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  3. とみきちさんのレビュー一覧

とみきちさんのレビュー一覧

投稿者:とみきち

45 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本本格小説 日本近代文学 上

2003/06/07 03:01

物語の世界に身をゆだねる幸せを存分に

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 例えば長雨の日、大嵐の日、あるいはしんしんと雪が降り積む夜などに読むのが最適な上下巻の長編である。物語の世界に一歩足を踏み入れたが最後、そう簡単にはこちらの世界に帰ってこられない。読後は、重光家や三枝家の3姉妹が遠縁の人々であるかのようなリアルな余韻が残り、自分の日常に違和感を感じるほどであった。
 書評を書くとなれば、「本格小説」の意味を説明しなければならない。また、「嵐が丘」のヒースクリフとキャサリンの恋を日本語で書き直したような小説であると言わねばならない。さらには、「序」の中で作者が述べている、自分が知っていた人が「小説のような話」を生きていたこと、そして、その話を聞くことができた偶然は、「お前は小説家として生まれてきたのだ、と天が私に啓示を与えてくれたような気がした」といういきさつによって説明される、この本の持つ二重三重の構造も無視できないポイントである。
 が、何よりもまず、物語の構築力・創作力の豊かさを讃えたい。ここまで奥行き深く、土地や時代の雰囲気がにおい立つような壮大な物語の世界を築き上げ、読者をいざなう創作力は比類ない。軽井沢の別荘で美しい3姉妹を中心にくり広げられるサンデイ・ディナーのシーンは、さながら映画の一こまだ。銀器の音、森から流れてくる湿めった空気、レコードのマリア・カラスの歌声……。
 登場人物のリアルさも瞠目である。主人公であり、恋愛の当事者である太郎とよう子を除くと、三枝家の3姉妹の長姉、春絵の存在感が際立っており、ディケンズの「大いなる遺産」に出てくるミス・ハビシャムを彷彿とさせる。
 太郎とよう子の時を超えた恋愛を一つの道しるべに、本好きな人なら必ず知っている、物語の世界に身をゆだねる幸せを存分に味えること請け合いである。

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紙の本妻と私・幼年時代

2006/09/14 20:56

自身を形骸と断じて自死を選んだ江藤淳

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 妻を看取った後に書かれた『妻と私』、それから自死直前の絶筆『幼年時代』を収録。追悼文を福田和也、吉本隆明、石原慎太郎が寄せている。さらに武藤康史編による江藤淳年譜。
 『妻と私』は妻が発病してから死に至るまでの日々を、抑えた筆致で描いた記録である。文章の背後から、かけがえのない妻を突然の病魔によって奪われる理不尽さに対する憤りや、その後、自身も死の縁をさまよったよるべなさが立ち現われ、読む者の心にせつせつと迫ってくる。
妻が入院し、モルヒネの投与も開始された頃の記述。
〈新聞だけではなく、私の仕事がよほど気になっているらしく、編集者が本の校正刷を持って病院に現われたときには、一瞬意識が戻り、やや鋭い声で、詰問するように、「あの人、何しに来たの?」と質ねた。「今度出る本の、著者校を持って来てくれたんだ」と説明すると安心したと見え、家内はまた静かな眠りのなかに沈んでいった。
あるいは、家内はこの頃、私をあの生と死の時間、いや、死の時間から懸命に引き離そうとしていたのかも知れない。そんなに近くまで付いて来たら、あなたが戻れなくなってしまう、それでもいいの? といおうとしていたのかも知れない。
しかし、もしそうだったとしても、私はそのとき、家内の警告には全く気付いていなかった。ひょっとするとそれは、警告であると同時に誘いでもあり、彼女自身そのどちらとも決め兼ねていたからかも知れない。〉
そして、妻は亡くなり、江藤は、葬儀に関わる、一切が日常性と実務に埋め尽くされる時にいやおうなく連れ戻される。看病と葬儀等での無理もたたって、葬儀後には前立腺肥大が極限まで悪化し、敗血症寸前になって緊急入院する。その窮状から何とか持ち直して退院し書き上げたのが、『妻と私』なのである。この文をもって江藤は復活した、と思われたのだが、その後、脳梗塞に見舞われ、有名になった次の遺書を残して自死する。
〈心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。〉
 最愛の妻を失ったあと、4歳の時に死に別れた母の記憶をたどりながら書き始めた『幼年時代』。江藤はおそらくもう一度、自身の生を辿り直す旅を始める決意だったのだろう、脳梗塞が起きるまでは。生きるためのよすがをもう一度自分で見つけ出し、死から目をそむけるのではなく、生を見つめることによって日常を生きていくための、ほのかな光を見出そうとしたのではないか。
そんな矢先に脳梗塞が見舞った。そして、自死を遂げたのは激しい雷雨の日だったという。ほのかな光は、その雷雨と暴風にかき消されてしまったのかもしれない。

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紙の本東京奇譚集

2006/03/27 17:23

春樹ワールド満喫

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 村上春樹の短篇は佳作が多い。本書は、文章といい、タイトルといい、アイディアといい、ストーリーといい、春樹色満開の懐かしい一冊だった。
 本書全体のまえがきの役割を果たしているかのごとく始まる一作目の『偶然の旅人』の導入から、人を食ったような、トーンを抑えた春樹節。“僕=村上はこの文章の筆者である。この物語はおおむね三人称で語られるのだが、語り手が冒頭に顔を見せることになった。”こうして本書が「不思議な出来事」を集めたものだと読者は知らされる。
 一作目は、このような前ふりも手伝って、作家の本当の体験なんだろうなぁと思って読める。小説というよりはエッセイに近い印象。この印象は、どちらかというと私にとって上質の小説ではなかった、という評価である。物語の最後に、僕ではないもう一人の主人公の「彼」にひどく説明的な理屈を語らせてしまったことで、小説を台無しにしてしまったからだ。彼は僕に言うのだ。“偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。[…中略…]でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。[…中略…]しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。”説明しないでほしかった、こういうかたちで。
 二作目の『ハナレイ・ベイ』は面白くなかった。あーあ、退屈だなぁと思って読み終えたのだが、『どこであれそれが見つかりそうな場所で』『日々異動する腎臓のかたちをした石』『品川猿』の三編はたいへんに面白かったのだ。そのために二作目をつまらなくしたのかと邪推を持ちたくなるほどに。
 名前を失う出来事とか、都会の地下に生きる生き物とか、言葉をしゃべる人間以外の生き物とか、つかみどころのない謎かけをするような美女とか、突拍子もない職業とか、春樹ワールドでおなじみのアイテムがうまく組み合わさって、虚構の世界に読者を遊ばせてくれる。理屈ではなく、不思議な空間にぽんと浮かばせてくれるのが春樹ワールド。ひさしぶりに冴えている短編集。楽しめました。

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紙の本神も仏もありませぬ

2004/05/14 16:07

悪態をつきながら、軽やかに老いを楽しむ64歳の心意気

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

佐野洋子は口が悪い。佐野洋子の前で、うっかり気取った口や賢しらな口をきいたりしたら、途端にどやされそうである。群馬の山の中に一人住まい、老いと死を見つめて暮らす64歳。かわいげがないところが実に可愛らしい。文章も生き様も、さばさばとしていて、読んでいて楽しい心持ちになる。他人のことをけなさないのである。徹頭徹尾、自己責任の人なのである。農業をする人や、フツーの人を心の底から尊敬しているのである。老いて、弱い者同士が肩を寄せ合い、傷をなめ合うような友人なんて要らないとばかり、なんだか楽しい人ばかりがワサワサと集まってくるのである。

 赤ん坊の時から知っている2歳年下の孔ちゃんがニューヨークで亡くなったと、妹から電話で知らされた瞬間、いろいろなことを思い出す。家の応接間ではいはいをしていて、おむつからウンチがこぼれた時の記憶から、カレーのなべを広げたひざの間にはさんで、なべの中にごはんをぶちこんで盛大にカレーを食べていた姿、演劇をやっていた学生時代。そして、商社マンになり、お見合いで結婚して、世の中に組み込まれていく孔ちゃんを見て、裏切られた気持ちになったことなど。それでも、赤ん坊の時から知っている孔ちゃんは特別な存在なのだった。

 “どこかに孔ちゃんは居るにきまっていたのだ。「もう一回だけ会いたいよう」。私は声を出して床をたたいた。たたきながら、「一人暮らしって、こういう時に便利だなあ」と思っているのだ。そうだ、泣いても平気なんだと思うと、私は大声を出して泣いた。(中略)一カ月前床をたたいて泣いてたのに、今、私はテレビの馬鹿番組を見て大声で笑っている。生きているってことは残酷だなあ、と思いながら笑い続けている。”
また、老いについてはこんなふうに考えることもある。

“でも私が超美人だったら、きっとひどい嫌な人間になっていたにちがいない。私はブス故にひがみっぽい人格になっている事を忘れて、力弱く我が身をはげまして一生が過ぎようとしている。そして、しわ、たるみ、しみなどが花咲いた老人になって、すごく気が楽になった。もうどうでもええや、今から男をたぶらかしたりする戦場に出てゆくわけでもない。世の中をはたから見るだけって、何と幸せで心安らかであることか。老年とは神が与え給う平安なのだ。あらゆる意味で現役ではないなあと思うのは、淋しいだけではない。ふくふくとして嬉しい事でもあるのだ。”

どこをほじっても色気など出てこないバアサンだとあっけらかんと言う佐野洋子には、野菜をたくさんくれて、日々をフツーに生きているアライさん夫妻をはじめ、ものすごくたくさんの仲間がいるのだ。このことが佐野洋子の老年を充実したものにしていることは、まごうことなき事実である。自立した60代の心意気を感じる書である。

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紙の本天から音が舞い降りてくるとき

2007/02/25 01:25

言葉が音を呼び寄せる

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

音楽を言葉で言い表わすのは難しい。しかし、作曲者や演奏家、演奏会の様子について語ることはできるかもしれない。音楽を聴いたときの感動や喜びを表わすこともできるだろう。
梅津時比古は、ひたすら音楽に聴きほれ、その感動を伝え続けている人らしい。音楽コラムを書いて20年。本書は、毎日新聞夕刊に連載している「音のかなたへ」というコラムをまとめた2冊目の本。見開き2ページの短いエッセー。筆者が感動した演奏会、CD、音楽に関する、作曲家や演奏家に関する逸話を、自身の人生観や自然観にからめて綴る、きわめて主観的な文章である。
右手のしびれから左手のピアニストになることを余儀なくされた後、奇跡的に右手が復活したレオン・フィッシャーが、40年ぶりに両手で録音したCD「トゥー・ハンズ」についての描写を引く。(題名「両手の音」)
“演奏から、あふれるような喜びは聴こえてこない。まるで、復活の望みが奇蹟のようにかなった瞬間に、諦めを悟ったかのようだ。静かな喜びと諦観が入り交じる。(中略)音のひとつひとつが言葉となって深く沈む第二楽章で、おそらく彼は涙を流している。その終わりに近く、音を静かに断ち切って、転調が訪れる。まるで神の声のように。それが、彼にとっての両手の復活であったのだろう。人には、できることとできないことがある。それでいいんだよと、その声は、いつくしむように語っている。”
客観性に背を向けて、ひたすら主観的、情緒的に筆者は語る。音楽は演奏された途端に、聴く人のものとなる。聴く人がどのような人生を送り、どのような心持ちでその演奏を聴いているのか。それによって、演奏の受け止め方は異なるものだ。筆者は自身の感性のフィルターを通して聴いた演奏を、自身の言葉で語る。人によって、ときによって、受け止め方に違いがあることを知っているからこそ、その感動を言葉を尽くして伝えようとしているようだ。
グルジア出身の現代作曲家、ギヤ・カンチェーリの曲については、次のように書いている。
“音楽による世界の読み解きもやはり物語をもって行われてきた。楽劇はまさに新たな神話の創出である。ソナタ形式もまた、生の内面と外の形の見事な統一としての物語であった。物語とは、言葉を変えれば虚飾・虚構でもあろう。それなしに世界を理解することは不可能なのであろうか。(中略)カンチェーリがなんとかして、音にまとわりついている文化の文脈を取り去ろうとしていることが分かる。ヴァイオリンとピアノのかすかな音で彼が破壊しようとし、葛藤しているのは、あまりにも重苦しい、過去からの時の流れだ。その闘いの結果、カンチェーリに残るのは、叫びと沈黙の、傷ついた音の残滓になる。(中略)そこから聞こえてくるのは、裸の存在の悲しみのようなものだけだ。だが、その悲しみが、なぜか、かすかな安息をも、もたらせてくれる。”
カンチェーリのありようを否定はしていないが、筆者自身は物語を必要とし、音と言葉を邂逅させたいと願っている。どちらが正しいとは決して言えないし、筆者の感性にどの程度共感するかも人それぞれに違いない。しかし少なくとも私には、この演奏を是非とも聴いてみたいと思わせられる文章が随所にあった。筆者の言を確かめるためではなく、自分の耳で聴いてみるために。言葉が音を呼びよせる。

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紙の本吉本隆明×吉本ばなな

2003/11/06 16:21

ばなな作品を読み解く鍵が満載(少し古いけれど)

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1997年発行の親子対談集である。ちょっと古い。しかし、なかなかどうして、今読んでも大変にすばらしい。もっと言えば、今読み返すことによってようやく、ばなな作品とは何か、世界で受け入れられるのはなぜかが客観的にわかってくるような位置づけの書である。
 父・隆明にとっては、この対談の前にオウム発言によって非難を浴び、また、この対談の発行前に海で溺れ一命を取りとめた時期に当たり、娘・ばななにとっては、対談の中でも語られているように、『アムリタ』の後、作家活動の節目で、作者も読者もつらい時期に当たっている、そんな時期の対談集である。

 進行役は意外や意外、あのロックの渋谷陽一氏。彼のコーディネートは抜群で、この対談集が、リラックスした雰囲気をたたえつつも、本質的な話がふんだんに盛り込まれているのは、ひとえに渋谷氏の手腕と言える。両氏の作品を十分に読み込んだ上で、世代観・使う言語・文化の異なる親子の間をつなぐ、非常に非凡な通訳としての手腕を発揮している。

 1部が家族対談、2部が文学対談、3部が吉本ばななパーソナルインタビューからなる三部構成。白眉は2部の文学対談である。1部で、自身の結婚逸話などに言及されて、もじもじと歯切れ悪く応対している隆明氏であったが、2部では、完全なる批評家に変身する。娘であるばななの性格を理解した上で、その作品を切れ味鋭く解剖し、さらに新しい何かを引き出そうと迫っていく。
 自分以外の事物を語るときに自身のスタンスが決まり、力を発揮する批評家である父と、人とはかかわりなく自分のスタンスが決まっている小説家である娘のそれぞれの特徴が、一冊の中でこれほど対照的にわかるような対談集はなかなかない。2部の小見出しを追っていくだけで、ばなな作品を読み解く鍵が満載であることがわかるので、少し多いが列記してみる。
  ばなな作品は果たして“優しい”のか
  人間を書いているのではなく“場”を書いている
  作品の特徴と作家の資質
  交換可能な恋愛関係
  ばなな作品における超能力
  吉本隆明の『アムリタ』批評
  どれがベスト・オブ・吉本ばなな作品か?
  何故ばなな作品には死が頻出するのか?
  小説概念が違う
  徹底的な顧客制度から来る国際性
  九〇年代のやや太宰治
  テーマよりもムードが大切
  ふたたびカツ丼論争、かき揚げ丼論争
  吉本ばななのサンプリング能力
 「藤子不二雄が好きだ」とばななが言うときの意味。ドラえもんとのび太が寝そべってどらやきを食べている時間を幸せの象徴として使う意味。それらを理解するための背景が、3人の会話の中から自然に浮かび上がってくる。最新作『デッドエンドの思い出』を読んだときに、納得できる鍵ももちろん豊富に散りばめられている。

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紙の本薔薇盗人

2003/09/06 23:40

なじみの小料理屋でくつろぐ気分が味わえる

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 浅田次郎の短編集を読むのは、なじみの小料理屋のカウンターで過ごすひとときと同じく心地よい。黙って座れば、熱いおしぼりと冷たいビール、心のこもった酒肴と手料理がほどよいタイミングで並べられ、心地よく酔わせてくれるから。

 大手出版社をリストラされて精気を失ったカメラマンと、旅先で出会ったストリッパーとの間に交わされる淡い交情を描いた『あじさい心中』。
 「五感で幸福を味わいつくしながら、やがてうららかな春の陽射しを浴びるように、ゆっくりと人生を終える」至福の死を大金をはたいて買い取った主人公は、死ぬ間際に果たして契約どおりの瞬間を得られるのか。タイトルは『死に賃』。
 万年総務課長代理の死をきっかけに、彼にかかわりのあった人間たちが自分の胸に手を当てて襲われる自責の念や恐怖を、会話のみで描き切った、芝居の脚本のような『奈落』。
 『佳人』は、お見合い世話好きの母が紹介したがるお嫁さん候補に、いまだ独身の有能な部下を紹介したところ、思いもかけぬ恋に展開していくお話。
 水商売の母に女手一つで育てられている6年生の少女の、ひとりぼっちの夜の寂しさと、父を求める切なさをリリカルに描いた『ひなまつり』。
 表題の『薔薇盗人』は、船長として世界周遊の船に乗る父親にあてて息子が書いた手紙形式の作品。ストーリーに仕掛けがあるのはご愛敬。三島由紀夫への嫌がらせみたいな小説だと作者が語ったという逸話が、解説に紹介されている。

 作品に出てくる人たちは皆やさしく、人生の切なさ、心のふれ合いを描く浅田節を心ゆくまで堪能できる。ああ、ここで泣かせるわけねとわかっていながら、いつもの手じゃないの、あざといなあと感じながらも、すっかりお任せの客となる。出された料理一つ一つを味わいながら、思うまま泣かされ、うまいとうならされる。期待どおりのひとときを供してくれるからこそのなじみの店である。

 おなかいっぱいになって、一呼吸。安心して通える店を持つ贅沢を感じつつ、「ごちそうさま」と立ち上がる。暫くしたらまた来ようという思いを胸に、家路に着く。

 私好みの一品を挙げるとすれば『あじさい心中』。場末の人情を書かせたときのうまさは、天下一品。

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紙の本日本の心を語る

2005/05/07 19:11

実践的国際派、真の教養人による語り。もっと売れるつくりにしてほしかったけれど。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

平易な文章で、日本人であることの誇りとあるべき姿を語る本。画家としてだけでなく、文化財保護、国際支援における役割を果たし続ける著者の語る言葉であるだけに、一言ひとことの重みを感じる。死語になりつつある「徳」という言葉を読んで、はっとさせられる。こんな年長者がもっと多くいて、若い人たちに心をこめて語りかけていくことが必要なのだろう。実践と信念を兼ね備えた人の言葉は、奇をてらう必要などみじんもなく、淡々と、しかしぶれがなく、私たちに真っ直ぐ届く。
第一章 幼少年時代/第二章 私の生活信条/第三章 子供を育てるということ/第四章 日本文化の成り立ち/第五章 文化の継承と武士道/第六章 争いを超えて
『武士道とはまさに武士階級の道徳的あり方を律してきた価値体系です。責任をとる、嘘をつかない、人を誹らない、名誉を重んじる……。そうした価値観を叩き込む思想です。現代の日本人は武士道の価値観を失ってしまったかに見えます。西洋人の合理的な個人主義の背景には、キリスト教があります。ところが現代の個人主義の背景には、それはありません。しかも武士道の価値観が失われ、責任をともわなない利己主義だけが横行している。』
目新しいことは述べられていないが、陳腐ということは決してない。著者には、「文化財赤十字」運動を提唱し、例えば20年の内戦で人心の荒廃したカンボジアで、現地の人と協力して文化の修復を進めている等々の実績があるからである。「文化財を修復しようと思ったら、同時に、生きた現地の人をも救わなければならない」との信念のもと、日本人だけが修復をするのでなく、現地の人たちにかかわってもらい、自分たちの文化に対する誇りを自覚してもらおうとしている。そうした実績と体験のなかからつむぎ出された言葉、信念なのである。
著者には「文化国家」日本という将来の明確なイメージがある。それは、これまでの日本の歴史や文化を十二分に学び、砂漠を描き、現地の人たちとの交流を育んできたなかで、アジア圏のなかの日本という認識を体得した著者の、日本の目指すべき方向はこれしかない、という確かな信念のようだ。自分たちの世代で達成できなければ、次の世代に託せばよい。「連続性」が日本文化の最大の特徴だから、と著者は考えている。
このような人物とボランティア活動等のなかで巡り会えた若者がいれば、その心に灯った火は消えることがないだろう、と思う。実践して、若者を導き、夢と誇りを与える年長者との巡り合いが、その若者の人生を決めることがある。「若者の心に火を灯し、日本の将来を指し示す先達となれるのだろうか」、と自問する。

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紙の本追悼の達人

2004/02/18 18:36

文学者の死の周辺

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「文学者の死は事件である」という発想から、新聞の追悼記事や雑誌の追悼号をもとに日本の作家の身辺を浮き彫りにした労作。明治35年没の正岡子規から昭和58年没の小林秀雄までずらーっと49人(編集者・画家も一部含む)、死亡年順に描かれる。生前の師弟・友人関係や、文学者としての位置づけ、有名なエピソード、ゴシップなどがおもしろい読み物のよう。広い視野をもって鋭く、ときには敬愛の眼差しをもって温かく、それこそ自在な筆致でまとめられており、全体で一つの文壇絵巻物のような味わい。

 故人の評価が明らかになるのが追悼であると同時に、何を書くかによって書く側も試されるのが追悼であると言う。批判と共感に激しく分かれた永井荷風。追悼文すべてが高度に文学的で、いかに慕われていたかが伝わる稀有な例としての泉鏡花。「死んで当然」「いいときに死んだ」と多くの人々に思われた嫌われ者の岩野泡鳴。身内よりも論敵に、自身の本質を理解したいい追悼を書いてもらえた毒舌家の内田魯庵などなど。

 この人とこの人が同人だったのか。この2人の間にはこれほどの論争があったのか。詩心に優れた作家だと思っていたら、これほど下世話な人間だったのか……。三面記事的な興味も十分満足させてくれる。本書を読みながら、「なるほど、こういう人の書いた作品ならもう一度読んでみたい」と感じることが何度もあった。その際にはもちろん机の脇に本書を置いて……。

 作品が読まれなくなるにしたがって、出版社は古い作家の作品を絶版にしていく傾向にある。しかし、本書を読むと、巷では埃をかぶってしまったかのごとき存在の作家が生き生きと蘇り、人間くさい魅力を発散し始める。
 現代の作家を育てていくことは、言うまでもなく出版社の重要な役割の一つだと思うが、どういう形であれ、日本の文学史に足跡を残した作家や作品の価値を位置づけ、後世に伝える責務もあるのではないか。生身に触れた人の記憶や記録を世に出す、古い作家に目を向けるきっかけになりそうな企画の書を出す(本書のように)など、方法はいろいろあるだろう。読者は常に作家のあれこれことを知りたいものなのである。

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紙の本流星ワゴン

2003/01/26 23:14

いま必要な強さがわかる

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 重松清は懐が深い。
 現代の家族の現実を見据えながら、諦めずにしなやかに生きてゆく姿勢を、押しつけがましくなく伝えてくれる。死んでしまってもいいなぁと思っている疲れ切った30代の男性が、現実を知ったまま、もう一度過去の大切な岐路に立たされ、自分の行動を選択させられる。それは魔法のような出来事なのに、現実を魔法のように変えることはできない。
 主人公の一連の行動から伝わってくるメッセージは深い。自分の人生に今現在、後悔していることがあるのなら、そこから目をそむけずにできることからやっていくしかない。劇的な変化を求めずに、自分が一歩踏み出すしかない。そんなしなやかな強さを持つことによって、窒息しそうな今が変えられるのではないか。そういう心境に達した主人公の行動が、大げさでなく共感を呼ぶ。人間は劇的には変われないのだ。だからこそ、しなやかに小さなところから変えていくしかないのだ。
 読みながら時に涙し、読み終わって体の奥深いところに、いま必要な強さを知ったことで力がわいた気がした。ちっとも素敵でない人間を書いて、どこか愛らしさを感じさせたり、共感を感じさせたりするのは、重松清の人間を見る目のあたたかさのゆえんである。現実を書いて、息苦しい読後感を与えないのは、重松清の懐の深さのゆえんである。

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紙の本パンク侍、斬られて候

2004/10/17 21:47

負のエネルギーがパワーアップ!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

町田康の小説が好きな人には、本書の異常なパワーアップぶりに快哉を叫ぶに違いない。根っこはいつもの町田康なのだが、小説の登場人物数はいつもの100倍ぐらい、そしてあろうことか時代はお侍の時代。そして、いつものように、暗く、場違いで、鬱屈した主人公たちが、ぶつぶつ言いながら、あれよあれよとおかしな事柄に巻き込まれ、右往左往する。ベースに流れる悲哀感と疎外感。
『くっすん大黒』を初めて読んだとき、どひゃーーー、何とおもしろいのだろうと度肝を抜かれ、早速周囲に触れ回ったところ、「嫌いじゃないけど、読んだあとどうしていいかわからない」とか「いまひとつ合わなかった」などの反応が多く、この人のおかしみというのは万人受けしないものなのだ、ということを深く心に刻んだものでした。

私が好きなのは、著者が大得意とするところの鬱屈した自己分析。今回もありますよ、たっぷりと。もちろん言葉遊びに至っては、これでもか、これでもかと、やりたい放題。

筋なんぞ説明するのもばかばかしいほどだから、読みたい方は読んでくださいという感じだが、私が感心するのは、異常な自意識の過剰さから、鬱屈し、神経をとがらせて世の中に相対している人間の心の描きっぷり。著者自身、彼らを笑いのめしているけれど、心が寄り添っていることが感じられるのが、こちらの心に響く鍵だろう。町田康自身も多分、徹底的にパンクな人。徹底的に反体制の人。徹底的に卑屈で、世の中逆恨みで、ネガティブな方向にしか物事を見ない人。

そして最も大事なポイントは、そんな自分を突き放して観察することのできる人。こうでなくちゃね。

何かに向けてエネルギーが発散するときに、それが生産的であったためしがない。世のためになど全然ならない。負のエネルギーを暴発させるだけ。それがパンク。それが自己哀惜の小説。どこにも行き着かない。何も救えない。何も約束してくれない。何の光も見いだせない。

でも、その自分を知って、悲しみを抱えて、格好悪くうろうろする心が描かれた小説を読むことで、読んだ側の心は何かの化学反応を起こすんだ。小説を読むって、そういうことなんだろうって思う。

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紙の本重力ピエロ

2003/06/02 01:59

「おもしろい本ない?」と聞かれたら薦めたい本

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 「おもしろい本ない?」と尋ねられて困ることが多い。普段から本の情報を交換している友人になら即座に答えられるが、何を読んでいるのかもよくわからず、一体本など読むことがあるのだろうかと思われる人に「おもしろい本」と言われて、何を薦めればよいのだろうと。が、しかし、この本はその答えとして最適だ!と読み終えてすぐに思った。読み物としておもしろいので、読書習慣のない人にも薦められるし、力のある作者だという点で、本好きの友人の感想も聞きたい本であるからだ。
 弟の春から「兄貴の会社が放火に遭うかもしれない」と電話を受けた翌日、実際に放火が起きた。春の言によれば、壁にスプレーによる落書きがあれば、その近くで放火が起きるというルールがあるらしい。兄弟で、放火犯人を捕まえようと謎解きを開始する。
 「春は俺の子だよ。俺の次男で、おまえの弟だ。俺たちは最強の家族だ」と断言した父親は、「地味で、目立たず、特技もないが」、凄いと春の兄である私は感じている。そう、このストーリーの核となるのは、母親が未成年にレイプされたことで生を受けた春の出生事情なのである。主人公の勤務する遺伝子の関係の会社、性的なものを嫌う春の性質等と絡んで展開していく。
 というと、くらーい話のようだが、どっこい、全体のトーンは読者サービス満載の劇画調の読み物になっている。目次を見てみれば、それは一目瞭然。細かく章立てされたそのサブタイトルは、例えば「ジョーダンバット」「トースト」「父の憂鬱とシャガール」といった具合。
 極端に性格づけされた多くの人物が作中に登場するが、人間として上質の人と下等な人とに大きく二分されており、上質な人間が下等な人間に最終的に勝利するという、単純な勧善懲悪の冒険物語とも言える。ストーリーを書くとおもしろみが半減するので控えるが、個人的な感想としては、ガンジーを愛し、哲学的な言葉をはき、社会の何からも言動が規制されない、芸術的センスを持った春という人間への作者の強い憧憬が感じられて興味深かった。

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紙の本Pay day!!!

2003/05/28 00:21

「別れ」の意味

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

テーマは、ずばり、大切な人との「別れ」。

 舞台は、アメリカのニューヨークとサウスキャロライナのロックフォート。主人公は、アフリカ系の父親とイタリア系の母親を持つティーンネージャーの双子。兄の通称ハーモニーと妹のロビン、趣味も、感覚もまるで違う2人が、つらい別れを体験し、心の中でしっかりと受けとめていくまでのストーリー。

 彼らの経験する別れは、まず両親の離婚。ハーモニーは父、ロビンは母との同居を選択することにより、彼ら自身も別々に暮らすことになる。家族なんて会わなくても何てことないと思っていたのに、9.11のテロによる母親の死を境に、大きな衝撃を受け、別々に暮らしていることとこの世からいなくなることの決定的な違いを思い知る。家族の意味を問い直し、自分にとってほんとうに大切な人とはだれなのかと苦しむ。

 それぞれに恋人との出会いがあり、さらには、父親の恋人の出現、祖母の病気など、さまざまな試練のたびに、悩み、心は揺れる。同じような顔をした双子なのに、お互いの気持ちがわからない、考え方が納得できない。心がよりどころを求めてさまよい、ぶつかり合い、すれ違う。

 しかし、母の死以後、彼ら家族は一緒にいることをやめなかった。

 ある時、いつも庭を横切るアライグマらしき死体が見つかった。ラッキーと名付けて気に入っていた重度アルコール依存症のウィリアム伯父が、アルコールを全く口にせずに気落ちしている。

 ロビンがハーモニーに言う。「きっと、ラッキーは、彼にとって何かの象徴だったのね」。
 それを聞いてハーモニーは「ロビンの頭を抱えて自分の元に引き寄せた。誰もが、誰にも解らないものを心の奥に持っている。目に見える世界に存在するものが、時に、それを代弁する。声も言葉もない会話が、自分の内と外で交わされる。そのひそやかで親密な時間は、どんなに心を許し会った人とも共有出来ないものなのだ。」(p.297)

 人種問題、テロ、戦争が個人に残す爪痕(アルコール依存症)など、現代社会のテーマをさまざまに織り込みつつ、作者の視線は、現代に生きる普通の人々に注がれている。そこに描かれるのは、熱い血が通い、温もりがあり、不格好に、しかし、今を真剣に生きている人間たちだ。彼らは、それぞれの心に自分にしかわからないものを抱えながら、大切な人と寄り添い、理解し合い、許し合って暮らしていく。

 相手のすべてを知らなくても、相手を理解することができる。それに気づいたら、相手がこの世からいなくなっても、別れが訪れることなどないのかもしれないとロビンは感じることができるまでに成長する。

 あ、タイトルの意味? それは読んでのお楽しみ。

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紙の本ブラフマンの埋葬

2004/09/23 18:35

死のにおいに満ちたおとぎ話

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一見、軽いおとぎ話のようだ。しかし、そこは小川洋子の世界、タイトルによる暗示が、小説全体を支配している。日常からかけ離れ、時間のとまった、死と隣り合わせの世界。大事件は起こらず、声高に主張する人もおらず、しんとした、生と死のみに支配される現実。そんな中、僕の一人称で描かれるのは、ブラフマンがやってきて、ブラフマンと別れるまでの短い時間。

舞台はこのように描写される。

『〈創作者の家〉は村の中心から車で南へ十分ほど走った、田園の中にある。畑と草地が広がる風景の中に、所々こんもりと茂った林があり、たいていその中に一軒ずつ農家が建っている。このあたりの土地特有の季節風を避けるためだ。〈創作者の家〉はそうした古い木造の農家を改装して作られた。』

ぼくは、〈創作者の家〉の管理人である。

この小説には死が満ちている。ぼくが心を寄せる雑貨屋の娘が、列車に乗ってやってくる恋人と手をつないでデートをするのは、古代墓地である。ぼくが唯一心が通じ合って話をすることのある相手は、〈創作者の家〉に工房を持つ碑文彫刻家である。来る日も来る日も墓石に碑文を掘るのである。ぼくは、骨董市に出かけ、身寄りのない年寄りのところから集めてきたという、アルバムからはがしたような、変色した写真を一枚買って、部屋に飾る。既に死んでしまったであろう見知らぬ家族の、古ぼけた写真を部屋に飾るぼくの、壮絶な孤独感。

ぼくの日常は、どこにも向かっていない。ブラフマンがやってきたこと、そして娘に淡い心を寄せること、このことだけがほんの少しだけ生きていることを感じさせていたのに、その二つが皮肉なことに最後には……。

根拠のない人生礼賛や、明日が同じように訪れることを徹底的に否定する、死のにおいに満ちた閉じた世界。ブラフマンに寄せるぼくの愛情の深まりが、孤絶した精神世界を際立たせている。

小川洋子ワールドがまた一つそこに。


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紙の本潤一

2004/05/23 23:04

何の役割も要求せず、「女」であることだけを無条件に認めてくれる美しい男が、女にとって魅力的でないわけがない

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気持ちを封じ込めることにあらがい、性欲を封じ込めることにあらがい、決めつけられた役割に息苦しくなる、そんな女達が潤一に吸い寄せられるさまを描く荒野の筆は冴えている。

連作短編集である。14歳から62歳までの9人の女性が、潤一との出会いを語る。そして最後の一編は、26歳の潤一の一人語り。潤一を描いているようで、描かれているのは女性の内面であるという構図は、荒野の特色だろう。

誰もが潤一と偶然に出会い、ほとんど理屈なく潤一を欲しいと思う。潤一はそれに応じ、短いかかわりを持ち、去っていく。潤一は一人の人間として描かれているわけではない。自分を確かめたい、自分の足りないところを補ってほしい、自分の空虚な隙間を埋めてほしい、何に向かっているかわからない焦燥を受け止めてほしい、そういう願望を持って女達が潤一に、それが運命であるかのように近づき、大概は性的関係を持つ。互いのことは、最初から最後までほとんど何も知らないまま、束の間の時とベッドをともにして別れていく。

女達は、潤一に主張すべきアイデンティティーがないことを、本能的に察知する。潤一が「女らしさ」や「母親としての貞節」や「恋人としての愛らしさ」や「従順さ」など一切求めないことをも、本能的に察知する。大概の男がこだわっているような「メンツ」や「プライド」なんて何一つ持っていないことも、察知する。自慢話もしないかわりに、こちらのプライバシーにも一切立ち入らないことも、好ましい。目が合って、「私たち、寝るんだわ」と自然に了解するだけ。誘ったり誘われたりの手練手管も、面倒な手続きも何一つ要らない。必要な時にそばに来て、不要なことはしゃべらずに、あとくされも何もなく去っていってくれる。

こういう構図はどこかで見たことがある。そう、男と女をさかさまにしてみれば、掃いて捨てるほど描かれてきたような男女の関係だ。意味を求めない、役割を求めない、束の間の関係。こういう関係で一番大切なのは、潤一のからだも、太極拳を舞うその動きも美しいということ。

この小説を「すごく面白い」と言う女性読者が多いのは、うなずける。何の役割も要求せず、「女」であることだけを無条件に認めてくれる美しい男が、女にとって魅力的でないわけがない。

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