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たけのこさんのレビュー一覧

投稿者:たけのこ

61 件中 46 件~ 60 件を表示

紙の本邪魔

2001/04/23 17:40

近郊都市における《組織の犯罪》と個人

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 ジョン・レノンが便秘でもがき苦しむ『ウランバーナの森』(集英社文庫)、この町工場社長は「おれのことか」と思った『最悪』(講談社)につづく長編第三弾。今回も登場人物がどんどん追いつめられ、最後の最後にキレてとんでもないことをしでかす。その緊迫感と疾走感のジェットコースター・サスペンスであり、かつまた現代日本の社会システムに迫る批判的社会学でもある。

 舞台は東京郊外のベッドタウン「本城市」。17歳の裕輔ら3人組が“おやじ狩り”を仕掛けた相手は、本城署の刑事・九野だった。九野は7年前に交通事故で妻を亡くして以来の不眠症に悩みながら、上司の命令で、同僚・花村の素行調査を進めていた。花村は暴力団との交際がうわさされるが、上司の裏金作りに批判めいた口をきいた男で、彼の側に理がないわけでもない。板ばさみになった九野は、その鬱憤の腹いせを少年たちに向けて、彼らにケガを負わせてしまう。しかもその現場を花村に見られ、のちのち立場を危うくすることになる弱味を握られる。

 その後、自動車用品メーカー・ハイテックス社の本城支社で放火事件が起きる。捜査に出向いた九野は、第一発見者の経理課長・及川が不正を隠蔽するため火をつけた狂言なのではないかという心証を得る。ところがハイテックス社は企業のイメージダウンを恐れて、社をあげて内部犯行を否定しようとする。そこにからんでくるのが花村とつき合いのあった暴力団・聖和会である。花村と聖和会に脅され、手下に組み入れられた裕輔らは、九野に受けた暴行の被害届を出して、捜査を妨害する。九野は上司に辞表を預ける身となる。また亡き妻の墓参りがてら、義母の家を訪問することで精神の安定を保っていたのが、あることが原因でその支えも失ってしまう。

 一方、及川の妻・恭子は、子供二人を抱えながら近所のスーパーで働いていた。そこへ市民運動家と弁護士の煽動に乗せられ、会社相手の待遇改善闘争の矢面に立たされる。夫が放火犯であるかもしれないという疑惑に目をそむけて運動にのめり込むが、パート仲間から孤立し、手痛い裏切りにも遭う。やがて九野らの捜査の手が伸び、マスコミの取材が押し寄せるなか、夫の口から事件の真相を聞くに及んで逃げ道を封じられた恭子は、子供たちを守るため、ある行動の決意をする。

 この小説、追いかける九野と追われる恭子の双方が、それぞれ組織の論理にはじき出された存在であるところが社会学的な読みどころか。近郊都市における警察と企業と暴力団のもたれ合いの構造。正義をふりかざす市民運動も、組織の維持のためには平気で個人をふみにじる。——奥田英朗という作家、小説誌に断続的に発表している自伝風の連作短編は、地方から出てきた青年が大学の演劇部やら広告代理店といった、いかにも《80年代東京》的な都市文化に接してカルチャーショックを体験する物語になっているのだけど、そこから人生のどの時点でどう屈折して、こんな小説を書くにいたったのだろう。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本模倣犯 The copy cat 上

2001/04/23 17:34

連続殺人の犯罪心理学と都市社会学

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 一家惨殺事件を生き残り、家族の死に対して罪の意識を抱いている少年が、こともあろうにバラバラ死体の右腕を発見してしまう。場所は墨田区、隅田川沿いの桜の名所として知られる公園。それが物語の発端である。一方、失踪した孫娘の行方を案じる江東区深川の豆腐屋の親父は、バラバラ死体の発見を告げるテレビのニュースが気が気でない。警察で腕の持ち主が孫娘でないことを確認するが、孫娘のハンドバッグが同じ場所から出てきて、何らかのかたちで事件に巻き込まれたという事実に向き合わざるをえなくなる。

 そこへ、犯人から電話がかかってくる。犯人は慣れない老人を新宿の慇懃無礼な高級ホテルへ出向かせ、屈辱を味わわせる。——このあたり、《鼻持ちならないもの》に敏感な下町娘・宮部みゆきの面目躍如か。凶悪犯罪の被害者同士、少年と老人が心をかよい合わせるようになるのはまだ先の話で、そのきっかけを、取材に訪れたフリーライターが作る。彼女は彼女で、葛飾区の鉄工所の長男と結婚したものの子供を持たず、仕事に走り回る生活を、姑にとやかく言われている。物語の本筋にはあまり関係のなさそうなことながら、登場人物の生活背景や生活史、社会的な手枷足枷を余すところなく書きつくすのも宮部スタイルだろう。かつてそういうところを批判した文芸評論家がいたが、なにいってんだ、それがいいんじゃない。

 やがて事件は連続猟奇殺人から、マスメディアを手玉に取り警察や世論を挑発する前代未聞の劇場型犯罪へと発展していく。しかし群馬県の山中で犯人と思われる二人組が交通事故死を遂げ、この小説の第一部(ここまででまだ全体の約四分の一)にあっけなく幕が引かれる。だが、そこから先がまたすごい。二人がなぜ事件にかかわり、死ぬことになったかを20年前の彼らの小学生時代にまでさかのぼって説き起こす。下町から練馬区に場所を変えて、えんえんと続く薬屋の息子とそば屋の兄妹の物語に、これまた深く感情移入をしてしまう。犯罪の被害者だけではなく、加害者や容疑者にも家族がいて、事件が彼らの運命を狂わせていくあたり。

 主犯格がついに姿を現わす後半の展開から、ジャンルとしては“怪物”の造形にたけたサイコスリラーの系譜に分類されてしまいそうだが、読みどころは(そういうありがちな)《連続殺人の犯罪心理学》より、また《劇場型犯罪のメディア社会学》よりもむしろ、事件に翻弄される市井の人びとを描いた《都市社会学》の側にあるとわたしは考える。教育テレビでやってた「このまち大好き」みたいな世界ね。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本高峰秀子の捨てられない荷物

2001/04/23 17:32

映画女優のパーソナル・ネットワーク

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 いつだったか『カルメン故郷に帰る』をBSでやっていて、若き日のデコちゃんにすっかり見とれてしまった。本書によると、結果として最後の映画になった『衝動殺人 息子よ』の制作発表があったときにも、“カルメン、大船に帰る”だの、往年の名作をもじった記事がやたらとあったらしい。「この分だと、死んだ時には、どこかの新聞や週刊誌に『カルメンあの世にいく』なんて見出しが躍るのではないか」(p.12)。そんな、つかみのギャグ(しかもかなりブラック)ではじまる、高峰秀子、自伝『わたしの渡世日記』(文春文庫)以後の日々をえがいた評伝。

 著者は、欽ちゃんの『まだ運はあるか』(大和書房)で、“紙一重の人”萩本欽一に果敢な心理戦を挑んだ取材・構成者だ。『週刊文春』の「家の履歴書」でも、しばしば(構成・斎藤明美)とあるのを見かける。小説も書いて、賞をとっているらしい(それも読んでみたい)。もと文春の記者として、原稿の依頼や資料の受け渡しに高峰秀子と松山善三の麻布の家へ出入りしていた彼女は、実母の死をなぐさめてくれた出来事をきっかけに、高峰のことを「かあちゃん」と呼んで慕うようになる。「とうちゃん」こと松山と3人の食卓で交わす会話が、トリオ漫才のように楽しくて、そこは本書の読みどころの一つだ。しかしそのような関係に落ち着くまでには紆余曲折があって、その過程で高峰の人となりを知ることになる。

 確執のあった義母の介護とその死や、親族とのいざこざをくぐり抜け、女優業を引退して20数年の歳月に、高峰秀子は、その生涯に背負った“荷物”〔=社会的束縛〕を一つ一つ切り捨て、松山とふたりの現在の境地へと到達した。「日本の女優の宿命です。みんな何らかの形で肉親にたかられてる。私だけじゃないのよ」(p.84)と高峰がいえば、「高峰秀子が、通常の人間と大いに異なることは、彼女が、“血縁”をすべて断ち切ったということにある」(p.102)と著者が書きとめるその人間観、人間関係。幼いころから研ぎすませてきた“人を見る目”に、容赦はない。だからこそ、これと見込んだ相手には惜しみない愛情を注ぎこむ。

 スクリーンを離れて久しい彼女だが、たまに請われて講演をすれば、いまだにファンが押し寄せる。ところがその帰り、会場となった同じデパートの地下食料品売場で、だれにも気づかれることなく平気で買い物をしている。「空気のようになって、死にたいの」(p.221)という彼女の、捨てられない最後の“荷物”は、日本映画史に名を残す大女優・高峰秀子という存在そのものであった。

 また、そんな彼女に40年よりそってきた伴侶がいて、高峰秀子が桃太郎なら、この人は“ひとりイヌ・サル・キジ”だと著者がいう松山善三の、プロポーズまでのいきさつ、「高峰秀子の亭主」と呼ばれ続けた日々、それでも妻を見守り妻をかばってきた夫の生き方にも魅力を感じる。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本凡児無法録 「こんな話がおまんねや」漫談家・西条凡児とその時代

2001/04/23 17:29

“人を見る目”の社会学

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 「命の母」「命の母A」でおなじみの笹岡薬品提供、凡児の『おやじバンザイ』(または『娘をよろしく』)。「へっ、おみやげ、おみやげ」。このセリフにピンと来たら買い。西條凡児没後8年、二段組479ページ+図版12ページのスゴイ評伝。

 西條(西条)凡児といえば、べつにマニアックでもなんでもない、昭和30〜40年代に人気を博した名司会者だ。ロマンスグレーのオールバックにべっこうメガネがトレードマークで、いわゆる〈はんなりとした〉上品な関西弁の語り口が印象に残る。ところが1970年、建設業者に対する恐喝容疑で『おやじバンザイ』(朝日放送)や『素人名人会』(毎日放送)といったレギュラー番組をおろされ、1年半後『娘をよろしく』(関西テレビ)で復帰を果たすが、その番組が79年に終了してからはいっさい表舞台に立つことがなかった。

 本書は、凡児の出生から、漫才、軽演劇、漫談の下積み時代を経て、ラジオやテレビで人気者になるまでの前半生と、その話芸の魅力、そして「恐喝」事件の真相にせまる。恐喝とはいっても、騒音公害に抗議して見舞金を受け取っただけの話で、いまなら市民運動である。当時、竹中労などは、これが大阪万博に向けての建築・都市計画ブームのもとで生じた「警察権力」と「土建屋」の合作によるフレーム・アップで、凡児は反対運動封じ込めのためのスケープゴートにされたのだと、援護の論陣を張った。結局、事件は不起訴処分となって、そのときの凡児の言い分がふるっている。「警察や検事はもっと人を見る目、社会学を修めてほしおますな」(p.401)。

 しかし凡児という人、その毒舌とうらはらに、もともと建設現場の騒音に我慢ならないほどの繊細な神経の持ち主で、楽屋裏でも本番直前まで貧乏ゆすりが止まらなかったのだという。生涯に三度、鬱病をわずらい、事件のときは二度目の鬱状態から脱したばかりのころだった。三度目は引退後。このときはビルの屋上で自殺未遂騒ぎを起こしている。凡児の緻密な話芸は、そのような気質と表裏一体のものであった。

 桂米朝、立川談志、上岡龍太郎、浜村淳、桂三枝、大久保怜…といった人たちの凡児評も読ませる。とくに上岡は風貌、芸風において西條凡児の衣鉢を受け継ぐ人であったにちがいないが、若いころ凡児の番組に出演したときのツーショットが、上岡はウェーブのかかった長髪のやさ男で、まったく似ていないのに驚く。この人は西條凡児のポジションをめざして、外見もそれに合わせて印象を操作して、すっぱり引退してしまったのも、凡児が手本だったのではないか(その答は、本書への「序」を参照されたし)。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本ボルトブルース

2001/03/19 17:26

自動車工場の〈システム〉と人間模様

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 関西の某大学中退、23歳のプータローが派遣会社の応援工として、愛知県刈南市《ニッパツ自動車》の工場で働くことになる青春ユーモア小説。仕事はキツいし、寮の仲間は変な連中ばかりだが、そんなに暗くはない、いまどきの“自動車絶望工場”。

 鎌田慧(『自動車絶望工場』講談社文庫)の時代と異なるのは、労働者の募集に派遣会社が介在しているところだろうか。「正社員(本工)、会社が直接雇用した期間従業員(期間工)、そしておれらのような、人材派遣会社を通じて雇用される工員(応援工)」(p.74)。70年代はじめに鎌田がトヨタ自動車本社工場に勤めて、彼の名を一躍有名にしたルポルタージュを書いたのは、2番目の期間工(季節工)としてだった。いまは本工・期間工と応援工のあいだに心理的・社会的な境界線があり、なおかつ応援工のほうが実質的な実入りがいいので、なにかと軋轢があるのだという。派遣会社対抗のソフトボール大会まであるのには驚いた。

 しかし主人公が配属された組み立て部門は、巨大なベルトコンベアに乗ってワゴン車が流れてくる古典的なラインで、エアクリーナーをボルト3本で車体に取り付けるだけの単純な作業に、最初はひどく手こずる。“ヒヤリハット”、“5S”など工場独特の言葉づかいに面食らうのも、鎌田慧の世界とほとんど変わらない。過酷な労働に、仲間がどんどん“ケツを割って”辞めていき、新入りが入ってきてもまたすぐに辞めてしまうなか、契約期間満了までがんばるところも似ている。ただし最後はちょっと違っていて、トヨタへの呪詛と“悲しみの市”豊田への憐憫を書きつける鎌田と対照的に、そこはいかにも現代風であった。

 小説としても、大男、京大、ガイコツ、不潔ボーイ、オッサン、黒縁メガネ、ハナクソ……といった面々のキャラクター造形が、いるいるこんな奴という感じで楽しい。《ニッパツ》のCMに出ているアイドルタレントの梶原涼香ファンの男と二人で、彼女が出演する紅白歌合戦を見ながら年末を過ごすはめになるエピソードなんていうのは、笑ったなあ。
_______
たけのこ雑記帖

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紙の本だれが「本」を殺すのか

2001/03/02 11:38

だれが「人を食っている」のか

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 5年連続マイナス成長、「出版クラッシュ」ともいわれる業界の現場で最前線に立つキーパースンに、佐野がインタビューをこころみる。まくらで振られる『原色怪獣怪人百科』の強烈なギャグ(正力松太郎も中内功も……の箇所)に笑い、続々登場する面妖なキャラクターにもまた驚かされる一種の人間図鑑であった。

 たとえば「閣下」こと、紀伊国屋書店代表取締役会長兼社長の松原治(82歳)。巨大書店戦争の旗手のひとり、ジュンク堂書店社長の工藤恭孝(50歳)——ジュンク堂は淳久堂と書くが、ほんとうは「淳・工藤」だそうである、詳しくは本文参照——。また全国の図書館に図書と図書情報を納めながら、図書館人から嫌われているTRC(図書館流通センター)社長の石井昭(67歳)。その石井がたちあげたオンライン書店 bk1 に、街の書店の店長から引き抜かれてサイト・コーディネーターとなった安藤哲也(38歳)。紀伊國屋の会長が「インチキ極まる」と目のかたきにする新古書店ブック・オフの社長、坂本孝(60歳)…。

 こうした主役級以外にも、わきで光ってなぜか印象に残る役者がいる。注文された本を日販・東販といった大手の取次にまわしていては時間がかかってしょうがないから、客注本をクロネコヤマトのブックサービスに丸投げしている名古屋の三洋堂の創業者は、元満鉄職員で元共産党員。日本福祉大の前で社会主義の専門書を売り、死ぬまで革マル派にカンパを欠かさなかった——という話を現社長の加藤宏(42歳)に聞いて、佐野も思わず「偉い人だなあ(笑)」(p.138)。あるいは、「超訳」で知られるアカデミー出版社長の益子邦夫(63歳)。出版業界とはつき合いを持たず、ホテルオークラを定宿とし、読者は「一般大衆」だとのたまう「わけのわからない」(p.203)人物。そんな人間スケッチの集積が、この本の持ち味だ。

 本格派ノンフィクションの書き手と目される佐野はかつてある編集者に、「本格派というのは世を忍ぶ仮の姿で、本当は日本屈指のコント作家と睨んでいる」(p.298)と内心をずばり見抜かれたことがあるのだという。この人も確信犯だし、《人を食っている》のはだれよりも佐野自身なのかもしれない。

【たけのこ雑記帖】

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紙の本鬼子母神

2001/03/01 18:14

保健婦のお仕事

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 保健婦の工藤公恵は離婚したばかりで、娘の美香の面倒を母の倫代にみてもらって区の保健センターで働いている。職場の後輩の宮内、係長の本城、課長の増田、刑事の庄司、そして渡井敦子と弥音(みおと)の母娘——おもだった登場人物がすべて女で、たった一人、敦子の内縁の夫の江原だけが男性という構図はたぶん作家の意図あってのことだろう。

 3歳児検診に保健センターを訪れ、あとで工藤のもとに電話をかけてきた渡井母娘のただならぬ様子に、工藤は江原による虐待を疑う。江原には隠して渡井母娘を入院させると、酒に酔った江原が執拗に工藤の前に現れ、居所を教えるようにと迫る。しかし…うーん、その先を書いてしまうと、これから読む人の興を削いでしまうだろうから書かないことにする。話の進む方向自体はわりと早い時点で察しがつくが、この結末にはさすがに驚いた。

 保健所、病院、警察、役所の福祉課、福祉事務所、児童相談所、母子寮、ボランティア団体…この小説に詳細に描かれているように、現代社会には弱い立場の母と子に対する監視と保護のネットワークが張りめぐらされており、その最前線の現場にも多くの働く女性が立っている。ところが穴やほころびはどこにでもあるもので、たとえば他人の子の虐待に目を光らせる工藤自身が、仕事と家庭のストレスから幼いわが子への攻撃衝動を抑えきれない。またある種の思い込みから江原のような男を安易に排除してしまって、とりかえしのつかないあやまちを犯す。なるべく意味不明なように書けば、工藤が突き落とされるどんでん返しの奈落の底は、社会システムに仕組まれた落とし穴であるかのようでもある。わかっちゃうかなあ、ピンと来てしまったらごめんね。

 工藤の後輩の宮内が都立大で児童心理を認知行動の面から専攻していて、ユング派の精神分析に頼る心理相談員をうさんくさく思っている、というような学閥の知識社会学もちょっと面白かった。

【たけのこ雑記帖】

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紙の本私の大阪八景

2001/03/01 18:06

戦時下大阪の都市社会学

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 男の子の少国民小説というのは食傷するほどあるけれども、女の子のはあまりないよね。これには天皇陛下皇后陛下大好き、ばりばりの皇国少女トキコが登場する。田辺聖子自身がモデルの大阪下町、写真屋の長女。弟や妹が「上品な」中之島小学校にかよっているのに、自分ひとりだけ「がらの悪い」福島小学校にかよわされているのを嘆く半面、親から“いいとこの女の子”とだけ遊べといわれるのに反発する子でもある。

《母ちゃんは表通りのお医者さんとこの女の子なんかと遊びなさいというが、トキコは裏の路地の奥の子のほうが面白いのだからしかたがない。朝鮮人のタケ子やメリヤス雑貨問屋の山岡や、地主のうちの気弱なぼんぼんと遊ぶと安心だ。なぜ安心かというと、表通りの子供と遊ぶと、ジャンケンポン!といわなければいけない。そんな上品な言葉を使うと恥ずかしいので、鋏を出そうと思ってるのに紙になったり、石になったり、途中で気がかわってしまう。やっぱり、インジャンホイ!でないと気分が出ない。「うちなあ…」といわずに、「わたしねェ」と美しくいわないといけない》。(p.11)
 そんなトキコが、級長の清川アキラに恋したり、夢の中に豆の木が出てきて、するする登っていくと雲の上に宮城があって天皇のまぼろしを見たり、はたまた宝塚歌劇団の芦原邦子に悩殺されたり、吉川英治の『宮本武蔵』にはまって何をするにもムサシの言葉が頭を離れなかったりしながら——成長していく。会話とトキコの発想は上方漫才そのもので、電車の中で何度も爆笑をこらえながら読んだ。

 社会学としても「ジェンダー」「エスニシティ」「クラス」の三題噺が全部そろっている。男は兵隊になれる、女はなれない。そこから派生して、いかに女が不幸か「理科の分類式に」つきつめて考えるトキコ。朝鮮人のタケ子の父ちゃんや、教会のボク(朴)先生が身近で疎遠な都市社会。上の学校にずっと進んでいくトキコと、小学校の同級生のその後の対比、などなど。

 またこれは戦前戦後を通して、庶民感情として天皇がどういう存在であったかを示す一個の天皇論でもある。戦後、人間天皇の地方巡幸で大阪梅田にやってきた昭和天皇を迎えて、引揚者の「トラさん」が感きわまって叫ぶ。《陛下、——苦労しはったなあ、お互い、まあえらい目に会いましたなあ。長生きしとくなはれやァ、陛下、これからだっせ、陛下——》(p.257)。それを見ていて、10代の大部分を戦時下に過ごしたトキコの胸にも去来する複雑な思いがある。そこもいろいろ考えさせられる読みどころ。

【たけのこ雑記帖】

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紙の本“ブルー・シャトウ”は永遠なり 天国の大ちゃんに…

2000/12/01 02:53

ブルー・コメッツの青春時代

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 2000年5月に亡くなった井上忠夫を悼んで、ブルー・コメッツのリーダーが往年の思い出を語る。バンドマンからGS(グループ・サウンズ)のスターになった男たちの青春時代。

 1938年生まれのジャッキー吉川が高校生の昭和30年代はじめ、世はカントリー&ウエスタン・ブームを迎えていた。のちにビートルズを日本に呼ぶことになるプロモーターの永島達司がいくつかのバンドのリーダーを集めて結成したのが、初代のブルー・コメッツである。ドラム好きのジャッキーは、つてをたどってこのブルー・コメッツにバンド・ボーイとして雇われる。はじめは譜面も満足に読めなかった。

 それから時は流れて、解散寸前のバンドを引き継ぎ、小田啓義、高橋健二、井上忠夫、三原綱木と、ぼくらの知っているブルー・コメッツのメンバーが一人一人そろっていく過程が『七人の侍』のようで面白い。小田が東宝で『ゴジラの逆襲』などを撮った小田基義監督の息子で、貧乏なジャッキーは成城の小田邸に居候していたこともあったとか、井上忠夫は日比谷の有名な鰻屋の息子だったけど家出をしてやはり貧乏で、二人で一人前のギョウザを食べながら音楽のこと、将来の夢を語り合ったこともあったとか、そういう青春時代の昔話の味。

 昔気質で職人肌のジャッキー吉川は、シンバルに5円玉をぶら下げて残響音が出るよう工夫をこらすといった細心なところがあるかと思えば、いわゆる宵越しの金を持たないタイプでもあって、家を建てたり財を蓄えるなど(音楽をやっている俺がそんなカッコ悪いことができるか!)という価値観の持ち主だ。ブルコメ全盛期にもらったヒット賞などのトロフィーも酔ったいきおいで人にあげてしまって、レコード大賞のものを除いて何も残っていないのだという。なんとも愛すべきオヤジではないか。

 井上忠夫が学生時代から目が悪くて、いつも黒ぶちのメガネをかけていたのを、カッコ悪いといってコンタクトに替えさせたのはジャッキーだった。昔のものは分厚くて手入れも面倒で、落としたコンタクトレンズに唾をつけては、また目に入れ直していた。井上が自死を選んだ理由の一つに網膜剥離の手術の失敗があって、あの当時はこういうことになるとは思いもよらなかったと悔やむ。そんな、いまは亡き友への思いも胸を打つ。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本浪費するアメリカ人 なぜ要らないものまで欲しがるか

2000/11/06 08:35

消費社会の準拠集団と階級構造

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 消費社会論というとわけのわからない記号(論)が出てきて煙に巻かれることも多いけれども、これはオーソドックスかつシンプルな社会学でもって、現代アメリカ社会の病理を的確に指摘してみせる。鍵になるのはヴェブレンの「誇示的消費」(『有閑階級の理論』)に由来する“ステータス消費”、“競争的消費”という概念だ。

 著者はまず、必要を超えた過剰な消費がいかに中流階級〜大衆に広まっていったかを跡付ける。かつてみずからの社会的地位をこれ見よがしに誇示するかのごとく派手な消費をくり広げたのは、一部の上流階級に過ぎなかった。大衆消費社会の到来はそのような事情を一変させ、多くの人びとを自家用車や家電製品の購入へと駆り立てたが、その場合も準拠集団(要するに比較の対象になる相手)は地域社会の隣人たちにとどまっていた。

 しかしいまや、多様な所得階層を含む職場の同僚や都会の文化人、テレビの有名人が準拠集団となって、消費への欲望はかき立てられる一方である。住宅、ブランドものの洋服、高級自家用車、パーソナル・コンピュータ、健康器具、子どもを私立学校に通わせること、などなど。1980〜90年代に中流階級の上層が実現したこれらのライフスタイルは、本来は分不相応な中流階級の残りの部分にとっても理想となっていった。

 この風潮に、クレジット・カードや消費者ローンの発達が拍車をかける。現代のアメリカ人は、上昇しつづける生活水準を維持していくために多額の借金を抱え、長時間労働を余儀なくされるはめに陥っている。はたから見れば、どうかしているとしか思えない。著者が「働きすぎと浪費の悪循環」と呼ぶこの過程は、マクロ経済や環境問題にも深刻な影響を及ぼしているのだという。

 では、そこから脱け出す道はあるのか。本書後半では生活水準を下げることに成功した“ダウンシフター”への調査結果を紹介し、いくつかの原則を導き出している。いかにも説教臭い、アメリカ版清貧の思想ではあるが聞くべきところはある。

たけのこ雑記帖

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紙の本天皇の船

2000/10/23 04:17

日系移民社会の階層分化と《怨念》の社会学

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 かつて日系ブラジル移民のあいだに、日本の敗戦を認めない「勝ち組」と呼ばれた人びとがいた。悲惨な境遇に耐えながら「勝ち組」の人びとは、いずれ天皇の船が彼らを迎えにやって来てくれるのだと信じていた。本書は、そんな実話に題材を得た社会派ミステリー。純朴な「勝ち組」の人びとをだまして巨財を築き、戦後社会でのし上がっていった政治家、官僚、商人……らの虚妄が暴かれる。

 はじめに1954年、ブラジルの日系社会で起きた「勝ち組」一家心中事件の謎が提示される。それから時は流れて1988年、東京とサンパウロの双方で、殺人事件が起きる。東京・新宿では、かつて移民の送り出し機関であった国際協力事業団(JICA)の総裁が、ホームレスの男と刺し違えて死ぬ。サンパウロでは、日本の首相も列席する移民80周年の祭の最中に、日系の老人が「死神部隊」と呼ばれる私刑組織の手によって射殺される。東京で死んだホームレスの男は仲間に戦前の古い100円札を見せびらかし、これが近々大金に化けると言っていた。サンパウロで殺された老人も、その手にやはり旧円紙幣を握り締めていた。

 東京とサンパウロの事件を結びつけ、さらには「勝ち組」一家心中事件にまでさかのぼる旧円紙幣の謎を追いかけて、パズルの断片を組み立てていくのは、二人の若い新聞記者だ。日本側が東日経済新聞、新宿署詰めの藪本秀也。ブラジル側が聖州日々新聞の吉田マルコス。藪本は西大久保公園で売春をしていたドミニカ出身の日系二世・坂口アンヘリカが、死んだホームレスの男の娘だということをつきとめる。マルコスは恋人の野口マダレーナを残して東京支局に転勤になり、サンパウロで殺された老人の出身地である富山県の山村にまで取材に出かける。

 やがて浮かび上がってくる事件の真相——は言わないけれども、その背景には、50年以上前に同じ故郷をあとにし、また同じ移民船に乗り合わせながら、その後の運命を分けた人びとの複雑な人間関係があった。そして事件は、政権をゆるがすスキャンダルに発展していく。むろん実際にそういうことはなかったし、JICAの総裁もこんなかたちで死んではいない。しかしこれは、ありえたかもしれないもう一つの《事実》を描いたノンフィクションとして読むこともできる。

 奥付によると著者は「ブラジルを中心とする日系人移民史・現代史」をライフワークとするフリーライターとのことで、歴史的事実や日系社会の現在に関する書き込みに圧倒的な迫力がある。ただし小説の作法に関しては偶然や事後説明の多用が目につき、そういう部分は瑕疵(かし)として残る。

【たけのこ雑記帖】

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紙の本江利チエミ波乱の生涯テネシー・ワルツが聴こえる

2000/10/23 04:14

没後18年、初の本格的評伝

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 橋本→小渕→森の総理三代と、ひばり・チエミ・いづみの三人娘が1937年生まれの同い年と知って愕然としたことがある。江利チエミ享年45歳、美空ひばり享年52歳。花の命はあまりにも短い。

 さてジャズ歌手であり流行歌手であり、女優でもあった江利チエミ。わが世代には「サザエさん」といえばこの人の当たり役だった。そんな彼女が脳出血を原因とする窒息により急死して、はや18年。本書が初の本格的評伝になる。

 父は吉本興業所属のピアニストで、初代柳家三亀松の相三味線もつとめた。母は戦前、柳家金語楼の相手役で人気をとった喜劇女優。そんな両親から音楽と芝居の文化資本をチエミがいかに受け継ぎ、戦後社会に開花させたか。

 デビュー直前に母が亡くなり、母の友人であった清川虹子とのあいだに、その後の『サザエさん』での共演などをも通して、いかなる疑似母子依存関係が形成されていったか。

 そして、高倉健との結婚生活にピリオドが打たれたのはなぜか。高倉健も謎の人で、この本でもいっさい取材には応えていないけれども、チエミの命日に線香を送ることを欠かさず、いまもチエミと暮らした洋館に一人で住んでいるのだという。

 チエミが死の前年に、取り壊し中の日劇をシャープス&フラッツの原信夫と訪れ、彼のピアノで「テネシー・ワルツ」を歌う場面も出てくる。そこは往年の日劇黄金時代の思い出が胸にせまって、映画のように美しい。

 ただしこの本、取材過程の記録や参考文献、それに江利チエミのディスコグラフィーや出演作品リスト、年表などを欠いているのが、じつに惜しい。著者が居合わせたはずのない場面の会話をだれに聞いたのか、なにかの雑誌に載っていたのか、それとも著者の想像なのか。読者としてはそういうことがちょっと気になった。

【たけのこ雑記帖】

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紙の本東四丁目

2000/10/23 04:10

社会階層と移動の《都市》社会学

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 ユダヤ系移民の両親を持つ作家が、少年時代を過ごした1920年代ニューヨークの街と人びとをふり返る自伝的小説。

 ヨーロッパ放浪の果てにアメリカに入国した父は、縫製工場で働きながら移民の呼び寄せに尽力した。貧しい家庭を守る母は、字の読み書きができなかったけれども気丈に子供たちを育て上げた。彼らの移民仲間との付き合い、地元の顔役の選挙運動、ユダヤ系コミュニティの外の世界とのつながりなどなど、連作短編に描かれるエピソードは社会学の見地してからも興味深い。

 そんな両親のもとに生まれ、やがて11歳になった少年が、格式ある弁論大会に出場することになる。ニューヨーク市主催、ニューヨーク・タイムズ社後援。テーマは「アメリカ合衆国憲法」について。地区予選出場者のうちただ一人、スーツを用意できずセーター姿で臨んだ彼は、あやうく失格にされかかるが、結果として優勝をさらってしまう。カーネギー・ホールで行なわれる最終審査の前に、教師から借金をして父と二人、はじめてスーツを買いに行く場面がおかしくて、せつなくて、とてもいい。このスーツがそのあとたどる運命も読みどころの一つである。

 それからもう一つ。高校卒業後、奨学金を得て大学に進学する道もあったが、破産調査の会社にタイピストとして就職した彼は、そこで、高校の同級生でいまはニューヨーク大学にかよう金持ちの息子と皮肉な再会を果たす。恩讐の彼方に、はたして何が待っていたのか——。

 貧しい移民がアメリカ社会に生活の拠点を築き、次の世代が学校教育を通して社会的適応と上昇を果たし(そこで鼻持ちならない中流階級と衝突もし)、やがて慣れ親しんだコミュニティを去っていく。アメリカの都市は、そのような社会移動の軌跡が無数に重なり合って出来ている。この小説は、そんなアメリカ社会の都市社会学でもある。

【たけのこ雑記帖】

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紙の本東京物語

2001/11/01 10:39

春一番が掃除したてのサッシの窓に

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 1959年の遅生まれ、同い年で同学年の作家の自伝的連作短編集。わが世代は20歳代がそのまま1980年代に重なる。ジョン・レノンが死んだ日(80年12月9日=日本時間)、すこし戻ってキャンディーズ解散の日(78年4月4日)、ジャイアンツの江川初登板の日(79年6月2日)、名古屋オリンピック落選決定の日(81年9月30日)、ラグビー新日鉄釜石・日本選手権七連覇の日(85年1月15日)、ベルリンの壁崩壊の日(89年11月10日=日本時間)に、それぞれどこで、だれと、なにをしていたか。

 1978年4月4日。18歳の田村久雄(=著者の分身)は、あさ名古屋から上京してきたその日の午後に、高校時代の友人に会おうとして東京中をぐるぐる回るはめになる。池袋から山手線の反対側の目黒、目黒から目蒲線で大岡山、大岡山から渋谷に出て途方に暮れ、代々木から総武線に乗り換えて水道橋で……後楽園球場のキャンディーズ解散コンサートに遭遇してしまう。

 水道橋の駅に電車が入ると、カクテル光線に照らされた球場の中から、キャンディーズの歌う「春一番」が聞こえてくる。あわてて、白山(水道橋から地下鉄で二駅目)の下宿に住む友人を呼んできて、球場の外でいっしょに口ずさむ「やさしい悪魔」に「微笑がえし」。——同じころ上京してきて、当日似たようなことをしていた身としては、笑えて共感できて身につまされる。

 一浪後、大学に進学した久雄は演劇部に入部する。つかこうへいが好きだと言うと先輩たちに鼻で笑われて、唐十郎の状況劇場の芝居を見に連れて行かれる。そこで打ちのめされて、じきに気どって「テントの中に出現した非日常の空間というか……」などとわけのわからないことを言い出すようになる。するとまた先輩に圧倒的な言葉の暴力で論破される。その先輩の書いた戯曲を読んでみたが、やっぱりアングラ志向で何がなんだか、さっぱりわけがわからなかった。——これもわかるな、その感じ。

 恋愛だってする。演劇部で同じ学年の、東京の女の子。江里という名で、自分のことをエリーと呼んでとぬかす。「いとしのエリー」(サザン・オールスターズ)。二人で入ったそば屋のテレビには、能面のような表情でピッチングを続ける江川が映っていた。時代や世相が個人的な回想とリンクしていて、しかも同い年で、同じ東京だから、まったくもって他人事ではない。

 わけのわからない東京の地理に、わけのわからない大学の演劇部に、わけのわからない女の子。久雄が大学を中退して就職した小さな広告代理店でも、変な上司と出会って狐につままれることになる。10代の終わりから20代にかけての東京体験は、わけのわからないものとのファースト・コンタクトの連続で、そこに、なんともおかしなユーモアが発生する。それでいてこれ、地方出身者の巨大都市東京への適応過程であるからして、ちゃんと都市社会学でもあるし。

 しかしやがて、そんな青春の日々に別れを告げる日がやってくる。昭和が終わり、美空ひばりが死んで、ベルリンの壁まで崩壊してしまった1989年の秋、久雄も30歳の誕生日を迎える。そういえば、そうだったんだよな。わたしは12月が誕生日だった。故郷で過ごした70年代までと違って、東京に出てきてからの80年代は一直線で現在につながっているような気がして、よもや回顧の対象になるとは考えていなかったのが、こうして小説として提示されると、それでもいろいろあったのだなという気にさせられる。
【たけのこ雑記帖】

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紙の本ストリート・コーナー・ソサエティ

2001/03/01 18:00

コーナー・ボーイズの青春物語

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 言わずと知れた社会学の古典(原著1943年刊)であり、社会調査における参与観察法のお手本とされる書物だ。もっともいまや、あまりにも教科書中の古典として名声が確立してしまい、新しい訳書が出たところで逆に敬遠されはしないかという不安もある。

 だが、じつのところこの本は、コーナー・ボーイズとカレッジ・ボーイズ(下記参照)がボウリング大会で対決したり、ヴィーナス・クラブのお高くとまった女の子たちとデートしたり、はたまた、やくざと政治家が牛耳るおとなの世界で挫折も経験したりと、まことに《ポップでカジュアルな》アメリカン・グラフィティなのだ。社会学のお勉強というより、まずはなつかしい青春小説をひもとくように読んでほしい。

 ストーリーはつぎのようなものである。坊ちゃん育ちで世間知らずのハーバード大学特別研究員、ビル・ホワイトが、スラム街の研究のため、イースタンシティ(=ボストン)の一角を占めるイタリア系移民の街コーナーヴィルを訪れる。ここで彼は、街かどにたむろする若者たちのリーダーであったドックという男に出会う。

 この街には大学に進学する青年(カレッジ・ボーイズ)と、地元で就職する青年(コーナー・ボーイズ)の二種類の若者がいて、おたがいに派閥を作って反目しあっていた。コーナー・ボーイズをひきいるドックは、カレッジ・ボーイズにも顔がきき、二つのグループを橋渡ししようとボウリング大会を企画する。カレッジ・ボーイズを大差でうち負かしたこの試合をきっかけに、コーナー・ボーイズのあいだでひとしきりボウリングが流行する。

 やがてコーナー・ボーイズは、上流社会にも出入りしているヴィーナス・クラブの女の子たちをボウリングに誘って遊ぶようになった。なかには自動車でデートに連れ出す連中もいた。ところが、もてる奴もいればもてない奴もいて、こうした男女交際の深まりは、コーナー・ボーイズに深刻な亀裂をもたらすことにもなってしまう。もっともそれも青春の1ページで、彼らはみんな、幼いころから慣れ親しんだ仲間たちと若さを謳歌していた。

 しかし、そんな日々にもやがて終わりがくる。30歳になったドックは仲間にすすめられて州議会議員の選挙に立候補しようとする。その気にさせられたドックもはじめは地区をまわって子分を増やしていったが、そのうち失業中の身の上では選挙運動にも限りがあることを思い知らされる。仲間たちはドックから離れていった。おとなになるということは、そういう挫折を味わうということでもあるのだ……。

 『ストリート・コーナー・ソサイエティ』とは、このようなドックとコーナー・ボーイズの青春物語であると同時に、たぐいまれな分析の冴えを示す社会学でもある。個人の出世を追求してやがてはコーナーヴィルを出ていくカレッジ・ボーイズと、仲間たちとの義理と人情の関係をだいじにするコーナー・ボーイズとの対比を出発点に、ビル・ホワイトの考察はアメリカ社会における共和党と民主党の支持基盤の違いにまでおよぶ。街かどから国政レベルまで、アメリカ社会の構造が透けて見えてくる社会学的スペクタクルは、ぜひとも本書を最後まで読みとおすことで実感してもらいたい。

 なお、初版の刊行から50年——1981年の第3版と、93年の第4版で追加された文章も、過ぎた日々をふりかえる老教授といった風情で味わい深い。コーナーヴィルの街はどう変わったか。ドックはあれからどうなったか。そういうところも、まるで映画のエピローグのようである。

【たけのこ雑記帖】

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