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たけのこさんのレビュー一覧

投稿者:たけのこ

61 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本曼荼羅道

2001/11/21 14:40

時をかける「富山の薬売り」

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 かつて富山の薬売りは、1年の半分以上を行商の旅に暮らした。薬の販路は日本国内のみならず、朝鮮、中国から東南アジア各地に及んだ。その留守を女たちが守った。と書き出しをプロジェクトX(のナレーター、田口トモロヲ風)で始めてみたが、生身の人間は煩悩を抱えた存在である。男たちは旅先の女と交わり、女たちは独り寝の寂しさに身悶えした。夫の留守宅に間男を引き入れることすらあった。NHKの国民的美談に、そこまでは描かれない。

 昭和22年。富山市近郊の売薬業、野根沢蓮太郎の家に、戦時中マレー半島で現地妻にしていた女が幼い子供を連れて、はるばるやって来た。蓮太郎にサヤと呼ばれていたその女は、戦局が悪化して彼が帰国したあと、従軍慰安所で日本兵たちになぶりものにされた過去を秘めていた。しかしサヤと息子を借家に住まわせ、蓮太郎がふたたびサヤのもとに通うようになると、妻の庸子や子供たちとの関係は険悪なものになった。その息苦しさから逃げ出すように、蓮太郎は立山連峰の麓の村へと新懸け(=薬を置いてくれる家の新規開拓)の旅に出た。

 西暦2001年。蓮太郎の孫の野根沢麻文は、東京の製菓会社の研究所に勤めていたのを、研究員として一緒に働いていた妻の静佳ともども人員整理の対象になって、富山に帰ってきた。祖父や父の跡を継いで薬売りになるつもりだった。新居は、死んだ祖父の蓮太郎がサヤを住まわせていた家をあてがわれた。サヤの子の勇は成長して大阪に出たまま富山に戻ることはなく、蓮太郎の死後、サヤも行方がわからなくなっていた。

 引っ越ししてしばらくたって静佳が物置を整理していると、サヤのものであったらしい菓子の空き缶の中から、蓮太郎の懸場帳(=顧客名簿)が見つかった。そこには昭和22年の日付が記されており、行き先は薬師岳に通じる修験道の一つである曼荼羅道沿いの村々とあった。ところが不思議なことに、薬の代金の回収に行った形跡がなかった。

 祖父の旅にいったい何があったのだろう。父に勧められ、麻文は曼荼羅道を50年ぶりに訪ねてみることにした。静佳は麻文を見送った。だが、二日たっても三日たっても麻文は連絡一つ寄こさず、帰ってこなかった。50年の時をへだてて曼荼羅道に旅立った祖父と孫。閉鎖的な富山の小さな町に疎外感を抱きながら、彼らの帰りを待つ異国の女と東京から来た女。それぞれの物語が交互に語られ、やがて交錯する。

 蓮太郎は、復員兵が開拓した村を訪れて戦時中の日本兵の悪行を知る。サヤは日本兵に辱められた心的外傷と、慰安婦の境遇から逃げ出すために殺した女の亡霊に苦しめられる。麻文は富山平野が一面の廃墟と化した幻想の未来で、祖父の蓮太郎や奇怪な薬師参りの一行と出会う。立山山麓が、熱帯マレーのような原色の混沌に包まれる。そして静佳もまた、若いころのサヤのまぼろしを見る。そこへ、サヤの子の勇が大阪からやって来る……。

 坂東眞砂子のこれまでの『山妣』や『旅涯ての地』といった長編小説の物語世界に、『死国』や『狗神』の奇想がふたたび接合したかのような味わいは、いい意味で期待を裏切らない。男たちは曼荼羅道という異空間に、女たちは富山という彼女らにとっての異空間に放り出されて、自己と自己をとりまく世界の関係——戦争の傷跡から男と女の性愛まで——に裸で向きあわざるをえなくなる。日常生活の深層に埋もれた真実を掘り返して突きつけるところは、ホラー小説という表現形式の効用だろう。

 その社会学に加えて、一冊の懸場帳から解き明かされる遠隔地の村々と売薬行商のネットワークの社会学もとても興味深かった。薬売りはただ薬を売るだけではなく、一戸一戸の家を回ってよもやま話をすることで、村の外の都会の知識や情報をもたらしてもいたのである。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本特急こだま東海道線を走る

2001/11/21 14:36

回想的記憶の検証

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 まずタイトル、それから文中の「私、昭和33年生まれよ」というせりふが決め手。同世代じゃないか、これが読まずにいられよか。姫野カオルコ(1958年生まれ)、まだ新幹線のなかった時代を知る人。中年にさしかかった女が琵琶湖のほとりの故郷の田舎町で過ごした子供のころをふと思い出して、その場所をふたたび訪れると、ちょっと違っていたり、逆にそのままでびっくりしたりするような話ばかり五つを収める。

 なんだか同世代のおじさんおばさんの思い出大会の様相を呈してくるのだけれども、これも「おそ松くん」「花のピュンピュン丸」「0011ナポレオン・ソロ」「アベック歌合戦のトニー谷」「津川雅彦とデヴィ夫人の密会」「転写シール」「指定映画」などなど、定番ありマニアックありで、なかなか楽しい。

 たとえば家族旅行で行った崖のある海沿いの土地の地名を思い出すのに、まずナポレオン・ソロが浮かんで、相棒のイリヤ・クリヤキン→くりや→越前の厨(くりや)と連想の回路がつながるところなんか、いかにもだ。あと、うれしいのは「花のピュンピュン丸」。ビエーッと泣くのがチビ丸で、めがねの「だわさ」がケメ子だった。つのだじろうは後年の心霊漫画などより、断固「花のピュンピュン丸」の原作者として記憶に残る。

 しかしこの短編集の回想的記憶の対象は、もちろん、そういったテレビや漫画の思い出だけにとどまるものではない。町の記憶、家族や、家族をとりまく人間関係の記憶。子供のころの記憶はあいまいで未分化で、おとなになってはじめて「あのときのあれは、そういうことだったのか」と納得することが多い。それぞれのエピソードは、そこを描く。

 ・父と母と3人で行った家族旅行の行き先に、父はあとで愛人とその子を連れてもう一度訪れていた(「夏休み 九月になれば」)。
 ・両親が共稼ぎで、昼間預けられていた家のおばさんの秘密(「高柳さん」)。
 ・男に強姦されて、殺されたようなものだった化粧品店の××のおねえさん(××は本文でも伏せ字、「みずうみのほとり」)。
 ・高校時代にかよっていたころと寸分変わらぬ故郷のレストランのウエイトレス(「永遠の処女」)。
 ・父母の不和を見かねて、欲しくもないおもちゃをねだって彼らの意識を外にそらせようとした子供時代(表題作、「特急こだま東海道線を走る」)。

 もっとも読みながら、男のお気楽なノスタルジーと違って、女の子はずいぶん人間関係の細かい機微まで気にして覚えているものなのだなあという、これまたお気楽な感想を抱いてしまって、なによ無神経ねと怒られそうな気がしないでもない小説ではある。無神経でも長年の経験から、そういう方面に対しては神経が過敏になっていたりして。

 とはいえ、《故郷と東京》をめぐる複雑な感情については、わたしも石川県の小さな市の出身だから共感できた。高校まで故郷の町で過ごした少女は、「肉親、親戚、実家、故郷、そういったもの」(p.10)、「死んだ人間のことをいつも考えているような、いつも法事のことだけを考えているような土地」(p.58)が億劫でならず、東京の大学に進学して、そのまま東京に居着いた。それでも毎年、帰省は欠かさない。だが、同級生には会いたくない。そのへんの感覚が——東京生まれのまわりの人びとに理解してもらえないというところまで含めて——すごくよくわかる。世代差、性差ばかりでなく、こうした離郷経験の有無も一つの分岐点であるのだろう。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本漂流トラック

2001/11/01 10:24

トラック運転手の《階級的境遇》とCB無線ネットワーク

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 長距離トラック・ドライバーの女が警察と国家を敵に回して日本列島を疾走する、スケールの大きな犯罪小説。

 2001年10月。大型台風が東シナ海上を日本に向かって迫ってくるなか、はるか北の北海道・足寄町で、伝説のトラック・ドライバー“六甲の銀狐”の駆る三菱ふそうグレートが、長い眠りから目覚める。昭和58年式の古い車体に総重量50トンを超す過積載にもかかわらず、CB無線仲間の協力を得て警察の取り締りを逃れ、一路本州をめざす。“六甲の銀狐”が愛車グレートとともに最後に消息を絶って17年、いったいどこでどうしていたのか。その姿は漂流船にも似ていた。

 一方、東京千代田区の警視庁には、「日本の物流を略取した」と、総計5トンの金塊、約55億円相当を要求する脅迫メールが届く。はじめはいたずらを疑った捜査本部も、なにものかの工作により日本最大の自動車メーカーの東北工場が操業停止に追い込まれ、また東京都内へ通じるほとんどすべての幹線道路に人工的な渋滞が作り出されるのを見るにおよんで、ようやく腰を上げる。CB無線の傍受から、“六甲の銀狐”が捜査線上に浮かび上がってくるが、検問をかわし、Nシステム網にもヒットしない“銀狐”の所在を、捜査本部はなかなかつかむことができない。

 さらに、長崎の干拓地で白骨死体が発見される。この件は、当面事件と結びつかないものの、伏線としてやがて重要な鍵となる。

 じつは、“銀狐”の名をかたってグレートを運転しているのは、長崎の運送店「K2」の女経営者で、みずからも長距離トラック・ドライバーである29歳の蔵方千尋であった。大手運送会社とコンビニチェーンの執拗な営業妨害で会社をつぶされかけ、また従業員の女運転手を見殺しにされた千尋は、日本の物流システムそのものへの復讐を誓う。協力者は元自衛隊員のハッカーと、全国に広がるCB無線仲間。“銀狐”は、かつて幼かった千尋に、トラック・ドライバーの誇りを教えてくれた人だった。

 奇想天外な方法で日銀からの金塊奪取に成功した“銀狐”こと千尋を、無線機や監視機材搭載の移動指揮車で追うのは、警視庁の智田警部と元トラック・ドライバーの国見刑事。金塊を強奪してなお、千尋は何をめざしているのか。グレートの荷台には、いったい何が載っているのか。東京から千葉へ、千葉から糸魚川へ。糸魚川から国道8号線を通って琵琶湖畔、明石海峡大橋へ。そして台風が迫る中国自動車道から関門海峡を舞台に、千尋を守るトラック軍団と警察車両の攻防戦が展開する。

 ちなみに、小説に書き込まれた情報によると、日本の年間貨物輸送量のうち約9割は、トラック運送によって担われているのだという。そうやって消費生活を底辺で支えているにもかかわらず、やれ公害だ、やれ荒っぽいと忌み嫌われる大型トラック。末端の運転手は、会社や荷主のつごうで駒のように扱われながら、苛酷な長時間労働に耐えている。その《階級的境遇》が、詳細に記述される。

 また、CBとは"Citizen Band"、市民無線のことで、アマチュア無線と異なり免許が不要なため、トラック業界でも情報交換用に広く普及している。——「長距離トラック運転手の世界は恐ろしく狭い。日本中を走っているとはいえ、トラックの走る道路は限られている。ましてや、CBを載せている車となれば、所属するクラブこそ違いがあっても、仲間意識はことのほか強い」(p.123)。

 この小説、以上の意味で、運送会社や地域の枠をこえて、共通の《階級的境遇》とCB無線のネットワークで結ばれたトラック・ドライバーズ・ソサエティを描いた社会学でもあった。
【たけのこ雑記帖】

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楽しく読める「論文の書き方」

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 人文・社会科学系の大学卒業論文がターゲット。たんなるマニュアルというよりも、「学生が論文に行き詰まったときに書く元気を与えてくれる本」(p.12)をめざしているところに特徴がある。
 たいがいの論文マニュアルは読み物としてとっつきにくいことが多いのだけれども、これはいまふうの軽快なノリで楽しく読めるのがいい。文体の雰囲気は小谷野敦の『バカのための読書術』(ちくま新書)にもちょっと似ていて、自虐と偽悪のギャグが、いたるところにちりばめられている。ところどころマニアックに暴走する箇所も楽しい(「記号の使用法」なんて、笑った笑った)。
 それでいて、大学の先生がよくいう「論文になっている/なっていない」という評価基準の最低線がいったいどこにあるかを、きっちりと教えてくれる。そもそも論文とは、どういう文のことをいうのか。問題意識をどう持つか。題材→主題→課題→タイトルと、どう絞り込んでいくか。章・節の構成はどのように組み立てるか。「論文らしい」文章はどう書くか。引用や注(著者は「註」と表記する)や参考文献リストはどのように処理すればいいのか。——そういう基本中の基本が、この一冊だけでも十分わかるように書かれている。
 また著者が勤務する大学の卒業論文が実例として取り上げられていて、それらがバッサバッサと斬り捨てられているところも痛快であった。タイトルをずらっと並べて、これは○(論文としてまとまりそう)、これは△(サブタイトルを付ければ何とかなる)、これは×(まとまりそうにない)、なんてやっているんだよ。
 もちろん、この手の「論文の書き方」だけを読んで論文が書けるわけではないのが論文というものだが(論文という「形式」に盛り込む「内容」が必要である)、すくなくとも論文作成上の一般的なルールは常識として学んでおきたい。卒論をひかえてワラをもつかむ思いの学生さんばかりでなく、文章で他人に何かを伝える仕事や趣味をかかえる人なら、こういう本を読んでおいて損はないだろう。
 ただし細かいルールは、それぞれの学問分野によっても異なる。初心者は、こうしたマニュアルに加えて、専門の学術雑誌に載っている論文にもふだんから目を通しておき、そのスタイルに慣れておくといいだろう。なにごとにも理論だけでなく、実際の手本が必要だ。
たけのこ雑記帖

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都市近郊農村地帯における地域社会紛争の社会学

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 これはもう、近郊農村と新興住宅地が接する地帯における地域社会紛争の社会学そのもの。キーワード:環境社会学、地域社会学、公衆衛生・疫学、住民運動、地方ジャーナリズムの思想と行動、とかなんとかいっちゃって。

 県庁所在都市に隣接するK町の西部地区。宅地と農地が「チェス盤のように入り組んでい」る。ここで、異常繁殖したスズメやヒヨドリによる稲の被害に業を煮やした地区の農業委員たちが、自動鳥獣撃退装置「スーパー・スケアクロウIII号」の導入を決めた。町役場の農政課が購入を手配し、建設課が施工工事を業者に発注したその装置はしかし、爆裂音と振動波で鳥獣を驚かせて追い払うもので、地区に深刻な騒音公害をもたらすことになった。

 さあ、それに黙っていないのが、新興住宅地の住民たちである。さっそく、苦情の電話が農政課の主任・カンマ君のもとにかかってくる。「ピアノ教師」「劇団員」「中学教師」といった、ことさらヒステリックに“苦情を役場に持ち込む人たち”と、地縁・血縁や先輩後輩関係で固められた農民たちのあいだで、役場のカンマ君は板ばさみになり、かといって何をするでもなく、事態が悪化していくのを放置する。カンマ君は妻子持ちの身でありながら、住民課で臨時採用のコロンちゃんに夢中で、それどころではないのだ。また上司のピリド課長も、住民の苦情を「濡れた真綿で口を塞ぐ」かのように丸めこむ。

 そのうち、住民運動側の急先鋒であった「中学教師」は、飼い犬がなにものかに撲殺されたのをきっかけに暴走をはじめる。復讐のテロリストと化した彼は、怪文書をばらまき、農業委員の背後を車でつけ狙う。一方、農民たちの側も、「中学教師」と間違えて「劇団員」に襲いかかる。夜の町が、さながら暗闇の戦場となる。

 やがて自動鳥獣撃退装置の騒音公害自体は、「劇団員」の知り合いの「新聞記者」や、診療所の「内科医」の活躍によって解決に向かうが、翻弄された人びとの怨念は消えない。闇に消えた「中学教師」の元教え子であった住民課のコロンは、彼の次のターゲットがだれであるかを「新聞記者」に告げる……。

 粗野で無神経な農民、自己中心的で鼻持ちならない新住民、そして事なかれ主義の上司(じつは元学生運動の闘士)。徹底的に類型的で、戯画化された登場人物たちに囲まれたカンマ君の憂鬱には、なんとも自虐的な共感を抱かずにいられない。《カンマ君は、私だ》。せめてその身の破滅を、目をそらさずに最後まで見届けようではないか。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本小春日和

2001/09/08 01:27

さようなら、ザ・ピーナッツ

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 オイルショックの1973年から、ザ・ピーナッツ引退の75年まで——ピーナッツみたいなふたごの女の子がタップダンスを習って、テレビのコマーシャルに出たり、人気者になってとまどったりの、それはそれは夢のような少女時代の物語。「可愛い花」や「情熱の花」「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」といったピーナッツのヒット曲もちりばめて、これ自体が一編のミュージカルであるかのようだ。

 ふたごの姉妹の小春と日和は1967年3月生まれの小学2年生、逗子(神奈川県)の海岸が近い家に住んでいる。エンジニアの父はピーナッツ・ファン、専業主婦で妊娠中の母はフレッド・アステアのミュージカル映画ファン。おまけに同居している母方の祖母の「ボーイフレンド」が元大学の先生でクリスチャン(犬まで飼っている)だという、ハイカラな環境で二人は育った。同級生が桜田淳子や山口百恵やキャンディーズに夢中になっている70年代当時に、タップダンスでピーナッツという渋い趣味は、こうした湘南中流階級の家庭の文化的雰囲気のなかで形成されている。おっと、また社会学に転んでしまった。

 ちなみに登場人物のなかでわたしがいちばん感情移入できたのは、ピーナッツ・ファンのお父さんですね。これはもう、いうまでもない。小春と日和にピーナッツのLPレコードを買ってきてあげて、二人がその中から「可愛い花」を覚えて歌ってみせると、感きわまって「おまえたちも年頃になったら、恋をするんだろうなあ。いずれは、どこかへお嫁に行ってしまうわけだもんなあ」(p.58)と嘆く人。子供たちにピーナッツのおとなびた歌をうたわせることを、妻にあれこれ言われると、あからさまにすねてしまう。

 また一家でテレビの「さようならザ・ピーナッツ」(TBS系、1975年4月13日放映)を見る場面では、「時代が変わろうが、何が変わろうが、ピーナッツまで引退しなくたっていいじゃないかと思うがね」(p.169)とつぶやく。ああ、なんだか(たとえは変だが)抱きしめたくなるようなお父さんではありませんか。このお父さんに、小説後半、ある運命が待ち受けていたりするのだから、人生はわからない。

 ところでその場面の文中に、「ザ・ピーナッツのふたりは34歳になったところだったらしい」(p.165)とある。「思えば、ザ・ピーナッツと私たちの母親は同じ年頃なのだ。おそらく母の方がひとつ、ふたつ若いくらいだ」(同)とも。あれ、もしかして——と計算してみたら、やはりそうだった。1967年生まれの小春と日和がちょうどその34歳を迎えるのが、ことし2001年なのである。子供のころにあこがれたザ・ピーナッツや、自分たちの母親の年代にいま達して、当時をふり返っているのだという仕掛けに気がつくと、この小説はなおいっそう味わい深い。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本向島

2001/09/05 17:04

花街の母の子に生まれて

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 向島(東京都墨田区)の花街を舞台に、25歳の芸者・芳恵と、55歳の和菓子屋主人・黒川が出会って恋に落ち、年の差を超えて結ばれるまでの物語。花柳界のシステムや、向島の街と人びと(=コミュニティ)が事細かに描かれている部分に、社会学のセンサーが反応する。

 導入部からして、芳恵が美容院の行き帰りに、70を過ぎた三味線弾きの辰之助姐さんやら、その同居人のおばちゃんやら、おでん屋のおてるさんといった向島高齢社会を代表するかのような婆さん連中にいちいち呼びとめられて、愚痴をこぼされるのがおかしくてたまらない。清元の三味線弾きだった芳恵の母は、父の名を告げることのないまま数年前に死んでしまった。芳恵は顔見知りばかりのこの街で生まれ育った、花街の子なのだ。

 しかし芳恵の高校時代の同級生は大学院生だったり、外資系企業の秘書だったり、彼女に思いを寄せていた木村はいまや財務省の役人であったりと、ちょっとした進学校の出身でもある。三味線が好きで成績もよかった芳恵は、担任の教師から芸大受験をすすめられたが、病弱の母のことを思って、高校を卒業するとすぐに半玉(=芸者見習い)に出た。

 それきり会うことのなかった財務省の木村に、芳恵は偶然お座敷で再会する。木村から携帯の番号を渡され、連絡を待つといわれた芳恵は、すこし心が動く。ところがその直後、客の黒川に見そめられ、一泊旅行のドライブに誘われると、自分でもうまく説明がつかない気持ちで、それを受けてしまう。55歳とはいえ「日に焼けたスポーツマンタイプ」の黒川は老舗の三代目、大学と大学院で哲学を専攻したインテリでもある。妻に先立たれているので、不倫ではない。

 木村と黒川は、かたや官僚制、こなた都市ブルジョアジーという、近代東京の二元的社会構造を象徴しているかのようでもある。二人のあいだで揺れる芳恵。黒川との一泊旅行をひかえた出発前夜に、芳恵は衝動的に木村を呼び出すが……。

 この小説、メイン・ストーリーは芳恵と黒川の恋愛であり、木村を加えた三角関係なのだが、はじめに出てきた辰之助姐さんをはじめ、わきを固める人物にも、それぞれ独特の味わいがある。とくに後半に登場する運送屋のご隠居が、なかなかのくせ者だ。両国国技館の「5000人の第九」で歓喜の歌をうたう90歳のこの老人は、向島の歴史の生き証人であって、芳恵の生いたちの秘密も握っていたりする。黒川の品定めをするかのように、座敷で対決するシーンは、読みどころの一つだろう。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本いつか王子駅で

2001/08/01 08:59

都電荒川線ぶらり各駅停車の旅

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 ちょっと気どった感じも鼻につくが、読みだすと銭湯あり、町工場あり、都電荒川線の荒川区内から北区王子にかけての、あの独特な下町感覚をぞんぶんに味わうことができた。これは路面電車の走る町に引っ越してきた翻訳家で大学非常勤講師の〈私〉が出会う、街と人びと(コミュニティ)の物語なのである。

 近所の居酒屋で知り合って、競馬の話で意気投合した印章彫り職人の〈正吉さん〉。食後に本格的なコーヒーを出してくれる、その居酒屋「かおり」の〈女将さん〉。土地柄にあまり似つかわしくない近代文学関係を専門とする古書店主の〈筧さん〉。そして〈私〉が住む部屋の大家で、みずからも腕のいい旋盤工である町工場主の〈米倉さん〉と、娘の〈咲ちゃん〉。たった一人の従業員で、職人気質の〈林さん〉。故郷を「棄てて」東京に出てきた〈私〉に、都市の人間関係はとてもここちがいい。

 しかしある日〈正吉さん〉は、大事な届け物があると言って出ていったきり姿を消してしまう。〈私〉に〈正吉さん〉が消えたゆくえを探すあてはなく、ただ帰りを待つしかない。その間、〈筧さん〉の店で手に入れた小説を読みふけったり、〈咲ちゃん〉が学校から持ち帰った国語の教材(安岡章太郎の「サアカスの馬」)の解釈について思いをめぐらせたりなどしている。また連想はサーカスの馬から悲劇の名馬・テンポイントにおよび、1978年1月、小雪がちらつく京都競馬場での日経新春杯の事故から死亡にいたるまでの経緯が熱く語られる。

 専用軌道を疾走する荒川の路面電車、消えた〈正吉さん〉、名馬テンポイント号、そして陸上競技大会で200メートル走に出場するという〈咲ちゃん〉……《職人の手仕事》であるとか、《下町人情・家族愛》とかいったものへのあこがれとともに、そこを《すり抜けて、駆け抜けていくもの》への愛着もまた、テーマの一つであるのか。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本転がる石

2001/07/23 02:29

青年は、東京をめざす

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 この小説は、淡路島の巡査の息子というから、阿久悠その人の投影にほかならない青雲草介が、《昭和30年代の東京》を転がる石のように転がって、思わぬ場所にたどりつくまでの物語である。

 ともに故郷を出た親友の赤井健は、高校時代にカメラ雑誌へヌード写真を投稿して物議をかもした男であったが、東京でも大学へはかよわず小劇団を作って、前衛芸術の道をひた走っている。

 また、赤井が撮った写真のモデルとうわさされ、かつて草介が思いをよせてもいた堀井静香は、学生運動の活動家に変貌して、安保闘争前夜の東京にあらわれる。

 彼らの過激な人生の選択——そしてその後の転落——に心を動かされながらも、草介は「迷路のような」東京で出口を見つけられない。恋文代筆のさらに下請け、サーカスめいた赤井の劇団、下町での教育実習……。実習先で知り合った女子学生と恋仲になり、彼女の家庭に迎え入れられると、将来がそれで確定されてしまいそうな憂鬱な気持ちになってしまう。

 ところが卒業のまぎわ、就職先にテレビ番組(『月光仮面』)の制作も手がけている広告代理店を選んだことで、草介の運命は大きく変わっていく。放送作家として音楽番組の制作に引きずりこまれた草介は、そこで元ロカビリアンの芸能プロダクション社長や、テレビ・ディレクター、マネージャーらと、ビートルズをモデルにした日本のグループ・サウンズの立ち上げにかかわっていくことになるのだ。

 阿久悠の自伝的な文章(『夢を食った男たち』小池書院、など)と照らし合わせると、草介が就職する広告代理店は宣弘社、芸能プロ社長はホリプロの堀威夫、グループ・サウンズはザ・スパイダースのことである。ただし小説らしくひねりはきかせてあって、たとえば、リーダーの田辺昭知にあたる人物が女性マネージャーに置き換えられている(そればかりか……の部分は伏せておこう)。

 同級生の赤井が上演する前衛演劇のタイトルが、「桃色淑女の冒険」というのにも笑った。ピンク・レディーじゃないか。
たけのこ雑記帖

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紙の本もどりの春

2001/07/23 02:25

すてきな60才(HappyBirthday,SweetSixty)

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 坂本九の「悲しき60才」という歌がヒットしたのは1960年のことであった。トルコの原曲に青島幸男が詞をつけたその歌は、奴隷の娘を見そめた若者ムスターファが、働いて金を稼いで、娘のもとに急いだけれども、時のたつのを忘れていて、彼女は「今や悲しき60才」になっていたと嘆き悲しむ。60歳は老人だと信じられていた時代の歌である。さて、いまどきの60歳はどうだろう。この小説を読んで、ちょうどそのころ20歳前後であった世代が60代を迎えたのだなと思いあたった。

 高校の副校長を60歳で定年退職した三好環(たまき)が、旧友の小松紀子と山の温泉へ一泊旅行に行く。雨の中、駅で待つ紀子の前に環があらわれる。「女優が下りて来たのかと思った」、「雨に打たれたバーグマンみたいだった」。そう言って、紀子はため息をつく。環はそういう女性だ。人は独身の環を“鉄の女”、あるいは“永遠の処女”、さらには“奇跡の美女”と呼ぶ。しかし彼女の胸のうちは、だれも知らない。

 学校の事務職員だった秋山美幸が仕組んだ退職記念パーティーでのあで姿がきっかけとなって、環は婦人雑誌のモデルに抜擢される。講演やテレビ出演の依頼も舞い込むようになる。また彼女の退職を待ちかねていた63歳の病院長・一柳隆弘が、いよいよ求婚してくる。20数年の教師生活のあいだには思いもよらなかった運命が、環のまえに開けてくる。

 ところが彼女には、あるわだかまりがあった。それは40年前の学生時代にさかのぼる。中学のころの担任で、初恋のひとであった佐田英吉との恋愛、そしてそのあとに起きたすべてのこと(ここには書けない)。それらを環はずっと封印しつづけてきた。その過去を、環は一柳に告げる決意をする——。

 阿久悠の小説には、『瀬戸内少年野球団』以来の自伝的作品と、そうではない虚構に徹した作品の大きく分けて二つの系統がある。今回、ほぼ同時に出た『転がる石』(文藝春秋)は前者で、淡路島から出てきた青年が大学を卒業して広告代理店に就職し、音楽業界に足を踏み入れるまでの阿久悠その人の人生をなぞったものである。それに対して本作は、彼がかつて歌の世界に躍らせたような(「ジョニィへの伝言」や「北の宿から」のような)架空のヒロインの物語である。読み比べるとわかるが、後者の系列は文体からして違う。

 文体の操作は、作中に引用される環の日記や、佐田の小説にもおよぶ。佐田は「貧乏と女と病気を体験しないと、小説は書けない」と公言する無頼派気どりの文士志望で、エロ小説まがいの作品をかつての教え子である19歳の環に清書させる倒錯にひたる。だが、哀れな人間性を見透かされているのは佐田のほうだという仕掛けが巧妙だ。

 一方、60歳の環が恋に落ちる病院長の一柳は元太陽族で、むかしの仲間がFMラジオ局の社長だったり、百貨店の常務だったり、大学教授であったりするような、けっこうキザで嫌な奴なのだが、《60代の恋愛小説》を日本で成立させるためには、絶世の美女とそういう社会階層の男を主人公としなければいけないのか、というようなこと(=恋愛の文芸社会学)もちょっと考えたりする。
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紙の本こぼん

2001/07/21 20:48

臨海工業地域の開発と社会構造

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 時代は1960年代なかば。大阪の子なので、にいちゃんが「ぼん」、ぼくは「こぼん」。大阪市内から急行電車で南下して30分の「小津」という町に住んでいる。

 小学6年生のこぼんちゃんは、父親が元(まぼろしの1940年、東京)オリンピック候補の水泳選手で、大卒の国税局職員。また母親が東京生まれの東京育ちで、クラスのみんなから少し浮いたところがある。母親から「小津の言葉ってなんて汚いの! この辺の子どもたちと遊んじゃだめよ」と言われつづけ、家庭の中では東京弁で育ってきた。勉強はできるが、スポーツはだめ。とくに水泳は、父親がオリンピック候補だったというのにまったくのカナヅチである。一人遊びが好きな内省的な子どもだ。

 それに年の離れた兄の影響で、神戸のラジオ局(大阪の局とは品が違う)の電話リクエストを聴いて、ビートルズやアニマルズのファンになったりもしている。もちろんクラスの子はせいぜい加山雄三どまりで、洋楽ポップスの話など通じない。そんなこぼんちゃんが、転校生で沖縄人の宮里洋と親しくなる。戦前から町の織物工場が朝鮮人を多く雇い入れてきた土地柄で、いまもクラスの五分の一は朝鮮人という小学校だが、沖縄の子は珍しい。宮里はビートルズばかりでなくアメリカやイギリスのヒット曲に詳しく、話がはずんだ。

 半分東京人のこぼんに沖縄人の宮里、また朝鮮人の金山、江原……。これは、大阪弁が標準語の《学校=地域社会》、阪神タイガースや南海ホークスの話題で盛り上がり、だんじり祭りを年中楽しみにしているような《学校=地域社会》に、自覚的な「違和感」を抱きはじめた子どもたちの物語なのである。いっぽう、作中で地元社会を代表させられているのは、町の基幹産業たる毛布工場の経営者にして町会議員、さらにPTA会長でもある父親を持つ丹下源太だ。クラスの多数派は丹下のもとになびいている。

 小学校最後の夏休みに、彼らは、製鋼所の鉄骨から足を踏みはずして死んだ先輩の幽霊騒動に巻き込まれる。巻き込まれた丹下が失踪してしまい、学校は大騒ぎになる。幽霊を怖がるこぼんと対照的に、沖縄出身で母親が「水の神様」と交信しているという宮里は冷静で、校長にある提案をする。幽霊はなぜ出てきて、何を伝えようとしているのか、丹下はどこへ行ったのか——そこもじつは小説のテーマと深くからんでいるので、じっくり味わっていただきたい。

 漫画にたとえれば、こぼんがのび太なら、沖縄からやって来て奇跡をもたらす宮里はドラえもんで、地元の有力者の息子・丹下がジャイアンといったところか。友情あり、初恋あり、また、ひょんなことから水泳大会の選手に選ばれたこぼんが、父親のコーチを受けてカナヅチを克服していく成長物語も詰まっている。オリンピックの夢破れたこぼんのとうちゃんは、まるで『巨人の星』の星一徹のようだ。それでいて乱開発の矛盾や、子供社会も例外ではない差別の問題をえぐり出す社会派小説(=社会学)でもある。
たけのこ雑記帖

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紙の本古川

2001/07/14 13:14

逢いたくて逢いたくて

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 夏は怪談である。第8回日本ホラー小説大賞短編賞受賞の表題作は、1960年代の大阪近郊——川の向こう側に一戸建ての新興住宅街、こちら側に棟割り長屋が向き合う「古川」沿いの街を舞台とする(=社会階級の都市社会学)。川岸の金網、長屋の裏口、物干し台に使わなくなった生活用品……目を閉じればその光景が浮かび、生活の臭いがたちこめてきそうな描写があって、そこへ重なるように、ラジオからは坂本九の「上を向いて歩こう」(永六輔/中村八大、1961年)が聞こえてきたりもする。

 女子大学のある川の対岸にあこがれ、自分が住む長屋を嫌う小学生の真理は、勘の鋭い女の子だ。2歳半になって満足に言葉がしゃべれない弟の真司の、言葉にならない言葉がわかる。台風明けの土曜日の朝、古川にうなぎの群れが現われ、死んだ人の持ちものが打ち上げられたのを前ぶれに、真理は怪異を経験することになる。古川は昔から人がよく呑み込まれた川で、真理の死んだ妹の真弓もその一人だった。その真弓が、真理と真司に会いにやって来る。

 「……マユミ? あんた、マユミなん?」
 「お姉ちゃんか。ひさしぶりやな……もう、おはじきも切れんやろ、そんなに太い指ではな。うちもな、水に浸かってて、指、こんなにふやけてしもうた」(p.45)

 怪談であり、このあとスプラッタ・ホラー風の展開もあるにはあるが、大阪弁のやりとりはどこか新喜劇のようでもあった。やがてせつなく、また懐かしい。

 もう一編の「冥い沼」は、人の死体が捨てられているといううわさのある沼に、小学生の太一が別れた母の亡きがらを探しに行く。こちらの話も、刈り上げ頭の女先生や入れ墨男、ギンヤンマの夫婦、ぼけ老人……と、夢とうつつの世界にまたがって太一が出会う奇怪なキャラクターに、なんとも不思議な魅力がある。

 なお、二作に共通して《歌手の園まりによく似た人》が重要な役回りで登場する。自殺した近所の若妻であったり、行方不明の母であったり、やさしげで薄幸なおもかげのひと。坂本九と違って、その代表的なヒット曲の名は伏せられたまま終わるのだけど、わが世代(1959年生まれ、著者は58年生まれ)なら当然知っている。「逢いたくて逢いたくて」(岩谷時子/宮川泰、1965年)。♪愛したひとはあなただけ わかっているのに……心の糸が結べない人との逢瀬を願いながら、それが果たせず死にたくなっちゃうのと歌うその歌が、小説の隠し味に込められていると見るのは、さすがにうがちすぎか。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本群蝶の空

2001/07/01 10:12

社会階級と「俳句結社」の社会学

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 俳句(や短歌)の世界にはまったく不案内なのだけれど、ちょっとかじっただけでもいろいろな「結社」が出てきて(結社=アソシエーションと来れば社会学である)、しかもそれらの離合集散が個人的な人間関係によるばかりでなく、時代や世相の変化に対応していそうなところがとても興味深い。

 この小説は、高浜虚子の「ホトトギス」とたもとを分かった新興俳句運動の一派が、治安維持法違反の罪に問われて弾圧された「京大俳句」事件(1940年)を題材としている。そしてその黒幕を、「ホトトギス」派の中堅俳人——東京帝大出身の元内務官僚にして実業家——であると仮定し、彼の妻で新興派シンパの女流俳人の不倫の恋にからめて描く。

 作中の説明によると新興俳句運動とは昭和のはじめごろから盛んになった動きで、水原秋桜子や山口誓子を代表格として、全国各地の若い俳人がこれに呼応していった。保守本流の「ホトトギス」が四季折々の自然を客観的に写生することを旨としているのに対し、新興俳句は自由主義思想をよりどころに作者の主観を重視し、季語や定型に縛られることなく、すすんで都市生活や青春をうたった。

 小説では戦時下の京都・大阪を舞台に、政財界の要人のたしなみであり社交の手段でもあった保守派の俳句と、学生や大学出のサラリーマン、若い医師など新中間階級をおもな担い手とした新興派の俳句が対比される。保守俳人の妻でありながら新興派に関心を寄せるヒロインは、京都・河原町の若手芸術家のたまり場となっている喫茶店を訪れ、そこで「京大俳句」の同人たちと親交を持つようになる。

 また彼女の夫が専務をつとめる商船会社に海上保険会社の契約課員として出入りしていた男と、「京大俳句」同人が主催する句会への参加が縁で恋に落ちる。しかしそれを知った夫は「京大俳句」の摘発を陰で手引きし、妻と男を窮地に追いつめる。さらに男は、夫がもくろんだ海運業界再編の犠牲となって職を失いもする。物語が総力戦体制下の経済と社会、そして文化の領域にまたがる強制的同質化(グライヒシャルトゥング)を描いているところも読みどころの一つだろう。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本天上の音楽・大地の歌

2001/06/20 15:32

故郷喪失者の精神構造

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 阿久悠の野球、なかにし礼のクラシック音楽への傾倒は、いずれも趣味の域をこえている。その原点は、どちらも彼らの《戦後》にある。作詞家なかにし礼の名が歌謡番組のテロップから消えてしばらくたったころ、NHK教育テレビのクラシック番組に出ているのを見て意外に感じ、ああそういう趣味の一つもあったのだなあ、くらいに思っていた。しかしそれどころではなかった。

 『音楽の友』の連載エッセイなどをまとめたこの本の冒頭には、ウィーン・フィルの音楽監督に就任が決まった小澤征爾(1935年生まれ)のことを書いた文章が置かれている。かつて海を渡り、マルセイユからパリまで日の丸をくくりつけたスクーターで走った若き日の小澤に、三つほど年下のなかにし礼はおおいに刺激を受けた。小澤が自分と同じ旧満州の生まれということもあった。

 《満州出身者にたいして尋常とは思えない親愛の情を持ってしまうのは、私の中で、満州生まれという事実がきわめて重く大きな影を落としているからである。》(p.9)

 『赤い月』上・下(新潮社)と同様に、ここでも満州がキーワードだ。

 そもそも、なかにし礼がクラシックにのめり込むのは、満州から引き揚げ船で日本に着いて数年後の中学生時代のことである。その当時、「自分で好んで歌う歌がなくて困った」という。やはり同世代の美空ひばり(1937年生まれ)の出現も、歌への欲求に応えてくれるものではなかった。たまたま家にクラシックのレコードがあったので、そればかりを聴いていて、ラジオにもかじりついた。

 《クラシックは私の歌だったのだ。……名曲の数々を鼻歌まじりに歌うことによって、私は自分の根っこのありかを探していた。少なくとも、西洋音楽の中には、私が生まれ育った大陸の、日本とはまったく違う風の匂いがあった。》(p.119)

 そのレコードの持ち主は、『赤い月』のヒロイン「波子」こと母であったのか、さもなくば『兄弟』(文春文庫)のあの兄か。いずれにせよ、ルーツは失われた故郷としての満州にある。

 彼は、このエッセイを、友人の田村勝弘(東京交響楽団副団長)が撮った有名演奏家の写真をながめながら、「私の頭に浮かんだよしなしごとをぼそぼそと書き綴ったもの」(あとがき)だと記す。だがそれにしては、小澤征爾の満州〜日本、フルトヴェングラーのドイツ、マリア・カラスのギリシャ、ダヴィド・オイストラフのロシア、ジョルジュ・シラフのハンガリー、ラヴィ・シャンカールのインド……と執拗なまでに故郷、祖国にこだわる。

 その一方で、「民族色が強い」ドイツやイタリアのオペラには疎外感をいだき、多民族都市ウィーンが生んだオペレッタや、アメリカのミュージカルのコスモポリタニズムにひかれるのだという。失われた故郷を夢みるコスモポリタン——なんだか矛盾しているようで、それなりに筋が通っているのかとも思わされ、なかにし礼とは、こういう思考の回路を持つ人なのだということが印象づけられる。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本赤い月 上

2001/06/20 15:27

激しく燃えて落ちていけ

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 阿久悠となかにし礼、というふうに歌謡ファンとしてはどうしても比較してしまうのだけど、この二人、阿久悠が1937年生まれで、なかにし礼が38年生まれの同世代。60年代後半から70年代はじめにおける歌謡曲の構造転換(=専属作家制の崩壊)をリードした作詞家であることに加え、現在、小説家として活躍していることも共通している。

 とはいえ同世代として日本の敗戦を小学校低学年で迎えた、その前後の体験はかなり異なる。『瀬戸内少年野球団』(文春文庫)のシリーズや、『ラヂオ』(日本放送出版協会)などに描かれた阿久悠の戦後はあくまで明るい。それに対してなかにし礼は、この小説にもあるように旧満州で1945年8月9日のソ連軍侵攻にいあわせ、そこから命からがら脱出したすえ、父と死に別れ(兄は行方不明のまま)母と姉とで日本に引き揚げてきた。その経験は、幼くして死と隣りあわせの悲惨につきる。

 なかにし礼の歌詞世界で、恋人が湖に身を投げたり(「エメラルドの伝説」)、天使の歌を死人のように聴いていたり(「夜と朝のあいだに」)、なにかというと死の影がちらつくのは、あるいはそういう戦争体験が原点にあるせいだろうかと考えたりもするのである。阿久悠の歌詞において、「死」とはすなわち性的エクスタシーの比喩(「白い蝶のサンバ」)にすぎないが、なかにし礼の場合はそうではない。なにしろ、水死体の歌(ジャッキー吉川とブルー・コメッツのラスト・シングル「雨の朝の少女」)まで確信犯で書いている人なのだ。

 『赤い月』は、敗戦時において41歳、3人の子を持つ母である森田波子を中心に、その夫・勇太郎、かつて勇太郎と波子を争った軍人の大杉、そして酒造業を営む森田家に出入りする商社員(じつは関東軍特務機関の青年将校)・氷室といった男たちと、波子の奔放な恋を描く。その意味では恋愛小説である。しかし波子と子供たちがソ連戦車隊の迫る満州北部の牡丹江を逃れて、避難列車でハルビンをめざす数日間の語りは、おそらく一個の戦争文学の名に値する。

 波子がハルビンで再会できた夫の勇太郎は、ソ連軍の強制労働を免除される年齢でありながら、みずからそれに志願して、その結果、病死してしまう。またロシア人家庭教師のエレナをスパイ容疑で殺害して、罪の意識にさいなまれる氷室が、阿片の吸引に逃避し、中毒状態から禁断症状をこえて立ち直るまでの過程の描写も凄惨をきわめる。この人はどうしてこんなに、堕ちていくほど燃えあがる暗い情熱に執着するのだろう。

 ところで、エレナを氷室と張りあって剣道の試合でめちゃくちゃにうち負かされる森田家の長男・一郎。出征して終戦まぎわに、自分は特攻を待つ身であるという手紙を波子によこしたまま消息を断った。この一郎こそ、小説『兄弟』(文春文庫)において、作詞家として世に出た弟の稼ぎを徹底的に蕩尽し、莫大な借金を負わせたあの兄ということになる。テレビドラマ版では、ビートたけしが演じた。『赤い月』→『兄弟』とつづけて読んで、昭和が生んだ稀代の歌謡詩人・なかにし礼の家族史が完結する。
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