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    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    体が硬い人のための柔軟講座 (NHKテキスト 趣味どきっ!)

    中野 ジェームズ修一 (講師),日本放送協会 (編集),NHK出版 (編集)

    5つ星のうち 4.0 レビュー詳細を見る

まむさんのレビュー一覧

投稿者:まむ

30 件中 1 件~ 15 件を表示

「片づけ」を思想にまで高めた一書

48人中、48人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「片づけ」によって「人生を変えてしまう」。この本にそんな側面があることを知るにつれ、読んでみたくなり購入した。買ってみて損はなかった。期待以上の本であった。100万部を突破したことも納得できる。

 本書の片づけの流儀(ノウハウ)はかなりシンプルである。まずは、モノを「捨てる」。にもかかわらず、その底辺に流れているものは「モノに対する感謝の心」なのである。「捨てる」は片づけの作法の主要な作業である。この背景にはある種の思想・哲学が存在する。また人とモノとの関係について深い理解の上に成り立ったノウハウである。
 
 そのような背景をもとに書かれてはいるが、モノを実際に手に触れて「ときめくか、ときめかないか」で「捨てる」を判断する。「感情的なもの」を大事にしている。だが、モノを捨てる基準として、「過去」でも「未来」でもなく、「今」その人にとって何が大事なのかということを「片づけ」によって気付かせるのである。

 モノに「感謝しながら」捨てることにより、その後の人生までも変えてしまうという。モノを捨てるものと、取っておくモノとに分ける判断により、見えていなかった自らの大事な事柄に気付かせる。そのことにより、「物欲」が減ったり、今の自分に何が大切なのかを気付かせるという「こんまり流(著者の名前より)」の「片づけの魔法」。著者の近藤麻里恵さんは、次のように言う。

 「自分という人間を知るには、机に向かって自己分析したり、人に話を聞いたりするのももちろんよいけれど、片づけをするのが一番の近道だと私は思います。持ちモノは自分の選択の歴史を正確に語ってくれるもの。片づけは、本当に好きなモノを見つける自分の棚卸しでもあるのです」(p.231)。

  また、「片づけを完璧に終えた状態になると、片づけのことを考えなくてもよくなるので、自分の人生について大事な、次なる課題が明確に」(p.255)なるという。 

 本書は、「片づけ」のモチベーションを上げるだけで終わるハウツー本ではない。哲学あるいは宗教的ともいえるほど「モノ」に対する「感謝」のこころや、モノ自身に「こころ」を見据えながら、片づけを通して、今何がその人にとって大切かを気付かせるのである。

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「カネ」に関するさまざまな智慧が詰まった一冊

24人中、24人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は、漫画家・西原理恵子の「カネ」をめぐる自伝的性格の強いエッセイである。

 西原が人生を語ろうとするとき、「カネ」を中心に考えざるを得ない。世の中(社会)が、「きれいごと」では済まされないこと、またハウツーもののお金の話とは全然違う、「カネ」で得た「知恵」を子どもたちに語るようにおしゃべり口調で語っている点が読みやすくすぐれている。またそこが本に説得力を与えている。子ども向けに書かれた本ではあるが、大人が読んでも非常におもしろく、ためになり、またサイバラファンが読んでも西原の自伝的要素が強いので、楽しめる一冊だ。

 自分の子ども時代のことから、自分が美大の予備校時代から出版社に営業に回ったこと。エロ本のカットを書くところから始まり、漫画家として自立していく過程。また今は亡き夫の鴨志田穣と回ったアジアの地域の子どもの「カネ」と「働く」という関係と生活状況。またバングラデッシュのグラミン銀行のことにいたるまで、語られている。

 自分のことを語りながらも、世界にも目を向けており、日本社会のことだけを語っていない点がすぐれている。日本社会を相対化して見ている点が考えさせられるところだ。日本における若者の「働く」ということに関してだけでなく、世界はどうなのか、という視点からも語られているため、日本はまだまだ恵まれた環境にあるのだ、ということを再確認させられる。

 「カネ」を中心に、「働く」ことや「自分探し」ということを突破できるのではないかと西原は考える。今、「何のために働くのか」「自分は何がしたいのか」「働くとはどういうことなのか」ということに悩んでいる人に本書を読んでもらいたい。「カネ」を中心に考えることによって、「働く」ことへのヒントや智慧がたくさん詰まっている。

 あとがきで西原はこう言っている。 
 「働くことが希望になる――、人は、みな、そうあってほしい。これはわたしの切なるねがいでもある。/覚えておいて。どんなときでも、働くこと、働き続けることが『希望』になる、っていうことを」(p.235)。

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紙の本わが家の母はビョーキです

2009/03/22 21:30

統合失調症を家族の立場から描いた初めてのコミックエッセイ

16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 100人に1人が発症している、実は身近でありながら、あまり聞かない病気「統合失調症」(以前は、「精神分裂病」と呼ばれており、「こころのガン」とも言われたていた)。

 この病気について真正面から描いたコミックエッセイ。おそらく著者が統合失調症の家族であり、主たるテーマとして統合失調症を描いた作品は、このマンガが最初であるように思う(最近では『ブラックジャックによろしく』の「精神科編」に統合失調症を描いたものあるが当事者・家族からの視点からではない)。

 ガン患者数と同じ発症率でありながら、統合失調症があまり身近でないのは、「はずかしい」「世間体が悪い」「みっともない」など家族も本人も、差別・偏見・誤解から言うことができないからだろう。また見た目では分かりづらく、働いていたとしても病気のことをカミングアウトできない人が多いからだろう。
 そんな誤解や無知のことが多い統合失調症のことを描いたマンガである。著者が4歳の時に発病したお母さんを描いた作品だ。マンガではさらりと書いてしまっていることでも、かなり壮絶な体験をしてきた著者。お母さんも著者も死の淵までいくような凄まじい体験が描かれている。だが、コミックエッセイということから重い雰囲気ではなく読める本だ。当事者の苦悩はもとより、その家族の苦悩と、そして現在の状況が描かれている。著者の4歳のときから現在にいたる31年間の想いの詰まった作品である。

 統合失調症患者やその家族からは「描き方や症状、病気の理解に誤解を与えるかもしれない」という声も聞こえてきそうだが、あくまでも「『トーシツ』(統合失調症)には人それぞれのさまざまな症状と経過があり、この本の内容は私が経験したその一例です」(p.11)という注記があるし、また「100人100色の病気なんだネ」(p.135)というセリフもある。

 この本は、精神科に詳しいものでないと聞きなれない用語に解説もあり、当事者や家族にとってどういう環境が好ましいか、また自立支援医療、障害年金や障害者手帳など社会資源・福祉に関することも触れられている実践的な本でもある。当事者・家族にとっても興味深いだけではなく、物語としても興味深いものがあるので、この病気とあまり関わりのない人にも読んでもらいたい。コミックエッセイとしてもすぐれたものであり、一読にあたいする本であり、統合失調症という病気理解のための一助となる本であると思う。
 

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紙の本困ってるひと

2011/09/19 11:04

「難」との闘いの記録

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、大学院でビルマの難民について研究中、ある日突然、原因不明の難病にかかりながら、世の中をサバイバルしていく女子の記録である。だが、この本はただの闘病記ではない。赤裸々でありながらエンターテインメントとしてもとても面白く読めてしまう闘病記だ。続々と立ち現れる「難」たち。「難」というのはもちろん「病気」ことでもあるが、その「難」は社会で生きることによって生まれる「難」でもあり、わざわいである。

 発病したが「病名」すらわからない状況から、「難病」と呼ばれる病気と判明しながらも、社会との接点を求め、生きていこうとする決意の記録、また社会や、さまざまな制度、「モンスター」との闘いの記録である。大変な困難の中で生きていこうとする意志の表明でもある。なぜ「生きよう」と思ったのか。しかし、そんなこと考える暇もないくらいな壮絶な「難病」と「難」との闘いである。

 彼女が描く世界は、赤裸々で、どろどろしている。だが軽快であり、躊躇なく描かれている。いや躊躇がないわけではなく、「難」を乗り越えるためには必要不可欠なのだと思う。それくらい真剣勝負なのだ。真剣な闘いゆえ、「この本を出して果たして今後大丈夫なのか?」と心配になるくらい赤裸々に書かれているのだ。例えば、彼女が全幅の信頼を置き、共に難病と闘ってきた医者たちまでも敵に回してしまうかもしれないのに。「難病」を抱えて社会で生きることと、医者たちが考える「難病」の隔たりの大きさをあからさまに言い当ててしまっているのだ。

 難病を抱えながら書いているとは思えないほど客観的かつ分析的でありながら、「女子」の視点も常に忘れない。闘病記でありながら、かつ社会批評的であり、かつエンターテインメントな文章だ。「難」は自分の中に「病」として現れるだけではない。社会との関係の中で「難」が出現するのである。そのことを思い知らされる秀逸な記録である。社会という「モンスター」と闘う中で、ささやかな希望を持ちつつ、彼女は「生きること」を選択するのである。 そして、今現在も闘争中である。

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紙の本わが家の母はビョーキです 2

2010/06/20 04:01

統合失調症、当事者と家族の葛藤を描く。

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2008年に『わが家の母はビョーキです』で「統合失調症」を真正面から
取り上げ、描いたコミックエッセイの続編。

「2」は、前作で描けなかった統合失調症の当事者(お母ちゃん)と、
その娘である著者(ユキさん)とその夫(タキさん)との同居生活を
描いている。

ユキさんは結婚するとき、タキさんに「母のビョーキ」のことを
どう伝えようか煩悶していたが、結局伝えきれずに同居生活をスタート
させる。

もし、お母ちゃんの「ビョーキのこと」を伝えたら、タキさんは恐れて、
離婚になるかもしれないと悶々とした日々を過ごすユキさん。
ユキさんは、お母ちゃんに、タキさんの前では「症状」が現れても
「元気なフリ」をしてほしいと頼む。
そんな生活も齟齬をきたしてしまうのだが、、、

「2」では、統合失調症という病気をオープンにするか、クローズに
するかということもひとつの大きなテーマになっている。
また、統合失調症の「再発」ということも大きなテーマとなっている。

前作では、描けなかった当事者と家族の葛藤もテーマとなっている。

僕は統合失調症の当事者として、参考にもなったが、物語としても
感動し泣いてしまった。

当事者と家族にも読んで欲しいが、「統合失調症って何?」という
人にも是非読んで欲しい好著である。

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統合失調症の人の<気持ち>がわかる

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書の特筆すべき特徴は、統合失調症の症状や病気の解説だけではなく、統合失調症の当事者本人の<気持ち>に焦点をあてていることである。病気の当事者や家族の「気持ち」を知ることで、当事者本人がどのように家族や社会の中でつながることができるか、より実践的なヒントがたくさん詰まった新しい視点を持つ本である。

 また、この本は統合失調症の本人やその家族からのアンケートをもとにして編集されているため、専門家の知見だけでなく、当事者がどういう場面で、何に悩み、何に苦しみ、何に戸惑っているのかという本人の「気持ち」を客観的に読み取り、それを重視して書かれている。統合失調症の人が、治療、リハビリ、社会復帰を目指す際にぶつかる「壁」として、「周囲の理解不足」「社会の偏見」「将来への不安」の3つをあげている。その壁をどうやって乗り越えていくかという具体的な工夫とともに、「リカバリー」という考え方が提案されている。その考え方は「単に『症状がなくなることを目指す』という一元的な見かたではなく、周囲のサポートを受け、薬を使いながら、自分らしく生活できるよう目指すということを表して」いるという。

 決して抽象論ではなく、具体的な事例や具体的な場面において、本人や家族がどう向き合うか、また本人がどう地域や社会と向き合っていくかという実践的なヒントが提示されている。例えば統合失調症の人は「なぜ服薬をやめてしまうのか(どうしたら服薬を続けられるか)」、「医者とどうつきあうか」、「病気のことをオープンにするか、クローズドにするか」など、多くの当事者が戸惑う場面において、実際に統合失調症の人たちがどう対処してきたのか、アンケートから経験を踏まえた上での解決策のヒントが詰まっている。

 統合失調症を発症してから15年以上生きてきたものとして、こういう本が出てきたのか、と感慨深く読んだ。また私も参考になるヒントがいくつか見出せた。専門家の見方ばかりではないし、当事者だけのものとも違う、専門家と当事者双方の見方を備えた、わかりやすくて、秀逸な一書である。

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まるごとの人間としての上野千鶴子論

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「泣く子も黙る」、「ケンカの強い」、「おひとりさまの」、そんな形容詞がつきそうな上野千鶴子を特集した雑誌が出た。まるごと一冊、上野千鶴子についての本だ。

 執筆陣は、日本のフェミニズム(女性解放運動)の先駆的役割を果たしてきたころからの仲間(女性)たち、また鶴見俊輔、見田宗介、樋口恵子ら重鎮たち、ジェンダー論を共に牽引してきた江原由美子、あるいは社会学の俊英・立岩真也や小熊英二といった研究仲間。『逝かない身体』の川口有美子、『リハビリの夜』の小児科医・熊谷晋一郎に至るまで、50人ちかくにも及ぶ人々より構成されている。

 研究者としてだけでなく、教育者としての上野。教え子たちの座談もある。教え子、あるいは上野と接近遭遇した執筆陣それぞれの上野への「思い」みたいなものも加味され、著作だけからでは伺い知れない「まるごとの人間として」の上野千鶴子像も浮かび上がる。そういう私的側面を垣間見ることができ、私みたいな私淑の徒(というよりもファン)にとっては、たまらない一冊でもある。

 もちろん上野の公に出版された著作の位置づけや、裏話あるいは、その著作の目的といったことも語られたりする。例えば、ベストセラーになった『おひとりさまの老後』だが、その狙いは、「ネガティブ一色だった単身高齢女性イメージの転換」をはかることで、「確信犯的に恵まれた層をとりあげた」ということが、小熊英二との対談によりわかったりする。

 つねに「戦略的」「挑発的」「論争的」「確信犯的」に発言したり書いたりする上野なので、誤解や批判も多いが、この特集が今後、学問分野を超えて、ジェンダー研究やフェミニズムに大きな力を与えるとともに、上野千鶴子を正当に評価する一つの材料となることを願う。

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撮影される側に思いを馳せながら

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 現在公開されているドキュメンタリー映画、想田和弘監督の『精神』の副産物として書かれたものだ。想田監督が『精神』で「作品からこぼれ落ちてしまった大事なこと」を文章にしたのが本書だ。

 想田監督の生い立ちから始まり、大学時代に「燃え尽き症候群」になってしまったこと、ニューヨークへ移り住み、現代の日本が「病んで」いるのではないかという疑問を持ったことなど実体験を交えながら、なぜ『精神』を撮ろうと思ったのか、ということが記されている。

 タイトルの「精神病とモザイク」は、ドキュメンタリーを撮るにあたり、精神病の人のプライバシーを守り、人権を守るために「モザイク」にするというが、それは社会と精神病者を隔てる「見えないカーテン」、つまり「恐怖心」「偏見」「タブー」を助長するものではないか。またそういう映画にはしたくないという思いから、自らの映画『精神』では「モザイク」を使わないようにしようと考えて臨んだ映画だ。

 「モザイクが守るのは、被写体ではなく、往々にして作り手の側である」(p.53)。被写体からのクレームや名誉毀損で訴えられることや、社会からの批判されることがなくなり、「被写体に対しても観客に対しても、責任を取る必要がなくなる。そこから表現に対する緊張感が消え、堕落が始まるのではないか」(p.53)と想田監督は述べる。「モザイク」は、被写体である精神病の人を守るよりも、むしろ作り手を守るものであるという。また、モザイクをかけないことが被写体のイメージを守るという逆説を学んだとも言う。

 僕は、この本は映画を観てから読んだ。確かに映画ではこぼれ落ちてしまったような大事なことが多く書かれているように思えた。「精神病とモザイク」という観点からいえば、「モザイク」にしないということは、「精神病」患者に対して、監督の「誠実さ」の現れであるようにも思える。
 
 しかし、映画『精神』を撮るにあたり、患者一人一人に撮影許可を求めたところ、10人のうち、8~9人には断られたという。また精神病の患者の「撮影許可」をめぐり、その「家族」からは許可をもらうのか、という質問をしばしば受けたというが、監督は家族に聞くということは、当事者本人を尊重していないのではないかとの思いから本人だけの了解で構わないとした。
 
 そんな中で、映画『精神』に出てもいいと撮影許可をした患者たちはどういう思いからだったのだろうかと思う。本書には映画に出た患者や医者と想田監督との「座談会」も収録されており、精神病患者として撮影許可した人たちの思いも語られている。ほとんどが断る中、映画に出てみてもいいと思った人たちは何を求めていたのか。それは自分を観てもらうことにより、精神病の「苦しさ」を理解してもらうということもあっただろう。自分を記録してもらおうとの思いもあっただろう。撮られることを通して偏見や差別をなくしたいという思いもあったのかもしれない。 
 
 「誤解」されることが多い精神病患者の中にあって、あえて撮影されることを選んだ患者にはエールを送りたい。「精神」という映画では語り得なかった部分を補う形で、映画とともに本書を併読されることを願う。

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紙の本夕凪の街 桜の国

2009/06/28 05:49

悪意なき差別とどう対峙すべきか

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この物語は、ただ広島の原爆の悲惨を描いただけのものではない。悲しみを描いただけでもない。読んでいくと、原爆とは何か、原爆の残したものとは何なのか、戦争とは何なのか、そのことを根本から問おうとしているように思われた。
 前置きに「広島のある日本のある世界を愛するすべての人へ」(p.4)という作者の言葉があるが、広島を契機として、「ヒロシマ」、さらに人間社会の混沌としていてドロドロした矛盾、不条理、見たくないものを見つめた作品だと感じた。

 『桜の国』の章で、僕の心に残ったのは、息子を思う母親から出た、

「…あんた被爆者と結婚する気ね?」(p.84)
「何のために疎開さして養子に出したんね?」(同)
「なんでうちは死ねんのかね」(同)
「うちはもう知った人が原爆で死ぬんは見とうないよ」(同)。

 たった、一ページにある母親の言葉だ。

 広島で原爆を受けた母親がさらに、息子の結婚したいという被ばくした女性に対して反対しようとする場面だ。同じ被ばくという体験をしてきた女性が、同じく被ばくしてきた女性を差別しようとしている矛盾、不条理。
弱いものが、さらに弱いものを否定する。しかし、これは悪意のある差別ではない。理由のある善意があるからこその差別といってもいいだろう。人を思う気持ちがあるからこそ、息子を思う気持ちがあるからこその言葉であり差別だ。

 原爆を受けたという苦しみや痛み、だが「死ねなかった」という思い、皆が死んだ中で今も生きていていいのだろうかという煩悶、そういうことを味わった人間から出てきている言葉だ。

 僕は、現時点でこの言葉を受け入れることはできない。が、しかし否定することもできない。答えがあるわけでもない。この言葉が正しいか正しくないかもわからない。正しいとか正しくないとかで判断できるものでもないのだろうとも思う。唯一できることは、この言葉の持つ意味を考え問い続けることだと思う。
 
 この言葉をどう受け止めていけばいいのか、どう向き合っていけばいいのか、どう対峙していけばいいのか。ずっと問い続けなければいけない。少なくとも僕はそう感じた。

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人間が、性あるいは宗教という「システム」に抗するということ

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 村上春樹がこの物語を通して何を言わんとしているのか、エッセンスだけを取り出して考えてみたい。

1、宗教と子ども
 親の宗教(価値あるいは信念)が子どもにどのような影響を与えるのか。
宗教が身体化されて育つ子どもたち。宗教(あるいは組織)の教えが身体化されるということは、そこからは「逃れられない」。自分では逃れたと思っていたとしても、身体はそれを覚えている。青豆の口から時折出る「祈り」とはまさにそういったものだ。

2、親と子ども
 天吾は父親と暮らしてきたが、「違和感」を覚えていた。本当は自分の父親は他にいるのではないかと考えてきた。物語の中では、天吾と父親の関係が実際どうであったのかに関しては最後までうやむやにしている。しかし、誰しもそんな不安や疑念、あるいは希望や憧れをもっているのではないか。

3、組織の自己目的化(あるいは組織=社会それ自体に生命が宿ること)。
 村上春樹の言葉では「システム(エルサレム賞での言葉を借りれば)」、社会学者・デュルケームの言葉を使えば「社会的事実」。こういった言わば、個人が「逃れられないもの」=「身についてしまった価値体系(信念の体系)=宗教団体・組織」に「一人の人間」がどう対峙していくか。一人歩きしてしまう社会(組織)に個人はどのように抗することができるのか。

4、善と悪の相対性
 この世には絶対的な善もなく、絶対的な悪もない。すべては相対的なもので固定的なものではない。状況(立場や場所)によって変わるものである。青豆の「殺し」もまた善と悪の入り混じった混沌とした状況にあった。天吾の『空気さなぎ』の執筆と葛藤もまたそうであった。渾然一体としたものだ。

5、集合的な記憶(あるいは性という集合的な記憶のある遺伝子)
 さらに村上は、宗教あるいは宗教組織、または「社会的なるもの」=「性というシステム」の記憶の集合的な働きに対して、一人の人間がどのように挑んでいくことができるか。時として個人と個人の「愛」が、どう「性」とどう対峙でき、どう「性という集合的な記憶のある遺伝子」に逆らうことができるのか。そんなことを村上春樹は言おうとしたのではないか。

 「システム」に対して人はどのように対抗できるのかというテーマが全体に流れている。「人間の存在=個人」が、「宗教」と「性」という「社会的システム」に対して、いかに抗するかということ、それをこの長い物語の中で語ろうとした。
 読み終わったあと自分の中でこの物語を整理していくうちにそんな思いにたどりついた。

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カミングアウトする側と、された側の思いの詰まった手紙たち

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本は19通からなるゲイやレズビアンといった性的少数者たちの胸のうちを明かした手紙と、その明かされた(カミングアウトされた)人々との手紙からなる、興味深いものである。
 本書の特徴として重要なことは、カミングアウトした本人に限らず、カミングアウトされた人たちの心の葛藤にも注目している点である。注目というよりも、その相互の関係を明らかにしようとしている点である。カミングアウトした周りへの影響はどうだったのかという点、この点が他の類書とは一線を画している。カミングアウトされた側(家族、親など)のカミングアウトした人にたいする「思い」がどのような思考をたどるか、ということが強く読者の心に残る。
 往復書簡といういわば「対話」の中から、よりよい関係性を求めているということがうかがえる。性的少数者のこころの葛藤、家族との葛藤、社会規範との葛藤、社会関係との葛藤の具体的な状況がうかがえる点がすぐれている。単なる性的少数者の独白に終わっていないということが本書の特筆すべき点であるといえる。つまり、差別・偏見をなくしたいというだけでなく、「どう生きたらいいのか」「どう周りの人と付き合っていけばいいのか」「いかに居心地のいい場所を作るか」という性的少数者の具体的な関心からの手紙たちである。
 また、「カミングアウト」を「周囲の人々」が「どう受け止めたのか」、「社会とどう付き合っていけばよいのか」という関心から、モノローグ(独白)に終わらない。社会との接点をカミングアウトすることでどうつなぎとめるのか、ということが「手紙」のやりとりでされているのである。少数者を多数派がどう受け入れるのか、ということが、カミングアウト・レターズの中で語られているのである。
 カミングアウトとは、いかに「居心地のよい関係」を作るか、いかに「理解」してもらうか、「生きづらい場所をどのように生きやすくするか」ということであると思う。少数(マイノリティ)と多数(マジョリティ)が「いかに居心地の良い場所にしていくか」というのが本書のテーマの一つであると思う。だから大上段に構えて言ってしまえば、本書の読者は性的少数者に限らず、あらゆるところに存在する人々が、いかに「生きやすい社会を作るか」という壮大なテーマへと発展する。だとすれば、この本の読者は、例えば見た目ではわからない「精神的疾患」を持った人や、「政治的・宗教的・思想的・信条的」マイノリティや、それをどう受け入れるかというマジョリティにも開かれているともいえる。そういった点で、多くの人に読んでもらいたい一書である。

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性と宗教という通奏低音

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 村上春樹を読むのは初めてです。今まで食わず嫌いで村上春樹を避けてきましたが、タイトルの『1Q84』に魅かれました。オーウェルの『1984』をモチーフにしているに違いないと思い買ってみました。

 読んでみて、村上春樹は、確かに「おしゃれ」な部分は出てくるのですが、「こんなにも読みやすかったのか」「こんなにも面白いのか」というのが率直な感想です。

 1巻を読んでの感想はmこの物語に流れる二つの人間の本性についてです。性と宗教についてです。「愛」というよりも「性」について書かれているように思いました。思い出したのは社会生物学者のウィルソンが『人間の本性について』の中で、「性」と「宗教」という項目を一章ずつ書いていることです。

 「日本人」は宗教については希薄なところがあり、宗教団体などに属していないと分かりにくいところがあるかもしれませんが、その部分をうまく書きあげているなぁと思いました。性とともに、宗教(カルト、宗教団体、宗教組織)、そういったものを深く見つめようとした作品だなぁと思いました。
 
 もうひとつ、性について。この本には性的な行為、性的事象が多分にでてきますが、これは人間の避けがたいものであることを再確認しました。

 また、面白く読ませるだけでなく、さまざまなことを考えさせる本だなぁと思いました。つまり問題提起の物語であると感じました。

 「性」と「宗教」という重いテーマが、この1巻の通奏低音として流れていますが、物語の細部に至るまで、細かくそして恐ろしいほどの描写力で描かれているように感じました。2巻を読むのがとても楽しみです。

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30代後半の女たちの「いとおしい」言葉たち。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 スローな、ゆったりした感覚を覚える独特なマンガだ。特別、劇的な何かがあるわけでもなく、二人の女たちの日常生活を描いている。ゆったりとした物語の中にちりばめられた言葉たちに、時々はっとさせられる。それは独白の形をとったり、ふとしたときに思ってしまったりした言葉たちである。

 すーちゃんは、35歳。一人暮らし。独身。彼氏なし。ある日、遺言の本を買ってくるが、自分が心配しているのは「死んでからではなく」、「老いている自分」(35)だと気がつく。

 すーちゃんの言葉で残っているのは、
「月1万円を老後の貯えにしていけば……老後が、遠い未来が/今、ここにいる/あたしを/きゅうくつにしている」(8)、
「『元気で長生きがいちばん』ってもしかしたら誰かをキズつけている言葉なのかな」(100)、など。

 すーちゃんの先輩のさわ子さん。さわ子さんは、お母さんとおばあちゃんと3人暮らし。40を目前にした独身の女性だ。お母さんとさわ子さんとで、おばあちゃんを介護してくらしている。おばあちゃんを介護しながら、おばあちゃんに自分の気持ちを吐露している。おばあちゃんは、娘のことすらもわからない認知症だ。

 さわ子さんの言葉で残っているのは、
「老いていくのは仕方ないけど、ただ、セックスはしたい/あたしのからだをもっと謳歌しておきたい」(25)、
「どの時点が、大人の完成形なんだろう?」(20)、
「老いていくのもひとつの成長なのかな」(84)、
「汗はともかく、血を流しながら/女は働いているのです」(54)、
「女からも、日々こまごまとした/セクハラを受けているわけで」(55)、
「産め産めって気軽に言うけど/あれって/命かかってんだぜ~」(56)、
などである。

 二人に共通するのは30過ぎの女たちの「不安」である。
日常の時の流れの中での、ふとした独白が印象的なマンガである。

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バリア(障害)は細部に宿る

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本の著者は全盲で、それが日常生活を送っていく上において、どういう風に障害となってあらわれるかを、観念論にならずに、具体的で、分かりやすく述べている点が優れている。抽象的な障害(者)論というのは、たくさんあるが、ここまで具体的な事例を数多くあげている本書は特筆に値する。
 全盲の人がどういう場面で困り、人の助けを必要とするのか。また必要としないのか。どういうモノが障害となり、またならないのか。ユーモアも交えながらも抽象論に陥りがちなものを細かく一つ一つ述べている。
 本書の論点は、こうだ。「障害を持ったからといって、損をすることも、もちろん得をすることもない、どんな人も同じに生きられる日本を、みんなで一緒に作っていきましょうよ」(3)ということである。「障害者も健常者と変わりありません。頑張っている人もいれば、どうしようもない人間もい」る(162)という当たり前のこと、障害者をお涙頂戴で語られることもイヤだし、語ることもいや。障害者だからといって、優遇や甘えを許さないという立場。こういうところに論点が置かれている。障害者も健常者も建て前ではなく、「本音」で語ることが必要だという著者には同意するところが多い。
 本書は川田さんが感じる障害とはこういうものだという論点を深く細かく掘り下げる。また全盲ということの個別性をもった障害に対してのみ発言している点で、決して一般論ではない、自分の障害から見た当事者論の一つである。 全盲の世界というのは、こうなんだ、ということが具体的に手に取るようにわかるという点で優れている。医療関係者に対しての文脈で出てくるのだが、たとえ専門的な知識はなくても、「人を思う心さえあれば」(116)という言葉が、僕の心に突き刺さった。
 「福祉施設が率先して障害者を腫れ物のように扱うから、弱気でろくに努力もせず、すぐに人に頼る温室育ちの障害者が台頭する」(99)という障害者自身に対しても著者は非常に厳しい。
 障害(バリア)は人間と人間の関係性の中で生み出されるものだということ、またそれを解決するのも人と人の関係性の中で解決されるものだということをつくづく思い知らされる。人間は人と人との中(社会)の中でしか生きられない。そうしたことを思い知らされる一書であり、そうした社会の中で生きる当事者すべての人(障害を持つ人と持たない人)に読んでもらいたい

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紙の本プラグマティズム

2011/09/04 07:36

神々の争いの調停者としてのプラグマティズム

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 『プラグマティズム』は、W.ジェームズの哲学での主著である。プラグマティズムはアメリカで生まれた代表的哲学である。日本語では「実用主義」「実践主義」などと訳されることが多い。「実用主義」と訳されることもあり、一段低く見られ、また初めて「プラグマティズム」の言葉を使ったC.S.パースの「プラグマティズム」を「誤解して成り立った」といわれるジェームズのプラグマティズムは、そういう意味でも軽くあしらわれているように思われる。

 しかし、本書は古典と言ってよいものであり、ものごとを考える上で、本書の示唆するところ、有効なところは大きい。このプラグマティズムの観念の歴史はギリシャ語「プラグマ」から来ていて行動を意味し、英語の「プラクティス(実際)、プラクティカル(実際的)」という語と派生を同じくする。
 
 私が考えるに、今日的にW.ジェームズのプラグマティズムを哲学・考え方の一つとして、「神々の争い」(M.ウェーバー)、つまり真理と真理、信念と信念、信仰と信仰、価値と価値の争いの調停者としての考え方・方法として捉えられることができるのではないか。主要な論点は、「行為」「実践」「実際」を通して、「真理」と呼ばれる諸学問の調停者としての立ち現れるのではないか。

 「われわれの真理のどれでもの最大な敵は、われわれが現にもっている真理以外の真理であろう。真理というものはもともと自己保存および自己に矛盾するものはなにものをも絶滅しようとする欲望、このすさまじい本能をもったものである」(p.86)。

 真理と真理の競合は、その真理が実際に働く意味として、自分にとって正しく働くかどうかである。もっと具体的に言えば、ある信仰(真理)がその人にとって「実際的に(プラグマティックに)」利益をもたらすか、もたらさないか、別の信仰(真理)がその人にとって「実際的に」利益をもたらすか、もたらさないかどうか。

 こうも言えないだろうか。ある宗教(信念)がその人にとって有効である。別の宗教(信念)が別の人にとって有効である。とするならば、前者の信仰と、後者の信仰はプラグマティック(実践的に)言って、どちらも正しいと。プラグマティズムが絶対的なものが多元論的に存在することもありうるということの調停者として働くことができるのではないかと。

 現代の「正義論」のように「正義が多元論的である」という認識は必要だ。その上でそれらを精査し合意を形成していくことも必要なように思われる。例えば「人を殺すことは絶対悪」、「原子爆弾を使用することは絶対悪」など、プラグマティックに相対的であると捉えたものを精査していく必要があると思われ、そこでも、プラグマティズムの考え方を応用することができるのではないだろうか。

 にもかかわらず、である。アメリカが民主的なプラグマティズムの考え方を持ち合わせているにもかかわらず、自国の正義を他国に押し付けようとするのはなぜなのか。「調停者としてのアメリカ合衆国」という意識が働くのだろうか。“I am the LAW”といわんばかりに国際政治に介入していくアメリカ。やはり、プラグマティックな考え方でさえも、一つの考え方としての謙虚さ、相対性を持つ必要があるということだろうか。

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