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  3. けんいちさんのレビュー一覧

けんいちさんのレビュー一覧

投稿者:けんいち

272 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本人間失格 改版

2008/07/10 22:39

よみがえる人間失格

20人中、20人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『人間失格』といえば、太宰治。
太宰治といえば、『人間失格』。

没後60年を迎え、太宰治ブームもいよいよ盛り上がってきた観があるが、中でも注目したいのは、やはり『人間失格』である。

なんというか、「文学史上の名作」という感じがしないのだ。
もっといってしまえば、ここ最近の現代文学のようですらある。
というのも他でもない、ここには、近年話題になっている「私探し」や「キャラクター」といった要素が、てんこ盛りに盛り込まれているからだ。

太宰治特有の自意識過剰な自己像は、今日、ライトノベルの文脈から見れば、明らかに、特異なキャラクターとして輝いて見える──キャラが立っている。この自分自身への被虐ぶり、つまりは自虐の自己露呈は、なかなか爽快な観すらある。しかも、そこに描かれた苦悩もまた、今日のわたしたちのものと、とても別のものには感じられない。

古びない名作古典としてではなく、文字通りの現代小説としての『人間失格』、今こそ、読み直してみるチャンスかもしれない。

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紙の本鹿男あをによし

2010/08/16 19:55

ユニークな痛快さ

18人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すでに、玉木宏のTVドラマを見た人も多いと思うのだけれど、そして私もそうした組なのだけれど、ともかくもこれは小説として読むことをおすすめします。小説として、とてもよく書けているし、何と言っても、ユニークさにおいては、今日、他の追随を許さない。

いわゆるミステリー仕立てといえばそうなのだけれど、そしてそこに奈良の歴史に関わる、マニア好みの細部が盛り込まれては行くのだけれど、主人公にとってそうであるように、あるいはそれ以上に、予想もしなかったことが、この小説では次々と起こる。そして、そのユニーク過ぎるアイディアの数々が、マキメ氏の文体によって、いかにリアルに見えることか。もはや、驚くしかない。

今や、直木賞候補作家にもなったマキメ氏だけれど、『鴨川ホルモー』もそうであるように、関西を舞台として展開される氏の世界は、文字通り作家固有の世界観を遺憾なく提示しており、圧倒される。しかもそれは、読んで読みやすく、興味を引かれ、先を知りたくなり、するすると読み進める内に、スリリングな興奮がある。もちろん、設定をはじめとして、小説それ自体の完成度も秀逸なもので、現代文学の傑作(の1つ)といって言い過ぎではないだろう。

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紙の本ポトスライムの舟

2009/02/03 21:16

あぁ、社会の中の、とても大事な私

16人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『ミュージック・ブレスー・ユー!!』での野間文芸新人賞受賞に続いて、芥川賞をとった津村記久子さんは、いまのりにのった若手作家の一人と見て間違いないだろう。受賞作は、手放しで「明るい」といえるような作品ではないし、癒されたり、和んだりすることは(たぶん)あまりない。それでも、とても力強い。その力強さのエッセンスは、(たぶん)「私(自分)の肯定」にある。では、いわゆる「自分探し」や、単なる「自己顕示(欲)」とは違う、津村さんの書く力強さは何によるものなのだろう?

それは、社会が描かれているからだ。ただ社会が書かれているからというわけではなく、私と関わりを持つ社会が書かれているのだ。もう少し正確を期していえば、私は「社会の中の私」として捉えられ、その切り結びにおいて、「私(自分)の肯定」が地道に、しかしねばり強くつづけられ、そして達成されていく。そこに、楽天的な「成長物語」とはテイストを異にする現代らしいリアリティと、しみじみとした(生きていくための)勇気の源があるのだ。

もっとも、世界的な大不況というタイミングとも相俟って、本作が時事的な小説として読まれる(あるいは、それゆえに高く評価される)ことは、ある程度避けられないだろう。ただそれは、単に社会(的事件)を素材にしたというより、自分の足元と見つめながらモチーフを掘り下げる創作をつづけてきた結果、現実に少しばかり先だつ形で、『ポトスライムの舟』が生み出されたはずだ。だから、本書は、「文学の予言的性格」を文字通り体現した、明るい面から暗い面まで現代の息吹を吸った、現代文学そのものである。こうした作品が、芥川賞を受けて日の当たる場所に出ることは、文学にとってもこの国の文化にとって喜ばしいことだろう。それだけでなく、特に、この社会に苦しめられながら生きる人々にとって、本書が主題とした「私(自分)の肯定」は、生きる源とも成り得るだろう。

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混沌とした現代社会の闇と救い

17人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村上春樹、待望の新作は『ノルウェイの森』を彷彿とさせる1980年代を舞台とした小説なのだけれど、それは単なるノスタルジックな物語というわけではない。これまでの、村上春樹のキャリア(作品)と社会的関心を十全に活かし、それでいて小説としてよく練り上げられた傑作と呼ぶにふさわしい。

入り組んだストーリー/世界(観)をもった本作前半に関しては、いくつかのキーワードをあげることができる。モチーフとしては暴力や性といったこれまでも繰り返されてきたものに加え、宗教といったもがせり出してきたが、特に前半で注目されるのは、「小説」それ自体であるだろう。

この作品の中では、「物語」と「小説」がていねいに腑分けされながら、2人の中心人物が1つの作品を紡いでいく。その全貌は、ついに明らかにされることなく、特徴や概要は示されるだけなのだが、その重要性は疑い得ない。重要だというのは、作中の出来事を示し、かつ、そこに描き出された作中の現実とは、ここ40年に及ぶ日本社会の現実を寓意として描ききったものに他ならないからだ。しかもそれは、単に現代史を再構成したものではなく、小説作者らしい複雑なデフォルメによって、そこに根ざした深い深い「闇」と、その渦中を生き抜く「救い」とが、仄かに、しかし、確かに書き込まれている。その光に導かれるように読み進める、読者の興味はとまることはないだろう。

ディタッチメントからコミットメントへ、1990年代に入ってから、村上春樹についていわれはじめた、「姿勢の変化」は、本作によっていよいよ明らかなものとなりつつある。そして後半(BOOK2)において、本作は新たな村上ワールドを提示することになるだろう。

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紙の本「ニート」って言うな!

2008/06/11 23:51

「ニート」への批判に基づく正しい社会理解に向けて

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いささか新書らしすぎるタイトルに乗れるのならそれが1番だし、そうでなくても、だまされたと思って一度手に取ってみてほしい。この新書は、時折あらわれる、新書とは思えないほどの内容が、新書のわかりやすさと値段で提供された、近年まれに見る、すぐれたものといっても過言でない。

何が優れているのか。

まず第一に、「ニート」という呼び方と、そう呼ぶメディア、さらには、とある現実の現象をそのように呼ぶことで社会的に位置づけようとするまなざしに対する、徹底的な批判精神と、その実践としての批判的検討が優れている。それは、どのパートにも言えることで、ここにはまず、言葉本来の意味で若年無業者への目線に立ち、その理解に努める姿勢がうかがえるし、さらに、わかりやすい理解の仕方ばかりが蔓延していくメディアへの危機意識とそれを表現していく社会学的説得力がある。

第二に、思いを1つにした3人による共同成果である点である。これはとりもなおさず、この3人が、持論を張るだけでなく、他の人びとがどのように若年無業者について語っているか、アンテナを張っていたことの証拠となる。というのも、この3人は旧知の仲ではなく、「ニート」をめぐるweb上のやりとりから出会い、本を作ることになったというのだから。しかも、そのこともあって出自を異にする3人が、それぞれの問題意識とスキルとを持って、「ニート」問題を論じ、いずれもきわめて水準が高いのだ。

これらを総合して、本書はすぐれた「ニート」論であると同時に、出色の新書でもある。それはとりもなおさず、本書がすぐれた書物であることにほかならない。どのような角度からでもニートに興味のある人は、ぜひ手に取り、一読してほしい本である。

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現代史としての「集団自決」

14人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、「ベストセラー」と称される資本主義下におけるセールスの量を誇る言葉には全くそぐわないものの、しかし、ほかならぬ今、多くの人──ことに、本島に住む「日本人」──に読まれるべき書物であるに違いない。「集団自決」とは、第二次世界大戦末期、沖縄で「軍命」によって引き起こされた「強制集団死」を指すが、この問題は古くて新しく、そこに、証言を集めた本書が、ほかならぬ今、世に問われることの状況介入的な意義がある。

というのも、「集団自決(強制集団死)」は、本書に収められた(初めての証言も含めて)多くの当事者の言が示すように、「軍命」によって引き起こされた悲劇であるにも関わらず、そのこと(軍強制)が、2007年3月の教科書検定によって、教科書記述の削除というかたちで歴史から抹消されようとしているからに他ならない。本書は、こうした動きに対する「沖縄の怒り」の1つの具現化である。沖縄タイムスのキャンペーンをもとにする本書の大半を成す「集団自決」に関する証言は、「記憶/記録」の恐ろしさを如実に示してあまりあり、その体験の個別性・具体性において、「歴史修正主義」的なものはもちろん、大文字の歴史記述にも、そのリアリティと説得力で再考を迫らずにはいまい。しかも、著者が「あとがき」にさりげなく記すように、これですら、「あまりにも惨めで語ることができない」という多くの当事者の声/記憶が取り込まれてはおらず、その意味で、氷山の一角ではあるのだ。裏返せば、当時の事実としては、より悲惨な状況が、より広範に引き起こされていたと考えるのが順当であるようなのだ。そして、今回の教科書検定問題によって、初めて「集団自決」の記憶を語り始めた人が少なからず存在することを想起すればなおのこと、この問題は、単に「過去の戦争の反省」の一部を成すテーマに留まらない。むしろ、「過去の戦争」に関して、現実的にも思想的にも先延ばしながら、あわよくば忘却し、抑圧=抹消してしまおうとしてきた「負の遺産」の、あまりにも正当な回帰であり、その意味で、すぐれて今日的な、まさしく「現代史」の要所ですらあるのだ。

この問題に向き合うことなく、「戦後」も「戦後」の上に立つ「現在」も安定した形では語れないだろう。本書は、本土を中心とした高度経済成長を柱とした戦後日本史が砂上の楼閣であった可能性すら示唆しながら、「過去=現在」への真摯な対応を求めてやまない。もちろん、例えばわれわれが明日から「運動」をすることは現実的ではないかもしれないが、そうであればなおのこと、本書が多くの人の目にふれ、読まれることで、認識の変革からはじめなければならないのだ。そこに本書の、さしあたりの、しかし重大や役割がある。

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紙の本不可能性の時代

2008/05/16 17:49

風通しのよい見取り図と真摯な実践的課題

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

現代社会に対して、建設的な理論的貢献のできる数少ない社会学者の1人として、大澤真幸の名があげられるが、本書はその大澤氏による、戦後日本社会の分析的検証と展望をまとめたものである。「現実からの逃避」ならぬ「現実への逃避」(端的な例は、リストカット)を現代の徴候と読み取る大澤氏は、そのような現代がどのような歴史的過程を経て構築されてきたものなのか、まずは風通しのよい見取り図を描き出してみせる。そこで援用されるのは、師である見田宗介の『現代日本の感覚と思想』・『社会学入門』である。大澤は、見田が示した戦後の区分──「理想の時代」「夢の時代」「虚構の時代」──について、その時々のティピカルな事例を用いながら概説し、さらに現代を「不可能性の時代」として配置する。

幅広いジャンルから、時代の徴候を読み取りながら性格づけるという作業を緻密に展開した大澤氏は、当然のことながら、現代の「閉塞」へと突き当たる。しかし、大澤氏はそこでもなお、思考の速度をゆるめることはしない。むしろ、それまで具体的な事例を取り上げつつも理論的な思考を展開してきた筆致の守備範囲を一挙に広げ、具体的な現実へと降り立ちながら、2人の人物の実践活動を参照することで、この現在における民主主義に希望を見出してさえみせる。ここで特権的に参照される2人の人物とは、アフガニスタンで活躍する医師中村哲氏と、松本サリン事件被害者の河野義行氏とである。詳しくは本書を読むのがベストだが、その2人の実践を、実現可能な思考のモデルとして組み込み切り開かれる未来への希望は、この「不可能性の時代」にあって「救済」となるだろう。

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散種される「古典」

11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『想像の共同体』は、日本でも初版、増補版が刊行されており、今回の定本は3度目の出版ということになる。帯に「ナショナリズム研究の今や新古典。」と謳われるゆえんである。増補版での加筆「人口調査、地図、博物館」・「記憶と忘却」に加え、定本では「旅と交通──『想像の共同体』の地伝について」という書き下ろし新稿が加えられることとなった。

「無名戦士の墓」や「出版資本主義」、そして「想像の共同体」といった、いまや「熟語」とすら化した感のある重要な鍵概念を多く含んだ本書の議論については周知のことであろうと思われるし、著者自身も関わったたいへん優れた入門書『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』もあることだから、ここでは本書が、抽象的な理論書なのではなく、インドネシアを対象としたエリア・スタディーズに端を発する実証的な議論でもあることに注意を喚起するに留め、加筆部分について以下に詳しくふれることにしたい。

「旅と交通」は、原著出版から四半世紀、30カ国、27言語で出版されるに至った『想像の共同体』という書物が辿った「旅=歴史」をめぐるエッセイである。執筆・出版当時の、アンダーソン当時のねらい(ターゲット)が明らかにされた上で、各地を転戦するかのように次々と翻訳・出版されていく『想像の共同体』の引き起こした反応が辿られていくのだが、それは各地の出版と情勢を同時に照らし出してもいくだろう。その上で、「地理的分布」という項では、英語の覇権を追認せざるを得ないような翻訳状況にアイロニカルに言及し、「出版社と読者」の項では、新興の左派系の出版社が多く、「教科書」として急速に受容されていったことにふれ、『想像の共同体』がヨーロッパ中心主義に対抗的な性格をもつことを確認していく。その反面、出版・翻訳を通じて、著者の企図から遠ざかっていったケースにもふれ、「ICはもはやわたしの本ではないのである。」と締めくくられる。

この結語から、日本語訳を受けとめる私たちが改めて考えさせられることの第一は、白石隆・白石さや、というアンダーソンの薫陶を受けた訳者の訳文で『想像の共同体』にふれることができているのだという、ありがたみである。第二に、今日、日本には右翼以外の──例えば、フリーターのメンタリティなど──ナショナリズムが潜在的に不気味な力を蓄えつつあり、こうした現状を考える手がかりとして、古典としての『想像の共同体』の有用性は、今後さらに増していくだろう。第三に、かつてのような紋切り型の国民国家批判はなりを潜めてはいるものの、しかし、エリア・スタディーズの養分をそれとして改めて読み取ることで、(安易な抽象論に堕することなく)この日本という国土において、かつて・いま・これから、起こるナショナルな力を可視化し、批判していくための、コンテクスチュアルでコンスタティブな思考を鍛えるため、『想像の共同体』は何度でも読み返すべき思考の光源として(再)活用していかなければならないだろう。そのことで、「旅と交通」の続きを書き綴っていくことこそが、本書にめぐりあえた読者の使命であろうし、それが果たされるならば、『想像の共同体』はアジアの日本にも「散種」(デリダ)されたことになるだろう。

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紙の本子どもが減って何が悪いか!

2008/05/26 22:46

少子化、男女共同参画社会、そして自由な社会構想へ

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

たまに、ごくたまに、「新書」というパッケージにはもったいないほどに密度が濃く、内容の水準が高く、しかも読んでためになる新書が、世に問われる。吉見俊哉『博覧会の政治学』などがその典型だが、本書も間違いなくそうした、たいへんすぐれた「新書」の1冊である。論点も多岐にわたり、しかもその関連は明らかで、データばかりでなく文献情報も有益で、しかも主張が明白で説得的なのである。キャッチーとみえるか軽薄とみえるか、いずれにせよ目立つタイトルから一挙に核心に引き込む面白さも本書の魅力である。

さて、内容だが、さしあたりは、「少子化問題」の社会学的分析、とくにデータの利用に関する批判的検討がメインなのだが、それは同時に、今日「男女共同参画社会」と呼ばれる社会構想とも関連していき、従って議論はジェンダーや出産、年金といった問題系にも及んでいく。それは、単に学問の域に留まるものではなく、政策であると同時に、わたしたち一人一人の今日の明日の生活と密接に関わる問題でもある。

ただし、その一方で、本書は実に理念的な書物でもある。それは、この社会で、人が自由に生きる権利を持つべきだ!そのような社会構想をこそすべきだ! という理念である。というのも、こうした理念は、政策提言──特に、社会学的データの意図的な利用とその垂れ流し──によって喧伝され人びとの内面に食い込み、気付かないところで、日々狭められているからに他ならない。だとすれば、データを批判的に読み、その上で、自分の人生をそれとして生きるために、さまざまな「自由」を確保すること、本書はそのための蒙を啓いてくれる、現代日本を生きていくための文字通りの啓蒙書=再入門書であるといってよいだろう。

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レーニンの現在を照らし出す思考の達成

10人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者みずから「あとがき」でもふれているように、今日、正面切ってレーニンをとりあげることは、妥当なようにも有効なようにも見えにくい。しかも、書き手が30歳になるやならぬやという若者であると知る時、レーニンの名前との齟齬は決定的なものにもうつる。

しかし、著者の白井聡が展開していく議論は、むしろ、こうした現在のレーニンに関するイメージを端緒とする。もっといえば、歴史的・政治的に葬り去られたかにみえるレーニンが、今なお亡霊のようにその存在感をもちつづけている、そうした不思議な現実をこそ見つめる地点が、白井聡の出発点なのだ。だから、レーニンを主題とすることは誤謬でも倒錯でもなく、実にリアルでコンテンポラリーな課題なのだとして始める議論では、レーニン(のテクスト)の〈力〉を、文字通り著者の力業によって浮かび上がらせていく。

《「いまここにあるもの」から、いかにして「いまここにないもの」をつくり出すのか、この問いこそがレーニンのすべての理論を赤い糸のように貫いている切迫した課題である》という著者の見通しは、レーニンという「稀有な思想の事件」から目をそらすことなく、その過去/現在を複眼的に捉えながら、『何をなすべきか?』・『国家と革命』という、両極の評価を与えられてきたレーニンの著作から双方を「貫く同じ思想の躍動」を読み解いていく。

その手つきは、さしあたり精緻と呼びうるものだが、テクストを精緻に読むこと、ただそのことだけでも、実に困難な営みであることは、改めて認識してもよいだろう。それを、レーニンの現在と接続し、そこに著者自身の思考を投企し、レーニンに今なお有益な光を当てること、この1冊で白井聡が成し得たことは、そのような、いわば「事件」なのである。

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紙の本近代日本文学案内

2008/05/14 22:28

つきぬ「文学」の魅力

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ケータイ小説や「ライトノベル」におされて、数十年来?、かつてのあの「文学」は旗色が悪いようにみえる。でも、本当にそうなんだろうか? もちろん、それらが、今日、一定の読者をもち、これまでになかった文化現象として目立っているのは確かである。しかし、それは、「文学」そのもののポテンシャルが失われたことを意味するわけではないし、近代文学に限っても、それは100年を超える歴史をもつ実に豊かな人知の「宝庫」ではなかったか?

そんなことを考えながら、十川信介『近代日本文学案内』を読んでみれば、日本の近代文学が、人知の「宝庫」であるばかりでなく、それ自身としてもたいへん面白く、また日本の近代を映すばかりでなく支えてきたことまでもが明らかにされるだろう。本書は「立身出世の欲望」「別世界(他界・異界)の願望」「交通機関,通信手段と文学との関わり」といった3つの角度から、日本の近代文学が振り返られていくのだが、その叙述を支えるのは、著者である十川信介氏の、文学史はもちろん、近代日本に関する博識ぶりと、「文学」への熱い情熱である。一読、著者がいかに多くの文学作品を読み、その魅力を貪欲に読み解いてきたか明らかであるし、しかも本書ではそれを文学史、近代史に位置づけながら、それでいて簡潔に解き明かしていく。

してみれば、本書は文学史の読み物として、まずはコンパクトでありながら実に充実した知見に満ちたものといえる。その上、100年にわたる、文学作品や関連した評論について、あらすじをはじめ多くの情報を得ることもできる。そして、3つの角度から描き出された文学の相貌は、そのまま日本近代史でもあり、文学や歴史への今日有効なアプローチの実践的提示ともなっている。週末など時間を確保して、じっくり読みたい一冊である。

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読むことと書くことの幸福

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

清水さんは、作家なのだけれど、いわゆる想像力でオリジナルな小説を紡いでいく、というタイプの作家ではない。そうではなくて、すでに世の中に存在する小説やら常識やらの素材を用いて、それをまねたりいじったりすることで、とても面白い、新たな小説を書いてしまうタイプの作家である。本書は、そんな清水さんの作家としてのヒミツが、じつにやさしい言葉で書かれた、いわば清水流文学入門といえるだろう。

ある素材を用いて、それを換骨奪胎、つまりはずらしたり皮肉ったりして新たな小説を書いてしまうこと、それをパロディといい、ある作家の文体をまねすることをパスティーシュというのだけれど、清水さんはそのすばらしさを語るために、世界文学を語る。というのも、作家その人が、ゼロからオリジナルに創り上げたもののほうが、なんとなく価値があるように世の中では思われていて、逆にいえばパロディやパスティーシュは、価値が低いもののようについつい思われがちだからである。しかし、世界文学の名作の数々が、実はパロディでありパスティーシュであったとしたらどうだろう。よく知られているように、シェイクスピアのお芝居だって、もとになった素材があるものがほとんどだし、本書でも述べられるように、近代小説の大ボス的な存在であるセルバンテスの『ドン・キホーテ』だって、パロディなのだ。そして清水さんは、世界文学を駆け抜けながら、パロディやパスティーシュの豊かな文学的魅力について、軽やかに語ってくれるのだ。

そしてもう1つ、本書が改めて気付かせてくれる重要なメッセージは、小説を読むことと書くことの幸福な関係について、である。はっきりいえば、小説というものは、とても自由な形式で、多かれ少なかれ作家が読んだものをベースにして新たに書かれるということだ。「なぜ小説を書くのか」と自問して、「小説を読んだからだ」と答えたのは後藤明生だが、清水さんのいっていることも、要はそういうことだ。だとしたら、パロディやパスティーシュこそが、自由であるべき小説の、本来の姿なのだ。だから、一般読者もまた、例えば清水さんの小説を楽しく読んで、新たに想像力をふくらませていく時、それは新たな小説を、清水さんの小説を素材にして、書いていることと同じことなのだ。そしてそれは、幸福な文学のありかたにちがいない。

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紙の本神様

2008/03/19 15:11

コミュニケーションを、ちゃんと、ふかく、考える

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


高校の「国語」教材とも成っている「神様」は、「美神(ミューズ)」とまで讃えられた川上弘美のデビュー作だが、いわゆる(作者の)意図や主題のような「解」を求める読み方にはおよそ不向きな小説である。しかしそれは「神様」の評価を貶めるものでは全くなく、むしろその短さとそれゆえの凝縮度と相まって、「現代文学」としての魅力に他ならない。こうした「神様」のポジティヴな諸々は、端的にその「文体」によって決定されている。それは、すでに述べたように意味に収斂していくのではなく、小説総体としても個々の細部としても、輪郭をあらわにすることなく曖昧な描法ながら、それでいて確かなリアリティをあっけらかんと達成していく、実に奥行きのある「文体」である。従ってこの「文体」が指し示すのは、何かしらの「解」とは対極にある、「問い」である。

「神様」における「問い」とは、もちろんコミュニケーションに関わるものである。ただしそれは、このくまと人との交流や抱擁を、単に異類同士のコミュニケーションとみなすだけでは、「文体」の奥行きをとりこぼしてしまう。そもそも、主人公格の「わたし」は性別未詳のままであるし、くまにしても、優しいのか凶暴なのか、実際の所はよくわからない暗部を抱えたままストーリーは続いていく。しかも、一見親和的な二人の「散歩」は、それでいて「わたし」はくまを確かに異類とみているし、くまも自らの名を明かすことなく、心の底からほぼのぼとした心の交流が描かれているわけでは全くなく、事態はむしろ逆である。一見、穏やかに楽しい「散歩」が展開されていくのだが、それを氷山の一角だと思わせる「奥行き」が、「神様」の「文体」にはあるのだ。そうした「文体」が差し出す「問い」とは、端的に、「コミュニケーションとは、他者とコミュニケイトするとは、そもそもどのようなことなのか?」といったものである。そうした「問い」を浮上させるのが、独自の「文体」で描き出されていく、「わたし」とくまの関係の諸相であり、それは「文体」ゆえの多面性を保持しながら、それでいて、ごくごくシンプルな1つのストーリーに収められている。まさに「美神」の仕事といえるだろう。ライト・ノベルズがひたすらに長く(薄く)なっていく現代を思うにつけ、この短編の秀逸さは顕著である。

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太宰治、デビュー

9人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、生誕100周年を迎えた太宰治に関する研究書なのである。

生誕100年というのだから、それは太宰治(本名は津島修治)という人が生まれてから100年がたったということで、逆にいえば、「太宰治という作家」が生まれてからはまだ100年たっていない。

本書がクローズアップするのは、「太宰治という作家」が生まれたころのことである。「こと」と漠然といったのは、そのころの太宰治の人生や思想、あるいは作品について論じられてはいるものの、それだけではないからなのである。

わかりやすく、作品からいえば「太宰治という作家」が生まれたころ発表された小説は、『晩年』(「思ひ出」「道化の華」etc)や『虚構の彷徨』(「二十世紀旗手」「虚構の春」)といった作品集に収められていて、実験的なものも多い。本書はそのいくつかについて、かなり細かく読んでいくことで、小説としてのしくみを明らかにしつつ、それが「太宰治という作家」のイメージにどのように関わっていたかを説明していく。

「太宰治という作家」のイメージについて本書では、作品だけでなく、また当時の太宰治の言動(芥川賞の落選!)ばかりでもなく、それらが当時のメディアでどのように報じられていったかまでが明るみに出されていく。例えばそれは、作品の同時代評価であったり、ゴシップまで含めた太宰治に関する風聞、さらには論壇のブームとなった「青年論」であったりと、かなり広い視野から議論が展開されていく。そこから浮かび上がってくるのは、実に様々な要素が組み合わせられることで「太宰治という作家」がつくられていく過程それ自体なのである。

本書を読むと、「青年の文学」「二十世紀旗手」など、太宰治についてよくいわれるコピーの背後にどのような歴史があったのか、そのことが、そこに込められた期待や欲望とともにわかるのようになるのである。

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紙の本未来形の読書術

2009/02/12 11:11

たのしい読書のために

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、「読書」という営みそれ自体を、ていねい、かつ、わかりやすく語ったものである。もちろん、われわれの多くは、誰に教わるともなく、いつしか本を読めるようになっており、何の気なしに本を読んでいる。もちろん、試験や研究など、特定の課題を想定すれば別だが、日常生活の中での読書に「困る」ということは、さほどないだろう。でも、もっと読書はたのしくなる。あるいは、豊かになる。本書が導いてくれるのは、そうした可能性としての、新しい「読書」の仕方だ。

とはいえ、それはことさらに難しいものではない。ざっくりいってしまえば、われわれがふだんから行っていることを、少し意識してみる、という程度のことなのだ。石原さんは、そのことを、読書論の議論などを巧みに用いながら、理論的にすっきりと提示していく。気づかずにいた、無意識の「読書」のメカニズムが、わかりやすく明かされていくのだ。それを、ということは、自分が何の気なしに行ってきた「読書」という営みを振り返る、そのことだけで、読書はとたんにたのしくなるだろう。楽しみ方のコツのようなものがみえてくるのだから、それは当然で、しかもそれは実に様々なジャンルの「読書」に応用可能な、原理的な方法なのだ。

ちくまプリマーらしい、実に有用なこの一冊は、だからタイトルに「未来形」が冠されている。何かしら、知っていることを確認するための「読書」ではなく、豊かな未来にひらかれた「読書」。それを、ことらさに技術や理論に走ることなく、われわれの日々の暮らしの中で、ささいな気の付け方で変えていける、そんな「読書」の仕方へと導いてくれるのが本書だ。好きな本や、読み切れなかった本、そんな本は、本書を読んだ後にまたチャレンジしてみるといい。そこには、たのしく豊かな「読書」がまっているはずだ。

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