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  3. 北祭さんのレビュー一覧

北祭さんのレビュー一覧

投稿者:北祭

114 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本江戸時代

2004/11/18 00:01

庶民の歴史の誕生

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 なぜ「江戸時代」なのか。著者いわく、「江戸時代とは本当の意味で庶民の歴史がはじまった時代である」と。

 神話の時代から今に続く大和民族の歴史は長い。ところが、以外に最近まで理論的に実証できる歴史とはいえないらしいのだ。それは邪馬台国や聖徳太子などにまつわる華麗な論争を見ればわかる。いわんや、一般の庶民が自分の祖先をさかのぼりうるのは、どうがんばっても「江戸時代」までなのだと著者はいう。

 また、庶民が親子の生活を「家」というものを通して継承するようになったのは江戸時代初頭からのことであったということが『塵芥集』『結城家法度』によって明らかにされる。してみると、身につまされる庶民の歴史の嚆矢は江戸時代にあるといってよさそうである。

 さっそく、本書の中からひとつ、「江戸の人口問題」を取り上げてみたい。

 享保10年六月分として差しだされた江戸町方人口を、四月分とみくらべていた町奉行大岡越前守忠相は、不思議なことに気がついた。

  享保10年4月
   462,102人  内)男 301,125人
               女 160,977人

  享保10年6月
   472,496人  内)男 301,920人
               女 170,576人
 
 この数字。たったの2カ月で1万人も増えている。しかも、それがほとんど女子なのである。さて、何事もいいかげんにすませておけないらしい大岡忠相は、資料を作成した町名主に理由を問うたところ、「冬場で火事が多いので江戸近在や知人縁者のところに避難させておいた女を夏場で火事の少ない季節になったので呼び戻した者」があるからだとのことであった。

 江戸の火災の月別比率によれば、6月は1.03%であるのに対し1月は19.92%。乾燥した季節に、ひとたび火災が起こればその死傷率は想像を絶していた。江戸最大といわれる明暦の大火での死者は10万2千余人とも伝えられる。(当時の全人口は30万ほど)

 享保のころ、江戸の町は新開地につき大変に男性過剰であった。少ない女子を火事から守り、たいせつにしていた江戸の庶民の姿がここに浮かび上がるのである。人口統計、火事の月別比率など、信頼性の高い一級の資料を裏づけとした真摯な眼差しによる歴史の実証がここにある。

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紙の本余暇と祝祭

2004/06/23 23:21

知性による観想の書

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人が何物にもおびやかされることなく、真実に人間らしく生きるためには「余暇」が必要であるという。この「余暇」の本質を考えることが本書の一貫したテーマである。
 もし「私は休暇を楽しみに働いている」ということばを聞いて違和感を抱かないとしたなら、その本質に迫ることは容易ではない。この場合の「休暇」と「余暇」はまったく違う概念なのだという。「休暇」は「労働のための準備期間」と捉えられ、それでは「労働」を過大に評価することになる。そこに危険が潜む。

 「労働」は実益に直結する。それは衣食住を満たすためには必須である。本書もそのことは否定しない。しかし、それによって人は社会的な組織にしばりつけられるという一面をもつ。厄介なのは、その束縛が、働く人の「生活空間を消耗しつくす」ほどに徹底する傾向をもつ点にある。
 「労働」に束縛され、これを絶対視する立場からいえば、「余暇」とは「なにもしないこと」であり「怠惰」以外のなにものでもないということになる。が、中世文化華やかなりし頃の人生観はこれとは全く逆であったのだという。

「余暇と怠惰とが結びつくのではなく、あべこべに、せわしなく働くこと、<労働のための労働>をモットーに休みを知らず働くことが怠惰のしるしだ、ということになります。自殺行為ともいえるほど無茶苦茶に働くこと、それが実はなまけていることなのだ、と中世の人生観は教えているのです。」

 「怠惰」と「労働精神」とは対立しないというのである。忙しい勤務のあと、なにか空虚な脱力感に襲われることがある。それが実のところ「怠惰」と紙一重であるのだとしたらどうであろう。
 実益に直結する労働がゆき過ぎると、やがて人は人間らしく生きる望みを抱くことを忘れ、本当の意味での「怠惰」に陥るのである。

 「余暇」は、この「労働」の概念に含まれている「実益への奉仕」という側面にするどく対立する。著者によれば、「余暇をする」という行いは、理性によって身構えるのではなく、自らを開き、知性による直観でものの本質を見ることだという。それは祭りを祝う人の心にも似ている。宇宙の神秘を認め、世界を肯定し、歴史の本質への全面的な信頼を寄せる心である。
 著者は、この「余暇」が「礼拝に支えられた祝祭」によってこそ実現されるという。人間的なものをなにほどか超えようとする思いを抱くことが最も人間らしい行いである、そういうのである。
 さても著者はカトリック信者である。「所詮神懸かりか?」と思うなかれ。哲学者が思考の要諦を「人知を超えるもの」に例えるときには文字通りの解釈は的を射ない。かつて、スコラ哲学では「理性」だけでは人間性をカバーできないことについて「天使」を引き合いに出して、より高次の精神存在の理解にあたっていた。それは、「数学者や物理学者が問題を解くための手掛かりとしていろいろなモデルを考える」のと同じであったと、著者は述べている。

 真の「余暇」を理解するために、著者はこれを「祝祭」に結びつけた。それはほんの道しるべに過ぎない。では、自分にとっての「祝祭」とは何なのか−。それを考えること自体すでに「余暇」へとつながる道なのかもしれない。

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紙の本日本人とユダヤ人

2004/05/24 23:52

からくり「べンダサン」

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 日本人論の大ベストセラー。発刊時、巷ではそのすぐれた観察眼に感服し、作者イザヤ・べンダサン(自称ユダヤ人)大捜索が行われたのはあまりにも有名である。そんな中、訳者と名乗った本物の著者山本七平はひとり、何を思っていたのだろうか。

 著者はユダヤ人を比較の鏡として日本人像を浮き彫りにする。日本人は「神」という概念ではなく「人間」という概念を中心とする「日本教」の信者であるとした「日本教徒論」。全員一致の議決や国会の法律さえも絶対とはしない日本人のもつ無意識の法、すなわち「法外の法」。これら日本人論の論調は刺激的で、筆の立つ作家のこころに火をつけた。その影響力は大きく、この本にある様々な各論を巧みに切り取って自論に仕上げた風な書物の刊行が、いまだに後を絶たない一事を持ってもそれは察せられるのである。

 しかしなぜ著者は「べンダサン」を名乗ったのであろうか。これは、日本人論を謳った書物の中でも極めてユニークな点であり見過ごすことはできない。

 べンダサンは、「しのびよる日本人への迫害」という章の冒頭で次のように語っている。

<「われわれは、迫害されたが故に人類に対して何らかの発言権があると思ってはならない」。私は絶えず同胞にこのように言う。だがこの言葉はちょうど日本人に「唯一の原爆被爆国なるが故に、世界に向かって何らかの発言権があると思ってはならない」というのと同じであって、中々うけ入れられず、時には強い反発をうける。もちろん、ユダヤ人に対してこう言う権利があるのはユダヤ人だけであり、また同様に、日本人に対して前記の言葉を口にしうる権利があるのは日本人だけであるから、私は、その言葉は、口にしようとは思わない。>

 「ユダヤ人に対してこう言う権利があるのはユダヤ人だけ」「日本人に対して前記の言葉を口にしうる権利があるのは日本人だけ」、注目はここである。ある民族の記憶や歴史の根幹に深く立ち入ろうとするとき、それを口にする人が同胞か否かによって、受け取られかたは全く違ってくる。いわんや、多くの人命を失う「迫害」というものを語るならば、同胞でなければその「権利」はないという。

 本書のような比較文化論をなす場合、日本人とユダヤ人との両民族の分析が共に優れていなければ、それは成功しないであろう。著者はその卓抜した宗教の知識を支えとして「ユダヤ人・べンダサン」を名乗る。そして「権利」のあるべンダサンにユダヤ人論を語らせるのである。しかもその念の入れ方は半端ではなく、その文章は翻訳的で、いかにも外国人の好みそうなエスプリに富んでさえいる。虚像べンダサンによって、著者はそれまで日本人の書いてきたユダヤ人論を一歩抜け出すことに成功したのである。
 また同時に、著者の実像は日本人論に踏み込む「権利」をもつ日本人・山本七平である。当然、その面では大いに羽根を広げた論考が打ち出される。対象となるユダヤ人論が冴えれば冴えるほど、日本人論がまた冴える。日本人なら誰しもが普段何となく感じているであろうことが巧みに調理され目の前の御膳にズラリと並べられるのだ。

 著者は、ユダヤ人論を語るときべンダサンを解き放ち、日本人論を語るときべンダサンと入れかわる。是非、その「からくり」は承知の上で騙されてみてほしい。その仕掛けに翻弄された読後感は何故だかとても心地よい。

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古代思想への扉

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いつも何気なく使う身近な「漢字」に「呪の思想」が込められているという...

 本書は、白川静氏と梅原猛氏による呪文さながらの不気味さを漂わせた対談からなり、ト文・金文・孔子・詩経と万葉集を織り交ぜつつ章はすすめられる。何やら難しそうだが、左にあらず。白川氏により、そこかしこに散りばめられた「漢字」の成立ち、これこそ本書の勘所、鬼気迫る核心なのである。
 
 漢字は遥か三千年の昔「殷」の時代の「甲骨文」に始まるといわれ、それが象形文字であるが故に「当時の現実」を知ることが出来ると白川氏はいう。さてと思いて数枚ほどページをめくれば甲骨文がひょいと現れる。その形象はアルカイティックな魅力を帯び、形の意味を知るにつれ、いい知れぬ「どろりとした呪の感覚」に満たされてゆく。
 例えば、「舞」という字には「雨かんむり」が付いており、「舞」とはもともと神に捧げる「雨請いの舞」を意味しているのだという。「舞」とは神聖なものなのである。
 では、「道」とは何を意味するのか。それは、異族の生首を持って進むの字形。もはや、「道」という漢字を見る度に生首を思い出さずには居れない。
 また「殷」では女人を葬る際、その白い肌の両乳房の所に「生命力を回復させる」ための×印(文身)を付けたのだという。これすなわち「爽」の意なり。ここに至って、言葉もない。「爽やか」などと気楽に使えなくなってしまった。
 
 古代「殷」の風習は、縄文期の風習にも見られたという。してみると、その昔、日本の人々が「漢字」を受け入れたのには、まことに深い理由があったのかもしれない。それが「殷」の如く「神と人との間の会話」にあったのだろうか。きっと、本書を一読したならば誰しも「漢字」に形ある限り、その意味を問い続けるに違いない。その「問い」そのものが「呪の思想」への扉なのである。

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渋い傑物たち

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

新書の創刊ラッシュである。各社、旬の話題やインパクトをねらったラインナップを揃える中にあって、この学研新書に収まった一冊の、なんと渋いことか。

まずは、谷沢永一先生が本書で紹介した愛読する著作家十二人の名前をここに並べてみたい。

中村幸彦、木村毅、天野敬太郎、矢代幸雄、小野玄妙、石川準吉、
瀧川政次郎、市川本太郎、岩本裕、大橋武夫、長澤規矩也、上田辰之助

本書の目次には、次のように、それぞれの著作家の特徴がズバリと一言で表されている。

中村幸彦
<マクロな視座と博学宏識で抜きん出た近世文学研究の巨人>

天野敬太郎
<実見主義を貫き前人未到の書誌総覧を完成させた怪物>

長澤規矩也
<書誌学の窓から広く文化を展望する博学の徒>

先の十二人を名前を見て、即座にその実績を答えられる人がいたら、それはよほどの読書通といわねばならない。この本の題名が『読書通』である所以はそこにある。専門家の間では高く評価されながらも、一般にはあまり宣伝されているとは思われない傑物を取り上げて、「今なお学ぶに足る旨」を改めて説くこと。それが、谷沢先生が本書に託した思いである。

中村幸彦と天野敬太郎への思いはとりわけ強く、とても新書の十二分の一のスペースなどに収まるものではないけれど、あえて宿約を重ねたその苦心。それはもう、開いた頁から活字がこぼれ落ちるほどの筆力である。

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生っ粋の江戸通の心意気

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者は江戸文学の探究者。かの森銑三翁が会主を務めた三古会という談話会のメンバーといえば、その筋金の入った江戸通ぶりが分かってもらえるだろうか。(ちなみに、三古会とは、昭和九年に渡部刀水翁と森銑三翁との二名が作った人物の研究会。尚古、考古、集古をして三古と称す)
かつて開高健は著者の『戯作研究』について「この著者は、論文を書くしかないから論文でも書くかという態度で書いているのではない。江戸時代の戯作が多年にわたって好きで好きでしかたなく、“学”の魔に吸引されるままにペンで文字を彫っていらっしゃるのである。いわば玩物立志とでもいうべきものである。そこに地金のいぶし銀のような底光りがある」と評した。そのペンの冴えは本書でも如何なく発揮されている。
著者は文化についてこう語る。
「けだし文化というものは、進歩主義や進化論では捉えられないのが実際ではないだろうか。江戸には江戸の文化があり、現代には現代の文化がある。…それぞれの時代の文化は、それぞれに質のちがいがあって、ある時代の文化は、まさしくその時代にしか生まれない文化なのである」
そこに近代からみて都合のよいものがあるかないかではなく、江戸の文化をそのままに、完熟した果実のごとくに味わう。そんな生っ粋の江戸通の心意気を伝えてくれる。
著者は江戸の文化というものの本質について、中村幸彦氏が指摘したところの「雅」と「俗」というキーワードをもってあらわす。著者のみるところ、江戸の文化とは、伝統文化「雅」と新興の文化「俗」という二元性がしっかり保たれ、この価値観の逆転はついには起こらなかった。その前期は「雅」中心、後期は「俗」中心、そして中期は「雅」と「俗」を並存して融和する、という特徴を示し、もっとも江戸らしい文化というのは、まさにこの「雅俗融和」の文化を指すのだという。
理屈はこれくらいのものである。以降、全篇、成熟する江戸の風俗や、その時代に生きた個性豊かな人物評が、縦横無尽にオムニバスで語られる。絵図や和本や俳書などの写真をふんだんに盛り込み、見る目を空きさせない作りである。
黄表紙界の大名物『江戸生艶気樺焼』の主人公・仇気屋の艶二郎、江戸の風流人・自墜落先生の印象深い伝記、江戸とは切ってもきれない三村竹清翁や森銑三翁の話など、これが新書であるゆえの一篇の短さが何とも彼とも口惜しいほどの出来栄え。また、著者は斎藤緑雨の警句のみを集めた『緑雨警語』の編註人。あの本が総ルビなのは著者のこだわりの反映だとか。
本書のように、“江戸ブーム”に捉われず、本当に、純粋に、江戸の文化そのものが好きな人が書きたいように書いた書物は、存外得がたいものである。

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紙の本私の死亡記事

2004/12/26 23:37

洒落に徹した名解説

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 文藝春秋の編集部はまた奇妙なことを思いついたものである。物故者の解説を、ご本人その人に執筆願おうというのである。
 その没年(架空)、経歴、代表作、望ましい死の状態描写、辞世の句から最後の言葉までどうぞ一切おまかせします、ただし執筆は三人称で、との依頼が各界著名人に送られた。ここで逃げたら寿命が縮むと思ったか、ぞくぞくと編集部に原稿が届いたようである。

 たとえ洒落であるとはいえ、本人の死亡記事ともなれば、自身普段から意識している経歴や代表作に触れないわけにはいかないようで、各人なかなかに興味深いものがある。

 ここでは、さもありなんと膝を打つ、洒落に徹した名解説のさわりのいくつかをご紹介する。

■「<歩く百科事典>逝く」荒俣宏

 作家で博物学者の荒俣宏さん(六十四)が八月四日未明に杉並区の自宅で物故された。ここ数ヶ月体調不良を訴えていたが、病院ぎらいのため医師の診察を受けず、インターネットを通じポルトガルから取り寄せた民間薬を服用していたという

■「若者グループと乱闘、死亡」筒井康隆

 二十七日午後三時二十分ごろ、東京都渋谷区神宮前の表参道で作家・俳優の筒井康隆さん(九十五歳)が、通行中だった原宿族の若者六、七人と乱闘となり、全身打撲、内臓破裂で死去した。筒井さんは数年前より自宅近辺のこの付近を散歩し、気にくわぬ若者とみれば杖でなぐりつけていたのだが、この日も若者のグループに襲いかかり、逆に袋だたきにされて死亡したと見られている。…

■「条理を欠いたそのDNA」別役実

 先月十七日、新宿区西新宿二丁目新宿中央公園にて発見された白骨死体は、早稲田大学考古学研究所における考古学的検証の結果、かねて行方不明中の劇作家・別役実氏(七十二)のものと判明。本来この種の白骨死体は、医療機関に委ねてDNA鑑定により、身元を明らかにするのが通例であるが、同白骨死体のDNAは判読をするのが不可能なほど条理を欠いており、やむなく前記研究所に判断を仰いだもの。…

■「論壇の虚妄を叩き続けた波乱の生涯」谷沢永一

 評論家 谷沢永一氏 死去
 六月二十七日、吹田町の病院にて死去。七十?歳。死因肝硬変。…

 荒俣さん、よしてくださいよ、あやしい民間薬は。 筒井さん、ありそうで恐い。 別役さんは、やっぱり人間じゃなかったのか。 谷沢さん、肝硬変ですか、なるほど。お酒の量はほどほどに。
 文筆家の生涯とは、最後の記事を書くに及んでも目一杯自らを演出するしかないのだと悟らされた。

※本書の親本は2000年に刊行されており、記事を書かれ既に故人となられた方がある。安原顕氏がその一人である。bk1には氏の書評が残っている。「ぼく自身も、著名人ではないがなぜか頼まれて寄稿している。読んでみて、みんな巧いので感心した。…どうです? 面白いでしょうが。みなさんも各人がユニークな「死亡記事」を書いてみては如何でしょう。」、という言葉を拾うことができる。氏の意向に沿って本書の可笑しさを存分に味わいながら、ご冥福をお祈りいたします。

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日本人論の結晶

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 歴史は人物の連鎖である−これは著者が「まえがき」に収めた言葉である。水戸光圀『大日本史』、史書『十八史略』、マコーレー『英国史』などいずれも人物列伝であった。

 本書に巻かれた太い帯には、黒いゴシック体の縦書きで、日本史に登場した代表的な人物十二人の名が綴られている。清々しい印象である。著者は、これまで書物で読んできて強く心に残っている一人ひとりについての印象をさっと一筆で描いてみせる。

 日本文化にみられる特徴のなかで、著者が年を取るにつれ思いを深めているのが「本地垂迹」であるという。「仏教は天竺、つまりインドが本地である。そちらのほうの如来などが日本国には日本の神様という形で垂迹(降りて跡を残すの意)した。」これが本地垂迹説である。これは聖徳太子の時代から自然に結実した日本らしい信仰である。著者は「西行」を語る章において、仏教徒であった西行が伊勢神宮の参拝で得た歌を引いている。

 なにごとの おはしますかは 知らねども
 かたじけなさに 涙こぼるる

 この和歌ほどに、日本の信仰を上手く伝える言葉が他にあるだろうか。

 本書のなかで圧巻なのが「松尾芭蕉」の章である。芭蕉は、俳諧を西行の和歌や宗祇の連歌と同じ次元の藝術に高めた人である、というのが一般の解説であろう。が、本書はそこで終らない。

 著者は恩師でもある竹下数馬の著作『「死と再生」の文学』を手にしたとき眼から鱗が落ちたのだという。竹下氏の説によれば、芭蕉は西行を崇拝してやまなく「西行の五百年忌」に西行と同じ道を歩こうとした。これが『おくの細道』の旅であるのだという。『おくの細道』を宗教的な旅として捉えるのである。

 江戸時代に、高齢での二千数百キロの長旅は、まさに命がけであった。風雅の旅とするにはいくらなんでも危険に過ぎるけれど、巡礼の旅であったとみれば頷ける。

 竹下説を受け、著者は「芭蕉と西行とは日本国に対する考え方が同じ」なのではないかと語る。その考え方こそ「本地垂迹」である。心を込めて日本の風景や風土について、いい歌を詠えば、お経をあげたのと同じ価値がある、というのが西行の本質。それを芭蕉が受け継いだ。その証拠を『幻住庵記』に記した次の芭蕉の言葉にみる。「神体は弥陀の尊象とかや。唯一の家には甚だ忌なる事を、両部光を和げ利益の塵を同じうしたまふも又貴し」

 芭蕉は死の床についてもなお俳諧の改作を続けた。危篤に陥る前日、支考をよび、以前嵯峨で詠んだ句を「清滝(きよたき)や波に散りこむ青松葉(あおまつば)」としたいと申しつけ、さらに言った。

「前の句が野明のところにあるはずだから、破り捨ててほしいな」

 この芭蕉の俳諧への執念はどうであろう。そこにあるのは藝術への厳しさのみか。むしろ、芭蕉は俳諧によってお経をあげたときのような心の安らぎを末期に得ていたのかもしれない。

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紙の本泣菫随筆

2004/07/26 15:10

震える手に眞の文芸を見る

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 夏。夜更けて泣菫が知辺同志との会合を終え、ある境内を通りかかったときのこと。

・・・
 ふと辺りの梢から蝉の一声が走った。張りつめた銀(しろがね)色の「沈黙」がさながら自らひびいたかのように、声柄(こゑがら)が透きとほつて美しい。道伴れの多くは都育ちの、蝉の生涯の樹より土に、土より樹に移りゆくほどの生い立ちを知らぬ身の、あるひは今が今生れ落ちた油蝉の産声といひ、あるひは死にゆく老蝉(おいぜみ)の臨終(いまは)の引き入れ声といひ、さてはまた宵惑ひした蜩(ひぐらし)が寝おびれの夢にうなされたのであろうといふ。後の一人の琵琶法師の年老つたのは産れて何ひとつ歌ひ得なかつた唖蝉(おしぜみ)が、更けて静かに白みゆく月夜の美しさに、われ知らず洩らした歌嘆(かたん)の一声ではあるまいかといふ。琵琶法師の言葉としては真に趣のあることかな。誰ひとり蜘蛛に襲われた苦しまぎれの呻(によ)びといふ者はなかつた。
・・・

 琵琶法師の一言の心根の奥深さ。これぞ泣菫。永井荷風が愛惜したという泣菫による散文集『落葉』(明治41年、獅子吼書房)から本書に収められた「蝉」の一節である。

 解題によれば、薄田泣菫は明治新体詩の絶唱をのこした天才詩人であったという。明治42年あたりを境に詩作を絶ち、以降、小説、随筆などの散文の執筆に専念する。その自然への思いや人生の本質に迫る表現力は卓抜していた。わけても大正4年から「大阪毎日新聞」への連載を始めたコラム「茶話」は読書人のこころを掴み放さなかった。
 ところが大正6年、泣菫に突如難病が襲いかかる。現代においても原因不明とされるパーキンソン氏病である。手足の自由が奪われ、好きな散歩もできず、やがてまぶたやあごの神経もマヒした。それでも泣菫は、読み、黙想し、書き続けた。震える手で、書き続けた。晩年、家族の協力による口述筆記によってそれは続けられたという。

 泣菫は難病と闘い、珠玉の文章を残してきた。はたして泣菫はその永い労苦を糧として芸を磨いたといえるであろうか。それは否である。およそ人に有用な難病などというものはない。難病などはこの世から消えてなくなるがよい。病は人を狂わせる力をもつ。そこから良質の芸術は生まれない。

 ではなぜ書き続けられたのか。それは、泣菫の精神が、その文芸が、底知れぬ病魔に打ち勝つほどの力をもっていたからである。けっして悲壮に落ちぬ泣菫の軽やかな筆さばきに文芸の何たるかをみた。

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紙の本古文研究法

2004/06/05 11:15

著者に学ぶということ

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 受験勉強に精を出していたころ、山のように参考書を買いました。どれがいいのか分からずに迷った挙句のまとめ買い。なかには穴があくほど線を引いたものもあります。でも、「どんな学者が、どんな思いで著した」本だったのか、それが全く記憶にないのです。そして、本書の「はしがき」を読むにつけ「大切なことを欠いていたなあ」としみじみ思うのです。

 本書は小西甚一氏による入試のための古文の参考書です。1955年に初版、2001年には改訂97版となる、いわばこの分野の古典といえるでしょう。小西氏という人は谷沢永一氏によれば「チャイナ、コリアの作品を原語の発音で読み、アイヌ、沖縄を含めて日本文藝の範疇内の語学をすべてマスターし、能、狂言、俳諧、俳句をよくするという学力を以って執筆に臨んだ」というほどの学者であり、『日本文藝史』の著者として有名です。
 小西氏は本書を著すにあたり、自ら例題を作り、要点だけを分かりやすく、活字の組み方、活字の大きさ、太字の配置、行間のあきぐあいまで全部をひとりの手で仕上げたのだと語ります。なぜならば「自分の書いた本には、どこまでも責任をもちたい」からなのだと。この「はしがき」の文章を読み、参考書というものを見る目が変わりました。参考書のみならず辞典も含めて、すべては「書物」なのであり、「書物に学ぶ」ということは「著者に学ぶ」ということなのだと。どうしてそれが分からなかったのか。

 本書の末尾に「索引」が組まれ、その冒頭に小西氏は短い文章を寄せています。

「索引は何のため本の終りにつけられているのか。それは、けっしてアクセサリーではない。諸君はこの本を読んでいるうち、何頁参照と示した所がたいへん多いことに気がついていられるだろう。いろんな知識は、断片的では充分な「ちから」とならない。気のつかないようなところで複雑な結びつきをしながら、全体を構成しているのが、ほんとうの知識というものである。そんなふうに知識をまとめるとき、索引は役だつ。
 次に、諸君がこの本をよむうち、自分ではちゃんと勉強したつもりでいて、つい読み過ごした所もあるであろう。それを発見するとき、索引はやはり有用である。
 また、ほかの本を読んでいるとき、この本のどこかに参照したいことができても、それを発見することが容易だろう。
 索引は、ふつう第三の目的に使われることが多いけれど、いちばん大切なのは、第一の使い方であるうと思う。それらの目的をすべて満足するような索引を作ることは、たいへん難しい。しかし、わたくしの作った索引は、ある程度までその役にたつであろうことを信じている。」

 小西氏の「索引」に対する、この「こだわり」、この「自信」。表向き「参考書の索引」として発せられた言葉のなかに「学問」の眞のありかたをみる思いがします。

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紙の本読書案内 世界文学

2004/06/05 11:12

楽しみの、さらに上をゆくモーム

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 イギリスの作家モームが、世界の偉大な文学者が残してきた遺産の中から「楽しく読める書物のリスト」を提供する。なにを上げたのか、ほんの一例をご紹介する。

バルザック『ゴリオ爺さん』
フィールディング『トム・ジョーンズ』
ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』
トルストイ『戦争と平和』
メイヴィル『モービー・ディック(白鯨)』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
スタンダール『赤と黒』
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
フローベール『ボヴァリー夫人』
オースティン『マンスフィールド・パーク』

 ずらりと並んだベストセラー。モームは「読書は楽しくあれ」という主義の持ち主である。よって本書には、モーム自身が「面白い」と感じた書物のみ堂々と取り上げられている。
 しかし、モームがただ単に「楽しいだけの読書」を肯定していると早合点してはいけないようである。それは本書の中ほどにある「ベストセラー論」に見るモームの書物に対するある毅然とした態度から察せられる。以下に引いてみる。

「わたくしは、話を、当然古典と見なして差し支えないと思える書物だけに限るつもりである。最近の書物には一切ふれない。それは、ひとつにはわたくしが十分な知識をもっていないためであり、またひとつには、過去五十年間に出版された莫大な数にのぼる作品のうち、そのどれが永久に特異な価値をもちつづけるか、いまのところ時期尚早で、なんともいえないからである。
 一部の人びとが考えているのとはちがって、ある書物がひじょうに多くのひとに喜ばれ、その結果、ベストセラーになったことは、その書物がぜんぜん無価値であるという証拠には少しもならない。…『戦争と平和』にせよ、いずれも昔からベストセラーであったではないか。だが、だからといって、ベストセラーであることは、その書物が傑作であるという証拠になるわけのものでもない。…
 わたくし自身のやり方を申せば、わたくしは、出版後二、三年間は、ひとがなんといおうと、それらにつられてベストセラーをよむことがないように心がけている。世間でひじょうな歓迎をうけている書物で、出版後二、三年もたってみると、よまないでおいても、わたくしとして一向につうようを感じない書物になってしまっているのがいかに数多くあるか、まことにおどろくほどである。」

 読書は楽しみのためにある。ただし、モームは「永久に特異な価値をもちつづける」ような傑作を選定する眼や、乱読を制する心構え(出版後二、三年間は読まないほどの心構え!)をもつことの大切さを、あえて強制はしないけれども、自ら示しているのである。

 まこと、モームが偉大な小説家になったのも頷けるというものである。

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紙の本運のつき

2004/03/29 00:32

周回遅れの人生論

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『バカの壁』は売れに売れた。その出版時に校正途中であった本や ここぞとばかりに強気に出たに違いない先約のある出版社向けの執筆を多くこなし終え ほっと一息ついた今 著者はそのベストセラーをトラック競技にたとえてみせた。

「何周も遅れていると、みんながそれを忘れてしまって、トップを走っているように見えるのかもしれない。そう思ってます」

 じつは「自分はものごとの理解が遅い」のだと著者はいう。だれか他人の言ったことを一年間考えたりする。ある問題について、その周囲をできれば全部、考えようとする。そうしてやっと返事ができる。ゆっくり書いて本にする。自らを蛍光灯にたとえるほどである。このことは著者の考え、すなわち「養老学」を理解する上での一つの勘所となる。

 著者の本を何冊か読めば分かることだが、ある事柄についての考え方、その切口は明瞭でも、最後の結論に至らない場合がある。それを「歯がゆい」という向きもあろう。しかし著者は、まだ考えている途中である事柄には無理に結論を取ってつけない性質(たち)なのである。そこを見極めねばならない。大切なのは「自分が正しい」ことの押し売りではなく、「なにが本当に正しいのか」について「考える」というその「純粋な行為」にある。著者はなにかにつけ、こだわりぬき、考えぬき、それを書いて読者に問う。「自分で考える」、その手がかりを得られることこそが著者の著書にある魅力なのである。

 著者にとって東大紛争についてのこだわりは人生を変えたようである。紛争時、東大医学部の助手をしていた著者は研究室を封鎖によって追い出された。助手になって二年、本気で挑んでいた研究を「暴力」で潰された。「あれは何だったのか」。紛争時にゲバ棒を持っていた連中の言ったのが非常事態、大学解体。これに対して著者は、日常的であることにこだわり、学問の解体をおこなって「学問とはなにか」について本気で考えてやる、そう決心したというのである。それ以来、著者は「自分の思想を構築しはじめた」のだという。
 平成十五年の毎日出版賞と大佛次郎賞のダブル受賞を為した山本義隆に対してのこだわりも隠そうとはしない。全学(共闘会議)の議長だった山本が物理学の歴史なんか書く。「山本義隆、こらお前、総括しろ」。そう著者はいうのである。その思いは複雑であろう。

 本書は、自らの人生を語ろうとする著者にとって始めての試みであるという。この人生論のもつ意義について著者は「あとがき」で独自の解釈を披露する。
 科学では、どんな叙述にも根拠がある。根拠と叙述が対となる。そう語ったあと著者は続ける。

「この本は、私がいうこと、書くことの根拠を、自分の人生から掘り出そうとした試みです。講演や著書には、根拠が明瞭なことばかりを書いているわけではありません。その根拠を、できるだけ自分で探してみようとしました」

 人がなにかを語るとき、そこにはその人の歩んできた人生という根拠がある。人生論とは、その意味で「どれだけ科学になりうるのか」。本書には、近代科学というものへの著者による挑戦の意気が込められている。

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紙の本田園の憂鬱 改版

2004/03/07 13:03

「あらすじ」では語れない

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 文学作品における言葉の機能には作家の意図が込められる。
 かつて江藤淳はその差が曖昧であった「散文」と「詩」の違いについて論考した際、ハーバード・リードの言葉を引いた。

「詩は創造的な表現であり、散文は構成的な表現である」。

 詩における言葉は、単に記憶の中から取り出されるものではなく、それは表現された瞬間に新たに誕生する。思想は言葉そのもののことであり、言葉が思想をあらわしている。一方、散文の言葉ははじめから出来合いのものであり、一つ一つではつかいものにならず、構成されてはじめて生きて来る性格のものである。このリードの説に賛同する江藤淳は続けて萩原朔太郎の『殺人事件』と夏目漱石の『彼岸過迄』にある<探偵>という単語を例に解明してみせた。
 小説は、散文のもつ「構成の妙手」に必要以上に捉われる場合がある。しかし、佐藤春夫は『田園の憂鬱』によってこれを一蹴した。

 『田園の憂鬱』にあるらしい筋書きは、曖昧で怠惰な低音として聞こえるのみである。その不敵さが、構成に偏向してしまった小説を超える新しい表現へとつながる。
 言葉は「詩」に近い。一本の樹、一匹の蝉、一輪の薔薇。それらを表現する言葉は、それのみですでに生き、そして脈うつ。言葉そのものが思想であり、細部であり、表現である。言葉の<瞬間美>がそこにある。

 「あらすじ」では語れない。

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格別の公演録

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 西堀栄三郎氏は、第一次南極越冬隊長として、あの極寒の地で日本人部隊としての初めての冬ごもりを指揮した人である。何から何まで初めてづくし。常に新しいことに挑戦する究極の現場を体験した氏の探検家的精神は他に抜きんでていた。
 自己啓発の本や伝記の類は世に多い。その中にあって、西堀氏が生き方について述べるにたる人物であることは本書の始めにある次の話にみられる。

 ときは第一次世界大戦の終わり。そのころ学生であった西堀氏は、安い費用で行けるだけ遠くに行ってみるとの決意のもと、船に乗ってサイパン、ヤップ、パラオ、アンガウルをまわった。その帰りの小笠原入港直前に事件が起こった。関東大震災である。横浜は一面に焼け落ちた市街と死体の海。

「そのとき困ったことは、船の中に、サイパンから上智大学に留学しにきた現地の男の子五人と女の子三人がいたのです。何しろこんなありさまですから、上陸しても行くところがない。そこで私が<男の子は引き受けましょう>といったら、子供たちはとてもよろこびました」

 こうして京都の家に子供たちを連れ帰ったのだという。もし自分が同じ状況に直面したとして、この五人の子供を躊躇なく連れ帰り、面倒をみることが出来るであろうか。そう自問したとき確信をもった。「この人の話は読むに値する」と。

 本書は公演録のなかの選りすぐりが丹念に集められたものである。その編集の意図は成功しており、さらりとした語り口の中にも示唆に富む話題が多い。
 第一次南極越冬隊の発揮した創造話もこころに残るが、ここでは西堀氏の企業人へのメッセージを紹介してみたい。

 西堀氏はいう。
 仕事の報酬つまり給料というものを、我慢をして仕事をするからその償いとしてもらっているという考え方、仕事は面白くないものでいわれるとおりに働いておればいいんだというのは、全然まちがっている。人と馬や牛とを分かつものは<創造性>にあるのではないか。動きたい、働きたい、考えたい、創造性を発揮しながら楽しく仕事をしたい、そして喜ばれたい。<人間性>とはこういうところにある。
 部下の手足を括り自由を与えないでおきながら責任を果たせという上役があるが、その態度は間違っている。仕事の<目標は絶対>であるが、それを達成する<手段には自由>をあたえるべきである。そして、その自由のなかで人は創造性を発揮することができる。

 本書の核となる<創造性>についての言及は、創造の現場を知っている西堀氏による経験と実績を踏まえての教訓である。仕事に対する心意気、先入観に捉われず、心の自由を意識してひとつの成果を目指すという指針は明日の仕事に生かすことができる。それが本書を格別なものにしている。

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伝統の握り飯

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 後鳥羽上皇により1265年に再建された「三十三間堂」(京都)は有名である。矢を通すほどにまっすぐなお堂は全長128メートル。これまで700年を超える月日に耐えてきた。なぜ台風や地震に耐えられたのか…

 「現代の建築技術は、まず地盤を固めてから建てる。ところが三十三間堂はまったく違う。わざわざ地盤を不安定にするのである。不安定というより“動くように”といったほうがよいかもしれない。…地面を粘土や砂利など弾力性のある土壌で固める。この地盤に、水に浮きを並べるように柱をのせる礎石を置き、…いうならば、波に浮かぶ筏(いかだ)のようなものである。」

 たとえ地震がおきても振動が直接にはお堂に伝わらず、緩やかな地盤は地震が終わるともとの状態に復元するという。「驚くべき科学的精密さ」である。「日本には古来、すごい科学があった」と著者はいう。全651頁、次から次へと繰り出される実例の前に、ただ圧倒され、納得する以外にすべはない。

 <うまいもの>を食べたいという衝動は日本人にある古来からの特色であるらしい。米を主食とするのが何よりの証という。米を玄米のままで食べておれば、ビタミンA、BはもとよりC、F、Kといった稀少ビタミンもとれるのにそうはしない。半搗米にして蒸すと、これが<うまい>のである。搗くと澱粉質だけになるので栄養面での不足を補うために日本人は副食品に凝ることになる。ここに、世界でも類をみないほどに何でも食べるといわれる和食の秘密があるという。
 ともあれ「うまい米が食べたい」「これを保存して、どこへ行っても食べたい」という飽くなき衝動により白く輝く丸々とした伝統食品が生まれた…

 「米の保存からいうと、…半搗米にしたり、糠を取ったものを蒸すと、すぐに空気中の糀菌と接触して分解をはじめる。それを防ぐために生まれたいちばん素朴な方法が、<握り飯>である。
 握り飯をつくると、外側は空気に接触するから、かびが生えたりするが、中は腐らない。そこで握り飯の表面に<発酵作用を止める塩>をまぶしたり、ミソで包んだり、あるいは焼いて表面を<炭化>させておく方法を考えついた。
 なんとか<うまいもの>を食べたいという執念である。握り飯の原理をさらに徹底すると、ぎゅっと圧縮してつぶせばいい。それが餅である。餅は携帯食だから、<持ち飯>、長く保つからではなくて、<持って歩く飯>という言葉から生まれた携帯食の意味である。(餅も)表面だけを空気にさらすが、そのときに空気に直接触れないように、今日では<粉をまぶす>、これにより保存食としても完成したのである。」

 とても身近な握り飯やお餅。そんな日々の生活に密着した伝統食品のなかにも確かな<智恵>が秘められている。そして、本書によれば、その<智恵>の悉くに科学的な根拠があることが分かるのである。科学とは、それ自体では色もない。しかし、人が生きる上で必要な<智恵>を支え、これに寄り添う姿を見せたとき、そこに確かな価値が生れる。本書には、伝統と科学とが相反することのないひとすじの道が示されている。

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