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Straight No Chaserさんのレビュー一覧

投稿者:Straight No Chaser

35 件中 31 件~ 35 件を表示

紙の本

紙の本暁の寺 改版

2004/12/21 04:06

転生と流転。「タイ」からの留学生・月光姫の美しさに、三島由紀夫の本領を見る。

2人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『貴種と転生・中上健次』(四方田犬彦)に触発されて、『豊饒の海』と響き合っている小説は……と考えてみた。

 まずは『流転の海』。戦後の混乱期から現代に至る日本を父子の関係を軸に描き出し、宮本輝が自らのライフワークとして今も書きつづけている(?)作品。
 三島由紀夫は、本多繁邦を徹底して「見る者」の位置におくことで「松枝清顕→飯沼勲→月光姫→安永透」という「転生」の物語を描き出し、完結させようと試みた。宮本輝は、父・松坂熊吾と子・伸仁を物語世界の内側における「行動する存在」として描くことで、親から子へと「流転」してゆく生の姿を写し取ろうとしている。
 静的な美しさと動的な逞しさ。『豊饒の海』は絶頂における死の美しさを定着させようとして(半ば確信犯的に)「失敗」し、『流転の海』は決して定着させられることのない猥雑な世界を真正面から描き出すことで、どこまでも「流転」してゆく生に表現を与えることに「成功」(でも、この小説はどんなふうに終わる?)している。
 ふたつながらに「ライフワーク」と呼ぶにふさわしい小説である。小説は生きている。そう実感する。小説が作家によって息を吹き込まれて生あるものとなるように、自分もまた生かされて在ることを思い出させてくれる。

 次に思い浮かんだのが『深い河』。インドのガンジス河畔の町を舞台にした、遠藤周作の集大成とも言うべき最後の長編。(遠藤周作は「ライフワーク」と呼べるような作品を書かなかったが、彼は死に際して自らの棺に『沈黙』と『深い河』を入れるように遺言したという。)
『豊饒の海・第三巻 暁の寺』において、本多繁邦もやはりガンジス河畔の町を訪れ、聖と穢が混淆して流れゆくガンジス河に沐浴する人々の姿を見、焼かれる死体を見、無常(無情)の世界の向こうに一頭の聖牛の姿を見る。

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『豊饒の海』四部作は、各巻が「起・承・転・結」に対応するような形で構想されていたという。「転」の位置に当るのが『暁の寺』である。それまで徹底して「見る者」であった本多繁邦の「視覚」が「不治の病」に犯される決定的な瞬間。絶望という「死に至る病」に本多が(そして三島由紀夫が?)取り憑かれた瞬間。(だから……月光姫は美しい。)
『深い河』の終わり近く、美津子という女性がガンジス河畔で呟く言葉を並べてみる。

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 同時代に国際的作家として活躍し、マルキ・ド・サドを愛してやまなかったふたり。美津子の祈りに込められたもの。
 深い河を流されて、海へ。その海を、三島由紀夫は『豊饒の海』と名付け、宮本輝は『流転の海』と名付けた。さて……

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紙の本

紙の本14歳の国

2005/02/16 06:32

上演への意志=力への意志。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

伊藤整は書いている。「本当の近代的芸術は、いずれも戯曲の隆盛から始まる」(『文学入門』)

『14歳の国』は神戸の児童連続殺傷事件に想を得て書かれた戯曲である。巻末には上演への手引きが付されており、宮沢章夫の演劇観を窺い知ることができる。演劇ダンス音楽小説映像…ジャンル融合的な表現者。

鈴木忠志は『演劇とは何か』のなかで、ヨーロッパの演劇様式を「ギリシャ悲劇(人間の発見)」「近代リアリズム劇(内面の発見)」「不条理演劇(日常性の発見)」の三つに区分し、日本の演劇界がヨーロッパの「近代リアリズム劇」を誤ったかたちで移入したことの弊害が今なお残っている、と語る。ことは演劇に限らない。新たな「関係」が生まれようとするとき、新たな「関係」を求めざるを得ない状況にあるとき、時間的/空間的に想像力を駆使しつつ頭のなかに舞台を組み立てること、すぐれた戯曲には、そんな構成力をドライブする力が隠れている。

客電(客席の電気照明)がおちてから芝居が始まるまでの間、観客は自分の手さえ見えない暗闇に包まれてぽつんと取り残されている。たとえば寺山修司没後何年目かの記念公演「青ひげ公の城」(流山児祥)、開幕前の暗闇のちょっと尋常ではない長さ。たぶん実際には三十秒ほどの、無力……ふいに舞台の片隅にひとりの役者がぼんやりした灯りを手に現われ、ぼそりとつぶやく。「オイ、そんなトコでなにシテンダヨ。そんなトコで待ってたっテ、ナンにも起こんナインダヨ……」

>(「上演の手引き」)

『消尽したもの』の訳者あとがきで、宇野邦一は“出会い”について書いていた。

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役者が舞台上のもうひとりの役者にセリフを投げかけることに成功した瞬間→不確かさにおいて不確かさのゆえに起こる奇蹟。

>(ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』)

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紙の本

身体の揺れが音になる小説。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>(村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』)

>(『牛への道』)

似ているじゃないか。宮沢章夫と村上春樹。だからどうしたというのだ、おまえ。
「面白さ」と「面白み」の微細な違いにこだわるべきなのか。「さ」と「み」。ここで、「我慢強さというフィルター」と書いてしまう村上春樹のやさしい野暮に「うざい!」と言ってみる。

>(石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』)

>(『サーチエンジン・システムクラッシュ』)

演劇界の先輩として、大人計画(主宰・松尾スズキ)に所属する宮藤官九郎の脚本でテレビドラマ化された『池袋〜』にちょっとダメ出し。

なかなか笑いにくい宮沢章夫の芝居と、ゆるく螺旋回転しながら微細な笑いのツボをくすぐりつづける彼のエッセイ。『サーチエンジン〜』は、ふたつをつなぐように、「赤い糸」に導かれて池袋の裏通りを徘徊する男の、「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」という脱ハムレット的疑問を巡る、演劇的なお遊びに満ち充ちた、宮沢章夫の処女小説である。キーワードは「赤く塗れ!」(黒く、ではない。)

「虚学」ゼミで学生たちにテルミンを演奏させながら、脱ハムレット的疑問に囚われた畝西(うねにし)は言う。

「そう、そうだよ。もっと手を動かせばいい。そんなふうに身体が揺れるだろう。それが音になる」

村上春樹も石田衣良も大好きだけど、たまに宮沢章夫を読むと、あまりの気持ちよさに「茫然」としてしまうのである。

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紙の本

紙の本新ジャズの名演・名盤

2004/12/23 03:39

ジャズ・ジャイアンツのレコードを肴に、ジャズの深みへと。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ジャズ喫茶「いーぐる」の店主・後藤雅洋さんが、バーボン片手にジャズ・ジャイアンツたちの名盤について次から次へと語ってくれる。ジャズに関する文章を書いている人のなかで最も誠実で真摯な人(もちろん妙にトリビアルな薀蓄を自慢げに語ったりなんてしない)、それが後藤さんだ。

名著『ジャズ・オブ・パラダイス』に較べて、なんだか薄い感じは否めない。でもそれは一人の演奏家について五頁ぐらいずつ、さささっと語っていくスタイルだから仕方ない。変に理窟っぽくなるよりは、余程いい。ジャズを聴き始めようとして、とりあえずピアノかなと考えた場合、セシル・テイラーを選ぶよりもオスカー・ピーターソンを選んだほうが「正解」であるように。

でも、もっとディープなのが好きな人もいる。大丈夫。

後藤さんはオスカー・ピーターソンについて一通り語り終えたあと、「余計なことかもしれないが」と断ったうえで言う。「セシル・テイラーを持ち上げるためにピーターソンを貶すような、見えすいた革新気取りには生理的反発を感じてしまうが、さりとてピーターソンを常日頃愛聴しているかというと、本当はそれほどでもない。彼の優れている多くの点を認めるのに吝かではないけれど、翳りのない音楽というのは、どうも僕には退屈なのである」

ジャズは、各演奏者の交感に歓びがある。言葉を超えて、さまざまな約束事(コード)を超えて、どこまで交歓可能なのかを演奏を通して探究する。優れた演奏者たちのアクロバティックな交歓は、聴衆をアクロバットへと誘い込む力をもつ。たとえば社会という舞台の縁から零れ落ちそうな人がジャズに力強い慰めをもらうのは、その演奏にアクロバティックな交歓の可能性を示されるからだ。コミュニケーション偏重主義的な空気のなか、独自の演奏によって舞台上の他の演奏者との本当のコミュニケーションを求めて已まないジャズマンたちの音楽を聴くとき、可能と不可能の狭間を先へ先へと疾走しつづける彼らに倣って、自分もまた走り出そうと思うが早いか、すでに身体は動き始めている。

「何度聴いても新鮮さを失わない」「言いたいことを言い切っている」チャーリー・パーカーの即興演奏を聴きながら。

>(『ジャズ・オブ・パラダイス』)

今を生きることに困難を覚える人間のなかには「意識の時間」と「演奏の時間」のズレを、身を切られるほどの痛みとともに感受している人が少なくないと思う。多かれ少なかれ誰もが感じている不安や怖れを、彼は極端なまでに我が身に刻み込んでしまう。パーカーもまたそういう人間だったのだろう。弱さとか病とか、そんなレッテルとは無関係。唯、ごまかすことができなかった。それだけのことだ。
(そして問題はけっして「時間」のズレだけではないし、パーカーだけがジャズのすべてではないのだ。この豊饒さ。)

「いーぐる」のホームページに「ジャズを聴くことについての原理的考察」という文章が連載されている。『ジャズ・オブ・パラダイス』の本格化バージョンともいうべきスリリングな論考で、こちらもオススメである。

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紙の本

ナイフを持ってからでもいい。

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高橋源一郎は『一億三千万人の小説教室』のなかで、「太宰治の作品は、日本語で書かれた小説の中でもっともまねされてきたものです。……太宰自身が、さまざまなものからまねして成功していることを考えあわせ、積極的に利用されることは、太宰にとっても本懐ではないでしょうか?」と書き、自ら「駆込み訴え」や「女生徒」をまねて書いてみた経験について、「とても気分がよかったことを覚えています。なんというか、別人格になった気分だったのです」と書いている。

これって、ヤクザ映画を観終わって映画館を出てから我知らず肩で風切って歩いたりする、あの感覚に近いのではないかな。菅原文太とか高倉健とか、松方弘樹とか。

>(本書所収「評伝 太宰治:ぼくらと等身大の文豪」島内景二)

文豪ナビ・シリーズで取り上げられる作家は七人。七人を生年の順番に並べると、夏目漱石(1867-1916)、谷崎潤一郎(1886-1965)、芥川龍之介(1892-1927)、川端康成(1899-1972)、山本周五郎(1903-1967)、太宰治(1909-1948)、三島由紀夫(1925-1970)。「七人の侍」である……勘兵衛(志村喬)、七郎次(加東大介)、五郎兵衛(稲葉義男)、平八(千秋実)、久蔵(宮口精二)、勝四郎(木村功)、菊千代(三船敏郎)。

で、誰が誰なのかと考えるに……太宰治はあんがい、菊千代=三船敏郎なのではないか。だって太宰治は「酒を愛した万葉歌人にして太宰帥(だざいのそつ)の大伴旅人」にあやかって太宰をペンネームにした「酔いどれ天使」津島修治であるのだから、さ。

なにはともあれ、文豪ナビ・シリーズのなかでどれか一冊買ってみるなら太宰治だろう。太宰治にはこういう近づき方があってもいい。多彩な距離感を遊ぶ、太宰を読むときの基本的なスタンスというのはたぶんそんなところにあるから、この本には気恥ずかしくなる記述(例「自殺を考えたこと、ありますか。自分がちっぽけな人間に思えたこと、ないですか。人生は思いどおりになりっこない、と思っていませんか。そんなあなたに読んでほしい。『晩年』」)が少なからず炸裂しているけれど、へんに深刻ぶっていないという意味で、そのスタンスは間違ってないと思う。

ここで太宰を読んだことのない人のために、彼の名言を集めた『さよならを言うまえに』(河出文庫)から、すてきなフレーズを

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などなどなどなど……なにか、ダザイはあらゆる人間的な悩みをすべてもう悩んでくれてしまっているかのようだ。「さよならだけが人生」(井伏鱒二)かもしれないけれど、あまり深刻ぶらずに人間さまのおばかなところを笑うということについてさらりと教えてくれる。

そんなわけで『文豪ナビ 太宰治』をばらばらと……マジメに読もうとすると、なにやら、腸が煮えくり返りそうな本ですけど。

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