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  3. コーチャンさんのレビュー一覧

コーチャンさんのレビュー一覧

投稿者:コーチャン

204 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本ねじ式 つげ義春作品集

2002/04/02 23:46

ダダの世界

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ビートルズの曲に『アイ・アム・ザ・ウォルラス』というのがある。「セモリナのニシンがエッフェル塔によじ登っている。ハレ=クリシュナを唄っている初級のペンギンたち、彼らがエドガー=アラン=ポーを蹴るのを君は見るべきだった…」。
 当時こういう詩や音楽はサイケと呼ばれた。この詩を書いたジョン=レノンは、意味のない言葉の羅列を楽しむ人間だった。ダダイズムという芸術の風潮について誰かが定義していたが、それは新聞でも雑誌でも小説でもなんでもいい、適当なページの適当な単語・フレーズ・センテンスをアトランダムに選び、それを組み合わせる。出来上がったものがダダの作品であり、それを活動の中心におくのがダダの芸術家だという。思うにジョン=レノンはダダだったのだろう。
 ダダイズムにおいて言葉は、意味をもたぬただの音になる。和声とリズムの中でそれは、特別の印象を耳に残す。しかし音は何を言ったのであるか? 何も…。
 『ねじ式』を読んだとき、私はこれを思った。無意味な言葉、脈絡のない文章。唐突な物語展開…。作者のつげ義春は、この漫画は自分が見た夢を題材にしたものだと言っている。たしかに夢の世界はこんな風である。
 しかし、この物語の中で響いている音には、リズムがある。「ポキン、金太郎」「なるほど、ポキン、金太郎」。そして啓示のような文句もとびだす。「でも考えてみればそれほど死をおそれることもなかったんだな/死なんて真夜中に背中のほうからだんだんと…/巨人になっていく恐怖に比べたら/どうってことないんだから」。
 つげ風ダダイズムには、とりとめのない言葉の羅列以上の何かがある。おそらく真にダダイズム的な作品には、こういう一種の不思議さがあるのだろう。ちょうどジョンの詩がそうであったように……。

 この作品集には、他にも多くの佳作があり、おすすめの1冊である。『山椒魚』は身も凍るような、それなのに本当に可笑しいブラック=ユーモアの傑作。『紅い花』は郷愁をさそう抒情詩としてあまりにも有名。

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紙の本

紙の本我と汝・対話

2002/05/23 15:01

自己と他者との関わりに焦点を当てた哲学

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 マルティン=ブーバーは、オーストリア生まれのユダヤ人宗教哲学者で、イスラエル建国をめざすシオニズム運動の理論的指導者の一人。『我と汝』はそんな彼の代表作である。
 この本の中心テーマは、自己と他者との関わりである。ブーバーによれば、人間の他者への関わり方には基本的に2通りあるという。一つは相手を「汝」として関わる仕方。もう一つは「それ」として関わる仕方である。この場合、他者とはかならずしも人間であるとはかぎらず、ものや動物、さらには芸術などの精神的存在もそれに含まれるという。
 近代の科学あるいは哲学における人間観・世界観は、他者を対象としてながめ、分析し、類型化し、利用する態度にもとづくものであり、ブーバーによれば、「それ」との関わりであった。20世紀に入って合理主義がゆきづまり、全体と個との矛盾がクローズアップされる中で、哲学においても、人間存在の意味が問い直されるようになった。普遍性や客観性ではなく、ありのままの人間存在を出発点とする実存主義はその一つであった。
 ブーバーは実存主義者ではないが、彼の提示する「汝」の概念もまた、ありのままの人間の体験を前提としている。ある人間にとって他者が「汝」となるのは、「出会い」によってであるとブーバーはいう。それは、計算されたり、予測されたり、法則化されるようなものではなく、「恵み」によってもたらされる出来事である。
「汝」とは、他の対象と肩を並べ、比較されるような存在ではない。それと出会われる人間にとっては、かけがえのない唯一の存在である。両者はたがいに冷淡・無関心ではなく、たがいに働きかけをおこなう関係である。
「汝」との関わりとは、端的には「愛」のことである。しかし単にそれを、人を愛することと片づけることはできない。ブーバーのこの愛の概念は、人間存在を理解するうえでの重大な示唆をあたえてくれるからだ。
 あるものを知ろうとする時、それの外側に立って、観察するだけでは十分ではない。それを愛し、それが働きかけてくる何かを受け入れる行為の中で、外から眺めるだけでは知り得ない何かを知ることができる。サン=テグジュぺリの『星の王子さま』できつねが王子に言う。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ。」ブーバーが『我と汝』で言いたかったのはこういうことではないか。
 ユダヤ教の神秘思想家ブーバーは、最終章で「永遠の汝」すなわち神について語る。神は汝としてしかとらえられない。神とは客観化することのできない存在であり、神との出会いも予測や計算のできないことなのである。そしてそれを実現するのもやはり、神からの恵みなのだ。
 なお、この本の翻訳は、みすず書房版以外にも2つ出ているが、みすずの田口義弘訳は、原書に忠実で、なおかつわかりやすいものとなっており、おすすめである。

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紙の本

美しき欺瞞―『南京の基督』に就いて

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書に収録された作品のうち『南京の基督』について書いてみたい。
 南京に住む娼婦で敬虔なキリスト教徒の宋金花は、ある時性病をわずらう。仲間は客にうつせば治ると勧めるが、心やさしい彼女にそのようなことはできず、金花は商売をやめる。そんな彼女のもとにある夜、白人男性がやってくる。身振りで、客はとれないと伝えようとする彼女に、男は無理やり関係を迫る。その顔が誰かに似ているのを意識しながら、彼女はなすすべもなく身をまかせた...
 愛と謙譲の権化のような娼婦、宋金花は、狂ったこの世を照らす一筋の光明である。だがこの小説を真に魅力的にしているのは、プロットの妙という気がする。彼女の心を美しく満たした奇跡は、実は忌まわしい人間の所業であった。その悪者も最後は神の裁きを受けた。これらの事実を知らないのは、宋金花だけである。物語の最後で、彼女の客である日本人記者は、知れば彼女自身が絶望と後悔にもがき苦しむであろうこの事実を、あえて知らせないことを選ぶ。こうしてわれわれは、美しい欺瞞が調和をする結末に無上のカタルシスを覚えるのである。嘘も方便、知らぬが仏、そんなことわざの真実を感じつつ...

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紙の本

紙の本エッジウェア卿の死

2002/04/03 14:35

意外と異常性

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 意外な結末は、推理小説においてあたりまえの手法である。意外に意外が重なり、最後の最後まで結末が見えないというのは、普通の推理小説にはない、この書の一番の魅力といえるだろう。
 また犯人の異常な人格は、犯罪者の類型の一つとして興味深いものがある。最後に犯人がおこなう告白は、物語の非常によいオチとなっている。

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紙の本

紙の本東京煮込み横丁評判記

2009/05/31 12:24

煮込みについての本ではなくて...

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 NHK「週間ブックレビュー」で紹介されていたので、手にとってみた。作者は、若い頃から海外旅行や食べ歩きが大好きという雑誌編集者・エッセイスト。アルフィーの坂崎幸之助の叔父でもある彼は、なかなかしたたかで、「東京の極上寿司店を軒並み踏破したいと考えたときは、さすがに懐のダメージが予測できた」ので、嵐山光三郎さんとの名店巡りの企画を立てて、そのお供で寿司の名品をたらふく食べたと言う。
 雑誌『遊歩人』に掲載された記事を一冊にまとめた本書は、タイトルこそ「煮込み横丁」だが、煮込みの専門店をあつかっているわけではない。煮込みに象徴される昭和の香りが残る居酒屋を求めて東京各地(やはり下町中心だが)をめぐる漫遊記と言った方がいいだろう。ひとつの町単位で構成されているので、ある店に行ったら、次はこの店と、一晩に訪ねた店すべてについて書かれていて、移動中に見た町並みまで記述しているところもおもしろい。また居酒屋だけでなく、スナックやバー、喫茶店なども登場する。個性的なママのいる小岩のdadaというスナックには行ってみたくなった。
 このように、執筆の目的が煮込みそのものではないので、仕方がないといえば仕方がないが、煮込みについて、いや食べ物全般についての記述に、やや具体性が欠けている気がする。各店のメニューの紹介はあっても、個々の料理がどんなふうに旨いか、材料はどんなのを使い、他の店とはこんなところが違うという、グルメ的な情報はほとんどなく、この種の薀蓄を期待した読者にはがっかりな内容かもしれない。文中の次の言葉が、このような人への明確なメッセージといえるだろう。
 「ところで煮込みの話はどうした、と言いたい読者もいるかもしれない。だから毎回のように言ってるでしょうが。私はなにも煮込みのマニアではない。ただ、“美味しい煮込みが食べられるような”店のある町、横丁が好きなのだ。」

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紙の本

紙の本イン・ザ・プール

2007/01/20 00:25

ほしのあきのナース姿を観てみたい!

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私の勝手な想像だが、主人公の精神科医、伊良部一郎は大病院のどら息子で、とてつもなく楽天的で明るいが、わがまま放題に育った様子だ。まともな病院経営も診療もとても無理と、おそらく親が特別の診察室をあたえたのだろう。それが地下の神経科病棟である。そして看護婦の中でも最も素行があやしく、つまはじきのナースがあてがわれたのだろう。それがマユミである。
 異様な雰囲気をもつ診療室でくりひろげられる奇妙な診察の数々。カウンセリングともおしゃべりともつかない医師からの一方的な会話は、どれも自分勝手な論理に満ちている。相手の不安と怒りをあおるかのような暴言の数々、常識を逸した患者との交際、診察前、誰に対してもかならず打つ注射...しかし、患者たちはこのような診療を続ける伊良部医師に不満や頼りなさを感じつつ、不思議と彼のもとへと通い続け、やがて各々の精神を蝕む病理をみずから解決するきっかけをあたえられるのである。
 特に感動的な物語でもないが、軽い笑いを求めているときにはおすすめの一冊である。むしろテレビドラマにするといいかもしれない。おおらかな3枚目デブの主人公はイシちゃんことホンジャマカの石塚英彦(色白という設定からは外れるが・・・)、そしてグラマラスな露出系ナースはほしのあきがいい。患者は毎回個性豊かなゲスト俳優が演じる...古畑任三郎のようにきっと人気のシリーズになるだろう。

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紙の本

紙の本正雪記 改版

2007/01/28 11:09

滅び行く牢人たちの物語

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 由井正雪。徳川三代将軍家光没後の政情不安の時期におきた、不平浪士らによる幕府転覆を計った慶安の変の首謀者とされる軍学者。
 日本史の教科書では、この人物と事件についてはその程度の情報しかあたえられていないし、その歴史的な意味についてもあいまいであるが、本書では、事件を主家の改易・とりつぶし等で扶持を失った牢人の観点から描くことにより、時代の変わり目で没落してゆく人々の必死の抵抗としての意義をそれにあたえている。
 江戸初期において多くの大名が改易・とりつぶしをうけた結果、牢人の数は膨大なものとなった。しかも幕府はそんな牢人たちの面倒を見るどころか、生計の糧を奪うことにより、彼らを社会的に抹殺しようとした。若き日に正雪が目撃したある光景は、その後の彼の生き方の原点となる。
 工事現場で、武士であるという理由で、賃金の支払いを拒まれた人夫がいた、男は自分が牢人であり、生活のためには土方もやらねばならない、自分には女房子供もいるのだと主張するが、聞き入れられなかった。幕府から、武士は働かせてはならないという触れがあったからである。食い扶持を奪われ、路頭に迷い、なおかつ生計を立てるために他の職業に就くことを禁じられるとは?!このように理不尽な社会のありさまは、正雪の胸に深く刻まれ、以後彼は、社会改革の理想を胸に秘めて生きることとなる。
 江戸において学問をきわめたのち、彼はさらなる修行を求めて旅に出る。そこで、一生行動をともにできる仲間と出会い、また将来の軍資金となる財宝も手に入れる。その後起こった島原の乱において彼は幕府重臣の松平信綱を説き伏せ、牢人部隊を結成して乱に当たろうとするが、逆に多くの同志を殺されてしまう。 江戸に戻り、莫大な資金をもとでに私塾を経営する一方で、北海道開拓など牢人の救済策を講じ、それを幕府にもはたらきかける正雪であったが、そのような運動や彼の周りに集まる人間たちの過激な行動は幕府に警戒心をいだかせ、ついに由井正雪は反逆のかどで切腹をさせられる。
 山本周五郎が史実にもとづいて書いた歴史小説は、他に『樅の木は残った』があるが、どちらも徳川幕府の極悪非道ぶりを描いている点では共通している。庶民の人情、風情を細やかに描くことの得意な山本だが、こと政治的な描写においては徹底した反権力主義をむき出しにするようだ。本書においてそれが顕著なのは、長年苦労して開墾した田畑を追われる下総の開拓民たちの決死の抵抗場面であろう。社会の多数を構成する勢力に刃向かい、非合理なまでの戦いをいどむ姿は、かつての左翼による階級闘争を思わせる。本書における反逆者たちを善、体制側を悪として描く単純な図式は、たとえば成田空港建設阻止をかかげた三里塚の人々の論理と、どこかしら似ている。思うにこの小説が書かれた1950年代は、革新的な政治思想が美化され、賞賛されていた時代である。権力者を忌み嫌い、愚弄することは一つのスタイルだったのかもしれない。
 それゆえ、史料の乏しいといわれるこの事件に関して、この小説がどれほど客観性をもったものかは疑問である。作者の山本が独自の解釈で、由井事件に当時の時代状況を投影させたとしてもまったく不思議ではない。無論、だからといってこの小説の価値が損なわれるものではないが、史実というものは、それをとらえる人間の主観や価値観によって、色づけされてしまうものだという常識的ではあるが、忘れがちなテーゼを改めて強く認識した。

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紙の本

紙の本読書力

2006/08/02 10:00

読書習慣促進のよい刺激

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 『声を出して読みたい日本語』等で有名な教育学者、斉藤孝の読書論。読書する力「読書力」を、個人の人格形成に役立つだけでなく、日本の地力と位置づける著者は、さまざまな角度から読書の効能を説き、読書を習慣化することの大切さを訴える。
 曰く、さまざまな分野の多くの書を読むことは、広い視野と教養を身につけさせ、人格形成に役立つ...読書は、自分自身と向き合う場であると同時に、著者との対話であり、それゆえ他者とのコミュニケーションの場でもある。人は読書を通じて励まされ、生きる勇気をあたえられる...読書の中で人は、実社会で経験できない多くのことを体験し、それによって人生を豊かにできる...
 全体として、系統的にというよりは、読書のすばらしさやその方法についてエッセー風につづった本である。個人的な経験にもとづいたそれらの提案は、首肯できるものばかりではないが、なるほどと思えるところを摂取して、個々人の読書習慣の充実に役立てるのはよいことだろう。
 たとえば本書では、4年間で文庫本100冊、新書50冊を目標として、読むことを薦めている。文庫本や新書に限定した読書というのは、それ自体かたよりのある読書内容ではないかという気がしないでもない。しかし、名作文学を中心とした文庫本、各界の専門家が平易な言葉で研究成果を解説してくれる新書は、知性と教養の宝庫であることを指摘されると、なかなかいい目標だな、自分もめざしてみようという気になる。
 赤・青・緑の三色ボールペンによる線引きという提案も、ページにインクをにじませることに抵抗のある私には採用できない技であるが、そのコンセプトは読書術の一つとして参考になった。
 著者みずからが推奨する名作本の紹介も豊富で、その中には子供に読んで聞かせてよいだけでなく、大人にとっても感動的だというギルガメシュ王物語の絵本三作(岩波書店)がある。そのベタ誉めの評を読むと、ぜひ購入したいという気にさせられる。
 読書が大切であるというのはある意味、常識的な論ではあるが、日本人特に若い世代から読書する習慣がとみに失われていく昨今、本書の訴えるところは切実で説得力がある。そんな常識の意義を再確認させてくれ、もっともっと読書をしなければ、という気にさせてくれる一冊であった。

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紙の本

紙の本風立ちぬ

2017/05/31 17:30

スケールの違い...

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まずハルキ文庫についてひとこと。「280円文庫シリーズ」の安価にはびっくりした。どれも著作権の切れた名作ものなので、この値段も納得できるが、それでも他の出版社の場合、この種の文庫なら通常500円は超えるだろう。それをあえてこの値段に設定したのは、角川春樹社長の「安いといろいろな人が手に取ってくれて、本好きが増える」との考えからという。装丁もファッショナブルで紙質も心地よい。出版者の意図は十分に達成されたものと私は信じている。
 さて、この『風立ちぬ』だが、なるほど端正な文体の美しい小品である。しかし、この名作を読んだ後に私が抱いたのは、共感というよりはむしろ、妻の死を題材にしてまで何を訴えたいのかという戸惑いであった。しかもこれを執筆しようと思い立ったいきさつまでが、そこに記されているだけでなく、妻が生きているうちから、彼女が死ぬという前提で小説を書こうとする決意までが綴られていることには閉口した。私小説家とはこうまでして、ドラマティックな展開を、自分の人生とその記録としての作品に求めるものなのか?
 最近読んだトーマス=マンの『魔の山』も、舞台はサナトリウムであった。いずれも、病気が身近なものとして描かれた、おおむね健康な読者にとっては、別世界の物語である。だがしかし、『魔の山』がハンス=カストルプ青年の求道性や人間としての成長を前面に出しているのに対して、この『風立ちぬ』では、悲劇性におぼれる愛の恍惚というのか、退嬰的な気分の中で愛や人生が描かれているだけである。たとえば、後者の主人公が妻を抱擁するときの至福感は、まるで妻が死にゆく運命にあるがゆえとの印象をぬぐいえない。物語の最後が、妻の死後、山にこもって彼女の思い出に浸るというのも、正直センチメンタルすぎて読むにたえられなかった。20世紀前半にドイツと日本で書かれたそれぞれの作品が、量においてだけでなく質においてもスケールが違うことは明らかである。

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紙の本

紙の本本能寺の変

2002/06/17 05:37

リストラ中高年とのアナロジー

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

明智光秀ほどの人物がなぜ、主君殺しという馬鹿げたことをしでかし、己れの器でないことを知り尽くしている天下人を目指したのであるか。
この本ではその理由が、織田政権下でやっかいものにされ始めた光秀の焦りであったと見る。
作者自身があとがきに書いているように、老境に入り、同僚の者がつぎつぎと放逐されてゆくのを見、毛利攻めで、自己の不得手とする野戦を強いられた光秀のわびしい姿は、現代のリストラ中高年のすがたそのものである。
本能寺の変は、そんなリストラ人間がこころみた最後の反抗であった。そしてかなしいかな、その反抗は自らの破滅を招くのみであった。
またこの本では、本能寺地下の煙硝蔵について触れている。信長の遺骸が最後まで見つからなかったのは、爆薬庫が爆発したためというのは面白い推測である。

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紙の本

道徳はサルに学べ?

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タイトルから察するに、コンゴに生息するチンパンジー科のボノボに関する本のようであるが、主に語られるのはチンパンジーを中心とした霊長類一般の生態であり、英語の副題「霊長類における人間性の探求」がより適確にその内容を言い表している。著者のフランス=ドゥ=ヴァールは、霊長類学者としての経験から、道徳が人間特有のものであるという考えに反対する。彼は類人猿の行動様式の中に、われわれ人間と同じ、他者への思いやりや平等原理などの道徳観念や、死生観、超越者などの宗教的感情が、外部から見るかぎりではあるが、観察できると指摘する。
 たとえばボノボは、集団内の摩擦を避けるために、互いの性器を触り合い、異性、同性にかかわらず性行為をおこなう習性をもっている。この「乱交」のおかげで、彼らの社会はどの子がどの父親をもつかがはっきりしないが、このことが他のチンパンジー種にありがちな子殺しを皆無にし、種全体の平和を保っているという。人間流にいえば、同胞とおおらかに性を楽しむ快楽主義的ライフスタイルであろう。
 このような類人猿の社会にもモラルは存在するし、それを破れば厳しい制裁が課される。チンパンジーの社会では、仲間が事故で死んだ場合には、それを嘆き悲しむある種の敬虔なムードが醸し出されるという。また雨が長く続くときなど、天に向かって雨をやめるよう懇願するような動作も見せるという。
 著者は、これらの観察にもとづいて、道徳性や宗教性が人間だけでなくすべての類人猿に共有されており、その起源は、われわれ人間よりはるかに前の種に由来すると主張する。その根源にあるのは、哺乳類全般にそなわった他者を思いやる感情のようだが、そこにおいては、道徳哲学でつねに問題となる存在(ある)と当為(あるべき)の区別は無意味であるという。つまり、類人猿にとって「なすべきこと」とは、同胞を助けるという自らの本能に従うということにほかならないからである。
 本書は、類人猿のうちにあるわれわれ人間と変わりない精神性を明らかにしている点で、たいへん興味深かった。しかし、われわれ人類が育んできた道徳がなんら特別なものではなく、むしろ道徳性の本質が類人猿の行動原理のうちにあるかのような書き方には疑問をいだいた。まるで道徳はサルに学べとでも言わんばかりではないか...
 著者が自らの研究領域を越えて、道徳とは何かという哲学的な議論に終始する姿にも閉口した。人間を物質から成り、自然法則にもとづいて行動する存在にすぎないという考えは、太古から存在する。経験論、機械論などと呼ばれたこの主張は、精神の実在や意志の自律を主張する人びととのあいだに長い哲学論争を繰り広げてきたが、ヴァールは、自らが引用している経験論の大御所ヒュームの二番煎じのような議論を展開しながら、道徳が人間に固有のものであると説く宗教家や哲学者たちを愚弄する。
 また、まるで美術書のように頻繁に引用されているヒエロニムス=ボスについての講釈も、冗長で煩わしい。ヴァールは、この15世紀生まれのオランダ人画家の、「楽園」などの作品に示された人間観察の鋭さを称賛し、進化論さえも先取していたと思われる数々のモチーフにもとづいて、自身の人間論・道徳論を構築している観がある。しかし、いったいなぜ霊長類の研究発表の場が、美術作品の解説に割かれなければならないのか、私は最後まで理解できなかった。

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紙の本

メディアの代弁者

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タレントの春香クリスティーンは、二年前ある番組で、安倍総理の靖国神社参拝についてコメントを求められた。彼女の答えは、「海外でやっぱりこの問題と比べられるのが、もしもドイツの首相がヒトラーの墓に墓参りした場合、他の国はどう思うのかということで議論されるわけですけど、難しい問題ですよね」。わが国の英霊をヒトラーと同一視するかのようなこのような発言に対して、放送後猛烈な抗議がネット上でおこった。
 この経験を通じてネット上で右翼的な発言を繰り返すネトウヨの存在について考えるようになった春香は本書において、各分野の識者に広く意見を求めつつ、ネトウヨとはどういう人種か、彼らが登場するようになった背景、彼らの問題点などを探る。結論としては、ネトウヨは真のナショナリストではなく、排他主義的な人種であるということらしい。そこで、本書を読んでの感想をいくつか述べてみたい。
 第一に、執筆のきっかけとなった「ヒトラー発言」だが、どう見てもこれは非常識な発言である。彼女はこれを、ネットで見ただれかの意見と弁明するが、上に引用した言葉を見るかぎり、そのようなことは伝わらないし、他人の言葉であれ、このような意見を紹介すること自体、不謹慎である。しかし彼女は、このことについていっさい反省は述べず、逆に自分が被った暴言の数々を紹介して、その恐怖をことさらに強調する。だが、彼女が例として掲げたものもそれほどの暴言と思われないし、べつに脅迫文が送られるなどの危険な目に遭ったわけでもない。この件についてまずおこなうべきは、素直に謝罪することなのに、彼女のやっているのは、問題のすり替えにしかみえない。
 第二に、自分を傷つけた発言者たちを「ネトウヨ」とひとまとめにして、危険分子のように扱うのは短絡的である。そもそもネトウヨとはどういう人たちか?春香はネット上で右翼的発言をする人たちというが、特定の民族への憎悪を表明する輩はいいとして、たとえば首相の靖国参拝に賛成する人もそれに含めるのを見ると、ちょっと待ってくれと言いたくなる。
 さらに、このような人びとの中からヘイトスピーチをおこなう輩が出てくるというのもたいへんな論理の飛躍だ。そもそもヘイトスピーチ規制法に対しても慎重な意見が多い昨今、特定のデモをヘイトスピーチに分類すること自体、表現の自由の侵害につながる危険性を有している。何でも軽々しくヘイトスピーチと呼ぶべきではない。
 新聞やテレビなどの一般メディアは、総じて左寄りで、保守的な発言を封じる傾向があるが、現代のネット社会においては、一般メディアでは規制がかけられるようなことも自由に発言できる。その結果、ネットでの右寄り、保守的な発言が相対的に増大した。ネトウヨとは、そんな自由な意見を述べる保守系の人々に、彼らのことを快く思わない人々がつけたあだ名である。だからネトウヨという言葉自体が偏見と差別に満ちていると私は思う。ネット社会にお株を奪われたテレビや新聞も、そのような偏見を助長することで自分たちの地位の復権を狙っているのかもしれない。
 春香クリスティーン自身、本書で、人を右、左と分類することを批判しているが、本人が批判者のことをネトウヨとレッテル貼りをするのは、大きな矛盾である。ある意味、彼女は旧来の価値観にしがみつき、自分とは異なる意見を排斥する現代のマスメディアを代弁しているといえよう。

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紙の本

紙の本草枕・二百十日 改版

2014/12/30 11:34

抽象的なプロレタリア作品

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『二百十日』について書いてみたい。
 社会主義的な小説である。漱石も一歩まちがえたら、プロレタリア文学の先駆をなしていたかもしれぬと疑われるそんな作品だ。同時に、初期の彼の文学に典型的にみられるしゃれっ気のある会話に、はじめから惹きつけられる。(特に旅館の女中と二人の会話は絶品!)
 内容としては、圭さんと碌さん二人の若者が九州の阿蘇を旅するその様子が描かれているそれだけの物語である。二人のうち圭さんが、社会主義者で、この社会を金持ちが威張る不公平な世であると勇ましげに主張する。碌さんは専ら聞き役に回り、圭さんの議論に合いの手を入れる。
 社会主義といっても、圭さんの議論は抽象的あるいは暗喩的である。彼は、民衆を圧迫した上、彼らに頭を下げさせようとする金持ち連中の行為を、人の足を踏んだり、頭をひっぱたいたりしておきながら、相手にあやまれと要求するのと同じと見なす。
 彼はまた自分がめざしているものを「文明の革命」と呼ぶ、それは血を流さず、頭を使う革命であるという。その敵とは「金力や威力で、たよりのない同胞を苦しめる奴ら」、「社会の悪徳を公然商売にしている奴ら」すなわち 華族や金持ちである。批判は最後まで続く。
「...華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ...例えば今日わるい事をするぜ。それが成功しない...すると、同じようなわるい事を明日やる。それでも成功しない。すると、明後日になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断だ」
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
 社会に現存する悪を、ありのままの姿で描いた(少なくとも作者たちはそう思っていた)のがプロレタリア文学ならば、漱石の批判は、最初から最後まで漠然とし、具体性を欠いている。この作品と、直後の『野分』をピークとして、その後彼の社会批判は急速にしぼみ、その後はむしろ人間の内面へと関心が向けられる。その後、『坑夫』などで、具体的な社会の現実を描くことはあるものの、そこにはこの作品に見られる毒づくような鋭い社会批判はない。そこでの現実はむしろ内面を覚醒させてくれるものとして描かれる。
 『二百十日』はそれゆえ、漱石作品の中では最もプロレタリア臭の強い異色の小説である。しかしながら、彼がその後これに乗じ、安易で軽薄な国家・社会攻撃に突っ走ることなく、文学が本来目ざすべき内面の世界へと方向転換していったことは、漱石文学の愛好者としては喜ばしい次第であった。

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紙の本

主婦パワー炸裂!

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 「男女共同参画社会基本法」制定から5年、日本国内では男女平等が促進され、女性の地位も向上したかのように見える。しかし、このような制度の恩恵をうけるのは、育児の必要のない未婚キャリアウーマン、それも高収入のエリートだけであり、専業主婦や低所得独身女性の生活は、以前よりも苦しくなっている。この制度は、女性間の身分的・経済的格差を生み出すだけで、一人ひとりの女性を幸せにするものではない!本書では、主婦ならびに介護者としての経験をもつ著者が、現行制度の分析と自らの体験にもとづいて、男女共同参画社会の矛盾点をさまざまな角度から指摘する。
 男女共同参画社会がめざすのは、税金等で男女に等しい負担を課すことにほかならず、その結果、女性が家庭に入り、主婦業に専念しながら子供を育てることがますます困難になり、少子化傾向は改まらないであろう、という著者の基本主張は共感できる。しかしその論述の仕方は、主婦の立場からの感情的・扇動的な表現が目立ち、学術的に掘り下げた議論にはなっていない。
 第1・2章は、男女共同参画社会の制度化に寄与した上野千鶴子、大沢真理ら東大のフェミニストやエリート未婚女性一般に対する中傷といった色合いが強い。3章では、義父母を介護した自らの体験のすさまじさを物語り、老人介護の厳しい現実を浮き彫りにしているが、そこから現行制度の問題一般を論じるにはいたっていない。手に負えないわがままぶりを発揮する義父母への不満をぶちまけるその様子は、家庭をもっている者はこれだけ苦労しているのよと、前章で批判したフェミニストたちへの面当てのようにも見える。
 さらに先に進むと、この本が何を主題にしているのかがわからなくなってくる。4章では、皇室典範改正問題から発展して、かなり露骨な雅子妃批判をおこなっている。これについては私も常々感じていたことであり、皇室に関する開かれた議論という観点からも、おおむね賛成したいが、語り口はどことなく女性週刊誌やワイドショーのそれのようである。
 5章にいたっては、韓流ブーム到来以前からのファンと称する著者自身の韓国ドラマ論が展開される。冬ソナなどで使われている音楽はほとんどが日本やアメリカの古い曲の盗作であること、ストーリーもワンパターンで現実味がないこと、それでも韓国ドラマには70年代の日本の恋愛ドラマがもっていた男女の理想像が描かれていて、日本人女性はそれにあこがれるのだ、といったことが滔々と論じられる。挙句のはては、ヨン様こそ韓国人俳優の中で最高のスターであると断言する始末...
 エリート女性に対するいやみったらしいバッシング、ミーハーなゴシップなどが脈絡なく繰り広げられる議論を眺めていると、ずうずうしく好き勝手な意見を並べているだけのようであるが、家庭をもたない自立女性が幅を利かす時代にあって、このような本の存在は、女性の草の根的存在である主婦の復権を声高に叫んでいるようで勇ましい。昨今のジェンダーフリー論に一石を投じる一書としておすすめしたい。

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紙の本

建国の歴史を教えない国

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わが国は現存する世界最古の国家である。これは教科書などに載っている世界の諸王朝の興亡図を見れば、容易に見てとれるが、われわれはこのことを誇るべきであろう。ところが現代の日本人は、この事実に無頓着なばかりか、この世界最古の国家がどのようにして生まれたかについてほとんど何も知らない。
 最近、何かと話題にのぼる明治天皇の玄孫、竹田恒泰が書いた本書は、このような現状への憂慮から始まっている。竹田によれば、戦後、わが国の学校教育で日本の建国について教えられなくなったその背景には、古事記、日本書紀が歴史書ではなく神話であり、史料的価値はゼロであるという考えがあるという。記紀の代わりに教えられるのは、縄文・弥生といった考古学上の研究結果ばかりである。天皇についても、初代の神武天皇から何十代にわたって記述はなく、聖徳太子が摂政を行った推古天皇に至って、初めて天皇が登場するというありさまである。
 竹田は、学校教育で建国の歴史を教えない国は、世界でただ日本だけであると指摘したうえで、どの国の建国の歴史も神話を含むが、だからといってそこに書かれたすべてが否定されるべきではないと主張する。たとえば聖書にはマリアの処女懐妊という不合理な記述があるが、だからといって、イエスやマリアの存在が否定されることにはならないだろう。同様に、天皇家の祖先が神々であると記されているからといって、古事記の記述すべてがウソということにはなるまい。彼はまた、「十二、三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」というトインビーの言葉を引き合いに出し、わが国で記紀を歴史として教えないことが民族滅亡にもつながりかねないと警告を鳴らす。これは、長い年月をかけて日本を解体する連合国の策略であるとさえ言っている。
 本書では、このように記紀にもとづく建国の歴史を教えることの重要性が説かれ、実際、それらにもとづいた古代史の鳥瞰が試みられている。そこでは、日本が中国歴代王朝の干渉に耐えながらも、いかにして独立国としての道を歩んできたのかが描かれている。とりわけ、中国への臣従を意味する柵封体制をあえて拒否したというくだりは、自分にとっても思いもよらない視点で、実に新鮮にうつった。
 後半の第2部では、現行の学校教科書を批判するだけではいけないという考えからであろう、中学生に向けて建国から奈良時代に至るまでの日本の歴史を語る著者自身の文章が掲載されている。それは、少なくとも現行の教科書よりはずっとわかりやすく、かつ内容に富んだ記述である。いつかぜひ、近代現代までも網羅した竹田版歴史教科書を出版してほしいものである。

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