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arayottoさんのレビュー一覧

投稿者:arayotto

39 件中 1 件~ 15 件を表示

まったくサプライズな本だった

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「おくりびと」の脚本を書き、好きだった「料理の鉄人」「カノッサの屈辱」や「ニューデザインパラダイス」の企画や構成を手がけていた、小山薫堂「人を喜ばせるということ」を読んだ。
気になる人だから期待して読んだ。


内容は、サプライズによって人を喜ばせ、人生を楽しく豊かに生きようというもの。
始めの数10ページは読んでいてとても心地よかった。
小山氏と小山氏を取り巻く人々の楽しい毎日が、うらやましく、ポジティブで笑いや驚きに満ちあふれ、さぞ充実し、仕事にも活かされているんだろうな、という想いだった。
が、
段々と徐々に次第にじわーと、不愉快な想いが沸き上がってきたではないか。
サプライズ?
なんだそれ。
サプライズといえば響きよく、誰もがハッピーに笑ってシャンシャンとなる。
と思っているのは自分(小山氏)だけでは?
サプライズと称しているなかには、ドッキリやウソ、ダマシとしか言いようのないものもあり、あまり微笑ましくないものも。

パワーポイントのできない社員をニセ面接でだましたり、
偽オーディションを大掛かりにしかけてSMAPと共演できるなんてダマシ、しかも彼女の前で「風俗に行った」なんてことを喋らせたり、
社員を振った女性の住所を調べて手紙と絵本を送って復縁させようと呼び出したり(結局復縁ならず)しかもその一連を広告コピーの文面に載せたりと、
悪趣味、陰険、いじめ、私物化としか思えない。

立場の上の人がしかけるドッキリやウソに対して、立場の下の人は抗えない。だから余計にたちが悪い。
しかけられた人たちは、腹の中で、余計なことをしやがって、バカにしやがって、と思っても、上の人に対しては「いやぁ、ビックリしました、ハハハ」と苦笑いしかできない。
なのに、それを喜んでいると思い込み、さらにエスカレートしていく懲りないサプライズと称する不愉快事の数々。


このエピソードに出てきたサプライズされた人たちはみな喜んでいるの?ホントに?

「人を喜ばせるということーだからサプライズがやめられない」というタイトルだが、
本当は
「自分が喜ぶためには、他人を笑い者にしよう」
じゃないだろうか。

ここに書かれたサプライズを楽しめない人は、人生を楽しめないの?
こんな低俗なサプライズで楽しくなる人生なんて、いりません。

なんか壮大な勘違いをしている本を読んでしまった。

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明日は我が身?

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

フリーランスとなっていつのまにか15年が経ちました。
細々と足し算の仕事を積み重ねてきましたが、さすがにここのところ不調です。(不況と書くべきですが、あえて不調とコトバを変えてみました)。

はて、この先、どうしたもんかいな。
子どもも高校に入学したばかりだし、住宅ローンもたんまり残ってるし、明日の生活を想像すると、背筋が寒くなるほどトホホです。
てなことをフリーランス仲間が集まると、∞(無限)プチプチのように際限なくぼやきあっています。


先日も東京のフリーデザイナーと同じことをつぶやき合ってきました。
彼曰く「ま、最悪はコンビニででも働くわ」と。

お互いひきつった笑いを交わして別れましたが、私には到底無理です、コンビニで働くなんて。あんな複雑で難しい仕事、こんなつぶしの効かないオヤジにこなせるわけがありません。つとまりません。
とくに、「高砂コンビニ奮闘記」を読み終えた今となっては、至極痛感です。


作者は、10年近く出版界から干されている(と自ら言及)乱歩賞作家・森雅裕氏。ホームレス同然の生活から抜け出すため50代半ばにしてコンビニ店員へと。その体験記です。

いつかは我が身、との思いがそうさせたのか、なにげなく手にとった一冊でしたが、さすが小説家!だけあって、その文章力、表現力の巧さに一気読みです。



それにしても不覚でした。
コンビニといえば、夕方や日曜には、高校生がレジ打ってるし、
平日の昼間はおばちゃんが「らっしゃい!」と元気いいし、
最近では胸の名札に、「り」とか「ちょう」とか「そ」とか「かん」などという名前の人が多いから誰でも(ゴメン)できるお手軽なバイトのイメージを持っていました。お詫び申し上げます。まったくの誤解でした。反省しています。


商品のレジ操作の合間に、消費期限チェック、品出し、雑誌の返本、ファーストフードの調理、厨房機器の掃除殺菌、公共料金などの収納にレジ点検と、やるべき仕事は盛りだくさん。

厄介でわがままでやんちゃな客やクレーマーの波状攻撃にも平身低頭専守防衛で臨まくてはならない辛さ。

本部から見下され、客からも見下され、一個の人間としての尊厳やプライドを、尖ったスパイク付きの土足で踏みにじられる複雑な人間関係など、肉体的にも精神的にも休まることのない過酷な労働環境がこの本にはたっぷりと描かれています。

おもしろいところは、ただ単なる暴露的なコンビニ裏話に終わっていないところ。


10年ぶりの出版といえども、さすがに乱歩賞作家。その手にかかると、コンビニという舞台がいきいきと輝いてきます。

アルバイト、客、本部やオーナーなどの多彩な登場人物が織りなす悲喜こもごものドラマはまったく飽きさせません。

24時間365日絶えることなく煌々と輝く蛍光灯の灯りのなかにうごめく、不条理、格差、孤独、異常、非情、攻防、裏切り…コンビニ、そこはまさに「現代の縮図」そのもの。



本書のラストにこんな箇所がありました。

【最近までここにあったはずのMニップ西×岩店も閉店していた。コンビニに勝者なし、の感がある。この西×岩店は自家製惣菜なども工夫しており、特に経営不振ともみえなかったが、高砂、小岩と近隣のMニップが立て続けにつぶれるというのはどういうことなのか。そんな中で新店舗を出すというのはどういうことなのか。
繰り返す。私たちは何のために歴史を学ぶのか。教科書に載っていることだけが歴史ではない。】



私たちも町を歩いていて気づきます。

「あれ、ここって前コンビニあったのになくなっちゃったんだ」と。

そんなとき、ほんの一瞬、こんな思いが頭をよぎります。

脱サラして人生やり直すぞ、と夢見るオーナーがそこにいた。
しかし思ったように売上は伸びない。
本部からはつつかれ、バイトから冷たい目で見られ、集まる客はわがままで乱暴で、それでもお客さまだから我慢我慢を強いられ、やがてそれらがストレスとない、肉体と精神をむしばみ、疲れ果て、店舗を立て直す気力も体力も失い、夢の結晶は風化し、取り壊され、残るはオーナーの借金だけ、というはかなさ。

本部は、夢見るどこかのオーナーの失敗なんて気にもしない。また再び新たなオーナーを見つけ出し、新たな店舗を堂々とオープンすればいいだけの話なのだ。反省しているヒマがあれば、次なる出店だぁ、か。



世の中には2種類の人がいるといいます。お金を奪う人と奪われる人。

大きなお金を奪うことができず、もがき続けている人が、数百円せいぜい数千円というお金を払うことで、「おれは客だぞ」と唯一優位に立てる場所、それがコンビニ。

直接対するのは一アルバイトに過ぎなくても、その背後にある大手コンビニの名前に、数百円で大きな顔ができる優越感があるんだろうな。でもね、ほんの数百円数千円でいばっても誰も尊敬なんかしてくれないよ。虚しいだけ。



コンビニで働いている人、働こうかなと思っている人は、もちろん必読であり、
コンビニを頻繁に利用している人も、自分自身のサービス業に対する態度を振り返るために必読かも。

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紙の本竹取物語

2007/10/19 16:31

竹取物語とラブアタック

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

意味?そんなの関係ない!
恥ずかしい?そんなの関係ない!

目的?そんなのひとつしかない!あの娘をゲットするだけさ!


40代から50代の方々よ、関西ローカルで始まり、のちにネット放送となった「ラブアタック」という番組を覚えているだろうか。
毎回かぐや姫と呼ばれる女性(多分女子大生)が登場し、そのかぐや姫への愛の告白権利を得るために、数名の男子学生がいくつもの過酷でアホらしいゲームを勝ち抜いていくという視聴者参加番組だ。
液晶でもなくプラズマでもないブラウン管の中では、意味も羞恥もものともしない若者たちが一心不乱に、時おりカメラを意識しながら走り回っていた。


可愛く魅力的な女子学生がかぐや姫の回では、男子学生らは生物的本能をむき出しに、文字通り「雄」となり、かぐや姫に突進していた。

キャンパス内で振り向きもされないレベルの女子学生がかぐや姫の回もあった。そんな時でも出場者らは、運が悪かった、なんて顏を見せることなく、かぐや姫の自尊心を傷つけないよう、サービス精神旺盛にゲームに取り組んでいた。
ああ、なんて心優しき昭和の男子学生よ。


当時10代後半から20代前半だった私は、こうしたかぐや姫を巡る争奪戦、という図式になんら疑問も関心も抱かず、ただのエンタテインメントとして楽しんでいた。

で、時は流れ、30年。
最近ふとしたことで「竹取物語」の現代語訳を読んでみた。
なるほど!
「ラブアタック」におけるかぐや姫という名称が、あらためて腑に落ちた。
「竹取物語」は「ラブアタック」だったのだ。


「竹取物語」といえば、竹から生まれたかぐや姫がロマンチックに恋をして、生まれ故郷の月へと変える悲恋物語だと思い込んでいた。
大筋は間違いではない。が、ディテールが少々異なっていること気づいた。

かぐや姫ははじめ恋に恋する女性ではなかった。
むしろ逆に言い寄る男たちに「わたしを落としたかったら、***を手に入れておいで」と、超難問課題を言い渡すお高い女だったのだ。

そんな無理を言う女だからこそ、なんとか手に入れたいと願う5人の挑戦者は、ことごとく失敗し、滅んでいく。

さて、最後にかぐや姫に求愛できるのは誰か?
かぐや姫は最後まで恋する心を知らずに月に帰っていくのか。
そもそもなぜかぐや姫は、月の国から人間界に下りたったのか。


私を含めた多くの世間が思い込んでいるほど、「竹取物語」はロマンチックでもなんでもない。
女を手に入れるためならと、あらゆる手段で愚かな行動を続ける男たちの挑戦紀、という側面もあったのだ。
そう、繰り返すが、「竹取物語」は、平安版「ラブアタック」なのだ。



「竹取物語」をはじめとする昔物語は、子どもたちにも読み聞かせができるようにと、都合よくアレンジされて世に伝わっているものが多い。あらすじだけを聞くと、ファンタジーで微笑ましくても、全文に触れてみると、おや?と思う内容が込められていることに気づく。

「桃太郎」が退治した鬼ってホントに悪物だったのか?
こぶとりじいさんの「こぶ」ってなんの象徴なの?


40歳をすぎるといまさら昔物語なんて、となる。
「竹取物語」と聞くと、ああ、竹から生まれたかぐや姫の話ねと、ただそれだけで納得完結して、先へと進む努力をしなくなる。



今テレビでは、日本史やら漢字やらのクイズ番組が花盛りだ。これらを見ていると、いかに自分の知識が中途半端であるかにがく然とすることがある。
ああ、知ってる、聞いたことある、でもなんだっけ。

語れないのだ。説明できないのだ。
回答が出て、子供にこれってどういうこと?と問われても詳しく説明できないのだ。口ごもってしまう。

知識という名のほんの薄い水面を泳いでいるだけで人生を全うしていく、水たまりのミズスマシと同じである。

広く浅く万遍なくのジェネラリストから、深く確実な知識を持つスペシャリストへと、そろそろ意向していく必要性を感じてしまう今日この頃である。

しかし、「竹取物語」の詳細な内容を知った上で、かぐや姫というネーミングをつけたとしたなら、「ラブアタック」企画者はなかなかの文学愛好者と見た。
侮れないぞ、バラエティ。

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【ピン】ときた気持ちを大切に

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アイデアや流行、行動が一気に広がる劇的瞬間「ティッピング・ポイント」について著したマルコム・グラッドウェルの新作が出ました。
「最初の2秒のなんとなくが正しい 第1感 blink」です。
タイトル通り、最初になんとなくピンと来た第一印象が案外正しいものだ、ということが書かれてあります。
そのなかにこんな話が紹介されていました。
ある美術館に持ち込まれた、完璧な保存状態のギリシャ彫像。
14ヶ月の綿密な調査によって、紀元前6世紀の本物だと確信した美術館は購入を決めます。
しかし、それを見た美術史家らは、ピンと来ました。
どこかおかしい。理由は分からないが、本物ではないという直感的な反発がありました。
再調査の結果、贋物であることが判明しました。
14ヶ月に渡る綿密な調査よりも、最初の2秒の第1感の方が正しいことが証明されたのです。
作者、マルコム・グラッドウェルは、こう述べています。
「人は無意識のうちに素晴らしい判断を下す能力を持っている。しかし無意識の判断のすべてが正しいという保証はない。時として、直感的なひらめき「第1感」を曇らせる何かが存在する」と。
この【ピン】と来る直感的なひらめきを、「適応性無意識」と呼ぶそうです。強力なコンピュータのようなもので、人が生きていくうえで必要な大量のデータを瞬時に処理してくれる力です。
さて、
この直感的なひらめきを曇らせる何か‥‥この美術館の場合、それはなんだったのでしょう。
最大の理由をこう分析しています。
この美術館は、まだ歴史が浅く、目玉になる作品が欲しかった。
そこへ舞い込んできた彫像。真贋を疑う以前に、本物であって欲しいという願望がまず先走り、直感を鈍らせてしまった、と。
ここまで読んできて、皆さんピンと来ましたか。
同じような出来事が日本の政界でもありましたね。
美術館を民主党(永田議員)に、彫像をメール文書に、さあ、置き換えてみましょう。
仲介者から届けられたメールを見た瞬間、彼はピンときたのでしょう。
これはイケル!と。
しかしこの直感を曇らせる邪魔者が存在していました。
我が民主党は昨年の選挙で敗北を喫し、立場が非常に弱くなってきている。
なにか自民党に一泡吹かせるネタはないものか。
目玉になる追究の隠し球はないものか。
そこへ舞い込んできた一枚のメール文書。信頼していた仲介者からの情報だ。
しかも情報提供者は内部の人間とのこと。これだ!こういう情報が欲しかったんだ。これをもとに追究だ!これがあれば形勢逆転できる!これで俺は歴史に名を残すことが出来る!
「無意識」というからには「無」でなければいけません。なんらかの意識がそこにあると、直感が狂ってしまいます。
メールのプリントアウトを手にした瞬間、彼の脳裏には、手柄・スクープ・追究・形勢逆転・不正・正義などの「意識」がむくむくと沸き上がってきてしまったのでしょう。
真偽を確かめるよりも、早く公にしなければ、という使命感が先走り始めます。
まずすべきはその直感の正体を探ることです。
【ピン】はあくまでもきっかけ。大切なのは、そのあとに来る検証です。
こうだったらいいなとか、こうありたいとか、こうであるはずだ、という願望や思い込みがあると、直感は曇ります。鈍ります。
脳は願望や思い込みを正当化させる方向へと物事を運ぼうとしてしまいます。
だからこそ「無意識」という「意識」が必要なんでしょうね。
冷静に考えれば、このメールは怪しいぞ、と分かるはず。
慎重に検証すれば、情報として正確なものかどうかが分かるはず。
なんとか一矢報いたい、という日頃の「意識」が第1感を狂わせてしまった、ということですね。
今私たちが学ぶべきは、「第1感」との正しいつき合い方、なのです。

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紙の本贖罪

2009/06/19 22:02

運命のでどころ

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

二字熟語のタイトルが続く、なんだか初期の真保祐一のような、湊かなえ。
デビュー作の「告白」が抜群に面白かったため、「少女」「贖罪」と一応目を通している。

「少女」は、最後まで読み通すのがちょっとつらかった。いまではもうすっかり内容さえ忘れている。


で、三作目「贖罪」。

一気読みの面白さはあったが、なんか釈然としないのだ。

手記や手紙文という「告白」パターンにどうも馴染めないし、4人ともうひとり(被害者の母)の誰の感情に歩み寄ればいいのか分からなかった。

被害者の母の、4人に対する思いは、強引で身勝手だろう、と思えるし、
4人のその後の原因・要因を「あのひと言」に委ねるには、これまた無理あるし、
ラスト近くの章で語られる被害者の母の過去は、あまりにも鈍感すぎて同情さえできない。



そして、最後の最後には驚いた。

これって……ぇ

すべては「あのとき」ないがしろにされたエミリ…ちゃんが……引き…起こし…た……うゎゎゎゎ、こわっ。
さあ、最近行ってない人は、**へ参ろう。

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紙の本死神の精度

2011/07/05 17:49

やさしい死神

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

死を前にした人物に接触して、その人物が死を実行するに相応しいかどうかを調査する死神を主人公とした連作短編集「死神の精度」

1週間後に死を控えた人物として、
電機メーカーの苦情処理係の女性、ヤクザ、殺人犯、床屋の女主人などが登場しますが、なかでもラストの2編、
殺人犯と旅をする「旅路を死神」と、
床屋の女主人と1週間を過ごす「死神対老女」がお気に入りです。


「旅路を死神」は、
東京から青森まで殺人犯と車で移動するロード・ノベル。
その旅路で出会う人々との、ささやかなやりとりのひとつひとつが、けっこう心に染み入ってきます。
そのひとつ、仙台で出会った青年がこんな風なことを語っています。

「人間独自のつらいことのひとつに、裏切りや幻滅がある。でも奥入瀬渓流(旅路の目的地)は幻滅させない、安心させてくれる」と。

この幻滅、というキーワードが全編を貫いています。
期待していた、頼りにしていた人が、実際はそうでもなかったら幻滅してしまう。でも幻滅させないために装うこともある。その装いに気づかないために敵意を抱いてしまうこともある。
だったらどうすれば?
死神がそんな無駄多き人間の行為に対して、答えらしきものを放り投げています。
「そういう下らないすれ違いは、人間の得意とするところじゃないか」

まさにそのくり返しが、人生(川の流れ)なのかもしれません。


「死神対老女」もまた、じんわりと心を、眩しく照らしてくれる作品でした。
老女が1人でまかなっている海の見える散髪屋があります。それほど繁盛はしていません。
ある日、老女は死神に頼みます。
「明後日、10代後半の若者男女を4人くらい客として呼んできて」と。
その理由が、
泣けます。

死神などというキワモノが主人公なので、伊坂幸太郎ファン以外は食指が伸びないかもしれませんが、じっくりと、何度も嚼むように味わいたい短編集です。

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遺品はモノだけではなくなる。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

孤独死、自殺、他殺など、一人で生命を絶っていく現場に残された品々を整理し、引き取り処分などをしていく、遺品整理業という仕事があります。
死後間もなく発見された場合はいいですが、数日経ってからの発見は、悲惨です。
腐敗し、ウジ虫が湧き、死臭が漂う部屋や現場に足を踏み入れ、遺品を整理すると同時に、臭いともども「死」の痕跡を消し去っていきます。
この遺品整理業を営む作者自身の体験が綴られたエピソード集です。
最初は、「遺品整理業」という職業への単なる興味から読み始めたのですが、中味は非常に、「痛い」。
残されたモノや痕跡から浮かぶ上がる、そこで生きていた人の証しは、とても「痛い」
例えば、
・同じ公団の上下階に住んでいたのに、親の死に気づかなかった子供
・遠く離れて住んでいるため、遺品整理の立会いや引き取りをビジネスライクに業者に一任する親族の多いこと
・膨大なアダルトビデオと壁一面に自分のイチモツの写真が飾られている部屋での遺品整理に立ちあう、奥さんと娘。
・自分の遺品整理を生前に予約する老女
・実の母親を「あの人」と呼び、遺品整理の立会いや引き取りを拒否する子供
などなど、おさめられている50近いエピソードは、どれも現実世界の、知りたくない断面ばかりで、とても「痛い」
主のいなくなったモノは、
なにも語らないけれど、
実はとても雄弁。
そんな印象を受けました。
この夲に描かれている遺品は、家電製品や家具などですが、最近では「遺品」のカテゴリーがぐんと広がっているのでは、と思ってしまいます。
例えば、ブログやホームページなど。
みなさん、どうですか。
自分がブログをやっていること、ホームページを持っていること、家族にどこまでオープンにしていますか。
不意に死を迎えたとき、これらネット上の表現物ってどうなってしまうのでしょう。
プロバイダーやポータルサイトと契約が続いている限り、作者が存在しなくなっても、しばらくはウエブ上には存在しつづけるでしょう。
でも作者からの働きかけがなければ、更新もされないし、コメントを送っても返事は返ってきません。
まさに生きている「遺品」状態です。
年金や保険などの社会的情報は、遺族によって処理することができます。
でも、IDやパスワードが必要なウエブ上の「情報」は、どうやって遺品処理されていくのでしょう。
契約切れなど、自然消滅を待つだけなのでしょうか。
もしかすると今も作者不在のサイトがネット上をさまよっているのかも?

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紙の本脳ブームの迷信

2010/04/07 18:59

一番効果のある脳トレはこれだ!

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

100ページにも満たない本ですが、中身はその何倍も、濃く、考えさせられました。

「脳が活性化される」「ストレスに強くなる」「脳に効く」とかの、ゲームソフトや食品、サプリメント周辺に漂う脳ブームにうっかりと乗せられてしまっていた自分自身の愚かさに愕然です。


著者の藤田一郎氏は、認知脳科学者。
それをすれば、それを摂取すれば「脳に良い」「脳に効く」かのように、メディアがうたいあげている脳トレゲームやギャバ、DHAなどの脳ブームに、ちょっと待て!、と警鐘を鳴らしています。

例えば、
・脳トレの効果を証明するための対照実験の不適切さ
・計算問題を解くことで増える血流量と、脳の機能向上との因果関係
・脳機能研究分野で語られる「活性化」の意味と、日常で我々が使う「活性化」の意味の違いをたくみに利用した宣伝文句
・「脳の10%は使用されていない」という迷信
・ギャバやグルタミン酸などの抑制性伝達物質、興奮性伝達物質を、食品やサプリメントにして口から摂取しても…?

などを具体的な商品名や監修者名をあげ、検証、解説をしています。


直接的な因果関係によって得られた効果でなくとも、たくみなコトバ使いとレトリックによって、直接効果があると、一般消費者は思い込んでします。
まして、権威(専門家)や知名度の高い企業がメディアを通じて、いかにもな専門用語を語呂よくアレンジして発信していれば、なおさらです。私たち一般人は、盲目的に従ってしまいます。


その結果、生じるであろう問題を藤田氏は危惧しています。
脳に効くと信じて、闇雲にトレーニングをさせられている高齢者や認知症患者がいるのではないだろうか。
(メディアでよく見かけるという理由で著名な)脳科学を正しく理解しているとは思えない人の講演を聴いた教育関係者や保護者、医療施設関係者が、その話に基づいた教育や育児、医療を実践してしまうのではないだろうか。


著者が危惧するこれらを避けるために、私たちはメディアリテラシーをもっともっと高めていく必要があるようです。


「脳に効く」「脳に良い」「脳が活性化する」などというコトバを、肩書きや知名度だけで、疑うことなく無防備に受け入れず、一歩立ち止まり考えてみること。

論理は飛躍していないか、科学的根拠は確かなのだろうか、どういう実験検証の結果、効果が生まれたんだろうと調べてみること。

「効果は個人の感想です」という注釈ってもしかして、本当は効果ありませんよってことを別の言い方してるだけじゃないだろうか、と、一度疑ってみること。

ほんの数百円数千円で、脳が若返り、頭が良くなったら、それこそ大変なこと。そんなおいしい話はあるはずがありません。

どんな脳トレソフトよりも、食品やサプリメントよりも、
一番確かに「脳に効く」のは、思考を停止せず、自らの脳を使って考えてみること検討してみること。これ、なんでしょうね。

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紙の本センネン画報 その1

2008/07/01 16:20

この感覚は味わうもの

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

コトバにできない思い、ってのがある。

例えば、ニベアのふたを開け、香りをかいだら、なぜだか冬のにおいがした。

なんていう感覚なんてコトバにしても伝わらない。
でも絵だったら伝わるかも。

そう、たしかに伝わってきた。
理解(わか)る、というのではない。伝わる、という感覚。

上のニベアの話は、マンガ家・今日マチ子「センネン画報」のなかからの1頁。

これは、同名のブログが一冊の本になったもの。
日々更新されるブログのマンガに触れるのが最近の楽しみのひとつになっている。それが一冊になったからには読まねば。


描かれている殆どが、自分とはほど遠い世界である女子高生の話ばかりだから、我ながらどうかとも思うが、オヤジだって心魅かれる物語ばかりだから、たまらない。

すべてが理解(わか)る、なんてことはないが、遠い昔の教室世界がよみがえってくるから不思議だ。
「センネン画報」に描かれているいくつかに、あのころなぜだかしたことがあるものもある。

電動の鉛筆削りに新品の鉛筆を差し込み、なくなるまで指先で鉛筆のお尻を押し続けたこと。

彼女の跳ね上がった一本の髪の毛にアンテナを感じたこと。

そして、教室の片隅にかかったままのハンガーの肩に両手を添え背伸びして顔を寄せたくなる気持ちも、したことはないけど、なんとなくわかる。


かつての男子がこんなんならば、かつての女子や現役の女子にはたまらない1頁だらけだろう。

青色が中心の淡いイラストタッチの絵には、瞬間を感じる。
長編の「海から36Km」以外、台詞はほとんどないが、書かれていない会話が聞こえてくる。
今日マチ子さんのマンガを「いいなぁ〜」と眺める感覚をこれからも大切にしていこうと思う。

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ガイコクジンになったつもりで読んでみる

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

指を尻にぶち込むカンチョー、
まぶたを一本の指で下にひっぱり舌を突き出すあっかんべー、
ハンカチを鼻の下で結ぶという変装(ドロボー)、
露出の多い女性を見たら鼻血を出す、
浜辺でスイカを棒で叩く、
さて、これらの共通点はなんでしょう。


日本人のあなた、ちょっとだけ日本人であることを忘れてみると…見えてくるかもしれません。

実はこれ、
外国人が日本のアニメを見たとき、いったいなんだろう、と思った日本の不可思議ポーズや文化だそうです。

海外の(日本好きが集まる)掲示板を集めた「ザ・ニッポンレビュー!」に載っていました。

私たち日本人としてみれば、昔からあったりまえの、マンガやアニメに出てくる描写や表現なんですが、外国人から見たら、たしかに「?!」なんでしょうね。

他にも、象印の炊飯ジャーや保温弁当箱への絶賛、日本(の製品)で乱用されている英語、チップについてなど、ガイジンが見たヘンタイでクールな日本がいっぱいこの本には紹介されています。しかも、掲示板に載った生の声で。



フード、ファッション、文化、アニメなど、私たち日本人にとっては普段見慣れた習慣や風景、表現も、「異」の視点を通して客観的に見てみると、まったく別の印象となって飛び込んでくるから不思議です。

こんなところに注目するのか!
こんな製品にニッポンのものづくりを感じるのか!

笑いながらも、少し誇らしげになったり、たしかに変だよなぁと思ったり、比較文化って、ホント、おもしろい。


例えば,家の中で靴を脱ぐ習慣。
日本ではこれ、当たり前。逆に家のなかでも土足で生活する外国の生活が信じられません。

でも、この本にあるネイティブの声を聞くと、案外家の中で靴を脱ぐ習慣を持つ国があることに気付かされます。また同時に、土足習慣のなかで暮らす人たちも、
「家に入るとき、靴を脱ぐのは、どう考えてみても常識だろう」と、この習慣に嫌悪を抱いていることが分かったりして、そうだよな、とうなづいてしまいます。


またチップという習慣にも、「アメリカでは、働いている人たちが、その価値がなくても自動的にチップがもらえるものと考えていてガッカリする」なんて意見が述べられていて、皆が皆、無条件で自国の文化や習慣を受け入れているんじゃないと分かって、なんだかホッとしました。



比較文化というと硬く考えがちですが、こうした一般ピープルの本音のなかにこそ、真実が隠れているような気がします。
だって、学者や研究者の専門書のなかに、カンチョーやあっかんべー、象印炊飯ジャーの話なんて、まず書かれていないのだから。

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ビッグウェーブを待ちわびて

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今からおよそ70年前の1930年代から40年。日本国民はどんな生活をしていたのか、ちょっと想像してみよう。

五・十五事件、満州事変、二・二十六事件、国際連盟脱退、そして、うわぁ、耳をふさいでも聞こえてくるぞ、ざっざっざっざと軍靴の足音が。

太平洋戦争前夜ということで、日本国民はど~んよりと暗く貧しく自由も娯楽もなくつつましく夢も希望もなく生きていたんだろうなと、勝手に思い込んだりしていたが、どうも東京あたりでは、そうではなかったようだ。


指南役「幻の1940年計画」によると、
1940年、帝都では四つの巨大プロジェクトに沸きあがっていたという。

東京オリムピック(オリンピックではなくオリムピック)、万国博覧会、テレビジョン、そして東京~北京を結ぶ弾丸列車。


しかしこれらすべては太平洋戦争により中止。
いや、中止ではない、失礼、延期だ。
およそ20年後の1960年代から70年代にかけて、すべて実現していったのだから。


自分の勉強不足なのか、戦前にこのような計画があり、実現間近であったなどということをまったく知らなかった。
今回改めて「幻の1940年計画」に挙げられている四大事業の詳細を見てみると、その計画、立案、進行にはワクワクさせられる。すごいぞ日本!


まずは東京オリムピック。
日本がオリンピックに始めて参加した1912年のわずか20年後、しかも、最後に立候補したというのに先に立候補した9都市を押しのけ開催を勝ち取るなんて!当時の外交力のすごさに驚かされる。今の外交のお粗末さが悲しくなってくる。


さらには、万国博覧会、テレビジョンや東京~北京を結ぶ弾丸列車計画も、なんと夢と希望にあふれていることか。

もしも太平洋戦争がなく実現されていたら。

「幻の1940年計画」には、そんなシミュレーションもあった。
当時の国民はそんな夢に心弾ませていたんだろうな。
いやあ、面白い。
4つの計画のあちらこちらに名前が出てくる後藤新平が気になって仕方がない。後藤新平関連を読みあさってみたくなる。



経済成長がベースとなり、不思議な巡り合わせで様々な事業がある一年に集中する現象。
この本では、その現象を「ビッグウェーブ」としている。大きな波。

1940年のその波が押し寄せていたが、残念ながら日本は戦争のため乗ることができなかった。


2009年の今、次のビッグウェーブはいつやってくるのかしらん、と思う。
もう永遠に大きな波は押し寄せては来ないのでは、なんて空気が世間に漂っている。それほどに深刻な状況が、あちらこちらに。

いやいや、指南役によると、2020年が、日本に押し寄せる次なるビッグウェーブらしい。たしかにいくつかの大型事業が挙げられていた。



人はそこに何かがあると感じると、頑張れる。都市だって同じだ。

地元愛知でもそうだった。
愛知のビッグウエーブは、全国的なものではなく小規模だが、2005年にあった。
そう、愛・地球博と中部国際空港の開港。

正直その前年や前前年なんかは工事が増えて嫌だなと思ったりもしていた。反面、記録や展示のための映像を制作する仕事も増え、個人的にも忙しかった。

そして2005年。万博前に開港した中部国際空港(セントレア)は、旅行客よりも物見遊山の見物客がどっと押し寄せ大賑わい。
万博も、予想に反して大盛況。地元ではリポーターたちがすごかった。


波は自然にやってくるのか。いいいや、呼ばなきゃやって来ない。
次来る波が楽しくみんなを元気にさせるものだよと、自信と誇りを持って高らかに宣言してくれるようなプロジジェクトリーダーが、今求められているのかも。


そうそう、1970年の大阪万博では、1940年の幻の万博の前売り券が有効だったらしい。なんと3000枚以上もの1940年万博の前売り券が使用されたらしい。これを物持ちがいいという?いいや、1940年当時中止ではなく、延期とされたから、いつか日本で万博が開かれる日まで大切に取っておこう。そんな人がたくさんいたからでしょう。それだけ、信じていた、ってこと。
そんな明日への期待。欲しいですな。

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紙の本うつから帰って参りました

2009/11/09 15:28

帰る場所はあるのか

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ちょうど社会人として働き始めた80年代の終わりから90年半ば、一色伸幸さんの書くドラマには楽しませてもらいました。「私をスキーに連れてって」を始めとするホイチョイ3部作や、「病院に行こう」「僕らはみんな生きている」などの、バブル時代ならではの能天気さやおちゃらけさに、仕事の辛さを忘れたものです。

2000年前後になってそういえば最近一色伸幸のクレジットを見ないなと思っていたら、うつ病で薬に溺れていたんですね。(薬といっても違法なものではなく、市販薬や処方薬の過剰摂取)


このエッセイは、シナリオが書けなくなり、薬に頼らざるを得なかった自身・一色伸幸さんのうつ病回顧録です。


私のように平凡に毎日を生きている人間は、その平凡さゆえに、メジャーな世界で華々しく活躍する人に深く憧れます。
一時期自分もシナリオライターを目指したこともあり、著者・一色伸幸や、同時代の野島伸司、坂元裕二に憧れ、嫉妬を抱いたものです。

でもこの本を読むと、負け惜しみかもしれませんが、平凡で良かったとさえ思ってしまいます。
注目され期待され締め切りに終われライバルに恐れ虚勢をはり、それでも書き続けるには自分の才能以外のもの(たとえば薬)にすがりつかざるを得なくなってしまうという「弱さ」。

この本はその弱さを克服するための薬依存や自らのうつ状態を、自身の脚本からダイアローグを挟み込みながら、赤裸裸に綴っています。


うつじゃない人、特に豪快に我が道を突き進んできた人たちは、うつ的精神状態の人に出会うと、「頑張れ」「息抜きしたら」「人間、気の持ちようだ」などと、今の(健康である)自分自身を基準に励ましてしまいます。その励ましがうつ患者にとってまったく意味のないことで、むしろ逆に傷つけてしまうことだなんて想像すらできません。

ほんの少し前までうつに関する知識のあまりなかった私も、「うつ」という精神状態がどうしても理解できませんでした。
でもこうした本を読んだり、有名人・知名人の自殺に触れたりするごとに、徐々にですが、「うつ」という病気がたしかにあるんだ、と認識せざるを得なくなってきました。



幸いにも今の自分には「うつ」的兆候はありませんが、いつ自分が罹っても不思議ではないでしょう。
そんな時自分は再び「今の」状態に戻って来れるのかしら、とこの本を読んでいて不安に感じてしまいました。

この本のタイトルは「うつから帰って参りました」

そう、一色さんは帰ってきた。帰ってこれた。
行ったきり帰ってこれない人も多くいるなか、どうやってうつから帰ってこれたのか。

一色さんには、シナリオという自分を表現できる才能と技術があった、発表の場があった、温かく見守る家族がいた、仲間もいた。そうした帰る場所がきちんと用意されていたから帰ってこられた。


健康な状態であれ、そうでない状態であれ、人にとって必要なのは「帰れる場所」「迎える人」が確実にある、いるということなんじゃないだろうか。

今多くの「うつ」から生還した体験の本が出版されています。この本のようなエッセイ、マンガ、ブログ(日記)から生まれたものなど様々です。
まだ今の自分には縁遠い世界の物語かもしれませんが、こうした実体験や事例のいくつかに多く触れることで、「うつ」への正しい知識や対処を予習しておくことができます。
そしてそれは同時に自分を見つめ直すきっかけにもなります。

今の自分には「帰れる場所」はあるのか、「迎えてくれる人」はいるのか。

いつ襲ってくるかもしれない「うつ」について考えることは、自分の存在理由を見つめ直すことなのです。

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紙の本超能力番組を10倍楽しむ本

2008/05/09 11:05

番組の品質管理

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

透視にダウジングに予言に、さらには超能力捜査…
昔も今も変わらずオカルティックな番組は人気があるようです。
行方不明者や犯人の居場所を言い当て、居並ぶゲストたちが「おお〜」なんて驚嘆の声をあげ、それにつられて視ている我々も「すごいね」なんて、呟いている。

でも、ちょっとだけ冷静に考えてみましょう。


10回透視をして、そのうち(偶然にも当たった)一回だけの内容をオンエアしているのだとしたら。当たらなかった9回は全く無視されているとしたら。

しかも、その唯一の「当たり」を周辺から盛り上げる盛り上げる。
仰々しいテロップ!美辞麗句を並べたナレーション!思考を誘導する音楽!ゲストたちの神妙かつ驚愕の表情!

こんなのを並べられたら、裏側を知っているテレビ関係者以外「超能力ってあるのかも」って信じてしまいます。
だから、さあ、読もう!山本弘「超能力番組を10倍楽しむ本」


ここ10年ほどオンエアされた、透視、予言、ダウジング、超能力捜査などの番組を具体的にあげ、その「ウソ」の数々をめった切りにしています。


面白ければそれでいい、
視聴率さえ取れればそれでいい、
「ウソ」じゃないよ「誇張だよ」と言っておけばいい、

「都合の悪いところを隠して、都合の良いところだけを強調しておけばいい」、
この本を読んでいると、そんなテレビ制作者の姑息さが見えてきます。

番組という分野にも「品質管理」という部門が必要なんでは?

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紙の本坊っちゃん 改版

2007/10/03 22:03

夏目漱石初体験

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もしかして、もしかすると、自分は過去、夏目漱石の「坊っちゃん」を読んでいないのでは。
読んでいたとしてもそれは、小学校か中学の教科書に載った一文だけの可能性が高い。いや、それだけでは読んだとは決して言えない。
あまりにも有名だから、読んだ気になっていただけなのかもしれない。

今回あらためて(初めて)読んでみて、自分が知っている(つもりだった)「坊っちゃん」とあまりにも異なっていたからそう思う。

「坊っちゃん」とは、学校の先生になった若者の話。ここまでは正しい。
しかし、それ以外がまったく異なる。

先生と生徒が、反発しながらも、勉学に運動に、ああだこうだとやり合い、最後にはお互い信頼しあうという、よくある学園モノだと、ずっと思っていた。
その中に、マドンナと呼ばれるヒロインが登場し、主人公である坊ちゃんと恋に落ちるとずっと思っていた。

が、全然ちゃうではないか。

主人公は先生でありながら、授業のシーンなど殆ど出てこない。名前のある生徒さえ、いない。「ぞな、もし」と話す生徒A生徒Bしか出てこない。
そのうえマドンナって一体誰よ?坊っちゃんとはなんの関わりのない謎の女性ではないか。


ずっとずっと思っていた。坊ちゃんは、さわやかで曲がったことが大嫌いという若者だと。
が、坊ちゃんの口から出てくるのは
田舎の悪口。大人への反発と文句ばかり。

最後には……までやらかして、まあ、随分とアクティブな青年だこと。



だからダメ、というわけではない。全くない。

面白いンだな、これが。

短い文章が次々と連なっていくそのリズムは100年以上経った今でもしっかりと通用する。心地よささえ感じてしまう。一文一文が躍っている。とてもストレートで、軽妙さに満ちている。ちょっと真似したくなる、お手本のような文章だ。
漱石先生は、こんな躍るような文章を、直しや消しを殆どせず、一気に書き上げたらしい。
こういう人を、天才、と呼ぶのだろう。

さあ、私のなかで、夏目漱石再び、が始まる。さしあたり次は「吾輩は猫である」かな。
ところで、坊っちゃんの名前ってなんて言うんだ。

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回覧板にしたい写真集

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

よほどでない限り写真集は買わない。
書店でパラパラと眺めて、ああキレイとか、自然てスゴイな、とか呟き、記憶の片隅にとどめて、終わり、である。
が、梅佳代(この名前がまず、いい。梅さんでもなく、佳代さんでもなく、うめかよ、である。「うめ」かよ、と突っ込んでしまうほど、うめかよらしさのある名前である)の「うめめ」は、レジまで足を運ばさせてしまうパワーがある。

なんといっても、被写体とうめかよさんの良好な関係性が、もうそのまんま滲み出ているナチュラル感がたまらなくいい。おじさん、おばさん、お嬢ちゃんにボクちゃん、そしてワンちゃんネコちゃんと、登場人物らは、なんと生き生きと愛らしく、マヌケで警戒心がなく、すっとぼけて、おちゃらけなんでしょう。

1枚1枚の写真から聞こえてきます。
「なにうめちゃん撮ってんの」とか「あかんあかん、パーマあててから撮っていな」とか「ねえちゃん、100円くれたらもう1枚撮ってえいで」とかの、賑やかな町が奏でる音が。なんか昭和の匂いがしてたまりません。

写真は一瞬しかとらえられないものですが、
その一瞬のちょいと前にあったであろう話し声や笑い声も聞こえてきます。
その一瞬のちょいと後に起こったであろうことも写真から漂ってきます。撮り手の人間性がこんなにも焼き付けられている写真は、久々に見ました。

うめかよさん、ウチの近所に引っ越してきてください。町内の回覧板を、あなたの写真で作って欲しい、と思うのであります。

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