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  3. Straight No Chaserさんのレビュー一覧

Straight No Chaserさんのレビュー一覧

投稿者:Straight No Chaser

35 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

ナイフを持ってからでもいい。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

高橋源一郎は『一億三千万人の小説教室』のなかで、「太宰治の作品は、日本語で書かれた小説の中でもっともまねされてきたものです。……太宰自身が、さまざまなものからまねして成功していることを考えあわせ、積極的に利用されることは、太宰にとっても本懐ではないでしょうか?」と書き、自ら「駆込み訴え」や「女生徒」をまねて書いてみた経験について、「とても気分がよかったことを覚えています。なんというか、別人格になった気分だったのです」と書いている。

これって、ヤクザ映画を観終わって映画館を出てから我知らず肩で風切って歩いたりする、あの感覚に近いのではないかな。菅原文太とか高倉健とか、松方弘樹とか。

>(本書所収「評伝 太宰治:ぼくらと等身大の文豪」島内景二)

文豪ナビ・シリーズで取り上げられる作家は七人。七人を生年の順番に並べると、夏目漱石(1867-1916)、谷崎潤一郎(1886-1965)、芥川龍之介(1892-1927)、川端康成(1899-1972)、山本周五郎(1903-1967)、太宰治(1909-1948)、三島由紀夫(1925-1970)。「七人の侍」である……勘兵衛(志村喬)、七郎次(加東大介)、五郎兵衛(稲葉義男)、平八(千秋実)、久蔵(宮口精二)、勝四郎(木村功)、菊千代(三船敏郎)。

で、誰が誰なのかと考えるに……太宰治はあんがい、菊千代=三船敏郎なのではないか。だって太宰治は「酒を愛した万葉歌人にして太宰帥(だざいのそつ)の大伴旅人」にあやかって太宰をペンネームにした「酔いどれ天使」津島修治であるのだから、さ。

なにはともあれ、文豪ナビ・シリーズのなかでどれか一冊買ってみるなら太宰治だろう。太宰治にはこういう近づき方があってもいい。多彩な距離感を遊ぶ、太宰を読むときの基本的なスタンスというのはたぶんそんなところにあるから、この本には気恥ずかしくなる記述(例「自殺を考えたこと、ありますか。自分がちっぽけな人間に思えたこと、ないですか。人生は思いどおりになりっこない、と思っていませんか。そんなあなたに読んでほしい。『晩年』」)が少なからず炸裂しているけれど、へんに深刻ぶっていないという意味で、そのスタンスは間違ってないと思う。

ここで太宰を読んだことのない人のために、彼の名言を集めた『さよならを言うまえに』(河出文庫)から、すてきなフレーズを

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>

などなどなどなど……なにか、ダザイはあらゆる人間的な悩みをすべてもう悩んでくれてしまっているかのようだ。「さよならだけが人生」(井伏鱒二)かもしれないけれど、あまり深刻ぶらずに人間さまのおばかなところを笑うということについてさらりと教えてくれる。

そんなわけで『文豪ナビ 太宰治』をばらばらと……マジメに読もうとすると、なにやら、腸が煮えくり返りそうな本ですけど。

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紙の本

紙の本14歳の国

2005/02/16 06:32

上演への意志=力への意志。

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伊藤整は書いている。「本当の近代的芸術は、いずれも戯曲の隆盛から始まる」(『文学入門』)

『14歳の国』は神戸の児童連続殺傷事件に想を得て書かれた戯曲である。巻末には上演への手引きが付されており、宮沢章夫の演劇観を窺い知ることができる。演劇ダンス音楽小説映像…ジャンル融合的な表現者。

鈴木忠志は『演劇とは何か』のなかで、ヨーロッパの演劇様式を「ギリシャ悲劇(人間の発見)」「近代リアリズム劇(内面の発見)」「不条理演劇(日常性の発見)」の三つに区分し、日本の演劇界がヨーロッパの「近代リアリズム劇」を誤ったかたちで移入したことの弊害が今なお残っている、と語る。ことは演劇に限らない。新たな「関係」が生まれようとするとき、新たな「関係」を求めざるを得ない状況にあるとき、時間的/空間的に想像力を駆使しつつ頭のなかに舞台を組み立てること、すぐれた戯曲には、そんな構成力をドライブする力が隠れている。

客電(客席の電気照明)がおちてから芝居が始まるまでの間、観客は自分の手さえ見えない暗闇に包まれてぽつんと取り残されている。たとえば寺山修司没後何年目かの記念公演「青ひげ公の城」(流山児祥)、開幕前の暗闇のちょっと尋常ではない長さ。たぶん実際には三十秒ほどの、無力……ふいに舞台の片隅にひとりの役者がぼんやりした灯りを手に現われ、ぼそりとつぶやく。「オイ、そんなトコでなにシテンダヨ。そんなトコで待ってたっテ、ナンにも起こんナインダヨ……」

>(「上演の手引き」)

『消尽したもの』の訳者あとがきで、宇野邦一は“出会い”について書いていた。

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役者が舞台上のもうひとりの役者にセリフを投げかけることに成功した瞬間→不確かさにおいて不確かさのゆえに起こる奇蹟。

>(ジル・ドゥルーズ『ニーチェ』)

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紙の本

身体の揺れが音になる小説。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>(村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』)

>(『牛への道』)

似ているじゃないか。宮沢章夫と村上春樹。だからどうしたというのだ、おまえ。
「面白さ」と「面白み」の微細な違いにこだわるべきなのか。「さ」と「み」。ここで、「我慢強さというフィルター」と書いてしまう村上春樹のやさしい野暮に「うざい!」と言ってみる。

>(石田衣良『池袋ウエストゲートパーク』)

>(『サーチエンジン・システムクラッシュ』)

演劇界の先輩として、大人計画(主宰・松尾スズキ)に所属する宮藤官九郎の脚本でテレビドラマ化された『池袋〜』にちょっとダメ出し。

なかなか笑いにくい宮沢章夫の芝居と、ゆるく螺旋回転しながら微細な笑いのツボをくすぐりつづける彼のエッセイ。『サーチエンジン〜』は、ふたつをつなぐように、「赤い糸」に導かれて池袋の裏通りを徘徊する男の、「生きているのか、死んでいるのかわからない。その曖昧さに耐えられるか」という脱ハムレット的疑問を巡る、演劇的なお遊びに満ち充ちた、宮沢章夫の処女小説である。キーワードは「赤く塗れ!」(黒く、ではない。)

「虚学」ゼミで学生たちにテルミンを演奏させながら、脱ハムレット的疑問に囚われた畝西(うねにし)は言う。

「そう、そうだよ。もっと手を動かせばいい。そんなふうに身体が揺れるだろう。それが音になる」

村上春樹も石田衣良も大好きだけど、たまに宮沢章夫を読むと、あまりの気持ちよさに「茫然」としてしまうのである。

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紙の本

紙の本新ジャズの名演・名盤

2004/12/23 03:39

ジャズ・ジャイアンツのレコードを肴に、ジャズの深みへと。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ジャズ喫茶「いーぐる」の店主・後藤雅洋さんが、バーボン片手にジャズ・ジャイアンツたちの名盤について次から次へと語ってくれる。ジャズに関する文章を書いている人のなかで最も誠実で真摯な人(もちろん妙にトリビアルな薀蓄を自慢げに語ったりなんてしない)、それが後藤さんだ。

名著『ジャズ・オブ・パラダイス』に較べて、なんだか薄い感じは否めない。でもそれは一人の演奏家について五頁ぐらいずつ、さささっと語っていくスタイルだから仕方ない。変に理窟っぽくなるよりは、余程いい。ジャズを聴き始めようとして、とりあえずピアノかなと考えた場合、セシル・テイラーを選ぶよりもオスカー・ピーターソンを選んだほうが「正解」であるように。

でも、もっとディープなのが好きな人もいる。大丈夫。

後藤さんはオスカー・ピーターソンについて一通り語り終えたあと、「余計なことかもしれないが」と断ったうえで言う。「セシル・テイラーを持ち上げるためにピーターソンを貶すような、見えすいた革新気取りには生理的反発を感じてしまうが、さりとてピーターソンを常日頃愛聴しているかというと、本当はそれほどでもない。彼の優れている多くの点を認めるのに吝かではないけれど、翳りのない音楽というのは、どうも僕には退屈なのである」

ジャズは、各演奏者の交感に歓びがある。言葉を超えて、さまざまな約束事(コード)を超えて、どこまで交歓可能なのかを演奏を通して探究する。優れた演奏者たちのアクロバティックな交歓は、聴衆をアクロバットへと誘い込む力をもつ。たとえば社会という舞台の縁から零れ落ちそうな人がジャズに力強い慰めをもらうのは、その演奏にアクロバティックな交歓の可能性を示されるからだ。コミュニケーション偏重主義的な空気のなか、独自の演奏によって舞台上の他の演奏者との本当のコミュニケーションを求めて已まないジャズマンたちの音楽を聴くとき、可能と不可能の狭間を先へ先へと疾走しつづける彼らに倣って、自分もまた走り出そうと思うが早いか、すでに身体は動き始めている。

「何度聴いても新鮮さを失わない」「言いたいことを言い切っている」チャーリー・パーカーの即興演奏を聴きながら。

>(『ジャズ・オブ・パラダイス』)

今を生きることに困難を覚える人間のなかには「意識の時間」と「演奏の時間」のズレを、身を切られるほどの痛みとともに感受している人が少なくないと思う。多かれ少なかれ誰もが感じている不安や怖れを、彼は極端なまでに我が身に刻み込んでしまう。パーカーもまたそういう人間だったのだろう。弱さとか病とか、そんなレッテルとは無関係。唯、ごまかすことができなかった。それだけのことだ。
(そして問題はけっして「時間」のズレだけではないし、パーカーだけがジャズのすべてではないのだ。この豊饒さ。)

「いーぐる」のホームページに「ジャズを聴くことについての原理的考察」という文章が連載されている。『ジャズ・オブ・パラダイス』の本格化バージョンともいうべきスリリングな論考で、こちらもオススメである。

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紙の本

紙の本檸檬 改版

2004/12/24 02:14

梶井基次郎がどうにも好きになれない人に宛てて。

8人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

梶井基次郎はゴリラみたいな顔つきをしていて、『檸檬』という繊細で詩的な小説を書くにはどうにも不似合いな男で、そもそも「結核」という病で夭折するようなタイプには見えない、というのは割によく言われることである。

彼の伝記などを読むと、彼自身自らの容貌魁偉なることを相当に気にしていたらしい。その内と外の落差はいかばかりのものであったろう。

こういうことを言い募ることは、とても鈍感なままに聞く者の思いを壊してしまう暴力になりかねないことは確かで、昨今の世間で流行中の「毒舌」に、ひっそりと「世の中の厳しさを知らしめるという懐の深い愛情」などと言訳を貼り付けて礼賛するのは良いが、自分もそのサル真似をしようと試みるとしたら、そんなヤツはバカだ。

小説などあまり読んだことのないイタイケな子供に対して、「おれが一番好きな作家は梶井基次郎だ。愛してるといってもいい」と明言したうえで、「このゴリラみたいな顔」「ガレッジセールのゴリに似ている」などと讒言を吐いてみたところ、「ぶっ、ひでぇ」と笑いながらその子供が梶井基次郎に興味を持ったとしたなら、その「ゴリラ!」なる罵詈讒謗は許されるのかといえば、許されることではない。

だが、そもそも「私」はその生の瞬間瞬間に罪深い行為のみをつづけているのだとの自覚を「ゴリラ!」という発語に込めることで、ほとんど不可能と諦めた「免罪」の可能性がほのかに眼前に浮んだのだとしたら、その希望の炎を消してしまってはダメなのではないか。

だから「梶井基次郎はゴリラだ。気はやさしくて力持ちな男なのだ」と紹介したい。

人間にとって「顔」というのは矢張りどれほど頑張ってみても大切なものだ。そこに男女の区別はない。性別を超えて自分を光源氏の立場に置いてみて、末摘花の顔を朝日のなかに見たとしたならば、ぞぉっとするに違いあるまい。「とりかえしのつかないことをしてしまった」と慙愧にたえない気持ちにさえなるかもしれない。

今でこそ価値観の多様化が「常識」となり、美醜だの好き嫌いだので物事を語ることの暴力性は薄められてきているが、そのことは認めるにせよ、暴力は気付かぬところに蔓延るからこそ「暴力」なのであって、それゆえにこそ「顔写真」込みの『檸檬』(新潮文庫版)が輝くのだというのが僕のイイタイコトだ。

『檸檬』という美しい小説に「おれはなんて醜い男なんだ。まるでゴリラじゃないか」なんて独白が出てくるわけもないが、この男の憂鬱や重苦しさの背後に単なる結核という病だけを見てしまうのではなく、結核によって絶えず尋常ならざる熱っぽさを感じていたからこそ「檸檬」の爽やかさと冷たさが彼を動かしたのだと読んでしまうのではなく、無意識の暴力にさらされながら勇敢に闘いつづけた一人の男の美しさ、やさしさ、強さを見ることもできるのではないか。そんなふうに思うのだ。

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梶井基次郎はジャズが嫌いだった。モダンジャズを聴くことなく、「バップ(bop)の高僧」と綽名され奇矯な性癖で知られるセロニアス・モンクを聴くことなく、1932年にこの世を去った。享年31歳。あてどもなく暗い街をさまよう彼がモンクの「ラウンド・ミッドナイト」を聴いたら……。梶井基次郎の小説にはモンクがよく似合う。

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紙の本

紙の本回転木馬のデッド・ヒート

2005/01/27 02:36

村上春樹の仕掛け?

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村上春樹は、読者たちがムラカミハルキ的な小説世界にはまりすぎてしまうことに危機感をもち(なんとか責任をとらなければまずいのかもしれない)、自らの小説世界を総括するようなかたちで『アフターダーク』を書いてくれたのかもしれない、とか思う。

『回転木馬のデッド・ヒート』という短篇集は、「小説」ではなく「スケッチ」であるという。『使いみちのない風景』(村上春樹・文、稲越功一・写真)というエッセイ集のなかに、こんな文章がある。

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村上春樹にシンパシーを感じる人のなかには、人の話を聞くことが好きな人が少なくないように思う。「自分は人の話を面白く聞くことが、もしかすると、他の人にくらべて少しばかり得手な人間なのかもしれない、これといって人に誇れるようなところなどない人間だけれど……」、なにかの拍子にふとそんなふうに自分を定義してしまって、あとで後悔する。恥ずかしい。

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(BGMは、たとえばGuns N’RosesのPatience)
我慢強さだけではどこにも行けないけれど、そもそもどこにも行けないのが人間なのかもしれない、回転木馬のように、ということにドンキホーテのように挑戦しようとしたりして。

「突撃板に体当たりする俳優は血を流し骨を折った」と評されるような肉体派的なアングラ芝居で70年代に一世を風靡した劇作&演出家・金杉忠男は1993年、村上春樹の『プールサイド』(本書所収)と『ダンス・ダンス・ダンス』にインスパイアされて書いた『プールサイド』という芝居を下北沢ザ・スズナリで上演。男は言う、「耳の奥の方で誰かがぼくのために涙を流して、ぼくを求めているんだよ」。イルカは答える、「それはたぶん、誰かが君のために涙を流しているんだ。誰かが君を求めているんだよきっと。君がそう感じるなら、そのとおりなんだよ。いいかい。それがどんなにみすぼらしい行為に思えても音楽の鳴りつづく限りベストを尽くすんだよ」。(『グッバイ原っぱ』より)

村上春樹が敬愛する作家のひとりレイモンド・チャンドラーの『プレイバック』(清水俊二・訳)の最後の一文はこう。「部屋のなかに音楽がみちみちていた」
『アフターダーク』で、音楽青年・高橋は不思議少女・マリに自らのモットーを語る。「ゆっくり歩け、たくさん水を飲め」

『アフターダーク』(2004)によく似た手触りの『回転木馬のデッド・ヒート』(1985)という都市に生きる人々のスケッチ集を読み返しながら、そういえば(ふたつの中間点のように)阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があったのだな、と思い出す。

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紙の本

紙の本春の雪 改版

2004/12/31 02:33

究極。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

>(『なにもない空間』)

ピーター・ブルックが「表現」について書いた言葉は、そのまま三島由紀夫の遺作『天人五衰』の最後の場面で本多繁邦が辿り着いた“場所”を表わす言葉なのではないか、と感じる。

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哲学者ニーチェはニヒリズムの極点において「同一物の永劫回帰」を見出し、それでもなお「然り」と言い切ることのできる場所を「超人」であるツァラトゥストラの“ために”用意している。小説家ミラン・クンデラは“恋愛”小説『存在の耐えられない軽さ』においてそのことに触れ、書いている。

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『天人五衰』のラストは、『春の雪』のラストをなぞるようにして書かれている。綾倉聡子のもとへ、雪のふる月修寺を訪れた二十歳の松枝清顕は病に斃れ、その六十年後、清顕転生の“夢”に憑かれた(疲れた)本多繁邦は、夏の日ざかりに月修寺を訪れる。

六十年前、本多は清顕に向けて言っている。
「俺はどうしてもそんな風に、必然の神の顔を、見るも怖ろしい、忌わしいものにしか思い描くことができない。それはきっと俺の意志的性格の弱味なんだ。しかし偶然が一つもないとすれば……歴史に関与するものは、ただ一つ、輝かしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用になり、人間存在の意味はそこにしかなくなる筈だ。
 貴様がそれを知っている筈がない。貴様がそんな哲学を信じている筈はない。おそらく貴様は自分の美貌と、変りやすい感情と、個性と、性格というよりはむしろ無性格とを、ぼんやりと信じているだけなんだ。そうだろう?……それが俺にはいちばんの謎なんだ」

感情の人・松枝清顕の美しくも哀しい“恋愛物語”を助ける、意志の人・本多繁邦。ふたりの大正初年の青年。(『春の雪』)

そして、一貫して“法”の番人としての生涯を生きてきた本多の「耐えがたい責任の重さ」と、綾倉聡子(門跡)が彼にかける言葉のやさしさ。
「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」(『天人五衰』)

意志と感情がひとつに融けあったとき、表現者がその融合を感じるとき。

「表現とは……時間を否定するのだ」、『豊饒の海』以上にこの言葉が当てはまる小説を僕は知らない。

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紙の本

紙の本科学する麻雀

2004/12/27 01:40

革命者は、文学から遠く離れて。

6人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 五味康祐(名著“麻雀大学”)や阿佐田哲也(名著“Aクラス麻雀”)に心酔した人々が作り上げた「文学的」な麻雀。ヒクソン・グレイシーの親友でもある伝説の雀鬼・桜井章一に心酔した人々が作り上げた「武士道的」な麻雀。東大出のプロ雀士・井出洋介に心酔した人々が作り上げた「理論的」な麻雀。漫画家・片山まさゆきが言いだしっぺの「スーパー・デジタル」……そんな系譜に終止符を打つ人、それが「とつげき東北」であるのかもしれない。

 「とつげき東北」とは誰か? そのふざけた名前は何なのか? 馬鹿にしているのではないか? しかし講談社の本だ、どういうことなんだ、これは!?

 「とつげき東北」氏は、東風荘(ネット上の雀荘)の“カリスマ”雀士である。僕も何度か一緒に打たせてもらったことがある(ちょっと自慢)が、アクの強さとか、勝負師くささを全く感じさせない麻雀を打つ人である(そんなこともあってか、わりと相性がよかった……とかなり自慢)。いわゆる劇画チックな面白さは皆無である。でも、確かに面白い。彼との対局は密度が濃いのだ。
 そもそもネット雀荘で“カリスマ”化するような人は、どこか壊れているところがあったりするものだが、彼にはそれがない。ゲームとしての麻雀の面白さ、「ゲーム」という言葉が軽すぎるならば「競技」としての麻雀の面白さを、彼が同じ卓にいるというだけでひしひしと感じる。背筋がピンっと伸びる感じ、自分勝手は許されないという感じ……たかがネット麻雀だが、そんな空気を作り出せる人である。
 断言する。この人は“ほんもの”だ。“今後の麻雀は本書を避けては通れない”と豪語するだけのことはある。
 なんだか「文学的」な褒め言葉が並んでしまっているが、本書の主張は正反対だ。「文学的」ではなく「数理的」な麻雀、膨大なデータの解析・統計処理(彼はそっちのほうの専門家であるらしい)をもとに、ルーズな常識をバサバサ斬り捨ててゆく。その手腕は見事である。

 「とつげき東北」氏は、偶然は偶然として認めることが大切である、と言う。“運”とか“偶然”という言葉に逃げることの許されない部分をデータの裏付けをもって徹底的に追究してゆくこと(ウィトゲンシュタイン、或いはゲーデルの如き態度である)、その結果として明らかになったものを、惜しみなく本書は提供してくれる。
 たかが麻雀と馬鹿にするなかれ。なかなかどうして奥が深い世界である。“言葉”ではなく“牌”を使って卓上でコミュニケートする……“捨て牌”という表の顔と“手牌”という本当の顔……うむ、どうも僕が書くと全てがあまりに「文学的」になってしまう……
 
 麻雀なんて要するに“遊び”であるし、“馬鹿げた”“無駄な”ものである。でも、“道”というのは案外そんなところから開けてきたりするものだ。
 ふと思ったのだけれど、むしろ麻雀をよく知らない人にこそこの本は深い意味をもつのかもしれない。「ああ、麻雀ね…ふん」ぐらいの気持ちで手にとってみてほしい。この本のなかでは、確かにスゴイことが起っている。かつて麻雀にハマった経験のある僕の濁った心には見えないものが、あなたには見えるかもしれない。

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紙の本

紙の本名セリフ!

2005/01/24 04:33

「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」と鴻上さんはまえがきに書いています。

とりあげられている名セリフは31。『恋愛王』コウカミさんにふさわしく、あるいは映画『ジュリエット・ゲーム』で「恋のはじまりには理由がないけれど、恋の終わりには、理由がある」という名セリフ(?)を書いたコウカミさんらしく(『エヴァンゲリオン』で引用されちゃったんだよね、というさりげない自慢つきで紹介されています。)、『ロミオとジュリエット』(シェイクスピア)からはじまって、

『オイディプス王』(ソポクレス)
『女の平和』(アリストパネース)
『三文オペラ』(ブレヒト)
『かもめ』(チェーホフ)
『ゴドーを待ちながら』(ベケット)
『授業』(イヨネスコ)
『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ)
『アマデウス』(ピーター・シェファー)
『サド侯爵夫人』(三島由紀夫)
『毛皮のマリー』(寺山修司)
『夕鶴』(木下順二)
『赤ずきんちゃんの森の狼たちのクリスマス』(別役実)
『熱海殺人事件』(つかこうへい)
『上海バンスキング』(斉藤燐)
『赤鬼』(野田秀樹)
『マシーン日記』(松尾スズキ)
 ……

なんて感じに、たしかに古今東西の演劇の代表作は、これでカバーできてしまったのではないか、と思いかねないような豪華なラインナップです。

でも、もちろん、そんなわけはありません。コウカミさんの、あの、のっぺりした仔豚のような顔が、信用なりません、僕は昔から。……でも、なんだか、かっこいいんだよな。

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三島由紀夫の『サド侯爵夫人』について語りながら、そのなかにある名セリフをこの本に引用できないこと(三島さんのご遺族はとっても厳しい方なのです。)について言訳をつらねるなかに、こんなふうにコウカミさんの演劇への愛みたいなものが、さらりと語られます。

あるいは『ゴドーを待ちながら』に関して。

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このあざとさが鴻上尚史の“毒”です。しかもこのあとに、「自分で言いますが、分かりやすい方法ですね。この分かりやすさがいいのか悪いのかはよく分かりませんが」と書いています。いけしゃあしゃあと。

で、「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバーできる、と断言しましょう」……「ありえね〜!」

けれど、根っからの芝居バカ鴻上尚史氏の「あざとさ」と「愛」が堪能できます。そして、たしかに、「これ一冊で、古今東西の演劇の代表作は、カバー」、できます。(この句点の多さが、すばらしい!)

演劇の楽しさを、どうぞご堪能ください。そんな一冊です。とっても贅沢。このパラグラフだけは、ほんとうの感想です。コウカミさんがあとがきで書いているように、ぜひ続編が刊行されることを祈ってやみません。

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紙の本

紙の本人間失格 改版

2005/01/12 03:32

人の生き死にを見つめた太宰さん(1)

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

          死のうと思っていた。

 太宰治の処女作品集『晩年』の冒頭に置かれた「葉」の書き出しである。
 その直前にヴェルレーヌの詩がエピグラフとして置いてある。

          撰ばれてあることの
          恍惚と不安と
          二つわれにあり    ヴェルレエヌ
                    
 なんだかとても妙なバランスである。
 そして「葉」のおしまいの一行はこう。

          どうにか、なる。

 たしかにそう、そう言ってみるしかないところだ。
 作者自身、ことによると「どうにか、な」ってしまったようなのだからおっとろしい。

 「大庭葉蔵」という主人公の名前が初めて読者のまえに登場するのが『晩年』所収の「道化の華」。

         「ここを過ぎて悲しみの市」

 これが劈頭の言葉。
 五行ほどあとに「大庭葉蔵はベッドのうえに坐って、沖を見ていた。沖は雨でけむっていた」と書き付けたあと、太宰はこんなふうにお道化てみせる。

>

 狂っている。ロマンティックな甘やかさが感じられる。それに比べると『人間失格』は、途方もなく深い。
 『人間失格』のなかに、葉蔵が小学校時代に体験した「震撼」すべき体験が描かれている。(この箇所は、山田詠美が『ぼくは勉強ができない』という素敵な青春小説のなかでさりげなく引用していたりする。)

>

 この竹一という「白痴に似た生徒」が葉蔵に教えてくれたものの一つがゴッホの自画像、竹一曰く「お化けの絵」。
 そんな太宰治の「お化けの絵」は「死のうと思っていた」と始まり、『人間失格』でいまだかつてない深みに達する。そんな太宰の死をうけて、坂口安吾は「不良少年とキリスト」というエッセイを書いた。そんなキリストについて太宰治は『走れメロス』所収の「駆込み訴え」に、裏切り者ユダの口を借りてこんなふうに書いている。

「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。はい。厭な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ」

 ユーモアが炸裂!
 ふと、「粗にして野だが卑ではない」なんて言葉が思い浮かびました。

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紙の本

紙の本舞台の水

2005/01/22 01:02

太田省吾はエリック・サティのように、「各人が自由に自分の足跡を残せる、白い路を示してくれる」(ジャン・コクトー)。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

鈴木忠志とともに日本の現代演劇を精緻な理論で支えてきた演劇人、それが太田省吾である。僕は彼らの舞台を見たことがない。ただ彼らの本を読み、折に触れて読み返しながら、たしかになにか力強いもの、希望のようなものを感じ、受け取ってきた。それによって生きやすくなったかといえば、むしろ逆であるようなのだけれど。すべてが崩れ落ちてしまいそうなとき、彼らは“そこ”からスタートすることができる“時空”のおとずれを、静かにささやきかけてくれる。

太田省吾は『劇の希望』(『舞台の水』入門篇)のなかで「劇的」なるものを疑う。「劇表現の自由」を得るために「劇的素材」と「劇的手法」を疑う。

>

>

彼は哲学者・竹田青嗣の言葉を引きながら論を進める。

>(竹田『問題としての昭和』)

「信」の問題を回避するとき、「劇」は「人生の退屈な部分を削除したもの」(アメリカの某テレビ局の社長談)になる。しかしそれは「芸能」の方法である、と彼は言う。

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吉本隆明の『空虚としての主題』を引いたうえで、太田省吾は言う。(彼にとって、「物語」=「劇的」なるものである。)

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この路の先にたとえば、宮沢章夫の『不在』という、『ハムレット』を下敷きにした小説が書かれている。

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紙の本

紙の本プレイバック

2005/01/14 04:14

静寂。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

レイモンド・チャンドラーの小説が優れている点のひとつは、その余韻の静かな味わいにある。どの小説を読んでも、余韻の静けさをあなたまかせにしてしまうことなく、丹念に、それでいて押し付けがましくない「おわり」を書き込んでくれている。物語が終れば、事件が解決すればそこで終りというわけではないということを、彼はとてもよく理解していて、そういうことをあまりよく理解していないように思える人々の思いや行動が世界を息苦しい場所にしてしまっていることを、やさしく語りかけてくれる。

「強くなければ生きていけない。やさしくなければ生きていく資格がない」というフィリップ・マーロウの有名な台詞も、そんな静かな余韻のなかで語られる。

“If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive.
If I couldn’t ever be gentle, I wouldn’t deserve to be alive.”

「おわり」の「おわり」。レイモンド・チャンドラーの遺作『プレイバック』には、他の作品にはない息苦しさがある。終らせることの困難に真っ向から挑んでいるような、息苦しさが全編に漂っている。世界の息苦しさが、チャンドラー自身にまとわりついて離れない、そんな印象さえある。死の予感さえあるのかもしれない。

「私ほどの歳になると、楽しみはほんのわずかしかない。はちどりとか、ストレリチアの花のふしぎな開きかたとかいったようなものだけだ。なぜ一定の時期になると、つぼみが直角に向きを変えるのだろう。なぜつぼみが徐々に裂けて、花がいつも一定の順序で開き、まだ開いていないつぼみのとがったかたちが小鳥のくちばしのように見え、ブルーとオレンジの花弁が極楽鳥のように見えるのだろう。神さまはどんなにかんたんにもつくれたはずなのに、なぜこんなに複雑につくったのだろう。神は万能なのだろうか。万能といえるのだろうか。世の中には苦しみが多く、しかも、多くの場合、なにも罪のないものが苦しんでいる。母うさぎがいたちに追いつめられると、子うさぎを背中にかくして、みずからののどを咬みきられるのはなぜだろう。なぜそんなことが行なわれるのだろう。二週間もたてば、母うさぎは子うさぎを見わけることもできなくなるのだ。君は神を信じているかね」

ホテルのロビーで、ヘンリー・クラレンドン四世とかいう老人がマーロウに語りかける。事件とは無関係な長い長い与太話。マーロウは「ながい廻り道だが、どうしてもこの道を通らなければならないようだった」とひとりごちる。一読者としては、まったく退屈ではない。

クラレンドン四世は長い与太話に終止符を打つようにして、おだやかに言う。「私はいつも際限なくおしゃべりをするが、自分の声が聞きたくておしゃべりをしているのではない。だいいち、みんなの耳に聞こえるようには聞こえない。なにかしゃべっていると、礼儀を失しないで人を観察することができるのだ」……「私は握手をしないよ」……「わたしの手はみにくくて、いたいたしい。だから、手袋をはめているのだ。おやすみ。もうお目にかかれなかったら、幸運をいのる」

まだ事件は終っていない。そして(しかし)すでに静かな余韻が漂い始めている。というか、260頁あまりの小説の四分の三を終えたばかりだというのに、静かな余韻にどっぷりと浸り込んでしまっている感じさえする。マーロウは自分に言い聞かせる。「ヘンリー・クラレンドン氏はなかなか抜け目のない人物である」と。

そんなわけで、やはり『プレイバック』はとても素敵な、とてもチャンドラーらしい小説だと思います。僕は一番好きです。もしかすると『長いお別れ』より好きかもしれないぐらいに。

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紙の本

紙の本なにもない空間

2004/12/17 06:39

演劇を語るなら。演劇を語るのではなくても。

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『なにもない空間』の冒頭の一節以上に、演劇行為を鮮やかに文章化したものは、存在しない。

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言語もまた、演劇行為の似姿として語られる。冒頭の一節のヴァリエーション。それはピーター・ブルックにとって生と演劇が切り離せないものだから。そして生と演劇は完全に溶け合うことなく、常に彼自身のなかで鋭く矛盾・対立している。彼はその矛盾を決して誤魔化さない。その矛盾の強烈さこそが力の源であり、輝きの源であることを信じているから。

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1)商業主義に毒された退屈きわまりない「退廃演劇」を脱して
2)不可視のものを可視化しようとする「神聖演劇」(たとえばグロトフスキー、ベケット)と、大衆演劇の猥雑なパワーに溢れた何でもアリの「野性演劇」(たとえばブレヒト)両者の力を二つながらに、その矛盾込みで保持しながら
3)「直接演劇」(たとえばシェイクスピア:「目に見えぬものに向かって必死の緊張をしたあげく、敗北に直面し、大地に突き落とされ、そしてまた始めからやりなおさなければならない」)へと至る。

そんな道筋を素描してみせたうえで、ブルックは『なにもない空間』に明確な区切り目をつけるようにして、一つの作業仮説を提示する。

<演劇=RRA>
Repetition(反復、稽古)
Representation(提示、表現、上演)
Assistance(援助、列席、観客)

読書空間(=もうひとつの「なにもない空間」)において示された<演劇=RRA>という作業仮説。それは、彼自身の生と不可分なまでに絡み合った演劇に関して、読者ひとりひとりの実践のなかで試され書き改められてゆくべきものとして発せられた、「生」そのものへの問いかけの言葉であり、仮初でありながら途轍もなくパワフルな虹の階梯である。

役者にとって、芝居が「反復」から「表現」に変わるためには、観客の「援助」が不可欠だ。そして観客は「援助」という形での積極的な「表現」への関与を通して、反復的な外界での生活を脱し、明瞭でありかつ一瞬一瞬が充実した生という特別の場所へと移し変えられる。(もちろん、役者も観客も決して特権的な場所にいるわけではない。)

演劇人ピーター・ブルックの言葉の、この炸裂具合!

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紙の本

紙の本夜と霧 新版

2005/03/03 22:39

夜と霧のなかへ。

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『表層批評宣言』という本のなかに、「人は、問題を、思考し行動することの善意によって埋めるべき部分的な欠落だと思い、解決がその欠落を充填することの最終的な結論だと思いがちである。……なぜ思考はそうまでして執拗に欠落と戯れたがるのか。理由は簡単である。誰も、欠落を真の頽廃とは思わず、いつかは必ず何らかのかたちで埋めうるものと信じるがゆえに、それを本気では恐れていないからである」という文章がある。

ともすると物事を抽象化して語りたくなってしまう(「この欠落を埋めるためにXをすれば、人は正しい方向へと向かうはずだ」云々)、そもそも言葉は抽象化するものなのだから仕方ないじゃないか、でもそれはまずいのです、そのことで傷ついてしまうものが必ずある、そのことにあまりに人は鈍感すぎる、あるいは敏感すぎるから耐えられずに顔を背けてしまい、いつか忘却してしまいかねない……「ホロコースト」というふうに、あるいは「ナチスによるユダヤ人(だけではない)大量虐殺」というふうに、それとも「当時ユダヤ人はドイツにかぎらずヨーロッパ各地で憎悪の的となっていた、狂った時代だったのだ、そこから私たちは学ばねばならない」というふうに……いかように表現しようとも、そこでは何かが確実に欠落しつづけ、何かを決定的に損ない、傷つける。ぼくはいくら無理をしても「当事者意識」をもてない、無理に「当事者意識」をもてたのだと錯覚して熱く語ることは騙すことであり、裏切りだと思う。「外部」にいるわけではないのに、語ろうとするときに「外部」からの言葉を装わなくては語ることのできない(許されない?)自分がいる。

>(129頁)

この文章をたとえば今の“自分”(あるいは誰か)と重ねて読もうとするとき(「読む」ということは、多かれ少なかれそういうことを含むと思うのですが)、そこには(乱暴な言い方をすれば)収容所の「外部」から読んでいる自分がいる。

自由はいつも「外へ」という志向をもつように思える。囲いのなかで「外へ」と志向しつづけることが「自由」の姿なのではないか、と思いもする。「外部」がないのではなくて、自分が「外部」にいて、どうしても囲いのなかに入ることが不可能な状態におかれているように思える、だから自由に語ることができないのかもしれない。

レヴィ族というイスラエルの一部族名に由来する名前をもつエマニュエル・レヴィナスという思想家は、「ホロコースト」を抽象的な(乗り越えられるべき)問題としてではなく、具体性において(いま、ここにおいて?)考えるべく促す文章を紡ぎつづけた人だと思うのですが、彼が「他者」といい、あるいは「顔」といい、「自由」というとき、そこにはたしかに「ホロコースト」があると感じる。

>(レヴィナス『存在するのとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』)

両親の生、妻の生、子供たちの生を収容所に奪われ、ひとり収容所の「外」を生きのびることを余儀なくされたフランクルの言葉に耳を澄ませる。そこにレヴィナスがあのような難解に思える文章(エクリチュール)を紡ぎつづけたことを重ねつつ、「自由」について、抽象化への抗いを忘却することなく(できるかぎり「内」において)考える。

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紙の本

紙の本茫然とする技術

2005/03/03 05:45

「ファミリー。」(本書所収)について思うこと。

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松田優作ファンとしては、なんだか腹が立ってこなくてはいけないところなのかもしれないと思いつつも、(そこはかとない?)すがすがしさが残ってしまうのだ。いったいなぜなのか。それは大阪芸人井上まーの尾崎豊ネタをはじめて見たときの尾崎豊ファンの心情に少し似ているようにも思う。しかし、ここで「愛」というような言葉を口にしたなら、宮沢章夫はしれーっとした目で遠くを見やるに違いない。井上まーには尾崎への愛があると言いうるように感じるが、宮沢章夫に松田優作への愛があるとは、これっぽっちも思えない。許せなくなってきそうだ…許せねえ! ゆうさくをばかにしやがって……と、そんなこだわりを受け流すようにいつのまにか話題は変わり、「サニーサイドアップ」という初老の男の発話行為が俎上に載せられる。場面設定は近所の喫茶店。

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宮沢流のおかしみが広がってくるのは、たとえばこんなところである。「目玉焼き」……たしかにすごいことになっている。ここでかんぜんに脱力している。もう怒りの種さえ見当たらない。と、そこまできておもむろに、松田優作の「ファミリー」は初老の男の「サニーサイドアップ」とは違って、つまり単なる「意味もなく英語で表現する違和感」の問題ではなくて、その「いかにも、『いかした感じ』が、『いかしてる』だけに、恥ずかしいのだ」と、松田優作をさらに叩きのめすのである。許せない、と思う。書いていて思うのだ、これを。しかし読んでいるときはそうではない。ここが宮沢章夫のすごさである。おまけに細やかな気配りを忘れない宮沢氏は、ここでNHKのアナウンサーの話に転じて、松田優作フリークの怒りを逸らしてみせる。スノーボードの世界で使われるらしい「クール」という言葉にまつわる話題(妄想)をひとしきり展開してみせるのだ。で、最後はやはり「ファミリー」である。なにせタイトルが「ファミリー。」なのだから仕方ないのだが、それにしてもこれは死者に鞭打っているのではないか、ゆうさくぅぅぅぅ、と涙が流れてくるではないか……。で、気づく。含羞。宮沢章夫の含羞。「恥ずかしい」という感覚、その自然な発露(?)これなのか、と。これが、あのおかしみの源泉なのか、と。そうに違いないのだ、と。これでもかこれでもか、と。

こんなふうなエッセイが並んだ一冊です。そして宮沢章夫の処女小説「サーチエンジン・システムクラッシュ」につながるような、コンピュータにまつわる文章も満載。お買い得な一冊だと思います。

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