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中村びわ(JPIC読書アドバイザー)さんのレビュー一覧

投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー)

655 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本深淵 下

2004/02/06 13:37

「作家の思想」と「物語」とのあいだに横たわるものについて考えさせられる。また、「おもしろさ」について考えることと、「おもしろさ」を感じることについても…。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 数値評価を結構当てにするという人のために、★印をつけず「評価保留」としたことの真意を書いてみるなら、3.3〜4.2ぐらいの範囲で通読中に微妙な揺れが生じた。3つなのか4つなのか絞り込めずにアポケーしてしまったというのが本当のところだと補足しておきたい。

 まだあまり評の出ていない本書だが、谷津さんという方が自身のブログ(yatsu blog)でかなりシビアで鋭いコメントを提示している。この人は『神聖喜劇』を読破している。
「この小説は大西氏の説教の道具になってしまっているように感じる。つまり、小説としての魅了を感じないのだ」「この小説は大西氏の頑固哲学の流通媒体でしかないのかと思ったとたん、つまらなくなって読む気力がなくなってしまったのでした……」
 上巻の感想のところで、私は「あまり目にしたくなかった新聞広告が出てしまった」と言いながら、人に対する気遣いなく内容を書き出してしまったが、広告を読んで「小説とはこうあらねばならない」という作者の思い込み過剰を認めないわけにはいかなかった。谷津さんの書かれているところまで突き抜けた思いは抱いていないが、大方のところで同意である。

 もちろん思い入れのない小説など面白くない。しかし、思い入れが前面に出てきて全編をところどころ覆ってしまっているような印象を何ヶ所かで受けてしまった。そういうところは、残念ながら至難事の両輪の片方である「おもしろさ」がかすんでしまう。
 たとえば古今東西の文学、哲学、思想が登場人物たちの教養や倫理、生活信条などに強い作用を与え、引用される箴言的な言葉が物語に重厚な雰囲気を醸し出している。ブックガイド的な役割も担って、本好きにはそれがまたひとつの大きな魅力ではあろう。
 だが、主人公に関わる女性ふたりが共に、カフカ『城』の冒頭を4行もそらんじることができるという設定。戦前生まれの女史のような手紙の文体。それゆえに寓話的だと譲ってみたところで、寓話からも受け止められるべきであるリアリティがどこかに霧消してしまう。博覧強記の教養はベタに盛り込まれなくても、エッセンスや仄めかしなどで表現された方が物語性を豊穣にするのではないだろうか。

 12年の空白というトンネルの入口で、主人公は過去の生い立ち経歴の記憶を失う。トンネルの出口で再び、別人として破綻なく生きた12年間の生活の記憶を失う。12年の空白後の目覚めから始まるこの小説は、ミステリのプロットとして絶妙にスリリングな設定を持っているのだ。逆行性健忘というこの精神障害は、筆力のある小説家ならば娯楽小説としていかようにもドラマチックに書き得ると思う。元よりハリウッド映画的おもしろさを求めて手に取ったわけではないが…。
 かくあるべき小説の姿を追うよりも、むしろかくあるべき人間存在が、ロシア小説の一節の引用をもって語られるのではなく、他者の言葉には託せないむきだしの主人公の言葉で語られてほしかった。

 

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紙の本深淵 上

2004/02/06 11:23

剛堅で緻密な文体により構築された寓話的推理小説。二度記憶を失い、12年間を別人間として生きた男性が関わった2つの殺人事件の解明。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 初めて読んだ大西巨人作品だった。埴谷雄高『死霊』、武田泰淳『富士』、石川淳『狂風記』などのように戦後文学(このくくりから脱却を宣言できる契機は果たして何になるのだろう。まさか次なる戦争の到来を待つわけではあるまいし)の金字塔と誉れ高い『神聖喜劇』を読まずして、この作家の新作についていかほどのことが考えられるのか心もとないが、新しい読者として気負わずに感想を書いてみたい。

 小説は社会を映す鏡である。それが事件がらみの社会派推理小説ともなれば、読み手は謎解き完了までの宙吊り感を楽しむのと並行して、犯罪や捜査、そこに関わる人びとの意識・行動に社会病理の象徴を見つけ、現実を眺める視座の獲得を期待するだろう。
 仕事帰りの飲み屋では照れくさくて口にできない、むしろ避けて通ろうとする「生や死、人間存在の根源に関わる問題」なんてのも、密かにその読書で考えてみたりする。
「俗情との結託を排する思考、厳格な文章が到達した世界」「人生観、社会観、世界観ないし現実認識、大西文学の現到達点」——これは、上下巻それぞれの帯に付された紹介である。相当気合を入れて読み始めた。

 漢学の教養に支えられた世代ならではの文体なのだろう。それに加え、警察の調書のような言い回しが意図的にされている。
——……五体に酒精の気がある場合の交合は、白面の場合のそれよりも、ずいぶん少なくしか彼に快感をもたらさない。それが、布満における「交合原則」の成立理由である。琴絵との結婚生活数年間、彼が婚外交合絶無で過ごし(得)たのは、主として「倫理的理由」からであったにしても、〜以下略〜(上巻99P)
 このような調子である。

 ここだけ読み「肌に合わなそう。ほな、さいなら」という人が出てしまうと、情報伝達が不十分に終わってしまう。
 28歳で失踪し、以降12年間記憶を失ったまま別人間として生活していた麻田布満という主人公の失踪当時の勤務先は「首都恐竜書林」で、月刊文芸雑誌『解凍』編集部に所属していた。埴谷雄高『死霊』の「あっは!」「ぷふい!」同様、作者が頬をゆるめながら筆を進めたと思しきユーモア、それに結びつく寓話性が読んで取れるのである。
 そのような書き手の構えを楽しみながら、そして調子に乗りすぎて破綻などしないようにと願いながら毎日数十ページずつ読んでいこうというところで、私としてはあまり目にしたくなかった新聞広告が出てしまった。
——おもしろくもあり値打ちもあるのが、小説の理想的な姿と信ぜられる。その至難事達成は、現在ますます必要である。〜中略〜濡れ衣と言われる二つの殺人事件を通じ、人々は、社会・人間の有るべき様相を興趣ゆたかに読み取るにちがいない。
 大西巨人氏直筆の文章を転写したものが掲載されていたのだが、ここに書かれた内容にひっかかりや疑問を持ち、実は読了した今もそれらを引き摺っている。

 

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紙の本閉じた本

2003/10/17 19:59

ミステリとしての出来をうんぬんするよりも、独白と会話だけで構成された小説の可能性について、「書くこと」に意識的な人が考えるのに良い本…かな?

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 このサイトに感想を投稿し始めたころ、★印をつけられることを知らないで「評価保留」にしていたことがしばらくつづいていたが、それ以来初めて「評価保留」をクリックした。
 自分の場合、この★の数というのは、その時々のコンディションが一定しない読み手としての満足度、つまり気分次第の絶対評価だ。過去に読んだ同ジャンルや同一作家の本との比較はあまりしていない。
 きのう手ごたえのある本を読んで印象に残っていれば、きょう読んだ本の印象はどうしたってそれに左右されてしまう。日々知恵がついたり減ってしまったり、物の考え方が変化しているのに、客観的な評価を試みるというのも至難の業である。
 不幸にして、★1つ、あるいは2つ程度の満足しか得られなかった本については、記憶に留めるのも不愉快なので速やかに忘れるようにしている。そういう本ですら、年月が経れば物の受け止め方が変わり、別の満足が得られるかもしれない。きのうの自分に自信を持つのも、明日の自分を当てにするのも危険な気がする。こと、何かを知りたくて、得たくて、本を読んでいくのであれば…。

 とまあ、くだくだした断りのあとに、なぜ「評価保留」で、さらにこの本について書き留めているかという本題に入る。2つの側面に自分の内面が裂かれ、満足度が2つに分かれて困ってしまった。
 ブッカー賞作家として英国の文壇での地位を確立した作家の物語で、見出しに挙げた「独白」というのは彼の心情吐露になっている。彼は交通事故に遭い、顔にひどい傷を負った上、眼球を失ってしまい、世捨て人同然に隠棲している。それが遺書を残すようなつもりで自伝的回想録を書くことを決意する。
 自力での執筆が無理な彼が思いついたのは「口述筆記」で、助手を雇うことになる。プライドが高く、視力を失ったことで気難しくもなっている作家がまずまずの合格点を出したのが、ジョンと名乗る青年である。
 作家の代りに原稿を打ち込むだけでなく、取材に出向いたり、夜の散歩につき合ったり、家事も行って目ざましい働きをするジョンだが、ふとしたことから作家のなかに疑念が湧いてくる。
 
 サスペンス小説としては、途中で大まかな予想がつく。最後の最後になって、独白と会話で成り立つ特殊な構成を納得させる意外な仕掛けも立ち上がってはくるものの…。ミステリのガゼットが多く盛られているわけではないし、伏線が複雑で重層的というわけでもないが、引き摺られていく内容ではある。私にとっての最大の不満は、謎が暴かれる時に明らかにされる作家の過去で、これは正直何だかなあ…と思い切り萎えた。
 しかし、ミステリ&サスペンス小説としての満足度とは別に、構成からも明らかなように、この小説は「書くこと」についての意識が高い。独白と会話しかないという設定は、そもそも盲人と同じ状況に読み手を誘導するという意図であるが、その状況が読書という行為にトレースできるというのが、作者であるアデアの思いである。無論、独白と会話でどこまで書けるかという実験的な意味合いもあろう。
 エピソードが気に入らないにも関わらず、記憶に留めるべき1冊だと感じたのは、このような書かれたものとしての本に対する考察に興味惹かれたからである。

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紙の本おちんちんのえほん

2002/07/04 15:17

男の子がむやみに「そこ」を見せ始めたとき、決まり悪い思いをする大人たちにとってありがたい1冊。多側面から捉えておきたい知識がきっちり詰まっている。

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 授業参観日のかわりに学校公開日ということで、小学校の全授業と施設が公開になった。新一年生の母親としては願ってもない好企画。3日間のうちの2日間通って、うろうろと見学に励んだ。すでに何人もの子どもたちと遊んだことがあるので、休み時間には声をかけたり、かけられたり…。
 一番つき合いが多い男の子Wには、ちんちんを見せられた。その少年Wは、昭和40年代からタイムスリップしてきたような見てくれの悪ガキで、だからこそ私の大のお気入り、心の恋人なのであるが、ズボンを下ろしてかわいい一物を見せながら、なんと「マ○コ、マ○コ」と女性の秘所の名称を歌うように言うのだ。「どこで覚えた、そんな言葉?」とびっくりしながら、いつものように叱りつけておいた。先生には聞かれていなかったと思う。
 そのことを帰ってから息子に言うと、「Wはママのこと好きなんだよ」と言う。これにも呆れた。あんなに小さな男の子でも、好きな女の人には大切な部分を開陳するものなのであろうか。嬉しいような情けないような話である。

 男子の幼児や児童をもつ女親というのは、おちんちんのトラブルが絶えない。
 わが息子も、最近ではなくなったが、年長になるかならないかのころから、保育園からの帰り道、公道でおもむろにズボンをおろしたり、大きな声で「このちんちん野郎!」と脈絡もなく騒いでいた。クレヨンしんちゃんの影響は大きいようである。また、最近でもときどき、入浴まえ裸ん坊になったところで押しつけてこようとするのでムッてしまうなんてことがある。同時にここではとても書けないような要望を口にしたりする。まあ、その要望をほんのちょっぴりだけかなえてあげて、ママと男の子の共犯関係のような蜜月時代は過ぎて行くのであろう。

 小さな子どもたちに性についてどういう知識を与えていくのか。最近児童書の業界では、そのテーマがちょっとしたブームである。栄養素や食文化についてあれこれ考える「食育」のブームがその前にあった。盲導犬・介助犬、バリアフリーをはじめとして広く福祉に関わる本の出版も相次いで、今は「性教育」なのである。それもジェンダーというよりは、ずばりセックスという生物的存在としての人間を対象とした…。
 
 この絵本では、まず、女の子から男の子を区別する体のシンボルとしてのおちんちんが紹介されて、排泄機能が語られるのだが、そのときにトイレ・マナーについても言及がなされている。次いで水着を例にとり、「プライベート・ゾーン」という言葉を出すことによって人に見せない方がいいのだという教えが述べられている。そうか「プライベート・ゾーン」——この概念を今度あいつ(W)に教えこんでやらねば、とありがたく覚える。
 プライベート・ゾーンについては、入浴時の洗い方や下着についた汚れの洗濯まで説明がある。あいつ(W)は、わが家の一番風呂に入り、ゆうゆうとして帰っていったこともあったが、浴槽に飛び込む前にお尻を洗おうとしなかったので、私はキーキー注意したものだ。
 さらに、性的いたずらへの警告、生殖機能についても詳しい解説がある。この生殖機能の記述のあとに、出産と誕生について優しいタッチで命の問題も扱われている。
「これからも、たくさんたべて、たくさんうごきまわって、ともだちとなかよくあそんで、まいにちをげんきにすごそうね」という終りの場面がとてもいい。「たのんだよ」という結びの言葉に深い共感。便利で得難い1冊なのだ。

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紙の本きんぎょの夢

2001/08/14 17:16

「家族」と「結婚」を素材にした3本のドラマ台本のノベライズで、文庫オリジナル。男女の関係や夫婦の関係に先立つ家族の関係を軽んじてはいないだろうか、私たちは…。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「愛読を越して憧憬や尊敬の対象としてある向田邦子さんの作品に対して、★3つとはしみったれている」と我ながら思うのだが、ドラマ台本の原作を、他の人が小説化したものが本書。
 表紙の美しいハスの花が、お気に入りのイラストレーター深津真也さんの手になるものだというポイントを加算するにしても、「向田さんが小説の書き出しをこのようにしたかどうか」などと疑り深く考えてみることは避けられない。

 放送時間1時間のドラマで、400字詰め原稿用紙70〜75枚程度らしい。
 1時間程度のドラマ台本3本のト書きなどを地の文にして開いて、セリフを検討して書き起こす小説化において、向田さんがどんなことに気を配ったか、どんなルールを設けて自分に課していたか、どんな癖があったかを知る由もないが、独自の感性を頼りに高い美意識を貫いて創作に取り組んでいた彼の人ならば…と、思い込んでしまうのはファンのエゴというものだ。

 表題作「きんぎょの夢」は、読み終わってタイトルのもってき方の巧さに「心憎い」と感心してしまう短篇だ。それは読んでのお楽しみ。
 両親の死後、ふたりの妹と残された長女が主人公。彼女はOLを辞め、父の勤めていた新聞社の近所でおでん屋を開き、家計を背負った。婚期をのがしてしまったものの、店の常連客のひとりといい仲である。新聞社の週刊誌編集部に勤める男に、特別に夜食の出前をしている。
 ふたりの仲はうわさになっているほどだが、男には悪妻と評判の妻がおり、彼女がある日、店を訪ねてくる。妻の子どもっぽい振る舞いに巻き込まれるのだが、そのうちに夫婦の絆が何たるかが分かってくる。

 2篇めの「母の贈物」は、母ひとり娘ひとりで暮らしていたのに、不倫の恋に溺れて男のもとへ走った母親に愛想をつかし、毅然としてひとり暮らしてきた女性の結婚直前の話。
 さばさばしたお姑さんとの同居を楽しみにして結婚準備を進める彼女のもとに、結婚について連絡もしていない母親が現われて婚礼家具が運び込まれる…。

 最後は子どものいない夫婦の夫の思いが描かれた秀作。ふとしたきっかけで、若い女性と恋人の喧嘩に出くわした男は、父親の気分で彼女の人生相談に乗るようになる。
 だが、男は若い世代が多い職場で煙たがられる存在。リストラまがいの憂き目に遭っていて、実は人の相談どころではないという設定である。

 次々にタブーを破る刺激の強いテーマのドラマで視聴率を稼ごうかという今のTV界の様子を考えれば、向田邦子の描く世界はもはやセピアがかった色合いに感じられる。
 両親はどのような夫婦なのか、どのような家庭に育ってきたのか。主人公の育ちが、男女間の恋愛に大きな影響を及ぼす。向田邦子のドラマのそんなリアリティが、私には信頼できるけれど。
 人は、愛されたように愛していくのではないか。愛された経歴を軽く描いて、エキセントリックな男女の関係を強烈に打ち出そうとするドラマには、いまひとつ魅力が感じられないのだが、どんなものだろうか。 
 

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言葉による「存在の否定」という児童虐待で、失語症となり自分の首をしめつづけた少女。カウンセラーが書いた実話に基づく本書は、児童書として異例のロングセラー。第44回課題図書。

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 何年か前、この本の広報を担当している方に会ってお話を伺ったことがある。ふつう読書感想文コンクールの課題図書に選ばれれば、かなりのセールスは見込めるが、この本の場合、当初からそれを上回る動きを示していたという。
 書店で買っていく人は、子どもというよりも(そりゃそうだ。子どもなら感想文を書くという目的以外、わざわざこの種の暗い内容のものを買っていくとは思えない)子育て中の親や教育関係者ばかり。そういった人たちの間で口コミによる大きな広がりを見せ、意外なベストセラーになったというのである。課題図書のシーズンが終り年が変わっても売れつづけ、あちこちの媒体でも話題となり、アニメ映画にもなった。
 児童書マーケットというのはロングセラーに支えられているものだが、地味なこの本も、息の長い1冊として読み継がれている。

 作者の青木和雄氏は、横浜市教育委員会でいじめに関する教師や親子のカウンセリングに当たっている方だが、本書につづき何冊か著作が刊行された。児童文学者が取材の上で憶測も交えて作る話とちがって、カウンセリングの現場で相談や指導に当たっている人が書いた話だという点が、多くの読者をつかんだ大きな要因であろう。
 実際ここに書かれたエピソードには胸を突かれる思いがする。

「おまえ、生まれてこなきゃよかったよな」というショッキングなセリフで物語は始まる。誕生日を迎え11歳になったばかりのあすかに、兄が投げかけたナイフのような言葉だ。兄妹は母親の遅い帰宅を待っていた。父親は単身赴任中である。
「ママはさ、おまえの誕生日のことなんか、すっかり忘れてるよ」と兄の攻撃はつづく。確かに母親はあすかの存在を忘れているようなときがある。兄が言うには、成績の悪いあすかのことを「生まなきゃよかった」と言っていたそうだ。
 泣きながら寝入ったあすかが夜中に目を覚ますと、母と兄の話し声が聞こえ、やはり誕生日を忘れられていたことが分かる。さらに「生まなきゃよかったなあ」という母親の生の言葉が飛び込んでくる。
 翌日、国語の時間にあすかは自分の声が出なくなったことを知る。心を切りつけられたあすかは母の実家に預けられ、祖父母の豊かな愛情に包まれて徐々に自分を取り戻し始める。何とか家に戻れるまでに回復するが、問題はあすか本人だけではなく、彼女を心から愛せない母親にあった。さらに、いじめにあっているクラスメートのことも気がかりの種であった。

 作者あとがきには、教育相談に当たった言葉をなくした少女ののどの紫色の固いしこりのことが書かれている。母親が少女を否定する言葉を口にするたび、少女は自分ののどをつまんでいたという。「存在の否定」という精神的虐待だ。
 カウンセリングの過程で、その母親には、何事にもひいでた姉と比較されて育ったという成育歴があることがわかったそうである。児童虐待のトラウマを描いた小説としては、天童荒太『永遠の仔』が記憶に新しい。この小学上級〜中学生向けの本は、それに先立って出版された。
 私もときどき子どもに「きつすぎたな」と反省するような言葉を投げてしまうことがある。しゃくり上げて泣く姿がかわいいから、「少し泣かせてやれ」という気持ちのときもある。虐待という悪魔は、どの人間のこころにも大なり小なり巣食っているのだ。

 

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50代に突入したチャボのインタビュー&エッセイ。♪Ooh〜!授業をさぼらず〜、休み時間にトランジスタラジオを聴いていたらしい。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新書版であるし、『ロックの感受性』ときたものだから、チャボの「ロック論」のようなものをちらと期待して読み始めたのだが、違った。確かに、理論派のロックギタリストなんて、善良な政治家と同じぐらい信用できない。
「仲井戸麗市」の名は、若い世代には馴染みがないだろうか。忌野清志郎は知っている? 知らなかったら、TSUTAYAにでも行ってRCサクセションのCDを借りて聴いてみなさい。かっこいいから…。個人的には、初期の方がいいと思う。
 しかし、かくゆう私も、チャボの芸名の由来はこの本で初めて知った。RCの前に組んでいたバンド「古井戸」でプロ・デビューするとき、背の高い順に大井戸、中井戸、小井戸と名乗ることにして、中井戸に「にんべん」をつけたそうだ。麗市の方の由来は、本文12ページを参照にされたし。

 全部で4章から成っている。
 そもそも本を出すきっかけは、チャボが生まれ育ち遊びまくった新宿について語ってみてはどうかという誘いだったということだ。しかし、新宿に限定すると収まりきらないということで、第1章「ビートルズから始まった」に新宿の60年代がまとめられている。これはインタビューを元にして書き起こされたものらしい。
 ここには、歌によく歌われていたチャボの小中学校時代のことや、バンド小僧のでき方などが生っぽく書かれていて面白い。「ビートルズの登場で日本中がひっくり返った」「ビートルズ世代の誕生」などという言い方は納得できない、ビートルズの話ができるやつはクラスの中にせいぜい3、4人しかいなかった、ストーンズやキンクスのファンなんて、学年中探し回っても皆無に近かった——という指摘が、熱くてぐっとくる。
「1966年の武道館に集まった1万人は、たぶん全国各地の学校の<落ちこぼれ>たちが10人ぐらいずつ集まっただけなのだ(31ページ)」にププと笑える。

 第2章「ロックの感受性」は、雑誌に連載されていたエッセイからのセレクト。身辺雑記の形をとっていて、「恋する夏へひとっとび」「よしみ先生のセーター」「旅の途中」「いやだ」などとつけられた見出しが、いかにもチャボ君らしい。
 第3章「ブルースを探して」はファンクラブ会報に発表された1993年のアメリカ南部の旅日記。レコード店や楽器店、ライブハウス巡りなどの様子がウキウキ書かれている。ブルースの大御所たちの名前が出てくるが、昔、年配の知人にもらったテープでマディ・ウォーターズは知っていたけれど、あとは知らない人ばかり。チャボとの世代の隔絶を感じてしまった。
 第4章「そして旅はつづく」は、50代に入ったチャボが自分の立ち位置を確認しながら書き下ろしたというエッセイ。音楽が何の役にも立たなかったという数年前の人生の1日について触れながら、それでもギターを弾き、歌を作り続けている「今」を真摯に語っている。

 先日、世界堂に用事があって新宿に出かけた折、コタニが店じまいしたことを私は知った。チャボはこの店で、モダン趣味のお父さんからザ・ピーナッツが歌う「聖しこの夜」のシングル盤を買ってもらったそうだ。
 チャボはロックンローラーだから、過ぎ去ったことをウェットにごちょごちょ言わず、前へ前へ石のように転がっていく。けど、この本に随所に顔を出す、古い新宿へのオマージュには何とも言えない哀感が漂っていて、いい。

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紙の本スローなブギにしてくれ

2002/01/31 20:01

20余年前に気恥ずかしくて買えなかった本。喫茶店で読んでたらT・レックスが流れてきて、コンビニもワープロもビデオ・レンタルも成田空港もなかった昔に逆戻り。でも、やはり照れくさい小説だった。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 単行本と文庫本発売当時、同じ6篇の短編で構成されていたものが、この再編集では、はじめの3本をすえおき、あとの2本を差し替えたということである。表紙の写真は作者の片岡さん自身の撮影。片岡さんは『東京を記憶する』というエッセイを添えた写真集も発表しているのだ。

 何はともあれ、このタイトルのカッコよさったらない。カッコいい題の本10傑を挙げるという企画があったとしたら、多数から支持されそうな気がする。表題作に加えて「ハートブレイクなんて、へっちゃら」に「マーマレードの朝」だもんなあ…参るぜ。
 沢山の若者を熱狂させた「スローなブギ〜」の大成功に至る前、片岡さんは、核となる英語の言葉がいくつかあり、それを中心にストーリーを発想したり、ディテールを組み立てたりしていたということだ。モチーフや小道具といった断片にこだわる技法は、小説の王道だと思う。それに加えてこの文体。「文学」と呼ぶと片岡作品を捉えていないような響きがあったと思うけれど、これはやはり「片岡文学」というブランドだろう。

 「この人の名前は聞いたことない」という若い読者のために、少しあらすじを…。
 「スローなブギ〜」は夏の第三京浜に始まる。18歳の少年が電話を終えて(公衆電話さ。当時携帯はなかったのだ)、避難エリアに停めておいたホンダCB500のところに戻ると、白いムスタングが傍らをすれすれに通過していく。運転席から少年に何かが放りだされる。車を怒鳴りつけてから確認すると、それは小さな猫であった。サイドスタンドを蹴りとばした少年は、ムスタングを追跡し始める。
 のっけから、ドライブ感がすごい。ちなみに、この文庫本300ページ近くあるわけだが、さして本を読むのが速くない私でも1時間強で読み終えた。「走る」文体なのである。社会が成熟に向かっていた70年代、80年代が背景として見えてくる。
 私は、米国の田舎町で行われるかつての暴走族のリーダーの葬式に参列するため、モーターサイクルが多数集まってくる「モンスター・ライド」が爽やかで気に入った。

 学校や一般的な倫理からドロップアウトした少年や少女、20代の男女らのきらめく瞬間が切れ取られている。文庫本につきものの解説ではなくて、作者あとがきが巻末にあるのも片岡スタイルだと思うが、そこにも、ふたりの世界を描くことにこだわったと思いが明らかにされている。
 夫婦として連れ添って30年というような夫婦物語を、暗黙の了解のように前提にしてしまう——その前提を部分的に回避したというのだ。すなわち、たちまちにして砕け散り、二度ともとには戻らないものである、そのようなふたりの世界をいっときの主従関係に閉じたということである。

 私にとって片岡作品の味わいは、終わりの数行に現れる決めの言葉のこっぱずかしさである。ようもここまでと感心させられるカッコつけたような若者たちのセリフ。ジェットコースターがてっぺんから落ちるときの、お腹のあたりが頼りない感じが襲ってくる。これほど読む者を照れくさくさせる小説って、ちょっと他に浮かばない。それでいながら、また少し経ったら、この人の若い小説を読んじゃおうかなと思わせるのである。  

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紙の本充たされざる者 上

2001/05/03 17:48

「簡素でありながら上品で繊細な文体」「切なくも胸に抱えこまれたノスタルジア」−−と読者がカズオ・イシグロに期待するイメージを打ち破ったカフカ的迷宮小説の試み。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『女たちの遠い夏』『浮世の画家』『日の名残り』の3作の成功で現代英国文学の旗手にのぼり詰めたカズオ・イシグロが、日本でその名を知られるようになったのは『日の名残り』のブッカー賞受賞という快挙によってであった。
 受賞を機に、ようやく自分が真に書きたいものが書けると言って発表されたのが、この『充たされざる者』と、それから5年ぶりの近作『わたしたちが孤児だったころ』である。

 映画化もされた『日の名残り』に象徴されるように、彼の小説に多くの読者が期待するのは、古き良き時代へのノスタルジアを胸に抱えた登場人物たちが、人生のままならなさを感じながら生きていく哀感ただよう雰囲気。そして、翻訳することによって混乱することのない簡素な文体、且つ、時にはストイックとも言える品の良い繊細な文体だと思う。
 そこには、上質な小説に触れる幸福というものがあって、読者であることの悦びを感じる。私もそんなファンのひとりである。

 『わたしたちが孤児だったころ』の前半には、そのイシグロらしさへの期待に沿うものが戻ってきたが、本書『充たされざる者』はノーマルな読者の期待が見事に裏切られるような作品だった。
 裏を返せば、この人は様々なポテンシャルを持つ作家なのだなという驚きがあったということになる。

 登場人物たちのセリフは冗長と言いたくなるほど、どうでもいいことまでべらべら続く。イシグロの好きなドストエフスキーの「大審問官」とは違う種類の、緊張感が伴わない長丁場に思える。第一その人物たちがプロットにいかほどの関わりがあるのかと疑問すら湧き、先行きが見えない物語の展開に不安になる。
 『城』や『審判』といったカフカの長編小説のような真昼の悪夢的な迷宮世界に投げ込まれた…という印象のまま終わるのが、この上巻である。

 世界的に成功したピアニストのライダーは、演奏旅行の日々を送っているが、講演と演奏のため、とある町に招待される。
 精神を昂揚させる活気を失っている町では、ライダーが出演する予定の<木曜の夕べ>という催しに多大な期待を持っている。 かつては町の誇りであった偉大な指揮者で、現在は女性関係で名誉を失いアル中になったブロツキーに、再びオーケストラのタクトを振らせようという計画が進行している。

 わずか数日の滞在であるが、ライダーの前には様々な人物が現われて、彼に次々と勝手な頼みごとを押しつける。そのなかには彼の妻もいれば友人もいて、あるいは、ライダー自身の分身ともとれる子どもや青年や老人もいて、彼の詰まったスケジュールはスムースにこなされることがなく、予想外の場所や状況にどんどん巻き込まれていく。

 そんなところへ行ってしまっては、とても次に行く予定の場所に戻れない…と、読み手がいらいらしていると、エッシャーの絵のように、その場所がねじれて、行くべき場所につながっていたりする。
 それが、ある時代のある社会を描いたものなのか、人間の内部を象徴したものなのか、たくさんの不思議を残して、読者は下巻に期待を寄せることになる。

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映画の方はDVD化。自分を含め、先進国に暮らす現代人の自我の問題はこのあたりが歩留まりか…と思わせられる霜月の終わり。

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「ちょっと気味が悪い表紙だな」とよく見もしないで遠巻きにしていたのだが、きちんと見てみれば、これは好きな絵のひとつ、ミレイ「オフィーリア」のあの手ではないか。ハムレットに父を殺されて気が触れ、歌いながら川面を漂っていった美女の部分である。ミレイはモデルを浴槽に浮かべてポーズを取らせたらしいが、「花」も浮かべていたのだろう、きっと。
 ロンドン留学中の漱石はテート・ギャラリーでこの絵を観て、それを材料に『草枕』を書いている。古典的な写実主義から脱し、人間の内面に立ち入ることに目を向けたモダニズム文学の日本での嚆矢(こうし)を、丸谷才一氏は漱石であるとしている(『闊歩する漱石』)。漱石の留学期は、英国文学においては古典から近代への移行期に当たる。
 英国モダニズム文学の騎手のひとりが、ヴァージニア・ウルフ。本書が模倣した『ダロウェイ夫人』の作者だが、この代表作が「花」を買いに出かけるシーンから始まるのはよく知られたことだ。『めぐりあう時間たち』のプロローグは、ウルフの有名な自殺場面から始まる。コートのポケットに石を詰めての入水。オフィーリアと同じ精神的なトラブルを彼女も抱えていた。オフィーリアのように、歌は歌っていなかったのだろう。作者カニンガムは、死ぬ間際のウルフの「意識の流れ」を表現してみせている。
 あごがごついラファエル前派の絵にしては、ミレイは繊細な骨格の女性を描いている。19世紀半ばの作品だが、「これを表紙装画にするって何かとてもすごい選眼力だよな」と、遅ればせながら感心した。

 地上に物語の王国を構築していく一方で、電動モグラさながらのシールド工法でもって地中に穴を掘り進めていくような小説が好きなのだと、最近になって気づいた。王国の構築というのは、作者の世界観、そして歴史観の表現である。長丁場で断片をこつこつと積み上げていくものもあれば、魔法の杖のひとふりで一瞬のうちに現出させる人もいる。
 シールド工法の方は、自己の模索を含めた人間存在の根源へ向かおうとする意識とでも言えばいいのだろうか。

『ダロウェイ夫人』を書いた20世紀初頭のロンドン近郊の女性、『ダロウェイ夫人』を愛読した20世紀半ばのロサンジェルスの女性、『ダロウェイ夫人』と通称される20世紀末のニューヨークの女性——花、性の嗜好、パーティ準備、横たわる身体、死の誘惑などという符号を使って、作者は彼女たちの生のわずかな時間を巧妙にからめとっている。繊細に丁寧に構築された物語だとこれまた感心する。
 だがしかし、オフィーリアの狂気ほどに決定的でない現代人のそこはかとなく曖昧な神経症的なもの、漠とした不安というのは何なのだろう。旧い制度や習慣の束縛から徐々に逃れ、手にするものが増えてきたところでつきまとう一種の幸福病のようなもの。
 物語の形をしっかり構築して見せてくれたところで、作者が地中深く掘り下げていくことなく問題の提示で筆を留めてしまうのは、作者の資質ではなく、私たちが依って立つ時代や社会のせいなのだろうか。技法が増え、構築される物語のバリエーションが広がったところで、地下はなぜか浅い部分だけの掘削に留まっている。漱石やウルフの作品と比べても、その先へ行きあぐねているようにも取れる小説の可能性、それを享受する現代人自身の可能性について考えさせられてしまった。

 

 

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紙の本ピエールとクロエ

2003/08/14 23:50

小説は恋愛の学校。「新しいサガンの到来」とフランスで大人気の作家の小説は、恋愛や結婚や出産に向かってこれから船出する女性たちにいいかも。

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「恋愛や結婚や出産に向かってこれから船出する女性たちに」と書いたけれど、この小説の主人公はすでに30歳前後の子持ち主婦だ。夫が自分たちを置き去りにして若い女性と去っていったばかりという辛い状況にある。
 そんな彼女をなぐさめようと、しゅうと、つまり夫の父親が、母とふたりの子を唐突に田舎の家へ誘う。その田舎の家で、義理の父たるピエールと主人公のクロエが交わす会話が本文のほとんどを占める。カギカッコでくくられた言葉のやりとりを追っていくので、とても読みやすい。 
 仕事熱心でコチコチであるがゆえ、家族に対する優しさが足りないという印象の義理の父だが、クロエは以前ちょっとした拍子に「この人とは心が通い合う」という感じを抱いたことがある。そのためか「息子の不祥事を埋め合わせするつもりでこんなところに誘ったのではないか」と正面から申し立てをする。
 絶望的な人生を嘆く嫁の迫力にけおされてか、ピエールは自分が昔、妻以外の女性に恋していた経験を語り始める。他者にひた隠しにしていた情熱のありかを息子の嫁に告白し始めるのだ。

 年が倍も離れた「しゅうと」と「嫁」が男女関係について思うところをとことん話し合う。なかなかユニークな設定である。ピエールとクロエが中心になるわけだが、ピエールの苦い恋愛が明らかにされていくにつれ、相手の若い女性マチルダの生が、もうひとつのドラマとして立ち現われてくることになる。また、石油関係の商社を経営しているピエールの秘書として長年働いていた女性フランソワーズのエピソードもさしはさまれるので、ピエールの妻シュザンヌも合わせると、都合4人の女性の恋愛観や結婚観、男性観を比較していくことができる。
 というか、こうしてまとめながら書いていると、意外に構成が練られた広がりのある小説だったと驚く。薄いので遅読の割にはあっという間に読んでしまったし、最近読んでいる凝った作りの海外文学とは違いシンプルな流れのお話だったというのが読後の印象だった。それがある意味「サガン的」というイメージだったものだから、「これから船出する女性たちに」などと書き出してみたのだけれど…。

 実は、フランソワーズ・サガンは、恋愛や男女のことについて学ばせてもらった作家のひとりである。翻訳小説に限って話をすると、小中学生で『赤毛のアン』シリーズを読み継ぎながら、背伸びして『嵐が丘』や『風と共に去りぬ』などといった映画から入った小説を読んだ。高校時代に熱心に読んでいたのが、サガンとアンドレ・ジッドである。どちらも10冊前後の文庫本で揃えていたが、残念なことに今は読まれない作家になってしまった。
『嵐が丘』も『風と共に去りぬ』もジッドも、時代や宗教といった深いテーマを背景に抱えていた。それに比べると、サガンは現代人のもつアンニュイ(物憂い感じ)を漂わせながら、男女を中心とした人間関係を分かり易く描いていたから、まさに「恋愛の学校」といった風だったのだ。今は岡崎京子版の『うたかたの日々』からボリス・ヴィアンに入っていく人も多いと思うが、私もサガンに入ったきっかけはコミックだったと記憶する。
 小説の楽しみは数を読んでいくといろいろに広がっていくけれど、いつの時代にも同時代を生きる女性の感性に響くものが、生きていく上でのお手本として必要とされる。この作家の作品はおそらく、その需要をすくいとってベストセラーを記録しているのだろう。

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紙の本その腕のなかで

2002/08/26 00:54

フランスのインテリ女性の間には、自分の性愛生活について赤裸々に語らなければいけないような強迫観念でもあるのかなあ。人生で出会った男たちをめぐる断章。

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「ああ、だめだ。こりゃ、いかん」と最近挫折してしまった本に『カトリーヌ・Mの正直な告白』という本がある。このサイトでも取り上げられ、しばらく話題になった。フランスの美術雑誌『アート・プレス』の女性編集長が、40代の自分の性生活を赤裸々に告白した問題作である。来る日も来る日も乱交に身を任せ、おびただしい数の男性を相手に、自分の体の「上」の器官と「下」の器官を酷使し続ける。
 はなから「あれまあ」と圧倒されたが、ページを繰るたびにそれがエスカレートしていく。まったくフランス人と中国人っていうのは、食欲と性欲をどこまでも突き詰めていくんだよなあと再認識させられた。私は根がエッチであるから「エッチな本は嫌いではない」と億面なく書いてしまうが、ひりひりと痛ましすぎるのが快楽とはとても思えなくてうんざりしてしまった。で、読みさしのままである。

『その腕のなかで』は、タイトルのロマンチックさに惹かれた本である。ギィ・アベールという人のシャンソンの歌詞から取られたらしい。こちらは『カトリーヌ・M〜』とは違ってフィクションであるが、主人公の名前が著者と同じカミーユであり、同じ40代の女流作家であることから「自伝的」ということは言えそうだというのである。
 淫らすぎる性交描写はさほどないのだが、「相手に欲望を抱くのが恋」(確かに、それは言えてる。欲望を抱けなくなったら恋は消えていると思う)という文中の記述通り、街で見かけ欲望を抱いた男性に対し、どんどんチャージをかけていくさまがなかなかにエッチである。
 あとを追いかけていった結果、相手が精神分析医だと知るや、患者になりすまして夫婦生活に関するセラピーを受ける。自分の人生に登場したすべての男たちについて語り続けることにより、男たちの愛から自分が期待するものを明らかにし、相手の気を惹くことができるかどうかを試す。その際、少女時代からのあらゆる性体験、性的発想、性的妄想についても触れていく。これもまた「赤裸々に」である。
 古くはラファイエット夫人に始まり、ボーヴォワール女史の例もある。フランスの上流の女性、インテリ女性の間には、この種の告白に対して、一度はしておかなければならないものという強迫観念でもあるのだろうかと問いたくなってしまう。

 それでも、『カトリーヌ・M〜』と違って、読み通すことができたのは形式のユニークさによるところが多い。訳者あとがきに詳しいが、語り手である人物がすべての中心に居座ったまま、虚実をないまぜにして進行していく。これは、オートフィクション(自伝風創作)と呼ばれる文芸の新たなジャンルだそうだ。
 虚実ないまぜというのは、この場合、ストーカーの対象たる精神分析医に語られるモノローグの部分と、三人称による小説部分が交互に現れることである。その切り替えが、ともすると冗漫になりがちな女性の体験談に小気味よいアクセントをつけている。また、107にものぼる断章であるからして、余白の多いページも結構ある。それも明らかに読みやすさの一因であると思う。
 父親、夫、初恋の人、母の愛人、教師など、主人公にとってさまざまな位置を占める男性が描写されていく面白さがある。「男とは何か」について飽くなき考察がされている。実験的としてユニークな小説ではある。
 だが、誰か魅力的な男性を記述しようというスタンスには立っていないので、異性に求めるロマンチックな勘違いという側面がないのが私には少し物足りなかった。

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紙の本ふしぎとうれしい

2002/07/29 19:56

現在の日本女流絵本作家のトップランナーによる大らかでイキのいいエッセイ。新刊『おとうさんがおとうさんになった日』が話題ですね。

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「100冊の本を出版しないと絵本作家として食っていけない」というのは、ある人気絵本シリーズを手がけた童話作家が少し前に漏らした言葉だが、今はどうだろう。子どもの本の作家の年収が150万円を切ったと言われたことがあったが、出版歴はあっても、同人誌しか発表の場がないという作家がほとんどという状況のなかで、食っていけるラインは100冊どころか、もっとシビアなことになっていると推察する。年収は、おそらく学生バイトに同じだろう。<あらしのよるに>シリーズの木村裕一&あべ弘士コンビ、<パムとケロ>シリーズの島田ゆかといった人たちは、砂浜で拾い上げた針のような存在なのだ。

 そういう意味において、この長野ヒデ子さんという作家も砂浜の針のひとつであると言える。現れるとその場がパッと華やぐので、講演や絵本がらみのイベントとなると必ず担ぎ出される。愛らしく弾むような絵柄のままの人となりである。年に何冊もの出版をこなす売れっ子であるが、かといって数で勝負ということでは決してなくて、一定水準に達しない仕事は引き受けない。クオリティにこだわる絵本作家でもある。
「絵本なんて作家の名前を気にかけたことはない」「絵は見たことがあるかもしれない。でも、名前と作品が一致しない」といった人たちのために、作品を挙げておく。
『せとうちたいこさんデパートいきタイ』は日本絵本賞に輝いた代表作。愛媛の今治生れなのでタイのたいこさんというお茶目なキャラクターを作り出し、デパートの売場探検をさせたユニークな1冊だ。この<たいこさん>ものはシリーズで別巻も出ている。
『海をかえして!』は諫早湾の干拓事業に異を唱えた社会的メッセージ性の高い絵本で、別の作家が書いたムツゴロウ他の生き物たちのお話に絵をつけて話題になった。
『おかあさんがおかあさんになった日』は、自身の出産体験を振り返って作った絵本。サンケイ児童出版文化賞を受けているが、姉妹編『おとうさんがおとうさんになった日』が最近出たばかりで話題だ。お父さんたちの読み聞かせにぴったりな絵本。

 このエッセイ集は、愛媛新聞での連載とさまざまな雑誌に発表されてきた文をまとめたもの。手がけた仕事についての報告や身辺雑記に加え、出会った人たちとの交流、子ども時代の追想、旅先での体験などを題材に、短めの文章が詰まっているので読みやすい。
 きょうは肩の力を抜いて、誰か明るく元気な人の書いた文章に入り込んでひとときを過ごしたいというときにふさわしい。私が好きなのは、「トコトコ歩けば…」というエッセイだ。鎌倉の家の建て替えブームにより、素敵な蔵が取り壊されそうになるのを食い止めたいと市の景観課に相談に行くような人だから、フクロウが住む楠がある屋敷にブルドーザーが入っていたのを見つけて、じっとしていられない。またもや景観課に駆け込む。半ばあきれ顔の職員から鳥獣保護課を紹介される…。

 実は私、長野先生の前の鎌倉の家に何回か仕事でお邪魔して、親しく話をさせていただく機会をもったことがある(自慢入る)。リビングのテーブルの上にいくつもしゃれた金魚鉢が置いてあって、そこにオタマジャクシが入っていた。カエルの卵を持っていた子どもたちに出くわし、どうせ育てられないだろうからともらいうけたそうだ。
 オタマジャクシは息子が好きなので、何匹かもらい受けて東京に持ち帰ることにしたのだが、そのときに気づいた。金魚鉢は何とランプシェードだったのだ。見ると、家じゅうの明かりが電球むき出しになっていた。そういう人が書くエッセイだからして…。

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紙の本花腐し

2001/08/06 14:51

看過できないあざとい表現とか、社会や性と死を捉える独自の視点とかがある達者な作品。だけど、文学の玄人向けなのかな?という印象が否めない2000年上半期芥川賞受賞作品。

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 単純に言ってしまうと「純文学」「芥川賞」のイメージにぴたりの短篇2篇なのだ。
 小説が好きだから、わりと広い間口でもって受け容れては読んでいるつもりなのだけれど、こういう作品を前にすると、自分はやっぱり鑑賞力に乏しいのだと思い、一定のものを志向していることがはっきりしてくる。

 圧倒的な物語性とか、その物語のにっちもさっちもいかない設定のキワのところで作者が振り出してくる「殺し文句」のようなもの。それが感動につながっていく。感動−−つまり、心を揺さぶってくれる言葉がもたらしてくれる心地よさ。
 分析してみると、そんなところだろうか。求めるものは、純文学にもエンターティメントにもあると思う。でも、スプラッターホラーやご都合主義のファンタジーなんかには見つけにくい。

 短篇に圧倒的な物語性を求めるのも難しいとは思うのだけれど、ここに収められた小説2篇は、どちらもある都市空間における社会の溶解や人の性と生の溶解の幻視を表現したもの。おそらくは、作者が本当の散歩と思索の散歩の過程で、幻のように、しかしリアルに見たものを言葉に置き換えようと試みたものだ。

 だから、人の心の動き、思索の流れをバーチャルに追いかけていくような感覚があって、その意味においては楽しい。
 私という読者が小説に求めることとはちょっとズレがあり、読者サービスにも欠ける気がしたのだが、同じ人間の頭の中身だから、思索の辿るところに共感を呼ぶ表現はいくつかある。

「ひたひたと」は、昔遊郭があった州崎のあたりをさまよい歩く榎田という男の散歩。
 情婦を部屋に連れ込んだ父親をずるいと思った少年の頃、ナミという顔に傷跡がある女と暮らしていた青年の頃、小さな子どもの手を引いている中年の頃、そして、疲れがたまっている中年一歩手前の今が多重人格者のように交互に浮かんでは消えて混濁する。そのときどきでの決断が正しかったのかと内省を始めた自分が、潮の動きとともに崩れていくという感覚が描かれている。
 書き出しの数行めで、「人を疎んじながら、憎みながら生きるのにはもう疲れた、もういい加減終わりにしてもいい頃合いだろう…」と呟く男の言葉に、いきなりはっとさせられた。

 芥川賞受賞作の「花腐し」は、万葉集にある五月雨の表現からとった言葉。この言葉が意外な人物の口を突いて出る。
 借金を焦げつかせて自己破産目前、デザイン事務所を畳むことにした男が、その借入先の小さな消費者金融会社の社長に頼まれて、取り壊しが決まった古アパートから立ち退かない男のもとを訪れる。「北風と太陽」の童話のようにして、立ち退かない男のマントを脱がせてくれれば負債に色をつけてやろうという話だ。
 が、立ち退かないという男は少し変わっている。コンピュータを部屋に備え、マジックマッシュルーム(バリ島で食べられるとか)を室内で栽培しているのだ。
 幽霊のようにそこで生きたいという男の話(そこに万葉集も登場)に引き摺りこまれていくうち…。

 男の話には、確かに同時代を生きる人の気持ちを向けさせる甘い毒のようなものが横溢している。読んでみる意義はあった。

 


  

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紙の本バカのための読書術

2001/08/01 11:26

タイトルにヤられて手に取った。全部が全部「そうだ、その通り!」じゃないけれど、新聞・雑誌の活用方法、辞典の揃え方、歴史を書く立場など有意な情報が結構あった。個性的な人の手法って楽しいな。

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 家人に教わったのだけれど、以前、飲み歩いていたときによく話の種にしたことがある。
 「人間って、バカ、あほう、きちがい、まぬけのうちどれかだと思わない? 自分はどれだと思う?」と振って、ひとしきり話したあと、有名人とか歴史上の人物をその4種のどれかに当てはめて遊ぶ。
 これは、ある有名な小説家の記述を参考に、家人が練り出したアイデアだ。ちなみに家人は<まぬけ>、私は<きちがい>で、この組み合わせが夫婦として最良なのかはなぞである。

 物を知りたいという好奇心に突き動かされて本を求め読んでいるので、人にバカと言われるのは何かいやだ。でも時折、不愉快なことに、自分のなかの愚かな部分を認識させられる。だから、「バカのための〜」なんてうまいこと言われると、ついふらふら手にしてしまうじゃないか。著者も版元も、あざとすぎるよ。

 著者が指しているバカは、どうやら<非インテリ>ということで、はなから考察の対象に入れられていないバカというのも、その前段階にはあるみたい。学校はとりあえず出たけれど(これも高校といっても一定のイメージがあるような…、結局のところ短大や大学、それにも一定の枠があるみたいなニュアンス)もっと勉強したい人、抽象的な議論が苦手な人が対象だと明記されている。
 バカの話ばかりしていても仕方ない。この辺にしとく。

 確かに著者の想定のなかには自分が入りそうだという気がして読んでいくと、なるほどツボにハマってくることがいくつも出てきた。

 ベストセラー小説を読んでいるだけでは不満だけど難解な哲学書はわからない−−そんな向きには「歴史」がいいと薦めている。才能やひらめきでなく、積み重ねがものをいうから歴史がふさわしいのだ…と。
 著者が言うように、歴史をある程度知れば、偉い学者がでたらめを言っているのを見抜けるというような効用は望むところではない。でも、身の回りの瑣事にげんなりするとき、広い世界観に立てれば救われるということがある。空間の広がりや長いタイムスパンを身のなかに取り入れることは、私の場合とても大切だ。

 そのほか、新聞を一週間寝かせてスクラップすれば、初期報道の曖昧さを避けて鳥瞰的に事件を眺められるとか、死亡記事や各国首脳のプロフィールをとっておけば人名辞典として役立つとか、古い雑誌の論争に当たると事象の流れが理解できることがあるとか、さすがに発想が独特な方の手法は面白いと思った。

 バカ向きでない難解本リスト、歴史入門のためのブックリスト、25歳を目安の分岐点にした性別・世代別の東西小説ガイドなどがついていて、これも大いに役に立つ。
 図書館が本を購入するのではないのだから、個人の読者としては、どこにでも挙げられる「いい本」「面白い本」のガイドを提示してもらってもつまらない。
 むしろ推薦者の偏った部分、とがった部分にひっかかったところで出てくる1冊に期待するのではないか。
 そういう潜在的な欲求に、コミットしている気がした。ちょっとサービスしすぎかな…というところもあったけれど。

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