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流花さんのレビュー一覧

投稿者:流花

24 件中 16 件~ 24 件を表示

紙の本陽炎の男 新装版

2003/06/22 14:15

三冬浪漫〈女へ…〉

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 剣術に励むのみならず、男装をし、男言葉を使い、男のようにふるまうのは、ずばり、“男に憧れている”からである。現代とは比ぶべくもなく、当時は、男の人生と女の人生が、はっきり決まっていた。そんな時代に、自分の腕を心ゆくまで磨き、自由にふるまうことのできる“男という立場”は、この上もなく魅力的である。特に三冬のように、複雑な生い立ちを持つ者にとっては、なおさらである。田沼意次の妾腹の娘として生まれ、それを知らずに他家で育ち、ある日突然、事実が知らされる。「うそ…。今までみんなで私をだましていたのね!」…現代でも、往々にして見られる光景である。「わたくしは、“佐々木三冬”でございます!」と言い張った三冬。その後、男装を始め、剣の道に一層のめり込むのである。
 男でも女でもない。そんな立場に、ひとときのやすらぎを求めたのかもしれない。しかし、三冬はまぎれもなく“女”である。結婚するなら、“自分より強い男”とでないと嫌なのだ。だからまず、自分の危機を救ってくれた強い男、秋山小兵衛に惹かれたのである。しかし…陽炎の中に現れた男は、小兵衛ではない。以前、三冬を男と勘違いして、恋慕の情を抑えきれなくなった少女の手を、自らの懐に差し入れ、乳房に触れさせ、自分は女だと気付かせた三冬。だが、その乳房に、今度は“男”の手の感触を、想っているのである。小兵衛ではない、誰か別な男の手の感触を。
 おはるのように、歳の離れた強い男の世話を焼きながら、守られて生きる道を選ぶ女もいる。しかし、三冬はそうではなかった。人の生き方や、異性の好みをとやかく言うわけではないが、40も離れた男との結婚というのは、不自然というべきであろう。“自分より強く、たくましい男”…そして、自分と同世代を生きていく男。自分と一緒に、自分と同じ方向を向いて、悩み、苦しみ、喜び、手を取り合って生きていく男…。そんな男を、三冬は本能的に選んだのであろう。
 少女から大人の女へ、いつか脱皮するときがくる。複雑な生い立ちを持つ三冬。“男装の麗人”として飛び出していった三冬の、“女”として着陸する場所として、“大治郎”という男を用意してくれた、作者池波正太郎さんの優しさを想うと、涙が出るほどである。そして、(世の中、そうでなくちゃいけない!)と思うのである。

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紙の本天魔 新装版

2003/06/22 02:23

三冬浪漫〈きらめき〉

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 自らの剣によって、相手をうち負かすこと…つまり人殺しが快感となり、虜になってしまった怪物。このキャラクターは、たびたび『剣客商売』シリーズに登場する。剣の道は、強くなることばかりを求めるものではない。人としての生き方を磨くものである。“魔物にとりつかれ、いったん道を踏み外すと、二度ともどってこられない。”作者は、怪物を勝たせるようなことは、絶対しない。世の中とは、そうあるべきだからだ。
 そんな剣の道に、必死になって打ち込んだ青春時代を持つ二人。今、その二人に遅すぎた第二の“青春”が訪れている。三冬にとっても、大治郎にとっても、一緒に過ごす、この様々な瞬間は、まさに、第二の“青春”であろう。まだ“恋”であることに気付かず、期待とみずみずしい躍動感に満ちた毎日。神田明神門前の茶店の脇に立った立て札、「私と立ち合って、私が勝った場合、金三両いただく」…この立て札の主のところへも、二人で訪れた。立ち合わずして負けたけれども、そんなことはどうでもいい。一緒に青春の1ページを埋めていく幸せ。例の“毛饅頭”も、二人で真剣に考えてしまった。小兵衛曰く、「あきれ果てた人びとじゃ。」…それも青春の1ページ。
 きらきらと輝いている。道を踏み外すことなく、真っ直ぐに育ってきた大治郎。自分を飾らず、「知らぬことをたずねるが、何故、ばかなのでございましょうか?」と素直に聞ける三冬。そんな二人に、最後の磨きをかけるがごとき小兵衛。
 こんな、きらめきと躍動感にあふれた本書『天魔』を、心を躍らせずに読むことなどできないであろう。

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紙の本クライマーズ・ハイ

2004/02/02 00:37

媚びず、甘えず、淡々と、潔く、正直に…

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 「四十にして惑わず」…“不惑の歳”40歳。しかし、実際は惑いだらけである。職場でも家庭でも、己の無力さ、醜い部分を、まざまざと見せつけられ、苦悩するのである。この『クライマーズ・ハイ』の主人公、悠木和雅はこの時まさに“不惑の歳”だった。“不惑の歳”に起こった日航機墜落事故が、悠木のその後の人生を変えてしまった。

 …「同じ場面を与えられることは二度とない。その一瞬一瞬に人の生きざまは決まるのだ。」
 他社を出し抜き、大スクープを狙う。記者ならば当然のことである。しかし、マスメディアの“良心”に忠実であろうとする者は、慎重に事を運ぶ。「こいつは根っからの臆病者ですよ。大きな判断を迫られると必ず逃げちまう。そんな程度の器ってことだ。」…端から見たらそうなのかも知れない。実際その通りなのかも知れない。だが、それが彼の生きざまなのだ。
 マスメディアの“良心”。不特定多数の読者、ひいては社会に対する責任。それは、人間としての“良心”でもある。「大切な命と、そうでない命…日航機事故で亡くなった方たち、マスコミの人たちの間では、すごく大切な命だったんですよね。」そんな投書を、投書欄に載せることに抗えなかった。それも彼の生きざまなのだ。
 
 悠木の記者としての葛藤を軸に、17年前と現在とが錯綜しながら、何本もの横糸が絡む。
 新聞社という組織の中で生きることの難しさ。内部の力関係。 “新聞”という“商売”に“良心”を売った奴ら。新たな世代のスター記者の出現を拒む、“過去の事件の栄光”で生きている輩。
 一緒に衝立岩に登るはずだった安西。クモ膜下出血で倒れた夜の不可解な行動。
 悠木自身の生い立ち。父を知らずに育った自分。今、父親となった自分が息子と対峙する。
 悠木が自殺に追いやってしまったも同然の一年生記者、望月亮太。そしてその従姉妹、望月彩子。
 ——それらは、バラバラのようで繋がっている。そしてそれは、偶然のようで、実は必然なのである。

 久しぶりに読み応えのある小説に巡り会えた。決して独善的でなく、弁解がましくなく、媚びず、甘えず、淡々と、潔く、正直だ。こういうのを“硬派”というのだろうか。
“クライマーズ・ハイ”。…〈興奮状態が極限にまで達しちゃってさ、恐怖感とかがマヒしちゃうんだ。〉…しかしその後、恐怖は一気にやって来る。
 人生も、そうなのかも知れない。40歳はいわば人生のターンニング・ポイントだろうか。今までがむしゃらに登ってきて、ふと気がつくと、思わぬ高みに登り詰めていて、怖くなる。さらに登り続けるのか、下りるのか…。“下りるために登る”——安西の言葉が、すぅーっと空に溶けていったような気がした。

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紙の本波紋 新装版

2003/09/27 16:06

「よい爺(じじい)ぶりじゃ」…老境を模索する

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 老人は、己の来し方を語るのは得意であっても、行く末を語るのは、不得手である。それは、限りなく“死”に近いからであろうか。自分の人生がどのような形で終わるのかなんて、予想ができないし、したくもないというのが、人間として当然の気持ちであろう。
 『剣客商売』も、13巻めである。三冬も、大治郎と夫婦になり、小太郎が生まれてからは、めっきり出番が減ってしまった。出てきたとしても、ほんのついでである。だから三冬の心中が語られることなんてない。心なしか大治郎の出番すら少なくなったように思えてしまう。三冬ファンとしては、やはりおもしろくない。何か『剣客商売』に対する“熱”も覚めてしまった。
 しかし、『剣客商売』で、池波正太郎さんが描きたかったのは、やはり“小兵衛”なのだ。小兵衛59歳という設定で始まった『剣客商売』シリーズ。本書では、小兵衛は65歳になっている。池波さん自身も、本書が単行本として発行された年に、還暦を迎えていらっしゃる。池波さんにとっても未知の世界である“老境”。 “ひとりの剣客がどのような老境に達するか”。それを手探りで模索しながら、ご自身の“老境”も模索しておられたのではないか。
 「よい爺(じじい)ぶりじゃ」…第一話「消えた女」の中で、小兵衛が、堂守の嘉平という六十がらみの老爺をこう表現している場面がある。小兵衛にとっての理想の爺の姿が彼の中に見いだせたのだろう。やはり他人の“爺ぶり”は気になるものである。息子は自立し、孫の小太郎も生まれ、名実ともに“おじいさん”となった小兵衛。時々、剣で人助けをしながら、悠々自適の生活を送る。なかなか素敵な“爺ぶり”ではないか。人生ここまで来れば、人それぞれである。だから、老境も十人十色である。小兵衛の知り合いにも、10歳年上の医師小川宗哲がいる。医師と剣客では立場がまた違うが、二人は碁がたきであり、小兵衛も宗哲の老境を間近に見ながら、己の老境を探っているようでもある。しかし、やはり小兵衛にとって、同じ剣の道を志した者の老境というのが、一番切実に迫ってくるものなのであろう。
 「夕紅大川橋」。これを読んだ時にわかった。内山文太、75歳。辻平右衛門の愛弟子であり、小兵衛とは同門の親友である。妻は病死し、娘の嫁いでいる井筒屋へ引き取られ、孫や曾孫に囲まれて、楽隠居している。その内山老人が、突然行方不明になってしまうのである。しかも、老人が岡場所の妓と猪牙船に乗って、大川をすべっていくのを、小兵衛は目撃している。何不自由ない楽隠居がなぜ? 不可解である。だが、そこには、老人の“過去”があったのだ。本人も忘れていたような、というか、もう無きものとして、彼の心の中に埋葬してしまった“過去”が。現在の幸せな生活の外側で、ひっそりと静かに回っていた“過去”。それが、ここまで来て、思いもかけぬ形で、しかもいっぺんに、目の前に現れる。老人は、その一件の後、呆けてしまい、急死するのである。小兵衛は、この一件の最中、「久しぶりに、愛刀を引き抜いた内山文太の皺だらけの顔に血がのぼり、生き生きとしている」姿を見ている。死の前の一瞬、灯った微かな灯し火。剣の道を生きた男の本性。「自分(おのれ)の半身(かたみ)のような気がしている」内山老人の死は、小兵衛にとって、自分の死を見るようなものだったのだ。
 “過去”の積み重ねが現在であり、未来である。剣客ならば、「勝ち残り生き残るたびに、人の恨みを背負わねばならぬ」。老境も十人十色である。「年をとった」と口では言っていても、老いとはどのような境地なのか、誰にとっても未知の世界なのである。ましてや、自分の行く末——“死に際”を考えることなんて、できるものではない。でも、それでいいのだ。人の一生は、いくつになっても“いかに生きるべきか”を探り続けるものなのであろう。

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“生きた戦った愛した”

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 歴史上の人物を小説化する時、どこまで史実に忠実であるべきであろうか。第一、史実というのが疑わしい。長い歴史の中で、しばしば歪められて伝わるものである。ある一面を拡大してイメージづけてしまったり、時の為政者によって都合よく塗り替えられてしまったり。チェーザレ=ボルジアと聞いて、まず、悪いイメージが先行するのではないだろうか。ボルジア家といえば“毒”。残忍な殺人鬼。猟奇趣味。淫乱。…だが、それらのどこまでが真実なのか。塩野七生さんは、同じ時代に生き、接触もあったマキアヴェッリの眼を借りて、チェーザレを描いている。マキアヴェッリは『君主論』の中で、新興君主の行うべきことがらを述べ、その好適な例として、チェーザレを挙げている。
 志半ばに倒れ、結局何もなし得なかったチェーザレは、歴史の歯車の前には、無に近い存在だったのかもしれない。しかも、塩野七生さん曰く、「自らを語ることが極端に少ない男で、手紙や日記などを残していない」というのだから、チェーザレについては、もう藪の中である。
 だが、そのほうが都合がよいではないか。若くて美男でセクシー。しかも、大いなる野望を、“優雅なる冷酷”さを以て、着々と成し遂げようとしているのだからたまらない。23歳のチェーザレ=ボルジア。彼に理想の男性像を重ね合わせても罪にはならないだろう。父である法王アレッサンドロ6世の用意してくれた、枢機卿の地位を捨て、武将として、君主として、生きる道を選んだチェーザレ。彼は、冷静にして的確。熟慮断行。“イタリア統一”という壮大な目標のために、自分の時を待ち、一歩一歩固めていく姿には、まじめな努力家というイメージさえ浮かぶ。夜、窓辺に映る長身の影。休むことを知らない行動力。そんな姿に、読者としては健気ささえ感じ、思わず応援したくなってくる。若くて美男でしかもセクシー。そこにクールさと、内に秘めた情熱がプラスされたら、もう女性としてはたまらない。作者の術中にはまった読者は、チェーザレ=ボルジアとともに、壮大な夢を見るのだ。
 「生きた。書いた。愛した」。…これは、文豪スタンダールの墓碑に刻まれている言葉であるが、チェーザレ=ボルジアは、31年という短い生涯を、「生きた。戦った。愛した」のではないだろうか。…と言いたいところだが、チェーザレ=ボルジアには、ロマンスの香りはしない。塩野さんは『サイレント・マイノリティ』の中で、「チェーザレは女になんか惚れない男」と言っている。そこがまた女心をくすぐるのかも知れない。しかし、冷え切った心を温かく包み、解かしてくれる女性と巡り会えなかったチェーザレの孤独な魂を思うとき、運命の“優雅なる冷酷”さを感じずにはいられない。「生きた。戦った。愛した」。…チェーザレには、“満ち足りた人生”を送ることが許されなかったのだ。
 孤独な彼の実像は、だれにもわからない。だが、“チェーザレ=ボルジア”に、五百年もの時を越えて思いを馳せるとき、きっとチェーザレは、クールにして熱き一瞥を与えてくれるだろう。

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紙の本辻斬り 新装版

2003/07/21 12:53

影法師〈父子…古きくびきへのレクイエム〉

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「父上…」「ようやった」眼と眼を見合わせて刀身をぬぐい、鞘におさめた秋山父子が戸外へ出たとき、道場内の死体は十四を数えた。  (『辻斬り』より)
 自分と同じ剣客の道を志した大治郎。その大治郎と共に、剣を以て悪を退治する。小兵衛にとって、これほど、父親冥利に尽きることはないであろう。
 母親の無条件の愛と違って、父親の愛というものには、理屈が必要である。自分の血を分けた息子でありながら、そこに何らかの理由、価値を見いださないと、愛せないのである。ずっと後の巻で、孫の小太郎が生まれた時、寝顔を見ながら、小兵衛が心の中でこうつぶやく場面がある(大治郎にも、こんな頃があったのだなあ。その時大治郎は、どんな顔をしていたのだろうか)。剣術に明け暮れ、ろくに大治郎の顔を見てやることのなかった若かりし日の小兵衛。もともと父子の関係とは希薄なものなのだ。いつまでもただの子供、ただの父親、そう思っていたら、きっとずっと希薄なままで終わるだろう。お互いを“一人の人間”として、敬意を持って見ることができるようになったとき、初めてほんとうの父子として出発できるのではないだろうか。
 大治郎が十五の夏に、小兵衛の恩師辻平右衛門のもとに修行に出て以来、十年近くも離れていた父子。剣客としてやっていけるだけの腕を身につけた息子が、父のもとに帰ってきた。自分と同じ道を辿ってきた息子に、小兵衛はかつての自分を見たかも知れない。しかし、彼は自分の分身ではない。自分とは別の“一人の人間”として、戻ってきたのだ。小兵衛は、大治郎を“一人の人間”と認めた証として、道場を建ててやるのである。一方、大治郎は、四谷の道場をたたみ、四十も年下のおはるに手を出したという小兵衛の変貌ぶりに驚きながらも、父を“一人の人間”として受け入れる。長い修行の間に、父も辿ったであろう苦悩の足跡を自分も践んできた。それを乗り越えてきたという確かな手応えが、自分への自信となっているのみならず、父への尊敬の念ともなっているのだ。
「剣客というものは、好むと好まざるとにかかわらず、勝ち残り生き残るたびに、人の恨みを背負わねばならぬ。」小兵衛は大治郎に言う。
 大治郎が第二の師として仰ぐ嶋岡礼蔵。小兵衛とともに、竜虎、双璧と称された。実は礼蔵は、かつて小兵衛と、大治郎の母お貞を争ったのである。小兵衛が勝ったわけであるが、そこで二人の道は分かれた。辻平右衛門が江戸の道場をたたみ、大原へ引きこもった時、礼蔵は師についていった。小兵衛は江戸に残った。無論大治郎は知るよしもない。後に大治郎が辻平右衛門のもとに修行に訪れた時、礼蔵は、小兵衛の子でありながら、お貞の子でもある大治郎を、きっと我が子のように思って、精魂込めて教え、鍛えたことだろう。礼蔵にとって、幸せな日々だったに違いない。しかし、彼は第1巻の第2話『剣の誓約』で早くもこの物語から消されてしまう。彼の最期は大治郎の腕の中で、であった。大治郎の第二の父ともいうべき礼蔵は、この父子の再出発には無用の存在ということなのだ。古きくびきを捨てる。それはお貞も同じである。小兵衛はおはると祝言をあげるのだ。
 勝ち残り、生き残る。そのために剣客は、日々修行しているのである。相手に深い思いがあろうがなかろうが、勝ち残らねばならないのだ。屍を越えて前へ進む。それが剣客の生きる道なのだ。いつもどこかに誰かの影法師が躍っている。影法師には顔はない。だが剣客には見える。彼らが時折懐かしげに微笑みかけるのが。

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紙の本白い鬼 新装版

2003/06/22 02:15

三冬浪漫〈恋〉

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 人は、いつからそれを“恋”と認識するのだろうか。
 ある日、三冬は見てしまった。木立の中での男と女のおどろくべき姿態を。(汚らわしい…)と思いつつも、あの時のみだらな姿が、脳裡からはなれない。(大治郎どのも、妻となる女に、あのようなまねをなさるのか…?) 大冶郎と自分が、“男と女”であることを意識した瞬間、またそれは、“恋”というものが現実となって、一気に迫ってきた瞬間でもあっただろう。
恋する気持ちというものは、隠しきれないものである。その人の体から、そこはかとなく漂ってしまうのである。負傷した大治郎。「私が、若先生の看護を…」と言う粂太郎に、小兵衛は、「いや、今夜だけは、別の人に看護させてやれ…」と言う。「別の人…?」「それ、向こうからこちらへやって来る。…いさましい女武道の佐々木三冬というのがやって来るわえ」。小兵衛は、看破していたのだろうか。三冬が、“恋する女”であることを。
 そして、“恋する女”というものは、大胆である。相手も自分を好いているに違いないと、確信しているのだ。「私をうち負かすほどの男なれば、いつにても嫁ぐ」…こんな無鉄砲な条件に、名乗りをあげた男がいても、そんなの眼中にないのだ。眼中にあるのは、ただ一人…。「三冬どのを、あんな男の妻にさせるわけにいかない!」そう思いながら、はっと気付いた男。自分に、三冬への恋慕の情があることに気付いた男。“白馬に乗った王子様”は、必ず危機を救ってくれるのである。
 “恋”を認識し、たった一人のその“王子様”に向かって、ラストスパートをかける三冬。いや、三冬ばかりではない。本書『白い鬼』、最後の話「たのまれ男」のラストシーン、小兵衛のセリフ。「そういえば佐々木三冬…いや、お前の恋女の始末を、これから、どうつけるつもりかよ?」

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紙の本勝負 新装版

2003/06/20 01:12

三冬浪漫〈涙〉

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 夫には言えない、結婚する前の出来事というものがある。夫に対して、後ろめたいことは何もないのだが、どうしても言えないことがあるものだ。秋山大治郎の妻、三冬にもあった。…若き日の三冬の手に、口づけをし、去っていった男。しかも、数年後の現在、偶然にも、その男と再会することになるのだ。三冬は、大治郎の息、小太郎を生んだばかり。女としての幸せのただ中にいる。運命は、そんな三冬に何故、彼を再び巡り合わせたのだろうか。
 “一度道を踏み外してしまった人間は、もう二度とまっとうな道を歩めない”。これは、この『剣客商売』シリーズの中にたびたび登場するテーマである。醜い姿ゆえ、他人から疎んじられ、姿を消すしかなかった男。剣の道を歩む者として、人を外見のみで評価し、疎んじるなど、許せぬ行いである…三冬は、その男のたった一人の味方であった。しかし…その男の末路が、女を人質にとっての立てこもりである。
 振り仰いだ三冬の目にふつふつとこぼれる熱いもの…大治郎さまは、とうてい知るまい。その涙に込められた三冬の思いを。
 「その日の三冬」。夫の知らない妻の歴史。「大治郎さまは知らなくていいの。だけど大治郎さま、そばにいて…」。
 人生の“勝ち組”、“負け組”。そんな言葉が胸にしみる、本書『勝負』である。

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紙の本少子

2004/02/07 19:51

負け犬の戯言

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「このまま少子化が進んでいくと、計算上では西暦3500年頃に日本の人口は約1人、となる。」——少子化をくい止めるには、どうしたらよいか。ということから、「産まない理由」を考察してみたのが本書である。だが、その理由たるや、「痛いから」、「結婚したくないから」、「うらやましくないから」、「愛せないかもしれないから」、「面倒くさいから」、「シャクだから」、「男がなさけないから」…アホかと言いたくなる。負け犬の戯言。産みたくないなら、産まなくていい。所詮、自分がかわいいだけじゃないか。
 だが、今の世の中、右肩下がりの経済に加えて、虐待、通り魔、誘拐、いじめ、と、子供が生きにくい世の中になってしまったのも事実である。子育てをしながらも、不安だらけであろう。子供を愛する自信がないのなら、なおさら産まないほうがいい。 
 『「なぜ産まないのであろうか?」ということを考えていくと、我ながらつくづく、自分の甘さ、弱さ、ズルさといったものを感じます。もし私が自分の祖母だったとしたら、「面倒」とか「痛いし」などといって子産みを避ける我が孫のふがいなさに、憤死しそうになることでしょう。しかし残念ながらこれが、紛う方なき現実なのです。』——「おわりに」の章で、筆者はこう述べている。
 子供を産むかどうかということは、個人の生き方の問題であろう。他人がとやかく言う筋合いはない。だが、産まない人が増えていくと、どんどん人口は減り、いろいろ支障を来してくる。国家として、人類として、最終的には滅びてしまうのではないか。そんな危惧を感じているからこそ、筆者は本書を著したのだろう。
 しかし、「では、どうしたらいいか」という問いに対する答えは見つからない。
 人間は、生き物である。生き物として、遙か昔から連綿と営んできた、子孫を残し、種を繁栄させていくこと…その本能によって生きているということには、変わりはない。だが、それを常に意識して生きている人間がいるだろうか。
 小津安二郎監督の映画『晩春』の中で、笠智衆演じる父が、「結婚したくない」と言う原節子演じる娘に向かってこう言う。「お父さんはもう56だ。お父さんの人生はもう終わりに近いんだよ。だけどお前たちはこれからだ。これからようやく新しい人生が始まるんだよ。つまり、佐竹君とふたりで創りあげていくんだよ。お父さんには関係のない事なんだよ。それが人間の歴史の順序というものなんだよ。」——“人間の歴史の順序”。目から鱗がおちたような気がした。そうなのだ。こうして人は生きていくのだ。人間の生き方…そんなものを超越した、人間という生き物を突き動かしているもの。それはまぎれもなく本能である。地球という生命体の一部に組み込まれた人間として、当然果たさなければならない義務なのである。それを素直に受け入れなければならないのだろう。
 何も考えずに、結婚して、子供を産んじゃった…というのが一番幸せであろう。本来「子供を産むかどうか」で悩む事なんて、あり得ないことだったのではないか。人間というものは、生き物でありながら、“他の生き物とは別”という意識を持っている。クローン、人工授精、遺伝子組み換えなど、おそれ多くも“生命”をも自らの手で操作してしまう人間。が、そんな人間社会に、行き詰まり、閉塞感が漂っていることは否めない。「人が人を愛せない」「人間嫌い」…そうとも思える言動が世間にははびこっている。そんな世の中を、どうにかしていくことが大切ではないだろうか。

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