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  3. Straight No Chaserさんのレビュー一覧

Straight No Chaserさんのレビュー一覧

投稿者:Straight No Chaser

35 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

だいじなことは、自分で発見すること。

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哲学とは「問いそのものを自分で立てて、自分のやりかたで、勝手に考えていく学問」である。そんなふうな態度(立場)に基づいて展開されるのは、ベネトレというチェシャ猫のような猫と、ぼくの哲学対話。

ペネトレの哲学は、ときにニーチェ、あるいはスピノザ、そしてカント、ときにはホッブズ、さらにはウィトゲンシュタイン、たとえばそんな思想家の思考に触発されて形作られてきたらしい。「なにか自分にとって重要なことが言われていると思ったら、あとは自分で考えていけばいい」と、彼(猫)はいう。

第1章 人間は遊ぶために生きている!

第2章 友だちはいらない!

第3章 地球は丸くない!

各章のキー概念は、たとえば「倫理」「他者」「存在(と認識)」とかいう感じになるのだろう。でも、もちろんそんな難解そうな言葉は使われていない。

著者の永井均さんは、とてもわかりやすく、それでいて乱暴な(粗雑な?)明快さとは無縁の言葉で(本気で哲学をやっている人の言葉はいたずらに明快ではあり得ないだろう、だってそれはその人が生きることそのものであるはずだから。)哲学を語ってくれる人だという印象がある。たとえば僕がウィトゲンシュタインの考えに興味をもったのは、永井さんの本を読んだからである。そんな永井さんの分身のように、ペネトレは語る。あるいは、ペネトレを通して語られる言葉が、永井さんの哲学になっている。(「永井さんの」という言葉はいらないのかもしれない。ただ「哲学」というほうが、より正確かもしれない。)

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いつもどこでも、こんなふうなスタンスで生きられたらいいと思う。使い古された言葉で、かなり手垢がついているかもしれないけれど、「自然体」ということ。

ペネトレはこんなことも言う。

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ペネトレ自身が「ニーチェ」の影響があると言っている第一章にあるこの文章、ニーチェの強烈な言葉にかぶれてしまうことへの、やさしい注意の言葉として、心に留めておきたいと思う。

彼はこんなことも言う、「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ」。同じような意味の言葉は、いろいろな場所で見かける。でも、これほど目から鱗な説得力を感じた文章はない。

素敵に哲学な本である。そう思いました。

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紙の本

やさしい本。

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なにはともあれ素敵な引用がたくさん散りばめられた本である。そういう意味ではロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』と並べてみても遜色がない……というのは言い過ぎだろうか……

たとえば……

>(矢内原伊作『顔について』)

>(土屋恵一郎『能』)

>(レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』)

『顔の現象学』は12の章に分かれている。「」「顔の規則」「ほんとうの顔?」「顔の所有」「顔の外科手術」「震える鏡」「転写される皮膚」「魂のパスゲーム」「負の仮面」「不在と撤退」「不可能な顔」「見られることの権利」、それぞれがとても興味をそそる表題を付されている。

解説の小林康夫教授は、「大きな視野から見た場合は、われわれの時代におけるの哲学は、一方でメルロ=ポンティ的なの認識論、そして他方でレヴィナス的なの倫理という二つの広大な勾配に規定されざるをえません。二つの斜面に支えられた険しい尾根を、どこにどういう道を切り開きながら通過していくか」と書いて、という誰もにとって身近なもの(?)を素材にして、現象学的な方法を用いつつやがてひとつのやわらかな「倫理」にたどりつくように、たおやかな文章が紡がれてゆくこの本を、とても的確な言葉でまとめてくれている。

鷲田清一さんの軽やかな思考の軌跡を辿ることは、難解な哲学書を紐解きつつ難解な顔をして難解な言葉をぶちかますような野蛮さの対極にあるような、しなやかさの印象を帯びて、そこでは「内部/外部」というような二分法の暴力は影を潜めている。解説の小林教授は「この辛抱強い思考は、をもはや意味の現象としてではなく、として、つまりとしての自己のとしてとらえる地点に達している」と書いているけれど、この『顔の現象学』という本のあり方が鷲田さん自身の「としての自己の」という印象のある、とてもvulnerableなものであるがゆえか、その文章、その言葉の暴力性があたうかぎり外へ向かうことのないように、そんな細やかさが行き届いて、読者を傷つけることのないやさしさに満ち溢れている。

について思考をめぐらすうちに、乏しさ、貧しさというものに視線がどんどん吸いよせられていった。貧しい存在、「情けない」「哀しい」とは言えても、「清く貧しく美しく」などとは口が裂けても言えぬ、存在の乏しさについてである。じぶんのなかのそういう乏しさに独り向きあっているひとの顔に惹かれる。そしてその顔をまなざしているうちに、じぶんまですごく落ち込んでしまう。そういうときの他人の顔というものが、いまのところぼくにはいちばんリアルである。>>(「原本あとがき」より)

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紙の本

紙の本夜と霧 新版

2005/03/03 22:39

夜と霧のなかへ。

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『表層批評宣言』という本のなかに、「人は、問題を、思考し行動することの善意によって埋めるべき部分的な欠落だと思い、解決がその欠落を充填することの最終的な結論だと思いがちである。……なぜ思考はそうまでして執拗に欠落と戯れたがるのか。理由は簡単である。誰も、欠落を真の頽廃とは思わず、いつかは必ず何らかのかたちで埋めうるものと信じるがゆえに、それを本気では恐れていないからである」という文章がある。

ともすると物事を抽象化して語りたくなってしまう(「この欠落を埋めるためにXをすれば、人は正しい方向へと向かうはずだ」云々)、そもそも言葉は抽象化するものなのだから仕方ないじゃないか、でもそれはまずいのです、そのことで傷ついてしまうものが必ずある、そのことにあまりに人は鈍感すぎる、あるいは敏感すぎるから耐えられずに顔を背けてしまい、いつか忘却してしまいかねない……「ホロコースト」というふうに、あるいは「ナチスによるユダヤ人(だけではない)大量虐殺」というふうに、それとも「当時ユダヤ人はドイツにかぎらずヨーロッパ各地で憎悪の的となっていた、狂った時代だったのだ、そこから私たちは学ばねばならない」というふうに……いかように表現しようとも、そこでは何かが確実に欠落しつづけ、何かを決定的に損ない、傷つける。ぼくはいくら無理をしても「当事者意識」をもてない、無理に「当事者意識」をもてたのだと錯覚して熱く語ることは騙すことであり、裏切りだと思う。「外部」にいるわけではないのに、語ろうとするときに「外部」からの言葉を装わなくては語ることのできない(許されない?)自分がいる。

>(129頁)

この文章をたとえば今の“自分”(あるいは誰か)と重ねて読もうとするとき(「読む」ということは、多かれ少なかれそういうことを含むと思うのですが)、そこには(乱暴な言い方をすれば)収容所の「外部」から読んでいる自分がいる。

自由はいつも「外へ」という志向をもつように思える。囲いのなかで「外へ」と志向しつづけることが「自由」の姿なのではないか、と思いもする。「外部」がないのではなくて、自分が「外部」にいて、どうしても囲いのなかに入ることが不可能な状態におかれているように思える、だから自由に語ることができないのかもしれない。

レヴィ族というイスラエルの一部族名に由来する名前をもつエマニュエル・レヴィナスという思想家は、「ホロコースト」を抽象的な(乗り越えられるべき)問題としてではなく、具体性において(いま、ここにおいて?)考えるべく促す文章を紡ぎつづけた人だと思うのですが、彼が「他者」といい、あるいは「顔」といい、「自由」というとき、そこにはたしかに「ホロコースト」があると感じる。

>(レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』)

両親の生、妻の生、子供たちの生を収容所に奪われ、ひとり収容所の「外」を生きのびることを余儀なくされたフランクルの言葉に耳を澄ませる。そこにレヴィナスがあのような難解に思える文章(エクリチュール)を紡ぎつづけたことを重ねつつ、「自由」について、抽象化への抗いを忘却することなく(できるかぎり「内」において)考える。

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紙の本

紙の本茫然とする技術

2005/03/03 05:45

「ファミリー。」(本書所収)について思うこと。

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松田優作ファンとしては、なんだか腹が立ってこなくてはいけないところなのかもしれないと思いつつも、(そこはかとない?)すがすがしさが残ってしまうのだ。いったいなぜなのか。それは大阪芸人井上まーの尾崎豊ネタをはじめて見たときの尾崎豊ファンの心情に少し似ているようにも思う。しかし、ここで「愛」というような言葉を口にしたなら、宮沢章夫はしれーっとした目で遠くを見やるに違いない。井上まーには尾崎への愛があると言いうるように感じるが、宮沢章夫に松田優作への愛があるとは、これっぽっちも思えない。許せなくなってきそうだ…許せねえ! ゆうさくをばかにしやがって……と、そんなこだわりを受け流すようにいつのまにか話題は変わり、「サニーサイドアップ」という初老の男の発話行為が俎上に載せられる。場面設定は近所の喫茶店。

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宮沢流のおかしみが広がってくるのは、たとえばこんなところである。「目玉焼き」……たしかにすごいことになっている。ここでかんぜんに脱力している。もう怒りの種さえ見当たらない。と、そこまできておもむろに、松田優作の「ファミリー」は初老の男の「サニーサイドアップ」とは違って、つまり単なる「意味もなく英語で表現する違和感」の問題ではなくて、その「いかにも、『いかした感じ』が、『いかしてる』だけに、恥ずかしいのだ」と、松田優作をさらに叩きのめすのである。許せない、と思う。書いていて思うのだ、これを。しかし読んでいるときはそうではない。ここが宮沢章夫のすごさである。おまけに細やかな気配りを忘れない宮沢氏は、ここでNHKのアナウンサーの話に転じて、松田優作フリークの怒りを逸らしてみせる。スノーボードの世界で使われるらしい「クール」という言葉にまつわる話題(妄想)をひとしきり展開してみせるのだ。で、最後はやはり「ファミリー」である。なにせタイトルが「ファミリー。」なのだから仕方ないのだが、それにしてもこれは死者に鞭打っているのではないか、ゆうさくぅぅぅぅ、と涙が流れてくるではないか……。で、気づく。含羞。宮沢章夫の含羞。「恥ずかしい」という感覚、その自然な発露(?)これなのか、と。これが、あのおかしみの源泉なのか、と。そうに違いないのだ、と。これでもかこれでもか、と。

こんなふうなエッセイが並んだ一冊です。そして宮沢章夫の処女小説「サーチエンジン・システムクラッシュ」につながるような、コンピュータにまつわる文章も満載。お買い得な一冊だと思います。

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紙の本

紙の本アメリカの夜

2005/02/23 08:10

コーネリアスふうな世界。

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「もっともっと存在を消さないと、誰かが火をつけてくるだろう」

辻仁成の『ピアニシモ』(1989)を評して青野聰は、「主体の獲得」を描くという「ありふれた主題」を扱って「現代を掴みとろう」と奮闘したことに「拍手」を送っている。ヒカルという別人格を作り出すことでバランスを保つ氏家透、「いじめられるのが嫌で、鍵かけて、いちぬけた」、ジンセーの歌そのままのフレーズさえ散りばめられたその小説には、こんな一節がある。

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光と影、昼と夜、表と裏、現実と夢、そんな二項対立を並べながら、「平等」を唱える「太陽」の反対側で「申し訳なさそうに舌を出」す「影」を愛するジンセーはあざとくも(無意識的に、ではなかろう)「透」の“影”の人格を「ヒカル」と名付けている。

『アメリカの夜』(1994)の場合、シゲカズと中山唯生はサンチョ・パンサとドン・キホーテ(アロンソ・キハーノ)として、「透」と「ヒカル」の関係を逆さ吊りにしたような二人組として、闇の到来をごまかしつづける「小春日和的なもの」を内破させようと試みる。

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さまざまな引用から織り成される『アメリカの夜』、その結論的な(堂々巡り的な)場所において『神聖喜劇』(大西巨人)の引用がなされ、そこにソシュール言語学的な理論=体系(言語記号の恣意的性質に発するシステム)の苦楽が重ねられる。

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ジンセーは「ヒカル」の死を描き、カズシゲは「唯生」を「キャメラをもって旅立」たせる。

『ピアニシモ』的世界を幾重にも深く折り曲げたとき、その軋み音のなか『アメリカの夜』の「彼=私」は「見る-見られる」関係から暴力的に身を引き離すこととして「撮るひと」/「書くひと」への回生を成し遂げる。

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紙の本

「顔色の悪さ」を踏み越えて。

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IPは、オヌマという男の手になる180頁ほどのハードボイルドな日記(5月15日〜9月15日)を本体とする。これに「M」なる人物の手になる3頁ほどのオマケが付されている。(まるで『人間失格』のように?)

「M」は、第一義的にはオヌマがかつて所属していた「高踏塾」(スパイ養成学校?)の主宰者である「マサキ」という人物(変態)を指す。オヌマは某映画学校の卒業制作で仲間たちとともに「高踏塾」のドキュメンタリーを制作、マサキの「人間美学の最終洗練形態という観念」(「M」は三島由紀夫?)にとり憑かれ、仲間たちとともに入塾、五年ほどの歳月をスパイ訓練に明け暮れて過す。あれこれあって今、オヌマはかなりハードな状況に追い込まれ、ドンキホーテ的に大活躍する。

……それにしてもIPの文庫版はカバーが素敵♪ うまいこと素敵な女の子を見つけたものだと、ほとほと感心してしまう。なんというか、このカバーガールは「個人的な」記憶(?)を「投影(映写)」しやすいタイプだ。CG等には見えないから、現実にこの世界のどこかに実在する誰かなのだろう。でも、そういうことを問題にしたくならない。「Individual Projection」を日本語に訳すと「個人的な映写(投影)」とでもなるのだと思うが、まさにバナナフィッシュにうってつけの日!……オヌマは現在、渋谷国際映画(渋谷国映)で映写技師のバイトをしている。

>(154〜5頁、八月二七日)

日記形式というところがミソで、オヌマは自分の行動を対象化してクールに記述しようとするが、勿論それは不可能だ。おまけにオヌマは「顔色が悪い」と言われつづけたせいで(?)完全にキレてしまう。従って『ニューシネマパラダイス』のごとき感動的なラストを迎えることはない。彼は「顔色の悪さ」を指摘されても反論できず日記でそれをぶちまけつづけ、編集は狂いつづける。

>(八月八日、112頁)

これが(たぶん)「顔色が悪い」の初出である。さらに「顔色の悪さ」はつづく。それにつれて事態は切迫し、カタストロフへ一直線の様相を呈する。

>(八月一六日、132頁)

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解説は「哲学研究者」の東浩紀。『グランド・フィナーレ』と併読してみると、さらにおもしろいはずだ。

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紙の本

紙の本グランド・フィナーレ

2005/02/19 03:14

LaDolceVita!!

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“Grand Finale”----そんな言葉で、Marcello (Mastroianni)は夜を徹しての享楽パーティの幕を降ろす。夜明けの砂浜に打ち上げられたグロテスクな魚の屍骸、虚空を見上げる空虚な眼差し。少女(天使)の言葉は届かない。

『アメリカの夜』というトリュフォーの映画(映画撮影現場が舞台)と同じ名をもつ小説からはじめた阿部和重は、『グランド・フィナーレ』ではフェリーニの『甘い生活(ドルチェ・ヴィータ)』の幕引き(の始まり)の台詞を小説のタイトルにもってきている、と思い込んでしまったのは、一昨日TVでやっていた『甘い生活』を堪能したからにすぎないのだろう。(思い込みが激しく、思い付きで喋る僕)

『シンセミア』がこれまでのものとはかなり違うヴィークル(vehicle)であったことは確かだ。ウェブ(的)小説。徹底的にメディア(媒介)への違和感を掘り下げまくる。屈曲の深み。ウェブといえば『電車男』ブームが気になりだしたので、はじめて2チャンネルにアクセスしていくつかのスレッドを覗いてみると、そこに、今自分が利用しているメディアに対する違和感(懐疑)をあけすけに表明する言葉が数多存在していることに驚くとともに、可能性(シンパシー)らしきものまで感じてしまい、やばいかもこの自分……そんな悩みが深まりゆく気配であった矢先だからこそ『ドルチェ・ヴィータ』&『グランド・フィナーレ』に感動したような気もする。「死んじゃだめだ(ぜ)」という魂の叫びがフル・オーケストラの圧倒的な音楽にのって、身体のなかから衝き上げてきそうだった……

「わたしは世に言うロリコンであり、今現在は露悪趣味に走って自身をあえて貶めることにより逆説的に自らを際立たせた気になって悦に入っている、古くさくて凡庸な下衆野郎」(51頁)ではないつもりだけれど、いやまったく違うのだが、この37歳のトーキョーから撤退した沢見という男が“動”き始めた時点で、蜘蛛の巣(ウェブ)にかかってしまった僕は完全に。

これは僕の体質のせいかもしれないが、阿部和重の小説が動き始めるとき、きっかけはきまって「顔色の悪さ」なのだ。『アメリカの夜』と『グランド・フィナーレ』にどこか反復的な印象(むろん悪い意味ではない)があるのは、つまり「顔色の悪さ」だ。“鏡”を通さなければ絶対に見れない(自分の)“顔”という“メディア”?

>(37頁)

『アメリカの夜』とはちがって、『グランド・フィナーレ』の沢見は「そうかな、気のせいだろ」とか「嘘つけよ。ここが暗いせいだろ」とか、執拗に反論する点が気に入ったわけだが、そもそも先ごろ宮沢章夫の『不在』を読み進めながら、どうにも『シンセミア』が重なってきて仕様がなく(文章の感じは少し『千年の愉楽』ふう)、「『シンセミア』→(『不在』(←『千年の愉楽』←『豊饒の海』))→『グランド・フィナーレ』→?」という図式が浮んでは消え、さらに阿部和重はフェリーニを宮沢章夫はシェイクスピアを“遊”んでみたのでは、と考えを進めるのは楽しく素敵だ。“不在”の観客を前にしてさえも。

*「馬小屋の乙女」というふたつめの短篇の主人公「トーマス井口」は「機関車トーマス」と「トータス松本」を思わせる。「驚いたことに、そこいら中にエロスの芳香がむんむんと漂っているみたいな東洋的風情のある、抒情的な町並みだな」とはじまる、なんだか坪内逍遥訳『ハムレット』のごとき彼の独白には笑いを堪えきれなかった……最近なんだか顔色の悪い人間としては、「電車のなかで読むなよ『馬小屋の乙女』は」とアドバイスを残して“Grand Finale”、かな。

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紙の本

ナイフを持ってからでもいい。

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高橋源一郎は『一億三千万人の小説教室』のなかで、「太宰治の作品は、日本語で書かれた小説の中でもっともまねされてきたものです。……太宰自身が、さまざまなものからまねして成功していることを考えあわせ、積極的に利用されることは、太宰にとっても本懐ではないでしょうか?」と書き、自ら「駆込み訴え」や「女生徒」をまねて書いてみた経験について、「とても気分がよかったことを覚えています。なんというか、別人格になった気分だったのです」と書いている。

これって、ヤクザ映画を観終わって映画館を出てから我知らず肩で風切って歩いたりする、あの感覚に近いのではないかな。菅原文太とか高倉健とか、松方弘樹とか。

>(本書所収「評伝 太宰治:ぼくらと等身大の文豪」島内景二)

文豪ナビ・シリーズで取り上げられる作家は七人。七人を生年の順番に並べると、夏目漱石(1867-1916)、谷崎潤一郎(1886-1965)、芥川龍之介(1892-1927)、川端康成(1899-1972)、山本周五郎(1903-1967)、太宰治(1909-1948)、三島由紀夫(1925-1970)。「七人の侍」である……勘兵衛(志村喬)、七郎次(加東大介)、五郎兵衛(稲葉義男)、平八(千秋実)、久蔵(宮口精二)、勝四郎(木村功)、菊千代(三船敏郎)。

で、誰が誰なのかと考えるに……太宰治はあんがい、菊千代=三船敏郎なのではないか。だって太宰治は「酒を愛した万葉歌人にして太宰帥(だざいのそつ)の大伴旅人」にあやかって太宰をペンネームにした「酔いどれ天使」津島修治であるのだから、さ。

なにはともあれ、文豪ナビ・シリーズのなかでどれか一冊買ってみるなら太宰治だろう。太宰治にはこういう近づき方があってもいい。多彩な距離感を遊ぶ、太宰を読むときの基本的なスタンスというのはたぶんそんなところにあるから、この本には気恥ずかしくなる記述(例「自殺を考えたこと、ありますか。自分がちっぽけな人間に思えたこと、ないですか。人生は思いどおりになりっこない、と思っていませんか。そんなあなたに読んでほしい。『晩年』」)が少なからず炸裂しているけれど、へんに深刻ぶっていないという意味で、そのスタンスは間違ってないと思う。

ここで太宰を読んだことのない人のために、彼の名言を集めた『さよならを言うまえに』(河出文庫)から、すてきなフレーズを

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などなどなどなど……なにか、ダザイはあらゆる人間的な悩みをすべてもう悩んでくれてしまっているかのようだ。「さよならだけが人生」(井伏鱒二)かもしれないけれど、あまり深刻ぶらずに人間さまのおばかなところを笑うということについてさらりと教えてくれる。

そんなわけで『文豪ナビ 太宰治』をばらばらと……マジメに読もうとすると、なにやら、腸が煮えくり返りそうな本ですけど。

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紙の本

紙の本14歳の国

2005/02/16 06:32

上演への意志=力への意志。

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伊藤整は書いている。「本当の近代的芸術は、いずれも戯曲の隆盛から始まる」(『文学入門』)

『14歳の国』は神戸の児童連続殺傷事件に想を得て書かれた戯曲である。巻末には上演への手引きが付されており、宮沢章夫の演劇観を窺い知ることができる。演劇ダンス音楽小説映像…ジャンル融合的な表現者。

鈴木忠志は『演劇とは何か』のなかで、ヨーロッパの演劇様式を「ギリシャ悲劇(人間の発見)」「近代リアリズム劇(内面の発見)」「不条理演劇(日常性の発見)」の三つに区分し、日本の演劇界がヨーロッパの「近代リアリズム劇」を誤ったかたちで移入したことの弊害が今なお残っている、と語る。ことは演劇に限らない。新たな「関係」が生まれようとするとき、新たな「関係」を求めざるを得ない状況にあるとき、時間的/空間的に想像力を駆使しつつ頭のなかに舞台を組み立てること、すぐれた戯曲には、そんな構成力をドライブする力が隠れている。

客電(客席の電気照明)がおちてから芝居が始まるまでの間、観客は自分の手さえ見えない暗闇に包まれてぽつんと取り残されている。たとえば寺山修司没後何年目かの記念公演「青ひげ公の城」(流山児祥)、開幕前の暗闇のちょっと尋常ではない長さ。たぶん実際には三十秒ほどの、無力……ふいに舞台の片隅にひとりの役者がぼんやりした灯りを手に現われ、ぼそりとつぶやく。「オイ、そんなトコでなにシテンダヨ。そんなトコで待ってたっテ、ナンにも起こんナインダヨ……」

>(「上演の手引き」)

『消尽したもの』の訳者あとがきで、宇野邦一は“出会い”について書いていた。

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役者が舞台上のもうひとりの役者にセリフを投げかけることに成功した瞬間→不確かさにおいて不確かさのゆえに起こる奇蹟。

>(ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』)

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紙の本

紙の本不在

2005/02/16 05:14

はむれっと・げーむ

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クローディアスの策略でイギリスに送られるハムレットが旅の途中で海賊船に襲われ、彼のみが海賊たちの捕虜となり、至れり尽くせりの“歓待”をうけ、無傷でエルシノア城に戻ってくるという事態。あそこでハムレットがウルトラマンのように帰ってくるというのはどうなのか。

神戸の連続児童殺傷事件について宮沢章夫は、「『子どもっぽい犯罪を、子どもが犯した』ことにひどく驚いたのだ。『子どもっぽい犯罪』はたいてい大人が犯すことになっており、『子どもじゃないんだから、このばかが』と人は報道に触れてそう感想を口にしてカタルシスを感じる。だが、子どもが、『子どもっぽい犯罪』を犯してしまった。これはかなりまずいことになっているのではないか」と考え、『十四歳の国』(1998)を書いた。十四歳の少年少女が“不在”の教室を舞台にした戯曲である。「けっして十四歳の人物をそこに登場させてはいけない。十四歳についての大人の劇にしなければ、あの幼稚な劇を再現してしまうことになるからだ。むしろ、一度、上演されてしまった劇をあらためて表現しなおすことでようやく、あの気持ち悪さから、私自身、抜け出せるのではないか」

『不在』(2005)もまた、『ハムレット』を巡る気持ち悪さを抜け出そうとする小説なのかもしれない。“幽霊”に夢うつつの田舎青年たち、利根川を流れる若い女の屍体……彼女の元恋人である失踪青年は“復讐”を行いつづけ、秋人という名の彼はけっして観客の前に姿を現わさない。

たとえば鷲田清一は「傷としての顔、見られることへの呼びかけとしての顔、それがいま見えにくくなっている」(『顔の現象学』1995)と書いているし、ドイツの奇才ハイナー・ミュラーは『ハムレットマシーン』をこう始めたのだった。

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そして、「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」という『サーチエンジン・システムクラッシュ』(2000)のテーゼ。

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家人の寝静まった真夜中、スピーカーから流れる洋楽を聴きながら、“夢”という名の妄想を巡らせる。「十四歳の危うさ? そうではない。自分を見たかったのだ。十四歳だった頃の自分が知りたかったのだ。そしてそこにある暗さは彼らを突き放すに十分だった。『見てはいけないものって、きっとあるんですよ』それは自分のことだ。ほんとうは誰だって、自分のことなど見たくない。だが、目を閉じたいと思いつつ、それと向かい合い、はっきり見つめることで、ようやく彼らもまた、十五歳の誕生日を迎えることができる」……そして彼らは、盗んだバイクで走り出すのだ! (間) どうだろうか、それは。

*最後にシェイクスピアのテクストからこの本に関連のありそうなフレーズを引用、しかも坪内逍遥のすてきな訳で。

「そもそも演劇(しばい)は、今も昔も、いはば造化に鏡を捧げて、正邪美醜の相容(すがたかたち)や当国(そのくに)、当世(そのよ)の有りのままを写して見する筈のものぢゃよって、度を過しては本意に外る」(ハムレット)

「死んでるか、生きてるかが分らいでか? 土のようになってしまうてをる! 鏡を貸せ、鏡を。息が少しでも此鏡を翳(くも)らすか、汚すかすりゃ、はて、きッとまだ生きとるんぢゃ!」(リヤ)

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紙の本

身体の揺れが音になる小説。

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>(村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』)

>(『牛への道』)

似ているじゃないか。宮沢章夫と村上春樹。だからどうしたというのだ、おまえ。
「面白さ」と「面白み」の微細な違いにこだわるべきなのか。「さ」と「み」。ここで、「我慢強さというフィルター」と書いてしまう村上春樹のやさしい野暮に「うざい!」と言ってみる。

>(石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』)

>(『サーチエンジン・システムクラッシュ』)

演劇界の先輩として、大人計画(主宰・松尾スズキ)に所属する宮藤官九郎の脚本でテレビドラマ化された『池袋〜』にちょっとダメ出し。

なかなか笑いにくい宮沢章夫の芝居と、ゆるく螺旋回転しながら微細な笑いのツボをくすぐりつづける彼のエッセイ。『サーチエンジン〜』は、ふたつをつなぐように、「赤い糸」に導かれて池袋の裏通りを徘徊する男の、「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」という脱ハムレット的疑問を巡る、演劇的なお遊びに満ち充ちた、宮沢章夫の処女小説である。キーワードは「赤く塗れ!」(黒く、ではない。)

「虚学」ゼミで学生たちにテルミンを演奏させながら、脱ハムレット的疑問に囚われた畝西(うねにし)は言う。

「そう、そうだよ。もっと手を動かせばいい。そんなふうに身体が揺れるだろう。それが音になる」

村上春樹も石田衣良も大好きだけど、たまに宮沢章夫を読むと、あまりの気持ちよさに「茫然」としてしまうのである。

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紙の本

紙の本劇的言語 増補版

2005/01/30 07:55

演劇という仕掛け(1976→1998)。

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『劇的言語(増補版)』は鈴木忠志と中村雄二郎(哲学者)の対談集である。そこには早稲田小劇場解散の年=1976年(で、鈴木さんは富山の山奥にある利賀山房を本拠として後に世界的に有名になる劇団SCOTを立ち上げる。その成果については『演出家の発想 批評空間叢書3』という本に詳しい。)の対談に加えて、1998年の対談が収録されている。いわば日本の現代演劇が形作られてきた二十年余りの歳月がまるごとサンドイッチされているわけで、とにかくスケールの大きい一冊なのだ。

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1976年の対談で鈴木さんは「(演劇の)現場性」(=その場に「概念」を立ち上げるだけの力がある)という言葉を連発して、中村さんに「おいおい」と言われたりするのだが、思うにその「おれは現場で生きてるんだ」という意識が彼の言葉に“強烈”な射程を与えているのだ。もちろん彼はその現場性をナイーヴに信じているわけではない。「>なるものを疑うということは、>を疑うことであり、それを>表現を企てる以外にないということになる」(太田省吾『劇への希望』)のであり、演劇の現場では「演劇(ドラマ)」を疑うことなしに生きる=表現することなど不可能なのだから。(そして1998年の対談では、鈴木さんの“自信”も若干トーンダウンしているように思う。その温度差もこの本の醍醐味の一つである。)

ここで「演劇という仕掛け」の核心に触れた、ふたつの言葉を思い出す。

「上手い役者さんは、相手が喋っている間、相手のセリフを聞いています。聞いて、自然に浮んだ感情を、セリフに託すのです。何ヵ月も前から知っていて、しかし、今思いついたように感じるセリフに。この“何ヵ月も前”と“今”のせめぎ合いを楽しめば楽しむほど、スリリングに“練習”と“今の感情”の綱渡りをこなせばこなすほど、その人は名優となるのです」(鴻上尚史『名セリフ!』)

「表現という行為では能動が積極であるとは思えないのである。>では積極的受動と消極的能動という語法で対比しなければならないように思えるのである」(太田省吾『劇の希望』)

太田省吾のいう「積極的受動と消極的能動」の対比、鴻上尚史のいう「“今の感情”と“練習”のせめぎあい」を、鈴木忠志はこんなふうに表現する。

>(鈴木忠志『演劇とは何か』1988)

「会話をするということではなく、喋るということがそのまま何事かであり、意味をもつようなときにドラマがある」という言葉は、今なお力強い。

言うまでもなくそれは、「喋るということがそのまま何事かになるように意味をもたせることでドラマにしちまえ!」ということとはまったく違うのである。

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紙の本

紙の本回転木馬のデッド・ヒート

2005/01/27 02:36

村上春樹の仕掛け?

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村上春樹は、読者たちがムラカミハルキ的な小説世界にはまりすぎてしまうことに危機感をもち(なんとか責任をとらなければまずいのかもしれない)、自らの小説世界を総括するようなかたちで『アフターダーク』を書いてくれたのかもしれない、とか思う。

『回転木馬のデッド・ヒート』という短篇集は、「小説」ではなく「スケッチ」であるという。『使いみちのない風景』(村上春樹・文、稲越功一・写真)というエッセイ集のなかに、こんな文章がある。

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村上春樹にシンパシーを感じる人のなかには、人の話を聞くことが好きな人が少なくないように思う。「自分は人の話を面白く聞くことが、もしかすると、他の人にくらべて少しばかり得手な人間なのかもしれない、これといって人に誇れるようなところなどない人間だけれど……」、なにかの拍子にふとそんなふうに自分を定義してしまって、あとで後悔する。恥ずかしい。

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(BGMは、たとえばGuns N’RosesのPatience)
我慢強さだけではどこにも行けないけれど、そもそもどこにも行けないのが人間なのかもしれない、回転木馬のように、ということにドンキホーテのように挑戦しようとしたりして。

「突撃板に体当たりする俳優は血を流し骨を折った」と評されるような肉体派的なアングラ芝居で70年代に一世を風靡した劇作&演出家・金杉忠男は1993年、村上春樹の『プールサイド』(本書所収)と『ダンス・ダンス・ダンス』にインスパイアされて書いた『プールサイド』という芝居を下北沢ザ・スズナリで上演。男は言う、「耳の奥の方で誰かがぼくのために涙を流して、ぼくを求めているんだよ」。イルカは答える、「それはたぶん、誰かが君のために涙を流しているんだ。誰かが君を求めているんだよきっと。君がそう感じるなら、そのとおりなんだよ。いいかい。それがどんなにみすぼらしい行為に思えても音楽の鳴りつづく限りベストを尽くすんだよ」。(『グッバイ原っぱ』より)

村上春樹が敬愛する作家のひとりレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』(清水俊二・訳)の最後の一文はこう。「部屋のなかに音楽がみちみちていた」
『アフターダーク』で、音楽青年・高橋は不思議少女・マリに自らのモットーを語る。「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」

『アフターダーク』(2004)によく似た手触りの『回転木馬のデッド・ヒート』(1985)という都市に生きる人々のスケッチ集を読み返しながら、そういえば(ふたつの中間点のように)阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があったのだな、と思い出す。

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紙の本

紙の本名セリフ!

2005/01/24 04:33

「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」と鴻上さんはまえがきに書いています。

とりあげられている名セリフは31。『恋愛王』コウカミさんにふさわしく、あるいは映画『ジュリエット・ゲーム』で「恋のはじまりには理由がないけれど、恋の終わりには、理由がある」という名セリフ(?)を書いたコウカミさんらしく(『エヴァンゲリオン』で引用されちゃったんだよね、というさりげない自慢つきで紹介されています。)、『ロミオとジュリエット』(シェイクスピア)からはじまって、

『オイディプス王』(ソポクレス)
『女の平和』(アリストパネース)
『三文オペラ』(ブレヒト)
『かもめ』(チェーホフ)
『ゴドーを待ちながら』(ベケット)
『授業』(イヨネスコ)
『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ)
『アマデウス』(ピーター・シェファー)
『サド侯爵夫人』(三島由紀夫)
『毛皮のマリー』(寺山修司)
『夕鶴』(木下順二)
『赤ずきんちゃんの森の狼たちのクリスマス』(別役実)
『熱海殺人事件』(つかこうへい)
『上海バンスキング』(斉藤燐)
『赤鬼』(野田秀樹)
『マシーン日記』(松尾スズキ)
 ……

なんて感じに、たしかに古今東西の演劇の代表作は、これでカバーできてしまったのではないか、と思いかねないような豪華なラインナップです。

でも、もちろん、そんなわけはありません。コウカミさんの、あの、のっぺりした仔豚のような顔が、信用なりません、僕は昔から。……でも、なんだか、かっこいいんだよな。

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三島由紀夫の『サド侯爵夫人』について語りながら、そのなかにある名セリフをこの本に引用できないこと(三島さんのご遺族はとっても厳しい方なのです。)について言訳をつらねるなかに、こんなふうにコウカミさんの演劇への愛みたいなものが、さらりと語られます。

あるいは『ゴドーを待ちながら』に関して。

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このあざとさが鴻上尚史の“毒”です。しかもこのあとに、「自分で言いますが、分かりやすい方法ですね。この分かりやすさがいいのか悪いのかはよく分かりませんが」と書いています。いけしゃあしゃあと。

で、「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」……「ありえね〜!」

けれど、根っからの芝居バカ鴻上尚史氏の「あざとさ」と「愛」が堪能できます。そして、たしかに、「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバー」、できます。(この句点の多さが、すばらしい!)

演劇の楽しさを、どうぞご堪能ください。そんな一冊です。とっても贅沢。このパラグラフだけは、ほんとうの感想です。コウカミさんがあとがきで書いているように、ぜひ続編が刊行されることを祈ってやみません。

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紙の本

紙の本舞台の水

2005/01/22 01:02

太田省吾はエリック・サティのように、「各人が自由に自分の足跡を残せる、白い路を示してくれる」(ジャン・コクトー)。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

鈴木忠志とともに日本の現代演劇を精緻な理論で支えてきた演劇人、それが太田省吾である。僕は彼らの舞台を見たことがない。ただ彼らの本を読み、折に触れて読み返しながら、たしかになにか力強いもの、希望のようなものを感じ、受け取ってきた。それによって生きやすくなったかといえば、むしろ逆であるようなのだけれど。すべてが崩れ落ちてしまいそうなとき、彼らは“そこ”からスタートすることができる“時空”のおとずれを、静かにささやきかけてくれる。

太田省吾は『劇の希望』(『舞台の水』入門篇)のなかで「劇的」なるものを疑う。「劇表現の自由」を得るために「劇的素材」と「劇的手法」を疑う。

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彼は哲学者・竹田青嗣の言葉を引きながら論を進める。

>(竹田『問題としての昭和』)

「信」の問題を回避するとき、「劇」は「人生の退屈な部分を削除したもの」(アメリカの某テレビ局の社長談)になる。しかしそれは「芸能」の方法である、と彼は言う。

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吉本隆明の『空虚としての主題』を引いたうえで、太田省吾は言う。(彼にとって、「物語」=「劇的」なるものである。)

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この路の先にたとえば、宮沢章夫の『不在』という、『ハムレット』を下敷きにした小説が書かれている。

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