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  3. sanctusjanuarisさんのレビュー一覧

sanctusjanuarisさんのレビュー一覧

投稿者:sanctusjanuaris

17 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本オリエンタリズム 上

2007/08/16 13:44

オリエンタリズムと二重の共犯関係

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

近代に入り、歴史学・文献学等の知の分野で、オリエント(東洋)に関するテクストが集積された。オリエントについての膨大なテクストの集積がオリエンタリズムだが、これは有機的な言説のシステムとなった。つまりオリエントに関する膨大なテクスト達は、西洋にとっての他者であるオリエントの表象を、西洋人たちにもたらした。その表象は、西洋人たちが「オリエント」と指し示す人々の表象だが、重要なのはこれらの人々の多様性ある個々のイメージが切り捨てられた表象ということだ。独り歩きするオリエントの表象は、やがて“真理”となり、「オリエント」と呼ばれる人たちがその表象に取り込まれていくだろう。十把ひとからげのテクストになまの人間をはめ込もうとする「テクスチュアルな」傾向性がそこにはある。
サイードの『オリエンタリズム』は、膨大なテクストをもとに、西洋=オリエンタリズムがいかに異文化=オリエントを表象してきたかを分析し「オリエント」が西洋がかってに作り上げた都合のよい他者のイメージであることを指摘する。そしてサイードは、そこに西洋とオリエントとの間に、権力関係・支配関係を見出す。
ここに彼は、フーコーの提起した知と権力の相互作用を見出す。オリエンタリズムという知の体系が近代帝国主義権力によるオリエントの植民地化を促進させ、同時に権力に促されたオリエンタリズムが権威を持っていく。ここに第一の共犯関係がある。
さらにサイードのオリエンタリズム論で重要なポイントは、当のオリエントがオリエンタリズムにとって他者であるという点だ。つまり、皮肉なことに、オリエント自らが、オリエントのイメージを代表=表象する(represent)資格も能力もないので、本来第三者である西洋にイメージを作ってもらわなければならないという状態だ。「オリエントは西洋にとっての局外者(アウトサイダー)であるとともに、西洋に合体させられた弱いパートナーでもあった」((下)、p.26)。オリエントの人々はオリエンタリズムのイメージにあった「オリエント」へと訓練されていき、オリエンタリズムに寄与するのだ。ここに第二の共犯関係がある。
このようにオリエンタリズムは二重の共犯関係のもと、文化的優勢を勝ち取っていった。

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紙の本脂肪のかたまり

2007/08/16 02:09

脂肪のかたまりは何を指し示すのか(シニフィアンの横滑りテクニック)

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

全てにおいて平均値を取る人間などこの世に存在しないはずだ。身長・体重・考え方等。だが、人間の集合体というのは不思議で、存在しないはずの“平均値人間”が作用する。みんなを見て私はデブだと思う。みんなを見て、あの人の考えは偏っていると思う。一人ひとりが、みんなはかくかくしかじかだろうと思って、みんなが平均値に収束しようとする。そういう集団内部では、見えない“平均値人間”が裏で糸を引いているような様相になると思う。
読者は平均値人間という亡霊の姿、集団悪を『脂肪のかたまり』に見るだろう。ブール・ド・シュイフという女性の悲しみと屈辱の物語ではとどまらない。ブール・ド・シュイフという登場人物は、複数の指し示し機能を担っている。言語学の専門用語で、シニフィエと言ってもいいかもしれない。ブール・ド・シュイフという言葉は題名の「脂肪のかたまり」を意味するが、ブール・ド・シュイフは、彼女自身の体型をまず指し示す。だが、読み進めるうちに、ブール・ド・シュイフは、彼女と屹立する、平均値人間に操られる人びとを指し示していることを見出すことになるだろう。魂なき、肉のかたまりという意味でのブール・ド・シュイフたちを。そしてそれは戦争と兵隊という無駄なものをも指し示していることにも気づかされるだろう。その人員と労力で畑を耕せばいいのに、むしろ人殺しのために使われている、無駄、浪費という意味でのブール・ド・シュイフたちに。
ゆえに読者は読後に発見することだろう。読み始めるときにブール・ド・シュイフが指し示していたものと読後に指し示していたものが全くことなることを。

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紙の本認識と関心

2007/08/16 10:31

認識と関心から批判概念へ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ハーバーマスは20世紀後半の最も著名な哲学者。壮大で徹底的に抽象的な理論を構築するのみならず、政治批判、道徳の構造、科学の機能など重要なメッセージを発信し続けている。
『認識と関心』の内容は、端的に言って、いかなる純粋認識もありえず、認識には必ず利害関心、自然連関(肉体、欲求、感情など)と結びつかざるをえないことを、カント以降の哲学者たちの議論に沿って証明しようとする初期の著作である。
この理論上の目的を念頭に置かず突然この本を読むと、難解さが増すかもしれない。だが別の読み方もある。『認識と関心』は、カント、ヘーゲル、マルクス、コント、マッハ、パース、ディルタイ、フロイトが主に取り上げられるが、各哲学者ごとでほぼ一つの章となっていて、ハーバーマス理論の図式から詳細に批評される形で議論展開がなされる。したがって、これを近代哲学史の教科書として読むことも可能だろう。
ハーバーマスによれば実証主義は、客観的に観察される対象を上記自然連関や経済・利害関心から切り離して認識できるとみなす基本的態度を持つ。だが彼は指摘する。科学的認識であっても必ず何らかの利害関心と関わらざるをえない。この事実を実証主義は見過ごしていると。これは科学の不十分な自己理解・過信と捉えられるだろう。科学が経済・政治的利害と結びつきうることを直視しなければ、結果として無批判・無責任な科学的発明や言説が流れる危険性が出るのである。
結論として、上記実証主義的態度に立脚する科学に欠落しているのは批判である。科学の代表的機関は大学や研究所だが、これが今の社会情勢とどう結びついているのか、利害がどう絡んでくるのか、常に明確に認識し、時には自己・社会批判をせねばならない。単に経済効果があるものを開発するのではなく。戦争という科学の暴走を食い止めるためにも。

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歴史描写、批判、公共圏再生

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『公共性の構造転換』は、ハーバーマス最初期の大著である。本書は少なくとも次の2点で意義を持つ。1.彼の理論上不可欠な概念や方法論の萌芽が散見され、特に90年代の大著『事実性と妥当性』を理解する上で不可欠の書であること。2.私たち市民の社会・政治参加の姿を反省させる土台となること。
本書は、人々が理性的な討論によって合意を達成するための領域つまり公共圏のあり方を模索する。中世から最近までのイギリス・フランス・ドイツにおける公共圏をめぐる歴史、20世紀半ば頃のマス・メディア等の状況を見つめつつ理論展開される。
彼はまず古代ギリシャの都市国家におけるギリシャ的公共性のモデルは独特の規範的な力を帯びてルネッサンスを経て今日にまでおよぶと論ずる。次に中世封建制社会の公共性のあり方に目を向ける。高貴で厳格な作法という人間の振舞い方が当時の公共性を担った。この高貴な作法は宮廷貴族や騎士たちの行動基準となる。高貴な作法を基準に生活する宮廷貴族たちの間に「優雅な世界」つまり社交界が形成される。これが文芸的公共圏である。続いて金融資本の発達に伴う経済の複雑化と国家の官僚組織化(近代化)により、国家運営(行政)が国王の身辺から乖離しだす。同時に社交界は宮廷から分離し、フランスではサロン、イギリスではカフェ、ドイツでは夕食クラブという交際領域になる。交際領域は、貴族と中産階級ブルジョア知識人が出会うことを可能にした。この交際領域は一般人に対して開かれている。そこに一貫した基準をハーバーマスは見出す。つまり、交際領域では社会的地位は度外視され、コミュニケーションが「支配の権威」ではなく「論理の権威」にのみ貫かれたということだ。ゆえに参加者は、そういった公共圏の中で社会的地位も財産も度外視されて論理のみによる討議を行う。討議が行われる公共圏は、権力のないブルジョアが国家に影響を与える《政治的公共圏》に移り変わる。政治的公共圏の例としてイギリス議会制とジャーナリズムが挙げられる。ジャーナリズムによる討論が民意を形成し、議会に影響を及ぼした。政治的公共圏は、国家と市民の緊張関係で機能していたが、19世紀になると公共圏は構造転換する。大企業が出現し、労働の機能が家族の外部に出る。すると国家は福利厚生の名目で労働に介入する。人々のプライベートな生活の目的は消費や余暇という「片隅の幸福」に収縮する。先述の文芸的公共圏や政治的公共圏は、私生活領域で人々が自律的・理性的に決定を下すことができた。だが今やプライベートな領域や公共圏は、人々の自律的決定の場ではなく、消費や余暇の場だ。
ハーバーマスは古代ギリシャから18世紀までの一連のヨーロッパの歴史を描写する中から公共圏のあるべき姿、すなわち規範的公共圏のモデルを抽出した。この歴史反省は後の解釈学的方法論および普遍語用論的再構成を先取りしている。抽出された公共圏モデルから現代公共圏の“ずれ”を抉り出すのである。この抉り出しこそがハーバーマスの言う「批判」だろう。ハーバーマスは市民一人ひとりが現状の“ずれ”を抉り出し、批判していく討議領域を模索していると私は考える。

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紙の本二重人格 改版

2007/08/14 16:51

ドストエフスキーの境界線無効化テクニック

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『二重人格』は、ゴリャートキンという下級役人の精神的破滅に至るまでの生活が描かれる。
岩波文庫の解説者も指摘しているが、ドストエフスキーの作品の特色は現実と非現実の交錯だ。どの描写が現実あるいは非現実か分からないシーンが頻見される。
『二重人格』はゴリャートキンの混濁した視点をよく出している。新ゴリャートキンなる人物が突然登場する。彼は実在しているのか、それともゴリャートキンの妄想なのかよく分からない。(私は、実在していると思って読んだし、読後の今もそう思っている。)主人公ゴリャートキンの前に何度も仇敵として現れる。
都会に住む人の人格は、往々にして、ドッペルゲンガーとして現れる新ゴリャートキンと、劣等感にさいなまれながら栄達を妄想する当のゴリャートキンとが混在しているものなのだろうかと思うことがある。善良・素朴でこじんまりした自分に誇りを抱きつつ、うまく立ち回れると信じ、自分を落としいれようとする敵がいると警戒する。
『二重人格』は、妄想じみた現実、現実じみた妄想が混在しあっている描写をする。それによって『二重人格』は、リアリティと妄想の境界線をラディカルに曖昧化する。むしろ無化すると言っていいかもしれない。
リアリティと妄想は、『二重人格』において、お互いにエネルギー資源を供給し合うシステムとなり、最後までゴリャートキンの不思議な世界が展開されていく。
都会的人格の持ち主は『二重人格』を読むと、何かをつきつけられた気分になるのではないだろうか。

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紙の本レ・コスミコミケ

2007/08/04 19:01

素朴な言葉で壮大な宇宙を描いてしまったレ・コスミコミケ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

レ・コスミコミケは間違いなく異色だと思う。
構成としてはQfwfgが語る、
12章の物語からなっている。12個の章は、
ほとんど独立した短編として読むことができる。
一応時系列になっている(時間的前後関係が
不明なものもある)が、当の作品の中で、章の
時間的前後関係はとりたてて重要ではないと 思う。

「月の距離」(第1章)に出てくる「つんぼの従弟」は、
気ままに自分のロマンを追いかけている。彼は
『不在の騎士』に登場するグルドゥルーに
似ている。VhdVhd夫人はこの「つんぼの従弟」に
憧れ、QfwfgはVhdVhd夫人に恋焦がれる。

このような三角関係
  (一人の女性を巡って二人の男が争う)、
そして
トリックスター的な自己
  (両生類としてのQfwfg、あるいは恐竜としてのQfwfg)、
二項対立
  (「宇宙にしるしを」のQfwfg vs Kgwgk etc.)
が基本的な人間関係となっている。この関係を軸に物語りは
動いている。

各章の独立性が強い。とても面白い章もあれば、
退屈なのもあった。一人の人間の現実も、
百億光年離れた銀河も、宇宙ができるより前も、
恐竜の心情も、
水素の誕生も、
自由に行き来してQfwfgは語る。
(彼が何者かは謎である。)
宇宙の特殊な現象、
人間の日常生活とかけ離れきった世界の出来事を、
あたかも私たちの日常生活の出来事を
記述する/語る調子で、展開させていく。
魚の叔父と新生類のフィアンセの間で
板ばさみとなった両生類のQfwfg。
宇宙の原型段階で、あらゆるものが未分化の状態に
あっても、真の愛情の発露であるPh(i)Nko夫人(後に
光熱エネルギーに分解され消滅してしまう)の
発言はただ、
「ねえ、みなさん。おいしいスパゲッティをみなさんに
ご馳走してあげたいわ!」という素朴なものだった。

カルビーノは、
いがみ合い、失恋、深い愛情など、素朴な
日常の出来事を、壮大な宇宙の現象に
絡み合わせて、面白い描写をする。
その力量ゆえに、
Qfwfgが壮大な宇宙見渡し図を、
人の素朴な言葉でさらりと言いのけてしまった
異色の作品が出来上がったのだろう。

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紙の本幽霊たち

2007/08/28 22:42

透き通る存在

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

初めにブルーがいて、次にホワイトがいて、そしてブラックがいる。探偵ブルーはホワイトから依頼を受ける。ブラックをずっと見張り続けるように、と。書き物と散歩しかしないブラックの毎日を、ブルーはアパートの窓越しに眺め続ける。さしずめこの小説は、ブラックを描写するブルーの描写だ。だが、ブルーに、描写という役割を与えたのは、ホワイトであり、そしてブラックだった。ところが、ブルーの作成した無味乾燥な事実の羅列に、ブラックは自分の存在意義があると思う。
ブラックとホワイト、そしてブルーの存在と役割は、彼らの相互依存のみによって存立している。しかもその依存関係が、堂々巡りの幻のようなものであることが、物語が進むうちに、分かってくる。読者がそれに感づく頃に、彼らの存在は、透明で抽象的な、ゴーストになっていく。
作者は、ホイットマンとソローにも言及する。都会の外部即ち自然で暮らした偉人たちだ。ソローやホイットマンは、ブルー達のような都会のパーソナリティと対極にある象徴だろう。後半で作者は、最後にブルーはブラックをぶちのめして旅に出てしまうとしておこうと書き、描写を留保する。一見解釈余地を多分に与えてくれるようだが、この作品の目論見は、解釈余地の深さを示すことではなく、存在の抽象性が引き起こす不安を表現することにあるだろう。だからソローやホイットマンの登場や、ブルーの最後の行為の仄めかしで、読者を救われた気分にさせようなどと作者は思っていない。『幽霊たち』の登場人物は、抽象的なペルソナだろう。色で指し示されているが、代名詞や代数で彼らを呼んでも変わりない。ブルーとブラックはxとyでもよかった。
都会的パーソナリティの持ち主たちは、己の存在に意義を追い求めた。だが追い求めるほどに、存在は透明になり抽象化していった。郊外に解決を求めようとしても、出口は、ない。存在なるものの根っこには、そもそも拭いがたい透明さがある。己の存在を追う不気味な登場人物たち以外にも、この存在の根源的な透明さという幽霊たちも、当作品に出没しているのだ。彼らが取り付かれたように己の存在を追う過程で、鬼火のように立ち現れる幽霊が微妙に発見されることだろう。

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ロンドンの道徳論

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

バックの雄々しさ、橇犬たちの使命への忠実さがあり、
棍棒と牙の掟がある。ソーントンという人間への
強い愛情と忠誠心は、猟犬たちの道徳とも捉えられると思う。

ジャック・ロンドンは、橇犬を題材に、道徳を描写した。
彼の小説は完成度が高いと評価されるのは、
ストーリーが完結している点や、的確な表現・物語展開に
あるのみならず、
橇犬の道徳を小説の中で形にしている点にもあると思う。
私はこの作品をロンドンの道徳論とも捉えたい。

その道徳は、独特だ。
厳しい自然を生き抜く者たち(ここに人間や動物の
区別はない)の、生き抜くための鉄の掟だ。

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あら皮、放蕩、風刺

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

怪しげな店舗で手に入れたあら皮のおかげで、
ラファエルという男は願いを叶えることが
できるようになる。
あら皮を持つ者は望みが必ず叶うが、その引き換えに
寿命が縮む。
悪魔との契約(欲望を満たすかわりに、
悪魔に魂を売る)というよく知られている題材が
そこにはある。

注目すべき点は、バルザックの放蕩論がこの作品で
コンパクトにまとめられているということだ。
放蕩と信仰の関係が述べられたり、
放蕩を悪魔に払う税金とする見解が出てきたりする。
かといって、バルザックは必ずしも、マルキ・ド・サドの
ように放蕩を賛美しているわけではないと思う。

友人エミールに連れて行かれたタイユフェールの屋敷での
乱痴気騒ぎの後のおぞましさ、後悔等を奔放な比喩で
描いている。
あら皮のせいで結局何一つ望むことができなくなる
ラファエルの最後の生き方は、とても皮肉なありさまだ。
バルザックの痛烈な風刺は、こんにちでも大いに
参考になると思います。

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紙の本カンタベリー物語 完訳 改版 上

2007/08/14 16:00

正義概念とカンタベリー物語

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

古代ギリシャで、価値観・社会構造が激変していた時代に、正義という言葉が生まれたと、倫理学者マッキンタイアは指摘したのを昔読んだことがある
(マッキンタイア著、『西洋倫理学史』、深谷昭三訳、以文社)。

ディカイオシュネー(Δικαιοσννη)という古代ギリシャ語が、正義の語源とされる。政権や価値観が激変する中でも、厳然と不動であることこそ、正義・ディカイオシュネーの重要なアウトラインだ。
いってみれば、
政権交代が起こって、貴族たちが没落した後も、
自分たちは貴族で、高貴で、政権交代が起こる前の古き良き時代の我々こそが、ディカイオシュネーだと没落貴族たちが言うわけだ。

本題ではないので詳細は省くが、正義概念の誕生には、二つのポイントが見て取られた。


時の権力と富を寡占的に所有していた
貴族たちの回顧、復古願望の表れとして、
ディカイオシュネー=正義という
言葉が生まれたといえると思われる。


政権や価値観が激変する中でも、もとから高貴な者は、厳然と高貴であり、
真理のごとく永遠不変であること。
(これは、厳格な法と手続きに則って感情を交えることなく善いものは善いと判断する今の(?)正義の考え方につながるものがあるように思われる。

以上2点の正義概念解釈を念頭に置くと、時代はかなり下るが、
『カンタベリー物語』を新しい視点から読むことができる。

『カンタベリー物語』は、さまざまな階級の人たちが一緒に巡礼する中、各人が順番に物語をする。
身分の高い人から低い人までいて、順々に語るのだが、とくに身分の高い人たちの物語には、一定の傾向が見て取られる。

『カンタベリー物語』はべつに正義がテーマではないが、
上記Aに類する心の動き、
上記Bの論証が、
身分の高い人たちの物語には垣間見える。

敬虔な信仰と高貴な血筋を持つある女性(コンスタンツ)が船が難破したため異国に迷い込んでしまう。
また、
事情によりある男(アルシーテ)はその高貴な元の姿を隠して貧しい者になりすまして、城の従者として二年ほど暮らす。

だが彼らは、その生まれながらに持つ高貴さゆえに、異郷の地であろうと元の身分を隠そうと、相応の地位へと昇ることになる。

難破や恋の病により(原因はなんであれ)、彼らはいったんその身分が剥奪されるが、また元の位置へと帰っていく。これがカンタベリー物語のうち、
身分高い人たちが話す物語の基本構成となっている。

そこには、現状の地位を喪失するのではないかという不安、そして自分たちの地位は生まれながらの不変のものであることを、物語の形を借りて論証することで不安を解消しようとする意図が浮かび上がってくるように思う。


以上は『カンタベリー物語』を、言葉のほんの一面から見た場合の、一所感にすぎないが、現代イギリス人の思考の原型、当時の歴史的背景、面白い生活史、ささいだが不思議な発想など、掘り起こしたくなる遺跡がたくさん
埋もれていると期待している。

遠い異国の遠い昔の物語と疎遠に思われず、多くの方々が書の考古学者になりきって『カンタベリー物語』から楽しい遺跡を発掘されんことを祈る。

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紙の本魂を漁る女

2007/08/04 14:25

女性の妖しい魅力

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

狂信的教団の中心的女性であるドラゴミラ。彼女の
幼馴染ツェジム・ヤデフスキー。ツェジムを愛する少女
アニッタ。どんな女性でも己のものにできる完璧な貴公子
でありながら、アニッタとドラゴミラに叶わぬ愛を抱く
ソルテュク伯爵。
おもに彼らを中心にストーリーが展開される。
ドラゴミラの属する教団は、神父アポストルのもと、
荒廃した生活を送る人々を誘拐し、残酷な手法で
殺害する組織だ。この物語では、ソルテュク伯爵の殺害を
目的としてドラゴミラがキエフに送り込まれる。
だが狂信的テロリストによる連続殺人の物語を
期待してはならない。もっとも、殺害のシーン、奇妙な
儀式などは描かれるが。
むしろマゾッホは、ドラゴミラという
サディスティックな女性を描くのだ。ドラゴミラの
冷たくて謎めいた、それなのに甘くて薫り高い
魅力を描くためにこそ、その他すべての描写がある。
これほどまでに魅力を持った完璧な女性像は
おそらく他にないだろう。

読み進めるうちに、読者の頭には、ドラゴミラの幾多の、
目のイメージが浮き上がってくるだろう。

毅然として敵と信奉者たちを見下ろす厳格かつ誇り高い
女王の目。神の意思を試し、ライオンの前に立つ狂信の目。
神と救済の教義を説き、茨の信仰の道を貫こうとする
絶望的信念の目。そしてマゾッホがあまりにも華麗に描く
ドラゴミラのめまぐるしい変装は、魅力を最高潮に
引き上げている。殺害ターゲットに近づくために男装したり
看護婦に成りすましたり、ドラゴミラは様々に変装を遂げる。
仮面舞踏会にスルタンの妃の姿をして現れ、艶やかに
ツェジムとソルテュクの心を一挙につかみ放さない。
その色とりどりに変装する女策士の狡猾で妖艶な目。

これら相容れぬいくつかの目を持ったドラゴミラは、必ずしもその信仰や目的に向けて一貫した思考と信念で行動していないことは明白である。艶やかに着飾ること、ソルテュクを誘惑することを楽しむ遊び心がある。ドラゴミラの冷たい目の魅力を構成しているのはそういった成分だろう。

ドラゴミラは、荒涼とした信仰の茨の道を永遠に歩き続ける。だがそれにも関わらず、七変化する彼女の行動は、トルコのエキゾティックなオリエントの情緒、音楽と謎めいた香りを引き起こしてくれる。

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紙の本アドルノ

2007/08/04 13:55

忘れてはならない知識人

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アドルノの難解な思想に共感すべき部分が
多々あることが発見できた。
産業文化の批判。気弱でありながらも敢然と
社会批判を行ない続けた知識人。
その言説が与えた社会への影響は大だったと
信じたい。難解であるにもかかわらず。
日本の知識人の間に、こういった類の批判理論家は
どこにいるだろう。
アドルノの思想は教えてくれるような気がする:
空理空論の世界に逃避してはならない、
この苦痛と汚濁の虚偽的社会を鋭く見つめ続けねばならぬ、
社会的弱者の痛み、
社会批判の言説を常に発信する勇気を忘れてはならぬ、
等々。
アドルノはマスメディアの歪みにも鋭く切り込んだ。
彼らが言論の自由のためと称して当局(国家権力など)に
対立するのは、真の批判の自由、真の
報道の自由のためではなく、
彼ら自信の利害、すなわちニュース・バリューのため
であり、
彼らの生産・加工・出荷するニュースという商品の
市場価格が侵されたことへの抵抗や騒ぎにすぎない
ということだ。

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紙の本社会科学の論理によせて

2007/08/16 11:13

社会科学の論理と批判

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著名な現代の哲学者であるハーバーマスは、縦横に思想家のテクストを取り上げ、批評していき軽妙に文脈をつなぎ合わせていく論述形式をとる。多くの読者はこれを奇異に感じるだろう。だが、著名な哲学者ハーバーマスは、若い頃新聞に書評を載せていたという批評家気質、脈々と続く文化の流れの中でこそ自身の発言を行なおうとする一貫した態度を念頭におけば、納得いくものだと思う。
『社会科学の論理によせて』も同様の論述形式だ。だが本書に入る前提知識として、ヴェーバー、パーソンズ、シュッツなどの行為理論を確認しておくべきだろう。
さて、社会科学が行為理論を提供するものである限り、行為者の主観的意味を考慮することは回避できない。だから行為者の主観的意味を「理解」するために、行為者の視点にたった方法論が必要である。この前提から、行為者の視点を省みない方法論を批判していく論述形式をとる。それによって行為者による意味の観点を行為理論に組み込もうとする(「意味理解の問題構成(Problematik)」)。
本書は大きく分けて3章立ての議論になっている。第一に、社会学の対象である社会的行為が二つの次元(いわば精神の次元と物質の次元)から成り立っているということを示し、それによって社会的行為を分析する方法も二種類必要となることを提示する。すなわち、社会科学の分析対象である行為者の視点にたつことによる行為の「理解」という方法と、行為における法則性の「説明」という方法である。このような区別によってハーバーマスは、行為理論に意味理解の観点を組み込んでいくための土台を設定したといえる。なぜならその二つの次元を区別することによって、行為を物質次元に還元し、精神の次元を排除するような行為理論(行動主義的アプローチ)を批判し、精神次元を強調するための土台が出来上がるからだ。第二に、行為者における意味の問題を扱いえない行為理論ないし「意味理解」をはじめから排除しようとする行為理論(むしろ行動理論)、規範的‐分析的アプローチや行動主義的アプローチを批判する。第三に、3つのアプローチ(現象学的アプローチ・言語学的アプローチ・解釈学的アプローチ)を提示して、意味理解の問題構成を行う。このように、本書の課題は、行為理論に「意味理解の問題」をいかにして組み込むかということであるといえる。

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悪の描写機能としての富江の役割

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『富江』の奇想天外さは、恐怖と哄笑を同時に引き起こす。何という作品だろう。菅野美穂が主演の映画『富江』も見てみたが、こちらは原作と方向性が大きく異なっているので、私の意見としては、全く別の作品と捉えたい。(映画は映画で評価すべきところあり。)
ここでは、悪を描く究極の機能として、富江というキャラクターの一面について考えを述べることで、一風変わった書評としたい。
この世のあらゆる極悪非道さを一身に背負った男が、ここにいるとする。女を切り裂き、ばらす。欲望・感情が倒錯し、あらゆる残虐非道をする。この男の心象風景はいかなるものだろうか。それを描写することは、もはやできないと私は思う。この男の精神は、人間の認識能力、追体験の範囲をはるか彼方まで超えてしまっているからだ。極悪者は感情を完全に喪失し、描写できる心理がもはや存在しない。それゆえ、そこにはすでに人間の意識と呼びうるものがない、と考える。いくら彼の心理描写を試みても、粉飾的な形容詞、華美な装飾語の羅列になるだけなのだ。「けしからぬ…、想像を絶する…、残虐きわまりない…」等、いかなる表現も、極悪者の前では空しい。
どのような表現も超え出る極悪者を描写する強烈な機能として、富江が挙げられる。ちなみにここでは、富江を誘惑する悪女と捉える観点からは離れ、富江を極悪者の精神状態の象徴と捉えてみてみよう。すると、富江という表現媒体は、過酷・異常な事実や行為をひたすら描写する中で、極悪者の精神状態を浮き彫りにする役割を担っていると捉えられる。したがって極悪者の心象風景とは、即、彼の眼前に繰り広げられている富江の悲惨な様相そのものなのだ。たしかヘーゲルが殺人者の精神状態について同様のことを論じていたと記憶する。
殺人鬼の荒んだ心は、それを取り巻く無残な富江の死骸が表現するゆえに、富江自身が表現媒体そのものだ。倒錯した欲望の噴出した男の破壊衝動は、逆に富江の肉そのものを無限に増殖させる。大量生産される悪の表現-機械としての富江は増殖しすぎて、物語の論理自体も破壊して収拾がつかなくなる形で物語が終わるケースも見られる。そこに笑いが生まれる。ホラー漫画にもかかわらず。だが、物語の枠すらも飛び越えて、こちら側に来たりはしないかという恐怖を同時に引き起こす。

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紙の本インド夜想曲

2007/08/04 13:25

不眠、旅、展開

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『インド夜想曲』(アントニオ・タブッキ著)。
この小説のテーマは不眠と旅。章ごとに場面は変わっていく。
テンポ速く移りゆく。

旅による移動がストーリー展開と絡み合い、
テンポの速い印象を 与える。
日は沈む。太陽はこっそり昇り、いつの間にか
深夜に なっている。現実=昼に帰ろうとしても、
すぐに夜に引き戻されて しまうかのようだ。
インド-ポルトガル-イギリス-神秘主義。
そして インド。不思議な旅行記だ。
「僕」の旅日記であり、小説であり、
そして内省である。

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