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メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1780163198882320425?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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センスが良く以前に、そもそもセンスとはどういったものを指すのかということから話が進んでいく。話の軸となるリズムとは、人固有の揺れ動きを表していて、人間であるがゆえのブレのようなものが滲み出るところにセンスが宿るのかなと思った。漠然としたセンスという印象の輪郭を浮かび上がらせてくれるような本だった。
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【あなたのセンスが良くなる本! 哲学三部作のラストを飾る一冊がついに誕生】センスとは何か、センスの良さを変えることはできるのか。絵画、小説、映画、美術など諸芸術を横断しながらその本質に迫る芸術入門!
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帯には「生活と芸術をつなぐ万人のための方法」とあり著者自身も芸術への入門書と位置づけているが、それ以上に射程の広い内容だった。「人間とは「認知が余っている」動物で、余っているからいろいろ見てみたくなるけれど、自分を制限しないと落ち着かない、というジレンマを生きている。」「文化資本の形成とは、多様なものに触れるときの不安を緩和し、不安を面白さに変換する回路をつくること」というのが本書のスタート地点であり、〈センス〉=ヘタウマを磨き、他者が規定する「理想的なモデル」から降りることがセンスの目覚めであるとしている。
〈センス〉とは、芸術をはじめ、ありとあらゆる事物の〈リズム〉(意味・解釈ではなく、ただそれ自体の感覚)を捉えることだ。リズムとは、存在/不在の明滅であり、〈うねり〉と〈ビート〉から成り立つ。
・うねり: 生成変化の多様性、微妙な面白さ
・ビート: 対立構造、存在/不在(0↔1)、ハラハラドキドキ
例えば、物語を読むときの途中途中の山場やその結末は〈ビート〉だが、背景や場面の描写といった淡々とした展開は〈うねり〉である。また、「ファスト教養」的な記事や動画は、「So What?」の先へと直行で辿り着くが、現代アートのような芸術鑑賞にはそもそも唯一の答えは無い。時間をかけて鑑賞するからこそ感じ取れる〈うねり〉があり、それがあるからそ〈ビート〉も際立つ。
「意味」にも〈大意味〉と〈小意味〉が存在する。「要するに」という、全体としてどうかという目的・意味ではなく、部分のつながりやリズムそれ自体を即物的に味わうこと=脱意味的なリズムに乗ること=それ自体を愉しむことが提案される。
カール・フリンストンらは、生物の様々な機能は「予測誤差の最小化」という原理で説明できるという「自由エネルギー原理」を提唱したが、誤差の逸脱による不快そのものが快であるとするフロイト的な「死の欲動」も援用される。ラカンは、「ホッとして沈静化すること」を「快楽」と、不快かつ快である状態を「享楽」として両者を区別したが、これは安定と逸脱の双方があってはじめて快が生まれるとも捉えられる。こうして、バランスが崩れること(差異が生じること=予測誤差)は、「美」よりも「崇高」的な方向へ傾くことである。一人の人間が生きていけるようになるとは、反復を形成することであり、そもそも人間とはリズム的な存在であるのだ。「足りなさ」(周りを基準にした不足)をベースに考えるのではなく、「余り」=自分に固有の足りなさをベースにすること、途中で「これで行くんだ」と仮固定すること、自分に固有の偶然性(逸脱)の余らせ方を仮固定することが、人生を自由にしてくれる。
芸術とは、そもそも無駄なものである時間を味わうことであり、「タイパ」のようなパフォーマンス軸(目的志向)で語られるものではない。人生は、時に無意味なものに感じられることもあるが、それは「可能性の過剰」に溺れてしまうからでもある。レールに敷かれた道を走っていたり、慌ただしく何かに没頭しているときには、範囲が限定されるためある種の安心感が得られる。しかし、目的志向一辺倒の生活からは、ゆとりや豊かさは感じにくい。それは、絶えず「足りなさ」を埋めていく道のりだからだ。芸術は、「余り」としての脱目的的な/自由な人生に範囲を限定する補助線を加えてくれ、それによって快楽だけでなく享楽も味わうことができる。これは、突き詰めて考えれば、あらゆるものには意味などというものは無いという虚無感と表裏一体だが、この薄氷を踏む感覚そのものを享楽として楽しむことが人生のリズムなのだと言われているようだ。
芸術鑑賞において、そのリズミカルな展開をどう味わうかは自由に委ねられている。公共性=意味的なものよりも、身体性に身を任せ、脱意味的なリズムに乗ること。それは、過度に公共的=意味的なものへと傾斜気味な現代だからこその、反復からの逸脱としての〈センス〉の提案なのだろう。人間の生活は、目的志向と不安まじり/宙づりの享楽とのミックスで豊かになり得る。
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感想
アートを見るとはどういうことか。自分と世界の架け橋を渡ること。橋の歩き方にはお作法がある。ただ逍遥するだけでは勿体無い。
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しなやかに自分の感覚を認め、愛し、伸ばす、という姿勢のエッセンスを伝えてくださる本。在り方の多様性という哲学の実践としても読めるけれど、もっと身近に、自分の部屋にセンスとアンチセンスを投影させて、自分なりの享楽をマイペースにじわじわ育てるスタンスでいいな、と思えます。
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自分が作品を観て感じたことを言語化するのは美学の観点で有意義だという主張には共感した。作品から見出される美についての説明が続いたが、それが個人から湧き出るセンスとどう結びつくのか、判然としなかった。
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センスのパーツを教えてもらい、センス良くに対する姿勢を学ぶ。センスとは、というとこの本から学んだ事を、自ら取り組むこと。これが「センスが良くなる」ことと思い取り組む。
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普段の日常生活において、見聞きする「センス」という曖昧なワードに引っかかり、購入した本。
「センス」や「地頭」という用語が、人を振り分ける文脈で使われる排他的なワードである、というのはまさしく自身の体感に基づいてる。
文章全体として、哲学的な話しが多いので、所々よく分からないところがあった。
要するに、鑑賞する作品の意味ではなく、0→1に移りゆく際の多くの次元の波のうねり(=リズム)を見出すことが、センスとのこと。
であれば、この本自体を読了することで、センスを向上させる・磨くなどの意味を求めるのではなく、文体や扱う例などの見えにくい点を見出して揺らぎを楽しむことこそがセンスなのだろう。
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海に飛び込むのに、浜辺を散歩しながら海に飛び込まず。核心に迫らないもどかしさは哲学らしいことなのか。
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納得。私が、2つの方向性が違うものを摂取しようとしてきたのは、無意識なのか意識的なのか。高校時代に読んでしまったら、いろいろネタバレ。最近、文化資本についての言及を目にすることが増えたなあと。
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難解な純文学や映画、現代美術に触れたとき
意味を求めすぎないとはどういうことか
そこにリズムを感じるにはどうすればよいのか
哲学者による世界の見つめ方。
著者のこれまでの本より遥かにわかりやすく書かれてあるが、後半の実践はやや難しい
でもおもしろかった!
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自分に固有の偶然性
何かをやるときには、実力がまだ足りないという足りなさに着目するのではなく、「とりあえずの手持ちの技術と、自分から湧いてくる偶然性で何ができるか?」と考える。規範に従って、より高いレベルのものをと努力することも大事ですが、(中略)いつかの時点で、「これで行くんだ」と決める、というか諦めるしかない。
デモーニッシユな反復
人は、より自由になろうとする一方で、何らかのモデルや枠組みに頼っている。その間にジレンマがあり、切実さがある。人間の魅力というのもそうかもしれません。バランスがとれた良い人というだけでは魅力に欠ける、というのはよく言われる話で、どこか欠陥や破綻がある人にこそ惹きつけられてしまうことがある。その破綻というのは、その人固有のものというより、「ある種のテンプレのその人なりの表現」だったりする。固有の人生がなぜか典型的な破綻に取り憑かれてしまう…(後略)
今日も今日とて「仮固定」
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モデルの再現から降りることがセンスの目覚めである。
楽しさには、実は不快が含まれている。
脱意味化 モデルからの脱却? メッセージ性からの解放
GPTの語りが面白くないのは大意味しか伝えないからか。
映画のショット、モンタージュ
予測誤差
純粋ランダムを純粋ランダムとして見ることはできないから意味は生まれてしまう
偶然性ベースのゆるい状態から締めていく
可能性の余り「自分から湧いてくる偶然性で何ができるか?」
典型性とは、そこで人が匿名になるものです。、、、それを手放しで肯定するのはファシズム的です。
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悪くはないのだが、何かしら自分の期待しているものや自分の考えていることとの微差が良い意味での微差でないためか、心のなかで疑いながら読んだ。いささか冗長とも感じるが、哲学専門書ではないだろうからしょうがないのか。それをそう捉える背景と理路に納得いかない、というか。
他方で、実際的に、そういう見方もできるか、と腑に落ちる記述もあり、私にとってまるで合わない本というわけではない。同じ部署だと相性悪いだろうけれど、別の部署の同期くらいなら、ちょうどいい距離の本。