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栄助さんのレビュー一覧

投稿者:栄助

13 件中 1 件~ 13 件を表示

紙の本

紙の本靖国問題

2005/06/22 12:57

哲学者としての誠実さと徹底性

33人中、30人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書には、bk1でも多くの書評が矢継ぎ早に寄せられている。それだけ、靖国問題が政治上の大問題であり、本書がそれを理解するために、重要な論考であることを示しているように思われる。私も、書評に触発されて、思わず手にとってしまった。

こういう問題を論じるときに私が大切だと考えるのは、立場を明らかにすること、論証は公正にすることだ。本書は、その点に誠実さを感じた。
日本国民に問われている問題に対して、「中立」「客観的」を装って、日本国民が論じたものに、私は魅力を感じない。それは、読者をミスリードする欺瞞ではないだろうか。その点、本書の著者の立場は、明らかだと思う。侵略と植民地主義の過去に向き合い、平和を実現するという態度は、明白に思える。
論証の公正さ、という点でも、首相の靖国参拝に反対するような、著者に都合のいい声だけを集めたわけではない。靖国参拝を求める遺族の強い感情を受け止めるところから始めており、哲学者としての誠実さを感じる。靖国参拝を肯定する議論にも堂々と受けて立っている。新書の役割と限界から、記述は絞られているが、「〜である」「100%間違いない」などと不用意に断定せず、相手の主張も論拠としてしっかり引用されている。

第5章「国立追悼施設の問題」では、良心的配慮から出てきた案に対しても、真の解決の道を探ろうと徹底して認識を深めていく姿勢を学ばされた。
著者は、無宗教の追悼施設をつくったとしても、国家の姿勢によって、「追悼」から「顕彰」(戦争行為をほめたたえること)へ転換し、「第二の靖国」化してしまうという警鐘をならしている。現実の日本においては、新たな戦争へ踏み出す道になり得るという鋭い指摘だ。

「非戦の意志と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を絶つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要がある。…したがって、国家に戦争責任を取らせ、将来の戦争の廃絶をめざすのならば、まずなすべきことは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である」

著者の言葉が胸にささった。
私は、相手の靖国論争に乗せられる形で、新しい追悼施設を論じることは、「追悼」と「顕彰」の両義性をもつ妥協の産物になりかねないと考えていたので、本書によって、さらに認識を深めることができた。著者・高橋哲哉氏のことは、好きでも嫌いでもなかったが、かなり共感を抱くようになった。

靖国でまだ一つ疑問なのが、アメリカとの関係だ。
靖国神社は、日本の戦争を正当化する。当然、相手は悪役になる。靖国の矛先は、アメリカにも向いている。実際に靖国神社は、太平洋戦争開戦の原因は、アメリカの謀略と挑発にあったという認識を持っている。なぜアメリカは、これを見過ごすのだろうか? アメリカとの信頼関係も損なわれているのではないだろうか?
小泉首相はじめ自民党「大物」が、こぞって靖国参拝をしているが、「ホワイトハウス参り」もこぞってしている。どう自分の中で整合性がとれているのだろうか? 民主党国会議員も靖国参拝し、アメリカとの「友好」のパイプづくりに必死な点では、大差は無い。
おそらく、アメリカが、日本に憲法9条の「改正」と参戦を求め、日本の軍事化がアメリカへの従属と一体なものになっていることと、無関係ではないだろう。アメリカが文句を言わないので「問題」になっていないから、本書では取り上げられていないが、ぜひ知りたいところだ。

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紙の本

歴史に正面から向き合うとき

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この取り組みは、日本はもちろんのこと、中国、韓国の歴史認識の不十分な点についても克服を要求し、東アジアに未来をつくるものになるだろう。難事業に正面から取り組んでいる編著者に、まずは敬意を表したい。歴史認識の共有は、「過去の克服」を目指す歴史学者同士でも、容易なことではない。

例えば、米軍の原子爆弾投下について。歴史的犯罪なのだが、中韓では、戦争を終わらせた「いいこと」だという認識が、かなり影響力を持っている。現在の安全保障とアメリカの行動を考えれば、いちばんのネックといえる。日本の侵略への断罪に夢中になるあまり、自らの安全保障の土台を崩すことになりかねない。実際、東アジアでは、核こそが安全保障の焦点なのだ。6ヶ国協議参加国のうち、すべての国が核兵器を盾にしかねない状況だ。(日本、韓国にもアメリカの核があるのは、否定できない)

また、韓国では、日本が現在は憲法9条を持ち、基本的に戦争を放棄していることなどへは、ほとんど言及がない。中韓にとっても、日本が9条を持っていることは、東アジアの安全保障に重要な意味を持つわけで、本来、日本の侵略と、同程度に重要な事実ではないだろうか。

こういう中韓の歴史認識の「不十分さ」はどこからくるのか。一つには、歴史学の発展の「未熟さ」を挙げることができるだろう。
韓国の場合、近代になって以来、まともに歴史研究をできる環境は、ここ2、30年というところだろう。戦前は、日本に併合されていたわけだから、朝鮮半島のなかで独自に展開した政治経済、文化を研究するなどということは、問題にならない。戦後も、不幸にも長らく軍政の政治体制が敷かれ、はっきり言って、つい最近まで北朝鮮とたいして変わらぬ、物言えぬ国だった。
中国についても、文化大革命から天安門事件と、比較的自由に研究者が研究を進められるようになったのは、やはり、最近のことだろう。
しかし、戦前の中韓の歴史学の発展を中断させたのは、日本に直接的原因がずいぶんあるわけだし、それが戦後の状況の一因になっていることまで考える必要がある。

二つには、一つ目に関係するが、政治体制への不満のはけ口への利用のため、あえて不十分に記述されてきた面は、全面的には否定できない。

しかし、三つ目に、重要なのが、「あの戦争は正しかった」とする侵略戦争正当化の流れが、日本の政権の中に根強くあることに最大の原因があるということだ。
小泉首相による靖国神社参拝という問題は、言葉では反省するが行動ではそれを裏切る典型だと言えるだろう。靖国神社の性格について一言すれば、戦没者の追悼ではなく、「英霊の顕彰」すなわち、戦争行為をほめたたえ、侵略の「汚名」をそそぐことにある。その神社に参拝しておいて、「反省はしているから誤解するな」といっても無理な話だ。
近年、このナショナリズムを煽る傾向は、アメリカに従属しながら憲法9条を変えて戦争できる国にしようという動きと、連動している。日本のナショナリズムも、アメリカへの従属という売国的行為へのはけ口と言えるのではないか。

以上のような、東アジアの互いの認識の齟齬を、安全保障の構築という点からも、修正することが求められている。だからこそ、中韓でも発行されるのだ、もちろん中心は、日本が「過去の克服」をするということなのは、忘れてはならない。
そのことが、中韓のなかで真面目に民主的政治をもとめる人たちを助けることになることを私たちは認識しよう。日本の侵略戦争を正当化する言動によって、国内問題の解決をはかる契機を邪魔されつづけている。
この取り組みが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」するという、日本国憲法を実現する一歩になると信じる。

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紙の本

紙の本温暖化の〈発見〉とは何か

2005/07/11 15:06

この本の続編を書くのは私たち

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いまや常識になったCO2が温暖化の原因であるという認識が共有されるまでには、長い歴史があった。気候という複雑な分野を思えば、案外短いのかもしれないし、切羽詰った温暖化問題を考えれば、長すぎただろうか。
 地球温暖化が、理論的可能性として発見されてから、現実的な緊急の課題として発見し直されるまでの、科学者たちの地道な努力のあとが、社会背景も交えながらまとめられている。

 本書を読むと、必ずしも出来事の起こった年の順に、順序良くは並んではいない。それは、温暖化の科学が、様々な分野の研究に結びつく学際的なテーマだからだと気づく。温室効果、CO2の増加、火山、太陽の黒点サイクル、極地の氷床コアの削りだし、海洋の循環、浮遊粒子や雲の影響、計算機モデルの発展、火星や金星の観測…。あげればきりのない研究が、それぞれはお互いを意識するわけではなく、同時並列的に続けられ、温暖化の科学を形成した。巻末には、簡単な年表も載っているので親切だ。
 私の友人が、温暖化の原因について太陽黒点周期説に熱を上げているのだが、実は温暖化研究の初期から、太陽説とCO2説のたたかい?だったことが分かった。結論から言えば、気候は微妙なバランスの上に成り立っているので、太陽の微細な変化でも「フィードバック」(連鎖と循環による増幅)を起こし、別の気候に「ジャンプ」する。それは、太陽の変化以外の原因でも起こりうる。つまり、現在の産業活動によるCO2の激増は、気候を変化させるのに十分な要因だということだ。
太陽原因説を唱える人の問題なのは、「温暖化の原因は、CO2だけではないかもしれない」→「CO2ではないかもしれない」→「CO2ではない」、という具合に、話すうちに「だけ」と「かもしれ」が抜け落ちてしまうことだ。友人の彼を納得させるのにいい本を見つけた。

 戦争と平和・国際協力、産業発展と政治などとの関係から読んでも面白かった。
何が軍事技術に転用できるか分からないという理由から、あらゆる分野に科学振興がおこなわれ、特に気象学が軍事作戦に欠かせないという理由から優遇されていた。しかし、温暖化のような地球規模の長期的変化の研究は副産物でしかなかったし、地球規模に研究するには、軍事対立は邪魔になる。戦後の国連を中心とした(たとえ建前だとしても)国際協調が気候科学を育てていった。
 現在のテキサスの石油産業のために京都議定書から脱退したアメリカ・ブッシュ政権を見ればすぐに理解できることだが、問題が政治と直結し、研究費のスポンサーの問題もあるだけに、巻き込まれることを恐れて慎重だった科学者たちが、はっきり発言するようになるのは、そうとう勇気のいることだったと分かる。そこで大切だったのが科学者と一緒に歩いてきた一般大衆の存在だった。戦争を否定する新しい国際秩序のなかで、長期的見通しを立てて暮らせることも大切だった。

 地球規模の気候の科学は、実験で確かめるわけにいかないので、どこまでも「不確かさ」は残る。しかし、「これだけは言える」ということだけで、CO2
削減のために行動しないといけないことは十分理解できる。問題は、自分には何ができるかだが、本書は、ほとんどの人が「自分には個人的には何もできない」と思っていると指摘している。確かに「個人的に」できることはない。
 しかし、よく見れば、温暖化防止に行動することを激しく拒否する人がいることに気づく。消極的に足を引っ張る人がいることにも気づく。そういう人こそ、本来、温暖化を防ぐためにできることがある人なのではないだろうか。そういう人を動かす、絶対に動かないなら交代させることが、私たちにできることの一つなのではないだろうかと思う。
 本書では、温暖化が発見されるまでが書かれたが、その後にどんな物語を続けるかは、私たちにかかっているだろう。

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紙の本

紙の本地球環境問題の政治経済学

2005/07/14 14:53

環境問題の「問題」を解きほぐす

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 環境問題の本というと、実態リポート、破滅的未来予測、「今こそ力を合わせるべき」という精神的訓示がそのほとんどを占めている。しかし、それだけでは解決の道は見えない。
 環境問題の実態は、解決しなければ未来がないということまでは、すでに理解されている。自然科学的原因についても、解決策を講じるのに十分な程度理解されている。とすれば、環境問題で「問題」なのは、なぜその解決策が手遅れギリギリまで実行されていないのか、ということになると思う。
 だから、環境問題を理解したければ、実態報告、自然科学的解明に加えて、「問題」を生み出す社会構造の解明が必要になる。本書は、「解決策の具体化をめぐる政治経済的な諸利害の対立という現実」を整理し、どのような新しい諸関係を構築するべきか検討している。環境問題が10年ごとに大きく展開しているが、本書は92年に出版されているものの、内容に古さは感じさせない。問題の根本を捉えているからだろう。

 本書の特長の一つは、「地球環境問題」を5つのタイプに分けているところだろう。一言に「地球環境問題」と言っても、様々な問題が様々なかたちで進行している。本当に解決しようと思うなら、問題が起こる構造のタイプで分けて検討しないといけない。この整理によって、問題をよく理解することができる。
 本書を読めば、原因は、先進国の(特にアメリカと日本の)経済成長優先主義にあると分かる。それも基本的には、初期の公害問題を起こした構造を解決せずにズルズルときているというから根が深い。しかし、発展途上国との関係を見ると、単純な構図ではないことも分かる。
森林破壊も、砂漠化の進行も、有害物質の排出規制が甘いのも、発展途上国の行為によってなのだ。一見すれば、発展途上国にも問題がある。確かに、たとえばマレーシアのマハティール元大統領は、非同盟諸国のリーダーでもあったが、開発主義者でもあった。
 しかし、また発展途上国を環境問題の発生源に陥らせているのは、やはり先進国に起因するものだというのも、本書で理解できる。マレーシアの熱帯林から伐採された木材は、ほとんどが日本に運ばれているし、途上国の甘い環境規制に乗じて本国ではできないような無茶な経済活動をしているのも日本をはじめ先進国の企業だったりする。途上国の多くが、貧困から抜け出そうと、環境破壊に走らざるを得ない状況にある。
 現在の国際環境条約の方向が、先進国に環境規制を求めながら、途上国に経済主権と持続的発展の権利を認める構造にして解決を図ろうとしているのを見ると、本書の指摘の鋭さにうなずかされる。

 社会構造まで理解されたとしても、実は、それを変革するための行動がなされない限り、現実には解決しない。本書のテーマは、問題解決のための社会構造を解明することなので、どういう行動をとるべきかは、やはり私たちで考えなければならない。
 そして、終章には、私たちがどういう方向で行動するべきかという示唆もされている。それは、「地域にしっかりと根をおろす形で大きく発展していく」ことだという。地球規模の問題解決に、やはり地に足をつけて行動していくことを指摘しているのは、大切なことではないだろうか。

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紙の本

あぶない世論のつくり方

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 深く考えたことのない問題を問われたとき、「なんとなく」答えを出してしまう。
 たとえば「憲法を変えるべきか?」と聞かれたとき。しかし、答えた何人が、実際に日本国憲法を読んでいて、「どこがどうだから」と理由をいえるだろうか?

 メディアで見聞きしたことを「なんとなく」受け入れて、自分の意見にすることを「パロティング」と呼び、研究したのが本書だ。

 朝日、毎日を購読している人と、読売を購読している人では、まったく別の社会の住人のように意見が違うという調査結果から、この本の研究は始まる。
 朝日、毎日、読売の見出しや記事を比べると、ある問題について肯定的か批判的か、偏りがあるというのだ。そして、その方向付けと読者の意見に相関関係が認められる。

 日本では長らく大新聞の内容は同じだという「神話」があった。自分の意見に合わせて新聞を選ぶことは、最近までほとんど意識されていない。
 そう考えれば、「自分の好みの新聞を読んでいる」のではなく、「新聞に意見が影響されている」ことになる。
 この指摘を読むと、自分の持っている意見を振り返りたくなる。

 著者は、新聞が見解を発表することを認めている。しかし、今まで大新聞が「公正・中立」「客観的」であると標榜していながら、日本の一紙購読という社会状況を利用して一定方向のキャンペーンを張ることを批判している。
 ここで批判されている、特に読売の方向とは、政権の行動に対して現状追認的な態度だ。
 だからといって、朝日を賞賛はしてるわけではない。朝日は、重要な場面で批判のトーンを落として、政府を後押しすることすらある。

 メディアの本来の役割は、いま進みつつある事態に対して、立ち止まり疑問を投げかけ、多様な意見を紹介することで、権力をチェックすることにあるはずだ。
 なぜ、日本のメディアが、現状追認的なのか。それを、戦後の日本社会の再編成までさかのぼって考察してるのが興味深い。

 日本には東西対立の最前線として、アメリカの強い影響の下、政権交代を許さない親米保守政権の体制がつくられた。それが「55年体制」だ。これは他のアジア諸国にも共通している。
 メディアは、戦前の政権追随の性質を温存され、同じ社名のまま残された。ドイツの戦前の新聞が、すべて廃刊になったのとは対照的だ。

 しかし、この本の分析に感心して済ませて入られない。いま世界は大きく変わろうとしている。
 同じ親米保守政権の国々も変わってしまった。東南アジアの独裁政権、軍事政権はどんどん倒れていった。
 イラク戦争のあと、イラクに軍隊を送った東南アジアの国(それも少数派だが)は、すでに撤退させた。いまは1国も軍隊を送っていない。
 ASEM会議では、アメリカを抜きにして、アジアとヨーロッパで国際問題を話し合っている。日本も参加したが、小泉首相の居住まいの悪そうなこと。

 ソ連が崩壊して超大国はアメリカだけになった。しかし、世界はアメリカ色に塗りつぶされはしなかった。
 いまだに、アメリカ中心に外交する日本。そのまま現状追認する報道を見ているだけでは、置いていかれそうだ。
 では、私たちは、どうすればいいのか?

 それは「クロス・メディア・チェック」と「論理チェック」という方法だ。
 情報ソースを一つに頼らないで、複数を見ながら、自分で考えるということだ。私たちは、買い物をするとき、買いたいものの情報を様々なところから集めて、比較する。同じようにして、政治や社会の問題も考えればいい。

 私はもう一つ、様々な問題でディスカッションできる関係を周りにつくるべきだ、と付け加えたい。
 一人では興味の範囲に限界がある。そして、範囲の外は「他人事」に見えるものだ。この「他人事」の感覚が「パロティング」を生む。
 コミュニティーというリンクをつくれば、きっと「他人事」を減らしてくれるだろう。

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紙の本

紙の本フリーターとニート

2005/08/29 13:01

フリーターと失業者とニート

17人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近の、ニートを中心として論じる青年の労働問題で、抜けていると感じるのは、ニートとフリーターの間に「失業者」があるということだ。ニートは、やる気を出しても、直ちに就職するわけではない。まずは就職活動を始める、つまり、失業者になるだけだ。
 現在日本には、少々減ったとはいえ、300万人以上の失業者がいる。就職活動をしても1年以上長期的に失業し続けている人が100万人近くいる。青年の失業率は、全体の2倍、10%近くある。そんな状況で、ついさっきまでニートだった青年が、簡単に無職を脱出できるだろうか?
だから、ニートを考える場合、失業者と、失業しやすい不安定なフリーターまで、連続的に考えないといけない。

 本書の編著者は、青年の労働問題にあかるいことで有名だが、そんな理由で、『フリーターとニート』というタイトルに不安を抱きながら、手に取った。失業者をどう位置づけているか、忘れていないか。
 結論から言えば、私の不安は杞憂だった。本書の序章は、「若年無業・失業・フリーターの増加」とあり、ニート・失業者・フリーターを連続的に論じている。
 ならば、タイトルも失業者を加えてもらったほうが、誤解の余地がなくてよかった、と少し思う。たしかにイギリスでは失業者も含めてニートだが、日本での概念は、失業者とは区別されているのだから。

 内容は、若者支援団体・NPOなどを通じて、ニート〜フリーターまでの青年にインタビューを取り、実態から困難な労働状況に陥った共通点を、学校の就職支援、家庭教育などの面から探っている。「最近の若い奴は、甘いからだ」と一括りにして切って捨てるのは、簡単だろうが、真剣に対策を考えるならば、こういう地道な作業を通して、実態に迫ることが必要だろう。
 それでも、サンプル数は51と多くはない。どれほど、彼らに接触することが困難か、うかがうことができる。ニートとは社会的に排除された青年のことを指す概念なわけだから、大変な作業だろう。分析が少しこのサンプルを絶対視しすぎている観もあるが、サンプルを集めた苦労は評価できる。

 本書を読んで分かるのは、いったん既存の就職コースを外れたら、相当の幸運がない限り、正規雇用は無い、ということだ。しかも、その既存の就職コースに十分な雇用が用意されていない。地方の高卒就職希望者は、優秀でも就職が無い現実がある。
 雇用状況が良ければ、彼らのほとんどは、ニート〜フリーターの状態に落ち込むことはなかったかもしれない。それが、雇用の悪化・劣化にともない、彼らを取り巻く様々な社会的基盤が脆弱だったため、ふるい落とされた。

 対策の方向は、コースを外れた青年にどんな支援が必要か、ということが論じられている。言い換えれば、既存のコース以外に、新しく多様なコースをつくる必要性が説かれている、といっていいだろう。それは、たしかに必要なことだ。労働者が就職したら最後、一つの企業に一生人格ごと縛り付けられる既存の日本型就業形態には、疑問を感じるところが多い。
 しかし、本当に青年の労働問題を解決させようと思ったとき、本書にあるものだけでいいのだろうか? 率直に、なぜ雇用が悪化・劣化しているのか、そこを問う必要があるのではないだろうか。つまり、産業構造そのものに論を進めなくてはいけない。

 本書が雇用の悪化・劣化の原因と解決の問題に切り込んでいないからといって、価値をなくしたわけではない。ただ「甘い」という理由にされてきた問題を、実態から迫ることによって、社会の問題という議論のうえに乗せた。そして、本書が説いた、多様な就職への移行コースを構築することは、やはり、雇用の改善を待つことなく、始めなくてはいけない。その意味で、本書の提言は貴重なものだ。

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紙の本

ニートにとっての希望

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 こういう年配者がいることが、若者にとっては希望といえるかもしれない。
 著者は、若者支援者として年間200人以上の引きこもりやニートと接している。青年労働問題の研究者と比べても、圧倒的に現実を実感で理解しており、ニートの分析が説得力をもって語られている。
 ニートへの接し方も、とても共感的だ。著者は、自身もニートだったと告白する。これは、お金に余裕があった上での隠居だから、ニートと呼べるとは思えないが、ニート状態の青年と自分の接点を探して理解しようとする姿勢として、好感が持てる。

 著者は現場の人間であって、研究者や政策立案者ではない。だから、読む前に私が期待したのは、現場で接したニートの実感までで、なぜニートが生み出されるかの追究までは求めていなかった。しかし、著者は、自分がつぶさに見てきた時代の変化から、ニートをつくりだす社会構造の問題に踏み込んで発言している。
 著者の見解を端的に言えば、不況を乗り切るためと称して弱肉強食路線を強め、企業にとって都合のわるくなった正社員をリストラし、簡単に解雇できる派遣・契約・アルバイトなどの非正規雇用に置き換えたことに、ニートを生み出した根本的な原因がある、ということになるだろう。そして、労働者とくに若者を、「歯車」ですらない、容易に交換可能な「パーツ労働力」として扱う企業社会に批判的な態度をとっている。
 いまの社会で「人材」という言葉を耳にするとき、鋼材やセメント材以下の消耗品的な響きを感じる。著者の鋭さに驚きながら、読み進めた。

 ニートになっている青年の長所を「スロー」なこととしているのも、逆転の発想で面白かった。スローなことは、福祉・介護の分野では、非常に力を発揮するのだそうだ。考えてみれば、現在進んでいる極端なまでに効率を追求する「改革」のなかで、切り捨てられているのが、福祉・介護であり、ニートになった彼らだった。
 私は、この部分を読みながら、義務教育のなかで一時期、いかに企業の効率化に順応できるかを性格の面からも点数化して成績表をつけるという恐ろしい試みがあったことを思い出した。やはりニートは、意図的に「改革」でつくられたのではないか。そしていま、「スロー」なことは、グローバリゼーションへの対抗として、世界的にも見直しが起こっている。

 しかし本書で限界を感じざるを得ないのが、ニート問題の解決の方法が、その弱肉強食の企業社会と並存する居場所づくり、「雑居福祉村」という発想だ。地域コミュニティーの構築という意味では、完全否定するつもりはないが、どうしてもユートピア的に見えてしまう。ニートを生み出す社会構造を指摘しながら、それを変える視点に立っていないからではないかと思う。
 著者は、「社会力」を提起し、「社会に適応する力」「社会をつくる力」「社会を変える力」と言った。これを私は卓見だと思う。しかし、「社会を変える力」に踏み込んでいなかった。
 これに踏み込まないのは残念なことだが、政策立案者でもない著者がもともとの期待以上に問題を明らかにしたのだから、それだけで素晴らしいと納得するべきだろう。

 本書を読んで、やはり、政治が責任を果たさないといけないと痛感する。
 著者は現場の第一人者として、年間200人以上のニートと接している。それでも、日本に50万人以上という人数からすれば、微々たるものでしかない。個人の善意だけにまかせては行き届かないし、根本を変えないとニートはさらに生まれ続ける。
著者の言葉が響く、
 「終わりなき経済成長神話からいったん降りて、いまのように働く人を交換可能なパーツとして見るのではなくて、もっと人間的で一人ひとりを尊重する価値観を持った社会へと転換する必要があった」
 過去形にしないで、いまからでも実行するべきことではないだろうか。

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紙の本アメリカ依存経済からの脱却

2005/08/05 15:45

未来の見える脱米入亜の提案

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書には、戦後日本がアメリカ依存を形成する過程、このまま依存を続ける危険性と打開策が示されている。
著者は穏健に「依存」と表現しているが、読めば実態はそんなに生易しくない。さしずめ、「従属経済」とか「屈服経済」の方が的確ではないだろうか。なにせ、日本は真っ当に働いて「安くていいもの」をつくって、アメリカに輸出して得た利益を、ドル買いでアメリカに献上している。工業製品を売る代わりに農業製品を買い、国民の生命・健康にかかわる食料自給を放棄している。現在は、金融・株式を手放し、国民をアメリカの投資家・株主のために働かそうとしている。
本書は、とくに金融に関する日本の従属ぶりを十分に知ることができるので、ところどころ首をかしげる部分もあるが、満足だった。

なぜ、アメリカ依存の経済になったのか。高度経済成長が完了した70年代、日本が「健全な」成長を目指すなら、高福祉・高賃金による内需拡大とアジア共同体による外需拡大という選択肢があったのに、さらなる公共事業による内需とアメリカへの輸出による外需の拡大で切り抜けようとした、と著者は語る。
日本がそのアメリカ依存を選んでしまったのには、冷戦構造による西側陣営の分業と日本が日米安保条約によってその体制に組み込まれたからに他ならない。分業とは、アメリカがソ連との軍事的対抗のため、軍事、IT、バイオ技術などに特化し、日本とドイツが消費財を生産して補完するというものだという。
この部分で著者は、冷戦構造のなかでは、憲法9条による「非武装中立」は不可能だったのではないか、という立場のようだ。専門的な検討も必要だが、確かに、「西側」に立つなら不可能だったろう。しかし、「非同盟」による「中立」なら、あり得たと思う。実際、非同盟諸国は国連加盟国の3分の2存在している。
そして、安保によって日本は「守られている」のではなく、軍事・外交政策と国土という主権の重要部分を押さえられている、と表現したほうが適切だろう。たとえば、公共事業についても、90年代の「無駄遣い」大型開発は、アメリカの要求ではじめたというのは有名だ。郵政民営化もアメリカの要求だった。このように、日本はアメリカに政治的に従属し、財政も金融政策も立てている。

アメリカが赤字を出し続けても何とかなるのは、ドルが基軸通貨だからに他ならない。それでも、このままではどこかで破綻するのは目に見えている。実際に、イラクのようにドルによる取引を拒否する動きも起こってくる。
日本は、ドル体制を支えるために、利益を放出してドルを買い支えるばかりか、イラク戦争のような軍事行動にも巻き込まれようとしていると著者は警告する。エネルギー政策もアメリカ追随から、環境破壊の石油依存と危険な原子力政策からも脱却できない。
現実の国際情勢を見れば、ユーロが新たな基軸通貨として機能しだし、アメリカのお膝元、中南米にもベネズエラのようにドルを拒否し、しかもアメリカの干渉でも潰れない国が現れ、日本に次いでドルを支えていた中国が通貨バスケット制の研究をはじめ、ドルとの直接リンクを外すかもしれない事態になっている。このままでは、アメリカと心中することになりかねない。

著者は、EUとドイツの関係を例にあげて、日本も「脱米入亜」を果たすべきだと論じている。
著者のEUへの評価やアジア共同体形成のステップには疑問点もあるが、紆余曲折はあっても、やはり日本はアジアの一員として地域に経済貢献しながら自らも発展する道を選ぶべきだろう。そして、そのためにはドイツのように、侵略の歴史にどう向き合い、アジアの安全保障を築くのかが重要になることも指摘している。
アメリカにとっても、日本が「従属」から「友好」へ関係を修正することが、破綻への道を切り替えるきっかけになるかもしれない。

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紙の本

見捨てられた者への優しい眼差し

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 みんな薄々は気付いていた。
 中学時代の仲間と久しぶりに飲んだ、あのときだ。同じクラスだった連中の様子を聞いたなかに、彼らはいたはずだ。毎日パチンコやっている奴。就職活動あきらめて引きこもっている奴。
 はっきり言う。現場は「ニート」を知っていた。
 では、なぜこの本で「ニート」は「発見」されなければならなかったのか。

 結論から言えば、失業率を低く見せるために、失業者を「人口−“肩書き”のある人間」と引き算で定義せずに、「働く能力があって、働く意思があるけど、仕事がない人」という具合に積極的な定義をしてしまったために起きた、政府統計の失敗だろう。そのために、「失業者」という肩書きさえ持てない、見捨てられた「ニート」が統計のひずみに隠れて、無視できない大きさにまで育ってしまった。「ニート」が全て否定で定義されているのはそのためだ。

 本書は、ルポルタージュと経済学的分析という、ミクロとマクロの2つの視点から「ニート」を見ることによって、問題にひそむジレンマを巧くとらえている。
 「ニート」は個人の問題ではない、といくら力説されても、実際に「ニート」本人を前にすれば、イライラする。甘えてるんじゃねぇよ、といいたくなる自己正当化の理屈を並び立てる。このことは、ほとんど否定できない。本書のルポルタージュ部分からも著者の苛立ちが垣間見える。
 だが問題なのは、その「ニート」がたまたま存在するのではなく、日本社会全体で見ると無視できない人数であり、しかも急激に増えつつある、という事実なのだ。「解決は個人の努力で」といっている限り、「ニート」は増え続けるだろうということも想像に難くない。そして、この「ニート」が日本経済の足枷になることも容易に理解できる。何も生産されないからだ。

 この問題を真剣に解決しようとする著者の目は、優しい。近年はいて捨てるほどいる勝者のための経済学者ではないようだ。
 「ニート」。中卒(高校中退)。こういうドロップアウターに注意は払われなかった。だが、「勝ち組」「負け組」を生み出す経済システムは、一度勝っても、常に負ける可能性があり、勝負から降りる人間を必ずつくりだす。そして、それは社会に沈殿するのだ。今の日本の諸問題は、戦後60年の「沈殿」が原因の一つといえるだろう。
 敗者と降りた者に目を向け、対策することは、古くから提出されてきたテーマだが、解決策は未だない。ここに取り組む著者の姿勢は誠実だ。

 こう評価するべきはして、疑問と未解決の問題を提出したい。
 (1)本書に出てくる唯一といっていい解決の方策「14歳の挑戦」は、経済学的だといえるのか。解決策の組み合わせの一つにはなるだろう。しかし、これだけで、強力な経済現象としての「ニート」に立ち向かえるとは思えない。さらなる研究を期待したい。
 (2)フリーター以上ならいいのか。近年、「請負労働」など新たな形態で殺人的労働を強いられる問題も出てきた。本書が描く、

  ニート>失業者>フリーター>有期雇用>正社員

という図式からすれば、ずっと上であるはずだ。しかし、わずか数年で一生分の肉体と精神を蝕まれるような労働が「ニート」より上といえるのか。労働者のフリーター化、有期雇用化については問題視していないが、このことも「ニート」のように実態から迫ってもらいたい。
 (3)今の若い世代は、「ニート」になれるだけ恵まれているかも知れない。将来このままなら、国民の大半が貯蓄を持てそうにない。その時代、親の経済力に頼って「ニート」にすらなれない若者は、いったい何になるのか。想像を絶する。この経済システム自体に改革の可能性はないのか。ぜひとも希望をもてる回答を探求してほしい。

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ヨーロッパの社会運動を支えるもの

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2003年はじめ、世界中でイラク攻撃反対の大行動が展開された。特に、欧州ではいくつもの都市で数100万規模のデモ行進が起こり、「ヨーロッパ市民社会」の成熟に関心したものだった。
そんな運動に憧れ、欧州社会運動のいくつかは、すでに日本に紹介され、真似されているが、本書を読むことで、本質的なところで誤解していたことに気づくかもしれない。ヨーロッパの社会運動の理論的リーダー、スーザン・ジョージによって書かれた本書は、欧州社会運動の理論・戦略・実践を網羅した絶好の百科全書といえるだろう。

個人的な心象だが、なぜヨーロッパの市民が社会的問題に関心を持ち行動に参加するのか、という問題に対して、日本では、ヨーロッパ市民が個人として「市民としての自己」を確立しているから、と考える人が多いように思う。
しかし、個が確立していても、田舎町から都市のデモ行進に参加するのは大変だ。当時イタリアに留学していた私の友人によると、田舎町からは、貸切バスが走り、町ぐるみで参加したそうだ。つまり、「貸切バスで行こう」と話し合えるような地域単位の草の根の組織が存在したのだと思う。
本書でも、組織をつくる大切さを強調している。日本に取り入れた「新しい運動」は、ネット万能主義というか、ホームページとメーリングリストでのやり取りを中心に考える傾向や、メディアにアピールして運動を広げようとする傾向もあったように感じるだけに、フェイス・トゥー・フェイスな「草の根」の重要性を再確認させられる。新メンバーへの配慮の仕方、マイケル・ムーアの映画鑑賞をすすめるあたりは微笑ましい。

本書のタイトルだが、著者たちの運動が求めているのは、グローバリズムの全面否定(アンチ)ではなく、「民主的なグローバリズム」つまり、グローバル・ジャスティスもしくはオルターグローバリゼーションだという。確かに、社会運動の側も、相手に対抗するために、世界社会フォーラムなどグローバル化している。市民の利益にかなうグローバル化というのもあるのだろう。
意外に思ったのは、平和運動とグローバル・ジャスティス運動(社会保障系と環境系?)とは、9.11〜イラク以前は距離があったということだ。著者は、1999年ハーグ平和会議で名前も知らない平和組織に会ったことを告白している。
今では社会フォーラムなどの運動でも、グローバリズムと平和の関係は明確になっているが、最初に述べたイラク攻撃反対の大運動とは、この二つの運動が合流したところに起こったと考えればいいのだろうか。また、平和・安全保障という点では前進しているEUが、社会保障の点で市民から批判され、フランスでは憲法批准拒否にまで至った経緯もここにあるのだろうか。

ヨーロッパでは、政党との関係には、苦慮があるようだ。イギリスではブレアが労働党であり、フランス社会党のパスカル・ラミーという政治家が新自由主義の急先鋒であるように、本来、市民の利益を守るべき政党が内部でねじれているようだ。
逆に、メディアとの関係は、日本よりも成熟を感じる。運動側はメディアに頼り切っていない。メディア側もおそらくしっかりしている。日本では、運動が市民へよりメディアへのアピールになっていたり、メディアを動かすことを失念していたり、になっていないだろうか。そして、メディア側には、信頼を置くわけにいかなくなるような事件が、多発している。

世界の社会運動を考えると、アジア・ラテンアメリカなどで、発達した資本主義社会を上回るダイナミックな変化が起こっているので、本書だけで世界を測るわけにはいかなくなってきた。しかし、日本は発達した資本主義国のひとつであり、当面ヨーロッパ社会の到達したレベルのクリアを望むのであれば、読んで損はないだろう。

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憲法を論じる出発点として

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フェアな論争のために、どの立場の人にも薦めたい。著者は、憲法に対して理念を持っているが、研究自体はアメリカの公文書館に眠る資料をもとに、終始客観的記述になっている。
本書に書かれたことを、「基本的に、日本人の考えに基盤をもって、憲法がつくられた」と解釈するのか、「アメリカの押しつけである」と結論付けるのか。それは、さらに広い事実と、解釈する人の理念に依拠することになるだろう」。

本書では、日本国憲法制定に直接的な影響をもった資料の系譜を追う以外の、日本及びアメリカと世界で展開された人権・平和の思想については、言及されていない。そこまで論及していたら、一つの研究として、まとめることは不可能だろう。
だから、たとえば、明治の自由民権運動からの流れの記述は、軽いものになっているし、また、田中正造が日露戦争に反対し、戦力の放棄まで主張していたことなどは、直接的系譜でない以上は、書かれていない。そういう意味において、本書を出発点にして、憲法につながる人権・平和の思想史を広げれば、よりよく理解を進めることができるだろう。

本書から読み取れるなかで、重要だと思うものを紹介する。
一つには、日本国内に吉野作造、鈴木安蔵などの民主主義の思想が脈々と途切れることなく続いており、日本国憲法の源流を形づくっている、ということだ。

二つには、アメリカのなかでも、様々な思惑がぶつかりあったが、日本国内の動向・世論に気を配りながら、政策決定をせざるを得なかった。その社会に根拠を持たず、大義に反する「押しつけ」は、結局失敗せざるを得ないからだろう。当然、米側の政策も、日本で形成された思想に依拠したものになる。

三つには、日本国憲法が、国連憲章を中心とする戦後国際秩序と、共通した理念を持っているということだ。日本国憲法の制定過程は、国連憲章の制定過程と緊密に関わっている。実際に両方を読み比べれば、すぐに理解できることでもある。
そこで問題になるのが、「国際貢献」のため、常任安保理事国入りするために憲法を変えるという理屈だ。国連憲章と響き合う憲法を変えて、貢献になるのか? 常任安保理事国になるために、憲章の精神に精通する憲法を変える矛盾は何なのか? そこに日本政府の本当の「本音」が見え隠れする。「アメリカのため」ではないのか?

研究から導く著者の主張には、すべてに単純に賛成するものではないが、憲法を論じていくための基礎研究として、本書は有効だろう。ただし、かなり値が張るため、全巻そろえるか、悩みどころだ。

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タイムリーなタイトルと楽しめる内容

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 アメリカの要望に沿ってつくられた郵政民営化法案をめぐり、アメリカ言いなりでは一致しているあの自民党が、地元での抵抗を受けて、大混乱に陥った。タイトルに「反米」と「郵便」が付くのだから、タイムリーなこと、この上ない。
 しかし、内容は、政治的にどうこうと肩肘を張らずに単純に楽しめるものになっている。

 著者のいう「郵便学」とは、切手などの郵便資料から、国家や地域のあり様を読み解くというものだ。
 20世紀にアメリカが世界的に影響力を拡大した歴史を裏から見れば、アメリカが世界で様々なレベルの抵抗を受け続けた歴史、ということになる。それを、アメリカに敵対・抵抗した国家の郵便資料から見ていく試みだという。

 郵便物には、郵便サービスを提供する国家の実態、考えが表出する。切手の図柄、押されたスタンプ、検閲の有無などによって、その社会の様子を知ることができる。流通の過程で、多くの人の目に触れるから、封筒(本書では「カバー」と表現)も、絶好のアピールの場になるというわけだ。確かに、切手は国家が発行するもので、図柄も紙幣に比べれば、記念切手などバリエーションもつくりやすい。
そもそも、郵便サービス自体、その地域を政治・経済的に影響下におさめ、郵便物を流通させられるだけの権力があって初めて可能になる。反政府勢力は、自らの正統性・実効支配性を世界にアピールするために貨幣に次いで切手を発行するらしい。

 本書での読み解きには、なるほどと思わずうなる、興味深いものが多く見られた。
 たとえば、アジア太平洋戦争で日本軍は、フィリピンをアメリカから「解放」し、日本軍占領下で「独立」させる。しかし、フィリピンで流通したハガキを見ると、「郵便ハガキ」「比島郵便」などと、現地語ではなく、日本語で書かれ、日本軍の憲兵隊による検閲を受けている。日本の「アジア解放」の実態が見えてくる。なお、この記述は、アメリカと戦争をした敵対者・日本が従属者になるまでを追った章にある。

 また、反米が戦争に発展する場合もあるが、そのとき、どちらが仕掛けたかも切手に反映される。ベトナム戦争の場合、北ベトナムは、南ベトナム親米政権批判と国土統一の図柄の切手をつくるが、アメリカ本体を攻撃する図柄は注意深く避けていた。つまり、アメリカと全面対立は避け、国際公約のジュネーブ協定に基づく統一選挙の実施を求めていたと読める。その切手が発行された時点で、そこまで読み解くのは難しいにしても、アメリカが仕掛けた事実が明らかになっている現在見ると、納得してしまう。
 逆に、朝鮮戦争では、開戦当初、北朝鮮は切手の企画準備の期間から考えて、あまりにもタイミングよく戦勝記念などの切手を発行した。ということは、北朝鮮から仕掛けたことが反映されている。その後は、国連軍を指揮したマッカーサーの野望もあり、朝鮮半島全土を戦線が上下した。日本の支配、さらに後に東西冷戦の最前線になった民族の悲劇だ。

 ほかにも、何かの主張のために、都合よく昔の出来事の何周年を利用して記念切手をつくって内外にアピールしたり、へぇと感心することがたくさん出てくる。
 本書は、歴史記述に関しては、けっこう雑で乱暴な部分もある。しかし、テーマ部分は、素直に面白いので、目くじらはたてなくてもいいと思う。「反米」に過剰反応する人も、『諸君!』に掲載した箇所もあるくらいの気楽な読み物なので、自分の好きに読み替えて意味づけすればいい。ただ、著者の最後の指摘は意味深い。
 「あまりにも突出したアメリカのプレゼンスに対する非アメリカ人の感情的な反発というものは、それが理性で抑制できないものであるだけに、決して消失するということはないだろう」
 —だから著者は、今後も切手で「反米のかたち」を研究するという。今後の研究にも期待したい。

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紙の本

紙の本日米同盟経済

2005/07/16 13:09

鋭い問題意識も、突っ込み不足

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 日本のアメリカ言いなりぶりは、なぜなのか、という疑問がわく。アメリカの目下の同盟者でいることが利益になる時代なら、「自ら選んでいる」という可能性もあったかもしれない。しかし、いま、日本の貿易関係は、アメリカを抜いて中国ともっとも密接になっている。東アジア共同体の流れを見ても、日本にとってアジアでの地位を築くことが利益になるだろうし、東南アジア諸国サイドからも求められている。本書にも言及があるが、それにもかかわらず、日本は、アメリカがアジアへの影響力を失うことを気にして積極的に動けずにいる。いや、それどころか、憲法を変えてまでも、アメリカに貢献しようとしている。
 この状況は、理屈では、にわかに理解しがたい。朝日新聞での連載がもとになった本書は、日米同盟が軍事だけでなく、経済でも相互依存を深める状況を「もたれ合い」と表現し、実態から迫ろうと試みている。

 バイオ研究やコンピュータテクノロジーなど現代社会の基盤といえる分野で、日本が世界のトップに立つ可能性があるにもかかわらず、アメリカの圧力で譲り渡す状態は、政治的従属によって、経済の自立的発展を放棄している様子がよく分かり、うなずきながら読んだ。
 とくに、全地球測位システム(GPS)は、現代社会に欠かせないインフラであるにもかかわらず、アメリカの軍事衛星にすべてを依存しており、アメリカの有事には、利用の保証もない。EUはガリレオ計画で独自のシステムを開発しようとしていて、自律を目指している。アメリカともっとも深い関係を持つイスラエルまでも、ガリレオ計画に出資を表明している。しかし、ここでも日本はアメリカに従ったままでしかない。
 このような、経済的自立のための重要なインフラ部分をアメリカに握られた状態で、個々の企業は自らの利益を目指して意図せずに活動したとしても、アメリカと衝突する行動は、とらないだろうと納得できる。(たとえ、個々の企業同士の競争はあるにしても)
 本書では、アメリカが日本を従わせながらも、国内経済の力の低下を日本に頼ることで乗り切ろうとしている構図も浮かび上がらせている。中国との関係も加わり、ますます複雑になっているが、日本にとって、アメリカを立てることで自らも浮上できる、という考えはもはや通用しないことは、確かだと思う。

 このように、なかなか感心する部分もあるのだが、全体としては突っ込み不足の感は、拭えない。私がもっとも期待していた金融の部分でとくにそう感じる。
 本書のもとになった連載のころは、アメリカの金融の問題が大きく表出したライブドアの一件が起こる前ではあるが、それにしても、もう少しアメリカの金融業界の戦略に切り込んでほしかった。
広告主でもある企業をあまりいじめられないのだろうか。自らも「朝日新聞—テレビ朝日」という緩やかなメディア・コングロマリットを形成していおり、一度は買収攻撃にさらされた身の上、慎重なのだろうか。朝日新聞に限らず、どなたかさらに切り込んだ調査をお願いしたい。

 もう一つ、いただけないのが、最後に小沢一郎にしゃべらせ、あたかも彼が「自立派」であるような印象を与えている点だ。
小沢氏が現在所属するのは、民主党だ。その民主党について、本書の序章ではこう書いてある。
 「自民党ばかりか野党の民主党幹部らも次期政権をにらんでワシントン詣でに余念がない。そこには、日米安保を基本とした日米同盟がある限り、米国に追従する以外に道はないと思考停止状態に陥っている日本の姿がある」
 民主党が次期政権をにらんだ行動を大きくとるようになったのは、小沢氏率いる自由党と合流したときからだったことは、忘れてはならない。小沢氏がインタビューで勇ましい発言をしようとも、本書の趣旨に照らせば、実際の行動で映し出さなくてはならなかったのではないだろうか。

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