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トラン童子さんのレビュー一覧

投稿者:トラン童子

9 件中 1 件~ 9 件を表示

紙の本オール・アバウト・セックス

2002/04/09 22:16

上質なセックス百花ガイド

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いきなり即物的な表現の引用文。「洗濯槽の微妙な揺れと、脱水槽のガタガタした揺れが交じって何ともセクシーな振動がペニスに伝わるんです……。」なんたる日常性、そしてなんたる快楽の飛翔性。日本男子オナリンピックの優秀者のオナニー器具(?)の話しだ。
 これは本書で紹介されるエロス本の一部だがセックスはたいてい妄想によるとてつもない非日常とせこい生活感覚が重なり合っている。ガハハと笑って身につまされるのだ。
 本書はエロス関係の本100冊ほどの書評を集めたもので、読むも読んだり、著者の読書エネルギーには「精力絶倫」に近いものを感じる。書評本の書評というややこしい立場に立たされた女のわたしとしては、その濃度にいささかはひるんだものの、著者の面白グッズ感覚のとりあげかたがうまいので読者として楽しんでしまった。評者の評者なんてどうでもいいや、と思わせるのだ。だが油断は禁物。
 セックス活字業界は今、百花繚乱だが、著者は過去の男性主体のセックス文化にもくわしく、本書を通史としてみるとズンとくる。たしかにここ数年、女たちの表現は元気だ。一人よがりの男性優位のセックス表現はなえてしぼみつつある。主婦がケータイで男を買う時代、どうなる? 未来のセックスコミュニケーションは? と先走りしたくもなるが、どっこい男寄りのエロス史の重さ深さはすさまじい。たとえ日本女子オナリンピックがあったとしても男エロスの範囲を越えがたい。まして無邪気にストリップの私設応援団として大まじめに、タンバリンをそろって打ち鳴らす男たちのしゃれっ気を上回る女の、あるいはジェンダーをこえたエロスの世界をつくりだすにはまだまだ遠い。本書は男女のエロスが非対称であって決して向き合えないことを見抜いている。
 だったら非対称の本家、上野千鶴子の『性愛論』もとりあげてほしかったなあ。ほんとはやさしいんだよ、あの人。
(トラン童子)

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溢れ出す万感の思いが五感にしみわたる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 やっぱり泣いてしまった。
 思わず泣いた人がいると聞いたのでそれだけはナイよなあ、ハハハ・・だった。ああ、くやしい。20歳のふつうの(と見えた)娘がお茶のおけいこごとを始め、いつのまにか25年間が過ぎた。その長い(短くもある? )年月に「おけいこ」を通して気づき、得たことを1冊の本
にまとめた。ただそれだけ・・なんで泣くんだ?! 失恋や身内の死に出会うぐらいの波風ごときに涙するとは涙腺がこわれたのか。

 いや、万感の思いがあふれたとしかいいようがない。コトバにならない。(といえば書評にならない! )。それほどコトバが記号ではなく、五感にしみわたる。

 たとえば「今を生きる」と書かれている。わかりやすく、あたりまえでフンフンと通り過ぎていくコトバ。記号。けれども著者はお茶の作法をしながら、シュンシュンと湧くお湯の音、外に降る雨の音に耳をかたむけながら「今」を全身で感じていくのだ。「今を生きる」というコトバが出てくるまでの著者の日常のプロセスはあまりにあたりまえなのにあまりにわたしたちが無視して切り捨ててきたものだった。というと、なんだか説教じみた悟りの「覚醒もの」みたいだ。
ちがいます。説教されて泣くもんはいない。この人のコトバの選びかたが簡素でつつましく、しかもカラリと明るいのだ。

 抹茶はカプチーノのようにクリーミーに泡立っているし、茶筅(ちゃせん)は内巻きにカールしている・・ものらしい。教わるたびに「うそー! 」とのけぞる。それにも師匠は動じることなくきびしい。その新旧のずれには思わずクスッ。よき師にめぐまれた弟子はのびやかに古典を自分のものにしていく。成長ヒストリーというコトバではぜったいくくりきれない深い自分との出会いの書である。

 世の中にはまだまだこのような人生の達人である女師匠がいると思うだけでしみじみうれしい。
(トラン童子)

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紙の本猫の目に時間を読む

2002/01/08 18:15

忍者は敵の屋敷の猫の眼で時間を知る

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 「・・猫の目は朝夕には丸く、日が高くなるにつれて細長くなり、正午には一本の糸のようになります。」というのがこの本のタイトルの意味だ。
 同時にエッセイの一つでもあるが、著者の博物誌へのナビゲーターとしての魅力も秀逸。この猫の目が明暗によって変わる観察記述をもとめて唐、江戸の時代、イギリス19世紀、はてはボードレールの詩にいたるまで散歩気分でしらべつくしていく。いつのまにか私たちは見知らぬ書の森にふみこんでいる。白いページに活字の木立の魅力的な森。
評者は子どもの頃から猫の目の時間については知っていた。だがこのような洗練された
方法で知ったのではない。「忍者になるためのトラの巻」という雑誌のフロクである。忍者は余分のものは持たない。時刻は敵の屋敷の猫の目を見て知りなさい、というわけで瞳の大きさに合わせた時刻の図表もついていた。感心した子どもの印象に残ったのは猫ではなく、昔人の観察の鋭さであった。というか、身体感覚にかかわる鋭さである。うれしいことにこの著者も読書体験の中で昔人のそれにふれている。
 この身体感覚へのこだわりは第二部の明治以前の筆耕や彫刻の職人芸のくわしい記述につながっていく。手や目の感覚だけがたよりの世界だ。無名の過去の技術者たち。彼ら個人の手仕事でつながってきた書というかたちの歴史。中身とかたちへの等分への著者の目配り。彼の書に対する目は猫の目の変化をみのがさない昔人と変わりないほど行き届いている。
 エッセイというより、すぐれた読書法に出会った気分だ。本の海の中で泳ぎ方を知らない若い人たちに、彼の読書のメソッドをうけついでもらいたいと思う。わたしは猫にこだわりすぎたが、実はこの本には別の魅力的なテーマがいっぱいあることをつけくわえておく。 (パフォーマンス・アーティスト、トラン童子)

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紙の本カトリーヌ・Mの正直な告白

2001/12/25 22:16

即物としての体

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 150人が集まる乱交パーティで49人までは相手の名前を覚えている・・。このものすごさはTV番組の「大食い選手権」に匹敵する。40代のカトリーヌ・Mの性体験の数の話だ。しかも大食いの選手がそろって真面目な求道者にみえるように、彼女の態度もストイックだ。どうして? 度はずれた身体の体験はたぶん苦行に近くなるからか。その点では食と性の快楽体験は似ている。それだけではない。「わたしは男性の性器をしゃぶるのが好きだ」といともあっさり言われると二の句がつげない。まるでアメ玉と同じような即物あつかいだ。
 そう、この美術雑誌の編集長の性生活にどぎもを抜かれるのは即物感覚だ。まさかの空想を現実化してしまう。テレビカメラの前で細い女がステーキ30皿をたいらげるように。著者がマスターベーションをするときに思い描くイメージは次のようなものだ。
 「場面は混雑した地下鉄の車内。一人の男性がズボンの前の部分をわたしのお尻に押しつけてくる。そしてスカートを捲り上げて、わたしの体の中にペニスを挿入する。一人が終わると、その動きを見逃さず、人ごみの中をすりぬけてきた別の男性が入れ替わる」。
 このたぐいの妄想だけでからだをほてらせるわれら凡人のハンパな猥雑さに、即物女は目もくれない。現実に実践だ。地下鉄が駐車場に変わるだけだ。さっと服をぬぎすて、素のからだをキッチンテーブルにさらしてさあ、やりましょう、というノリだ。今後、この種の性の告白がふえれば悪場所的な性のイメージがはがれてセックスもすっきりするだろう。
男性好みのみだらなムードよ、さようなら。それにしてもあそこまでやっちゃっていいんだろうか? 避妊や性感染症のモンダイはどうなるんだろう? 即物としての体にはリスクがある。こわい人はこの本と妄想だけにしておこうね。(2001/12/24)

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紙の本ガールズガード 知っててほしいからだのヒミツ

2001/09/17 22:15

新セックス少女のための新まじめガイド

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「ガールズガード」とは何ぞや? ハテ? ガールスカウトがらみの生理用品? はずれ! 実はコンドームの新しい呼び名であった。この本の目的の第一は近頃ふえている「不特定多数の相手」を持つ新セックス少女のために、STD(性感染症)の知識と予防を伝えることだ。ガールズガードをしっかり使おう! というまじめなアドバイス。

 それでオワリか? そんなわけはない。新とつくからにはわけがある。世の母さま、父さまがのけぞるような「からだのヒミツ」が盛りこまれて
いるのであった。

 のけぞり1. ふつうのセックス指南書をぶっとばす次の快感用語:スマタ、パイズリ、クリ派とアナ派、ヤリマン、ヤリチン、顔シャ……
ああ、キリがない。これ、ほとんどAVの世界ではないの? わ、わたし、し、知らない! とあせるのは旧少女あがりの女だけか。作者は「かなり過激」とす
ずしくおっしゃる。現実が先行する少女たちのセックスはあんがいこのあたりにいるのか、と体験レポートを見る思い。

 のけぞり2.図解のアッケラカーンとした楽しさが新しい。処女膜の種類までズラリ。本人すら知らないマクのイロイロには感動する。くんずほぐれつも謝国権(知らないでしょ?)の木のモデル人形とはちがうのだ。

 さてさいごはのけぞらないで一言。

 作者は産婦人科医で、臨床体験にもとづくセックスへの態度は好感度高し。ただし、全体にただよっている「男の子へのサービス要求」はなんだろう? コンドームも気づかれないうちに、と心遣いをアドバイス。AVが男性のためのものであることをあらためて感じる。先生、いつか「新セックス少年のためのガイド」も書いてくださいね。 (トラン童子/翻訳家・パフォーマンスアーティスト 2001.09.18)

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紙の本「わからない」という方法

2001/09/04 15:27

「わからん」ものを十把一絡げにして論じる

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たしかに「ヘン」な本だ。まったく「ヘン」な本だ。と思ったとたん、読者は橋本ワールドにまきこまれて「わからない」嵐のまっただ中を右往左往することになる。だいたい「わからない」対象物(わかりたいもの)は無数にあるのだ。チーズの料理法、セーターの編み方、筋の通らない企画書、相手の心理、抽象絵画、雑多なレベルの「わからん」ものを十把一絡げにして論じていいものか? 論じているのだ。「わからない」というただ一点で同じであるから、物事にはこだわっていられないのである。論じ方も、軽やかに「たとえばセーターの編み方でいえばねえ」という調子ではじめは春風ムードだ。作者は頭がきれるにちがいない。わからないなんてはっきりいえる人間だもの。にぶい頭の持ち主ならにぶいわが身をごまかそうとして、わかるフリをする。「いい度胸だ、根性だ」とわからない自分の立場を明快にする。度胸と根性なら頭の善し悪しはカンケイないから共有できる。とみせかけて春風は次第に嵐となる。どんな嵐かまきこまれてみようか。

作者によれば「わからない」を方法にするためにはまず条件があって、自分が「ヘン」である側に立つことであるらしい。この「ヘン」というコトバの意味、状況をめぐって、彼は懸命に、子どもの熱心さで説明する。ひたすら連発する「ヘン」は1ページに19回だ。なにしろ大人のよくやるむずかしい言葉に置き換えたり、ずらしたり、すりかえたりはしないから、ひたむきに「ヘン」をくりかえして説明しようとするのである。究極のこのくどさ、誠実さ。ホトホトまいる。おまけに最後はよく「わからん」のである。だが、それでも読むあいだにこの19回の「ヘン」はすべてそれぞれニュアンスがちがうことが突如「わかる」。文ではない。会話なのだ。するとなんとなく「ヘン」がヘンな感じで伝わってくる。体験したことがないから妙に疲れる。予期せぬ嵐にまきこまれた感じ。「ヘン」になった読者は「セーターの編み方」によって「わからない」をよし、とする説明をよし、とする。

結論はカンタンだ。「わからない」を方法にすることは「わからないまんま突進してみる」ことなんである。なあんだ、そんなことなら、そこいらの親父がはじめての自転車乗りにおびえている幼い息子に「ボーズ、突っ立ってねえで、とにかくやってみろ」という日常のセリフと違わないではないか。そうなのである。だが恐ろしい違いが、決定的な違いがある。橋本ワールドでは一生「わからないけど、とにかくやってみる」子どもの側に立ちつづける決意表明があることだ。

子どもになりゃいいのさ、と安心するなかれ。読者は「わからない」嵐をぬけ、本をとじるとき、心の奥底でヒヤリとするだろう。こんなあたりまえのことを1冊の本にしてしまう「度胸の男」はまぎれもなくおとなであって、太刀打ちできそうもないから。

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紙の本O嬢の物語

2001/06/19 13:55

「からだ」がまっさかさまに堕ちる話

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 はじまりはなにげない。ふつうの服を着た若い娘が恋人とともにタクシーに乗る。車は公園を出て走り出す。夕暮れ近い秋の日。その日から約1年間の物語だ。1年ののち、若い娘はつぎのような姿であらわれる。羽毛におおわれたフクロウの仮面をかぶり、はだかのまま、鎖につながれ、モノとして人々にながめられ、無視されながら石のベンチにすわっている。さらに近づけば、せなかの裂傷に気づくかもしれない。

早合点する人はざんねんながら、世にも奇妙なO嬢の経験を理解できないだろう。サド、マゾプレイの話? どうも苦手な世界でね、という人。目をぎらつかせて、で、それからどうした? という人。作者はこのふたりには読んでほしくないようだ。
たしかにミもフタもないいい方をすれば、これは男のドレイになりきった女の物語にすぎない。と、聞くとやっぱりそうか、サド、マゾの世界じゃないかといわれそうだ。けれどもこれはたんなるポルノ小説でも文学性ゆたかな官能小説でもない。
ではなにか?  匿名の作者はだれに読んでほしいのか?これは「からだ」がまっさかさまに堕ちる話、だれも知らない感覚の極地にむかってダイビングする話だとしかいいようがない。そして、なにもかもが度ハズレタことが
好きな人なら作者はぜひ、どうぞというかもしれない。それほど直線的で危険な性の話だ。クッションにもたれて粘液質のコーフンを味わうひまなどはない。

わたしは80年代にこの本に出会った。本はコトバによる軽やかな想像力の冒険だと思いこんでいた。ところがそれは事故のように起きてしまった。いきなり「からだ」の器官がバラバラに切断され、どこかへびちってしまつたのだ。切りはなされたかけらのいくつかはいまだにもどってこない。文字によってからだの断片を失うほどの「身体験」(とあえていう)をしたのははじめてだ。あっという間のできごとで、わけがわからないまま20年がすぎてしまった。なぜ、あんなことが起きたのか?

2年前、フィルムのなかで作者のポーリーヌ・レアージュに会うことができた。小さな老婦人がおだやかに安楽椅子にかけて、インダビューに答えているのである。90歳をこえた婦人の顔はどこといって個性もなく、ありきたりのことしかいわない。覆面作家? そう、たしかに。別にたいしたことではない。序文を書いたジャン・ポーラン? 彼はずっと恋人だった、彼がいろいろな教育をしてくれた・・・など。まるでダンスのステップをおそわったにすぎないようないいかた。

わたしの疑問がそのとき氷のようにとけてしまった。彼女は傑作を書こうとしたのではなかった。ふつうのからだを持ったふつうの女性が、ふとしたきつかけで極地に向かった私的な体験を率直につづったにすぎない。ほとんどそれに近い。きっかけなどはどうでもよい。一本の赤い革のムチだけだったかもしれない。ふつうのからだがまっさかさまに堕ちていく可能性がいつでもあること、それならばわたしのからだの一部もまた同じ極地に堕ちてもふしぎではない。作者はそのように語りかけていた。だがよく考えるとだれもが共有するそんな「からだ」はひどくおそろしい。

「O嬢の物語」が1950年代に発表されてからいまだに読みつがれているのは、作者の非情なほどムダのない、しかも色彩感あふれる文体を訳出した渋澤龍彦氏の才能によるものだろう。一見リアルで残酷な拷問が苦行僧の祈りに似た禁欲的な表現になっているのも品位のある訳語のせいだ。わたしがいまだにO嬢の夕食の「三日月パン」や静かな図書室の暖炉にくべる「りんごの枝」を、あざやかに追体験できるのも訳語のせいなのである。

続きはこちらからどうぞ

(トラン童子、翻訳家・パフォーマンスアーチスト)

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おもしろくて、ちょっともの哀しいおっぱいの旅

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ドレスの下の・・」とあれば、ドレスをはがしたあとの視線は下にいくのがふつうだ。
下の下。けれどもこの本は下の上に目線をおいたものである。ああ、ややこしい。カンタンにいえば、おっぱいを隠すモノ、下着の本である。(隠すとみせて、実はみせるのだが)。と同時におっぱいの2000年の旅の物語でもある。

 歴史といっても隠そうとする下をあばくのだから、おどろくような内容にはこと欠かない。へーッ、知らなかった、がいっぱいである。
気になる方のために、この本のおもしろ真面目な切り口のいくつかをチラリとおみせしよう。

 ひとつ。さながらおっぱい美術館。180ページほどの本に図版だけのページはあっても、図版のない文字だけのページはないといってよい。ぜいたくなヴィジュアル系なのだ。
 十字架上のイエスをいたむ仕草で胸をおさえるマグダラのマリアの宗教画。おしあげられた乳房、うすものから透けて見える乳首。目がくぎづけになるのはこちらの方だ。
 だれが足にうたれたくぎなどみるものか。画家の意図はあきらかだ。おっぱい願望を聖画にたくすなんて。しかもルーヴル美術館蔵とは・・。

 さらにひとつ。痛みと哀しみの身体のエピソード。
この本はわが身におっぱいを有する女性の視点でかかれたものだ。とうぜん、コルセットやブラを身につける側の身体の物語だ。つい100年前まで、ドレスの下のからだはひもでしばられ、無数のフックとボタンでとじられ、鋼鉄のワイヤーをぬいこんだバラ色の胴着でしめつけられて、ろっ骨3本がかさなっていたという。近代になってもダンロップ社特製のゴムにかわっただけでしめつけにはかわりない。

 さらにもうひとつ。下着は超ハイテク工業製品であるという話。
ワイヤー、ゴムにはじまってプラスチック、○○テックスといった材質もデザイン技術も、武器商人、時計職人、整形外科医からオーディオ、自動車産業などの技術陣がよってたかっておっぱいビジネスをつくりあげていたこと、ごぞんじでしたか?
 いや、これは現在進行形なのである。
すてきな寄せあげのブラをつけて渋谷を闊歩する娘たちのおっぱいは、どう感じているのだろう。
この本を読むと人のおっぱいのゆくえをひたすら知りたい気分になる。

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紙の本男を抱くということ

2001/05/22 15:02

ワイワイ猥ワーイ

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 まずは本書の引用から。「・・パスタでいえば「アルデンテ」。芯があるかなしかという状態で全体的にはコシが強い感じの○○○がいいですね。・・」

 この○○○はいったい何でしょう? ハイ、もうわかるよね。
これは3人のエロチックで超高感度な女たちのペニスの品定めである。
セックスのくんずほぐれつの話ももまるでキッチンの中での、サラダのレシピを前にした友だち同志のおしゃべりのノリ。はちきれそうな赤いトマトのかわりにペニス、包丁のかわりにムチ、ドレッシングのびんの口のかわりにアナルが出てくるけれどね。
なめてみる指、指はおなじです。

 ゲッ、えぐい、えぐすぎる?
いいえ、とんでもない。これがわたしのようなただのエッチな女ならさもありなん。
だがこの3人の姉さまたちはそれぞれがセックス道をきわめたプロたちであって、何をいおうがつきぬけている。洗練もさることながら並のスケールではない。
「××さん、そろそろ3万本くらいみてます? 」とさりげなく問う者あれば「そうね」と軽く答える者あり、の世界の住人なのだ。
だからめっぽう楽しい。わたしはこの本に別のタイトル「ワイワイ猥ワーイ」とつけたいほどだ。

 かといって本書は男のモノをめぐる一方的な女のワイ談ではない。それなら男の猥談とおなじだ。エロスに貧しいわたしらのペニス依存の性幻想をあっさりとぶちこわしてもくれる。女が攻めたっていいのだ。男がもだえたっていいのだと。いや、むしろ、そうしてほしいのだと。

 なによりうれしいのは超エッチになれば(ごめんね、もっとまじめでエロっぽいコトバがみつからない)、だれでもこの3人のように感受性が鋭くなり、男を、女を、自分をも深く愛せるようになるかも知れないという希望が持てることである。

 「・・不思議な年頃だよね、中学生って。髭はまだなくて、よくわからないセクシャリティの状態。そういう頃ってけっこう暗いんだよね、顔が。それがまたそそるんだよ。・・」
「・・顔は赤くなっているのに、目は暗い。暗い欲情を感じますよね。・・」
この会話のなかにある感性には、ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」の美少年をみつめる老いた男以上の鋭さを感じません? 

 そしてタイトルの「男を抱くということ」。これは実は男に「抱かれ上手になってほしい」という男への愛のメッセージであり、「抱き方上手になってほしい」という女たちへのテクニックガイドでもある。抱かれるだけでなくしっかり抱く女は自分をも深く愛することができる、これはすてきな希望だ。

 さいごにこれだけ言ってもついていけない読者のみなさん、心配はいらない。「ブラックホール男」の話だけでも読めば、ぶったまげた非日常の世界をたっぷり味わうことができる。ただしその強烈さにあしもとをすくわれて尻もちをつくことは覚悟してね。
すくわれっぱなしのわたしなどは今だにイタリアは水の都を「ペニス」と読んでしまうけれど。

<翻訳家・パフォーマンスアーティスト/トラン童子/2001.5.21>

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