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悠々楽園さんのレビュー一覧

投稿者:悠々楽園

44 件中 1 件~ 15 件を表示

14歳でこの本を手に取るチャンスを得たあなたは幸せだ

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 もう5年も前に出た本だし、著者の早すぎる死とも相まって大きな話題にもなったので、この本についてはすでに多くの書評や感想が出尽くしている感がある。好意的な意見があり、批判的な意見があり、この本を手に取ろうかどうしようか迷っているあなたはその中から自分が信じられる書評を参考にすればよいだろう。いろいろな意見がありすぎて、逆に迷ってしまうかもしれない。書評に限らず、真贋を見抜くというのはなかなかに難しい(本書で池田さんは「本物を見抜ける人間になるためには、自分が本物にならなくてはならない」と書いています)。

 私はあなたにただこう言いたい。もしあなたが14歳なら、こういう本を若いうちに手に取る機会があり、この本に書いてあるようなやり方で考えることに興味を持てたなら、人生はきっと豊かで面白いものになるだろうと(それが世間的な幸せと一致するかどうかはわからないが)。

 この本に対する読者の批評として、「まだ物事をよくわかっていない子どもを、恣意的に誘導しようとしている」「14歳に読ませるならもう少し教育的な内容にすべきだ」といった感想が割と多いのはうなずける。
 真実を知るということは絶対的には素晴らしいことであるはずだけれど、考えようによっては実は恐ろしいことでもある。真実はしばしば厳しく美しい。真実の峻厳さはそうでないことを寄せ付けない。
 上述のように感じてしまうとすれば、「大人は正しいが子供はしばしば間違いを起こすものだ」とか「14歳に真実を正しく理解することができるかどうか疑わしい(大人なら正しく理解できるけど)」といった意識があるからだろう。
 しかし、実はそういう考えは必ずしも正しくない。年長の者が敬われるべきだという考えの裏付けは、より多くの時間を生きてきたというその点についてだけはまぎれもない事実が――おそらくは――年長者ほどより多くの経験をし、考えを巡らせ知恵を獲得している“はず”だという不確かな根拠でしかない。しかし、実際には子供でもより多様な経験をしていたり、より深く物事について考えたりしている場合はもちろんある。昨今世の中をにぎわすろくでもないニュースの数々を持ち出すまでもなく、大人がみんなものごとの真理についてよく考えていて、正しく行動しているわけではない。
 著者は、本書で取り上げている問題の多くについて「ちゃんと考えもしていない大人の方が多い」としばしば指摘している。私自身もここに取り上げられたテーマのほとんどについて少なからず考えをめぐらせてきたつもりだが、哲学の大命題とは、いわば「当たり前のこと」が「本当に当たり前かどうか」考えることにほかならず、よく考えてみたら「当たり前でもない」ことばかりなのである。考え抜いたなどと胸を張って言うのは到底はばかられる。世界は謎だらけだということに気づき(あるいは著者の言うように気づきさえしないまま)、多くの人が考えることをやめていくのかもしれない。生きることは誰にとっても楽なことではないから理由はいくらだって用意できる。
 そんなわけだから、あなたがもし14歳なら、この本に関して大人の言うことはあまりあてにはならないと思った方がいい。
また、「独断的な物言いが鼻につく」といったまったくお角違いと思える意見もたまにあるが、この本くらいニュートラルな立場で書かれている本はあまりないと私は思う。断定的・独断的に見えるところは、論理的に疑いようのないことに限られている。

 今あなたがこの書評を読んでいるなら、この本を眼の前にして通り過ぎてしまうのがどれほどもったいないかということだけは伝えたいと思う。そして大人たちの言い分が正しいかどうか自分で確かめてみたらどうかと、14歳のあなたに言いたいと思います。

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フルマラソンをちゃんと完走したい人に最適の一冊

12人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 Qちゃんこと、あの高橋尚子。オリンピック2大会連続メダルの有森裕子。世界陸上金メダルの鈴木博美。千葉ちゃんこと千葉真子も教えを請うた。
 誰もが知る日本一のマラソン指導者であるあの小出監督が書いた本である。

 マラソンは苦しい。苦しいけど楽しい。
 楽しさのミナモトはいろいろあるだろうが、「生涯に一度はフルマラソンを走ってみたい」という人は少なくないだろう。いくばくかの苦しさや困難を乗り越え、少し前の自分ならゴールするなど思いもよらなかった距離を走り切り、完走するという夢が達成できるかもしれないという期待は大きなモチベーションになるだろう。
 逆に、レースに出てはみたものの、途中でリタイヤするようなことになると、その悔しさは決して小さくはない。レベルは人によるだろうが、自分なりに努力をしてきたのならなおさらだ。
 何回走ってもタイムがいっこうに縮まらない、というのもけっこう落ち込む。
 そういう人に、この本はまず大いに役立つにちがいない。

 多くの市民ランナー向け指導書同様に、この本も初心者からベテランまでどのレベルのランナーにも役に立つように工夫されてはいる。
 マラソン・レースといっても、10km、ハーフマラソン、フルマラソンなど距離はさまざまだ。挑戦したい距離に合わせて細かな練習方法と、レース前の調整方法が記されている。

 さらに、他の本にはあまり書かれていない特徴がある。
 レースに向けたトレーニングやコンディショニングさらにはレース当日の走り方といった、「マラソン大会を走る」ことにかなりの重点が置かれている点である。小出監督ならでは、という本だといえる。

 わたしが特に面白いと思ったのは、シドニーでの高橋尚子、世界陸上での鈴木博美のレース前10日ほどのコンディショニング・メニューである。トップシークレットといってもよいようなコーチングの核心である(今回初めてオープンにしたそうだ)。
 この二人のメニューがコースの特徴やレース展開によってどのように違ったか--まるで今これからまさに大きなレースに臨もうとするコーチと選手のやりとりが、目の前で展開されているかのようなワクワク感が味わえる。
 「そうか、そんな作戦があのレースの前に練られていたのか」という、あたかも歴史の1ページの謎が解けていくような歓び!

 小出さんの指導の基本は決してしち面倒くさくない。たとえば、ランニング・フォームについて聞かれた時の監督の答えは「結論から言うと、基本的にフォームは気にする必要はありません」ということになる。
 あるいは練習方法のポイントさえきちんと押さえておけば、1日30分のランニングでも、ちゃんと完走できる、といったことが書かれている。「がんばり過ぎ」はいけないと書かれている。時間がないとあきらめていた多忙な会社員も、この本を読んでもう一度チャレンジする甲斐が十分あると思う。

 今月末には東京マラソンが行われる。
 昨今のマラソンブームは、ヒートアップとどまることを知らず、東京マラソンに至っては3万2千人の募集に何と27万2千人以上の応募があったそうだ(フルマラソンの部)。宝くじ並みの確率にもかかわらず出場権を手にした3万人余りの幸運なランナーたち。その中には「勢いで申し込んだら当たっちゃったので、とにかく走ってます」という方もいるかもしれない。そんな人は今からでもこの本を手に取れば、少なからず役に立つに違いない。
 とはいえ魔法の本ではない。完走にせよサブフォーにせよ、目標が達成できるかどうかは、あなたのこれまでとこれからの努力次第であることに変わりはない。

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紙の本サミング・アップ

2007/07/12 23:58

この本の内容を1600字で紹介するのは不可能である

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「月と六ペンス」「人間の絆」は中学・高校の頃読んでいて、モームは好きな作家だったにもかかわらず、この本の存在をつい最近まで知らなかった。
 これはものすごい本である。64歳、当時としては人生の晩年と意識せざるを得ない年齢を迎えた大作家が、心残りなく人生を終えたいと願い、彼の人生と、人生をかけて考え続けた思考を総ざらえして1冊の本に纏め上げた--すなわちサミング・アップ(要約)したものである。
 したがって内容は多岐にわたる。まずは彼の生い立ち。それから劇作ならびに芝居の世界についての本音。そして小説論。最後に宗教、哲学について。
 「人間とは何ぞや?」「世界は(宇宙は)どのように生まれ、これからどうなるのか」を知りたかったからこそ、モームは作家を目指したにちがいないのであり、こうした本を書きたいという野望に何の違和感もない。そして彼はそのための努力も怠らなかった。
 まず、その知識、経験の豊かさに愕然となる。実際に携わったのはわずか数年だったが、最初の職業は医者だった。彼はそこで、悲喜こもごもの患者の姿を観察し、心の動きを見つめ、人間の感情や思考について学んだ。その後戦争にも進んで従軍したが、新たな経験を積みたいという明確な意図があった。また、演劇界での成功は世界中を見て回るために十分な経済的な余裕を彼に与え、モームは最大限にそれを生かした。数ヶ国語に通じ、医学生だった彼は自然科学の基礎も身につけていた。アインシュタインの相対性理論とハイゼンベルクの不確定性原理はこの本を書いた当時すでに発表されていて、モームも知っていた。その上で40歳を過ぎて、ほとんどの哲学書を読んだという。空いた口がふさがらない。
 しかし、この本が本当にすごいのはその正直さゆえであると私は思う。「誰にも自分についての全てを語ることは出来ない。自分の裸の姿を世間に見せようとした者が全ての真実を語らずに終わるのは、虚栄心のせいだけではない」とわざわざ断ってはいるが、ここまで率直に語ってくれていれば、それ以上望むことはもうあまりない。
 生きている人間や世の中について正直な意見を公に述べるのは、誰にとってもきわめて困難なことだろう。自らが命がけで掴み取った劇作や小説作法の核心をこれだけ正直に書き記すことも普通はありえない。ここに書かれているそれらのことは、どんな演劇論、小説論よりも真実であるにちがいないと私には思えた。年齢だけでなく戦争の予感といったものも影響していたのかもしれないが、後の人生は「もうけもの」といったような潔さを感じる。後世の読者にとっては奇跡のような贈り物である。
 ところで、人生は無意味であるが人はなかなかそのことを認めたがらない、というのがモームの結論である。また最善の人生は農民の人生だと思うとも書いている。私はこの意見にまったく同感である。そこに漁師を加えてもよいとも思うけれど。
さらに、一般的に価値があると信じられている宗教、真・善・美について仮説検証を重ねた結果、人間にとって唯一価値があるのは「善」だけであるようだとも書いている。それが正しいかどうかを今すぐ判断できないが、第二次世界大戦勃発の前年出版されたこの本で、人類の発展がすでに下り坂に向かいつつあると看破しているモームの慧眼には敬意を払う。一方で、自ら語っているように彼はペシミストではなく、自分の人生を幸運の連続に過ぎないと考えている。私は、そうしたこの小説家の謙虚さに愛着を覚えるものである。
 最後になるが、訳者である行方昭夫さんの翻訳のすばらしさに触れないわけにはいかない。原文も簡潔でわかりやすい、ユーモアと機知にあふれた文章だろうと推察するが、それを違和感なく正確に日本語に移し換えていただき、一読者として大いに感謝します。

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紙の本国のない男

2007/10/14 18:37

これはヴォネガットの「サミング・アップ」である。

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 今年(2007年)の4月に84歳で亡くなったヴォネガットが82歳のときに書いた最後の本である。本書の一節。
「『進化』なんてくそくらえ、というのがわたしの意見だ。人間というのは、何かの間違いなのだ。われわれは、この銀河系で唯一の生命あふれるすばらしい惑星をぼろぼろにしてしまった」(P.21)
 ヴォネガットは地球の危機的状況を正確に把握している(と私は思う)。単に温暖化がどうとか、戦争がどうとか、格差や貧困がどうとかいうだけではない。ヴォネガットの感じている深刻さは相当差し迫ったものだ。ただ、彼の周りにそう感じている人は少ないということも書かれていて「アメリカ人も同じか」と暗澹たる気持ちにもなった。
 つまるところこの本は、ヴォネガットがついに人類を見限ったことを宣言し――だから彼にはもはや「国がない」――、ろくでもない世界ができあがってしまった過程に「心ならずも」加担した責任を悔い、生まれ来る後世の人間に詫びるために書かれたと言ってもいい。「歴史が始まって以来、どの時代においても、人間はこうだったのだ」とも言っているから、彼の後悔は人間として生まれてしまったことの悲しみといってもいいようなものだ。
 とりわけアメリカという国に対する嘆きは深く重い。先の大統領選によって民主主義さえ失われてしまったとヴォネガットは嘆く。その結果、不当に地位を得た権力者たちは、あらゆる差別を言葉巧みに正当化し、弱者ばかりをいじめ、たたき、地獄へ追いやっている、と。地獄とはもちろんイラク戦争を念頭においているわけだが、ヴォネガットの言う弱者にはイラクの人々だけでなく、戦場に送り込まれたアメリカ兵も含まれている。ブッシュとその政権に対する悪罵の数々はマイケル・ムーアの映画を観ているがごとく激しく直接的で、絶望的な嫌悪と怒りに満ちている。私はヴォネガットの言っていることにほぼ同意する。そして日本もまたアメリカに協力してきたことは忘れずにおかなければならないと改めて思う。
 それでも彼は「ヴォネガットらしく」ユーモアを武器にこの本を書き進める。それがこれまでもずっと彼のやり方だったし、戦い方だったからだ。そこが本当にすばらしいと思う。なぜなら彼が降伏していると書きながら、戦うことをやめていない証だから。
 彼はこう書いている。
「唯一わたしがやりたかったのは、人々に笑いという救いを与えることだ。(中略)百年後、人類がまだ笑っていたら、わたしはきっとうれしいと思う」(P.138)
 本当のことをいって、この本の内容はほとんど絶望的といってもいいことばかりが書かれているけれど、ユーモアによって戦う姿勢に貫かれているがゆえに、一条の救いの光ともなってくれる。アメリカという国に対する切り離せない愛情ともいうべきものも確固として隠されている(と私は思う)。それは腐れ縁の男女や仲の悪い兄弟みたいなものかもしれない。昔はありふれていたそういう関係さえ、今や珍品奇品となりつつあるということもまた愁うべきことなのかもしれない。
 いずれにしても、残されたものにとっては大変キツイ状況なのは間違いない。「いいこともまったくないわけじゃない」とヴォネガットが無言で語りかけてくれるような親密さがこの本には詰まっていて、そういう親密さが醸す温もりのようなものが、なんというか冬空の下で焚き火にあたった身体がじわじわと力を取り戻していくように浸透してきて、読む者を元気付けてくれる。
 サマセット・モームが晩年に書いた本に「サミング・アップ」があるが、この「国のない男」はヴォネガットの「サミング・アップ」と言って差し支えないだろう。人間とは何か?幸せとは何か?国家とは何か?権力とは何か?想像力とは? そうした根源的な問いに対する彼らの人生の精算であり、結論でもある。そういうテーマについて(限りなく)正直に書くことはなかなかに勇気がいることだと思う。その勇気にまず拍手を送りたい。そして何よりも、諧謔と批評精神にあふれたこの美しい本を最後に残してくれたヴォネガットに感謝したい。

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紙の本アンネの日記 増補新訂版

2009/06/27 09:11

過酷な運命と引き換えに残された人類の宝物。戦争の理不尽さを嘆くだけではもったいない。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アンネ・フランクという少女の、13歳から2年余りにわたる日記が貴重なのは、それがアンネとアンネの家族および彼女を取り巻く人々の死と引き換えにこの世に送り出されたものだからということは疑いようがない。
 確かに、その1点をもってしても、おおむね平和のうちに長い間暮らしているわれわれが耳を傾けるべき言葉がこの日記にはいくつも含まれている。

 というわけで私もまた、この、おそらくは世界一有名な日記を、「第二次大戦におけるユダヤ人への無差別的な迫害に対するけなげな少女のふるまいや感想」、あるいは「理不尽な運命への怒りや悲しみやはかない希望」といったものばかりが綴られているのだろうと漠然と考えながら読み始めたのだった。
 しかし全然違った。
 アンネという少女は、おしゃべり好きで、気が強くて、現代のわれわれの身近にもときどき見かけるようなオシャマで明るい女の子だった。彼女は「文章を書くことで生計を立てたい」と自分の将来をすでに明確に思い描いていた。利発で健康な普通の女の子だ。

 アンネの生まれた1929年は、イプセンの「人形の家」出版のちょうど50年後だが、当時でもまだ女性が自立するという考えはヨーロッパでも進歩的かつ少数派だったようだ。
 そんな中、家庭におさまり家事や子育てだけをするのではなく、家を出て人の役に立ちたいとアンネは強く願っていた。
 そして何より私の印象に強く残ったのは、彼女がものごとを「自分で考える」人間だということである。それがこの日記を、他にも数多く存在するであろう同時代の日記と一線を画し、60年以上を経た今も世界中の人々が共感をもって読み継いでいる最大の理由だと思う。

 また、普通の思春期の少女の心のうちをかなり正直に記しているという点も、記録として貴重だろう。心だけでなく身体の変化へのとまどいや興味についても赤裸々に――発表するつもりではなかったわけだから赤裸々も何もないわけだが――記している。アンネの性の成熟に対するとらえ方はとても前向きで、生きることの肯定と重なっている。彼女にとって女性として生きることは誇らしく美しいものだった。
 思春期の性にとまどう少年少女たちにとっても貴重な示唆に富んでいる。

 もうひとつ、二千年以上にわたって世界史の中でも特異な運命をたどった――その悲劇のピークがヒトラーのナチス・ドイツによる大虐殺である――民族であるユダヤ人の生活や世界に対する見方の一端を、ごく普通のユダヤの家庭の、普通の少女の目を通して知ることができるということもこの本の特筆すべき魅力だと思う。少なくとも私には興味深かった。
 「ひとりのキリスト教徒のすることは、その人間ひとりの責任だが、ひとりのユダヤ人のすることはユダヤ人全体にはねかえってくる」という教訓がユダヤの人々に語り継がれているそうだ。
 あるとき、ドイツを逃げ延びオランダにやってきたユダヤ人は戦争が終わればドイツに戻るべきだという風潮があると知り、アンネもまたそれがどうやら真理であるらしいと認めざるを得ない。
 だが、「善良で、正直で、廉潔な人々」であるオランダ人までもが、ユダヤ人だというだけで色眼鏡で見るということにアンネは納得できない。大きなリスクが伴うのを承知で、アンネたちの隠れ家生活を支えてくれている人たちもまた愛すべきオランダの人たちだからだ。
 アンネはこう書いている。
 「わたしはオランダという国を愛しています。祖国を持たないユダヤ人であるわたしは、いままでこの国がわたしの祖国になってくれればいいと念願していました。いまもその気持ちに変わりはありません!」(1944年5月22日の日記)
 オランダを「美しい国」と呼ぶアンネの一番の願いは「ほんとうのオランダ人になりたい」(1944年4月11日の日記)ということだった。
 民族間の歴史的な確執は世界中に存在する。今後も存在し続けるだろう。個と個の間では軽々と乗り越えられることも多いのに、民族と民族、国家と国家の間ではしばしばそれは容易ではない。
 私がオランダ人なら、涙なしにアンネのこの言葉を聞くことは難しい。だが現実にはしばしばこういうことは起こりうる。

 「隠れ家」での2年にわたる逃避生活は、物質的にも精神的にも次第に困窮を極めていく。同じ戦時といっても、ユダヤ人でないオランダ人やドイツ人とは全く異なる苦しさだった。
 アンネの書きたかった大切なことのひとつが、そうした過酷な状況にあっても自分たちにはごく普通の日常があり、希望があったということなのである。
「毎週の最大の楽しみと言えば、一切れのレバーソーセージと、ばさばさのパンにつけて食べるジャム。それでもわたしたちはまだ生きていますし、こういうことを楽しんでいることさえちょくちょくあるくらいです」(1944年4月3日の日記)
 1944年7月22日の日記では、ヒットラー暗殺の未遂事件に触れ「やっとほんとうの勇気が湧いてきました。ついにすべてが好調に転じたという感じ」と希望を熱く語ってさえいた。
 しかし、私にはこの事件がアンネたち隠れ家の8人と支援者たちが連行される引き金になったという気がする。ヒトラーはさらに国内反対勢力への警戒を強め、ユダヤ人へのお角違いの憎悪を増幅させた可能性があるからだ。
 わずか2週間後の8月4日、車から降り立ったゲシュタポに連行され、数日後にはアウシュヴィッツに送られる。その後移送され、極度に衛生状態が悪かったというベルゲン=ベルゼン強制収容所で、数日前に先だった姉のマルゴーを追うように蔓延したチフスのためにアンネも亡くなったそうだ。1945年2月から3月の頃と推定され、これはイギリス軍による解放のわずか1か月前のことだという。
 8月1日付の最後の日記でも、自分の内に抱える矛盾について、アンネはいつもと同じようにどこか楽しげに思索を巡らしたり、アンネの快活さを揶揄する家族への不満を訴えたりしている。そのころにはもう危険が身近に迫りつつあることは間違いなく意識していたはずだ。いつも野菜を届けてくれていたオランダ人支援者が逮捕されるという事件が少し前に起こっており、アンネもまた大きなショックを受けていたのである。
 「隠れ家」にあっても、どこにでもいるごく普通の少女の日常の暮らしがあり、不満があり、笑いがあり、喜びがあったのだ。ただ毎日仔猫のように震えて、びくびく過ごしていただけではない。他人から見れば、短くて、悔しくて、辛いことも多かったかもしれないけれども15年余りの人生をきちんと生きていたのである。アンネはそのことを認めてほしかったのだろうと思うし、この日記がその何よりの証左ともなった。

 個人的には、以前読んだケルテース・イムレの「運命ではなく」で語られていた強制収容所での「不幸ばかりではない日常」の暮らしという感覚を、この日記を読んで再確認できたということにも意義があった。

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紙の本オシムの言葉

2008/07/14 23:12

オシムの魅力を余すところなく伝え、ユーゴの戦火と現代をつなぐ糸を鮮やかに浮き彫りにしたすばらしいノンフィクション。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「オシムの言葉」というタイトルから、オシム語録的なものを--ジェフのHPにあったような--をイメージしていたが、全然違った。
 この本は著者の木村元彦さんの、旧ユーゴスラビアに対する強い愛着と関心(なぜその地域に関心を持ち始めたのかは書かれていないのでわからない)の上に立ち、周到な計画と綿密な調査、精力的な取材に基づいて書かれた素晴らしいノンフィクションであった。
 旧ユーゴの崩壊とボスニア戦争の記憶は、すでにわれわれの記憶の中でその影を薄めつつあるけれど、元々同じ国の民であったいくつもの民族がモーレツな殺し合いを始めたという事例は近代ではあまり例を見ない凄惨な事例だったのではないか。
 ソ連が崩壊した今、最も複雑な多民族国家は中国であろう。世界中で「フリー・チベット!」を叫び、デモ行進が行われ、警官と衝突する事態が起こっているが、人々をそういう行動に至らしめるメンタリティや国際認識は、民族自立意識の高まりという時代の流れが作り出したなどと歴史家たちは言うのかもしれないが、渦中にあってその時代を生き抜いてきた人々にとってはそんな簡単な話であるはずもない。
 オシムと彼の家族は、まさにそうした渦中にあって翻弄されたのだった。オシムという監督の複雑なメンタリティを理解するのは簡単ではなかったが、この本を読んで以前よりは少しわかったような気がする。彼自身はおそらくはそれほど複雑な人間ではない。ただ彼の生きた環境の複雑さに対応するために複雑にならざるを得なかったというだけだろう。わかりにくいといえばわかりにくい――ユーモアとアイロニーと警句に満ち、そしてもちろん深い洞察を感じさせる――言葉が、オシムの意図する通りオシムという人間を煙に巻いてきた。しかし、彼はなぜだか憎めない愛すべき人間として私たちには感じられたし、彼の発する言葉は、多くの場合強い説得力をもって耳に届いたのだった。そう、一言でいえば魅力的な人物。
 日本代表監督になって、試合後のコメントは少なくなり、テレビを見ている私たちは――とりわけ試合に負けた時には――オシムの姿を正視できないほど会見には緊迫感が漂っていた。「選手たちはみんな一生けん命やっているではないか。あなたはちゃんと見ていたのか? 何を言いたいのだ?」。勝ち負けだけでしか評価しない世間、もしくはメディアという存在の理不尽さに対する恐れと怒り。ユーゴ時代の記憶とないまぜとなって押し寄せたプレッシャーは大変なものだったろう。しかし、オシムはチャレンジしたのだ。結果は本当に残念だったけど。
 私はこの本を読んで、オシムが日本に来てくれて、日本のサッカーを指導してくれたことの意味の大きさを今一度噛みしめ、「本当によく来てくれたなあ」と感謝の意を強くしたのだった。事はサッカーだけにとどまらない。日本や日本人に足りないものを示唆し、日本の良さを引き出し鼓舞してくれたという意味でもその影響は大きかった。
 紹介したい言葉は数々あってきりがないが、最後に一つだけ私が共感した言葉をあげておきたい。

「作り上げることより崩すのは簡単なんです。家を建てるのは難しいが、崩すのは一瞬」。

 オシムの言う「家を建てる」とは「攻撃的ないいサッカーをする」という意味でもある。しかし、言うまでもなくサッカーに限った話ではない。自然だって倫理だって人間関係だって仕事だって、作り上げるのは難しいが壊すのは簡単だ。しかし、人しばしば、それこそ石ころでも蹴飛ばすように、考えもなくたたき壊してしまう。
 ところで、私がオシムが好きなのは--オシムのサッカーが好きだったのはと言い換えてもいい--、実はこの言葉に続いて次のようなことを言ってくれるからなのである。

「作り上げる、つまり攻めることは難しい。でもね、作り上げることのほうがいい人生でしょう。そう思いませんか?」

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目からうろことはこのことだ。ヒトとしての出自を知るに最適の1冊。

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 昔習った記憶では200~300万年前のアウストラロピテクスが最初の人類だったはずで、この本のタイトル「人類進化の700万年」には「えっ?そうなの」と驚いた。それでこの本を手にとったのだが、2000年前後から21世紀の最初の数年の間にヒトの起源を書き換えるような大きな発見や研究成果がいくつもあり、そうした成果を踏まえて700万年前にさかのぼる人類の歴史について書かれたのが本書である。現在最古の人類は2002年に報告されたサヘラントロプス・チャデンシス、愛称「トゥーマイ」(「生命の希望」の意)だそうだ。
 科学の世界では、1990年代から進歩のスピードがさらに一段も二段も加速しているように思える。人類史というと化石の発見ばかりに目が行ってしまうが、その化石がいつのものなのかを正確に測定できる科学技術がなければ、世紀の発見も意味をなさない。遺伝子の解読といった新たな手法も含めて、ヒトの起源を探るためのテクノロジーが急速に進展したばかりでなく、インターネットによって広範な人知をワールドワイドに共有し、膨大な情報を瞬時に検索・参照できる技術が、この間に確立したこともスピードアップに寄与しているのかもしれない。
 それにしても、こと科学の分野では20世紀に学校で学んだ事実や理論は、21世紀に入った今現在、多少大袈裟にいえば「間違っている」ことのほうが多いかもしれないと改めて思うほど、この本に紹介された人類の歴史をめぐる研究成果は驚きに満ちている。詳しく書く字数がないけれども、現生人類とは別の系統の、絶滅してしまった「頑丈型猿人」がいたとか、人間とチンパンジーの間の遺伝情報の違いはわずか1.23%しかないとか。また本書にはシラミやチンギス・ハーンも登場する。もちろん人類史のまじめな研究の1つとして、である。
 著者は科学分野を担当する新聞記者。この本を読んで改めて新聞記者の筆力・構成力に敬意を禁じ得ない。科学者が書いた本とは良くも悪くも一線を画す。この分野について私程度の知識しかない人間が、学者の書いた専門書を読まなくてはならなかったなら、この本によって知りえた情報にたどりつくのは相当骨の折れる仕事になるし、途中で挫折して結局何もわからなかったということになるのが関の山だったろう。事実関係をきちんと整理し、文系的な発想で幅広い視点から「事実」が意味するところを多角的に紹介してゆく。編集上も、できる限り一般的な言葉を選び、平易な表現による記述に心を砕き、写真・イラスト・チャートなども多用するなど一般読者の理解に資するための工夫が行き届いている。
 この本は2005年9月に発行されておりすでに3年が経過している。この間にまた新たな発見や研究成果が必ずやあったに違いない。いずれの日にかさらに新たな成果を踏まえた続編が編まれることを期待しています。

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紙の本うるわしき日々

2007/12/13 00:38

小島信夫の自在さが体現する「小説の可能性」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近ケータイ小説なるものがはやっている。2007年のベストセラーの上位を占めるという。中心的な読者は女子高生。等身大の主人公に起こる不幸や悩みに自分の姿を重ね合わせ、困難に立ち向う姿に共感し、時に涙する。「難しい言葉」など出てこず、ケータイで一話ごとに買って読める「気軽さ」も良いのだと、普段本はほとんど読まないという少女がTVで語っていた。
 ひるがえって、この「うるわしき日々」はどうか。
 主人公が作家であるとはいえ、ここに描かれる人々の暮らしぶりは、およそ日常的な範囲にとどまるといっていい。ただし、登場人物に若者はほとんど出てこない。だからといって老人向けというわけではない(しかしもちろん誰もが年をとる)。
 主人公の老作家夫婦もそれなりに悩ましい不幸に見舞われている。建てた家に発覚する不都合の数々。妻子に見捨てられた五十過ぎの息子はコルサコフ症(アルコール中毒の末期症状)で、その面倒を彼らが見なくてはならない。後妻として血のつながりのない子供たちを育て、献身的に家庭を支えてきた老作家の妻には、最近認知症の兆候もある。
 ケータイ小説の読者はこんな小説は読まないのだろう。この本を手に取り読み終えるには、多少は年齢と経験を重ねて、少し客観的に作品と対峙できる必要があるという気がする。そのような読者は、小説の中の出来事を「その程度の困難や苦悩は誰にでも起こりうること、事実多かれ少なかれ自分にも起こってきたこと」として眺めるはずだ。だが、――人はみな忘れてしまうが――当事者にとっては、日々直面する「その程度の」苦悩の中にこそ生きることの辛さ・苦しさがあることは、わが身をよくよく振り返るだけでも実はわかることだ。作者がこの小説で描いているのは、人間の苦悩は特別な状況や特別な人にだけやってくるわけではなく、日常を生きること自体が苦悩の連続でもあるという事実にほかならない。感情を抑え、対象に対する客観的な態度を保持しながら、小島はそれを淡々と描き出す。
 本文の一説。
 「<おそるべきことであるが、人間の苦悩は、当事者にしか分かるものではない>しかし、この動かしようのない事実というか真実ほど、人は忘れ易いことはない(後略)」
 さらにこう続く。
 「この<理解することができない>というのは偉大なる真実だからである。(中略)苦悩が同じ程度に通じたら、世界中の人類は、すべてノイロ-ゼになってしまい、地表の気象さえ変えてしまう結果にもなりかねない」
 小島が描いたものが「生きることは苦しいことで、それは当事者にしか分からない」ということだとしても、小島の筆致なり、主人公の老作家の姿勢にはむしろ信念に基づく「つよさ」が一貫して感じられる。そんな人生を決して悲観していない。そこにこの小説のすばらしさがあると私は思う。良い小説は何を描くかにかかわらず必ず読者に元気を与えてくれるものだ。
 私は、苦悩する日々を描きながらなぜ「うるわしき日々」なのか不思議に思っていた。その答えこそ小島信夫の導き出した「生きる意味」そのものなのだと思う。
 「うるわし」を広辞苑で引くと、もともとの意味は「事物が乱れたところなく完全にととのっている状態」とある。主人公の老作家にとってもっとも大切なことは、どんなキツイ状態に置かれていても「筋が通っている」(たとえばP.74)ことなのである。生きることがたとえ苦悩の日々であろうと、それが自分にとって「親が子の面倒を見る」ごとき必然であると認められるならば、困難を乗り切る「すべ」なり「知恵」なりを探し求め、投げ出さずに立ち向かう。それこそが「生きる意味」なのである。それこそが人生に対処する小島の流儀なのだと思う。ここに描かれた日々は筋を通したいと願い、筋を通して生きた老作家の「うるわしき日々」の記憶でもあるのである。

 小説家・小島信夫の最大の特徴は、その自在さ加減、その自由なスタイルにあると思う。小島自身、小説を書くにあたってプロットや構成にあまり拘泥しない「自由さ」が自分のスタイルだとどこかに書いていたと思う。一般人にとってはマイナーな存在の小島信夫だが、実は日本の小説を語るときに欠くことができない大きな存在なのかもしれないと、この小説を読んでやっと今頃私は思っている。
 たとえば「うるわしき日々」の語り手たる主人公の呼び名は、違和感なく自在に移っていく。老作家・彼・小説家・父・老いた夫・三輪俊介(最後の「若い小説家の手紙」の中では、あろうことか小島先生と呼ばれている!)・・・その縦横無尽でさりげない動きは、ポジションを変えながら、1人フィールド内を自由に動くことを許されたサッカーのミッドフィルダーのようだ。作者である小島信夫は、(小島信夫に似た)主人公の老作家を、ためつすがめつ眺めているのだ。実人生(それもまたフィクションでないという証拠もない)と物語の間を作家は自由に行き来し、そこに境界はない。
自由自在な点はほかにもある。この小説では時空が自在に移動する。それから、物語と批評が自在に入れ替わり立ち代る。後者など時に小説なのか評論なのかわからなくなる。
 小島自身も、本人以上に小島作品の本質を捉えているとさえ思える保坂和志も、小島の代表作として「私の作家遍歴」をあげているが、残念ながらすでに絶版で容易には手に入らない。図書館で借りて読みはじめたが、これは形式的には作家論である。しかし「うるわしき日々」の形式が小説であると断定しがたいように、「私の作家遍歴」が小説だと言われても納得してしまいそうだ。すると「私の作家遍歴」のあとがきに、こう書いてあるのを発見した。
 「私は気がつくと、けっきょく、作家やその人物たちを相手に、小説を書いているのでした」
 そもそも小説とはどんな形式も取り得て、排除されない自由さにその本質があるはずだという思いにいたる。
 最後にもう1つだけ指摘しておきたい。コルサコフ症のために虚言癖のある息子が、要所で決定的な発言をし、物語にアクセントと推進力を与えているが、私は、大江健三郎の傑作「新しい人よ 目覚めよ」のイーヨーをすぐに思い出した。ただ、日常的状況に似つかわしい一見ルーズな記述の「うるわしき日々」では、そうした散漫さにまぎれて、イーヨーほど存在感がない。ピエロもしくはトリックスターとしての長男の役割も「新しい人よ 目覚めよ」のイーヨーに比べると劇的な効果の点で劣るけれど、小島の書く小説のスタイルにはそのほうがふさわしいという気がした。

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紙の本東京奇譚集

2008/12/29 15:11

天才的職人の技に気軽に酔いしれる幸福

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この本を手に入れたのはずいぶん前のことだ(というわけでもう文庫になっちゃってるんですね)。最初の「偶然の恋人」を読み、期待通りの面白さに舌を巻き、次の「ハナレイ・ベイ」を十分に味わい、満ち足りた気持ちになり、たとえばディズニーランドで買ってもらったクッキーをいっぺんに食べるのがもったいなくて2枚食べたところでやめにして、明日また缶を開けて食べるのを楽しみにしている子供のごとく、「いっぺんに食べちゃう――いや読んでしまうのはもったいない。さあて、次はいつ読もうかな」と大事にしまっておいたのだが、あんまり大事にしすぎて、そのまま食べるのを――いや読むのを忘れてしまっていた。

 村上龍がどこかの雑誌か何かで、村上春樹のことを評して次のように語っていたと記憶している。たぶん親・龍(反・春樹)的な色合いの強い人たちによる座談会での発言だったと思う。
「春樹さんはうまいんだよね」。
 親・龍的な人たちの反・春樹的な心情は相当過激だった気がするが、このときも含めて村上龍本人が村上春樹の人や作品を悪く言ったりするのはほとんど聞いたことがない。その作風や取り上げる素材において共通するものの少ない二人だが、村上龍は村上春樹をきちんと認めていると思う。

 今回、続く「どこであれそれが見つかりそうな場所で」「日々移動する腎臓のかたちをした石」「品川猿」と読んだのだが、あまりの面白さ、見事さに感動し、さらに冒頭の2遍も再読した。
 小説を読む、あるいは物語に聞き入ることの原初的な面白さの典型のひとつが間違いなくここにある。当代随一の短編作家は村上春樹だと言ってしまいたくなる。しかも、その圧倒的な面白さにもかかわらず、単なるエンタテイメントに堕していない。書き下しの「品川猿」だけ、途中で突然“羊男”的“品川猿”が登場して、ナンセンスな物語となるけれども、他の作品は「奇譚」という表題にふさわしい不思議なエピソードをモチーフにしながらも、背景として選ばれた時空は現代のノーマルな日常である。といっても何もSFやナンセンスが悪いとか価値がないと言いたいわけではない。むしろそうした要素や表現方法は元来物語に不可欠なものである。ただそこに必然性がないと物語は薄っぺらで、言うなれば子供向けの駄菓子のようなものとなる(子供にとってはうれしいけれど)。
 誤解を恐れずに言えば、村上春樹はポーや芥川の正統を継ぐ短編作家でもあると改めて思った。再び誤解を恐れずに言うなら、(本人も言うように)村上春樹を天才というのはなんだかどこか憚られる。少なくとも短編に関して言うなら、むしろ職人的な――それも天才的な職人としての作家というのがふさわしいのではないか。村上龍の「春樹さんはうまいんだよね」という評価がこうした意味を含んでいるのかどうかはわからないが、当たらずとも遠からずであると私は思っている。
 吟味した素材を使って、手入れの行き届いた道具を用い、細心の注意と集中力を注いで作品を作り上げる。人々はそれを棚から取り出し、手にとって、矯めつ眇めつ眺めたり、時には使ってみたりする(職人の作った道具も今では美術館に収蔵される場合も少なくないが)。
 考えてみれば、もともと物語とはそんな愛着のある身の回り品のようなものだったのかもしれない。一通り楽しんだら大事にしまって眺めてるのも悪くないが、それが見事なものであればなおのこと、ときどき取り出して使ってみることの贅沢は至福の時間をもたらす。

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紙の本生きることを学ぶ、終に

2007/05/01 19:40

「死」こそが「生」を学ぶ唯一の場であるらしい、ということ。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 まず初めに、鵜飼哲さんのすばらしい訳と文章に敬意と感謝を申し述べたい。
 死という現象の及ぼす力は、「生き残った」生者の側に−−死んだ側にではなく−−のみ、多くの場合悲しみや怒りとしてもたらされる。「あんなひどい死に方をしてかわいそう」とか「天寿を全うして幸せな人生だったわね」とか人は言うが、よくよく考えれば、死んだものにとって、「死」はもはや悲しみでも喜びでもない。
 デリダにもとうとう、「生き残り」ではなく、死を受け入れる「当人」となる瞬間が迫りつつある。この、おそらくは偉大な哲学者にとっても、死と生の両方を同時に体験することはできないが、そうした歯がゆさをも生へのベクトルに変えてしまう哲学者の“挙措”こそが感動を呼び起こすし、勇気を与えられもする。
 また、デリダという人が、死を恐れながらも、生を肯定し続けた全き哲学者であったと、この小さな本を読んで信じることができる。彼の言葉や態度は権威や地位、名誉などに対して無関心だ。デリダのやってきたことは結局のところ、国境や人種、性による制約を取っ払って、全ての人が知を深め、考え、議論できる環境を作る努力だったといってよいのかもしれない。1つの強国やマスメディアのような既成の権力ではなく、「独異的な」個人、または小さな組織・国家がまず確固として存在できることが「脱構築」の概念を実践するベースだからだ。あらゆる偏見やいかなる圧力からも自由な場所で、議論し、考え、再構築すること。それはまさに古い命が死んでは、新たな命が生まれることの繰り返しとしての人間の営みそのものにつながる正のイメージである。デリダが死と引き換えに「生きることを学び」得て、満足とともにその生を終えたことを願わずにはいられない。

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紙の本グレート・ギャツビー

2008/12/06 12:35

村上春樹渾身の訳業がさらにくっきりと浮かび上がらせたフィッツジェラルドの天才。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 たったの29歳でこの小説を書いたというのは信じがたい。そして1940年、たった44歳で死んでしまった。まさに波乱の人生であり、フィッツジェラルドは早足で時代を駆け抜けた寵児だった。
 翻訳でしか読んでいないので文章家としての彼の力は私には評価のしようがないが、物語の設定、推理小説仕立ての構成、人物の造形、魅力的な会話、背景描写の繊細さと時折挟まる正鵠を得たアフォリズム。彼は人間が何たるか、宇宙の真理のなんたるかを若干29歳ですでに深く理解していた。誤解を恐れずに言うなら、人生とは、この世とは、はかない夢に過ぎない、そういうことだ。
 この小説の展開する時代と場所はフィッツジェラルドの実生活を深く投影している。現実の枠組みを使って虚構の世界を築いたのはもちろん作者たるフィッツジェラルドだが、物語はさらにジェームズ・ギャッツなる作中人物がジェイ・ギャツビーという虚構を創りだしたという入れ子の構造になっている。ギャツビーを創りだしたのは、その時代であり場所でもある。「光陰矢のごとし」「夏草や兵どもが夢の跡」。遥か昔から少なからぬ人間が悟っていた真理。ギャッツビーにまつわるすべては「夢」、しかし生きることは「夢」を紡ぎ続けることにほかならないのかもしれない。はかないものは美しい。美しいからこそはかないと知っていながら人はそれに手を伸ばそうとする・・・そんなことを考える人間は数知れないが、それにきちんと形を与えて表現できる人間は極めて数少ない。フィッツジェラルドはそれを表現する能力を備えていた。まさに天才のなせる技としか言いようがない。
 訳者の村上春樹によれば--あとがきを読むと、もし自分にとって重要な本を3つあげろと言われたら、「ギャツビー」のほかに「カラマーゾフの兄弟」とチャンドラーの「ロング・グッバイ」を挙げるが、1冊に絞れと言われれば「迷うことなくギャツビー」だそうだ--残念ながら、この小説が彼の真骨頂であり、「ギャッツビー」で舞い降りた天啓は以後の彼の作品に再び訪れることはなかったという。当たり前だと思う。こういう小説をわずかに44年の生涯でいくつも創作することなどおそらくは誰にも出来ない。そういう小説だと思う。
 私が「ギャツビー」を最後まで通して読むのはおそらく2度目だ。前回読んだのは遠い昔で、今回は村上訳(彼のこの小説への思い入れを知っていればこそ)だから読んだ。かなり熟練の英文読者でないと原文で読むのは難しいようだが、翻訳で読んでも――少なくとも以前読んだ翻訳では――わかりやすい文章ではない。
 この小説を翻訳することは当然ながら村上にとっても特別なことだった。他の翻訳のような良く言えば黒衣に徹するような文章、悪く言えば色気の薄い文章ではなく、小説家としての経験を縦横無尽に駆使して「正確なだけ」ではなく、できる限り作家の意図を伝えることに腐心したと後書きにもある。
 いわゆる専門の翻訳家に比べて村上訳では英語のままカタカナに置き換えることが多い。そういう事例があまりにも多すぎるとなると、「翻訳」という仕事の存在理由が損なわれかねない。この小説でも、友人に「old sport」と呼びかけるギャツビーの口癖をそのまま「オールド・スポート」と表記していて、これが口癖だから頻繁に出てくる。最初はニュアンスが捕まえ切れていないので違和感があるのだが、途中からはこの親密さのニュアンスは確かに日本語には置き換えようがないかもしれないと思う。というような点も含めてあとがきで語られた村上の翻訳への姿勢も一聴に値する。詳細に読み比べたわけではないが、この訳は村上春樹の意図に見合った十分な成果を上げているのではないだろうか。
 この小説が確固とした魅力なり力なりを一読して私の中に残したのは間違いのないところだが、私にとって「ギャツビー」のわかりやすい魅力の大部分を占めていたのは、ロバート・レッドフォードとミア・ファローのキャスティングによる邦題「華麗なるギャッツビー」のかっこよさ、美しさにほかならなかった気がする。あるいは最初に読むきっかけもこの映画だったのではなかったろうか。映画のイメージを払しょくすることはおそらくもう不可能だが、今回村上訳の「ギャツビー」を読み終えて――小説のほうがオリジナルなので本来おかしな言い方だが――小説自体が喚起するイメージ力によってこの物語の輪郭がより豊かで鮮やかになったという実感がある。

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紙の本また会う日まで 上

2008/05/28 00:10

私がいまさら言うまでもないことは重々承知の上だが、アーヴィングの作品は、現代作家の中では圧倒的に面白い。この作品に対してもその評価はいささかも揺るがない。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 アーヴィングの世界は、(少なくとも私には・良くも悪くも)そこに生きているのが真っ当だと信じられる世界なのだと今回も再認識した。もう少し平たく言うなら、そこにいたとして自殺したくなるような世界ではない、と言ってもいい(つまり魅力的な人物が闊歩する愛すべき世界ということだ)。時に真っ当とも言えない人物設定や強引なストーリー展開はむしろ大きな魅力である。
 世界で日々起こる出来事のどこを眺めても、大まかに言って人間という生き物が「ろくでもない」ということは、認めがたくも認めないわけにいかないだろう。「また会う日まで」で描かれる出来事も登場人物もまた「ろくでもない」ことに変わりはないが、この小説を読んで自殺をしたくなるとか、逆ギレして世界を滅亡させたいとか思うことはなかろう。この小説世界は、リアリティを失わず読者が生きて在ることを否定せずにすむぎりぎりの線(その線は意外と細いという気がしている)に絶妙のバランスでとどまっている。「この世界に生まれたことはそう悪い事じゃない。何のかんの言ってもそれは奇跡に違いないのだから」そんな風に思えなくもない世界が展開する。それで十分心地がいい。
 それにしても、アーヴィングの創造する作品の量と言い、質と言い、こんな小説が1つ書けたら「もう死んじゃってもいい。思い残すことはない」そんな気にさえなる。量はリアリティを支えるという意味で重要だが、分厚な作品を飽きさせずに読ませる力量は凡百の作家には真似できようもない。「20世紀のディケンズ」という帯の紹介が正当かどうか私にはわからないが、そういう長編小説をすでに10ほども書いているアーヴィングを「偉大な作家」と呼ぶことに私個人としては何のためらいもない。
 この小説はまた飛びきり長いので、やっと(上)を読み終えたばかりだが、他のアーヴィング作品同様、物語の中にどっぷりはまりこんだ私は、すでにその住人の1人であることを疑わない。主人公ジャック・バーンズを取り巻く世界のどの登場人物も出来事もちょっとやそっとでは忘れられない記憶の一部と化している。いつもと同じように、(下)を読むのが待ち遠しい(もちろん今夜から読み始めるのになんの不都合もない)。
 この小説のノリからは、良い意味での軽快さ・風俗性ゆえに庄司薫の小説4連作を想起させられ、懐かしくもあった。村上春樹への影響(もしくは共通点)は数え上げたらキリがない。また、1980年代後半、村上龍がセックスを題材に描きながら、「良質な」ユーモアと清潔なアトモスフィアを持つ魅力的な作品をいくつか発表したが、それらと共通する思考が感じられて面白かった。人間をとらえるのにセックスを(アーヴィングの場合にはさらに「死」を)モチーフの1つとして重視する姿勢は共通だが、今に至るまでアーヴィングの扱いは終始抑制が利いていて、そこにもリアリティと心地よさを感じる。村上龍の場合は、その後ちょっと「行き過ぎた」気がしている。
 ジャックが生まれたのは1965年、幼馴染で義姉(?)かつ最高の「アドバイザー」エマはジャックより6歳年上という設定だ。アーヴィングの小説を最も楽しみにしている読者層と同年代ではなかろうか。
 (上)では1992年ごろまでを描いている。日本ほどの急上昇・急降下ではないにしても、世界中が右肩上がりの未来にまだ希望を持っていた最後の時代かもしれない。地球温暖化、食糧危機、枯渇する資源。発展し続ける世界というイメージを抱き続けている人は今やよほどの楽観主義者だろう。したがって、ジャックの人生も下巻ではそううまくはいかないはずだ(実を言うとこの書評を書いている間に(下)の最初の章を読んでしまったことを白状しなくてはならない。「おー」)。
 いずれにしても、まだ下巻があるということがこれほど楽しみな作品はそう多くない。

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ピカドン 復刻新版

2007/08/30 14:10

原爆投下が確かに身近で起こったことを実感させられる絵本

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻による絵本だ。広島に原爆が落とされた8月6日の朝から数日後の出来事までが語られている。
 子供たちにも読んでほしいということと無関係ではあるまい、絵はモノクロの比較的ラフな線で描かれている。「原爆の図」のような恐ろしさ、なまなましさはない。しかし、そのメッセージは同じものだ。
 そこまで計算したのかどうかわからないが、子供向けの絵本という、言葉も絵も余白の多い表現ゆえに、大人の読者にとってはかえって考える余裕が生まれて、原爆や戦争について考えてみてはどうか--それは人間の本姓について考えることと等しい--とやさしく、しかし確かな手ごたえで背中を押されているかのように感じる。
 ページを繰るごとに、ごく普通の日常があまりにもあっけなく消えていった事実が1つずつ積み重ねられていく。被爆直後のヒロシマには、怒りのような激しい感情ではなく、悲しみといっても悲しいのかどうかもしかとわからない、言いようのない切なさがひたひたと充満していったのだという気がして、そのやりきれない思いの深さに言葉を失う。
 「そのとき」を知る普通の人々の話を集めてこの本を作ろうとしたとき、この本のさりげない絵のタッチは自然に選ばれたものに違いない。原爆について書かれた本はあまたあるが、原爆投下という出来事は遥か遠い昔、特別な場所で起こったのではなく、わずか数十年前に私たちの身近で「確かに」起こったことだということを、これほどわからせてくれる本はそう多くないのではないか。
 この本を購入したのは昨夏だが、この夏もページを繰ってみた。年々暑くなる地球で、1年に1度くらい、人間の身勝手な傲慢さ、愚劣な行いを省みる機会を持つのはあながち意味のないことでもない。来年の8月にもこの本を開いてみるだろうと思う。
 世界に向けて原爆反対のメッセージを発信するという明確な意志をもって出版されたこの本には英文も添えられている。

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紙の本小説修業

2007/06/08 02:45

小説に未来はある−−と信じたい。

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 面白かった。面白すぎてあっという間に読んでしまって、快感という点では、たとえば村上春樹のエッセイを読んでいる時間の幸福感に似ていた。
 この本は、保坂和志と、保坂が「先生」と呼ぶ小島信夫との往復書簡という体裁の小説論であり、小島信夫論にほかならない。小説家・保坂和志がなぜ小島と小島作品を敬愛するのか、その理由を丁寧に説明することを軸に「小説の危機と可能性」を明らかにしようとしている。読者はまた、小島信夫という作家の特異性と重要性に(おそらく初めて)気づかされることにもなる。逆のやりとりもあるが、元々これは保坂のたくらみだったし、小島信夫にはそうした頓着はいつもあまりないのだ。
 自作品に対しても放任主義的な距離感を持つ小島は、かなり一方的な保坂の話にも丁寧に耳を傾け、「小島信夫」を材料に、むしろ生徒のような態度で小説についての考えを披瀝してはいる。
 というわけで、題名どおり、小説に対しては二人とも修業者である。二人の関係は対等だと何度も書かれているが、やはり小島が師もしくは兄弟子ということではあるのだろう。小島には修業を重ねた末に高みに到達した高僧のような自由さが感じられる。一方、保坂はこれから書く未来の小説に向けた意気込みやもがきがある。昨年(2006年)12月に小島信夫が亡くなった時には保坂も弔辞を読んだはずだが、ショックは大きかったろうと思う。私もこの本を読んで小島という作家が一気に身近に感じられて、ひどく残念な思いが募っている。謹んでご冥福をお祈りします。
 この二人の作家−−小島信夫と保坂和志−−の小説を、ただ「面白いか?」と問われれば、「村上春樹の小説を読むことに比べれば、はるかに面白くないと思う」と答えるだろう。しかしながら、小説はただ単に読者を面白がらせるためにだけ書かれるのでも、幸福な時間を読者に提供するためだけに書かれるのでもない。面白さにも色々ある。

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紙の本登ってわかる富士山の魅力

2009/04/11 11:44

富士山に登りたいという漠然とした気持ちが確信に変わる

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 素人への目線で書かれた肩ひじの張らない文章で、ひじょうに読みやく楽しかった。カラー写真はないけれども、必要十分な写真・地図などが配置されていて、過剰でない分かえって理解しやすい。富士山登頂の準備には十分な内容だと思った。
 そうした実用性以上に、富士山に登ることがいかに素晴らしい体験かという著者の思いがあふれていて、読み終わったときには、ぜひ富士山に登りたいという気持ちがさらに強くなっていた。

 著者は国内外の高峰にも登攀歴のある登山家だが、富士山登山についてはとりわけ広く深い知識と経験を持っている。あらゆるルートから登頂回数は数知れず。なお富士山への思いはとどまることを知らず、頂上からのスキー滑走や、果てはパラグライダー滑空までしてしまっている。まさに、富士山を知りつくし、遊びつくしている人なのである。
 そのアドバイスは、わかりやすく簡単なものも多いが、どれも説得力がある。たとえば「経験から、この山はとにかくゆっくり登るのが必勝法」。急いで登ってバテテしまっている若者をしり目にたいていは8号目あたりで追いつくらしい。
 素人には気になるトイレや服装・装備などについても親切に書かれている。基本ルートだけでなく、とっておきのルートも紹介してくれたり、富士山登山は実は甘く見てはいけない難事業なのだと言う一方で、健康な人がきちんと準備をすれば誰にだって可能なことでもあると背中を押してくれたり。気の知れたガイドに話を聞いているような気やすさと信頼感がある。
 ところで、この本では、中腹、5合目付近のハイキングについても1章が割かれている。こちらは大げさな準備をしなくても家族連れで訪れることが可能である。しかも、手軽なだけではなく侮れない魅力にあふれているようで、気候の良い時期のハイキングも相当楽しそうである。この本を手にとったときには、頂上に登るということしか考えていなかったので読み飛ばすところだった。
 著者の実感あふれる文章に引き込まれ、どっぷり富士山にはまってしまいそうだ。

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