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  3. けんいちさんのレビュー一覧

けんいちさんのレビュー一覧

投稿者:けんいち

272 件中 76 件~ 90 件を表示

風の歌を聴け

2008/05/29 20:53

遠い青春、青春の遠さ

9人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

もはや村上春樹も、中年といってよい年になってしまったけれど、当たり前といえばそうなのだけれど、小説は年をとらない。だから、『風の歌を聴け』は、いつまでもあの時の「青春」をたたえて、そこに、ある。

とはいえ、書かれたその時から、『風の歌を聴け』に描かれた青春は、小説としては新しいものであったにせよ、そのモチーフは、節度ある感傷として遠いものであった。

だから、今や、『風の歌を聴け』がそのままあっても、われわれが時を経てきてしまった以上、それは遠い青春であるばかりでなく、青春の遠さをもあらわし、ますます魅力的な小説に洗練されてきたように思えてくる。

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日本 根拠地からの問い

2008/05/23 12:04

「地方」ではなく「根拠地」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『日本』というタイトルは、シンプルなものというより、実に巧まれたものといえる。なぜなら、本書は日本を視野に収めながらも、その実、徹底して熊本──本書の理論的概念で言いかえれば「根拠地」──に視座を置くことで、「日本」を捉え返そうという試みだからである。その根底にあるのは、右翼/保守勢力の、パワーダウンである。その活性化をめざし、2人の知識人が縦横に語り合ったのが本書なのだが、そこで参照される重要なポイントが思想(源)としての「根拠地」なのだ。昨今の税制問題を体表として、国政レベルで語られる「地方」(行政)の貧しさに反して、本書の議論は、たいへん示唆に富み、歴史的にも理論的にもヒントになることが多々ある。ナショナリズムを盲信するのでもなく、それを短絡的に悪と決めて拒絶するのでもなく、「根拠地」─「パトリ」という補助線を導入してものごとを考えること、その重要性と有効性が、本書には明確に提示されている。

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当事者主権

2008/05/20 12:42

「当事者主権」はすべての人々に

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、「当事者主権」という鍵語を掲げて、しごく「ふつう」のことを、力強く語る闘争の書であると同時に、その理論的根拠を実践に基づき提示する、社会説得のための書でもある。この書物が目指すのは、たとえば以下のような一説に端的に示される主義主張である。

《制度がユニバーサルであるとは、例外がひとりもない、という意味である。当事者主権とは、あなたがたのいう普遍は、私ひとりがそれにあてはまらないことで挫折する、と宣言できる権利のことである。制度設計の基準を、平均にではなく「最後のひとり」に合わせる。そのためには多数決を絶対視しない。そういう合意形成を可能にするような、ラディカルな民主主義をめざしたい。》

だから、立場によっては「ふつう」と考え得る上記のような「民主主義」は、ごくごく一般的に流通して理解されているそれと比べると、確かに「ラディカル」であるし、多くの抵抗が予想されもするだろう。本書は、そうした、「当事者主権」を、「ふつう」のことにみせない、数々の日本という風土に根付いたベールを、次々を取り去っていく。それは、福祉一般に関する思いこみや、金銭授受に関する抵抗感、さらには行政の壁、人びとの心の壁、などなどである。それを、当事者の運動の歴史を振り返り、諸局面における戦果を検討することで、風通しのいい風土へと地ならししていく。そうすれば、誰しもどのような条件を抱えていたとしても、自己卑下することなく、社会のデザインをこそ変えればいいことに気づき、希望の地平が開けてくるだろう。

《当事者は変わる。当事者が変われば、周囲が変わる。家族や地域が変わる。変えられる。地域が変われば、地域と当事者との関係が変わる。当事者運動は、自分たちだけでなく、社会を変える力を持っている。》

もちろん、本書では、さしあたり「障害者、女性、高齢者、患者、不登校者、そして引きこもりや精神障害の当事者」が俎上に乗せられてはいるが、それは、全く彼岸の火事などではない。そうした人びとがこの社会にいて、共生する(可能性がある)からなのは当然だとしても、「私」もまたその人生において「当事者」には違いなく、だから本書「おわりに」で語られる「現代社会に必要なのは、個人個人が当事者となり、自分自身の人生に対する主権を行使することではないだろうか。」という問いかけ(誘いかけ)は、本書を手に取ったすべての人に、「勇気への助走」として響くのだろう。

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河岸忘日抄

2008/05/16 18:35

つながれ、漂う船のような、生き方

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

堀江敏幸の書物は、時として「散文集」と呼ばれてきた。現在、他にそのような呼ばれ方をする作家・作品が思い当たらないことを想起すれば、堀江敏幸のそれが、いかに特異なことなのか──いったい、日常生活において「散文」という単語を用いる人が、どれだけいるというのか?──改めてわかるだろう。しかし、それは、ひとたび堀江敏幸の文章を読めば、実にたやすく納得されるだろう。『郊外へ』しかり、『回送電車』しかり、『くまの敷石』、『いつか王子駅で』、『雪沼とその周辺』、いずれもそうした感触をたたえている。それは、絵空事のような物語からは遠く隔たり、たとえそれがエッセイであろうと小説であろうと、静謐な、それでいて巧まれた文章のうちに、虚実の入り交じった後に洗練を経た、堀江敏幸独自の文章ができあがってくるのだ。かつて、そのような作家性は「文体」とよばれもしたのだが、堀江敏幸の文章がさらに特異なのは、作家性という個性よりも、文章それ自体が、品格と豊穣さをたたえ、静かにたたずむ印象をもたらし、それすなわち、堀江敏幸の「散文」ということになるにちがいない。

読売文学賞を受賞したというのだから、小説には違いない『河岸亡日抄』は、こうした堀江敏幸の「散文」の結晶のような傑作に思われる。主人公らしき人物がおり、彼をめぐるごく少数の人物が登場しはするが、そこに起伏のある物語が展開することはない。むしろ、主人公の住まいのありようと同じように、すべては、動けるに動け(か)ず、そのことを不便とも合理性に欠けるとも考えずに、逆に豊かな思索の時、あるいは、ただ何もせずに過ごす至上の贅沢として、ごくごく素朴な細部が積み重ねられていく。もちろん、そこには人との対話があり、堀江氏らしく小説内で文学作品を読みもするのだが、あわせて、しかも継ぎ目の違和感なく、ただただ生きることについての感懐や、気候に関する数字が併置されても行く。読もうと思えば、人生訓としてすら読みうる側面を持つ本作は、しかし、エッセイという名の牢におさまることはなく、静かな作品世界に、つながれ、漂う船さながらに、「散文」という名の海に、存在し続ける。そのこと、それ自体がもたらす文学的感動があるのだという、新たな驚きが人生を照らす、そこに堀江敏幸の「散文」の真骨頂があるとするならば、『河岸亡日抄』はまさしくそうした「散文」に違いない。

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小説の設計図

2008/04/29 12:36

「まっとう」な、あまりも「まっとうな」(現代)文学論

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

前田塁の『小説の設計図』は、はしばしに言及されもする、蓮實重彦、柄谷行人、渡部直巳といった固有名に明らかなように、かつてポスト・モダンとも呼ばれ、批評がそれとして自律して輝いていた時期の資産(遺産?)の、よき後継者としての、出色の仕事である。まずは文芸評論、それも現代文学を主たる対象とした文芸評論として書かれ、その論理構成や文体のシャープさ、あるいは取り上げられる多和田葉子、松浦理英子、中原昌也といった作家の「難解」さから、かつての高踏的な批評言語が想定されもしようが、その実、本書の大半は、きわめて「基本的なことがらの確認」に費やされており、むしろ「地味」とさえいえる。

例えば本論を取り囲むようにして冒頭と結末に配された、太宰治「走れメロス」をめぐる議論。そこでは、書かれた言葉が1つ1つ検証され、「友情」を突出して読んできた歴史の不思議さが浮き彫りにされる。あるいは、川上弘美を論じては、売れたがゆえに(!)「後退」ともとられた、凡庸な装いに包まれた『センセイの鞄』の要所を、実に80年代的な「語り論」から説き起こし、その仕組まれた秀逸さを鮮やかに炙り出してみせる。さらに、小川洋子を論じては、蓮實/渡部以後、とんとみることのなくなった、芸とも呼びうる軽やかなテマティスムを、あの『博士の愛した数式』を素材に演じてみせもする。

こうして評してくると、やはり現代的で間口の狭い文芸評論にみえてしまうかもしれないが、本書を貫くのは、繰り返すが「基本的なことがらの確認」であり、それは巻末に付された補論にも明らかなように、「言葉とその交(流)通」に関する原理的かつ確認可能な発想=議論である。ソシュール以後の、もはや誰もが自明視している、「言葉」をめぐるいくつかのルール。しかし、日々の営みの中で、ともすると見失われがちな──ことに、「文学」、さらには「現代文学」を前にすると、ことさらに──言葉とその指示物の不一致といった「基本」に常に立ち返りながら、「地味」にしかし着実に読み解かれていく現代文学。それは田中和生の素朴さとは似ても似つかぬ、強靱な読解・思考の産物である。

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蛇を踏む

2008/03/19 15:10

「もう1人の私」または「女性(一般)」

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

文字通り「蛇を踏む」ことから始まるこの物語は、しかし単に女性主人公が蛇の姿をした蛇のような母のようなよくわからないものにつきまとわれるというだけの話ではない。

たしかに、ひょうひょうとしていながらマジック・リアリズムさながらのじんわりとしたリアリティを沸々とはりめぐらせていく文体のうちに、たんたんと不可思議な蛇と人との日常が綴られてはいくし、そこに人、あるいは女性(一般)の深層心理が描き出されていくようではある。

ただそこで見過ごしてはならないのは、女性主人公のひわ子が、いわゆる「人」よりも「蛇」に、壁と喩えられるようなわけへだてのない一体感を感じるばかりでなく、それを何よりも求めているということだ。そして結末部に集約的に表されるように、「蛇」もまたそれを強く求めているということだ。そして、その壁なき「人」と「蛇」との一体感は、いわゆる精神分析にいう自我形成以前、言語的分節以前の、誰にも懐かしい「あの母胎のような世界」がもたらすものに他ならない。

川上弘美は、そうしたいわば普遍的な境域に、すぐれて歴史的=現代的な物語を通じてたどり着いてしまった、そんな恐るべき作家なのだ。ここにいう現代性は、女性主人公のひわ子が担う、定職のないままに結婚もせず、しかし生活に困ることも人生に悩むこともない30代女性、という設定によって備給される。しかも、こうした小説を、表だった企みなしに書き得てしまう川上弘美とは、(かつて、大谷崎などがいたが)まさに現代に生き残った天才肌の作家としかいいようがない。

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私の男

2008/03/07 14:32

成熟という名の変貌

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

確かに、桜庭一樹は変わった。
変わったそのことと、大きな賞の受賞とに関係があるかもしれないが、そのことは小説に関してはあまり重要ではない。もちろん、幸福なタイミングには違いないが。
変わった桜庭一樹は、一言でいえば、「成熟」した。
そうはいっても、桜庭一樹本人のことではなく、小説が、である。
端的にいえば、対象読者層が、一挙に変わったはずである。
『私の男』には、たとえば山田詠美を彷彿とさせるような、大人の世界が、描かれている。
人物設定、それは確かに奇を衒った向きがないわけではないが、文体はその設定に頼ることなく、落ち着き、まっすぐに、しかも陰影を携えて安定している。
描こうとする世界(観)に、文体の小回りが効き切っていない恨みの残ったこれまでの桜庭一樹の小説を想起すれば、ここでの変貌は、自身の文体と、それに適したモチーフとの幸福な邂逅であるようにも思われ、それはそのまま、読者の幸福でもある。
こういう世界を、こういう文体で書ける作家が、他にいるのかいないのか、それは知らない。それでも、唯川恵とも文体のテンポが違うのは明らかだし、「性」そのものよりも「関係」を描く筆致は、島本理生に比べて明らかに大人の雰囲気醸し出している。
こうした成熟という名の変貌を遂げた桜庭一樹の小説が、直木賞という光を浴びて、多くの読者の目にふれること、これもまた作者・読者双方にとって幸福なことに違いなく、してみれば、桜庭一樹の変貌とは、幸福に包まれ、輝くのだろう。

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千々にくだけて

2008/02/21 10:57

強者の暴力に抗する小説

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

喧伝される「グローバリゼーション」とは、アメリカという単一の強大な価値観の世界的強制ではないかと、言葉の詐術が見抜かれようとしているその時、政治体制はもとより宗教的・文化的価値観を異にする人々から、構造化された非対称的な(武)力関係の中では、それよりほかに仕方がない「自爆テロ」が起きた。今、「9・11」をそのように捉えてみるなら、攻撃を受けた直後からのアメリカ(メディアと、それに追随する日本とそのメディア)の対応は、言葉と映像によるさらなる暴力の徹底であった。1つは、テロリストを「敵」と呼び、事態を〈キリスト教(と民主主義)を信奉する「世界」(という名の、強制的アメリカ的価値観)とイスラムのテロリスト〉との間の「戦争」と定義し、そのことをあらゆる機会を通じて反復・拡声し、既成事実化していこうとする言葉の暴力。もう1つは、世界貿易センターが崩れ落ちる映像の、垂れ流しと呼ぶのがふさわしいほどの徹底した、反復放映(もちろん、それまでのイスラムの日々や、アメリカ国内の暗部、さらには「テロとの戦い」の実情などは、逆に隠蔽される)。それによってアメリカは自らを無垢な被害者として、テロリストを「悪」と印象づけていくという表象の暴力。ブッシュの主導するアメリカがみせた強権に基づく一元的な「9・11」の意味づけは、残念ながらそのまま日本(メディア)においても踏襲された。
こうした事態を、文学の側から考えてみようとする時、「9・11」をモチーフとして優れた小説を書いたのが、西洋出身者にして初めての日本語で書くアメリカ人作家=リービ英雄であったことは、驚くべきであると同時に、実に首肯すべきことでもある。というのも、「9・11」に関する暴力とは、ビルを破壊し人々を殺戮する暴力であると同時に、多角的な思考の余地を奪い、単一の価値観のみを強制していくファシズム的な暴力でもあったからで、こうした課題を前にして文学が関われるのは主に後者だからだ。
リービ英雄は、単一のナショナル・アイデンティティに安住することなく、日本語文学を書き続けてきた作家であり、そのことは芭蕉の句を引用した『千々にくだけて』というタイトルで「9・11」を描くという構えにも明確に示されている。本文も、日本語に英語が混じり、双方を主人公のエドワードが頭の中で翻訳する様相も織り込まれている。そして、何より秀逸なのが、『千々にくだけて』の主な舞台が、アメリカに向かい「9・11」によって入国を拒まれた航空機内に選ばれている点である。それはリービ英雄のアイデンティティよろしく、いずれか1つの国に固着することなく、揺れ動き移動する舞台であり、乗客もまた様々な国籍の人々によって構成されている。また、メディアが世界貿易センター崩壊の直接的映像を前景化したのとは対比的に、『千々にくだけて』では「9・1」は映像はもとより情報としても朧気なまま描かれ、それゆえ、多角的な捉え方・視点を積極的に促すように仕組まれている。こうした方法によって書かれた『千々にくだけて』は、従って「9・11」に対するアメリカの対応を鋭く批評し、脱構築した小説だといえる。その意味で、アメリカに追随したメディアに囲まれた日本に、こうした小説が発表されたことの意義はたとえようもなく大きい。

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越境の声

2008/01/06 11:12

日本語文学のむこうへ

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本語文学というのは、思い返してみれば日本には「在日文学」もあったのだし、今日注目を集めている、リービ英雄、多和田葉子、水村美苗にしても、その小説家デビューは十数年も前のことではあるのだけれど、昨今、とみに「よいもの」「すぐれたもの」として高く評価されている。作家に時代が追いついたとも称し得るこうした事態の推移を、批評(理論)の展開から説明することはそれほど難しくない。日本語文学の書き手は、その小説とともに、「新しい」のであり、なぜ「新しい」かといえば、そうした試みがこれまで(広範に認知されるという意味において)なかったからで、なぜなかったかといえば、端的にそれは「困難なこと」だったからに違いあるまい。というのも、そこには「国語=国民=(国民=自国)文学」という三位一体が近代国家の機制として強く働いていたからだ。ナショナリズム批判の喧しかった1990年代を経た今、先の三位一体が国民国家のフィクションであったことはあまりにも明らかになり、リービ英雄らがそのことに自覚的であったか否かや(自覚的であったのはいうまでもないのだが)その深度とは別に、日本語文学が生まれ得る環境は、文学領域に留まらない国際的な政治経済の枠組みの中で準備・形成されてきたものだといえる。だから、日本語文学の書き手とは、時代の産物でもり、その体現者なのだ。かといって、そのことは、例えば『越境の声』の書き手を軽んじるものでは決してない。現在にあってなお、先の三位一体を逸脱したり内破するようにして小説を書くことは「困難なこと」に違いないのだし、現代日本人作家の中でも母語の「力」と向きあう中から文学的成果を上げていると認められるのは、今は亡き中上健次の他、大江健三郎や笙野頼子くらいしか思い浮かばないのだから。
 こうした状勢を踏まえた上で、リービ英雄、さらには『越境の声』の共著者でもある多和田葉子や水村美苗らの作品が「よいもの」「すぐれたもの」とされているのは、しかしそれが日本語文学だからということのみによるのでは決してない。彼/彼女らにとって、先の三位一体を解体することなどが興味を惹く作業であるはずがない、すでに、この現実世界にあって言語とは、文学とは、すべからく「越境」なくしては成立し得ないのだから。様々な人種が、言語が、文化が、交錯する、その網目として現実はあり、それを描けないならば、描こうとしないならば、今日日、文学にどのような課題/使命があるというのだろうか。彼/彼女らの小説実践はそう問いかけているようにさえみえる。つまり、彼/彼女らの文学は、日本語文学という困難な環境を前提に、それでいて、そのことに依拠することなく、すぐれたものであるのだ。こうした射程や、こうした射程を手にした思考・創作、さらには「生」の過程、それは例えばリービ英雄『越境の声』からよくみえてくえる。多和田葉子の『エクソフォニー』は、しなやかな文章の中に、熟成された思考を溶かし込んだ近年稀にみる佳品だが、そこまでということはないものの、そこに『越境の声』も並べることができる程度には、知的な思考に満ちた書物として、『越境の声』はある。

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とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起

2008/01/02 09:27

生きることと声/文字

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

だから、「エクリチュール」といっていいのだと思う。これは、散文詩かも知れないし、小説のように見えるかも知れないし、あるいは詩だというならばそれを否定することも難しい。しかし、そうした呼び名の争いは些事にすぎない。それを些事とみなし、それでいて書かれたものそのものに向き合い、その素晴らしさを体感するために、もう40年にはなるだろうか、「エクエリチュール」という概念が世に広められたのだ。こうしたカタカナを毛嫌いするには当たらないし、それを新奇なものという火とは、昭和30年代の白黒TVを新奇なものと呼んで怖れているのと変わらぬアナクロニズムに陥っているだけのこと。伊藤比呂美のこの作品を「エクエリチュール」と呼ぶことには、もう1つ、貴重な、しかしそれでいて困難には違いないメリットが伴う。それは、この「エクエリチュール」のもたらすリアリティ、生きることそのものを描出したかのようなリアリティに関わる。ともすると、この作品から、読者は「生の声」を聞いたような感覚に襲われはしまいか。もちろん、作品評価としては肯定的な意味で。その肉声の生々しさがもたらす洞察、あるいは深みといったものが、ここには確かにある。ただし、「ここ」とは、声ではないのだった。それは書かれたもの、つまりは「エクエリチュール」であり文字なのだ。もちろん、凡百の言語芸術もまた、文字で書かれながら、風景や内面やなにやかやを表していきはするが、それは近代に培われた慣習的制度のなせるわざ、その恩恵にすぎない。それに反して、ここでは、制度にもたれることのない自律した言葉の連なりが「エクエリチュール」を構成している。にもかかわらず、徹底して文字として物質化されていながら、それは声を喚起する。それも、強く、声を喚起する。こうした事態、こうした不可思議な事態を生起させる「エクエリチュール」こそが、近代にあって「芸術」というものなのだろう。それも、制度としてのそれではなく、「エクエリチュール」それ自体が「芸術」であるという意味に於いて。

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腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

2007/06/07 10:23

強靱な個性

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『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と題されたモチーフは、本谷有希子のキャリアにおいて幸福な来歴をもつ。1番初めは2000年の「劇団、本谷有希子」第1回公演台本として書かれ、2度目には2004年、やはり「劇団、本谷有希子」第8回公演台本として大幅にリライトされて舞台化された。この舞台は、実に素晴らしいもので、それまで秘やかに噂されていた本谷有希子を、一挙に小劇場界注目株NO.1へと押し上げた。ただし、今から振り返ってみるならば、絶妙のキャスティングや、作品自体の素晴らしさもあって、逆にこのモチーフの核心(の一部)が、みえにくくなってしまっていたのかも知れない。いずれにせよ、舞台の好評をうけて、そしてもちろん本谷有希子の(劇)作家としての才能もあって、「戯曲の小説化」という行程を経て小説版『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』が上梓されたのが2005年。初出の文芸誌で読んだ記憶があるが、その時は舞台の印象が鮮明に過ぎて、読書によるイメージが舞台のそれに固着しがちで、今にして思えば独立した「小説」としてはよく読めていなかったのだと反省される。今回の文庫化は、このモチーフが世に問われる4度目になるわけだが(ちなみに5度目は映画!)、この間に本谷有希子をめぐる状況は大きな転回を遂げた。それは一言でいえば、本谷有希子が「小劇場の注目株」から「現代文学の注目株」、それも芥川賞や三島賞の候補となるレベルのそれへとステップ・アップしたということである。もちろん、演劇活動においても活躍が続いているし、鶴屋南北戯曲賞も受賞した。ただ、この間の本谷有希子の小説へのまなざしは、「劇作家が書いた小説」から「小説家の書いた小説」へと確実に変貌を遂げたのであり、それは『生きてるだけで、愛。』などに示された確かな実力に、世間の承認が追いついたということだろう。そこで、舞台化から2年の時を隔てて文庫本として届けられた『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』である。活字で組まれた「小説」として対象化しうる時間的距離をおいて読んだ本作には、確かにストーリーもあるし、設定やプロットに関していえば、(読後感からすれば驚くべきことという他ないのだが、)吉本ばななの『哀しい予感』と実によく似てさえいるのだが、本作の真の「面白さ」はそんなところにあるのではなかった。そのポイントこそ、絶妙のキャスティングによって舞台作品では見えにくくなっていたキャラクターの魅力──〈キャラ立ち〉に他ならない。もちろん、本作は家族小説であるし、トラウマをストーリーの要に使ってもいる。文体や描かれる風俗は現代的であるし、暴力やダイナミックとさえいっていいようなプロット展開もみられる。それらは、それぞれにこの小説の成功に貢献しているのだろうけれど、逆にいえばそれは「技術」に還元しうるファクターにもみえる。つまりは、本谷有希子の独自性を形づくる、本作に不可欠のファクターには思えないのだ。そうではなく、暴力をふるう/受ける、トラウマを与える/抱え込む、といった表層的な過剰さを支えているのは、その実、状況やさまざまなタイプの攻撃/被害によっていささかも変容することのない、キャラクターそれぞれの、明確といえばあまりにも明確な、それでいて個々に独自の歪みを抱え込み、そのことでさらに強固にされていく〈強靱な個性〉であり、〈キャラ立ち〉こそが本作の核心に違いない。こうした〈強靱な個性〉こそが、様々な条件を経てとある1つの場所に集う、それ自体がストーリーを起動させ、プロットを展開させ、過去の陰影をも彩っていくのだ。つまりは、〈キャラ立ち〉したキャラクターを揃えたことで本作の成功は半ば約束されていたはずで、そこに、「期待の若手現代小説家」本谷有希子の、本作に関する本領はあったように思われる。

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海炭市叙景

2011/02/11 22:11

生きること・生きる力

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すでに、映画・原作ともに話題になっており、世評も高いので改めていうこともないという気もするのですけれど、これは文句なしに双方ともに傑作です。今日のコマーシャリズムをものともせず、海炭市という架空の町で精一杯生きる人々を見つめ、温かく見守り、その「生」を力強く肯定する。これは、苦境にあって生きる、過去・現在の人々への、力強いエールである。飾らない文体、行き詰まるような切迫感、人生の哀歓、それらにすべてが、作品に凝縮されている。

もちろん、今に言う「負け組」の群像を描いた作品であり、決してシンプルに楽しいといえるものではない。それでも、ここには、生きること・生きる力を与えてくれる、人間への信頼がある。

その意味で、本作は、人が生きるために必要な作品と言ってよいと思う。また、そうした小説が現代に生み出され、今日再評価されたことも、素晴らしいことだと思う。その意味で、本作は文字通りの事件であると思う。

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岸田國士の世界

2010/09/07 00:00

日本近代演劇のパイオニア

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

岸田國士さんは、とても偉い人である。
なんといっても、その名前が、岸田國士戯曲賞として残っている。

もちろん、それは、ネームバリューだけの話ではない。
岸田さんは、日本近代/日本近代演劇が生んだ、コスモポリタンである。
だから、ヨーロッパの演劇を勉強した。
そして、ヨーロッパの演劇のような、戯曲も書いた。
それ以外にも、演劇のため、國のため、いろいろとご努力・ご苦労なさった。

もちろん、演劇(界)への貢献は計り知れない。
演劇というジャンルの広報/宣伝。
劇団というもののありかたへの思索と実践。
そして、何より、近代演劇の言葉をつくった。
それにともなって、近代演劇の、新たな領域を開拓した。
しかもそれは、単に当時新しかったばかりでなく、今日につながる新しさだった。

しかし、岸田さんは、今日、一部の演劇ファンを除いて、なかなかよまれない。ともすると、お名前すらしらないという。

かといって、知るためのよい案内があったわけでもない。
しかし、ごく最近、最良の案内書ができた。
本書は、岸田さんの全貌を知りつつ、より深めることも出来る。
いろんな時代の岸田さん。
いろんな興味があった岸田さん。
それにふれることができる。そのきっかけができる。

演劇ファンばかりでなく、日本語を使う人々が岸田さんから学べることはたくさんある。まずは、だから岸田さんのものを読むといい。それが、ちょっとたいへんなら、まずは本書で入門するのがよいと思う。本書は、そうした興味に最適で、かつ、学術的にも高い水準を誇っている。

今年刊行された演劇関連書で、最もすぐれたものの1つだと思う。

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決壊 上

2010/02/16 21:25

戦慄の現代文学

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本作は、とある、ごく非人道的な殺人事件を扱った小説であるが、その私リアリティ、迫力に圧倒される、素晴らしい文章で書かれた傑作である。だから、戦慄するのはそのストーリーばかりでなく、こうしたすぐれた文学作品が現代に書かれること自体にも戦慄せざるをえない。

ともかくも、まずは細部がたいへんリアルに書き込まれている。文体それ自体は「重い」といっていいようなものなのだけれど、視点を軽やかに変えながら、すぐれて多面的に登場人物/この社会を描き出しており、もはや現実世界の出来事のように思われてくる。

それでも本書は、やはり「文学」なのであり、それゆえのフィクションやデフォルメがなされつつ、それでも絵空事のようには読めない。最大限にほめようとするならば、この小説は現実を越えているとさえいってよいだろう。

70年代生まれの、すぐれた作家の、意欲的な作品という評価がぶれることはないだろう。

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おぱらばん

2008/07/15 13:10

AUPARAVANTからおぱらばんへ

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「おぱらばん」というタイトルは、ずっと気になっていた。
読んでみると、それはフランス語の「AUPARAVANT」を、日本人の主人公が「おぱらばん」の方がしっくりくると思い、そう感じ、そう表記したところの音の、それを受け入れた痕跡である。

これがすでに、短篇集『おぱらばん』の急所になっている。本書は、外国の地で、多くの国の人びとと交わされる、ささいな生活の記録といえばそうであるし、感じ考えたたことのエッセイでもある。また、特徴的なのは、現実の出来事から文学が想起され、作家や小説の話が織り交ぜられてもいく。いずれにせよ、それをどのように言葉で描いたかに本書の急所はあり、その異文化体験といってしまえばあまりに雑駁な、出来事をめぐる感触のひだを、デリケートに扱いながらていねいに描いたのが、本書の文章であり、その相対としての『おぱらばん』なのだ。

だから、「AUPARAVANT」から「おぱらばん」と感じ、書くような主人公/堀江敏幸の感受性と、その感受性を散文としてしなやかに定着させていくスタイルがここにはたいへんすぐれたものとして結実しており、そのことで、上品で味わい深い「声」の響く小説が送り届けられたのだ。

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