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けんいちさんのレビュー一覧

投稿者:けんいち

272 件中 61 件~ 75 件を表示

紙の本ベケットと「いじめ」

2007/01/21 15:17

演劇が照らす社会の病理=いじめ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「いじめ」は、社会問題としてクローズアップされるたびに陰惨なものとなり、かつ、その仕組みがわかりにくくなっていくようであるが、1980年代に書かれた本書は、そうした現代性を刻印された「いじめ」の解明に対して、今なお/今こそ、重要な手掛かりともなる一冊である。もちろん、ベケットの名がタイトルに掲げられていることにも明らかなように、それは同時に、演劇のドラマツルギーの秀逸な分析成果でもあり、つまりは、「ドラマツルギーを通じてある現象を解読する」ことを射程として本書は構成されている。
別役は、1986年の「中野富士見中学事件」を具体的に取りあげながら、「いじめの問題はわれわれの現在の対人関係においてかなり基本的な事柄を含んでいる」という見通しの元、その人間関係(のメカニズム)にメスを入れていく。そこ(学校や教室など)では、いつしか「近代的個人」をベースにしたものとは決定的に異なるドラマが誕生しているという別役は、「個人が主人公ではなくて、関係が主人公」となり、個々は互いの境界線を溶解させて、多くの共有部を深層において抱えていくのだという。その深層での関係式に基づいた表面的な言動が関係を形作り、動かし、時には「いじめ」をもたらすというのが別役の指摘のポイントで、極端な話、個々人には個人としての言動を成立させる土壌がもはやなく、ただただ人間関係のメカニズムに組み込まれた1コマとして、その関係に1つの数値を代入していく存在でしかないというのだ。(従って、主体の意図は、メカニズムを経た後にしか顕現せず、意図通りの効果をもつことは極めて困難。というより、端的に予測不可能である。)
おそらく、「心の闇」といった比喩で語ら、家族関係や地域関係が問題化され、あるいは教室という閉鎖された空間で教員までもが「いじめ」に荷担するといった現代に特徴的な事態は、こうした“主人公の劇的な転換”に起因するとみてよく、こうした「いじめ」現象の構造分析から、ようやく対策も緒につくと思われるが、別役実はこうした知見を、サミュエル・ベケットの戯曲、『行ったり来たり』、『わたしじゃない』などの分析的読解を通して得たようであり、そのドラマツルギーは今日ますますリアリティを以て立ち現れてくるようですらある。つまりは、“ベケットに時代が追いついた”ということに他ならない。ここに、本書の独自の位置と価値があり、「人」を主題としてきた演劇の、社会的な有用性が改めて確認されもするのである。

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紙の本真鶴

2007/01/01 16:53

「心境小説」のような境地

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

かつて(あるいは今も)、近代日本文学史には「心境小説」という一種のジャンル(あるいは態度)があって、それは基本的に作家が自分自身の身辺を素材にとりながら深く内省したものを「そのまま」小説に書いたものをひとまず「私小説」と呼び、中でもそこに書かれた作家精神が崇高で透徹された精神であるものを「心境小説」と呼ぶ。ずいぶん前に流行り、叩かれ、そして(一般的には)廃れたものなのだけれど、川上弘美の『真鶴』とは、紛れもなく現代小説でありながら、あるいは「心境小説」の境地に到達してしまったかのような稀有な達成に思われる。
確かに『真鶴』と題されてもいるように、小説内の「真鶴」は現実と非現実、あるいは過去と現在の混じり合うような境界としてのトポスをなし、そこへの往還を通してイニシエーションを経るかのような主人公「京」は、冒頭で抱えていた問題をクリアして結末に至るかのようにみえる。しかし、『真鶴』という小説は、こうした物語を主線とした要約によってはおよそ読めたとは言えず、その網目からこぼれ落ちるものばかりがページを満たしている。
ページを満たしているものはといえば、さしあたり、被修飾語との安定した関係がわずかずつズラされた形容詞の数々──こい、うすい、つよい、よわい、やさしい、こわい、おもい、…──であり、やはりスムースな文章を断ち切り別の何かと接続していく俳諧を思わせる、助詞を強引に排して多用される句読点であり、そこにまぶされるのは、やわらかさの裏に残酷な陰翳を隠し持ったかのようなひらがな、である。こうした文体で描かれていく『真鶴』に配置された、喪失感や失踪や疑念や謎の女などプロットになりそうなもろもろは、どこかを目指すこともなければ何かを招き寄せることもなく、文体はただ「京」のまわりを漂い、そこにまとう何かを描き出す鏡のような役割をただただ果たしていくことで、リアルといえばあまりにも生々しい仕方で「京」の心境ばかりが差し迫ったもののように浮き彫りにされていく。
こうした相貌をとらえて川上弘美の『真鶴』を季節はずれの「心境小説」と呼んでみたのだが、もちろん『真鶴』は「心境小説」の最も重要にして不可欠の条件である「作家=主人公」という等式を内蔵していない純然たるフィクションであるには違いなく、にもかかわらずこうした世界を描き切ってしまったことを思うとき、読者もまた「思い出せるけれど、でも、思い出せないの。」と「京」に倣って嘯くしかないような小説として、『真鶴』はある、しかも確かなものとして。

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紙の本江戸川乱歩傑作選 改版

2004/02/25 21:43

反=文学史

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 乱歩初期の名作を中心に収録した本書は、文字通りの名作揃いである。それは、単に探偵小説としてではなく、「文学史」においてもなお、大正期の純文学短編などとも拮抗するレベルを備えた、密度の濃いものであると思われる。しかし、新潮文庫が、乱歩をアンソロジーの形で1冊しか出版していないことにも示されているように、マーケットは別としても、「文学史」的には、いまだ日の当たらない位置に置かれているように思われる。
 しかし、光文社の文庫全種などの刊行をみるにつけ、その小説本来の評価が、そろそろなされ始まっているようでもある。おそらく、そこで読み直される乱歩は、単に乱歩ワールドの再発見・再評価にとどまらず、様々な局面で従来の「文学史」に疑義を突きつける、刺激的な小説としてその姿を現すだろう。

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紙の本心と響き合う読書案内

2009/07/25 23:08

小説家の読み方

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小川洋子さんは、もはや押しも押されもせぬ「人気・現役・女性・作家」である。小説を書く人、しかもすぐれた作品を書いて、多くの読者に読まれるような小説家とは、逆にどのように小説を読んでいるのか、というのは、一読者にとっては興味深いポイントである。その意味で、本書は、小川洋子さんの小説の読み方を、包み隠すことなく示したハンディな本として、まずは興味深い。

もちろん、これまでにも、エッセイの中でそうした片鱗を示してはきた小川洋子さんであるけれど、これほど、多くの小説を、その読み方とともに示した小説はなかったのではないか。しかも、すぐれた小説家として当然といえばそうなのですが、読書案内でもある本書の文章がまた、読みやすく、かつ、読者の興味をひくように書かれている。

そう考えてみると、当たり前のことではあるけれど、小川洋子さんとは、すぐれた書き手であると同時に、すぐれた読み手であったのだ。そもそも、『アンネの日記』を読むことから、小説の魅力を知り、小説を書くことを目指してきた彼女にしてみれば、それは自明のことだったのかもしれないけれど。

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紙の本和本の海へ 豊饒の江戸文化

2009/06/15 20:00

「海」へ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「和本」は、著者がていねいに説明するように、明治になるまで日本で蓄積されたあらゆるジャンルの「知」を集積してきたメディアである。それは、単に古いものというだけではなく、今やわれわれから遥か遠ざかってしまっており、そのことを著者も嘆いている。そのポイントを、著者は「和本リテラシー」と呼んでいる。要するに、昔の人が、筆で書いた文字を読めるかどうか、ということである。その力が、今やなくなってしまっただけでなく、そのことが惜しいとすら思われなくなってしまったという。具体的にいえば、確かに「字」を読めるかどうか「だけ」なのだけれど、それは正確ではない。その「字」を書き/読む、ということは、明治以前の「知」を基底する諸条件を知り、体感し、運用するということに他ならない。逆に言えば、和本の「字」が読めれば、「和本リテラシー」が獲得できれば、実に多くの世界=「知」が見えてくるはずなのだ。そのためには、著者の卓越した比喩通り、和本の「海」、その文字の「海」へと泳ぎ出すことしかない。

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アメリカ・文学・戦争

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「アメリカは新しい国である」、というの云い方が歴史的な事実確認ではなくなってずいぶんになる。少し前には、アメリカこそが〈帝国〉なのだ、という云い方が、多様な文脈から盛んに行われたが、オバマ政権となった今日においてもなお言えることがあるとすれば、やはり「アメリカは新しい国である」ということくらいだろう。ここにいう「新しい」とは、そのまま「理解不能」と同義である。「アメリカはわからない国である」。

アメリカが新しくもわからない国であるとすれば、そのポイントは「文学」にある。それは、そのポイントは「戦争」にある、というのと同義であることを看破したのが、本書である。その意味で、本書はきわめてシャープな政治感覚にくわえ、豊かな文学的教養、さらには戦争への敏感な感受性を併せもつ著者を待たなければ書かれること叶わなかった一書である。

おそらく、新しいと云えば、新しいものの1つは今日まちがいなく戦争だろう。そこには、最先端の技術が導入されるのみ成らず、さしあたりは「戦争」と呼ばれてしまう現実は、そのつど新たに発見されるものに他ならないのだから。その意味で、アメリカは戦争に関するハウ・ツーを蓄積しながらも、そのことによって戦争を有為=優位に行うことができずに今日に至る。同じ事は、アメリカの文学についても云えるだろう。

ならば、戦争に関わる文学を考えてみたらどうだろうか。そのことによって、事態が一挙にクリアになることもなければ、何かしら現実に働きかけると云うこともないだろう。それでも、「アメリカ・文学・戦争」について考えてみなければ、大国のナイトメアは、すぐにもわれわれの日常となるだろう。それを避けるための思考の糧として、本書はある。

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みずみずしい、音楽への思い

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すでに、芥川賞作家として、テレビ・新聞報道でその名が全国区になった感のある津村記久子さんだが、いささか社会色が濃く、微かな希望を携えつつも、やはり暗い世相を想起させがちな芥川賞受賞作『ポトスライムの舟』にくらべて、こちらの『ミュージック・ブレス・ユー!!』は生き生きとしていて、明るい印象が強い。

あまり知られていないかも知れないが、この作品だって、野間文芸新人賞という、村上龍や村上春樹がとった、大きな賞をすでにとっているのだ。津村さんらしさというのは、これから作品が書き継がれていく内にいよいよ明らかになっていくのだろうけれど、さしあたりポジティブな側面は、本作で堪能できるように思う。また、現代に生きる現役女性作家が書いた小説として、本作は時代の刻印を、よい意味で背負った記念碑的な作品でもあると思う。

かつて中沢けいがいて、最近には綿矢りさがいたように、あるいはそうしたセンセーショナルな若さはないにせよ、『ミュージック・ブレス・ユー!!
』というみずみずしいこの作品には、文字通りの「現代」が息づいている。

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紙の本平成マシンガンズ

2008/08/22 12:01

日常というバトル・フィールド

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『平成マシンガンズ』、この本は、タイトルも小気味よいし、装幀もカッコいいのだけれど、やはり文芸賞とか受賞年齢とかに関係なく、何よりひたすらに小説として素晴らしい。言葉が、カユイところを見事に掻いていく。

古き良き(あるいは、悪しき)文学に比べれば、『平成マシンガンズ』の文章は「軽い」し「薄い」よみに見えもするだろう。だけれども、かつてと書くべき事柄や、それらに対する「感性」が多き変わっていることを忘れてはならない。何より、この主人公にとっては、学校や家庭といった日常を形作る環境それ自体が、大げさな言い方でも比喩としてでもなく、ただしくバトル・フィールドなのだ。そこで、何を感じ、どう振る舞い、何を選び何を失っていくのか、その切実な「大事件」として、日常は、ある。そうした新しい現実を書くのに、かつての文学の言葉は、あまり役に立たない。

三並夏の文章は、スピード感もある上に、そのリズムの内に、またたくまに、上記のような環境を生きる主人公の「現実」を、リアルなそれとして巧みに捉えていく。内容のセンセーショナリズムに気を取られすぎる必要はない。デビュー当初の綿矢りさにも比肩しうる、この見事な文章を、現代文学のそれとして、まずは正当に評価すること。その上で、このバトル・フィールドの戦慄を味わうこと。それはこの時代の息吹を感じることでもある。

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紙の本回送電車

2008/07/08 22:59

回送電車としての文学、あるいは繊細豊饒な散文

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

堀江敏幸の文章は、ひとえに素晴らしい。その素晴らしさは、例えば、小説やエッセイといったジャンルを軽やかに乗り越えていき、彼の綴る文書は「散文」としての地位を確立している。本書『回送電車』も、そうした堀江氏一流の散文が織りなす、急所を突きながらも繊細、静謐でいながらも豊饒、といった珠玉の散文集である。

こと、タイトルにも冠された「回送電車主義宣言」は、上記の散文の醍醐味を、文学あるいは文学を愛好する者の生き方として綴った一文として、特筆に値する。そこには、無意味な様でいながら、その存在なくして普通電車も急行電車も「運行」し得ない、回送電車の慎ましやかな、しかし不可欠のありかたが、文学的なるもののアナロジーで、鮮やかに描き出されていく。

また、随所にみられる近代文学・作家へのオマージュも、実に巧みな挿話とともに書き綴られ、氏の引き出しの豊かさをうかがわせずにはおかない。暑くなる夏の日々に、気持ちを涼やかにしてくれる一冊である。

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紙の本信長

2008/06/29 22:58

痛快な歴史小説

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これは痛快な歴史小説である。

坂口安吾は、「堕落論」や「白痴」など、いわゆる純文学の世界で活躍した作家であることは間違いないが、探偵小説も書いているし、歴史小説も魅力的なものが多い。特に、戦後、新聞に連載された本作『信長』は、信長という人物の個性と魅力を、その独特の文章でイカンナク描ききっていて爽快ですらあるし、ラスト、ぐぐっと盛りあがる速い展開とそこでの信長の行動は、読むだけでも痛快この上ない。

安吾の文章とは、あけすけな感じだ。腹の探り合いをする武将たちを、その腹の奥の奥までみすかして、それをカタカナやひねられた短文をサッと抉り出すように書いていく。リズムもよく、軽妙で切れ味の鋭い文章は、この時代のミもフタもない下克上の世界(観)と、その中での信長の勇猛振りを描いて、実に自由に羽ばたいているかのようだ。

シバリョウタロウやフジサワシュウヘイもいいかもしれないが、義理や抒情が暑苦しく感じられた時には、こんな痛快な歴史小説が最適だろう。

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紙の本ケータイ小説は文学か

2008/06/25 20:00

ケータイ小説の紹介・分析と位置づけ

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

石原千秋さんは、テクスト論(小説の内在的な分析技法)を駆使する漱石の研究者であると同時に、受験国語や国語教科書についての本をたくさんかいてきた人だ。その石原さんが、新聞の文芸時評担当をきっかけに「ケータイ小説」についての取材を受け、その体験から構想・執筆されたのが本書だということだ。世間では「ケータイ小説」のセールスが喧伝されると同時に、それに批判的な意見も多くみられるようで、本書の『ケータイ小説は文学か』というタイトルは、本文につけられた秀逸な小見出しとともに、読者の興味の中心を外さずに、ていねいにその答えを提示していくための導きの糸となっている。

本書は、サンドイッチ型の構成を取っており、大まかにいって2つの味わいを楽しめる。1つは、冒頭(1)と結末(6)、つまりはパンの部分で展開される、現代文学のなかに「ケータイ小説」がどのように位置づけられるのかを、文芸批評風に論じたパートである。これは、もう1つはその中間部、いわば具の部分で展開される、具体的に「ケータイ小説」をとりあげて分析していくパートである。ここで中心的にとりあげられるのは、Yoshi『Deep Love』、Chaco『天使がくれたもの』、美嘉『恋空』、メイ『赤い糸』の4作で、それぞれそのストーリー要約の提示と合わせて、「ケータイ小説」に特徴的な共通する要素があげられ、小説としての仕掛け・方法が分析されていく。その際、セカチューや『ノルウェイの森』とも比較され、石原さんの「小説研究者」としての技量がいかんなくはっきされている。それぞれのパートが、お互いを補うような関係として、つまりは「ケータイ小説」の内側と外側からみた「ケータイ小説」とが論じられることで、立体的な輪郭が浮き上がってくるというのが、本書の工夫だ。

あまりにたくさんの本を書いている人だから仕方ないのだろうけれど、『謎解き 村上春樹』の引用・参照が目立つきらいがあるが、上記の2つの面から「ケータイ小説」をひとつかみに提示して見せた本書は、「ケータイ小説」が現役であり続けようと、はたまた過去の出来事として急速に衰退することになろうとも、今後もこのテーマについて考える際の重要な道標であることは間違いない。

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紙の本ケータイ小説のリアル

2008/06/25 15:37

よくわかるケータイ小説の舞台裏

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

杉浦由美子さんは、フリーのライターさんであるという。フリーライターの、「よい仕事good-job」というのは、例えばこんなものだろという、お手本のようなものとして、本書をお薦めすることができる。それはもちろん、「ケータイ小説」についても、フェアな視点から、じつにさまざまのことがわかるということだ。

本書は、「ケータイ小説」について、それが議論される時にたいていついてまわる先入観をまっさらにしたところから出発する。目の前にあるのは、「ケータイ小説」がよく書かれ、よく読まれ、よく売れているという、その事実である。もちろん、そうした「ケータイ小説」現象に対する、さまざまな評価や批判も、事実として付け加えられる。杉浦さんは、そうした現実、とはいえその具体的な内実よりはイメージが先行する現実を、徹底した「取材」によって1つ1つクリアにしていく。「取材」の対象は、書店員であったり、出版関係者であったり、いわば、商品としての「ケータイ小説」を実際に扱っている人たちだ。そこから、「ケータイ小説」の現在が、鮮やかに浮かび上がってくる。(それは、冒頭の、活字ばなれ論に対する批判に、すでに鮮やかに予告されている)

また、「ケータイ小説」と関連づけられた世間で受け取られている、『電車男』やブログや携帯サイトとの関連などについても、ていねいな解説とともに、その違いを説明してくれる。そうした「取材」に基づく杉浦さんの考察で重要なことの1つは、「ケータイ小説」に関わる現代社会の特徴として「読む消費」から「書く消費」が生み出されたという指摘である。たいへん説得的なこの指摘は、多くの現代文化を考える際にも重要なヒントとなるだろう。また、タイトルに冠された「リアル」についての議論もまた興味深い。『恋空』とその実際の読者層、実際の感想をもとに展開される議論では、「ケータイ小説」の「リアル」の独特の様態が解き明かされる。それは、いわゆる現実世界との近似性の高さに基づく「リアル」ではなく、性的な人生経験の少ない若年層読者にとっての「妄想の中のリアル」だというのだ。こうしたしなやかな分析を可能にしたのは、杉浦さんの徹底した「取材」であると同時に、「ケータイ小説」へのフェアなまざなしであることはいうまでもない。

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紙の本反復

2008/06/21 21:27

アンチ・ロマンのパルプフィクション

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ロブ=グリエの、20年ぶりだという小説をようやく読む機会を持てたことそれ自体が、まずはこの上なく喜ばしいものであったことを告白しておくことからこの書評をはじめることをお許し頂きたい。

というのも、他でもない、ロブ=グリエは、かつて(あるいは今も)アンチ・ロマンの旗手として、小説の制度性に果敢に挑んだ前衛的で、その上、知的興奮を誘う小説の書き手だったのだから。

そして、『反復』では、そんなかつてのアンチ・ロマン信奉をすら嘲笑うかのように、推理小説を、パルプフィクションよろしくパロディとして料理し、しかもその中で、やはり註と語りを駆使した小説の冒険をやめてはいない。端的に、面白かった。それで十分である。

最後に贅言代わりに、本編最後の一文を引いておきたい。

《つねにすでに口にされた古い言葉が繰り返され、つねに同じ古い物語が世紀から世紀へと語られ、またしても反復され、そしてつねに新しい物語となる……。》

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紙の本楡家の人びと 改版 上巻

2008/06/10 21:52

あり得べき長編小説

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

だから、長編小説というのは、こういう小説を指すのであり、こういう小説こそが長編であることの存在理由をたたえた長編小説なのだ。三島由紀夫の著名な絶賛評も、三島が構築的な小説を志向していたことを思えば、実に当然のことなのだ。もちろん、裏を返せば、これはヨーロッパ小説へのコンプレックスというかオブセッションなのかもしれないが、『楡家』は、そうした水準を乗り越えた傑作といえる。何より、広い視野を保持したまま、まさに「人間味」としかいいようのない細部まで描かれているのだから。今後も尚、長らく文庫にキープされ、多くの読者に読まれることを願ってやまない。

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紙の本ノルウェイの森 上

2008/06/10 21:49

物書きとして誠実であること

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『風の歌を聴け』にも書き込まれていたように、村上春樹は文章それ自体の役割と限界に──どちらにも公平に──実に誠実な作家であるといえる。それは、『ノルウェイの森』冒頭の、直子との記憶とそれを書くことの困難を書いた件に、如実に表れているといえるだろう。さらに、村上春樹は、こうした誠実な文章への姿勢から、小説それ自体も形作られていることを見過ごしてはならないだろう。思い出せないけれど、骨にしゃぶりつくように、書けることをなるべく正確に書く、そこから『ノルウェイの森』の物語は始まるのだし、それがなければ物語が始まることはなかったのだ。

『ノルウェイの森』はもちろん回想小説なのだが、それは技巧的な問題としてではなく、この物語の要請であると同時に、作家の姿勢が自然に導いた当然の成り行きでもあったのだ。そこから紡がれる物語は、きわめてプライヴェートなもので、実に繊細な様相をもつ小説である。だから、これは感傷的な小説にはちがいないのだが、それはすぐれて戦略的な小説でもあるのだ。してみると、この小説の成功は、ひとえにその誠実さにあったといえるのかもしれない。

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