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  3. 田川ミメイさんのレビュー一覧

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田川ミメイさんのレビュー一覧

投稿者:田川ミメイ

40 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本わたしを離さないで

2008/10/22 03:33

へこたれていたあの時にこそ

42人中、39人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 2006年に出版されたとき、大きな話題を呼んだこの本。そのほとんどが賛辞だったけれど、書評やネットで物語の概要を知るにつれ、あたしはなんだかすっかり怖じ気づいてしまった。ちょうど心身共にへこたれていた頃で、こういう重い内容の本はもっと元気な時に読むべきだろう、と、勝手に決めつけ、それでもこの著者には何かしら惹かれるものがあったので、先に「女たちの遠い夏」を読んでみたりした(この作品もとてもよかった)。が、この夏「わたしを離さないで」が文庫化されたと知り、それを機にようやくこの本を読んだのだった。

 物語は、キャシーという31歳の「介護人」の回想から始まっていく。子ども時代を過ごした「へールシャム」での思い出。そう、この小説のほとんどは、イギリスのヘールシャムの私立学校時代のことに費やされており、キャシー、ルース、トミーという、二人の少女と一人の少年の共に過ごした日々がゆっくりと丁寧に描かれている。

 ごく親しい友人でありながら(だからこそ)、つまらない言い争いをしてみたり、それを修復しようとして相手の機嫌をとったり、自分だけはあなたの味方だということを誇示してみたり。他の人には言えない悩みをひそかに打ち明けたり、胸の中にしまっていた不安をぶちまけてみたり。三人の関係も交わされる感情も、誰にも覚えがあるようなもので、特別驚くようなものではない。小さなエピソードを積み重ねるようにして語られるその部分だけとってみれば、青春小説にも思えるし、宿舎付きの学校という閉鎖的な世界の中で繰り広げられる学園小説のようでもある。

 が、もちろん、それが全てではない。
 冒頭の語りの中に出てくる、「介護人」や「提供者」という言葉。それを読んだときに感じた違和感や疑問に対する答えを、語り手であるキャシーはなかなか明かそうとしない。そのせいで読んでいる間中、隠されている何かの存在を強く感じる。キャシー達の子どもらしい姿に懐かしい痛みを感じ、共感すればするほど、そこに忍びよる大きな影を気にせずにはいられない。

 その影が正体を露わにするのは、物語も終盤になってからだ。とは言え、その遙か前からおおよその察しはついてしまう。彼女たちが生まれながらに背負っているその影は、現実的に考えれば「そんなことがあって良いのか」と憤りを覚えるようなもので、普通なら自暴自棄になってもおかしくない。それなのに当の子どもたちは、意外にもすんなりとその運命を受け入れてしまっている。不思議なのは、読み手であるこちらも、たしかにそういうものかもしれない、と思ってしまうことだ。

 人は親や環境を選んで生まれてくるわけではない。極端なことをいえば、森の中に放りだされた少女が狼を親として育つこともあるように、子どもというのは、生まれたときに置かれた環境を受け入れて育っていく。そこが閉ざされた世界の中であるならよけいに、そこでの常識に従うしかない。自分の身を守るためにも。

「へールシャム」の「先生」達は、ここが特別な「閉ざされた世界」であること、「外の世界」はこことは少し違うということを、少しずつ、それとなく子ども達に伝えていく。さりげなく行なわれるその「教育」のおかげで、生徒達はいつのまにか自分が特異な存在であることを自覚するようになる。まるで知らない単語をひとつ覚えるのと同じように、自然に受け入れていく。小説には、その部分が緻密に根気よく描かれている。そのせいで、当然感じるはずの憤りがうやむやになってく。子ども達と共に馴され、憤るよりもその先に待つものばかりが気になって、やがては、彼女達の人生を「見届けたい」とさえ思うようになる。

 もしかしたら、これは実話を元に書かれた小説なのだろうか。読みながら何度かそう思った。そんな訳はないし、そんなことがあってはならないと思うのだが、でもここに描かれているのは、今の時代、そしてこれから先、きっと人類が直面するであろう問題でもある。が、著者はそんな警告ばかりを訴えているわけではない。この本は、ある定めの元に生まれた子どもたちの人生を、キャシーという女性の目を通して描いた静かな小説である。何を思い、何を感じとるかは、ひとえに読み手に委ねられている。

 生まれたときから、最終地点を決められている人生。だからといってキャシーは、全てを諦めて放りだしたりはしない。どんな人生であっても、そこには友がいて愛があり歓びもある。自分なりの自分らしい人生を生きていける。読み終えたとき、胸の中に浮かんでいたのは、背筋をまっすぐに伸ばして歩いていくキャシーの後ろ姿だった。この小説を、元気な時じゃないと読めそうにない、と、脇にどけてしまったことを残念に思う。へこたれていたあの時にこそ、静かで強いキャシーに出会うべきだったのかもしれない。



OfficialWebsite mi:media
http://mimei.info/

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好きな作家が「そろい踏み」

21人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「新潮文庫」から刊行されている、文芸誌「yom yom」(ヨムヨム)。
この「新潮文庫から」というのがミソで、文芸誌ではあっても、文庫売り場に置いてある。ひときわ目をひく鮮やかな色のつるつるした表紙に、お馴染み「Yonda?」のパンダ君がなんともかわいい。とても文芸誌とは思えない。

ただし、文庫コーナーにあっても文庫サイズではなくて、従来の文芸誌サイズ(文庫を2冊並べた大きさ)。しかもけっこう厚い。なのに、軽い。びっくりするほど軽いのだ。
なるほど、この軽さは良い。これなら気軽に持ち歩ける。

そして、この「yom yom」、なんといっても執筆陣がすばらしい。
今まで何度も登場している作家といえば。
川上弘美、江國香織、角田光代、山本文緒、梨木香歩……。
男性陣も、吉田修一、重松清、いしいしんじ、堀江敏幸、柴田元幸……。
で、このvol.6には、私的に今とても気に入っている栗田有起まで。
もちろん全部が全部小説ではなくて、短いエッセイとかも多いのだけれど。
でも、こんなにも好きな作家が「そろい踏み」している雑誌なんて、そうそうあるもんじゃなし。

願わくば、これからもこの路線を変えずにいてほしい。話題性やヒット性だけを狙わず、こういうちゃんとした(?)作家さんたちだけに、登場し続けていただきたい。
ただ、少々気になっているのは、若い読者をターゲットにした(と思われる)ものが時々あること。たしかに「読者層」を広げるために、それなりのアピールは仕方がないことだと思うけど(だからこそ、こういう装丁にしたのだろうし)、内容まで「合わせる」必要があるのだろうか。

あたしが子どもの頃は(ってオバサン特有のフレーズだけれども)、子どもの本と大人の本は、はっきりと分かれていた。だからこそ、オトナの本が気になって、親の本棚からこっそり本をもってきたりしたのだ。あるいはオトナ達が夢中になっている本が気になって、手を出してみたり。もちろん難しくて分からないものがほとんどだったけれど、でも、そうやって読んでいるうちに、ある日突然出会う。夢中になれる本に。ぐいっと腕をひっぱられるかのように。一度出会ってしまえば、垣根は取り払われる。自分の足で乗り越えてこそ、オトナの本の面白さを知ることができるのだ。

なのに今は、オトナが子どもに合わせてばかりいるような気がする。本にしてもドラマにしても映画にしても。だから「難しくても、なんとか理解しよう」なんて思う必要もなくて、たまにそういうものに出会っても、ワカンナイと言い捨てて、それでオシマイということに。これじゃいつまでたってもホントの本好きは生まれないんじゃないでしょか。

と言いながら。
たしかにこの「yom yom」はカワイイよなぁ、と、ついニマニマしてしまうあたしなのでした。
ううむ。すみません。軟弱者で。

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紙の本久世光彦の世界 昭和の幻景

2007/04/26 02:08

『私は、死ぬまでそうだろうと思う。』

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

分厚い本である。
ソフトカバーなのに、ずしりと重い。
その分、内容もみっちりと濃い。
久世光彦といえば、やはり「演出家」の顔のほうが広く識られているだろう。が、この本は「作家・久世光彦」への追悼本である。
氏の作品はもちろん、新聞や雑誌に掲載された「対談」「インタビュー」、氏の著作物の末尾に添えられた「解説」。そして訃報を受けて各メディアが掲載した追悼文。それらが、あらゆる出版社や新聞社の垣根を超えて、一挙に掲載されているのだ。
名文と名高い氏のエッセイが何編も読めるのが嬉しい。そしてまた、様々な人との「対談」が素晴しい。
山本夏彦との「昭和十年前後」という対談。松本健一との「太宰の永遠性」、向田邦子の妹・和子と加藤治子との対談は吹きだすほど可笑しいし、親しい関係にあった阿久悠と、劇画家・上村一夫について語った対談も、この二人だからこその貴重なものだろう。
たぶん、作家としての久世氏にあまり馴染みがない人は、この本を読むと驚かれるに違いない。氏がどれほどの読書家だったか、ということに。あれほど忙しくテレビの仕事や執筆をされていたというのに、その読書量は半端じゃなかった。いったいいつ寝ていたのだろう、と思うほどに。
小学校にあがる前から「大人の小説」を「こっそり」読んでいたという、そんな筋金入りの「本好き」である氏の為に、この追悼本にはとっておきの付録がある。
「久世光彦詞華集」
ここには久世氏が愛した作家たちの作品が集められている。繰り返し取り上げてはエッセイに書いていた—まるで恋文のように—、小説や詩歌が。
向田邦子の「かわうそ」、内田百けんの「サラサーテの盤」、太宰治「満願」。
驚くべきことに、それらが全文掲載されているのだ。一部抜粋などではない。一編丸ごと、なのである。小沼丹「村のエトランジエ」や渡辺温「可哀想な姉」などは、読みたいと思っても容易に手に入れられるものではない。それがここに並んでいる。
思えば、『一生を/子供のやうに、さみしく/これを追ってゐました、と。』という西條八十の「蝶」という詩も、久世氏のエッセイで知り、強い衝撃を受けたのだった。久保田万太郎の『湯豆腐やいのちのはてのうすあかり』という句も。三好達治の「乳母車」や中原中也の「朝の歌」もある。そして上村一夫の漫画まで。
なんという贅沢な本だろう。定価¥2310というのも、決して高くない。いや、むしろ安いくらいだ。
かつて「映画少年」で「文学少年」だった、久世光彦。
テレビの仕事についたことで、自分の中の「映画少年」のほうは納得したが、『五十歳を過ぎたころから、もう一人の文学少年の方が』むずがりだしたという。そうして作家になった氏は、『いまでも、新しい本のサンプルが上がってくると、嬉しくてならない。』と書いている。その本を『鞄の底に秘めて、片時も離さず持ち歩いていたら、大金が入っていると勘違いされた』、と。
そして、言う。
『私は、死ぬまでそうだろうと思う。』
本を愛し、書くことを愛した「文学少年」にとって、この本は何よりもの追悼になるに違いない。そしてまた、そんな文学少年が懸命に伝えようとしてきたこと——残すべきもの、残さなくてはならないもの——が、この一冊に詰まっている。あたし達にとっては、久世氏の美しい日本語の美しい文章で、昭和という時代や優れた文学や映画について知ることができる、貴重な本でもあるのだ。
関連記事
「極彩色—あんたとあたい—」「昭和の幻景」「追悼出版『久世光彦の世界』」

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紙の本おとぎ話の忘れ物

2006/06/14 00:03

静かに怖い

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小川洋子の文章ほど、
密やかな物語を語るのに相応しいものはないだろう。
静かに囁くような、それでいて、手抜かりのない文章。
しかもその物語が、
どこかに「忘れられた」おとぎ話であれば、なおのこと。
でも、間違ってはいけない。
この本に収められているのは、
「誰からも忘れられてしまったおとぎ話」ではなく、
「忘れ物」である「おとぎ話し」なのだ。
つまりは、遺失物。
その「忘れ物」であった物語を、そっと取り上げて、
息をふきかえさせたのが、この絵本だ。
絵本と言っても、子どもたちがわいわいはしゃぎだすようなものではない。
読んで読んでーとせがんでいた子どもたちが、
しだいに動かなくなり、じっと耳を傾け、絵をみつめ、
聞きおえたあとに、ぼうっとしてしまうような絵本。
もしあたしがその子どもであったなら、
きっとしばらく口もきけずにいるだろう。
ぼうとしたまま家に帰り、ぼうとしたままうつらうつらと居眠りをし、
そして突然、火が点いたように泣きだしてしまう。
つまりは、子どもにはちょっと怖すぎる絵本なのだ。
だから、これはオトナのための絵本。
いや、オトナのあたしだって、夢を見てうなされてしまうかも。
そして樋上公実子さんの絵が、またすごい。
美しくゴージャスな絵であるのに、甘ったるくはない。
ひんやりとした刃物が隠されているかのようなシュールさ。
絵そのものが物語をはらんでいる。
それもそのはず。
この絵本は「初めに絵ありき」なのだ。
樋上さんの絵を見て、そこから小川さんが物語を生み出した、という。
が、「博士の愛した数式」で小川洋子を知った方は、
この本を読むと、「え」と驚かれるかもしれない。
でも、これぞ小川洋子だとあたしは思う。
芥川賞受賞作である「妊娠カレンダー」に通じる世界。
「まぶた」や「寡黙な死骸 みだらな弔い」にも。
「物語」も、そして「絵」も、
静かに怖い、怖いほどに美しい、良質の絵本。

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紙の本銀座のカラス 上巻

2008/03/13 15:54

今だからこそ、もう一度

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

旅には必ず本を持っていく。
乗り物の移動中、ちょっとひと休みの喫茶店、PCなしの就寝前の時間。
旅のあいだは、「読む」時間がたくさんある。 だから、いつもよりずっと読書がはかどる。はずだったのだけど。
旅先で風邪をひいたあたしは、サクサクと本を読む気になれなかった。いつにも増して身も心もぼうっとしているもんだから、小説世界にどっぷりと浸るという気力もなく、かといって、ジェットコースターのような展開の物語には、とてもついていけない。

ううむ。こういうときに最適な本って何だろう、と思っていたちょうどそのとき、 ミメオ(夫です)が読み終えた本を差しだして「これ読む?」と言ったのだった。なになに? と開いて読みはじめたら……。
これがなんとも面白くて、やめられなくなってしまった。

この「銀座のカラス」は、椎名誠の自伝的小説「哀愁の町に霧が降るのだ」「新橋烏森口青春篇」に続く3作目。 まだ「本の雑誌」など影も形もない頃の話しで、椎名誠が流通(百貨店業界)雑誌の編集長をしていたときの物語である。
と言っても、「経済小説」のようなしかつめらしさなどまるでないし、こぶしを握りしめるような「立身出世」の物語なんかではまったくない。
サラリーマン椎名誠の「日常」が、とにかく綿々と綴られているだけ。

もちろん、24歳でとつぜん編集長にならざるをえない状況になったり、呑んで暴れて警察につかまったり、風邪をひいてホームレスのおじさんたちに世話になったり、と、あれこれと小さな事件は起こるのである。が、それは人生を変えてしまうような大事件ではなく、24歳の男の「まぁ、いいか」という毎日が、明るすぎず暗すぎず、浮かれすぎず沈みすぎず、淡々と続いていくだけなのだ。

それでもこの主人公の行動や思考につきあっていくうちに、しだいに彼の「日常」が愛しくなってくる。それは、そこにある「喜び」や「怒り」や「驚き」や「切なさ」が、誰もが日々の暮しの中で感じているようなことだから。類い希なる「偶然」ばかりが連続することもないし、大声で愛を叫んだりもしないから。
誰にでもどこにでもあり得る「日常」だからこそ、安心して浸ることができる。だからこそ、熱のあるぐったりしたからだでも、十分に味わうことができたのだ。

実は椎名誠のエッセイは、その昔かなり読んでいた。彼の出現によって、「スーパーエッセイ」なんていうコトバができた頃に。そのぶっとんだ文章に「なんじゃこりゃ」と思いつつ、読んでみればやはり面白くて、次から次へと彼の本を手にしていたのだった。
だが久しぶりにシーナの文章を読んでみたら、なんだかとても「馴染みのあるもの」に思えた。はて、なぜだろう、と考えて、あ、と思った。

エッセイのような小説のようなこの本は、どこか「ブログ日記」に似ている。日々日常を綴るブログ日記を抜粋してひとつにまとめたら、こんなふうになるのでは。もちろん、ヨミモノとして耐えうるブログ日記に限るわけで、そう考えると椎名氏の文章力のレベルの高さにあらためて驚くのだけれども。
しかも、この小説が書かれたのは、1991年。ということは、やっぱり椎名誠というヒトは、相当ススンデイル人だったのである。

ブログ日記が一般的になった今、この自伝的小説を読み返してみると、文体やテンポが妙にしっくりとからだに馴染む。ぶっとんでいるというよりは、やけに優しくからだに沁みてくる。
あの頃、「なんじゃこりゃ」と興奮しながら椎名誠を読んでいたあなた。
今一度、読み返してみませんか。
しみじみと面白いです。

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紙の本回転ドアは、順番に

2009/09/24 17:33

いつもの穂村氏と東氏のイメージだけで読みはじめると、たぶんきっと痛い目にあいます。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読み終えて思わず唸ってしまった。うーむ、参ったな、と。
穂村弘と東直子の短歌集。今まで読んだ両人の短歌の印象からか、きっとほわほわきらきらとした「恋」の歌集だろうと思っていた。恋人同士の往復書簡、そう思って読みはじめたのだった。帯にも「熱い言葉が絡み合う――スリリングな恋愛問答集」と書かれていたし。

確かにその通りではある。看板に偽りなし、だ。が、これはただの往復書簡ではない。恋の歌を送り合うだけの短歌集ではなくて、丸ごと一冊の「物語」。物語は、一首ごとに、少しずつ進んでいく。何の接点もなかったふたりが、ある日出会って、偶然に再会し、なんとなく互いが気になりだして、ついにブルドッグソースの手紙を書いて(ブルドックソース?)。

月を見ながら迷子になった メリーさんの羊を歌うおんなを連れて(穂村)
永遠の迷子でいたいあかねさす月見バーガーふたつください(東)

短歌と、添えられた短いコトバによって、その一場面一場面が描かれていく。どこかとぼけていて、くすりと笑ってしまうような穂村氏の言葉と、たおやかで透明感のある東氏の歌が、進行中の恋を映し出す。日光写真みたいにじんわりと。時には高性能のカメラみたいに鮮烈に。キスして海に行って夜を共にして、喧嘩して仲直りして、そして。そして……。

ミソヒトモジの短歌には「説明」が挟まる余地がない。何が起こったのか直截に書かれてはいないから、どうしたって言葉の向こう側に目を懲らす。そこにある風景をじっと見つめる。そのせいなのか、ひとつひとつの場面が胸にくっきりと残っていく。積み重ねられた風景によって、物語が力を増す。

それだけに、え、と思ったときの衝撃は大きかった。瞬時に撃たれるのではなく、静かに浸食するような衝撃。目を疑って、何度も頁を戻したり進めたり。

いつの間にか、それほどまでに物語の中に入っていた。ふたりを親しい者のように、あるいは自分の分身のようにさえ感じていたのかもしれない。だからこそ、、からだの奥を揺さぶられてしまった。ありきたりな小説などよりずっと深く。その事に何よりも驚いていた。

いつもの穂村氏と東氏の短歌のイメージだけで読みはじめると、たぶんきっと痛い目にあいます。どこかで打ちのめされて、なんなんだいったい、と文句を言いたくなったり、唐突に涙があふれてきたり。そして読み終えたときには放心して、容易には手放せない一冊になる。まるで映画のような、類い希なる短歌集です。


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洒落た装丁の小説のような往復書簡。だけれどもその内容はずしりと重い。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 青い夜明けの街・東京の写真に惹かれて手を伸ばし、「リシャール様」で始まるシャンサの手紙を読みはじめたとたん、その風景の中に引きずりこまれた。
 赤いビロード仕立ての長椅子、シャンデリア、ブロンズの欄干。ホテルの「フランス式装飾が施されたレストラン」でふたりは再会したという。
『レストランから出たとき、目の前をちょうどフランス・ガス公社のデモ隊が行進していました。プラカードを掲げた人々が、爆竹を鳴らしながら、ゆっくりと国民議会の建物に向かっていました。あなたの視線は靄の中の群衆を一瞥してから、はるか彼方へと吸いこまれてゆきました。私はあのとき、洗練された街、銀座にあるあなたのオフィスを思い浮かべました。』
 まるで小説のようなこの美しい文章は、静けさと知性に満ちていて、ここから始まる往復書簡を象徴する一文でもある。

 シャンサは、1972年、北京生まれ。10歳で処女詩集を出版、12歳で全中国詩大会グランプリ受賞という才女である。そして1990年、17歳で渡仏し、97年からいくつもの文学賞を受賞し、2001年に出版された『碁を打つ女』は世界28カ国で出版され、ミリオンセラーとなったという。
 そして往復書簡の相手、コラス・リシャールは、1953年フランスに生まれる。パリ大学東洋語学部卒業。在日フランス大使館勤務、ジバンシィ日本法人代表取締役社長を経て、1985年にシャネル入社。1995年、シャネル日本法人代表取締役社長に就任。フランス商工会議所会頭、欧州ビジネス協会(EBC)会長を務め、その功労を讃える数々の賞を受章している。

 これだけを読むと、いかにもセレブな成功者というイメージを抱くけれど(実際そうではあるのだけれど)、この履歴の隙間を埋める日々は決して明るい光に照らされたものばかりではない。

 シャンサの「最初の記憶」は、「空腹、配給キップ、そして木に取り付けられたスピーカー」だという。そして、そのスピーカーからは、朝から晩まで「革命歌や政治演説」が流れていた、と。政治家だった母方の祖父は紅衛兵の拷問を受けて死に、北京大学の学生だった母親は、「四人組のリーダーである毛主席の妻と公の場で討論」し、その「政治的汚点」のせいで、「権威ある文学部」を卒業したにもかかわらず、北京から遠く離れた高校で働いていた。
 一方「国に選ばれ」た父親は、最初の中国人教授の一人としてフランスのソルボンヌ校に派遣されていたため、幼いシャンサは、ほとんどの時間を祖母と過ごしていたのだった。その祖母は「同世代の中国人女性と同じように」字が読めなかった。だからシャンサは本の挿絵を色鉛筆で写し、単語一つ一つに意味と発音を与え、ひとりきりで文字を「解読」していたという。

 小学校にあがる前、音楽学校を受験する兄についていったシャンサは、試験であることも知らず、言われるままに歌を唄い、最難関のピアノ科に合格してしまう。が、両親は、彼女にピアノではなく「中国琵琶」を与えたのだった。それでも両親の望みを一身に背負ったシャンサは、それから十年間、耐え難い思いをしながら琵琶を弾きつづける。その苦しみが、彼女を「新しい音楽」へと向かわせた。両親に経済的負担をかけず、隣人の迷惑にならず、学校にも、街にも、どこにでも持って行ける音楽。「それは詩でした。」そんな少女時代を過ごした彼女に、やがて転機が訪れる。「1989年、何十万人のデモ隊とともに、私は天安門広場にいました。」

 ここまでが、彼女の一通目の手紙に書かれていることだ。それに応えるリシャールの文章は、予想に反して明るい。生真面目とユーモアが同居していて、現われるエピソードの語り口も柔らかく、シャンサの哀しみの調べにも似た文章を読んだあとだけに、どこか救われたような気分にもなる。

 が、そのリシャールはフランス人でありながら「人生のほんの短い期間しか」フランスに暮したことがないという。9歳のとき、父親が「モロッコ王立航空に出向」になったことから、霧におおわれた灰色の街、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の神々が「共存」する「モロッコ」へ移り住み、そこで少年時代を過ごすことになる。
 リシャールにとってモロッコは「祖国から遠く離れた、豊かな文化を持つ国」だった。後に訪れることになる「日本」と共通する部分がたくさんあった、と彼は綴っている。その豊かな国から文化大革命を遠巻きに眺めていた氏は、フランスを「紋切り型」で「皮相的な紹介によって理想化された」国として捉えるようになる。17歳で祖国を飛び出したシャンサとは反対に、リシャールは18歳で祖国フランスへと戻っていく。そして革命にかぶれ革命家気取りの学生を相手に大演説をぶちまかすのだった。

 こうして始まった「往復書簡」は、更に世界を広げていく。フランスで画家バルテュスとその妻・節子と共に暮しながら絵を学び、そして小説を書くようになるシャンサ。「移り気なこの国の知性はいずれ壊滅する」と確信したリシャールは、そんな祖国から逃げ出すために、なぜか「心のないエコノミック・アニマル」と呼ばれていた日本へと飛び立つ。文学、芸術、哲学。書簡には様々な事が綴られている。時には観念的に、時には現実の中の小さなエピソードをはさんで。

 それぞれの物語は、まるで映画のようにさえ思える。でもそう思うのは、そこに書かれている事柄が想像しがたいことばかりだからだ。革命という言葉を肌で感じながら過ごす子ども時代とは、どういうものなのか。他国から遠く隔たる島国・日本で平穏な子ども時代を送った自分にとって、それを「実感」することは難しい。祖国を第三者の目で眺めるという感覚を、本当には理解できないだろうと思う。外国映画を見て想像をめぐらし、ほんのいっときその世界の中に身を投じる。それと同じようにして、あたしはこの手紙を読んでいた。まるで小説のよう、映画のようだと思うのは、たぶんそのせいなのだろうと、この本を読んでいるあいだ、何度も何度もそう思った。

 それでもシャンサの端正な文章のおかげで、彼女の目となり体となって、疑似体験をすることはできる。ほどよいユーモアと秘めた情熱と冷静さとを併せ持つリシャールの目を通して、日本という国を知ることができる。驚いたり、共感したり、時には理解しがたい思いにかられつつ、日本史も世界史もきちんと把握していない自分を恥じながら、祖国とは何なのか、世界的視野を持つということがどういうことなのか、深く考えさせられる。

 ソフトカバーで洒落た装丁のこの本は持ってみると思いのほか軽いのだけれど、その内容はずしりと重い。へたな小説や映画より、この往復書簡を読むほうが、ずっと濃密な時間を過ごせるに違いない。
 読み終えてもう一度表紙を眺めると、午前4時の薄青いトウキョウが、初めて目にする異国の街のようだった。


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紙の本よしなしうた 国際版

2009/03/02 03:59

視界がぐるりとまわった後に

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この本の紹介文には、「おもしろこわい」と書いてある。たしかに、谷川俊太郎氏の詩は、ふっと笑ってしまっては、ぞくっと背筋を寒くする、そんな詩が多い。

オトナの感覚でいえば「不条理」な世界ということだろうけれど、でもこの詩集にあるそれは、なんだか覚えがあるものだった。とうに忘れてしまった「不条理」な世界への感情。今ここにはない、おかしさ、淋しさ。

こどもの頃は、知らないことがたくさんあった。世の中の仕組みはもちろん、人との繋がり方、触れあい方。でも、知らないからこそ、頭で理解するより先にからだで感じることがある。なんだか変、とか、なんだか怖い、とか。そういう感情は、たいていオトナになるにつれ、そういうもんだ、と理解して(諦めて)飼い慣らし、やがては感じなくなってしまう。この詩集のおかしさや怖さや淋しさは、飼い慣らされる前の、あの感覚を思い出させてくれる。

それにしても、この詩たち。1行、2行、3行と、ふんふんふんと味わいながら進んでいくと、最後の1行で、いきなり、ぽんっと放り出される。「飛躍」は詩にはよくあることだけれども、俊太郎さんの飛躍は、スケールが大きい。視界がぐるりと大きくまわって、とつぜん広大な景色があらわれる。思わず、あ、と、うろたえて、うろたえたとたん急速に音が消えていく。しんと静まりかえったその景色の中に、ひとりぽつんと取り残される。

たとえば、『ふたり』という詩。
どんな詩かといえば、「そいつ」と「わたし」のけんかの詩である。(なんて書いちゃうとミもフタもないけれど、全文引用するわけにはいかないので)

  『いきなりそいつが わたしをなぐった
   わたしもそいつのきんたまけった』

と、けんかの描写がいくつも続く。
かなり真剣なけんかが、妙におかしい。
だが、この詩の最後は、こうである。

  『のはらにころがる ふたつのしたい
   かみさま どうかごらんください』

そのとたん、あたしはひゅうっと天までのぼり、『ふたつのしたい』を見おろしている。自分の記憶の中に「のはらにころがるしたい」があるわけはないのだが、それが妙にくっきりと見えるのだ。だだっぴろい野っ原のまんなかに。

もしかしたら「戦争」なんて、こんなものかも。「かみさま」から見れば、こっけいで、子どもじみた、哀しくて馬鹿げた「けんか」でしかないのかも。

ふとそんなふうに思ったけれど、でもそれはやっぱりあたしがオトナだからで、子どもの目から見たら、ただただ「ばかみたい」と大笑いするか、どうしようもなく「怖くて」大泣きするかの、どちらかもしれない。

子どもの頃のその感覚を、俊太郎さんは知っている。今でもからだの中で飼っている。飼い慣らすことなく、共に生きているのだ、と、この詩集を読むと、あらためて思う。
 
そしてこの本は、巻末に「英訳」がついている。あたしのような語学が不得手な者でも、詩ならなんとか意味が掴める。どこか童謡のようなリズムを持つ俊太郎さんの詩が、英語になるとどうなるのか。英詩ならではのリズムが生まれ、不思議な味わいがあるものもあり、それもまた面白い。英単語とくらべることで、日本語のコトバをひとつひとつあらためて味わえる、というのも新しい発見だった。日本映画が国を超えて評価される今、書物もどんどん国境を越えていってほしいから、「国際版」と銘打ったこういう本がもっと出版されるといいなと思う。一冊で二度美味しい、お薦めの詩集です。

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父が子に語る近現代史

2010/02/12 18:00

『僕の身にいつ何があってもいいように、君に伝えておきたいこと』

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歴史が苦手だ。が、この本の帯文の「わたしたちが、良く生きるために、必ず知っておかなけえばならないこと。」という言葉はもっともだと思う。苦手ではあるけれど、知りたい、知っておかなくては、という思いはいつも胸のどこかにある。で、この本を手にとってみたのだった。

正直、はじめは読みにくかった。話題があちらこちらに飛ぶので、歴史の全体像を把握していない者にとっては、それが流れの中のどの部分にあってどこに繋がっているのかがよく分からない。それでも平易な言葉で書かれているので、なんとか読み進むうちに、なるほど、と思った。

自分はなぜ歴史に苦手意識を持ってしまったのか。ひとつ言い訳させてもらうと、我が母校はちょっと変わっていて、中学の「社会」で日本の歴史をさらっと習ったのち、高校では「社会科」の中からひとつ選択すれば良しということで、あたしは「地理」を選んだのだった(と言って地理も全然身につかなかったけれど)。なので「世界史」をきちんと習った覚えがない(今の時代では考えられないカリキュラムだ)。そのまま受験勉強もなく大学へ持ち上がったので、年号を必至に暗記したこともない。となると、どうなるか。日本と世界のつながりが分からない。日本の歴史は世界の歴史の一部であるのに、そのふたつがうまく溶けあわない。

この本を読んで感じたのは、まずその事だった。中国や韓国、アメリカやヨーロッパ、それぞれの国との関係やつながりに応じて歴史は動いていく。「日本史」「世界史」などと分けられるものではないし、ひとつの国の中だけで歴史が作られているわけではない。歴史とは地球規模の大きなひとつの物語なのだ。自分にはそういう意識が希薄だったのだな、と、改めて認識した。すると著者が拾いあげる項目のひとつひとつが、物語の中の興味深いエピソードのように思えてきて、頁をめくる手が少しずつ早くなっていったのだった。

ただ本書は歴史的事実だけを学ぶ本ではないだけに、著者独自の視点で語られている部分がたくさんある(歴史に疎い者でもそれは感じる)。なので基本的知識が乏しい(あたしのような)者が読む時には、少し注意が必要かもしれない。歴史というのは過去のものだから、大抵は文献や資料から判断するしかない。何年に何が起きたかという事実は確かなことだとしても、それが何故起きたのか、どういう思惑があったのか、という事についての考察が皆同じとは限らない。こういう本を読むときは、その事を頭の片隅に置いておくべきだろう。

が、そんなふうに思いめぐらすことができたのも、ひとつの収穫に違いない。なるほど歴史というのは「何が起きたのか」という事だけでなく、なぜ起きたのか、という事を自分なりに考えるものでもあるのだな、と気づいたのは、著者独自の視点があってこそ。「子に語る」というくらいだから決して難解な本ではない。去年から始まったNHKドラマ「坂の上の雲」などにも触れているし、本好きとしては「夏目漱石」の「高等遊民」の話などにも心惹かれるものがあった。文学もまた歴史と切っても切れない関係にあるのだ。

『歴史とは、世代を超えて受け継がれていく物語です。そこで活躍するのは政治家や芸術家であることが多いですけれど、僕たちひとりひとりが歴史の担い手です。』と子(読者)に向かって語りかける著者は、更にこう続ける。『いつのまにか、夏目漱石が亡くなった年齢に近づいています。僕の身にいつ何があってもいいように、君に伝えておきたいことは、だいたいもうお話ししました』

この一文を読んだとき、あたしの中にある苦手意識が少し薄くなったような気がした。少しだけ歴史が親しいものに思えた。確かに歴史というものは祖父母や親、身近な年配者から教えてもらうのが一番いいのかもしれない。そうすればもっと歴史は身近になる。ということは、あたし達が次の世代に伝えていかなくてはならないということでもある。やっぱりもう一度、歴史を勉強しなおそうかな。
 
 

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紙の本ぶたばあちゃん

2009/08/19 17:34

逝く者と送る者、自分がどちらの立場にたつとしても。

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長いあいだ、ふたりだけで暮らしてきた「ぶたばあちゃん」と「孫むすめ」。家事も料理もふたりで分け合って。なのに、ある朝ぶたばあちゃんは、いつものように起きてこなかった。その日一日眠りつづけていたぶたばあちゃんは、それでも次の日には起きてきて、「きょうは、いそがしくなるよ」という。「したく」をするから、と。

孫むすめは「なんのしたく?」と訊くのだけれど、ばあちゃんは返事をしない。『そんなことしなくてもよかったのです。なぜなら孫むすめはとっくにその答えしっていて、胸がはりさけそうな気がしていたのです。』

と、こう書くと、なんだかとても哀しい物語のようだけれど(実際、哀しいことはたしかなのだけれど)。が、ここからの「ぶたばあちゃん」がすばらしい。その「したく」には悲壮感もなければ気負いもない。その「したく」がどんなものなのかは、実際に手にとって、ゆっくりと頁をめくってみてほしい。そうすることで、読み手もその「したく」に立ち合うことになる。そして最後の1頁。この絵がなんともいえずに良い。色んな思いが入り混じり、確かに胸のどこかにさみしさはあるけれど、でもそれさえも何か大きなものに包まれているような、そんな気持ちになるのだった。

「したく」をするぶたばあちゃんには、それまでの彼女の生き方が透けて見える。凛としていながら、悠々と穏やかで。大きな心で色んなことを受けとめて、すべてのことに感謝して。きっとぶたばあちゃんはこれまでずっと、こんなふうにして生きてきた。でなければ最後の日をこんなふうに過ごせるわけはない。孫娘とふたり、毎日を大切に生きてきたからこそ、こんなに穏やかな別れの日がやってきた。どんなふうに死ぬかということは、どんなふうに生きるか、ということに繋がっているのだ。

逝く者と送る者。自分がどちらの立場にたつとしても、こんなふうでありたい、としみじみ思う。難しいことではあるけれど、でも人は誰もがいつか死ぬ、いつかは別れがやってくる、そのことを、子どもも大人もちゃんと知っておいたほうがいい、と、この本を読むと実感する。内容も文章も絵も、絵本でありながら決して「子どもだまし」なんかじゃなくて、むやみやたらに涙を誘うようなイマドキの小説や映画とは大違い。文句なく、名作です。

著者はオーストラリアを代表とする児童書の作家マーガレット・ワイルド(Margaret Wild)。柔らかな優しい絵はタスマニア在住のロン・ブルックス(Ron Brooks)。両者とも他にも多数の著作があるようなので、ぜひ読んでみようと思う。

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ばあちゃんのポエム

2009/03/02 03:19

みんなぞうきんにならないとおもっているんだよ

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超文系サイト「テキスポ」。このサイトが立ち上がって間もない頃、 登録された電子本をあれこれ読んでみて、一番最初に、お!と思ったのがこの著者の作品だった。案の定じわじわと人気が高まり、ついに書籍化されたのが、この「ばあちゃんのポエム」だ。

著者名が「孫」となっているのは、ずばりそのままの意味で、つまりこの本は、「孫」が自分の「ばあちゃん」に「お題」を出して、返ってきた言葉を書きとったもの。
それぞれのポエムのタイトルが「お題」。
それについて語る「ばあちゃん」の言葉が、二言、三言。
全て「ひらがな」で書かれたそれは、とても短い。
短いのだけれども、それがなんとも良い味わいで、まさにポエムになっている。

           「あめ」

    ばあああああってふってくるのはこわいね
    あれどこからふってくるんだろ
    しとしとふるのはきらいじゃないねえ
    まちがしずかになる

           「ぞうきん」

    おばあちゃんぞうきん
    おまえたおる
    みんなぞうきんにならないとおもってるんだよ


ほんの数行の言葉を読みながら頁を捲っていくうちに、「孫」と「ばあちゃん」、ふたりの姿が浮かんでくる。炬燵で向かい合い、あるいは縁側で(あくまで想像です)、じゃあ次はね、と言って「お題」を出す孫。ふんふん、と、何の構えもなく、思いつくままに言葉を放つ、ばあちゃん。その表情までもが見えるようで、ついふふっと笑ってしまったり、時にはなるほどと深く頷いて腕組みしてみたり。胸の内側がしんと静かになって、すごいなぁ、このばあちゃん詩人だなぁ、と唸ってしまったりもする。

ばあちゃんの言葉は、どれも確信に満ちている。それなのに、押しつけがましさが全くない。身の回りにある物や些細な出来事に対しても、自分なりの確固たる信念や哲学のようなものを持っていて、でももしそんな風に言ったら、そんなたいそうなもんじゃないよ、と、笑って答えるにちがいない。それらは皆「生活」の中から見出したものだから、「ばあちゃん」にとっては「なんていうことのない」言葉なのだろう。色紙に書いて飾りたいなどと言ったら、なにばかなこといってんだい、と呆れられそうだ。

この「ばあちゃん」自身が魅力のある存在であるのは確かだけれど、でもその言葉にポエムを感じるのは、やはり著者である「孫」のセンスによるものでもあるだろう。聞き取った言葉の掬いあげ方、切り取り方が上手いからこそ、ばあちゃんの言葉が胸にすとんと落ちてくる。わざとらしさやあざとさがないから、作り物の匂いがしない。だからこそ、余韻がじわんと心地好い。

今までネットで話題になって大々的に書籍化された本というのは、なぜか想像力を刺激してくれるようなものが少なくて、あまり触手が伸びなかった。でもこの本は、ちょっと違う。ささっと読めるけれど、奥行きがある。何度も繰り返し読むことができる。肩の力を抜きたいとき、なんとなく心が晴れないとき、ぱらぱらと捲って、ばあちゃんの言葉に会いたくなる。映像化されるような話題性に富んだ派手な本ではなく、こういうしみじみと味わえる本がネットから出たことが、少し嬉しい。

自分のことを「ぞうきん」なんて言ってしまうばあちゃんだけれども、でも大事に使って古くなったぞうきんはいいものだ。ぞうきんにおろしたばかりの「たおる」は水の吸い方もいまひとつで、ガラスを拭いても繊維のけばけばが残ったりして苛々する。それに比べて使い込んだぞうきんは柔らかくて、手に優しく馴染むから細かいところでも自在に拭ける。使えば使うほど手放せなくなる。いつかあたしもそんな「ばあちゃん」になりたい、と心底思う。今年米寿を迎えるという「ばあちゃん」。どうかいつまでも元気でいてください。

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紙の本左岸

2009/02/11 03:48

ゆっくりと頁を捲りながら、共に半生記を生きてしまった。

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最後の一行を読み終えたとき、思わず、ああ、と声をあげた。そのまましばし茫然として、ひとつ深くため息をつき、ようやく本を閉じたのだった。

上下2段組で、565頁。大作である。「初出」を見れば、2002年2月~2007年8月。5年半もの歳月をかけたこの小説は、1971年2月の博多駅、17歳の寺内茉莉が「駆け落ち」する場面から始まる。といっても、家出することも男と一緒だということも、親は既に承諾しているという。だから、さほど劇的なオープニングという訳でもない。むしろ、ひとり娘の駆け落ちを「止めても無駄だと分かっているから」了承してしまうなんて、いったいどんな家庭なんだ、と、そのことに気を取られていると、まるで答えを差しだすかのように茉莉の回想が静かにゆっくりとはじまっていく。

ガーデニングが好きで「緑色」が好きで、どこにいくにも『鮮やかなオレンジ色の口紅をさし、胸をはって歩く派手好きな母親』、「喜代」。『大学を終の研究室と思いさだめ、以来、見事に出世競争からはずれた』という父親の「新(あらた)」は、愛妻家で穏やかな紳士だ。幼い頃から人並み外れて聡明で大人びた兄「惣一郎」を茉莉は誰よりも頼りにし、彼に対する信頼や尊敬は、ほとんど「信奉」とも言えるようなものだった。その惣一郎と一番仲の良かった「祖父江九」は隣家に住む正義感にあふれた真っ直ぐな少年で、幼い頃の惣一郎と茉莉と九は、いつもどこに行くのも一緒だった。

群れることが苦手で、嫌なことはしたくない、という茉莉は当然ながら学校に馴染めない。そんな茉莉に向かって惣一郎は「チョウゼンとしていればいい」と、事あるごとに静かに言うのだった。その惣一郎に守られて過ごした幼い日々から、駆け落ちをするこの日までのあいだ、茉莉の家族にはいくつかの大きな事件が沸き起こり、それが彼女の人生を揺さぶり始める。だからこそ茉莉はチョウゼンと自分の人生を歩いていこうと、住み慣れた町を離れて、東京へ向かうのだ。

人と群れるのは苦手だけれど決して「人嫌い」ではない茉莉は、いくつもの出会いと別れを経験する。時に母親譲りの「奔放さ」を見せたりもする。男が変わり、住む土地も職業も変えて、時には流れに抗い、時には濁流に流されていくその人生は、確かに平々凡々なものではないけれど、でも「数奇」というほどでもない。その時々で迷い、悩み、打ちのめされてはなんとか起き上がり、また歩きだすその様は、きっと誰にも覚えがあるものだろう。特異な「物語」の中だけに存在する女を描いたものではなく、きっとどこかにいるはずのひとりの女の「半生記」。「左岸」はそんな小説だ。

うねりながら続いていく人生の河は、あまりに広くて長くて、先が見えない。だから、茉莉の姿だけを追いかけて一気に読みたくなるのだけれど、でもそんなふうには読めなかった。積み重なっていく歳月を少しずつ体に馴染ませながら、一日に5頁とか10頁とか、惜しむようにしてゆっくり読んだ。そのせいなのか、いつの間にか「茉莉」が遠く離れて暮す友人のようにも思えてきて、なんだか不思議な感覚だった。そして、いよいよラストが近づいたとき、なぜか唐突に冒頭の場面が浮かんできたのだった。無愛想で不器用だった幼い茉莉の姿も。その瞬間、思ったのだ。なんて遠くまできたのだろう、と。

歳を重ねて、ある日ふいに過去を振り返ったとき、たぶん誰もが一度は思う「遠くまで来た」という感覚。振り向いた先にいるのは当然自分自身の姿で、だからこそ「実感」としてそう思うのだけれど、小説の中の主人公にそれを実感したのは初めてのことかもしれない。この500頁余りの本を読むあいだに、茉莉と共に半生記を生きてしまった。そのことに驚き戸惑っていたあたしは、いよいよラストを迎えて更に驚くこととなる。ああ、と、ようやく気がついて、だからこそ茫然としたのだった。

喪失、不在、出会いと別れ、家族の絆、恋、友情。この物語にはたくさんの事が散りばめられているけれど、考えてみれば誰の人生にもそれらはいつも入り混じっている。すべてをひっくるめたものが人生なのだ。だからこの小説を読むとき、テーマは何かとか作者の伝えたいことは何かとか、そんな事は考えなくていい。頭で考えずに、ただ茉莉と共に半生記を生きてみれば、きっと最後にすべてが腑に落ちるはずだから。そう、そうだった、と茫然として、深くため息をついたあと、柔らかな明るい光に抱かれる。

そういえば、同じく辻仁成とのコラボ作品だった「情熱と冷静のあいだ」は、停滞した静けさに満ちた小説で、そこには絶えず雨がふっていたような気がする。何かが起るのをじっと待ちながら、あるいは半ば諦めながら、降りそそぐ雨に閉じこめられていた。が、この「左岸」には全編を通して明るい「光」が射している。時も人もひとところに留まることなく、絶えず流れつづけていくこの小説には、初夏の心地よい風を感じるのだ。

だが、「情熱と冷静のあいだ」は恋愛小説だったから、行き着くところも、並行するもうひとつの物語も想像に難くなかったけれど、ひとりの人間の半生記を描いた「左岸」では、向う岸にいる祖父江九の物語「右岸」がいったいどういうものなのか、想像し難い。茉莉の人生の合間に見え隠れする九の姿から察するに、「左岸」とは全く違う物語になるのではないかとは思うのだけれど。描き方によってはジャンルさえ違ってしまいそうで、これはやっぱり「右岸」も読んでみなくては、と、読み終えてそう思ったあたしは、どうやら江國香織と辻仁成の術中にまんまと陥ってしまったらしい。お見事、というしかない。


Tagawa Mimei Officialwebsite
http://www.mimei.info/

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紙の本虹色天気雨

2009/02/09 23:32

1冊のアルバムのような

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大島真寿美を初めて知ったのは、いつのことだったろう。
書店の本棚にひっそりと収まっていた「水の繭」。そのタイトルに惹かれて初めて手に取ったとき、彼女の名はまだあまり知られていなかったように思う。が、ここ数年で一気に表舞台に出てきたような。

今まで読んだ作品は、どちらかというと「静」、あるいは「淡」という印象で、透明感のある文章が心地よかった。が、この本は、ずいぶんと違う。とてもアクティブだ。

中学時代からの友人である30代の三人の女たち。プラス、その娘。仕事絡みで知り合った男達。誰もがとてもいきいきと描かれていて、読んでいて気持ちがいい。働き盛り、女(男)盛りであるがゆえ、誰もが何かを抱えている。抱えながらも、会えば皆意外と淡々としていて、でもここぞという時には集まってくる。その微妙な距離感が、また良い。人間、そんなに熱くなってばかりいられないし、いちいち白黒つけられるほど、ヒトの気持ちは単純じゃない。なんだかなぁ、と思いつつも、日々は過ぎていって、それぞれが食べたり寝たり仕事したりしていくうちに、事は少しずつ動いていく。

派手な動きではないのに、一人一人がきちんと「生きて動いて」いるように見えるのは、人物像がそれぞれしっかり描かれているからこそだろう。だから読みながら主人公と一緒になって、わくわくしたり、ええっとショックを受けたり嘆いたりしてしまう。

一番ぐっと来たのは、「運動会」の「アルバム」のところだ(ネタバレになるので詳しくは書かないけれども)。「写真」というのは一瞬を切り撮るものだけれど、撮ったときには、それはもう「過去」になっている。もう二度と同じ時間はやってこないから、そこに写っている人々が笑顔であればあるほど、なんだか切ない。

考えてみれば、この物語自体、1冊のアルバムのようなものかもしれない。多かれ少なかれ問題を抱えながらも、誰もが皆カメラに向かって笑っている。ふとしたスナップに、翳りのある横顔が写っていたりすることもあるけれど、最後の頁まで捲っていくと、ああ良いアルバムだね、と思えるような、閉じてからもひとりひとりの表情が胸の奥に残っているような、そんな1冊だ。

この本、ドラマにしても面白そうだ。これみよがしではない淡々とした演出で、キャストには一風変わった、でも芝居の上手い役者を揃えてほしい。阿部サダヲとか、はまりそうかも。
 

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検死審問 インクエスト

2008/04/10 16:37

拍手喝采、アンコール

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読み終えてパタンと閉じたとき、思わず「傑作だ」と呟いていた。してやられた、と唸りつつ、拍手喝采。そういえば帯にも『乱歩が称えた傑作長編』と書いてある。つまりは「看板に偽りなし」ということなのだった。

全編が検死官と陪審員による「検死審問」の記録からなる物語。が、堅苦しさはない。どこかとぼけた検死官は、真面目なのか不真面目なのかよく分からないクセモノで、陪審員との会話もウィットに富んでいる。そしてその「検死官」と「陪審員」という制度こそが、この小説を成功に導く「鍵」でもあるのだ。

と言っても、この作品が書かれたのは1939年。当時の「検死官」は今とは違い、「審問裁判官」として絶対的な「権力」を持っていた。審問の場所も日時も、証人の召喚も証言の採用の不可も、さらには判決も、すべて「検死官」の一存で決められる。しかも、審問には「日当」が払われ、その上「死体」がニ体以上の場合、日当は「死体の数を乗じた額」になるというから驚きだ。よって審問が長引けば長引くほど、検死官も陪審員も懐が潤うことになる。

そんな前提があるものだから、証言も証人もちびちびと小出しにされることになる。だから、なかなか事件の「全容」が見えてこない。読み手は、証人の語りや口述記録から、頭の中で事件のあらましを構築し、心理を想像し、犯人を推測していくことになる。こう書くと七面倒くさいようではあるけれど、そんな心配は無用。この証人の語りが、それぞれ実に面白いのだ。人物の描き方、書き分け方が巧みで、つい引きこまれて読んでしまう。

ひとつの証言が終わったところで犯人に目星をつけると、次の証言で唖然とする。驚いて、思わずひっくり返りそうになる。なんだなんだどうなってるんだ、と文句を言いつつも、やめられない。と、これ以上明かしてしまっては、せっかくのお楽しみが半減してしまう。だから、どんな事件なのかという、その概要さえもここでは語らないでおこうと思う。

著者のパーシヴァル・ワイルドは、ニューヨーク生まれの「劇作家」である。19歳でコロンビア大学の理学士課程を修了し、100編を超すヴォードヴィル用の一幕劇を書き、その作品は多くの都市で上演され、様々な言語で翻訳されているという。小説は「余技だった」とか。構成や台詞などは確かに劇作家として培ってきたものなのだろうし、この作品も、なるほど舞台の芝居のようでもある。が、たったひとつの事件をためつすがめつして炙り出すこの手法(宮部みゆきの「理由」もそうではあったけれど、趣はだいぶ違う)は、「小説」であればこそ。これぞ「読書」の醍醐味と思わせてくれるような小説を「余技」で書くなんて、とんでもない輩である。

江戸川乱歩が 『幻影城』で「1935年以降のベストテン」 に選び、探偵小説嫌いだったレイモンド・チャンドラーさえも魅了したというこの小説は、書かれた時代から言えば「古典」ということになるのだろう。が、「古臭さ」などは微塵もない。確かに現代の制度とはだいぶ違うけれど、日本でも「陪審員制度」が取り入れられる今この本を読むと、「人を裁く」というのはどういうことなのか、と、あらためて考えさせられたりもする。

が、とにもかくにも、この本は第一級のエンターテインメントだ。首を捻りながらも「くふっ」と笑って「え」と驚く。ラストを迎えて初めて「あ」と思うことの多さに茫然とし、茫然としながら本を閉じて「傑作だ」と思わず呟く。拍手喝采し、アンコール!と叫びたい気持ちを抱きながらも「ううむ」と唸り、結局もう一度表紙を開いて、最初から頁をめくることになる。つまりは、「そうせざるを得なくなる」という著者の企みにまんまとはまってしまったわけで、それがちょっと、癪ではあるのだけれど。


MimeiTagawa OfficialWebsite「mi:media」

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紙の本夜明けの縁をさ迷う人々

2007/10/10 04:18

まわりつづけるメリーゴーランド

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逆立ちの練習をしつづける曲芸師、
食べても食べても減らないスパゲティを食べつづける、女達。
エレベーターの中で生きつづけるエレベーターボーイのイービー、
涙を売るために、涙を流しつづける女……。

何かを「続ける」姿というのは、時に感動を誘う。
それが真剣であればあるほど、見る者は手に汗を握り、頑張れと応援したくなる。あるいはその反対に、その姿があまりにさりげなく自然であればあるほど、さすがだ、と感嘆する。とても自分には真似できない、と。
が、その「続ける」という行為がある一線を越えてしまったとき、人々はそこに狂気を見る。恐怖を感じて、思わず後ずさる。
例えば、夢のように美しいメリーゴーランドが、どうやっても止まらなくなってしまったときのように。狂ったように回りつづけるメリーゴーランドを目の前にして、見物客であるあたし達は為す術もなく、ただ恐怖に立ち尽くすことになる。

この短編集に描かれているヒトたちは、みんな何かを「しつづけている」。
まさに、止まることのないメリーゴーランドに乗っているようなものだ。が、その中にいる彼ら彼女らはそのことを妙だとは思っていない。彼らにとっては回りつづけていることこそが大切であり、そんな主人公に寄りそう人々も、それをごく当たり前のこととして(あるいはその事を賞賛しつつ)、共に生きている。
読み手は、それを外側から眺めることになる。だからこそ、「怖い」のだ。
怖いのに目を離すこともできなくて、ひきこまれるように見つめてしまう。

止まらないメリーゴーランドに乗りつづけるには、金の柱につながれた白馬や馬車と同じ速度で回りつづけなくてはならない。自分だけ止まることなど不可能だし、そこから飛び降りようとしたり、外に立つ人々がむりやり引きずりおろそうと腕を引いたりすれば、たちまち大きな事故となる。ましてや、速度を徐々に落とすことなく一気に急停止させたりしたら、乗っていた者達は皆どこかへ弾き飛ばされてしまうだろう。
回りつづける世界の中には、それなりのバランスがあり、秩序がある。その危ういバランスが崩れたとき、悲劇はおこる。
ひとつひとつの物語りに描かれているのは、そんな世界だ。

今思えば「博士の愛した数式」は特異な設定があったにも関わらず、小川洋子の作品の中では一番「現実的」なものだった。が、やはり彼女ならではの独特の世界を堪能できるのは、この短編集にあるような「挾間」を描いたものではないだろうか。生と死、夢と現、闇と光。それらの狭間。

この本の表紙には、四角い箱が描かれている。たぷたぷとした湖のような「夜」を固めたような闇色の箱。それは夜の遊園地で回りつづけるメリーゴーランドと同じようなものなのだ。そこに生きる者達は、そこから出ることはできない。いつまでも夜と白日の狭間―夜明けの縁―をさ迷いつづけるしかない。
あたし達は、哀しい結末を予感しながらも、目を離すことが出来ない。恐怖に足をすくめたまま、危ういバランスで夜明けの縁を歩く人々を、見守るしかないのだ。

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