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北祭さんのレビュー一覧

投稿者:北祭

114 件中 61 件~ 75 件を表示

決断の人

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、NHKのチーフプロデューサーである著者が、自ら手がけた「緒方貞子の番組」をベースに書き下ろしたものである。まず序章において、<インタビューで紡ぎ出された緒方さんの肉声を、語り口をなるべく変えずに数多く収録するようにつとめた。p.18>とある。そう、ずばり、緒方貞子の「生の言葉」、これが本書の核である。
 1990年以来の激動の10年間、国連難民高等弁務官として見事な手腕を振るった緒方貞子。その優れてバランスの取れた思考が、至るところにある「生の言葉」から読み取れる。また、その「生の言葉」の裏には、並ならぬ決断が潜んでいる。

 1991年、湾岸戦争の終戦直後にイラク北部で大量のクルド難民が発生した。その数およそ180万人。少数民族のクルド人は、過去にイラク軍より化学兵器による迫害を受けた前歴があり、イラク軍による同様の迫害を恐れ、決死の逃避行を試みた。このとき、トルコとの国境に押し寄せた40万ものクルド難民が、トルコ政府によって追い返され、雪に覆われた荒涼たる山中に取り残されるという危機が発生した。
 問題は、難民の定義にあった。1951年に国連で決議された「難民の地位に関する条約」によれば、難民とは「人種・宗教・国籍・政治的信条などを理由に迫害を受ける恐れがあるため、国外に逃れ自国の保護を受けられない人々」と定義されていた。つまり、緒方貞子率いる国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は自国を追われた難民の保護と救済がその責務であるため、自国を出ていない人々を難民と見なすことが出来ず、それまでの慣習・ルールに従えば、取り残されたクルド人をある意味見捨てることになるのであった。このときのことについて、緒方貞子はこう語る。
<国境を越えて向こう側には渡れない。しかし山中にいる人たちに安全を与えなきゃならないという中で、きわめて現実的な判断から、私はやっぱりイラク側の「安全地帯」に降ろすしかないんじゃないかと考えました。それは、今でも大きな決断だったと思います。…ルールを変えることになるけれど、基本原則の根幹は同じなんじゃないか、と。つまり「難民を保護する」「生命の安全を確保する」ということですね。…p.42>
 やがて、多国籍軍が北イラクに「安全地帯」をつくりキャンプを設営する。緒方貞子は、世界中に散らばっていたUNHCR職員を北イラクに張り付けることになる。この英断についてさらりと語る平易な言葉の裏には、それまで国連という大組織で40年もの間続いた難民の定義を覆した、という重大な事実がある。簡単に出来る事ではない。
 この事件以降、ボスニア紛争、コソボ紛争、ルワンダ難民、そしてアフガン難民支援へと不屈の決断が続く。常に難民の側にいる、それが緒方貞子である。

 著者は「あとがき」をこう締める。
<そして最後に、妻と子どもたちへ。貴重な休日をいつも部屋に籠もっていて申し訳ない。辛抱強く待ってくれて、どうもありがとう。p.217>
 人の命を護ることに命を捧げる偉人についての著作を締めるにあたり、この著者の家族への思いを綴った一節が、なぜかひと際心に残る。

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なぜ失敗したのか、その答えはここに

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 本書は、戸部良一らによる『失敗の本質』では不明確に終わっていた、大東亜戦争における日本軍の不条理なる失敗の「根本原因」を論理的に解析してみせた名著である。
 ガダルカナル戦における肉弾白兵突撃による日本軍の全滅、インパール戦における日本軍の餓死…なぜなのか。
 これまでの正統派研究者は、日本軍の非合理性を指摘し、戦場における異常な行動であったとしてきた。著者は、ここで凛然と異を唱える。 <しかし、このような不条理な行動に導く原因は、実は人間の非合理性にあるのではなく、人間の合理性にあるというのが本書を貫く基本的な考え方である。p.2>

 人間が様々な意思決定を行うにあたり、いくら合理的であろうとしても、何よりも人間の情報収集・処理・伝達能力は限定されているが故に「限定合理的」でしかありえない。著者は、この理論を適応することで、日本軍の失敗の原因を鮮やかに解明してみせるのである。
 例えば、日本陸軍はガダルカナル戦に至るまでに白兵銃剣主義に適合するように組織的に多くの特殊な投資をしていた。白兵突撃を念頭に軽戦車・手動連発小銃の開発に投資し、多大な教育コストをかけて兵士を訓練していた。ここでもし、白兵戦術を変更すれば、これまでの特殊な投資がすべて埋没コストとなり、利害関係者の説得にも多大な時間と取引コストを生み出してしまう。さらに、<そして何よりも、この伝統的白兵銃剣主義を放棄し作戦を変更すれば、この戦術のもとにこれまで戦死した数多くの勇敢な日本兵士の死自体が回収できない埋没コストとなることを意味した。p.99>と著者はいう。埋没コストなどと表現するにはあまりにも重い。
 これらの巨大なコストのために、ガダルカナル戦における日本陸軍は、たとえ白兵突撃戦術が非効率な戦術であったとしても、依然としてその戦術をスタンダードとして採用し続けるほうが「合理的」な状況にあった。そして日本陸軍はわずかな勝利の可能性を追及するに至る。されど、人間は限定合理的でしかありえない。敵の情報は得られず、現場にいる兵士の本意が大本営には届かず、結果として、非効率かつ非人道的な作戦となってしまう。
 人間が、自らの不完全性に配慮せず、完全に合理的な作戦を取ろうとすればするほどに不条理な結果を招くこととなる。ガダルカナル島やインパールは、人間の合理性が生み出す最悪の戦場と化したのである。

 著者は、日本がなぜ負けるべき戦争に訴えたのか、その原因についても臆することなく「限定合理性」を用いた持論を述べる。大東亜戦争の原因は本書による理論のみで説明されるものではないだろう。しかし、その答えを追い求める者ならば、本書の中に確かな手ごたえを感じるに違いない。

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衝動と抑制を武術に学ぶ

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 一芸に秀で、道を極める人の著作を読むのは、実に清々しいものです。その極めた自らの思想の武器をもってする、人の生き方に対する言及には含蓄があり、あらためて気付かされることも多くあります。本書の著者・甲野善紀は、「古武術」の道を一身に追求する武人。昨年、桑田投手を復活に導いたことで話題になりましたが、昔から知る人ぞ知る存在でした。いつでもどこでも着物を羽織って下駄履き姿、変人と呼ばれてもそ知らぬ顔と聞きます。体術、剣術、抜刀術、杖術、弓、手裏剣の稽古を日々研究しているというのも、これ頷けるというものです。
 本書は、著者がまだ若い頃に「武術を学ぶ」ことへの熱い思いを語った書となっています。各武術の解釈や影響を受けた剣豪・国井善弥、超人・肥田春充などについて実に清々しく語られます。しかし、なかでも注目なのは、著者独自の視点から語る「武術」の意味についての論考です。本来内気な著者が、なぜに「武術」といういわば人間同士の命のやりとりの道を本格的に志し、稽古に熱を入れるのか。
<深夜一人で槍の素突の稽古などをしていると、壁が「おまえはそうやって人を殺す稽古をしているのか」と問い詰めてくるようで、実にきつい思いをした。P103>
 著者は非難を覚悟で、この問いに答えます。
 人間にとって天敵はもはやなく、人間自らがその天敵の役目も負わねばならなくなったのではないか。自然の法則において、種のバランスを維持する手段としての戦争などがどうしても避けられない宿命なのだとしたら、この逆縁の業を忌避するのではなく、むしろ殺傷技術を充分に稽古し、練り上げることで、人間そのものを考える、それが「武術」なのではないか、と。
 さらに、自然を見つめたローレンツ博士の『ソロモンの指環』を取り上げます。二匹の鳩の戦いは実に残酷であり、勝ったほうは、相手の羽毛をむしり、べろりと皮をむしり、いびり殺すのだといいます。しかし、二匹の狼は、負けたほうが急所の首筋を敵にさらすと、勝ったほうはまずかみつくことはない。鋭い武器を持つ猛獣は、闘争の衝動と抑制とを同時に進化させていればこそ、種の絶滅を免れるのだそうです。
 今や自然界最強の武器を手にする人間の場合はどうなのか。一瞬の衝動で包丁を手にしてしまったとき、どうあらねばならないか。そのときこそ、そのあらぬ衝動を抑制せねばなりません。核兵器をもってしまった国は、どうあらねばならないか。けっして、相手に歯を立ててはならず、いかなる衝動をも抑制せねばならないことは言うに及びません。
 恐るべき武器は、これを使いこなし、「衝動」に対する「抑制」を学び得る道が「武術」にあるのだとするその意味は、真に深いと思うのです。

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紙の本生と死の美術館

2003/05/09 00:09

「人の生き死に」の歴史を語る美術の価値とは

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 京都東山に紅で有名な永観堂(禅林寺)がある。紅葉の庭をぬけ、諸堂に入り細く曲がりくねった順路に沿い、方丈、御影堂を越えると阿弥陀堂。そこに「みかえり阿弥陀如来」がある。この阿弥陀如来像は正面を向いておらず、振り返る姿勢をとった珍しい像となっており、その姿勢がとても人間的で味わい深い。なぜ、この仏はふり向いているのであろうか…この問いに答えはあるのだろうか。

 本書は、「人の生き死に」の歴史を考えるといった視点に立ち厳選した54点(西洋編28点、日本編26点)の美術作品を題材とし、それぞれの作品の背景・歴史的意味・著者の思いを、ときに印象的な詩を引用しながら丹念に語る労作である。
 挙げられる作品には、著者自ら現物に向き合ったというが、まず、その作品の選択がすばらしい。レオナルド・ダ・ヴィンチの「リッタの聖母」、レンブラントの「デイマン博士の解剖講義」、興福寺の「阿修羅」、永観堂の「みかえり阿弥陀如来」など、それらの作品が章の始めに堂々とカラー写真で紹介されている。これは実にありがたく、まずはじっくりと作品を鑑賞することができる。テーマが深遠であるがために、不意に食い入るように作品の写真を見つめる自分がいることに気付く、といった具合である。各作品についての文章は、単なる解説に終わらず、人間性を追及する集中力にみなぎっていて実に印象的であり、言葉に一貫して「生への慈しみ」が感じられる。著者の美術に対する思いは並ではないことが伝わってくる。著者は十七歳の夏、太平洋戦争にかり出される前日に奈良・京都へ赴き、「阿修羅」や「みかえり阿弥陀如来」という古き仏たちを守るためなら命を捨てても悔いはないと観念したのだという。なるほど、純粋にも美術を守るために命を張ったという強烈な体験者である、並であろう筈がない。

 著者は「みかえり阿弥陀如来」の章において、医療者が患者とともに苦しみ悲しみを共にすることに心が及ばない事を嘆く。
 <今日の病院では医師や看護師は忙しく病室を飛び回っているが、病室を出るときベッドの患者のほうをふり向く医療者がどれだけいるであろうか。じつは患者たちは白衣をひるがえして忙しげに出て行く医師や看護師の背中に目を凝らしているのである。P200>
 この仏像が、仏教的な慈悲の心の表現のみならず、ただ人間として如何なる心が大切なのかを映し出すとき、そのとき美術作品としての尊い価値が生まれるのだと、本書は気付かせてくれた。
 今度は、本書を手に永観堂を訪れることにしたい。きっと、ふり向いた姿に、美術の価値をみると信じて。

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紙の本日本の名随筆 別巻6 書斎

2005/01/10 23:41

読書人の妙薬

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 書物は世に万巻とあるにもかかわらず、一生のあいだに読める本の量は高が知れている。嗚呼、内心のタメ息吐息と裏腹に、あれやこれやと買いつけた未読の本が書棚にあふれんばかり。本書には、そんな読書人の心にひと匙の妙薬となる随筆がある。

 戦争中に蔵書を書斎ごと焼いてしまった吉田健一は、その灰の上に家を立て、焼けた書物に対する執着をさらりと水に流してみせ、こう綴る。

「本を読むのは、或る時、或る言葉と自分の間に生じる一種の関係で決定されることのやうで、それが起こらなければ本を持つてゐても無駄だし、さうして言葉が生きて来れば文庫本の安本でも、もつと詳しい註が欲しいなどといふことはない。ジイドの『背徳者』に、主人公が病気が直つて、どこか北アフリカの町の公園に散歩に行き、ホメロスの袖珍本を出して一行読むと、もうそれだけで満足して読むのを止める所があるが、これも読むといふことである。その気持ちから、先を続けて読んでもいいし、そこで本をしまつても構はない。」

 吉田健一は、読まねばならぬといった風な読み方、すなわち本というものから色や匂いが消えうせるような読み方はいらぬと云うのである。長年手もとに置いてある本の一行の言葉が、ある時生きてくるのだ。

 三万冊の蔵書があふれ、その書斎を訪れた人のお決り文句「これだけの本をみな読んだのかね」という問いかけに、誇りを持って「いいや、ぜんぜん読んでいない」と答える森本哲郎は、こう云い切る。

「私は書物とは読むものではない、と思っている。本とは読むものではなくて、“いつか読もう”と思っているものだ。その“いつか”は、それこそ、いつなんどき訪れるかわからない。そのときに手もとに本がなければ、彼は永久に本を読むきっかけを失ってしまうだろう。自分の書棚に並んでいる本は、そのときのためのものである。すなわち、未来の書物なのだ。だからそこに並ぶ本は多ければ多いほどいいのである。」

 森本哲郎の言葉には、おそらく謙遜が含まれていよう。その読書量は並みではないに違いない。それでも読めずにおく本の、どこかの頁のどこかの行にある言葉が、いつか必ず生きてくる。そのとき、その一瞬を逃すことが読書人にとって如何に取り返しのつかないことであることか。

 最後に、問答無用の激を飛ばす内田魯庵の言葉の引用を。本を買うなら魯庵のように清清しくありたいものである。

「書物を買ふのを惜んだりオツクウに思つたりするやうな事では駄目だ、此の大切な頭脳を養ふ何よりも肝腎な糧である書物に金を惜むやうな国民では到底文明人とは云はれないのだ。」

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紙の本厄除け詩集

2004/09/25 00:35

忘れちゃならない詩人

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 会津八一は『渾斎随筆』の中で「国語を超えて翻訳をするのは容易なことでなく、ことに詩歌はとりわけむづかしい」と訳詩について語っている。支那の詩、とくに五言四句の絶句など「なんともてにおえるものではない」とため息をつく。

 けれども、仮に李白や杜甫が、同じ日本に生まれたとしたらどうか。いっそ文字の表面にこだわるよりも、「ずっと作者の心に入り込んで、中からほぐして、歌なら歌に、それを直す」といった心構えであればよい。そう考えた会津八一は、その数こそ少ないものの、悠々と万葉味あふれる訳詩を残した。次に唐詩選より一首。

   ●原詩●「照鏡見白髮」(唐)張九齡

   宿昔青雲志  宿昔ノ青雲ノ志。
   蹉柁白髪年  蹉ダダリ、白髮ノ年。
   誰知明鏡裏  誰カ知ラン、明鏡ノ裏。
   形影自相憐  形影自ラ相憐レムコトヲ。

   〇会津八一の訳〇

   あまがける こころ は いづく しらかみの

   みだるる すがた われ と あひ みる

 正直なところ、原詩の読み下し文をそのままに味わうことは難しいけれど、会津八一の和歌ならば分かる。なるほど訳詩も悪くない。

 ここで忘れちゃならない人がいる。詩人・井伏鱒二である。井伏鱒二は詩と詩人が大好きであったという。どうかすると小説よりか詩のほうが好きであったという話があるくらいである。漢詩の訳、自身の創作、それぞれ数は少ないが個性あふれる名作ぞろい。「照鏡見白髮」も訳してなさる。

   ◇井伏鱒二の訳◇

   シュッセシヨウト思ウテヰタニ

   ドウカスル間ニトシバカリヨル

   ヒトリカガミニウチヨリミレバ
 
   皺ノヨッタヲアハレムバカリ

 実に飄々とした歌いぶりである。これを「小唄ぶりの洒脱な訳詩」といったのは向井敏であった。ちょいと小説に飽きたら、井伏鱒二の厄除けが役に立つ。

   ◇なだれ◇

   峯の雪が裂け

   雪がなだれる

   そのなだれに

   熊が乗つてゐる

   あぐらをかき

   安閑と

   たばこをすふやうな恰好で

   そこに一ぴき熊がゐる

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紙の本本は異なもの味なもの

2004/09/20 00:11

司馬遼太郎を唸らせる細石

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 本書は著者による書評や短い文を拾い集めた文集である。愛書家として選び定めた旨みある書物や人物についてやわらかく的確に語られた文章のさざれ石。

 海老沢泰久『美味礼賛』、幸田文『木』、武田百合子『日日雑記』、向井敏『表現とは何か』、出久根達郎『人さまの迷惑』、谷沢永一『完本紙つぶて』、開高健『ALL WAYS』、森銑三や司馬遼太郎に対する和やかな眼差し、例をあげればキリもない。
 
 著者は、谷沢永一にして「狂を上にもっていったほうがいい」と云わしめるほどの愛書狂。京大ドクターコース時代には知る人ぞ知る大阪桜橋の古本屋浪速書林へ無給の志願店員として入ったほど。

 ある日、著者が店にいると、見たことのある髪が白い黒ぶちメガネのおっさんが入ってきた。司馬遼太郎である。

 「はっきり覚えていますよ。創元社から昭和十三年五月に刊行された函入りの内藤湖南の『支那論』をさっと抜いて、それと辛亥革命関連の研究書を一冊買われました。私はレジを打って代金を受け取ったのですが、手の切れるような一万円札を財布から出されたのが忘れられません。」(『人たらし』谷沢永一著より引用)

 著者はもとより司馬遼太郎にぞっこんで、各初版本を二冊ずつ発売当初から買い揃え、新聞雑誌の記事もすべて集める念の入れようであった。初めて司馬遼太郎に接したときの感動たるや如何ばかりか。

 そんな著者による初産ともなった本書。その巻等に司馬遼太郎が華を添えている。それは著者山野博史をあたたかく包みこむ名文である。

「 山野博史氏の山容 司馬遼太郎

 山野博史氏は、奥州の猟師にとっての山の神のように、小出しにしか姿を見せない…
 猟師が山を踏みわけるうち、山の神が大きく姿を見せることがある。氏の日常の講義の一端を仄かに知ったとき、この人が、法学部の政治学の先生であることに気づかされた。猟師が熊から胆(い)をあざやかに取りだしてみせたような瞬間が、そのときの座談で感じさせられた。
 私にとって、この山の神は、まだ全容を見せてくれていないような気がする」

 司馬遼太郎を唸らせた著者の含蓄。容易には見せぬその全容。その一端を今垣間見る幸運を味わいたい。

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紙の本快適な日々

2004/09/20 00:05

ずばりプロ野球衰亡論

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 プロ野球のストライキはどこか釈然としない。そこで、ちょうど十年前に出版された海老沢泰久のエッセイ集を開いてみた。海老沢氏は広岡達郎に捧げた『監督』、堀内恒夫の物語『ただ栄光のために』などを著し、常にプロ野球の世界を見つめてきた作家である。

 本エッセイには、ずばり「プロ野球衰亡論」という文章がある。海老沢氏は、このエッセイの初出当時(1983年)のプロ野球にあったある傾向について指摘する。

「近年、プロ野球の試合時間はおそろしく長くなり、それに対する批判の声に反して、ますますひどくなる傾向にある。昭和二十五年にはセ・リーグが一時間四十四分、パ・リーグが一時間四十五分だった平均試合時間が、セ・リーグが二時間五十九分、パ・リーグが二時間五十四分になった。ほぼ二倍である。いまや三時間を超える試合も珍しくなくなった。六時半に試合を開始して、夜の十時すぎまで野球をやっているなんて、どう考えても異常である」

 ほんとうに異常である。一番面白いところでテレビ中継が終るのにはもう懲りごりである。どうしてなのか。それは「投手の投球のインターバルが飛躍的に長くなった」からであると海老沢氏は指摘する。また打者が打席をはずすとせっかくの「二十秒ルール」も振り出し。まだある。「無意味な牽制球」「再三にわたる捕手のサインの再確認」「だらだらとした攻守交替」…。

 三時間半の試合時間のうち、ボールが投手の手から離れてグラウンド上を転々としている時間が、わずか三十数分しかないという。海老沢氏は、このまま試合がどんどん長くなれば、ファンはもう球場に足を運ばなくなるのではないかとの警鐘を鳴らしている。

 このエッセイは二十年前のものである。いったい、今までプロ野球界は何をやっていたのか。二十年もの間、何も変っていないではないか。

 ファンは気づいている。今のプロ野球界の議論には大切なことがすっぽり抜けていることを。

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紙の本危うい世界を生き抜く言葉

2004/07/10 23:07

孤独に、耐え、残る

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 彫刻家による石の造形ならば、長い風雪に耐え、残る。では、小説家の残す言葉はどうか。人の記憶はあてにはならず、書物も脆いものである。それは早早と塵になるだろう。救う手だては唯ひとつ。残されるべき言葉を拾い選び出し、新しい書物に誌し伝えることである。

「入ってきて人生と叫び、出ていって死と叫ぶ」

 本書の冒頭に誌された、これが開高の叫びである。ここには、開高によってノンフィクションやエッセイに残された言葉が並ぶ。青春出版社の編集人は「まえがき」「あとがき」「跋」の類一切を省いた。開高の叫びに始まり、そして終る。すなわち、口を開き言葉を継ぐのは開高のみという、粋な計らいである。

・・・

「死は人に節(ふし)を作り、きわめて急速にその人を成熟させる。成熟のさきに何があるかという問いに答えることをしばらくおいて眺めれば、人の死を眺めることがどれだけ人に内熟と寡黙をあたえることか」

「書物は孤独に読まれるが映画も孤独に見られる。孤独を忘れるための孤独ということでは感触がよく似ている」

「殺スナカレは人類の最初の立法といっしょにあらわれたが、それはその集団にとって各人が生きていることが有用だからである。集団の利益の衝突する戦場では今日あらゆる宗教も殺すことを許しているのだ」

「古本屋歩きは釣りに似たところがある。ヤマメを釣ろうか、フナを釣ろうかと目的をたてることなく歩いていても、たいてい、一歩店のなかへ入っただけで、なんとなくピンとくるものがある。魚のいる、いないが、なんとなくわかるのである」

「マスコミに刺激されて少年が非行をはたらくのだというマスコミ自身の恥知らずな御宣託にほとんど私は賛成しない。それは彼らの行動の暗示や触媒となったかも知れないけれど、その本質ではない。ただ彼らは経験や知力や財力や忍耐に欠け、非行成人たちのようにずるくたちまわったり、かくしたりすることができなかったまでではないのか」

・・・

 開高の表現における生命線は『輝ける闇』に極まる比喩にあったことはよく指摘されてきた。そして、その表現は小説に留まろうとはしなかった。

 その言葉は、主人のいない孤独に耐え、残る。

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紙の本聖徳太子はいなかった

2004/04/24 11:55

たとえ荒唐無稽があろうとも

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 聖徳太子の伝説は、今や日本人の心の拠り所。「何を今更…」と言いたいところですが、谷沢さんは禁忌の壁をものともせずにこう言うのです。

「聖徳太子はいなかった。…聖徳太子は、古代日本における憧れの心情にもとづく理想の人間像を、文字のうえに結晶させたところの、誠に発する虚構(フィクション)である」

 ならば本書は「聖徳太子は幻」と説得するのに汲々と骨が折られた労作か?
 それがちょっと違うのです。
 もちろん、傍証の記述は多くあります。それはもう、丸谷さんすら鼻をつまむというその辛辣に捻った言葉の連打による「ペテンの告発」には苦笑い。けれども、聖徳太子の研究では素人であることを明言する谷沢さんは「いなかった」という説得の、その根っ子の部分は歴史学の成果を伝える文献に預けています。疑うならば、本格の研究書をまずは読んでおくれ、といったところでしょうか。

 さて、『日本書紀』は聖徳太子像を伝える由緒の確かさでいえば唯一の資料です。これを「書物の形態」から推してみると、あの時代、書かれた紙は巻物にしたてるしかなく、その原型は「全三十巻と系図とより成る」とされ、それはもう大変な巻物の山であったろうと谷沢さんは言います。そんな巻子本の持っている宿命とは、すなわち「削除、加筆挿入、配列転換、じつにさまざまな手入れが可能」であるということです。写本の転写、再転写、再再転写されるなか、たとえば「聖徳」の文字が書き加えられたとしても何の不思議もない。ここで『書紀』を研究する者の態度が問われています。

「在る一ヵ所にあきらかな荒唐無稽の記述が見出せるからといって、『書紀』三十巻の著録が、おしなべて虚構であると決めてかかるのが早とちりであるのと同じく、その否定しようもない荒唐無稽を部分的には泣き泣き認めるものの、考証という悪魔の触手を払いのけ掻いくぐり、中世神学のこじつけ論法を借用し、『書紀』の叙述を真実の表現としてまもりつづけようとする、灼熱した御教論もまた時代錯誤であろう」

 それでは、谷沢さんは古代の資料をどうみるのか。

「『書紀』の記述のひとつひとつは、この時代の精神史をうかがわせるかけがえのない資料である。たとえそこに荒唐無稽があろうとも、それを時代が必要としていたのだ」

 聖徳神話のひとつに「十人の訴訟を同時に聴きわけて正しく裁いた」というものがあります。これは果たして始めからあったのか、のちに加えられたのかは分からない。けれども正しい裁きを受けられない多くの同時代の人々が、この神話にすがり、願い、祈ったのであろうことは想像に難くありません。そのことに思いを馳せる構えが如何に大切か。これこそが古い書物にあたるときの真の極意であることを本書は教えてくれます。

 実は、谷沢さんが本書を著す上での起爆剤となった書物があるそうです。それは、『偽書の精神史』(佐藤弘夫著)。日本の中世の時代、大量に流通していた「偽書」の意味についての深い洞察をもつ優れた書物です。谷沢さんは、本書でみせる四方八方に広げた連想の、その芯の部分を惜しげもなく披露されたのでした。

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紙の本書物

2004/04/15 00:36

すべての読書子への言葉

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 書物好きならば、思わず手にせずにはいられない書名である。まずは森銑三による「はしがき」でこの書物は幕を開ける。

 「「書物」という名の書物を拵(こしら)えるということが何やら愉快そうで、ついそれを引受けて、二人で協力して執筆することにしたものの、考えてみると、書物の名前が「書物」では、生まれた子供に「人間」という名が附けられたようで、第一呼ぶのにも工合が悪い。厄介な書物を引受けたものと、後になって気が附いた。…」

 森銑三は書物を「拵える」と言う。まるで工芸品などを丹精こめて仕上げるかの如くである。また、書物の名前を「子供の名前」にたとえてみせる。こうした言葉の一つひとつから書物に抱いている温かな愛情が伝わってくる。そして、この「はしがき」の言葉は徐々に熱さを増し、逸る読者を鼓舞してやまぬ名調子となる−。

「…私は本書を手にせられる人々に告げる。どうか大いに自分を生かし、自分を働かせて読んで、すぐれた読書家たるの栄誉を各自が担っていただきたい。特にその一事を希望して、名前からして始末の悪いこの無用の書を、書物そのものに特別の興味と愛着とを有する、そしてまたその興味と愛着とを本書の上にも及ぼされるであろう人々の机上に送る。

 昭和十八年五月下旬 森銑三 」

 よく「本は読むべきか読まざるべきか」という問いが巷にはある。この点について森銑三と柴田宵曲は共に、長塚節の『土』に寄せた漱石の序文を引いてその答えとしている。漱石曰く、

「理窟から云って、読まねばならない義務のある小説というものは、その小説の校正者か、内務省の検閲官以外にそうあろうはずはない」

 書物を読まねばならない義務はない。読むべきか否かの判断はまったくの自由ということであろう。しかし、であればこそ、読書子たらんと決意した者を、森銑三と柴田宵曲は待ってましたとばかりに迎え入れ、そして語りかける。書物のすばらしさ、面白さ、喜び、そして厳しさまでも含めてすべてを覆う厚い情をもって、先達として「書物への愛」を語る。

 読書子の端くれとして、本書を机上に置いて思う。「良書」というものがあるとするなら、それは本書に違いない。

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紙の本百言百話 明日への知恵

2004/03/16 21:48

選ばれたセリフ

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 谷沢氏は名文名句の選定人として多くの著作を残している。たとえば『日本人を創った百語百読』(PHP新書)は、誰もが認めてきた歴史に残る名語を選び出しこれを鑑賞するというこころみであった。また『名言の智恵、人生の智恵』(PHP研究所)では古今東西の珠玉のことばを並べ、そこに意訳と短いコメントをつけた云わば小辞典という仕上がりの一品であった。それぞれ違った味わいをもつ。

 さて、本書の特色といえば、ここに揚げられる名句が世に広く認められているという基準ではなく、谷沢氏のもつ独自の捻りと洒落の効いた選定によるという点にある。さらに谷沢氏は各々の名句にエッセイ風の解釈文を寄せて工夫を凝らしている。エッセイ文の中身は本書をご参照いただくとして、ここでは本書にある名句たち、その魅力の一端をご紹介する。

「世は活きている。理窟は死んでいる」
                    (勝海舟「氷川清話」)

「人を責めるのが大好きな人があるね、正義の味方の中には」
                    (田辺聖子「休暇は終った」)

「自由と我儘との堺は、他人の妨げを為すと為さざるとの間にあり」
                    (福沢諭吉「学問のすすめ」)

「探検家は、まず第一に、やるかやらないかという決心をする前に調査するよりも、やるという決心をしてから調査します。決心をしてから後にやる調査というのは、いかにして失敗のリスクを減らすかということに専心することになるわけです」
                  (西堀栄三郎「石橋を叩けば渡れない」)

「一人二人がやっている間は愉快な仕事でもそれが流行の兆を見せてくると腹が立つ」                (佐藤春夫「退屈読本」)

「馬鹿は死ななきゃ癒らない」(広沢虎造「清水次郎長伝」)

「男女の結びつきを翻訳語の<愛>で考える習慣が日本の知識階級の間に出来てから、いかに多くの女性が、そのために絶望を感じなければならなかったろう?」
                (伊藤整「近代日本における<愛>の虚像」)

「人は三ツの愛の中に生き、一ツの愛無きに至って死す」
                    (幸田露伴「ひとり言」)

 選ばれたセリフたち。まるで生きているようではありますまいか。それは生の言葉であるからか、こころに残る余韻がそう思わせるのか。

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紙の本愛国心の探求

2004/03/16 21:39

愛の深度を問う

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 『文學界』2004年4月号に、同年1月17日に開催された 篠沢秀夫教授(70歳)の最終講義「フランス文学とフランス文明」の全文が収録された(朗読された詩も収録)。まさにエスプリとユーモアとロマンに満ちた講義は聴講者の多くを酔わせたに違いない。


 篠沢教授は十二歳のときに終戦を迎えた。戦後、人々が占領軍に媚を売り英語習得に狂奔するのを見て、わざわざフランス語を習い始め、これを自らの占領軍に対するレジスタンスであったと回顧してみせる人である。多くの戦死者、戦災の犠牲者のことを思い、自らを「死に損ない」という。戦争に生き残り、物質的環境整備に熱中し自己満足する人を見ると「生き腐れ」と思う。自分も「生き腐れ」の一面があるに違いなく、ひとこと「つらい」と呟く。
 しかし、生き残ったのは事実。生き続けねばならない。恥じることなく生きねばならない。「生き腐れ」という感覚なしの自己イメージをもつこと。そのために自己と共同体との関係のアイデンティティが確立されなければならない…。挫けず前向きに生きる精神のエネルギーを活動させ、教授は問いかける「あなたは国を愛せますか」と。
 教授のいう愛国心とは、「平常心であり、愛という感情であり、感情のありかたであり、エネルギーの蓄積、静かな愛国心」である。

 篠沢教授はいう。多くの日本のインテリたちはフランスばかりを仰ぎ見る。ところが日本はそんなに遅れていなかった。日本とフランスは、近世の国土統一の時期など運命的に似ているし、国土の広さも同じ。日本ばかりが異質なわけではない。教授は、天皇と教皇を比べるという大胆さをも駆使しつつ、日本という国をフランスの目を通して裸にしてみせる。日本は特殊な国ではない。日本を愛することもまた特殊なことではない。日本人は日本愛、フランス人はフランス愛。そういうのである。

 篠沢教授の場合、巷で保守といわれる人に共通の型がない。実はそこに教授の愛の深度がかかわる。愛が徹底しているのである。教授はいう。「戦前戦中戦後を通して、良くも悪くも同じニッポン、それは自分のことだ」「明治の日本を愛せなくて愛国心はない。それと同じに、平和憲法と共に歩いた五十年を愛せなくて、何の愛国心か」。この徹底した深い愛の前には、間に合わせの理論武装は解かねばならない。一旦裸にならねばならない。ここに自分の頭で考え、愛を語る人がいる。

 最後に篠沢教授の総括を引いてみたい。

 「さらに総括しよう。固有の文明への愛が、地球上どこの集団に属すにせよ、愛国心の基盤である。そういう愛国心を持っている人こそ、同じような愛国心を持っている他国人と、おだやかに対等な国際交流ができる。しかし愛国心は本能ではないし、抽象的な愛国心というものはない。恋愛が個別な対象を持っているのと同じである。愛の対象は独自の文明としての日本である。このようにして<愛国心>という言葉の響きから、かつての日本特有の戦時愛国心の残像のトゲを抜くことができる」。

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紙の本自分の時間

2004/03/03 00:11

時間、小説、そして詩について

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 「決まった仕事以外に何かやりたくてうずうずしている人へ」と著者は語りかける。「時は金なり」。それは分かっていても何を始めるにしろ「時間がない」と人はいう。しかし、それは違うと著者はいう。まずは次のように思ってみてはどうだろうかと。

 「朝、目覚める。すると、不思議なことに、あなたの財布にはまっさらな二十四時間がぎっしりと詰まっているのだ。そして、それがすべてあなたのものなのだ。これこそ最も貴重な財産である。」

 手始めに、朝の通勤時間の三十分を少し変えてみてはと提案する。ぼーっとせずに、頭の集中力を高める練習をしてみる。たとえば、前の晩に読んだ古典にある文句について考えてみる。こういうちょっとしたことから始めるのでないと習慣を変えるのは並大抵のことではないという。

 一日の仕事が終わり帰宅したあと、週三回、九十分ずつ時間をとろうと提案する。何をやってもいいのだが、著者は<精神の成長>をささえる読書のすすめについて、「人生に大きな<利息>を生むアドバイス」と銘打って一章割いてくれている。
 ところが思考を要する読書に<小説>は入らないという。おや? と一瞬固まった。なぜといって、著者はイギリス最大の小説家と言われている人なのだ。これは解せない。しかし、著者の言葉は続いていた。

 「…というのは、小説が読むのに思考を要しないつまらないものだからというわけではない。(世界で最高の文学作品のいくつかは小説である)
 そうではなく、わるい小説は当然読むべきではないし、いい小説というのは、一所懸命に頭を使って読まなければ中身がわからないようなものではないからである。必死になって考えなければ読めないような箇所は、それは出来のわるい部分なのだ。
 いい小説というのは、小船に乗って急流を下るがごとく、最後まで息もつかせずどんどん読み進められるものである。それでいて少しも疲れることがない。最高の小説とは、少しの努力感もなしに読めるもののことだ。」

 自身が小説家であるからだろうか、小説を貶めない、この細心の注意を払った語り口。小説は当然読まなければならない。しかし、今ここで問題としている<精神を成長>させるために用意する九十分に必要なものは努力感である。それでは、小説よりもはるかに頭を使うことが要求されるものとは何か。それは、想像力豊かな<詩>であるという。

 「詩は最も崇高な喜びを与えてくれると同時に、最も深い知識を授けてくれる。要するに、詩にまさるものはないということだ。
 − 何よりもまず詩を読みなさい − 」

 そして、これは詩に限らないけれども、自分が努力を傾ける方向と範囲を限定して、ひとりの作家にじっくりあたること。よく読むと同時によく考えること。自分が読んだものについて、少なくとも四十五分くらいかけて、注意深く、しんどくなるくらいに反芻してみよ。そう著者は語りかける。
 優れた詩、すばらしい作家の著作について考える時間のなんと有意義なことか。この書評を書きしるすにあたり、その行いを肯定してくれる本書から大いに力を得たのであった。

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紙の本ローマ人の知恵

2004/02/28 00:31

読書人の一本釣り

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 本書は、ローマの賢者が残した記憶に残る数々の言葉に、著者ならではの注釈が添えられた名言集である。著者は英語学者でありラテン語の専門家ではない。しかし五十代の頃から「老い」を撃退するためにラテン語の暗記に取り組んでおり、その勉強の中で出会った「これぞ」という言葉を選び、かつその出典を原文で読み、吟味した上でのご紹介である。

 「ライオンをリーダーとする鹿の軍隊は、鹿をリーダーとするライオンの軍隊よりも怖るべきものである。(ローマの格言)」

 「機会(チャンス)は前頭部には髪が生えているが後頭部は禿げている。もしもそれを捕まえた時はしっかり押さえよ。一度逃げた機会はジュピターの神でも捕らえることはできない。(ファエドルス 第五巻八節)。」

 一瞥でこころに残る言葉の一本釣りである。著者は釣り上げた言葉を大切にあの手この手で味わい尽くす。次にもう一句。

 「実際、君がいかに多く所有するかは問題にならぬのだ。君が所有していないもののほうが、はるかに多いのだから。(アウルス・ゲリウス『アテネの夜な夜な』第十二巻第二章)」

 実はこの言葉、ゲリウス自身のものではない。彼は芸術と書物を愛した勤勉な学徒であった。哲学を学ぶために訪れたアテネ。その冬の長い夜に、彼はいろんな作家の本を読んで、その抜き書きを作りはじめた。その習慣はローマに帰った後も続けられ、遂に『アテネの夜な夜な』が公刊された。その中で、セネカの言葉として引用されたのが先にあげた一句である。今では跡形もない当時の書物たち。しかし彼の引用のおかげで言葉だけが奇跡的に残った。続けて著者はいう。

 「この文句は、元来はお金に貪欲な人について言ったものであるが、私がこの文句を読んだときにぐさりと胸に来たのは、お金のことではなく書物のことだった。」

 著者は本を集めることに異常な熱情を持っているという。本はどんどん増え続け、住居空間をも侵すほど。

 「本などはいくら集めてもキリのないものである。そんなに読めるわけもないし、所有していない本のほうが無限に多いのだ。
 こんな感慨を抱くこの頃、雄松堂書店から谷沢永一氏所蔵の珍書をマイクロ・フィルムに収める話を聞いた。国会図書館にもない雑書が多く集められており、放置すれば四散し消える虞がある。大正時代前後の風俗・世論を知るために貴重なもので保存を確実にする必要があるという。
 そこまでいけば本集めも立派なものだ。しかし、その谷沢さんも阪神大震災後は五万冊くらい処分されたそうだ。嗚呼!」

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