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けんいちさんのレビュー一覧

投稿者:けんいち

272 件中 91 件~ 105 件を表示

世界の終わり

2008/07/13 23:19

世界は、明るく楽しく、そしてふつうに終わる/続く

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『世界の終わり』は、文字通り「世界の終わり」をモチーフにしてはいるのだけれど、それは本来の言葉がもつ意味の暗さを、少しも抱えてはいない。だから、この小説は、どこまでも明るく楽しく、それでいながら、日常の延長ですらないすぐそこに、「世界の終わり」が、ただそれとしてある。現代美術で喧伝された言い方をかりるなら、ここに盛り込まれたことごとは、スーパーフラットな平面に、並置される。並置するために、文章は断片化されれうが、それは、主人公=作家?の認識=感覚の断片化をも表現しているはずで、その上、実にすみずみまでこの小説には「新しさ」があふれている。

文章も新しいし、その感覚も新しい、スーパーフラットな平面に、言葉本来の意味では偏差をもった言葉が次々と並置されていくことも、もちろん、新しい。これら、本作を読めば、そりゃそうだという感じで書かれてはいるのだけれど、実際にこうした小説を構想したり書いたりすることは、それを後から読む者には想定できないような、大きな困難があったはずなのだ。そんな「新しさ」なのだから、「世界の終わり」もまた「新しく」表現される。このまま、世界は終わるのであり、それと等価な任意の選択肢として、ただ続くのかもしれない。

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フリーターにとって「自由」とは何か

2008/07/06 21:16

ものを考えるということ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まずは、「フリーター」や「杉田俊介」といった名前抜きに、この思考のスタイルそれ自体に感動を受ける。それはもちろん、単に感傷的な「感動」では全くなく、ものを、しかも現在進行形の現代史といった、考える対象として困難この上ないものを、いかに考え、その上、ていねいにかくということに関わる感動である。本書は、そうしたものを考えるスタイルの、誠実かつ知的な達成とって過言ではない。

とはいえ、従って、「フリーター」という検討対象も「杉田俊介」という書き手とも無縁ではない。というよりむしろ、この2つの密接不可分の要素が邂逅することで、本書の達成は成し遂げられているはずである。若者論をはじめとして、ニートやフリーターは、乱暴に過ぎる議論や、データに溺れるかのようなデータ論が横行している。あるいは、ロスジェネ左翼が固定された視点から繰り出す、いささか角の取れた愚論。こうした中、本書の特異点は、知的な水準の高さと、明確な問題意識を抱えながらも、論旨を振り切ることを最後まで留保して、あたう限り誠実に現実を見極めていこうとする。この姿勢に感動することは、実は現代社会を生きるための手がかりともなる。

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グレート生活アドベンチャー

2008/06/27 07:39

スケールの小さいアドベンチャーという逆説

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

前田司郎は、もはや「作家」なのかもしれない。
劇作家だという肩書きを抜きで、その小説は読むべきに思える。

本作『グレート生活アドベンチャー』は、一言でいえば「スケールの小さいアドベンチャー」である。
もとよりこれは逆説なわけだが、それを成立させる戦略と技巧が、ここにはある。

1つには、ゲームやマンガの物語を、日常と同じ平面で捉えてみること。
これによって、ゲームの中の「魔王」の滑稽さが明らかになる。
これによって、マンガを読むことや書くことが小説の中身にできる。
これによって、主人公の置かれた境遇のまずさ(無職・無収入)があっけらかんと語れる。
これによって、これまでの「物語」すら、なしくずしにできる。

1つには、ものごとの大局を見ないということ。
これによって、生活の細部が虫眼鏡でみたように拡大される。
これによって、一般的な価値の高低が、よくわからなくなる。
これによって、主人公の置かれた境遇のまずさ(無職・無収入)があっけらかんと語れる。
これによって、これまでの「小説」より、新しくなれる。

こうして、「スケールの小さいアドベンチャー」は、無職の30男が、恋人の家でぐだぐだするだけの話でありながら、何かしらすぐれた小説として、世間に通用していく。

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ニッポニアニッポン

2008/06/19 21:12

ゼロ年代の成長物語

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は「ゼロ年代の成長物語」とも呼ぶべき傑作であり、作家阿部和重の力量を、凝縮して放出した密度の濃い現代小説である。主人公は、端的に犯罪者と呼びうる経歴を、幼くして纏う、その意味で旧来の社会的枠組みにおける不適合者には違いないのだが、それゆえに、現代性をよりよく体現しているといえよう。しかもそこには、単純な家族関係ばかりでなく、多分に咲くカルチャーのフレームを通した恋愛対象や、インターネットが、抜きがたい参照項として密接に関わっている。

ここでは、物語の成就と主人公の成長がパラレルに語られていくのだが、それはいかに倒錯していようが、やはり「ゼロ年代の成長物語」にふさわしい細部と速度をもったものには違いなく、それゆえある種の貧しさも含めて、これが我らの世代の文学なのである。現実を参照しながら現実を超えたフィクションの力は、ここに明らかにされた。

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光ってみえるもの、あれは

2008/06/19 15:30

シミシミした感じ

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

川上弘美が、(分量的に)ながい小説を書いた。その嚆矢となったのが、本書であり、それは新聞の連載小説だった。「神様」のような、みじかくて素晴らしい小説を書いてきた川上弘美だから、周囲は不安を感じもしたが、それは杞憂に終わり、こうして目の前には『光ってみえるもの、あれは』がある。

高校生を主人公とした本書は、川上弘美らしい「妙」な登場人物を絡めることで、どっぷりと日常につかった小説世界を、いつしか非日常的なものへと導いていく。しかもそれは、日常のリアリティを失うことないままに。そこには、連載形式が要請する断片化が、うまく関わっているように見える。淡々とした日常、区切られる展開、そのことで、速度があがらずに、盛り上がりもこまぎれな中で、それでいて(物理的に)続いていく小説。それは、あたかも、日々を1日くぎりで生きる私たちの営みのようではないか。

感触としては、綿矢りさの『蹴りたい背中』を思わせもする本書だが、やはり一番異なるのは独特の語感で、「シミシミした感じ」などはその最たるものだろう。ゆるく、ひらかれた青春小説、それが本書だ。

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ノルウェイの森 下

2008/06/10 22:02

(記憶の中の)直子の美しさ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

甘美な小説というのがあるのだとしたら、『ノルウェイの森』はまずその筆頭にあがる現代小説といってよいだろう。もちろんそこには、実に多くの困難な課題が描かれ、すべての登場人物がそれぞれの影を背負ったまま幕の下りる小説ではあるに違いない。それでも、それらは、実に多くの登場人物が死に、あるいは過去のそれとして距離(時間的な隔たり)がつくられることによって、ロマンチシズムを生成していく。しかもそれが、屈折した恋愛をメイン・モチーフとしているならば、なおさらのことである。

中でも特筆すべきは、直子の美しさではないだろうか。それは、描かれた作中の直子、月光を浴びた直子の裸の身体の美しさであると同時に、記憶、それも夢のような記憶として描かれたその表現の仕掛け自体が、この美しさをたたえているように思われる。それは、端的に、現実という保証すらなく、そのことで夢幻の空間にただよう、絶対的な「美」なのだ。それだけでも、『ノルウェイの森』の文学的価値は保証されようし、彼女を軸として恋愛模様が描かれている以上、この美しさは現代女性文学、最大の見せ場の1つといっても過言ではないのだろう。

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「近代の超克」とは何か

2008/06/07 17:32

「東アジア」から竹内好を再発見する

6人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『現代思想』連載時から注目していた子安宣邦氏の思考が、『「近代の超克」とは何か』としてまとめられたが、本書の主題は、端的に〈「東アジア」から竹内好を再発見する〉ことにある。ここにいう「東アジア」とは、著者が「あとがき」で述べるように、他ならぬ現在の世界的な政治的・経済的展開に基づく。そして、対米英戦開戦を契機とした「近代の超克」の思想的核心を、逆説的ではあるが、そこに掬い取られなかった「中国」にみる。従って、本書を通読すれば、その思想のテンションの高まりにも明らかなように、竹内を中心に据えた「3」が圧倒的なおもしろさをもっており、極端に言ってしまえば、そこまでの「近代の超克」をめぐる議論は前提なのだ。

先走った議論を戻し、本書をはじめから読んでいくならば、そこで展開される作業は、著者自身の言葉を使えば「辿り直し」である。「近代の超克」という標語が時代の画期を成した文脈を提示し、そこに京都学派や日本ロマン派の思想的身振りや言説が、分析的な批評を伴って再配置されていく。もちろん、この段階から、支那事変には並々ならぬ視線が注がれ、「近代の超克」に関する議論を通して、「中国」が素通りされた事実を、竹内好とともに強調しては行く。

ただし、それが著者自身の、現代にコミットする闘争的な思想として前景化されていくのは「3」に入ってから、特に、竹内好と直接的に向き合って以降である。そこで展開される議論は、溝口雄三『方法としての中国』などを補助線にしながらも排し、そうすることで自ら賭金をつり上げるような仕方で、文字通り危機的/批評的(クリティーク)として歴史と現在とを、残された言葉を手がかりに往還していく。その帰結として果たされるのは、〈「東アジア」から竹内好を再発見する〉ことであり、従って、『「近代の超克」とは何か』と題された本書は、その内容に即して言いかえるならば『「近代の超克」から中国/竹内好経由でわれわれが今学び得るものとは何か』とでも称すべきなのだ。

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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻

2008/06/05 17:12

折りたたまれていく物語

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村上春樹は、内向的な作家である。いかに、ポップカルチャーに表層を覆っていようが、たとえば『羊をめぐる冒険』のような、冒険の対象として「喪失」を選ぶことにも安住することなく、さらに内向していく。つまりは、自分の心の中の世界へと、その冒険の矛先を向けていくのだ。特に、本作では、その心の中の世界を、主人公自らが作り、そこから脱出するチャンスすら用意しながらも、やはり、その世界の「森」にとどまることが選択される。もちろん、その意味で選択は、たいへんな決断を要する者であったのだが、他方でそれは内向のベクトルに即して、そこに新たな女性の心を見いだすことで、外部が希求されることはおろか、むしろ内へ内へとそのエネルギーは折りたたまれていく。その先が「森」であることは、『海辺のカフカ』はもちろん、長編でいう次作に当たる『ノルウェイの森』との関連を考える上でもたいへん興味深い。

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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻

2008/06/04 15:15

「心」へのナイーブな接近

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一ひねりされた上での続篇という位置づけをもつ『海辺のカフカ』を目にしている今となっては、その原点とされた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、ずいぶんとシンプルな物語にみえる。もちろん、Wプロットによる同時展開していくストーリーは、いつもながらの洗練された職業、クールな人柄の主人公を軸に、「謎」をドライブとしてぐんぐん加速していく。その面白さは、当代屈指といってよいだろう。しかし、一方で、『ねじまき鳥クロニクル』以降ドギツクせりだしてくる暴力も、『ノルウェイの森』で一挙に前景化される性も、ここには、淡々とした形でしか描かれることはない。そうではなく、では何がメインに描かれているのかといえば、それは「心」である。作品全体、あるいは村上春樹という作家を考えれば、それを無意識を構造化した「精神」とも呼び得るのだろうけれど、ここではさしあたり「心」として提示される。しかもそれは、さまざまな仕掛けや隠喩を用いる村上文学にあって、異様なほどにナイーブなに描かれている。だから、この小説はタイトルやイメージに反して、たいへん内省的で、かつ「暗い」印象をもたらす小説であるに違いない。にもかかわらず、現代の読者がこの小説に惹かれ、時を隔ててなお、いよいよますます魅力的にみえるのだとしたら、それは、近年いわれるような「社会の心理学化」が進行した結果なのだろうし、それは個々人のレベルでも起こっている事態なのだともいえる。その意味で予言的に「心」をテーマにし、ナイーブに、それでいて切実に接近した、早すぎた「ゼロ年代」の小説なのかもしれない。

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羊をめぐる冒険 下

2008/06/04 12:05

「喪失」をたどりなおすこと

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

デビュー当初から村上春樹は、今日喧伝されるのとは違った意味で、「ロスト・ジェネレーション」への感傷的な追憶を文学化し続け、しかも広範な読者を得てきた稀有な作家であるわけだが、その一方の極が『ノルウェイの森』だとすれば、『羊をめぐる冒険』は他方の極と言えるだろう。前者が、プライベートな「喪失」をめぐる感傷なのだとしたら、後者はパブリックな(世代共通の)「喪失」をめぐる冒険だといってもよい。ただし、この「冒険」は、言葉本来の冒険ではなく、結末近くで明らかになるように、実はしかれたレールを辿るだけだったというすぐれて逆説的なもので、その徒労感は喪失感にも通ずる。

今、徒労感といい喪失感といったが、そもそも、『羊をめぐる冒険』は豊穣な徒労の物語であり、それは喪失(感)を体現し、実感していくための物語である。それは、作中の主人公に限られた話ではなく、こうした長大な物語を「喪失」(の追認)のために書いた村上春樹にもいえることだ。こうした偏在する「喪失」のテーマは、作中の黒服の男の次のようなセリフに端的に示されるところのものである。

「私の望みは失われてゆくものをこの目で見届けることだよ。」

だから、というべきだろう、『羊をめぐる冒険』を読む読者もまた、「失われてゆくものをこの目で見届けること」を望むかのようににこの小説を読むことになるのは必至だし、その果てにあるのは、「喪失」の再確認であり、その帰結としての徒労感である他はない。それにもかかわらず、この小説が魅力ある者であるのは、我々もまた「喪失」をたどりなおすことに、甘美な感傷を見出しているからなのだろう。そこに、村上文学の価値がある。

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芥川賞全集 第17巻

2008/06/02 19:17

おどるでく

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

強力なラインナップである。特に、「難解」系笙野・室井と、「自意識過剰」系の柳・辻が示す、「現代文学」の広がりは、圧巻といってもよい。その上、「ゆるい」系作家として保坂・川上が配されてもいて、実に豊かな教の「現代文学」の萌芽的縮図のようになっている感さえある。

それはそれとして、室井光広の「おどるでく」が、市販の流通では本書でしか読めないのは、たいへん残念なことであり、それゆえ、そこに本書の存在意義も求められることになると思う。いたずらに難解なのではなく、素朴なこだわりから出発した文学的営みの1つの歴史的形態として、「おどるでく」がもっと読まれてもよいのではないかと思う。

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ライトノベル「超」入門

2008/05/14 22:07

実作者による「ライトノベル」論

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ライトノベル」なるものが、読書界の話題となり、書店でもコーナーができるなど、いよいよその存在感を増していることは、誰の目にも明らかである。にもかかわらず、その内実や特徴は、よく知られていない。いや、正確に言えば、「ライトノベル」に関するムックなどは実に多く出版されているのだけれど、それは「ライトノベル」を自明のものとする人たちが楽しむことには役立つかもしれないが、これから「ライトノベル」にふれようとする時にはほとんど参考にならない。そんな時、驚くほど役に立つのが本書である。

本書は、ジャンルでもなく、いわゆる「定義」などしようもない「ライトノベル」の実像を、曖昧模糊とした様態そのものとして、平明に描き出していく。そもそも、現在進行中の文化現象について、回顧的・確定的な視線から、厳密に書くことなどできないし、無理にそうしようとすれば、多くの「例外」や「スルー」を余儀なくされてしまうだろう。そこで、本書がとる戦略は、実作者として「ライトノベル」の渦中にあって、その内部からみえてくる「ライトノベル」のさまざまな面を、時には大まかな「つかみ」として、時にはピンポイントでの「急所」指摘として、一義的には説明できないものとして描き出していく。だから、いわゆる「定義」は本書にはないのだが、その代わりに、実に多くの作品やその具体例が紹介されていく。

こうした本書の戦略は、東浩紀をはじめとして、すでに高い評価を得ているが、「ライトノベル」が日本文化で大きな位置を占めて行くであろう今後、ますます貴重な参照点となることは間違いない、そんな現代文化の歴史的道標なのである。

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魂込め

2005/09/12 23:18

現代小説の豊かな達成

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『水滴』での芥川賞受賞に続き、表題作は2つの文学賞を受賞したのだが、そうした文壇的・社会的とはかけ離れたスケールにおいて『魂込め』は傑作と呼ぶにふさわしい現代小説である。
冨山一郎は『戦場の記憶』で、日常と連続した場所として戦場を捉え(もちろん、そのことは戦場から日常への連続をも意味する)、そうした位置の往還によってしか、貧しい図式化に収斂しない「戦争・戦場の語り」は難しいのではないかと、その語り方を問題化したが、目取真俊の一連の小説群もまた、こうした新しい「語り方」の小説としての実践であるといえるだろう。
「魂込め」では、まず、沖縄の現在の時間が、確かな手応えと共に書かれ、グロテスク・リアリズムとも呼びうる手法で、非日常的な出来事が日常のなかに描かれていく。そのうちに、作品世界は、歴史的にも重層化され、まさに日常に忍び込むように沖縄戦の消去し得ない「記憶」が回帰してくる。こうした文体の世界を力強く描き出す「力」は、本土/沖縄や、過去/現在といった図式を突き抜けて、過去ではない現在に「沖縄」という問題を据え直すと共に、文学としても優れた達成をみせるだろう。

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日本思想という問題 翻訳と主体

2004/02/03 21:05

異言語が出会うとき──「翻訳」という問題の射程

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「思想史」の、「学」の、「日本語」の成立(より正確に言えば創造=想像)の様相を分析・記述してみせた酒井直樹が本書で取り上げる主題は、副題にもあるように「主体」と「翻訳」である。ただし、ここであげられた両者は、その実践系において不可分な相関項として位置づけられている。
酒井は、「コミュニケーションの非対称性」とも呼べてしまうような2言語間の「翻訳」という実践を、その足元を掘りさげるかのように問い直していく。すると、不可思議な事態に辿り着く。それは、「翻訳」が所与のものとしてあるのではなく、異なる2言語観で行われたある行為(事後的に「翻訳」と呼ばれるもの)の帰結として「翻訳」という表象が成立し、さらにはこの段階において始めて、異なる2言語と目されていたものが、正しく「異なる2言語」として分節化されるのだという。不意打ちを食らうかのような先後関係の転倒にもみえるこの論理は、しかし丹念に追えば分かるように、あまりにも正しい。
その上で「翻訳者」という、特殊な立場を具体例に上げて議論を進めていく酒井は、その位置にこそ「必然的」な「言語的雑種性」を見出す。そして、「主体」という語を取り出し、その日本語訳を問うかたちで以下のように続ける。

 「主体」という語は、造語、つまりsubject,sujet,subjektの翻訳語として日本の知的語彙のなかに導入された。他の翻訳語としては、「主語「主観」「主題」「臣民」等がある。ここで主体という語の英語への再翻訳がしばしばsubjectにならないという事態をとくに強調しておきたい。英語から日本語、そして再び英語に戻すという翻訳の循環──subject→主観/主体→subject──が、英語と日本語の二つのsubjectivityの概念の差異によっては説明不可能な、不可避な過剰を産出するのである。つまり主体性の日本語における概念になりそこなったシュタイは、国民語間的(trans-national)な翻訳の変換の実践系の配分(economy)には包含されえないものとして存在するのである。この点でシュタイは、日本語あるいは英語のどちらの同一性にも帰属(subject to)していない。シュタイは始めから雑種的な存在をする。(P.148-9)

 こうして、「主体(正しくはシュタイ)」と「翻訳」という主題は邂逅を遂げるわけである。このような議論は、様々な局面での均質さを以て成立する「国民国家」を相対化する枠組みとして有効なだけでなく、流動的で危機的でもある今日の国際政治、あるいは我々の身近な日常的実践を再考する際にも重要な手掛かりとなるだろう。というのも、われわれもまた制度化された均質性の中で、その歴史的系譜には盲目である場合がほとんどであるし、その均質性を乱す異物は排除するという機制に深く囚われているからに他ならない。こうした事例は、(これまた「国民国家」の重要な装置でもある)新聞を見れば日々事欠かないだろう。つまるところ本書は、我々の日常を取り囲む世界の見方を変え、そこに批判的に関わっていく思考の手掛かりとして、今後益々その重要性を増していくだろう。

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太宰治『人間失格』を読み直す

2009/06/17 22:43

太宰治『人間失格』(再)入門のために!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

生誕100年を迎えたという太宰治が話題を集めている。中でも、代表的長篇小説『人間失格』への注目はここ数年つづいており、ついには生田斗真主演で映画にまでなるという。本書は、そんな「太宰治『人間失格』を読み直す」ための、いわば恰好の(再)入門書である。聞いたことはあるもののしっかり読んだことのない人も、読んだことはあるものの好きになれなかった人も、あるいはよく読み込んでいる人も、さまざまな角度から『人間失格』に関する情報・批評が繰り広げられる本書から、大きなヒントを受けるはずだ。

「序章『人間失格』をめぐる太宰治の現在」では、奥野健男/綿矢りさら、新/旧の愛読者の発言などをとりあげ分析することで、近年顕著な『人間失格』リバイバル/ブームが紹介される。「第1章“現代に甦った新作”、太宰治『人間失格』」では小畑健のカバーやケータイ小説(ヨコガキ)など、リパッケージされた『人間失格』がレビューされ、発表から60年を経た受容の特徴がまとめられる。「第2章 『人間失格』成立まで 古田晁・入院体験・「人間」」では、実際太宰治がどのように『人間失格』を書きついだのか、また太宰治作品史で「人間」という言葉・概念がどのように練り上げられたのかを検証していく。「第3章 太宰治の退場(情死)と『人間失格』の登場」では、『人間失格』が世に問われると同時に太宰治が情死を遂げ、そのこともあって瞬く間に(現実の太宰治と主人公・大庭葉蔵を同一視する)「太宰神話」が立ち上げられる様が、当時の批評から跡づけられていく。「第4章 言語表現としての『人間失格』 構造・予言・主題」では、いわゆるテクスト論として『人間失格』の表現の秘密が解き明かされていく。「第5章 『人間失格』が生きた戦後-抵抗概念としての〈人間〉」では、本書の議論であぶり出されてきた〈人間〉という語に着目し、『人間失格』発表当時、さまざまなメディアでしきりに論じられていた〈人間〉という主題を交錯の相に描き出し、その中に『人間失格』が再配置され、意味づけられる。

こうした本書であるから、予備知識のない出発点からでも通読することで、批評的に『人間失格』を捉える地点にまで辿り着けるだろう。その意味で、本書は正しく『人間失格』(再)入門の書であり、まさに「太宰治『人間失格』を読み直す」ための一冊である。

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