とみきちさんのレビュー一覧
投稿者:とみきち
あたりまえのこと
2006/06/18 15:28
もっと長生きして毒を吐いてほしかった著書の小説論
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2005年6月に69歳で亡くなった著者の小説に関するエッセイ集。自分の書くものには「毒」があると著者が言うとおり、歯に衣きせぬ物言いには、その主張に賛成であろうと反対であろうと、思わず居住まいを正さずにはいられない。
前半部分の「小説論ノート」は1977〜79年にかけて新潮社の雑誌「波」に連載されたもの。著者曰く、「小説に関連したさまざまな観念についての私流の定義集か自家用倫理規定のようなもの」を書いていたのが、「やっているうちに、悲憤慷慨とはいわないまでも小言幸兵衛的発言に偏するように」なった、という。後半の「小説を楽しむための小説読本」は、具体例を挙げてスパスパっと見事に斬っていく、痛快を通り越すほど厳しい文章の数々である。
さて、倉橋由美子をインターネットのWikipediaで引いてみると、「一貫して言い得ることは知的かつドライな視点を持ち続けたことであり、イマジネーションの重視と文体の鍛錬を常にエッセイなどで主張していた。特に私小説など作家本人の身の回りを描いた作品には極めて批判的なスタンスであった」とあるが、本書においても、私小説に対する批判は痛烈である。
「小説では何を書いてもよいということになれば病気のことを書こうと思いつく人間も出てきて、病気またはその一種である狂気について書き、それで画期的な小説ができあがることがある。その徹底したものに、最初から廃人である人間をつかまえて公衆の面前でその醜悪な裸体を鞭打って見せるという趣向の小説があり、叩かれるにつれてこの廃人は言葉を吐く。」
その反吐のような小説の一例に挙げられているのが、『人間失格』である。そして、問題は、このような小説が世の中に受け入れられること自体であるというのが著者の言。「汚物もまたそれを必要とする人間にとっては甘美な救いの糧なのである」。
旗幟鮮明。斬り捨てるものは徹底的に斬り捨てる。いささかの妥協もなく、自ら信ずる小説論を主張する。文壇や先人や世の中の評価など、他人の顔色を伺うことのない堂々たるスタンスは、反論したい向きには厄介極まりない。もっと長生きしてにらみを効かせ、小言幸兵衛あるいはいじわるばあさんぶりを振りまいてほしかった。
一階でも二階でもない夜
2007/03/06 22:42
氏の書く小説同様あてどなく歩くエッセイあり、作家の素顔がちらりと見えるエッセイあり。
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堀江敏幸の小説は、エッセイのような、ノンフィクションのような、なんとも言いようのない独自の世界。そしてエッセイもまた、小説のような、フィクションのような、つかみどころのないものが多い。あえて分類してみると、幾つかのパターンがある。
その1 ふらふらとあてもなく街をさまよっているうちに、出会った人、出会った場所、出会った出来事を綴ったもの(エッセイ&小説)
その2 ふと気になった言葉、ふと聞こえた言葉から、過去あるいは空想の世界に入り込み(いわゆるプルーストの特権的瞬間)、筆者の体験や心に残ったエピソードが語られるもの(エッセイ&小説)
その3 大好きな小説や作家について語るもの(エッセイ&小説)
その4 ちょっと無理してテーマを立てて綴られたもの(エッセイ)
その1こそが、堀江敏幸の真骨頂。小説なのかエッセイなのか、実話なのかフィクションなのか、などという疑問は、堀江氏の前には全く意味をなさない愚問でありましょう。その証拠に、「存在の明るみに向かって」というタイトルで、2002年10月号の「みすず」に掲載されたエッセイで、敬愛する書き手、宇佐見英治と思いがけなく書簡をやりとりすることになった顛末を書いたあと、その宇佐見から届いた手紙の文章を引用し、さらに著者は次のように書いている。
“面白いけれど結論がない。それなりに読めるけれど、たいした筋もない。これは他人ごとではなかった。当初、私は二冊の散文集を上梓していたのだが、得られた評の大半は、ほぼこのとおりだったからである。それが不当だと感じたのでも、失望したのでもない。まさしくそのような感覚をもたらす散文をこそ書きたいと望んでいる者にはあまりにも当然の感想で、なぜそれほどわかりきったことに言及しなければならないのか、理解に苦しんだというだけの話だ。”
筆者が、自分と他人との距離感や立ち位置の違いを、このように現実の問題として描くことは少ない。たいがいは、自身のもつ独自の性質や厭世観のせいで、世の中の出来事やテンポ、現実感からは少し距離があるのだ、といったおさめ方をしているから。本書には、『いつか王子駅で』が書かれたときのいきさつや、芥川賞受賞の連絡を受けたときの出来事などが、あからさまではないながら、それとわかる形で書かれたエッセイも含まれていて、ファンとしては大いに楽しめる一冊となっている。
さて、上記の4分類に戻ると、その1こそが真骨頂と書いてはみたが、言い換えると、堀江節が出るのがそのパターンであり、読者が筆者とともに精神と想像の放浪ができて、一体化しやすいという意味でそのように言ったまでで、エッセイとして筆者の力量が大いに示されるのは、その3であると私は思っている。本書ではまず、須賀敦子さんを悼む文章が傑出している。また、書評者としての力量も抜群で、氏の推薦文のほうが推薦された書そのものよりすばらしかったという目に何度か遭遇したことがあるほどだが、今回の傑作書評は、「湿り気のない感傷 獅子文六」であった。思わず図書館で『悦っちゃん』を検索したのであった。
無銭優雅
2007/03/06 14:07
大人の恋「オトコイ」どころか、40代の三文小説ばりの恋愛を描くふりをして山田詠美という人は……
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愛を描いているようで死を描いている。出会いを描いていると見せて別れを描いている。人と人の距離のとり方を描くことによって人生を描く山田詠美は、今回も憎らしいほど自在である。またまたやられたーという感じ。
主人公は、42歳で出会った栄と慈雨。独身同士。つき合って3年になる今も、「私たちってちょっと変?」と思うほど甘え合っている。その甘えぶり、めろめろな様子の描き方がリアル。詠美ちゃんは、恋愛している人の気持ちや様子を描くのが本当に上手。特に今回の主人公の慈雨は、作者の価値観が投影されていることもあってとてもわかりやすい。
二人は、栄の提案によって、死によって盛り上がる三文小説を地でいこうじゃないかという意気込みでつき合っている。そして、栄が勧める小説を慈雨は素直に次々と読む。要所に、死によって終わる小説(小説に限らないけれど)の一部が引用されている。この選択がまたまた山田詠美ならではのこだわり。詠美ちゃんは小説が大好きなのねー。
さて、栄は、詠美ちゃんの持論である「男を甘やかすのは楽しい。甘やかしてこそ自分が甘える楽しみがある」という女心をよーくわかっている(と思われる)、詠美ちゃん好みの男である。社会的にも、外見的にも、45歳の男にしては全く情けないような、頼りないような人なのだけれど、恋する女にとってはそういうことは問題外なのである。自分が心地良くなれる相手であれば、それでよいのだ。
“私のとんでもなく厚かましい発想を、彼だけは馬鹿にしたりしない。すっげえ、慈雨ちゃん、てんさーい、などと喜ぶ。そして、私は図に乗る。そうさせてくれる彼に感謝する。だから、私も、彼を図に乗らせてやることに余念がない。この楽しみ、二人だけのもの。周囲なんて見えない。社会性の欠片もなし。私たちは、傲慢な日陰者である。”
こうした自己分析、恋愛分析を慈雨は繰り返しながら、自覚的に栄との恋を楽しみ、栄によって変わっていく自分を楽しむ。
山田詠美の小説の主人公は、自分を偽らないし、偽れない。能動的に行動する。感情的である。醒めていることを美徳としない。夢中になる。不器用である。大切なこと、大切なものをいつも探している。自分が大切にされることを求めている。「大切にされているかどうか」という感覚の基準は、人から与えられるものではなくて、それぞれの心の中にあるものだ。他人が見れば幸せそうに思える人が本当は幸せでなかったり、その反対のケースがあったりするのはそのせいだ。だから、人はそれぞれ、自分が何によって本当に幸せを感じるのか、もっと真剣に探さなければいけないのだ。詠美ちゃんの主人公たちは、いつもそうやって生きている。
見つけようと思ったからといって、それが運良く見つかるとは限らない。でも、この小説の中では、たいせつな人、たいせつな場所、たいせつにしたいものは、見つかっている。そればかりか、ひとはどうやって別れの悲しみ、心の中にある苦しみを乗り越えて立ち直っていくのか、ということが描かれる。それを描くためにこそ、山田詠美はいつも恋愛を書く。だから、どの恋愛も素敵で、かけがえのない恋愛に昇華しているし、今すぐ自分もそういう恋がしたい、と思わせられるのだ、と思う。
河岸忘日抄
2005/09/26 12:35
自己の内部の時間に身を任せて生きる日々の重み
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のっけから『いつか王子駅で』の再来かと思うような堀江節。息の長い文章といい、唐突な状況説明といい、段落の終わりにふと配された言葉をきっかけに、まったく別の時間に起きたストーリーが展開する構造といい。
「あれもこれも、ぜんぶ好きに使ってくれたまえ」と持ち主に言われて、フランスのとある河岸に停泊中の船に暮らすことになる主人公「彼」は、「河岸でぼんやり日を忘れるという自身が課した仕事」を淡々と重ねていく。それは、物理的な時間の流れに支配されず、自分の内面の時間に身を任せて生きる日々である。
船に移り住む数日前に購入した文庫本、ブッツァーティ作の『K』。中に描かれる化け物みたいな鮫「K」と、つきまとう「K」の意図を誤解した末に生涯を閉じるステファノ少年の影は、彼の心に住み着き、生活の一部となる。その作品だけでなく他の書物の一節や、自身の遠い過去、近い過去へと意識は自在に往来し、そのときどきの内省が綴られていく。これもまた、『いつか王子駅で』の手法と同じである。
自己の内部の時間に身を任せて暮らしていても、その内省の日々はときに、極めて日常的な事柄によって均衡を破られ、物理的な区切りをつけられる。トナー切れを示すファクスの赤ランプの点滅や、自転車でやってくる郵便配達夫、フランス滞在資格取得の手続き等である。出来事とは言えないほどの出来事が、彼にとっては一つの事件である。
忘日の日々はそもそも、自身の人生に「踊り場」を意識的に設けるものである。河の向こう岸に踏み出すまでの「ためらい」の時間をつくり出し、自分をそこに押し込める。迷いながら漂い続ける彼の立ち位置を、ファクスでのやりとりを通じて理解を示し、相対化する役目の人物、日本にいる枕木さんという年長の友人もまた、次に踏み出す一歩に迷っている存在だ。
人生の機微をあらわすために選び抜かれた言葉の数々に触れるたび、作家がその言葉を選んだときの気持ちを思う。「命の芯」「並列型と直列型」「まっとうさ」「生活臭」「適切に沈む」等々。言葉が言葉を呼び、比喩が連想を呼ぶ。人間が言葉を使って考え、感じて生きる生き物であることを、しみじみと思う。そして、「踊り場」を自らつくり出すのは、次の一歩を踏み出すことよりも、大きな勇気と決断を伴う作業なのではないか、と思う。静かに心にしみ入る小説である。
雨にぬれても
2005/05/20 01:27
その人にしか生きられない人生がある
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上原隆は、新しいタイプのノンフィクションを書く人である。それについては、解説の渡辺一史がうまくまとめているから、少々長いけれどまず引用する。
——私は、上原さんの仕事を抜きにして、「これからのノンフィクション」は語れないと思っている。(…中略…)「ルポルタージュ・コラム」と上原さん自身が命名している一連の仕事は、この『雨にぬれても』で三冊目だ。これに先行して、すでに『友がみな我よりえらく見える日は』と『喜びは悲しみのあとに』という二冊の文庫が同じ出版社から出ている。(…中略…)何の予備知識もなかったものの、何気なく手を伸ばしパラパラと読んで、そしてギョッとした。やられたー。完全にやられた、と思ったからだ。「フツウの人を、フツウに描くには、どうしたらいいのか」という、私が思い悩んでいた難問への一つの模範解答を見せられた気がした。——
続けて、上原自身のあとがきを引用する。
——本書の文章のほとんどが幻冬舎のウェブマガジンに月一回のペースで連載したものだ。2002年8月にスタートし、2005年1月に終わった。取材ものを月一で連載をするのは初めての経験だった。毎月、人と会い、話をきき、行動をともにし、原稿をまとめる作業は、ちょっと(いや、かなり)たいへんだった。しかし、訓練だと思って続けた。なんのための訓練かというと、私のひそかな夢のためだ。その夢について少しだけ書く。私は本書に書いたような文章を新聞紙面に載せたいと思っている。アメリカのコラムニストのような仕事をしたいのだ。新聞の隅っこに載っていて、朝食を食べながら読んだ人がふとコーヒーカップを宙に止めるような文章。そしてその文章が心に残り、その日一日人に対してやさしい気持ちになるようなもの。——
私がつけ加えるべきことは、もう残っていないように思う。一度読んでみてください、と言うだけかな。以下は蛇足。
語る人が、自分の経験や悩みの一端を語ったことで、一歩でも、半歩でも前に進んでいるだろう、と感じられる文章が多い。上原は決して、相手に対して同情的だったり、思い入れを深くしたり、批判的だったりしないようにしている。しているけれども、好感を持っているのか、共感できずにいるのかなど、感じている気持ちは文章を通して伝わってくる。
上原が書き取るのは、語る人の人生のほんの一部だ。終わった人生でもなければ、生い立ちから調べつくされた人生でもない。ほんの一部、それも人生の真っ最中の本人の語る話。そんなほんの一瞬の接点から、教訓や結論が出てくるはずがない。上原は、そこで聞いた、見た話を、上原の感性のフィルターを通してそこに書く。ただそれだけのことなのだが、実はなかなかまねのできないことだろうと思う。上原自身が試されるからだ。上原の感性が、語り手からも、読者からも信用されなければ成り立たないからだ。
誰もが懸命に生きている。どんな人にも、その人にしか生きられない人生がある。上原の文章からは、そのことをこちらに伝えてくる。
ジョゼと虎と魚たち
2004/05/11 21:15
できれば男性諸氏は本書をお読みくださいますな。
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
さまざまな彩りの恋愛を描いた大人の短編集。田辺聖子って、恋愛の達人どころか、人生の達人だなあと感心しきり。
表題作の主人公ジョゼは、下肢の麻痺のため、車椅子がないと外出できない。母は小さい頃に家を出てしまい、17歳の時から父方の祖母に引き取られた後も、身を隠すように生活させられ、なかなか外出ができなかった。
ひょんなことから行き会った恒夫と、祖母の死後に同棲を始める。ジョゼの希望で二人は動物園に行き虎を見て、恐怖に震えながらジョゼは言う。「一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに。怖うてもすがれるから。……そんな人が出来たら虎みたい、と思てた。もし出来へんかったら一生、ほんものの虎は見られへん、それでもしょうない、思うてたんや」。
これほど切ない思いの打ち明け方があるだろうか。そして、水族館で魚を見るシーンは、もっと心にじんと響く。是非とも実際に読んでいただきたい。
そうかと思えば、『うすうす知ってた』以外の7篇は、恋に身を焦がすようなうぶな女性ではなく、酸いも甘いも噛み分けた、男に寄りかからない強い女たちが主人公。自分を「演出」したり、自分の求める「愛」と「幸せ」を天秤にかけて、相手との関係を見定める。その心の動きを描くとき、おセイさんの腕は冴えわたる! ちょっとおセイさん、こんなに女の心の内、手の内を世間にさらされたら、同じ女として困っちゃいますよ、と言いたくなる。
どれもこれも男と女の関係を描いているが、大体において女のほうが数枚上手。自分の意地悪さや欠点もわかったうえで、「自分」を演出している。共通しているのは、ダメな男を見ても「かわいらしいなぁ」という気持ちを持っていること。それでも情に任せて男の言うなりになることはなく、自分の決断をする。それが大人の女の余裕でもあるのだが、隠された哀しみもあるのだ。でも、おセイさん、「哀しみ」とか「演出」の裏舞台を男に知らせちゃいけませんよ。賢くて強い女同士が共有する「部外秘」の事項でしょう。
『雪の降るまで』の大庭ほどの男が、一体この世にどれほどいるだろうか。『恋の棺』で、主人公が、若い義理の甥に心を寄せながら、若さゆえの不格好さを好ましく思いながら、「二重人格」ぶりを自覚しつつ、愛を仕掛けていく展開とその結末も見事! この二作はそれぞれ、強い女の願望の一つの究極を表してはいないだろうか。
恋愛下手には必読書。恋愛上手なあなたは、復習のためにお読みください。
とみきち読書日記(http://yomuyomu.tea-nifty.com/dokushononiwa/)
日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ
2004/02/19 13:05
年月を積み重ねないとわからないこと
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
意味もわからないまま稽古を積み重ねていくうちに、あるとき突然「感じる」瞬間がある。「わかる」瞬間がある。いつどのような形でどういう順番で訪れるかはわからない。しかし、「感じた」瞬間から、世界が少しずつ変わっていく。著者の場合は、まず「音」だった。
(……あ、ちがう……!)
音がちがうのだ。
お湯は「とろとろ」と、まろやかな音だった。
水は「キラキラ」と、硬く澄んだ音がした。
今までは、いつも同じに聴こえていた。同じだと思
っていた。
それがなぜか突然、ちがって聴こえた。
その日から、お湯と水は、いつも違う音になった。
こうやって、一つ一つの感覚が研ぎ澄まされ、不自由極まりない決まり事にがんじがらめにされていると感じていたお茶の、ほんとうの奥深さが少しずつ見えてくる。
生徒が感じるまで決まり事を教え続ける先生の忍耐はいかばかりかと想像すると、ため息が出る。教える姿勢というものは、本来はこうあるべきなのだろう。生徒が自分で気づくまでそばにいて見届ける。お茶を教えながら、人を育てているのにほかならない。教えねばならない決まり事が多く、それだからこそこういう学びの場が成り立つのが伝統文化なのだろう。長い年月受け継がれ、形づくられてきた「型」を持った文化の力。長い年月を積み重ねることによってしか身につけることのできない、その心。
決して言葉で教えない。頭で考えない。あくまでも季節の移り変わりとともに、ひたすら繰り返していくだけ。
季節の移ろいのある日本に生まれてよかった。季節を感じる心を持った日本人であるのは幸せだと心から思える。今からお茶を始めたいとさえ思う。しかし著者が教えてくれたことは、お茶というものは、「音」の種類は本当に違うだろうか、「瀧」という字の掛け軸から本当に涼しさを感じることができるのだろうか、そんなふうに最初から言葉で理解しようとする姿勢とは正反対の位置にある、ということである。著者のような「気づき」の瞬間を見つけたいと求めたからといって、得られるものではないのだ。
私は私で、著者が「お茶」を通して見つけたものを、自分なりに見つけていかなければならない。
場所
2004/10/11 01:30
書くことで自らの破壊を食い止めてきた生涯の総ざらえ
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著者自身の手による人生の総ざらえと言える一冊。過去に暮らした場所を訪ね歩き、当時の暮らしぶりや心もようを懐古する14篇。著者の最大の魅力である「俗性」と「客体化」、この二つが際立っている。
「長い歳月、七十七歳になる今日まで、私は父の郷里を深い山の中の村だとばかり勝手に思いこんでいた。」という書き出しで始まる「南山」から、「ふいに近づいてきた風が私の墨染の衣の袖をなぶり、掛けた赤い輪袈裟を吹き飛ばしそうにした。あわててそれを両手で押さえこみながら、彼等のいる場所へ、いつになったら私はたどりつけるのだろうかと、風に訊いていた。」で終わる、書き下ろし最終篇「本郷壱岐坂」まで、波乱と苦悩と破格のエネルギーに満ちた生涯がそこにある。
『夏の終り』で多くの読者になじみの三角関係がまた、高齢の著者の筆とは思えぬリアルさで再び描かれる。三角関係の一角を成す妻子ある男との初めての塔ノ沢行き。自分が道を踏み誤らせてしまったという良心の呵責から、再会後に始まった年下の男との生活。土蔵の中でひたすら小説を書き綴る著者の壮絶な姿は、「中野本町通」に描かれる。俗世とは一線を画す位置に身を置いてなお、高みから見下ろすことのない、俗世の迷いとともに今もともに歩んでいるかのごとき著者のその立ち位置が、迷える人々を著者のもとに集める力なのだろう。
「住いに馴れ、便利さに馴れ、生活に微温的な諧調がかなでられてくると、私は居ても立ってもいられない不安定な心の揺れを生じ、ひりひりした焦燥感に心を灼かれて性懲りもない破壊願望に衝き動かされてしまうのである。無謀としか言いようもない引越を繰り返す生活の中で、私の中にとみに晩年意識が生じてきたのは、幾歳頃からだったろうか」。
破壊衝動を持ちながらも、文章を書いて客体化する力を持っていたからこそ、俗性をたたえたままで出家の道に入り、心身ともに老いることなく、また自らを破壊することなく、生気に満ちあふれていられるのだろう。この人は、書くことによって生きてきた人なのだという思いを新たにした。
嫌われ松子の一生
2003/05/18 20:45
久々に小説とはこういうものだと感じた
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松子のモノローグから感じ取れるひたむきさ、愛を求める一途さが悲しい。身をすり減らすことでしか人を愛せない愚かさがいとおしい。岐路に立つと、必ずや不幸につながる決断をする運命が切ない。
作者は、最終的に松子の心を救ってはくれない。読み終えて、本を閉じて松子の生涯をしみじみと思い返すと、心が痛いままだ。
しかし、一見、俗にまみれたその生涯と、聖なる心、その無償の愛ゆえに、かかわった男たちにとって永遠の女性、マグダラのマリアとなって、松子は彼らの心に生き続けている。死んでなお松子は、愛の意味、祈り、ゆるす心を、彼らに考えさせる。「嫌われ松子」は聖なる俗女だったのだ。幸不幸を単純にはかれないからこそ、人の一生は生きる価値がある。
一人の人間が必死に生きる、その重さを描ききった小説に出会えた喜びを、今、久し振りに感じている。
終わりの蜜月 大庭みな子の介護日誌
2003/02/16 00:29
生きていることを肯定的に感じさせてくれる書
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作家大庭みな子は1996年夏に倒れ、小脳出血、脳髄膜炎、脳梗塞他、合併症も続発し半身不随になった。入院中も、退院後の家庭療養とリハビリの日々も、みな子に寄り添い、支え続けてきた夫、利雄の3年にわたる介護日記である。
昔から欠かさず日記をつけていただけあって、文章は感情に流されることもなく、極めて抑制が利いていて、非常に読みやすい。淡々とつづられる日々の記録の底には、みな子への愛情と細やかな心配りが感じられ、大仰な嘆きや弱音がないだけに、かえって読む者の心を深く揺さぶる。
みな子が倒れて約一年後のある日の記録にこんな描写がある。「毎日みな子を着替えさえたり、トイレに付き合い、下の物を始末し、風呂に入れたり、ふつうの生活なら夫婦の間でも任せないようなことをしていると、(中略)単なる夫婦や男と女の関係ではなく、完全に同体化してしまった感がある。このような一体感は、たとえあと三十年生きても、互いに健康であったならば味わえない感覚だろう」。
客観的な態度を失わず、根底には深い理解がある。一方、みな子は芸術家らしい大らかさで、感情をストレートに表現するため、従順な病人ではないながらも、無条件に夫への愛情をあらわしている。その大らかさを利雄が全て受けとめている様子が読み取れて、読んでいて心あたたまる。多くのエネルギーを、食べる、寝る、排泄する等の日常に追われる日々であるにもかかわらず、二人の関係が非常に高い知的レベルにあり、互いに尊敬の念を持ち続けていると感じられるのが印象深かった。
人間として生きていることを肯定的に感じさせてくれる書である。
雪沼とその周辺
2004/04/12 20:00
ひっそりと暮らす人々にも固有の心のひだや哀しみがあり
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しみじみと余韻が残る、是非とも一読をお勧めしたい短編集。
雪沼は、山あいの架空の町。そこにひっそりと生きる市井の人々の人生が丁寧に描かれている。著者のいつもの視線は健在だ。文明を拒むがごとく、自分のこだわりの物、なじみの物に囲まれて、ひっそりと生きる人たち。それぞれの人の心にしまわれた大事な時間と別れ。生きている以上、すべての人に、他人には伺いしれない葛藤や、心が大きく動いた瞬間や、こだわりがある。それが人生なのであり、それぞれの人間はそれぞれのこだわりの中で、それぞれの生き方で、それぞれの思いを抱えて生きてゆくもの。人から見れば何のドラマもないように思える人生にも、固有のドラマがあるものなのだ。読後、そんな当たり前のことをしみじみと改めて感じる、味わいと余韻のある珠玉の短編集だった。
冒頭の作品は「スタンス・ドット」(川端康成文学賞受賞)。ピンが倒れる時の音に魅了されて、廃物同然の旧式な機械をアメリカから入手して経営していたボウリング場の最終日。お客もないまま閉店しようとしたそのときに、トイレを借りるために立ち寄った若いカップルとのやりとりの中、補聴器を必要とするようになっている老齢の経営者は、過去に思いを馳せる。ボウリングにまつわる出来事や、亡き妻のこと。スタンス・ドットとは、立ち位置の目安となる、床の印のこと。当然ながら人生の「立ち位置」をも象徴しており、短編全体に通ずる一つのテーマをも象徴している。
一篇の詩のように、あるいは短編映画のように完成度が高いと感じたのは、「送り火」。大雨が降って川と化した道路を見て、本物の川を見に自転車で出かけた息子を、その水で亡くした夫婦。その夫婦の心が出会ったいきさつの描写が、硬質な筆致ながら、とてもリリカルであたたかく、ロマンチックなだけに、読者の胸の内で想像される、息子の死の衝撃の大きさが際立つ。妻の心の喪失の大きさは、あの日、自転車に発電機式のライトでなくて、カンテラみたいな脱着式ライトをつけていたら、という自転車屋さんの後悔を聞いてから、旅行に行くたびにランプを買ってくるという形になってあらわれる。そして、このランプを「送り火」に…というやりとりの周囲にまた哀しみが……。美しく、心にしみいる傑作。
そのほかの作品も、静かに暮らす人々の心のひだや哀しみを映し出す。作家自身の分身のような一人称の主人公が、まちを眺め、市井の人々と出会い、内面に響く心の声を描写するというこれまでの形式とは違い、各短編の主人公はさまざま。共通なのは、人生の最期の時期を迎えているということ。そういう目で見ると、「緩斜面」だけは、まだ若い男が主人公になっている。この主人公も、死んだ友との別れを心の中にしまっているものの、終末を迎えた自分の人生を振り返るのではなく、自分の立ち位置を再確認して、また一歩踏み出してゆくという設定になっている。そういう作品が、書き下ろしで、しかも短編集最後の一篇となっているのは偶然ではなく、むしろ意図的な配慮であろう。冒頭の「スタンス・ドット」に始まり、「緩斜面」で終わる、全体の配置を見ても完成度の高い短編集だ。
小説の未来
2004/03/14 18:04
現代小説の新しい読み方を講義してくれる書
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読みごたえのある一冊! 同時発売された『テクストから遠く離れて』のとっつきにくさに比べて、読みやすさも抜群。そして、その画期的な試みのすばらしさ。著者の意気込みは「前言」にこのように説明されている。
「…(略)…作品で作者が何を試みようとしたと、その作品が僕たち読者に語りかけてくることに着目し、いま、小説家がどういう問題にぶつかっているのかが、作品を知らないまま読んでもわかる、かつての文芸評論を復活させるつもりで…(略)…」(p11)
俎上に乗せられたのは、村上春樹、村上龍、川上弘美、保坂和志、江國香織、大江健三郎、高橋源一郎、阿部和重、伊藤比呂美、町田康、金井美恵子、吉本(現在よしもと)ばなな。
高橋源一郎は、本書に対する書評の中で「ありがたい、坑内に光を見た」と作家の立場で書いているが、他の作家たちの感想もぜひ聞いてみたいところだ。私は私で、読者の立場で全く同じ台詞を言いたい。自分の読んできた作家や作品については、時代性と絡めて整理し直すためのいい機会になり、まだ読んだことのない作家や作品については、今後読むときの手がかりとなる光を照らしてもらえたからである。
小説を小説として楽しむことを前提にしながら、「なぜ、今、この作品なのか」「作家は何を言いたかったのか」、そういう根元的な問いかけを持ちつつ読むことが大切で、そのための案内人として文芸評論家が存在すると著者は考えているようだ。時代の何がエポックメーキングとなり、作家にどのような影響を与えたのか。そうした社会的な状況に目を向けながら、あくまでも時代性の中で作品をとらえることを忘れずに、テクスト論から離れた「新しい読み方」を提示する。
それぞれの評論については、その作品の性格とともに、今後の作家の方向性(ひいては小説の未来)が見えやすく展開されているものもあるし、意外にもその作品の時代的な意味の説明に終わってしまっているものもある。しかし、これほどまでに個々の作品に寄り添って論じられた評論を読めば、小説好きな人なら、ますます小説が読みたいと思うだろうし、たまには小説を読んでみたいと思っても、何をどんなふうに読んだらいいか迷ってしまうという人にとっても、ヒントのたくさん詰まった、価値ある一冊であることは間違いない。
そして、著者の「小説」への信頼と「小説の未来」への希望が伝わってくる、とても前向きな書であることが、何よりも嬉しい。
夜のある町で
2003/12/28 12:32
荒川洋治のスタイルが見つかる
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2003年発行のエッセイ集『忘れられる過去』を読んだ。すばらしかった。そのあとがきに「『夜のある町で』の弟か妹みたいな本にしましょうという、みすず書房の尾方邦雄さんのことばから、この本は生まれた」とあった。遅ればせながら、1998年発行の本書を図書館で借りてきた。
初出媒体の性格の違いのせいか、あるいはテーマのせいか、趣はかなり違っているが、少し若い頃なので、『忘れられる過去』には見つからない荒川洋治の物を書くときの原点が見つかった。逆に言えば、『忘れられる過去』では、ストレートな主張をしなくても心が伝わってくるところまで、表現が深化したということなのだろう。
「おかのうえの波」(本書pp171-176・初出「思想の科学」1992年4月号)の中から抜粋。
〈私の文体〉について書くようにとのこと。ひよっ
このぼくにも文章を書くときの心がけのようなもの
はある。/1知識を書かないこと/2情報を書かな
いこと/3何も書かないこと。/ぼくは文章を書き
ながらこれらの条件を肝に銘じ「いい文章になりま
すように」と心からお祈りする。
3の部分についての説明は、以下のとおり。
文章は読者を威圧することがあってはならない。だ
がこれはむずかしい。文章を書くよりむずかしいこ
とかもしれない。それには何も書かないのが一番だ
とすら思う。書かなければ威圧にも荷物にもならな
い。
荒川洋治の文章はそういう気持ちで書かれている。そしてさらに、「これからの栗拾い」(本書pp29-35・初出「海燕1996年2月号)では
(…略…)ぼくは作文から文章を書く男の子なの
である。はじめからずっと作文だった。詩も評論も、
作文で通してきた。
と言っている。荒川洋治のスタイルが見えてくる。人生の一こまが、言葉や本とのかかわりが、過去の文学者をたどる楽しみが、詩に対する考えが、等しくそのスタイルで綴られる。
読み終えると同時に、すぐに読み返したくなるような、人に伝えたくなるような、深い深い味わいのあるエッセイばかりだ。
忘れられる過去
2003/12/28 12:01
心洗われる最高のエッセイ集
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74編のエッセイのうち、最初の6編を読んだ時点で、本好きの友達にメールを送っていた。「いい本見つけた。絶対お勧め」。
何しろ文章がものすごくいい。詩人荒川洋治は、散文を書いても詩人である。心地よいリズムと詩的な余白。さりげない表現の向こうに、心が、世界が伸びやかに広がる。
テーマは、読書にまつわるものを中心に集めたと「あとがき」にあるとおり。エッセイとは身辺雑記を書き散らしたものでないことが再認識できるのが嬉しい。また、「僕が、僕が」と書かなくても、というより、かえってそういうことを書かないほうが、著者の人となり、心のありようを浮き彫りにすると感じる。多弁は時に、何も伝えない。
引用したいものばかりなので「読んでみて」と言うしかないのだが、心温まる一編を紹介したい。「きっといいことがある」(本書pp198-203・初出「嗜好」558号・2001年3月)。
世にも奇特な店主住枝さんが谷中に開いている居酒屋「檸檬屋」にまつわるエピソードである。店主は自由人で、いたりいなかったりする。お客さんが厨房に入ったり、差し入れをしたりする。看板も出していないので、来るのは常連のみ。店に来るのが目的でなく、住枝さんに会いに来るついでに店に寄るのである。「会いたい」と思わせる人なのだ。
住枝さんは抜群の記憶力と、人の幸せを誰もまねできないほど喜ぶ才能の持ち主である。素人なのに、若い人が「住枝さん、できました」と書いたものを持ってくると、実に的確な批評をする。そして、「ある若い人がある賞をもらったことを、遠方からの電話で知ると、彼はうれしさのあまり終夜、一人で谷中の路地を歩き回ったそうだ」という具合である。困った人や弱い立場の人のために、自分がへとへとでも力をかしてしまう。彼のそういう人柄が、客の中にも広がってゆく。
ここで、「人の善意をもらおうと思ったら自分から行動すべきだ」「現代の人々はこういう心のふれ合いを忘れている」などといった「べき論」「評論家調」を一切ふりかざさないのが荒川洋治の魅力。淡々と描かれる情景から、荒川洋治が大切に感じている気持ちが、こちらの心にしんしんとしみ入ってくる。
この本は、1998年発行の『夜のある町で』の弟か妹のような本としてつくられたという。遅ればせながら、そちらも読んでみなくては。
身の回りを見る透明な目と柔軟な心が、読む者の心を洗ってくれる、私の2003年読書を締めくくる最高の1冊。
文士の魂
2003/06/23 13:06
小説家による小説評--取り上げられた小説がすぐ読みたくなる
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車谷長吉は、「三十歳の時、東京で無一物になって、以後九年間、風呂敷荷物一つで関西各地のタコ部屋をさ迷いあるく生活をしたせいか、こういう松本清張の「救いのない」世界が好きである。(中略)私は相当にちょっと因業な人間になり、周囲の人に憎まれて来たが、併し人に憎悪されることもまた愉しいことである」(p43)などと書く、大分ひねくれた、癖のある人物である(ちなみに名前の読み方も「ちょうきち」でなく「ちょうきつ」である!)。こういう人物が小説評を書くとどんなことになるのか。
本書は、あるテーマごとに二、三編の小説を取り上げて論じる形式で成り立っている。「青春小説」の章で取り上げられるのは、漱石の『三四郎』と鴎外の『青年』。『青年』について著者は、「漱石の『三四郎』が傑作であるとするならば、凡人の書いた駄作である」(p22)と言い切ってしまう。「登場人物が凡て鴎外の観念の中から生み出された人物ばかりで、作者その人が作中にしゃしゃり出て来て、矢鱈退屈な演説ばかりしている」のがその理由。小説においては、作者は作中において死者でいなければならないと主張する。(p22)
著者には揺るぎない小説観があるため、視点がぶれず、明快である。けなすばかりでなく、どういう小説のどういう点がすばらしいかと分析してみせる。そのために、一つのテーマで複数の作品を解剖してみせるのである。そして、必ず自らの来し方を振り返り、自らの小説に対する思いを語り、また、先人の小説に立ち戻って評するのである。
「短編小説の魅力」の章では、小説を小説たらしめる「虚点」を発見するのが作家の目であると説き、(p75)「虚点」のわかりやすい例として、安岡章太郎の『伯父の墓地』、永井龍男の『青梅雨』の中の一場面をそれぞれ挙げている。
『赤目四十八瀧心中未遂』という恋愛小説を書いた著者であるが、「愛の小説」の章は「私は愛がどうの糸瓜(へちま)がどうのと言いたがる女が嫌いである」(p57)との書き出しで始まる。そして、「佐多稲子は、愛がどうの糸瓜がどうのというような言葉はおくび(原文漢字)にも出さず、中野と自分との間に流れて来た愛の時間を語っているのである。これが文学における藝というものであろう」と結ばれる。(p65)著者にしては珍しく素直な章で、共感できる。
現役の作家が、他の小説を自分の小説観でばっさり料理し、評価する潔さには驚かされる。無一物になり、下足番の生活を経てもなお、小説を書くために上京して思いを果たした著者の、文学に対する思いの強さを感じる。その車谷に、近代日本の小説ベストスリーは漱石の『明暗』、幸田文の『流れる』、深澤七郎の『楢山節考』だと言われれば、今すぐ読まねばならぬ気持ちにさせられる。
文学に対する思いの深さのみならず、本書全体を通して、抑制的で硬質、かつ、無駄のない文章が出色である。