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たけのこさんのレビュー一覧

投稿者:たけのこ

61 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本魔羅節

2002/02/05 05:29

近代日本の都市下層社会

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 短編小説「乞食柱」「魔羅節」「きちがい日和」「おめこ電球」「金玉娘」「支那艶情」「淫売監獄」「片輪車」を収録。一つ一つ、手で入力していくとATOKはどの言葉を辞書に登録していて、どの言葉を排除しているかがわかる。まともに変換できたのは、八つのうち二つ(ちなみに「乞食」と「淫売」)だけであった。内容も、処女のあそこに乞食が指を這わせる話(「乞食柱」)とか、美青年が村中の男におかまを掘られる話(「魔羅節」)とか、島に流れ着いた精力絶倫のオットセイ男に女が群がる話(「きちがい日和」)とか、もうそんなのばっかり。

 表題作の「魔羅節」は、かつお節みたいに干からびてカチンカチンになったやつを想像したら——それはそれで愛のコリーダというか、さぞかし壮絶な物語になりそうだが——、そうではなかった。日露戦後の岡山、都市下層社会。男娼の兄と小学生の妹が棟割り長屋でひっそり暮らしている。夕方になると兄は、ひげ剃り跡に資生堂のオイデルミン化粧水をすり込み、女の腰巻きを付けて街に出ていく。兄のいない長い夜の妹の耳に、また嫌な客の相手をして、なかなか寝付けない朝の兄の耳に、こびりついて離れない唄がある。「雨はどこ降る 魔羅を出しとる こっちに降りょる……ヒョンナゲ ヒョンナゲ ヒョンナゲじゃ」(p.44)。その唄が雨乞いの魔羅節で、それは二人が出奔した故郷の村の忌まわしい記憶と結びついていた。

 タイトルのインパクトでは「おめこ電球」も相当なものである。なんだと思うでしょう。電球入れて光らせるのかと思ったよ。しかしこれも、そうではなかった。「これじゃ、これ。男と女がオカイチョウする時につける電球じゃ……そのまんまの電球点(つ)けたんじゃ明るすぎようが。電気の球の横ちょに付いとる螺子(ねじ)、あれをパチンとさせてみぃ。橙色ちゅうか、薄暗え色の電気になろうが。これが『おめこ電球』じゃ」(p.84)。そんな年上の女の言葉に、電気の通っていない貧しい農村育ちの男が目をパチクリさせる。それが男の身の上話のはじまりで、男は人を殺して、財を築いた過去をとうとうと語る。ところがその話のすべては、座敷牢の狂人が作り上げた妄想で……という仕掛け。

 このほか、養母の寝床に間男がやって来る「金玉娘」、支那そば屋の娘が手ごめにされる「支那艶情」、女郎が死体と添い寝する「淫売監獄」、あの世へいざなう人力車がやってくる「片輪車」と、どれもこれも湿度の高いエログロ・ホラー小説が並ぶ。

 しかしそれでいてこれ、岡山県山間部・農村部と、都市部・沿岸部の生産力格差→人口移動→都市下層社会の形成という近代日本の社会経済史が、農村から都会へ出ていく男や、女郎に売られる娘にとって、どういう実存的意味を持っていたかの裏面史にもちゃんとなっているので侮(あなど)れない。岩井志麻子の岡山物のうち、出世作『ぼっけえ、きょうてえ』(角川書店、1999年)が近代化(鉄道、役場、学校、徴兵)の怪談、『岡山女』(同、2000年)が都市的生活様式(消費、メディア、テクノロジー)の怪談であったとすると、これは社会移動の怪談(もしくは猥談)とでもいったところか。
 【たけのこ雑記帖】

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社会学から現代思想へ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 NHK少年ドラマ・シリーズ第一作『タイム・トラベラー』が放映されたのは1972年1月、わたしは小学6年生だった。札幌オリンピック、あさま山荘事件の年である。チェンバロか何かを使ったテーマ曲が印象的で、音楽もドラマもどこか『ウルトラQ』の世界に似た雰囲気をかもし出していたからすぐに夢中になり、最終回まで欠かさずに見た。

 ヒロインの少女(島田淳子、のちの浅野真弓)がラベンダーの匂いをかいでタイム・トラベルの超能力を刺激されるという設定にも、なにか妖しげな魅力を感じた。ラベンダーなどという花は当時まだ見たこともなく、言葉の響きがいかにも神秘的に聞こえたものだ。

 本書によると、筒井康隆の原作『時をかける少女』は最初、雑誌『中三コース』1965年11月号から『高一コース』66年5月号にかけて連載され、67年に鶴書房盛光社から単行本として刊行された。むろん、この小説もテレビドラマの放映が終了してしばらくしてから書店で見つけて読んでいる。

 その後、『時をかける少女』は1983年の角川映画、フジテレビ月曜ドラマランド(85年)、フジテレビ連続ドラマ(91年)、角川春樹監督による再映画化(97年)と数度にわたり映像化された。つまり『時をかける少女』という作品自体が、何十年もの時をかけ抜けてきたわけだ。

 この本は、小説とテレビと映画の『時をかける少女』正編・続編すべてを対象にその「時間と空間の物語」(オビ)を解読してみせる。『時をかける少女』は、タイム・トラベルの能力を持ってしまった少女の記憶を最後に消してしまうことによって純愛小説になりえたという「小説論」。またそれは、タイム・マシンのような科学技術がほとんど出てこないにもかかわらず、近代SF文学史に棹さすSF小説であったとする「SF論」。

 社会学的な分析もある。60年代における急速な進学率の上昇を背景に論じる「読者論」。連載小説・連続ドラマに関する「続編論」。80年代角川映画のヒロイン(薬師丸ひろ子や原田知世)は、それまでの吉永小百合や山口百恵とどこが違うかを示す「文化論」。このあたりまでは文章も平易で読みやすい。

 しかし章を追うにしたがってどんどん抽象のレベルが高くなり、《物語の構造分析》が展開される「構造論」、小説と映画の語り手に注目するナラトロジー=「語り論」のあたりになるともうわたしには歯が立たない。それでも著者はついてこれるかという勢いで筆を進めて、フェミニズム批評風の「少女論」をはさんで最後には、おなじ筒井康隆作の『文学部唯野教授』に出てくるポストモダンな文学理論を用いた『時をかける少女』テキスト群の「脱構築」までやってのける。

 あとがきによると、著者は社会学専攻から思想史、文学、映画に進んだ人なのだという。ある部分、たとえば前半で時代背景と作品を結びつける箇所に社会学を感じる(センス・オブ・ソシオロジー)のはそれでかと思い、後半わたしにはほとんど理解不能になるのもそれでかと納得する。「この書物には僕のなかにあったかもしれない社会学的な志向性はほとんど消え去ってしまっているのではないだろうか」(p.267)、とのことだ。
【たけのこ雑記帖】

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ウルトラマン“怪獣殿下”の家

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 千葉県松戸市の常盤平団地(約5000戸)は日本住宅公団の開発で、1960年入居開始。高度経済成長期における生活革新の最先端を担った住宅団地も、入居後すでに40年以上の年月が経過した。著者が勤務する松戸市立博物館では、当時の団地生活を原寸大の住宅模型で再現した常設展示をおこなっているという。また昨年(2000年)は、常磐平団地住民のカメラマンが入居以来撮りつづけてきた家族写真を中心として、企画展「戦後松戸の生活革新」を開催した。本書はその記録である。

 団地もとうとう博物館入りかとパラパラ立ち読みするうち、家族写真の1枚につけられた解説に目がとまった。スポーツ新聞社のカメラマンだった小櫃(おびつ)さんの長男は、1959年11月生まれ。わたし(12月生まれ)と同い年ではないか。団地の40年史は、わが同世代の成育史でもあった。

 本書によると小櫃さん一家は最初、荒川区三河島のアパートに住んでいたが、日当たりの悪い部屋では長男の育児によくないと公団住宅や都営住宅に応募しつづけて常磐平団地に当選した。それだけに、公園のブランコに乗ってほほえむ赤ちゃん(1959年生まれの長男)の写真や、団地内の通路を歩く親子づれの写真などは、どれもいかにも幸せそうだ。

 しかしいうまでもなく、このような郊外家庭の幸福をだれもが享受できたわけではない。公団住宅の入居条件として当時、家賃5350円(2DK)の5.5倍以上の月収が必要とされ、そのことは団地住民の社会階層をおのずから限定した。あのころ「団地族」と呼ばれた彼らの平均像を、1960年版『国民生活白書』は、「世帯主の年齢が若く、小家族で共稼ぎの世帯もかなりあり、年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業や公官庁に勤めるインテリ、サラリーマン」と描写する。

 若くて所得水準の高い彼らは、消費の分野においても新たな生活スタイルを切りひらいていった。小櫃家の子供たちもダイニングテーブルでトーストの朝食をとり、学習机で勉強し、もちろんテレビも見て、夜は二段ベッドで眠っている。鉄腕アトムや鉄人28号の、いまでいうキャラクター・グッズも、このころがはしりだろう。

 そういえば『ウルトラマン』のゴモラの回で、こうした団地っ子たちが怪獣やウルトラマンのお面をつけて遊んでいたのを思い出す。主人公の“怪獣殿下”が団地の家に帰ると、パパはインテリで本棚にずらっと本が並んでいた。いなかの子のわたしは、当時どういう思いでその映像を見ていたのだろう。そもそも団地というものが何なのかわからないわけだから想像を絶していたか、それとも怪獣めあてで人間ドラマの部分には興味がなかったか。

 それでもテレビだけは共通点で、小櫃家の子供たちが白黒テレビの前にすわっている写真が何枚かある(そのうちの1枚には「エイトマン」が映っている)。まったく同じ構図の写真が、わたしにもある。さて、いまの子はわざわざテレビの前で写真なんか撮ったりするかな。それほどテレビとは高度経済成長期における新しい生活様式の象徴であったのか、というようなことも思う。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本ホワイト・ティース 上

2001/11/01 17:54

イギリス版「渡る世間は鬼ばかり」の社会学

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 帯に「ロンドン発、21世紀のディケンズ!?」とあるうち、ディケンズではなくロンドンのほうに反応して、裏をひっくり返してみたら、「三組の移民家族を中心に、カオスの都ロンドンを活写する」などと書いてある。こういう都市社会学を、読まずにすませるわけにいかないじゃありませんか。

 イギリス労働者階級のアーチーと、バングラデシュ人でイスラム教を信奉するサマード。かつての宗主国と植民地に属する二人は、第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の戦友であった。その二人が、戦後のロンドンでそれぞれ家族を作りながらも、街のパブで長年の交友を保つ。

 アーチーの結婚相手はジャマイカ人のクララ。その母親ホーテンスは熱心な「エホバの証人」の信者である。アーチーとクララのあいだには、褐色の肌に青い目を持つ娘アイリー。サマードとバングラデシュ人の妻アルサナのあいだには、ふたごの兄弟マジドとミラト。やがてマジドはロンドンの都市下層社会であえぐサマードの希望を背負って、祖国バングラデシュでエリート教育を受ける。一方ミラトは、不良仲間(ストリート・ボーイズ)との交際を通して、イスラム原理主義過激派の青年団体に接近する。ふたごでありながら、マジドとミラトの運命は180度異なるものとなる。

 またアーチーの娘アイリーは、総合中等学校の同級生で、ユダヤ人科学者マーカスの息子ジョシュアとつき合いはじめ、マーカスの秘書的な役割を果たすようになる。バングラデシュから帰ってきたマジドも、マーカスの研究に参加する。

 ところがマーカスが進めていたのは、遺伝子工学によるネズミのDNA組み替え実験であった。これに、環境保護運動にかぶれたジョシュアが反発する。そこへイスラム原理主義のミラトや、アイリーの祖母で「エホバの証人」のホーテンスらもからんできて、アーチー、サマード、マーカスの一家が遺伝子工学・対・反遺伝子工学のイデオロギー戦争にドタバタと巻き込まれていく。

 この小説、イギリス版『渡る世間は鬼ばかり』というか、あのドラマでの岡倉や幸楽やその他、岡倉家の娘たちの嫁ぎ先の物語が、ここではイギリス労働者階級やイスラム原理主義者やユダヤ人科学者のそれぞれ一家によって演じられているのだと考えればわかりやすい。物語が枝葉末節にわたって、登場人物が増殖しつづけるところもよく似ている。この小説では、家族間や世代間の対立が、社会構造における民族集団やその他の集団間の亀裂にそのまま(あるいは多少屈折して)重なっているのである。

 英米でベストセラーとなったこの『ホワイト・ティース』、訳者解説によれば、「ハリウッドから映画化の誘いもきたというが、スミスはこれを断り、テレビドラマにしたいというBBCの申し入れを受託した」(下巻、pp.384-385)とのことである。さもありなん。一貫したストーリーよりむしろシチュエーションとギャグが持ち味のこの小説は、まさしく連続テレビドラマ向きの素材といっていい。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本絵子

2001/10/06 01:43

浜町公園のホームレス社会

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 21歳でバツイチの絵子(えこ)は、日本橋浜町(東京都中央区)生まれの生粋の下町娘。落語が好きで、小さいころからご当地ソングの「明治一代女」(♪浮いた浮いたと浜町河岸に)を口ずさんでいたような古風な面もあるが、ロック・ミュージシャンの彼氏と結婚して、すぐに別れてからまだ1年たっていない。いまは生まれ育ったビルの谷間の一軒家に帰って、母と二人で住んでいる。「昭和の絵師」と呼ばれたイラストレーターの父は2年前にガンで死んだ。何も財産を残さなかったので、生計は母のパートと絵子のアルバイトで立てている。

 夜の銀座へアルバイトに行く途中では、いつも人形町の銭湯に寄る。そして、おばさんたちのおしゃべりに耳をかたむける。大阪人は日常会話が漫才だと東京人に思われているふしがあるが、なんの、東京の下町人だって会話が東京落語か、内海桂子・好江の漫才だ。聞いていて、おかしくてたまらない。

 そんな絵子の日常に、ある日、地元のホームレスさんたちとの接点が生まれる。隅田川沿いの高速道路下に段ボールハウスの“団地”を作って暮らす彼らは、哲学的な風貌で得体の知れない「先生」、元会社社長で藍綬褒章受章者の「ランジュさん」、スマイリー小原とスカイライナーズでアルトサックスを吹いていた(!)という「Fマイナーさん」、都内観光のバスガイドだった「ガイドさん」、そしてケンカに強い武闘派ホームレスの「シュンちゃん」……といった面々。

 ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」の、♪ためいきの出るような、チャララランラッと、アルトサックスで合いの手が入るところがありますね。あそこを吹いていたのが、Fマイナーさんなのだそうである。ホントかな。そんなホームレスさん一人ひとりの来歴に、興味しんしんの絵子。

 ところがそのFマイナーさんが肝臓を悪くして急死してしまう。段ボールハウスに残されたサキソフォンと、ザ・ピーナッツの曲の楽譜。ホームレスさんたちは、仲間どうしカンパをつのったり、娑婆にいたころのつてをたどって、なんとか葬式を出してあげようと奔走する。絵子は、ホームレス社会の奥の深さをまのあたりにすることになる(ここ、いちおう社会学)。

 一方、その葬式の席に寺の住職が連れてきたのが、なぜかゴスペル・シンガーの「剛くん」で、絵子はまたもや恋に落ちる。しかし絵子には、だれにも言えない悩みがあった。その悩みを解決しないことには、剛くんと幸せになることができない。絵子は、伝え聞いたホームレスの「先生」の“秘技”を授けてもらいに行く。そして、「先生」と絵子が達した結論とは——。

 カバーの絵は、いまは亡き上村一夫が描くところの、梅の枝ごしに不思議な角度でこちらを見上げている少女。絵子の父は「昭和の絵師」と呼ばれ、妖艶な美人画を得意とした広告代理店出身のイラストレーターという設定だが、そのイメージはどことなく上村一夫そのひとにも重なる。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本巨人、大鵬、卵焼き

2001/03/19 17:23

相撲社会の伝統と美徳の社会学

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 現役時代、「巨人、大鵬、卵焼き」(=子供の好きなものの意)といわれて「冗談じゃない」と思った、と書いてある。「いい選手をそろえて強くなった巨人と、裸一貫、稽古、稽古で横綱になった私が何で一緒なのか」(pp.138-139)。——昭和の名横綱・大鵬の、人にはうかがい知れない内面をつづった自伝。

 第48代横綱大鵬は本名を納谷幸喜といい、1940年樺太生まれ。戦時中に白系ロシア人の父がスパイ容疑で連行され行方不明になって以来、母と兄・姉との4人の暮らしは貧しさをきわめた。母の再婚相手が小学校の教師で、1年ごとに北海道の僻地を転々とするが、3年で離婚。中学を出て営林署の臨時職員となり山で働くかたわら、定時制高校にかよう。

 このころ、二所ノ関部屋の世話人をしていた人に見込まれ、北海道巡業中の親方に引き合わされる。着の身着のまま親方の名前も知らずに入門し、183センチ70キロ、がりがりのやせっぽちが旺盛な食欲であきれられた。しかし九州出身者の多かった二所ノ関部屋で、北海道出身は同期の成田(のち前頭玉嵐)と二人きり。みるみる頭角をあらわす幸喜に、兄弟子たちのしごきが集中する。「きっと見返してやる」(p.64)との思いを胸に辛抱するほかなかった。

 1961年、柏戸とともに横綱へ同時昇進、柏鵬時代を築く。だがその栄光の一方で、石原慎太郎が口火を切った八百長騒動、ハワイのファンから送られた拳銃の不法所持事件、それに何より高血圧がたたっての故障続きと、けっして順風満帆ばかりの相撲人生であったわけではない。努力の人・大鵬は天才と呼ばれることを嫌う。それをいうなら「むしろ柏戸さんの方が、ケガのためあんまり稽古しないのに、あんなに強かった点では、『大鵬より柏戸の方が天才だった』というべきだろう」(p.139)。

 こういう人だけに、“いまどきの若い者”への不満もくすぶる。随所にその煙が立っているような本でもある。説教は礼儀作法から食事の内容にまで及ぶが、とくにタテ社会としての相撲社会の人間関係が失われていくことに強い危機感を示す。

  《若い衆には「堅苦しい席ほど出なきゃならんぞ」と言っている。「ああ、こういうもんだなあ」というだけでもいい。今の時代は、堅苦しいのは徹底的に毛嫌いされる。しかし、友達同士でわいわいやっているだけでは、何の足しにもならない。例えば、年上、目上の人と敬語を使いながら話す。そういうのは大変だけど、どんなに勉強になったか。》(p.83)

  《やはりふき掃除、洗濯など、一から修業して、力士として人間として、だんだんと成長していくことが大事だ。その過程を通じて師弟愛、兄弟愛、あるいは先輩、後輩の絆が輪になり太い線ができる。今は、その良き古き伝統がみんな崩れているから残念である。》(pp.238-240)

 現役引退後、36歳の若さで脳梗塞に倒れ、いまもその後遺症が左半身に残る。それでも双葉山、千代の山、柏戸といった名力士が迎えることのできなかった還暦の土俵入りを去年果たした。娘婿に貴闘力を得て、孫たちの成長を楽しみにする“ジージ”でもあるが、にもかかわらず、その大鵬親方の背中が寂しそうに見えるとしたら、それは、苦しい登り坂の時代を生きて頂点をきわめたけれど、同じ道をあとに続く者がだれもいないことに気づいてしまった人の背中だからなのかもしれない。
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たけのこ雑記帖

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紙の本エスペデア・ストリート

2002/02/05 05:26

70年代ロックスターの魂の故郷

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 1980年代なかば、富も名声も得た往年のロックスターが、スコットランドの教会風の屋敷で隠遁生活を送っている。ところがこの男、なぜか罪の意識にさいなまれ、自殺するだのしないだのと言っている。どうしてこんなことになってしまったのか、栄光の70年代にさかのぼって語りだすバンドの歴史。

 1973年秋、グラスゴー近郊の都市ペイズリー。17歳のダニエル(ダニー、ダン)・ウィアーは高校を中退して、自動車会社の下請け工場で働きはじめた。実家はインナーシティの老朽化して荒れた低層アパートで、母親と弟や妹が住んでいる。父親は殺人の罪で刑務所に収監されている。道にガラスの破片が散らばり、建物の壁にはスプレーペンキの落書きが刻まれているこの故郷の街から、ダニーはなんとか脱け出したいという思いにかられていた。

 身長6フィート6インチ(約2メートル)の大男で、容貌にコンプレックスがあり、おまけにどもりの癖があるダニーが唯一自信を持っていたのは、曲作りの才能であった。そこで地元で人気があったロック・バンド、“フローズン・ゴールド”に、曲を売り込みに行く。メンバーはみな中流家庭育ちの大学生か公務員で、労働者階級出身のダニーは、彼らの中で疎外され萎縮せざるをえない。しかし紅一点のクリスティンが学校で1学年上で、ダニーのことを知っていた。グラスゴーの有名バンドの前座で演奏したのをきっかけに、フローズン・ゴールドはARCレコードのリック・タンバーにスカウトされる。ダニーは、脱退するベーシストにかわってバンドに加わる。

 ペイズリーのエスペデア・ストリートで、ダニーがジーン・ウェッブと出会うのは、その翌年の夏のことだ。だがデビューが決まって、ロンドンに旅立つことになったダニーは、最後までジーンについて来てくれと言えずに別れる。その冬、フローズン・ゴールドのデビュー曲は、ヒットチャートの2位にランクインする。続くアルバムやシングルもヒットを続け、バンドは一躍、70年代英国音楽シーンの寵児となる。そんななか、いつしかダニーは故郷のジーンのことを忘れてしまい、風のうわさで彼女が結婚したと聞く。その一方、巨額の富を得てしまったことで、ダニーはメンバーとともにドラッグとセックスと刹那的な浪費におぼれていく。やがて、ダニーの反社会的な発言がアメリカのキリスト教原理主義者の怒りを買うなか、メンバーの死とともにバンドは破局を迎えることになる。

 そして現在。グラスゴーの屋敷に引きこもるダニーのまわりには、彼の正体を知らない五十男と、不良少年と、一匹の犬。ときたま人妻のベティがやって来て関係を持つ。ダニーをもういちど表舞台に引っぱり出そうと、ARCのリック・ダンパーもやって来るが、そこではじめてダニーは、リックの口からバンドのもう一人の元メンバーに関する悪い知らせを聞く。打ちひしがれたダニーは、衝動的な現実逃避の旅に出る。その果てに、ホテルの一室でとなりの部屋から聞こえてきたのは、フローズン・ゴールドのアルバムの曲だった。亡き友を悼み、長いトンネルを抜け出たダニーは、「エスペデア・ストリート」と名付けた新曲を完成させて、かつての恋人ジーンが離婚して移り住んでいるという海岸沿いの村をめざす。

 これは、故郷を捨てたロックスターが放蕩とその代償を経験した末に、ふたたび魂の故郷に立ち帰るまでの物語である。その主題には、ロンドンの喧噪と対照的な、スコットランドの堅実な労働者階級コミュニティの再発見が込められている。中流階級ばかりのバンドや音楽業界で異端であり続けたダニーが、ジーン・ウェッブと彼女のコミュニティに迎え入れられるラストシーンに、とてもしみじみと来るものがあった。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本鳶がクルリと

2002/02/05 05:13

現代の職能集団——その世界と心意気——

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 大学教授の娘で桜蔭高校→お茶の水女子大卒、しかし一流企業の総合職としてレールが引かれた将来に疑問を感じて会社を辞めた中野貴奈子28歳が、鳶(とび)職の世界へ飛び込む。そんなお嬢さまと職人集団のいったいどこに接点があるのかと思ったら、団塊の世代で元学生運動の闘士の叔父・勇介が鳶の頭になっていて、若い衆に慕われているという設定なのであった(なるほど)。貴奈子は、その叔父の会社「有限会社 日本晴れ」で経理の仕事をしながら、学者一族の血を引く好奇心から、異文化の参与観察者となる。

 勇介率いる日本晴れの面々がまた、そろいもそろって強烈なキャラクターでおかしい。見た目は毛のないニホンザルのようだが、東京タワーのてっぺんに登ったことがある伝説の鳶でもある先代の「ご隠居」。軍事おたくの双子で、顔を合わせればゴルバチョフを呼んでアメリカに戦争を仕掛ける話をしている「風太」と「雷太」。東京都およびその近郊の高校ランキングに精通していて、偏差値がすべての価値観の尺度になっている「剛」(貴奈子が桜蔭出身と聞いて感動する)。そんな連中に囲まれて、影の薄い18歳の「健次」。貴奈子をおばさん呼ばわりする、中学を出たばかりの娘鳶「ツミ」。ツミの父親で刑務所帰りの、まるで高倉健みたいに渋くてかっこいい「悦治」。

 彼らは、荻窪の元相撲部屋で個人個人が別々の有限会社を作って、共同生活をしていた。「有限会社 日本晴れ」はその連合体で、それは元左翼の勇介が築いた反商業主義のユートピアでもあった。

 そして彼らが今回取り組むのは、ドイツ人彫刻家ブリックの巨大な作品を、納期2週間でビルの壁面に取り付ける仕事。綿密な現調(現地調査)、クレーン車や機材の調達、現行の仕事の職人仲間への引き継ぎなどを経て、足場の組み立てから作業が始まる。半纏着の一見古めかしい職人集団が、現代の高層建築にも欠かせない存在で、ミリ単位の精度が要求される仕事に命を賭けている。梅雨のさなか、難航する作業をなしとげる職人たちのプロジェクトX。

 そのなかで貴奈子は、軍事ネタや偏差値ネタのとんちんかんな会話や、ご隠居や勇介や悦治の、ツミに対する虐待スレスレの仕打ちに面食らいながらも、鳶の世界のしきたりと心意気を学んでいく。と同時にこれは、貴奈子がもう一つの異文化である学者の世界の「おもしろがる精神」、知的好奇心に目覚める二重構造にもなっているところが、みごとなものだと思う。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本水曜の朝、午前三時

2001/12/02 16:53

万博ホステスの“京都の恋”

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 帯に「1970年、万博の夏」と大書してある。タイトルの元ネタもなつかしや、サイモンとガーファンクルだ。こういう本を、手にとってくれといわんばかりの本という。さっそく買ってきて読んでみた。1992年に45歳で亡くなった——1947年生まれの——翻訳家の女性が、一人娘への遺言のつもりで吹き込んだテープの内容は主として1970年の大阪での出来事で、それを2000年に娘婿が聞いているという、ややこしい構成に最初はとまどう。この男は、この物語においてどういう位置を占めるのだろう。その答えは最後に明らかになるのだが、むろんここに書くわけにはいかない。

 翻訳家の女性は名を四条直美といい、祖父がA級戦犯という家柄に育ち——したがって戦後社会では屈折した生き方を強いられながら——、1969年にお茶の水女子大学を出て小さな出版社に勤めた。しかし親のすすめる縁談から逃れるために、大阪で開かれる日本万国博のコンパニオンに応募し、会社を辞めて大阪へ旅立つ。住まいは千里ニュータウンの一角に建てられた寮の11階。窓から万博会場を一望にすることができた。

 やがて万博のコンパニオンはホステスと呼ばれることが決まり、1970年3月14日の開会式を迎える。春の華やぎのなかで、直美は研修期間中に知り合った臼井という若い男に恋をする。臼井は京都大学の大学院生で、外国語の教育係として博覧会の協会本部に出入りしていた。外交官としての将来を周囲から嘱望されてもいる。こうして前半では、太陽の塔とお祭り広場や日本庭園の迎賓館など万博会場を舞台に、若い二人の淡くて甘い恋物語が語られる。

 ところが臼井は、外交官令嬢でフランス館のホステスをしている鳴海祐子とも付き合っていた。その事実を聞かされ、直美は傷つき打ちのめされる。非番の日には部屋にいたたまれず、大阪の街なかをあてもなく歩くようになる。だがそのすぐあとに鳴海祐子はホステスを辞めて東京に帰り、そればかりでなく臼井も協会を辞めて姿を消してしまう。どうやら臼井が祐子を乗せた車で追突事故に遭ったらしいのだが、追突してきたのは相手の車で臼井に非はない。ではなぜ、彼はいなくなってしまったのか。直美は臼井が住んでいた京都の下宿を訪ねることにする。

 さてこの小説。ここまでは、万博会場や1970年の京都・大阪の様子がなつかしく興味深いとはいえ、本筋は何ということのない恋愛小説なのである。節目節目に洋楽のヒット曲が流れ、ファッションやデザインや絵画や文学の話題をちりばめたおしゃれな趣向もある。これに対して、臼井が姿を消した理由、そしてやっと再会できた臼井のもとから直美が去らなければならなかった理由が明らかにされる後半からは、一転して暗く深い社会派の手触りを帯びてくる。

 伏線は前半の恋物語のうちにも張ってあって、万博開会からほどなくして起きた日航機よど号ハイジャック事件(1970年3月31日)に対する臼井の反応や、臼井がアメリカ人観光客に対して吐く台詞などから、読者は彼の正体を漠然と想像しながら読み進めるであろう。その想像が甘かったことを、ある箇所でページをめくった瞬間に思い知らされることになる。じつはそれどころではなかったのだ。まさかこんな深刻なテーマが隠されていようとは、だれも思いはしないのではないか。日本社会の光と影の社会学とでもいうか。親子の断絶や恋に悩む直美のお嬢さまお嬢さました物語から、京大院生臼井の苦悩と怨念の物語に切り替わる後半にこそ、この小説の読みどころはある。30年後のエピローグの味わいもまた複雑で格別だ。
【たけのこ雑記帖】

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高度経済成長期の心情の歴史

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 高度経済成長期は日本映画斜陽の時代でもあって、低予算で集客が見込めるアイドル主演の歌謡映画が大量に制作された。低予算だということは、時代劇映画のように豪華なセットを組むことができず、必然的に現代の日常生活を舞台にするしかなくなることを意味する。橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の御三家主演の青春歌謡映画は、そのような時代を背景としている。

 しかし——「日常を地を這うようにして描くということは、時代や社会を的確に描き出すということにダイレクトにつながっていく。おりから時代は高度経済成長まっさかりの時期を迎えていた。歌謡映画の前には、空前絶後の激動の時代が、描いてくれと言わんばかりにお誂え向きのかっこうで横たわっていたのである」(p.13)。そういう視点から、御三家歌謡映画を読み解く「文化研究」がこの本なんだという。

 もっとも、地方から都会への人口移動であるとか、産業構造の変化、進学率の上昇といった高度経済成長期の社会変動はなにもわざわざ映画から学ぶまでもなく、社会科ないし社会学の教科書にかならず書いてある。この本が面白いのは、そういった時代の変化が、友情や恋愛、性、親子関係、上京……といった青春のテーマとどのように結びついていたかを、微に入り細をうがつようにマニアックにとうとうと語る、その語り口によるところが大きい。

 しかも「純潔教育の理念を支える病いという戦略」(p.24)、「記号としての信州なるものの意味」(p.38)、「高度経済成長期の夢」(p.60)といった本筋の議論をしばしば脱線して、たとえば『いつでも夢を』(1963年)における吉永小百合と浜田光夫と松原智恵子のスターの序列を語り、橋幸夫はなぜ大型トラックの運転手という役どころで登場するのかの謎を解く。そういった芸能ネタへの傾斜がまた楽しい。舟木→西郷→橋、舟木→西郷→橋と三者の主演映画を「不公平のないよう順番に」(p.161)とりあげるところは、あたかも『ロッテ歌のアルバム』の玉置宏のような心配りである。

 本筋に戻れば、舟木一夫の名曲をフィーチャーした『仲間たち』(1964年)で、浜田光夫と松原智恵子の恋人同士は、「こともあろうに」(p.146)石油化学コンビナートの赤い炎を見て「きれいだなあ、あれ」と会話を交わす。いまでは、だれもそこに美を感じたりなどはしないであろう。また西郷輝彦の『恋人を探そう』(1967年)には、受験戦争のさなかに友人から握り飯を「おい、食えよ」と渡され、それを西郷がうまそうに食う場面が出てくる。著者はそこに上杉謙信が武田信玄に塩を送ったフェアプレー精神、「当時の人々の気高さ(!)」(p.117)を見る。心情や感覚がいかに時代と分かちがたく結びついており、それらがたんに時代に制約されるばかりでなく、いかに同時代をともに生きた人びとの郷愁にまで結晶化していったかを認識させられる。
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紙の本なまこのひとりごと

2001/12/02 16:46

能登の海と人間模様の社会学

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 東京から脱サラしてきた著者が、能登の海で定置網漁の漁師になる。漁業就業者確保育成センターの募集に応じて、やって来たのは石川県志賀(しか)町。わが故郷の七尾市から見て、ちょうど能登半島の反対側、外浦に位置する町である。なんたって漁師町だから言葉も荒っぽいよ。のほほんほのぼの見まっし来まっしの金沢弁とはわけが違う。「ええかげんにせーや」「だらなこと言うとんな」「家でちゃんと覚えてこいま」。沖でも陸でも不慣れな仕事続きで、最初のうちは怒られてばかりだ。それでも目の前に広がるパノラマ。おいしい魚。人びととのふれあい。海はいいなあと心底思えるようになる。

 とくに漁師町の人間模様を描いた文章がいい。船頭の「的場さん」に厳しさと優しさを学び、漁師になれなかった観光レストラン支配人の「タカさん」には海へのあこがれを聞かされ、仲間とタコ釣りを楽しむ。小さな女の子のいる友人の「平野さん」一家との交流もほのぼのとしたものだ。さんざん話し込んだ船大工のおじいさんから、自分はともかく、すっかり顔見知りだと思っていた船頭まで、最後の最後に「ところで……あんたいったい誰やったかな」と聞かれるエピソードも笑えた。

 もっとも素朴で人がよいばかりではない。土地の漁師がサンマを惜しげもなく捨てているので、もったいないと思って持って帰って食べたら、日本海のサンマには脂も何ものっておらず、とても食えたものではなかった。それを知ってニヤニヤしていた船頭には一杯食わされた(この話には、さらに落語のようなオチがある)。また選別作業にアンパンや缶コーヒーをみやげに持って現われる通称「アンパンマン」のおじいさんが、クジに当たったにもかかわらず、知らずに秋アジの雄(雄だから当然、イクラ=筋子がない)を持っていったと仲間に笑って聞かされたときには、いつも世話になっているのになんで教えてあげなかったと憤慨する。漁師の仲間内とそうでない者との間の境界線が、そこには厳然として存在する。海の遭難者の捜索では、海上保安庁や警察の官僚主義にも直面する。

 なんでもありの社会学には漁業社会学、漁村社会学というマニアックなジャンルもあって、むろん、なんでもありといいながら社会学である以上、関心の対象はやはり漁業にたずさわる人びとの集団・人間関係であり、漁村の地域社会にある。日本の漁業と同様にこちらも後継者不足で絶滅しかけているのだが、こういう本を読むと、その方面への関心をふたたび強く刺激される。

 ただし地元出身者としては、ここに書かれていないことが少々気にかかる。なぜか本書では一言も触れられていないのだが、志賀町の港の目と鼻の先には北陸電力志賀原子力発電所がある。著者を迎えた定置網漁の経営者が「稲村さん」と聞かされれば、ああ、原発誘致の立役者であった元代議士(収賄事件で失脚、故人)と同姓だなと思う。原発立地の見返りに工業団地ができ、リゾート開発が進んで、町のようすも大きく変わった。にもかかわらず、こんなふうに、いかにも素朴な昔ながらの漁師町であるかのように書かれているのはなぜなのだろう。その点だけが一つ気になった。
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紙の本銀杏坂

2001/12/02 16:43

古都金沢の怪事件と社会学

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 何かの書評に金沢が舞台だと書いてあったので、本屋で立ち読みしてみた。ほしたら登場人物の会話がベタベタの金沢弁でないがけ。「それながに」「ほやし」「気いつけまっし」「ほんなだらなことがあるかいや」やて。松尾由美(1960年生まれ)=金沢市出身。もっとも金沢弁は、わが母方言七尾弁に比べるとさすがにのほほんとして上品である。

 北陸の城下町、香坂(=金沢)市。百万石の殿様の庭園だった辰巳公園(=兼六園)があり、園生川(=浅野川)、鴇川(=犀川)の2本の川が流れ、水沼霜月(=泉鏡花)や砂田鴇星(=室生犀星)といった文学者も輩出している。この土地で起きる水沼霜月の幻想小説ばりの怪事件を、香坂中央警察署勤務の中年刑事・木崎と相棒の「新人類」刑事・吉村が捜査する。その内容は幽霊、予知能力、幽体離脱、念力、人体消失と来て、文字どおり「ほんなだらなことがあるかいや」と思いつつ、そりゃまあ小説なんだから「ほんなこともあるがかなあ」となかば納得しかけたところへ、最後のどんでん返しでもって世界観がくつがえされ、謎が合理的に説明されるという仕掛けだ。

 小説の基本的なアイディアはこの作家の過去の作品と同様に心理学の応用であって、けっして社会学ではないのだが、ここではあえて事件の背景となる《地方都市の社会学》に注目してみたい。

 連作短編の第一作「横縞町綺譚」でダイヤモンドのブローチをなくし幽霊と遭遇する女は、地元の有名な声楽家の娘である。その母は、香坂市内に観光ホテルを持つ実業家と交際しており、女はそれが気に入らず家を出た。第二作(表題作)「銀杏坂」で夫を殺す予知夢を見る女は警察幹部の姪で、夫は地元資本の機械メーカーに勤務している。第三作「雨月夜」で幽体離脱騒ぎを起こす姉弟の死んだ父は、市の中心部に豪勢なビルを持つ地元新聞社の文化部記者だった。その息子も国立の香坂大を出て同じ新聞社に勤めたが、内向的な性格がたたって閑職に追いやられる。

 さて、ここまでの登場人物たちの共通点は何か。それは、彼らのいずれもが伝統文化都市香坂のもっとも香坂的なエスタブリッシュメントに属していながら、そこから疎外された存在だということなのである。じつをいうと、香坂を金沢におきかえれば、地元新聞社と香坂大学はモデルが特定できるし(それぞれ北國新聞、金沢大学)、観光ホテルや機械メーカーもかなり狭い範囲に絞り込むことができる。架空の物語のようでいて、これは読む人が読めば虚実すれすれの金沢論にほかならない。ぶっちゃけた話、金沢大学を出て県庁、県警や北國新聞に勤める人が地元社会でどういう階層を形成しているか。

 また第四作「香爐峰の雪」で念動力の能力を持つ少年の力を引き出す少女は、父親が殺人を犯して服役中、母親も行方不明で、東京から祖父母のいる香坂に引き取られたものの、香坂の学校になじめないでいる。第五作「山上記」で飛行機の中から消えていなくなる男は、使い込みがばれて暴力団から追われる身の金融会社社長である。要するにこの小説において事件にかかわる怪異はどれも、人が香坂の地域社会から疎外されたか、香坂に迎え入れられないでいるか、あるいは追放された場合に生じているのだ。これを社会学といわずして何といおう。

 そもそも気候風土の描写からして夏は暑苦しく、冬は陰鬱な北陸の都市。いくつかの事件では、容疑者がかならず顔見知りに目撃されてしまう狭い街。保守的でおとなしい土地柄とはいいながら、そこからはみ出す者が居場所を見つけることは容易ではない。文章のはしばしから、観光ガイドブックに載っていない金沢が浮かび上がってくるような小説で、そういう箇所のリアリティーにとにかく感心する。
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お国なまりの社会言語学/言語社会学

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 これは富山県の五箇山出身で阪大の先生をしている方の社会言語学。社会言語学はひっくり返せば言語社会学でもあって、「ことば」(語彙やイントネーションなど)の変容を通して、その「ことば」を共有する社会集団の変容が見えてくる。

 本書によると、地域方言はたしかに衰退の方向に向かっている。たとえば「さかい」「おます」「なはれ」といった伝統的な大阪弁の語彙を使う人は、ネイティブ大阪人であっても世代が下がるとともに急カーブで減少している。しかしむろん、若者の言葉づかいが東京弁の共通語に完全に変わってしまうわけではない。若者集団の中での選択的な取り込みによって、独自の「中間的言語変種」が生まれていることが重要なんだという。

 著者は関西の若者の日常会話に、関東由来の間投助詞「さ」が頻繁に混じる現象を指摘する。大阪府下、21歳男性同士の会話——「彼女とさ、はじめてカラオケ行ったんよ」「彼女、カラオケする人なん」「なんか、けっこう好きらしい」「あ、そうなん」「んー、というか」(1996年採取)。神戸市、20歳女性同士の会話——「いわんかったっけ? むっちゃ派手な先生おんねやんかー」「うん、うん」(中略)「ほんで、なんかちょっと暑くなったなーと思ったらさー」「うん」「それを脱いでさー、腰に巻くねん」「(笑い)」「またそれ、中、タンクトップや、あんた、ブラジャーちゃう、タンクトップでさー」(1993年採取)。なるほど。そう言われればたしかにそうで、年配の関西人はけっしてこういうしゃべり方をしない。

 なぜそうなるのか、そこをこんなふうに解釈する。《現代の若者たちがこのような混交形式を好んで用い、それが広まっていく裏には、あまり方言色の強くない、かといって標準語的でないものを共通のアイデンティティとしているということがあろう。地域の若者は、同じ地域の老年層とも、また中央の若年層とも異なった、あるスピーチスタイルを求めているようである》(p.50)。

 つまり、ある社会構造における集団の自己表現という問題。逆に「めっちゃ」「まったり」「しんきくさい」といった関西弁も、メディアを通して関東の若者のあいだに滲透している。「うざい」「きもい」の若者語についてはいうまでもないか。方言は地域方言・お国なまりというより、世代語・集団語としての性格を強め、東日本、近畿、九州・沖縄の三つの圏を核として統合されつつあるのだともいう。それはとりもなおさず、かつて地域単位で成立していた社会圏の再編、構造変動の過程に対応するものにほかならない。だとすると、職業語や階級語などはこれとどうかかわるのか、男女語の使い分けはどうなのか。そういった新たな疑問もつぎつぎに触発されて出てくる。

 このほか、場面に応じたスタイル・言語コードの使い分けや、新語を取り込む際における各方言の「フィルター」装置(マクドナルドを「マクド」と略するのたぐい)といった議論。また子供の方言習得過程で、幼いうちは親も子も先生風の共通語コードで会話をしているのに、「小学校2年時の6月以降」は方言コードが急増する。それはなぜか、といった話が面白かった。

 本書において、くり返し主張される思想。「大切なのは、独自の文化、風土があるからこそ、それを表現するためのことばが生まれるということである。地域集団であれ、若者集団であれ、借り物のことばでは表現できない文化を自分たちで持てるかどうかが問われるのである」(p.14)。ことばの問題は集団の問題だ。五箇山の小さな山村出身で、母方言を共有する人びとは現在1000人足らず。母方言の絶滅を危惧する人の発言として、その意味をかみしめたい。
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紙の本てなもんや大阪ガイドブック

2001/11/21 15:08

都市の部族(アーバン・トライブ)と社会階級

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 大阪府を北部、中部、南部の三つのエリアに分け、それぞれに生息する部族をレポートする都市人類学。「弁天町のガイジン」「帝塚山のナニワのボン」「緑地公園のニューファミリー」「(阪急)岡町の学生」「香里園のマダム達」「河内長野のヤングマン」などなど、目次をながめただけでもわくわくする。

 とくにおかしかったのは、大阪市内へ電車一本でつながり、東京からの転勤族が多く住んでいる北大阪急行・緑地公園駅周辺(吹田市など)。「さっき言ったじゃん」とか「○○だよね」などと気どった東京弁が飛びかうこの新興住宅地帯に、よりにもよってコテコテの大阪の下町から、鈴木紗理奈ばりのヤンママ(夫は長距離トラック運転手)が引っ越してくる。そして遭遇するカルチャー・ショック。近所の奥様宅(東京出身、夫は広告代理店勤務)に招かれ、「ハーブティー」やら「ガーデニング」といったお上品なアイテムに舞い上がってしまったこのヤンママ、最後にとんでもないことをしでかしてしまうのだ。それはもう、まるで落語のような。

 また枚方の高級住宅地・香里園のマダムたちは、京阪香里園駅をはさんで庶民の街・寝屋川がすぐそこまでせまる環境の中で、ミドルクラスとしての自意識を保とうと必死である。駅そばのダイエーになんか行かない。買い物は丘の上の大丸ピーコックか、高槻の西武ショッピング・センター。生活に疲れた寝屋川の主婦が昼間、近所の缶詰工場などへパートに出ている一方、香里のマダムたちはテニスやゴルフで一汗流して、午後のティータイムを楽しんでいたりなんかしちゃったりもする。それでも京阪沿線ということがわざわいして、高級住宅地としての知名度がいま一歩低いのが、香里マダムのストレスの種だ。同じ沿線の御殿山出身のタレント、森脇健児がテレビ大阪のローカル番組に出てきて御殿山の話をすると、「御殿山より香里の方が格が上よ」と怒り出す。

 どちらもたぶんネタではあるんだろうけど、いかにもありそうな話じゃないですか。この本、大阪市内の官庁街やビジネス街はさっと通り抜けるだけだが、こういう住宅階級意識がからむ場面では皮肉やからかいに熱が入る入る。むろんこっちも、そういう社会学に反応するわけで。

 惜しいのは、分量が全98ページとやや食い足りないことだ。大阪南部には東大阪や八尾や堺や岸和田などもあって、それぞれの違いがまた興味深いのに、「河内長野のヤングマン」——男はパンチパーマ、女は金髪、旧国鉄のコンテナを改造した昔ながらのカラオケ店で盛り上がり、夏のPL花火大会が最大のイベント——と、泉佐野市の「りんくうタウン」——田園や日本家屋ばかりの風景に突如、関空関連施設が出現——だけでプッツリと終わってしまう。大阪南部住民としては、ちょっと待ってといいたくなる。
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紙の本誘拐ラプソディー

2001/11/21 15:04

シンパシーとノスタルジー

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 この小説は、「地図から消えてしまった我が故郷、大宮市」が舞台なんだという(大宮市は浦和市、与野市と合併して「さいたま市」になった)。じつはそれが大事な伏線になっているのだが、若い読者に意味がわかるだろうか。

 冒頭、自殺寸前の38歳独身男が登場する。窃盗で前科3犯、借金320万円、おまけに親方を殴って逃げてきて、アパートにも勤め先の工務店にも戻れない。首吊り自殺、飛び降り自殺、クルマにホースを引き込んでガス自殺と、ひととおり試そうとして死ねないでいるところに、金持ちの子の小学生が転がり込んできて男の運命が一転する。この子を誘拐して身代金を巻き上げよう。ところがその子の父親は大宮、浦和、埼玉県南を牛耳る暴力団の組長だった……。

 そこからはじまるドタバタ喜劇。中年男といまどきのお子ちゃまの珍妙なやりとりや、ヤクザがすぐそこまで迫っていても気がつかず、それでもピンチを切り抜ける古典的な「するりとサスペンス」に笑わせられる。

 誘拐した子供の名前が「伝助」といって、《大宮のデン助》だなんてまた、同世代のわかる人にしかわからないギャグをすべり込ませてあるところにもうれしくなっちゃう。デン助こと浅草軽演劇のスター大宮敏光は、テレビの『デン助劇場』でわが世代の人気者だった。だから「大宮」じゃないといけないんですね、「さいたま市」のデン助じゃ意味がない。

 1950年代後半生まれ、わが同世代の作家もそろそろ中年期にさしかかり、《高度経済成長期=黄金の少年時代へのノスタルジー》と、《時は流れて現在=情けない中年男へのシンパシー》の二つを主題とすることがこのごろとても多くなった。小説の中にザ・ピーナッツやキャンディーズといった往年のアイドルが登場したり、中年男を極限まで追い詰めてサディスティックな笑いを追求したり。荻原浩(1956年生まれ)のこの作品もまた、その典型的な構造を備えている。
【たけのこ雑記帖】

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