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  3. けんいちさんのレビュー一覧

けんいちさんのレビュー一覧

投稿者:けんいち

272 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本風立ちぬ・美しい村 改版

2008/07/01 18:54

「純愛」の描き方

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『風立ちぬ』は、堀辰雄の作品の中でも特に有名なもので、「サナトリウム・薄幸の美少女・献身的に尽くす婚約者」を3大要素とした「純愛」のイメージが強い小説である(もちろん、そこには、山口百恵映画の影響も大いに関わっていることだろう)。

しかし、改めて考えてみるならば、『風立ちぬ』に描かれた「純愛」、あるいはもう少し一般化するなら「恋愛」とは、どのようなものなのだろうか? 1つには、主人公の男女が、ヒロインの死を前提としたところから始まる「生活」を愉しむ以上、それはある意味で無償のものに違いなく、従って2人が生きて迎える結婚生活すら想定しない(期待できない)という意味で、まずは純粋な愛、文字通り「純愛」であるように見える。ただし、ここには、今日「純愛」と称されるベストセラー作品にみられるようなわかりやすい仕掛けはない。『世界の中心で愛を叫ぶ』のように、恋人の死を回顧する枠組みは、生前の恋愛」を謳歌する日々をロマンチックに縁取って描き出し、それは「恋愛」らしくみえる。それに対して、『風立ちぬ』は、はじめからすでにヒロインは入院しており、わかりやすいかたちで「恋愛」謳歌が描かれることはないし、死を回顧する枠組みも採用されない。

にもかかわらず、『風立ちぬ』には「恋愛」が、しかも「純愛」が描かれているようにみえるのはなぜか? それは、この2人の主人公が、死を前提とした2人の実につつましやかな「生活」の中で、繊細でありながらしかし確かな愛情を、相互に交換=交歓しているからという他ない。そこでは、セックスはもちろんキスすらも描かれず、まれに抱擁がある程度で、特に甘い「恋愛」の言葉が交わされるわけでもない。にもかかわらず/それゆえ、社会から隔離された2人だけの地で、外部の承認すら求めない形で、何ものかが生み出され、それが2人だけのあいだで愛おしむように大切に大切に育てられていく。そこに、わかりやすい「恋愛」はみてとれないし、社会的な祝福があるわけでもない。2人を待っているのはただ死(死別)なのだから。そうであるから、この2人は、残された生の時間を細やかに、愛おしみながら、相手を思いやり「生活」していく。これこそが、「純愛」イメージの陰で描かれた、実に地味で上品この上ない、至上の「恋愛」のかたちなのだ。

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紙の本謎とき村上春樹

2008/06/11 16:05

小説をちゃんと読む!

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の石原千秋さんは、近代文学の研究(漱石)をご専門にしている方らしいが、受験関係の新書などでもおなじみの方である。その石原さんが、現代小説である村上春樹に挑む。それも、あまたある「謎解き本」を前に、あえて「謎とき」とタイトルに銘打って。しかし、その結果は、実に見事な成果をあげたといってよいだろう。本書は、新書で培った(?)筆法を生かしながらも、ご専門のお仕事である『テクストはまちがわない』などで主張している方法論を貫き、そうして村上春樹の小説を、ちゃんと読んだ本なのである。もちろん、「ちゃんと」読むのは、プロなら普通のことと思われるかもしれないが、現実は必ずしもそのようになっていないようだし、特に村上春樹のようなタイプの現代小説は、すみずみまで「ちゃんと」読むことは思いの外難しいのだ。だから、この本は、正しく『謎とき 村上春樹』なのだ。

さて、石原さんの方法とは、テクスト論というものである。それは、作者が何を考え、どのような意図で書いたかということを括弧にくくり(気にしないことにして)、ひたすら目の前にある小説だけを読む、という方法というか態度のことである。これまた当然のことのように思われるかもしれないけれど、私たちは小説にしろ映画にしろ絵にしろ、何か補助線をもってくることで解釈しては、安心しているものなのだ。その補助線の最大のものが作家であり、あるいは批評の言葉であったり、当時の流行文化であったりする。石原さんは、その上、小説のこまかいところまで「ちゃんと」読み、不整合があるような場合もそれを不備と見なさずに、作品の中でそうならざるを得なかった理由を、目の前の小説(文字の羅列!)だけを手がかりに、論理的に示してみせるのだ。

本書では、こうした作業を基軸としながら、ホモソーシャルという理論的な枠組みを導入してはいる。しかし、それは小説を「ちゃんと」読んだ結果見えてきた解釈が、その理論枠にあてはまるというだけのことで、あらかじめ用意した物差しで小説を意味づけているわけではない。こうした読み解きが真にスリリングなのは、新しい武器を使ったわけでもない石原さんの説明によって、村上春樹の小説のわからなかったことがわかり、あるいは、疑問にも思わなかったところが不思議に見えだし、そしてこれまで漠然と抱いていたイメージとは異なる、清新な村上春樹の作品世界が開かれていく、その読書体験にある。蒙を啓かれる、というのはこういう体験をいうのかもしれない。

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紙の本図書準備室

2008/06/09 20:12

恐るべき傑作、現代文学の最前線

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、文芸誌の新人賞をとった「冷たい水の羊」と表題作の2編から構成された作品集だが、作者の本領は、芥川賞候補にもなった「図書準備室」に遺憾なく発揮されている。「いいわけ小説」とも評されている同作は、確かに小説の大半が主人公の繰り言(長い長い語り)で埋められているのだが、その自意識と文学的表出の水準は極めて高い。そこには、例えば太宰治の「駈込み訴へ」のような速度はまるでないのに、それでいて聞き手意識や自己言及をさしはさみながらも、ラヴェルの「ボレロ」よろしく、次第次第に粘りの効いてくる語りは途切れることを知らない。主人公の置かれた社会的立場が似ていることもあって、最近の文体でいうならば、年齢も近い岡田利規のそれに同質のものを感じる。

さて、問題の繰り言であるが、それはさしあたり「働かない理由の説明」として始まるのだが、その内容は実にデリケートなかたちで関連している(あるいは、関連していない)。というのも、直接の因果関係が見出せるような「働かない理由」が語られることはなく、むしろそれとは無関係なことへと、話は次第次第に脱線していくのだから。しかも、その内容は、語る主人公の直接体験から、人を介して次第次第に間接的なものへとなりゆき、従って、語りに複数の声が直接話法を用いて混入してくるし、時間軸も重層化されていく。それをポリフォニーと呼ぶことにさほどの意味はないのだが、それでも「いいわけ」と切り捨てられるほどに単純なものでないことは確認しておく必要があるだろう。

主人公の語りは、いつしか、一人の人物に行き当たり、その人物のとある極端な行動にまで遡り、その行動はそれ自体ですぐれてセンセーショナルなものであるばかりでなく、ふと気づけば、「戦時下のリンチ」という二重の暴力が過去の彼方から語り=想起によって回帰してくるというのだから、働きもしない内省的な主人公はここで大文字/小文字の外部に、当の繰り言を介して見事に邂逅さえしているのだ。となれば、本作の主題は記憶であり語りであり戦争であり、してみると、一読後の貧弱な印象とは裏腹に、実に現代的で社会的な主題を、いわゆるニートの状態でありつづけながらもしっかりと手にした、すぐれてアクチュアルな小説であると呼ぶべきなのだ。総じて、「図書準備室」、田中慎弥の書いたこの小説は、間違いない現代文学の傑作の1つである。

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紙の本16歳 親と子のあいだには

2008/05/25 20:14

環境の変化のなかでの子供の「力」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

平田オリザは、劇団青年団を主宰する演出家・劇作家だが、演劇のワークショップばかりでなく、学校の国語教材で「対話」を考える項目を執筆し、自らモデルティーチングもする、教育者でもある(付言すれば、阪大の先生でもある)。平田オリザが編んだ本書は、そうした教育者としての考えたよく示され、同時に、価値観の多様性という口で言うのはやさしくも実現したりそうした状況を受け入れることはたいへん難しい理念を、執筆者のバリエーションによってクリアした、「古き貧しき学校教育の規範」を乗り越えていく力強いメッセージとなっている。

たとえば平田は、「はじめに」で次のような現状認識を示す。

《 子どもの数が少なくなっていることも、大きな社会の変化です。この点も、私を含めて、まだいまの大人たちは、きちんと事態を認識してはいないように思います。/表現やコミュニケーションについての教育に関わっていると、いまの若い世代は、表現力が低下しているのではなく、他者に向かって表現する機会が少ないのではないかと感じます。私はよくこれを「単語でしゃべる子どもたち」という言葉で説明します。〔略〕本来、コミュニケーション能力=伝える技術というものは、伝えたいという気持ちがなければ身につくものではありません。そして、その伝えたいという気持ちは、伝わらないという経験からしか生まれてこないはずです。/しかし、いまの子どもたちには、この伝わらないという経験が、絶対的に不足している。自分のことを知らない、価値観も人生観もまったく違う他者との出会いが、決定的に不足しているのだと思います。/この点、厳しい競争社会の中で育った私たちの世代と、いまの少子化世代とでは、育つ環境事態が大きく違うのだということを、大人のほうがきちんと認識していかなければならないでしょう。》

これもまた、いわれてみればしごく当然のことではある。パソコンや携帯電話をはじめとして、目に見えるかたちでも日常生活に大きな変化がある上に、不可視あるいは見えにくいところでは、社会の構造的変化や技術革新に陰に陽に影響されながら、実のドラスティックな変化が起きているのだといってすらいいのだと思う。その中で、親と子が関係を築いていくこともまた、「従来通り」ではうまくいかないというのは道理だろう。

本書は、こうした、頭では分かるものの、直面する現実にあって、なかなかうまく対応ができない親子関係について、上のメッセージを、具体的かつ実に多様な(しかも移植の!)経験談を並べることで、実感しやすいものとすることで、すぐれて実用的な書物となっているといえる。

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しなやかでどん欲なジェンダー批評/文学研究

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

文化研究と呼ばれるモードに即しながら、ジェンダーというスパイスを効かせたものにさしあたり見えるであろう小平麻衣子『女が女を演じる 文学・欲望・消費』は、著者の出自を文学研究としながらも、書店ではジェンダーのコーナーに配架されてもいるし、あるいは有能な書店員がいれば演劇のコーナーに置かれることすらあるだろう。それでいて本書は、実に理論的な水準の高い、文学研究の成果といってよい。逆に、本書が示すのは、問題領域にしても、分析手法にしても、そして何よりその問題意識において、他ならぬ「文学(研究)」に端を発した、新たな「文学(研究)」の可能性ですらある。(文学をモチーフにした本書の達成自体が、ジェンダー批評として秀逸であると同時に、新たな「文学(研究)」の可能性を体現しているという意味において)

本書の内容に話を戻せば、それは「はじめに」で著者が「近代のジェンダーとセクシュアリティの規範がいかにして成立するのか、認定されるものとされないものがいかに策定されていくのか、変化し続けるその境界線の一瞬を記述しようとする試み」とまとめる通りのものである。とはいえ、それだけでは具体的なイメージは難しいかもしれない。本書で実際に取り上げられていくのは、夏目漱石の小説であったり、樋口一葉、田村俊子や平塚らいてふのそれ、さらには文芸協会(『人形の家』)や宝塚、そして百貨店などなどである。本書は、上記のねらいに即して、個々の事例が具体的に検証されるのだが、その分析は、粘り強く短絡を避ける。つまり、女性への抑圧を告発したり、逆に、女性表現の豊かさを顕揚することに、常に慎重な距離をとり続ける。その意味で、わかりやすいフェミニズム批評では決してないのだけれど、それは同時に、たいへんすぐれたジェンダー批評となっている。というのも、「女性」をめぐる近代の事例をとりあげて性急に何かをいうことは、事実を明るみに出すという意味ではささやかな貢献が可能かもしれないが、理論的貢献、言いかえれば一般化可能なかたちで「女性」をめぐる研究に貢献するのはきわめて難しいからに他ならない。そうした局面を見据えているからこそ、本書は時に難解、時になまぬるようにみえる叙述に留まりながら、歴史の様相をていねいに洗い直していくのだ。

こうしまとめられた各章の議論は、「女が女を演じる」という表題に集約されるように、じつにわかりやすい言葉で、そのポイントを明らかにし、読み手をそのゴールに向けて誘ってくれる。ただしそれは、何かがすっきり明らかになるタイプのゴールではなく、「女性」をめぐる近代的経験を問い直す手がかりとしてのゴールである。だから、本書は、ごくごく限られた事例を扱いながら、そこでの性急な結論を回避することで、逆に、現実的物理的にはカバーすることなど不可能な、「近代(文学)史」総体を射程に収めた議論となっているのだ。本書がどのような書架に置かれようとも、その重要性は疑い得ない。

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紙の本となり町戦争

2008/04/10 14:49

日常と地続きなものとしての〈戦争〉

9人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

年少の作家による文学新人賞受賞作として話題になった『となり町戦争』は、すでに文庫化もされて多くの読者の目にふれているようであるが、今日、その重要性はいやましに増しているように思われてならない。というのも、本作は、単にセンセーショナルな話題作なのではなく、「新しい戦争」の相貌を、現代小説によって捉えた「新しい戦争」論でもあるからだ。その意味で、この小説の表題は、実によく企(巧)まれている。「戦争」のインパクトを薄める「となり町」という身近さ・日常性が付されることで、「新しい戦争」その独自の相貌が、はやくも表題において捉えられているといってよい。

「新しい戦争」とは、湾岸戦争、9・11後の「テロとの戦い」を経ていよいよその相貌を表しつつある、第一次世界大戦に代表される近代戦とは全くその様相を異にした、細分化されてメディアさらには日常世界に溶け込んだすぐれて現代的な様相をこそ指すが、それは日本においては、「戒厳令」すら思わせる首都圏地下鉄構内の警備体制に可視化されている。派兵云々以前に、日本もまた数年来、「新しい戦争」の戦時下にあるのであり、『となり町戦争』がしずかな興奮とともに描出していくのは、こうした現代日本にあまねく広まった「新しい戦争」の様相であり、その文法そのものなのである。

しかもそれは、その「戦い」の抽象度、年上の女性とのいささかロマンチックな冒険テイスト、などによって、村上春樹を思わせるエンターテイメント性を確保しながら、たんたんと一定の長さをその筆は書き進めていく。エンターテイメントにはストーリーが必要で、そのためには一定の長さが必要なことを思えば、「新しい戦争」の文法自体の描出には不要な長さを、このモチーフを薄めることなく描ききったその筆力は特筆に値する。そうした点も含めて、本作は、ほかならぬ現代日本に生み出された、戦時下の現代小説の傑作といって間違いない。

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紙の本戦争の記憶をさかのぼる

2008/02/25 09:51

私たちと戦争と記憶と

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アジア・太平洋戦争をめぐる「戦争の記憶」の危機(感)を出発点とした本書は、「記憶のレッスン」を標榜しながら、湾岸戦争と9・11という比較的最近の「戦争」とそれを語る言葉のゆくえを分析・検討していく。そこには当然、ボードリヤール、谷川俊太郎、加藤典洋、高橋哲哉、吉本隆明、小林よしのりといった名前が登場してくるのだが、坪井はそれぞれの論点を文脈を加味しながら整序し、そこにアジア・太平洋戦争下に関して書かれた日本近代詩を思考の手がかりとして償還しながら、議論は進められていく。その上で、歴史的な溯行に先立って示されるのは、次のような、決意とも称しうる認識である。

《〈戦後六〇年〉を〈戦後五〇年〉の余生に貶めてはならない。戦後六〇年とはまさに記憶を生き延びているいまの時間であることを、そしてその記憶が死に瀕している危機にあることを言葉にしていくことが、緊急の課題として目の前に突きつけられている。》

こうした地点から坪井は、10年ごとの8・15を新聞紙面から検証していく。それは同時に、戦争を軸とした世代ごとの体験・記憶の検証ともなっていくのだが、坪井はそこから戦争の記憶を希薄化しようとしていく大勢に抗いうる、例えば大岡昇平の言葉などをひろいあげながら、記憶の危機に抗しようと粘り強い議論を展開していく。そしていよいよ、「敗戦をまたぐ」と題された終章で、詩人・高村光太郎がクローズアップされていく。「レモン哀歌」の詩人としてのイメージが先行する高村の、戦時下の露骨な戦意高揚詩を、それが書かれた歴史的な文脈とともに提示した上で、坪井は「一億の号泣」という敗戦を詠んだ詩を読み直し、そこに「日本人の精神の一つの類型」を見いだしている。こうした、戦時下・敗戦にまつわる言葉を、今日の視座から裁断するのではなく、忘却に抗しながらその文脈とともに辿り直そうとする坪井の姿勢は、次のようなメッセージとなって本書を締めくくるだろう。

《戦争の記憶の問題を個人と共同体、過去と現在との関係の網の目において構造的に捉えることが必要なのであり、そのためにも現在を生きる私たちは過去の問題に応対することにおいて常に謙虚であるべきであると同時に、より主体的・積極的に、勇気をもって関与していくことが求められているのである。過ぎ去った時間と死者の記憶は、生者の時間をより良いものにするためにこそ用いられるべきなのであって、その逆ではけっしてない。日々の忘却にあらがうことの効用もこのことの一点において保証されているのではないだろうか。》

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格好の入門書にして深い読解への手がかり

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昨2009年は、村上春樹『1Q84』に沸いた1年だったと言っていいだろう。それは、狭義の読書界にとどまらず、もはや社会現象とまで呼ぶべきスケールで展開された。すでに第三巻の予約も始まっており、まだまだ村上春樹『1Q84』旋風はおさまることなく続いていきそうである。もちろん、そこには、世界的に話題になったエルサレム賞受賞や、品切れが続出するという販売戦略(?)もあったはずだけれど、やはりここまで『1Q84』が売れ、騒がれ、読まれ、語られているということの根因は、小説それ自体の「力」によるものだといえよう。エンターテイメントとして面白いばかりでなく、様々な歴史・宗教・サブカルチャーが取り込まれつつ、普遍的なテーマも盛り込まれ、そして何より「村上春樹らしさ」がちりばめられている『1Q84』は、評価は措くとしても、現代において重要な小説作品であることは間違いない。

とはいえ、そうした様々なソースや相貌を抱えこみ、複雑に構成された『1Q84』を読み切る、理解し尽くすことはそれゆえ難しい。『1Q84』ではじめて村上春樹を読む、あるいはエンターテイメントとして読んでも謎が多いし、これまでの村上春樹ファンにとっても、その新境地をどのように読むかは、決して簡単なことではない。そうした『1Q84』であるから、新聞・雑誌・TVでのコメントや論評はもちろん、すでに何冊もの「『1Q84』解説本」が出版されている。その中でも本書は、複数の観点からすぐれていて、どのような読者(『1Q84』への好悪や、村上春樹読書歴の長短など)にとっても、その興味に応じて格好の導き手となっている良書である。

何より、様々な立場・業界の人が、それぞれの興味で『1Q84』について書いた文章が並んでいる点が魅力的である。そして、それぞれの文章が短いことも、読みやすく、各論者の観点が端的に示されていてわかりやすい。さらにいえば、各論のタイトルもまた、『1Q84』の多様な相貌を照らし出していて、本書自体も興味を惹かれる構成になっている。そうした意味において、本書は『1Q84』への「格好の入門書にして深い読解への手がかり」といってよく、類書を超えたクオリティを低価格で実現した良書といえる。

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紙の本未完の小島信夫

2009/07/20 10:31

「未完」という名の可能性

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小島信夫をめぐる、エッセイ・対談・批評によって構成された本書は、小島信夫という主題に向けて、編著者の千石英世/中村邦生が投げかけた、読み/思考の混成体そのもので、おそらくは良い意味で「未完」であり、その様態は混沌としている。もちろん、きっちり証拠を出しながら論理が進められていく議論がないわけではない。しかし、小島信夫に魅せられた2人のこと、さらには「話し言葉」の部分が多いこともあいまって、ともすれば散漫な印象すら与えかねない言葉が、饒舌に書き綴られているのが本書だが、そおらくはそこにこそ、本書の/小島信夫の「未完」を解き拓く鍵があるはずだ。理詰めで考えられるなら、小島信夫の小説など、不要である。小島信夫を主題とした千石英世/中村邦生の批評にしても、もちろんそうだろう。ならば、そうした(近代的な)方法では届き得ない、小島信夫文学のエッセンスに、どのようにしたら照明を当てることができるのか? その実践こそ本書の構成であり、飛躍と逡巡を兼ね備えたような本書の議論であるに違いない。少なくとも、そこには、小島信夫の「未完」ぶりを、小島信夫の「可能性」へと転換していく、しなやかで粘り強い読みの経験が蓄えられている。

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紙の本舞い落ちる村

2009/06/15 08:14

村上春樹『1Q84』内の小説?

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結論から言ってしまう。
本作は、村上春樹の最新作『1Q84』にでてくる、「ふかえり」の書く小説内小説に、似ている、と思う。

谷崎由依さんの小説は、評価はもちろん、興味すらわれる作品ではあると思う。それでも、言語への深い洞察から紡ぎ出される、舌足らずなようでして、確かなリアリティをもった描写/世界観は、じつにすぐれたものであるし、小説家としての確かな実力を感じさせもする。

だから、もちろん、村上春樹云々を知らずにも読めるし、それで十分読書の味わいを感じることはできる。ただ、村上春樹の小説を読んで、関連CDまで売れているという現在、他ジャンルに行く前に、すぐれた同時代作家のすぐれた小説にふれてみるのも悪くないだろう。

少なくとも、書評子にとって本作は、ゼロ年代に入って書かれた小説の中でも、屈指の傑作であると思う。ご一読を乞う次第である。

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紙の本袋小路の男

2009/02/21 18:30

ねじれた関係の切なさを描く文体

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絲山さんは、その独特の文体で、すでにすぐれた小説をたくさん書いている。だから、本書もそうした絲山さんによるすぐれた小説の1つだといえば、それはそうには違いないのだけれど、それだけでは収まらない何かがそれぞれにあって、もちろん『袋小路の男』にもある。独特といったのは、作品世界の世界観やモチーフ/主題に関わるものなのだけれど、すぐれた作家らしく、絲山さんの場合、そうしたことごとは「文体」に集約される。

絲山さんの「文体」は、この小説に関していえば、「距離」をかなり細かい陰翳をつけながら描ける、ということに尽きる。『袋小路の男』については、すでに概要は広く知られていることと思うけれど、そこに描かれた男女の関係は、一言で言い切れないものなのだ。たとえば「腐れ縁」、たとえば「純愛」、たとえば「報われない片思い」、いろいろ近そうなことはいえるが、それは近そうでしかなく、近いものですらない。それでも、あるいは、それゆえに、男も女も、ただひたすらに切ない。そして、絲山の小説のすぐれていて、そして不思議なところは、その切なさが、どのような理由によって生じたものなのか、論理的明らかにはならない点にある。いや、正確にいえば、論理的に説明不可能な何事かが、その「文体」によって鮮やかに示されてしまうところに、『袋小路の男』の絶妙なポイントがある。

そして、それはおそらく男女の距離と関わるのだろうけれど、地の文ばかりでなく会話文も多いこの小説について、何かしら(論理的な)分析を試みることは、なんというか、不毛な気がするのだ。つかず離れず、しかし過剰に近づき、求め、それでいて、体はおろか指一本触れない、それでいて老後の面倒をみることがリアルに想像できてしまう、そうした関係が、短くない期間つづく、──そんなことが、ありえるように、ふつうに考えるとなかなか思えない。しかし、この小説を、この「文体」を読む限りにおいては、ごく自然に納得してしまう。そこに、絲山さんの素晴らしさがあるのだ。

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紙の本宿屋めぐり

2009/02/08 08:01

小説とはウソ=字なのだ!

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「小説とはウソ=なのだ!」と叫びたくなるような傑作、それがこの『宿屋めぐり』を読み終えての、快哉にも似た感動である。

もちろん、町田康一流の語りは冴えている、こと、短文で投げすてるような文末の光彩はまぶしいほどだ。ストーリーもキャラクターも、いきいきとしてよどみなく、魅力溢れるものだといってよい。野間文芸賞という、大きな賞をもらったということもうなずける。しかし、こうしたことごとをいくら積み重ねても、『宿屋めぐり』の豊饒で乱暴な魅力にはたどりつくまい。

小説とはそもそも、ウソである。しかもそれは、そこに描かれたことが、現実/真実そのものではなく、何かしらのデフォルメを通している、といった良識的な判断の前に既に、ウソである。というのも、私達の現実世界の構成要素は、実に様々であるからだ。食べ物にせよ住処にせよ、それは物質から出来ているし、頭の中で考えることは思念とでも呼ぶべきものでできている。いずれ重要なのは、それらは「言葉」によって覆い尽くされた世界ではない、ということだ。(その一部として「言葉」は確かにあるが)だから、原則として「言葉」しか用いることの出来ない小説とは、それがいかにリアリティに富んだものであろうと、畢竟ウソであることを免れない。

恐るべきことに(というべきだろう)、町田康『宿屋めぐり』は、わかりきっていて、誰も口にしなくなったそのことを、小説内であからさまに公言してしまうのだ。その衝撃は、もはや小説は「言葉」だというのすらためらわれるほどだ。端的に、小説は「字」なのだ。「字」だけで、この世界に似た世界を描こうとする以上、それがねじれた世界であろうと、フィクショナルな設定であろうと、パラレル・ワールドであろうが、とどのつまりはウソに他ならない。そのことを公言した後になお、小説でありつづけることに耐え、しかも面白く読むことのできる傑作、それこそ『宿屋めぐり』なのだ。

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紙の本国語審議会 迷走の60年

2009/02/02 17:19

「国語」が自由であるために

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本書は、タイトルに掲げられたように「国語審議会」について書かれた本には違いない。ただし、筆者自ら述べているように、「国語審議会」は必ずしもよく知られたものではないし、我々の日常に身近なものでもない。だから、そういう本だと思って素通りしてしまいがちであろう。だが、その審議会が議論してきたのは、他ならぬこの「国語(日本語)」なのである。そうなれば、一挙に問題は身近なものになるはずだ。このレビュー自体、日本語で書かれているのだし、これを読む人(読める人)は日本語を理解している人であるのだから。

とはいうものの、一方で、「国語(日本語)」はここしばらくブームであるとも言える。サイトウ某の本は相変わらず売れているようだし、水村美苗さんの本が話題になったのは記憶に新しい。研究としても、ナショナリズムとの関連をめぐって、90年代に入ってから、すぐれた成果がいくつもあらわれてきている。そこに、流行語や若者言葉、また、それらへの様々な反応はメディアを介して広く流通しているといっていいだろう。ワープロから携帯電話へというテクノロジーの展開に応じて、機械上での文字表記なども、昨今の「国語(日本語)」をめぐる、ごくごく身近な話題といってよいし、他方、地方見直しの大きな流れの中で、「方言」への注目も高まっている。

このようにみてくると、「国語(日本語)」をめぐっては、実にさまざまな興味から、それぞれのテーマ・領域で、盛んに議論が闘わされているようにうつりもする。ただ、ここで立ち止まって考えてみなければならないのは、その1つ1つは、本当に自由か? という自明視された足元に広がる根源的な問いである。そして、本書を読むことの意義は、私たちが日々の暮らしで日常の実用として用いている「国語(日本語)」が、いかに不自然で、作為的に形作られてきたものであるかを気づかせてくれる点に、まず求められよう。もちろん、そうしたことごとに気づかずに生きていくこともできる。それでも、知らないよりは知っていた方がいいことには違いないし、知ることで、「不自由」という自覚の元に、「自由」な「国語(日本語)」について考え、構想していくことが可能になるはずだ。本書「はじめに」の言葉を借りておくならば、──「ことばは、政策的に管理されてはならない」「さまざまな日本語が存在することを、混沌や混乱などとみなさないこと」、ここに本書の主張があり、その重要性を、必要性とともに解き明かしたものこそ、本書『国語審議会』なのだ。必読書というのは、おそらくこういう本をいうのであろう。

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身近な日本語を、ていねいに考える

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『「女ことば」はつくられる』の著者中村桃子さんによる本書は、ご自身が「あとがき」でその新しさを4点もあげているように、実に軽やかな発想から生み出された、斬新な切り口がなんといっても魅力的である。ここに列挙してみるならば、「日本語をセクシュアリティの側面から見た」・「日本語を消費社会の側面から見た」・「日本語には、特定の集団に特権を与えているイデオロギーの側面がある」・「『イデオロギーとしての日本語』という考え方から、『正しい日本語』に縛られた息苦しい状況を打開する方策を導き出した」、以上4点が、本書の問題意識を端的に物語りながら、清新な成果を指し示してもいる。

もちろん、最大の主題は、タイトルにも掲げられたように、性差をめぐる観点を、日本語の分析に持ち込み、新聞・翻訳書・雑誌記事・ハーレクイン・漫画など、実に多彩で日常的なシーンにおいて検証を展開した点に、まずは求められる。よい意味での大学教員らしく、分析を展開していく素材・目線が、とても門外漢にもわかりやすく、興味を引きつつ思考の機会を提供してくれるという、心地好い刺激をもたらすものとなっている。

さらに、そうした身近な日本語を素材とした検証を積み重ねながら、その根底にある理論的な問題意識をも、ごく自然な形で織り込んでくる筆致もまた、見事なものである。しかもそれは、外部から持ち込まれた新たな何かではなく、本書での議論から自ずとわき出してくる、何気なく見過ごしてしまいがちな日々の営みに実は潜んでいた、大きな問題なのである。

だから、本書は、まずは日本語論であるけれど、同時にジェンダー論ともなっていて、もっといえば(メタ)日本文化論となっている。本書が導いてくれる、実に見晴らしのよい(しかし、それゆえに多くの問題が見える)地平から、我々は、日本語を、ジェンダーを、日本文化を新しい角度から考え直していくことが出来るはずだ。そしてもちろん、その3つの作業は、本来、別立てすべきものではなく、「日本近代」のインフラとして深いところで繋がっているはずのものでもある。

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プロセスとしての戦争、思考としての問い

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本書は、近年の戦争論をリードしてきた感のある著者による、大学生に向けた講義の体裁を採った、新書本来の新書らしい内容の書物である。そのポイントは、戦争をめぐる過去の歴史を、点として捉え、考えることの不毛と限界を指摘した上で、いかにして(不幸と分かっている)戦争を始めるための諸条件が整っていったのか、そプロセス自体を改めて問い返していくというスタンスに、まずはある。さらには、「東大式」という副題に託された意味もある。それは、戦争をめぐる過去の歴史を、既定のそれとして受け容れてしまうことへの知的な抵抗、その重要性を再三にわたり説くところにある。既定と思われている事象を疑うこと、そのために、歴史記述に「問い」を見出し、なめらかに語られてきた歴史=物語にノイズを引き起こし、考えにくくなっていることを掘り起こし、自らの問いとして捉え直すこと。それはもちろん、プロセスの問い直しとも繋がる、本書の2本柱である。

してみれば、本書は、政治外交史の専門家による、戦争の実践的読み/語り直しであると同時に、戦争を如何に考え語るかについての、実践的な問い(思考)の連鎖でもある。だから本書は、単に読み物として読むのではなく、読者個々人が知識と想像力を生かして、問い返しながら本書を、日本の戦争をめぐる過去の歴史を考え直すことが求められた、そんな充実した新書なのである。

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