく考えだった。
アカデミックなところもなくはないが、哲学書としては非常に読みやすく、かつ内容が充実していて読み応えがあった。
投稿元:
レビューを見る
素晴らしかった。第一部はリベラルなソーシャルセクター界隈で「家族」を語ることの難しさがどこにあるのか、それをどう乗り越える対話を考えていけば良いのかヒントを得たし、第二部では多面的で一貫性のない私たちという前提を受け止めた上で民主主義というものをどのように考えうるかルソーの「一般意志」の新解釈を語る構成と筆致が見事。分断的でポピュリズム的な政治や見てるだけで傷つき疲れるネットにもう一度向き合う気持ちも湧いてくるし、仕事や活動として触れている各地の自治につながると信じる実践に活かしたい学びも多かった。続けて『訂正する力』も読みたい。
投稿元:
レビューを見る
1055. 2023.09.10
・前半は家族論、後半は民主主義論。
・前半は遠回りな議論で「家族」概念は必ずしも閉じているとは言えないという程度の話。後半は「データ民主主義」を不十分で危険なものとして批判するが、藁人形論法に陥っている。
投稿元:
レビューを見る
著者がおわりで述べている哲学とは、過去の哲学に対する再解釈であるという姿勢が体現された著作だったなと。 過去の文献の丁寧な読み込みと再定義から発する「訂正可能性」の意義。人間に対する親しみを込めた諦観が、著者の人間愛を醸し出す。
ところで過去の作品から文体が変わったとのこと。ぜひ、『一般意志2.0』あたりから振り返りたいなと。もちろん今後の創作活動にも期待しておりますです。
投稿元:
レビューを見る
これは時宜に適った哲学書だ。
民主主義の行き過ぎ、純粋性を時間的継続性の枠組みからガッチリ捉え、訂正可能性を実装させる取り組みだ。
個人的にはローティの思想が広く取り上げられていることに深い印象を持った。
投稿元:
レビューを見る
東浩紀による観光の哲学のその後の哲学。訂正可能性の哲学とは乱暴に要約すればかのようにの哲学であり、動詞的に考える哲学でもあり、フランス現代思想の系譜にあるように思えるのだけれど、民間にいることもあり、アカデミズムな文脈では評価されていないという。ご本人はそんな評価は望んでいないのだろうけれど。一般意思とは事後的に振り返った時に成立しているという考え方はまさにヘーゲルの哲学に該当していて、あたかも意思があるかのように歴史が発展してきているけれど、それは事後的に意味を確定させたときにのみ成立する考え方でもある。
それにしても高度な哲学的議論をここまで平易に語ることのできる著者の才能には改めて感服。
投稿元:
レビューを見る
絶えず間違い、正しさを作り、また訂正する。それを繰り返す。「正しい」なんか無いんだという冷笑に陥らずに、かといって絶対的正しさに固執することも無く。
面白かった。別の著作も読みたい。