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JOELさんのレビュー一覧

投稿者:JOEL

300 件中 61 件~ 75 件を表示

紙の本ニュースの読み方使い方

2012/01/19 20:22

池上流はアナログ方式だが十分に通用する

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 池上彰さんはNHKの「週刊こどもニュース」のキャスターをやめてからも、テレビ界でひっぱりだこだ。昨年は一時、充電のためにテレビをお休みしなくてはならないほどだった。最近、復活してふたたび各局で見かけることが多くなった。

 誰しも知るとおり、池上さんの最大の特長は、話が分かりやすいことにある。時事的な話題も、その背景から伝えてくれるので、理解しやすく、ためになる。
 分かりやすいからといって、深みのない話ではない。子どもや素人の水準にまで落として話すことはしない。大学の先生などの専門家が話すのと遜色ない水準のまま、分かりやすさを追求している。

 これはもう、プロ中のプロだ。池上さんの著書を読むと、ジャーナリストにほかならないことが分かる。NHKで、記者として鍛え抜かれている。

 NHKの駆けだし記者だった頃までさかのぼって、池上さんは実地に学んだことを書いている。当時は、テレビで話すことはなく、放送用の原稿を書くために、日々取材活動をおこなっていた。今でこそアナウンサーでないNHKの記者が現場から、テレビ画面でレポートすることがあるが、当時はなかった。このころにジャーナリストとしての基礎を身につけている。

 本書では、そうした取材活動のイロハを伝授してくれる。情報収集術、インタビュー術、情報整理術、読書術、ニュースの読み方、情報発信術と順を追って、池上さんのスタイルを教えてくれる。

 池上さんにとっては、当たり前の技術が惜しげもなく語られるのだから、記者でなくても、それに近い仕事をしている人にとっては、かなり参考になる。そのまま今日から真似してもよさそうな方法論もたくさん披露されている。

 情報収集術では、やはり新聞は活用のしがいがもっともある。なんとなく毎日読んでいる新聞にもこれだけのヒントが隠されているのだ。
 たとえば、夕刊は、お昼頃が原稿の締め切りだから、国内のニュースは少なく、時差のある海外のニュースや、作り置きしておける記事が中心になるとある。そう思って、夕刊をみるとたしかにワシントン発やパリ発のニュースなどが多い。
 日曜日と月曜日の朝刊の一面は、官公庁の発表がないので、各紙の個性が強く出るとある。そうしてみると意外な特ダネが日曜と月曜の朝刊一面を飾る傾向があるのが分かる。

 それにしても、池上さんはものすごい読書家だ。頻繁に書店に足を運んで、どんな本が並んでいるかチェックしている。こうした日々の読書のおかげで、突然に起きた事件でも、すぐに適切な記事を書き、コメントを出せる。9.11テロの時のアルカイダも、池上さんはいちはやくテロ組織のことを論じた本をもとに、自分の考えをまとめることができた。
 
 ただ、記事をスクラップする方法はさすがにアナログ時代の人によるものだ。池上さんによれば、こうした手間をかけることが、自分の考えをまとめることに役立つというのだから、真似しても決して悪くはない。ただ、今はエバーノートやドロップボックスといったウェブサービス、アプリが発達しているので、こうしたものに置き換えて、試してみるといっそう効果的になりそうだ。

 最後の情報発信術は、ほとんどの社会人の役に立ちそうだ。
 よい文章かどうかは、音読すれば分かる。書いた文章をひとり突っ込みする。原稿はワインのように、書いたら寝かせておく。こうした方法は、そのまま取り入れられそうだ。

 池上さんも「図解式」の効用を説いている。ただ、何でも図解すればいいわけではなく、コツがある。安易な図解は勧めていない。
 もっとも大切なことは、”相手への想像力を働かせ、わかりやすい説明の工夫をしよう”(p.264)だろう。誰に伝えようとしているのか明確にすることを強調する。情報の受け取り手の立場に立って、まとめられるかどうかが分かりやすさの最大のカギだ。

 当たり前のようだが、日頃自分の伝えたいことにばかりエネルギーが集中して、読者や聞き手の立場にたったまとめ方は、意外にできない。自分のやっていることを伝えるのに精一杯だ。

 こうしたことを十分に実行できたとき、自分も池上さんのようになれるのだろう。本書には奇をてらったところがなく、読みやすい。そして、大事なことがたくさん書かれている。お薦めの本である。

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調査データにもとづくメディア論として興味深く、おすすめできる一冊

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

インターネットの伸張とともに、既存のマスメディアの衰退を口にする人は多い。しかし、信頼できるデータに基づいて話す人は少ない。そんな中、著者は95年から取り始めた調査データなどを活かして、日本におけるメディアの隆盛を語る。

日本に新聞が登場した頃や、ラジオ・テレビが普及し始めた頃にも遡るので、日本人のメディアとのつき合い方を概観することができる。当時のメディアの価格(新聞代・受信料など)と給与との比較まで載せているので、メディアが当時の日本人にとって手の出るものだったのかどうかもわかる。

マスメディアが日本人の暮らしの中に入り込んだのは意外に日が浅い。特に、ラジオが普及することで、”標準語”が広まるのを助けたこと、テレビを家族みんなで見る行為が、”一家だんらん”をもたらすようになったことも、けっこう重要な指摘だ。テレビには、物理空間的にも精神的にも家族の結束を促進した効用がある。

こうしたマスメディアの普及が、日本人の間で共有される文化を生んだ。それまでは、一人ひとりがバラバラに情報に接していた。「日本人の情報環境の均質化」(p.34)が、テレビを中心になされた。そういえば、人気のラジオ番組やテレビ番組の放送翌日に、学校で友だちと、その内容について会話をすることがよくあったのを思い出す。

今、インターネットが伸びているとすれば、ネットを家族みんなで見ることはないので、あらためて一人ひとりが自分の選んだ情報に個々に接する状況に戻りつつあるということになる。この視点でネットを見るのは、新鮮だ。

その意味では、新聞・テレビ・ラジオが隆盛を極めた、ここ50年-60年間というのは、日本人にとっては特異な時期であったのかもしれない。

肝心のネットに関しては、これまでのところ、雑誌を代替する機能が強く、雑誌の購読時間の低下をもたらしている。趣味の情報はかつては雑誌だったが、今ではネットでおおよそ得られる。ただ、ネットが伸びる前から雑誌は減少しているので、それ以外にも原因があると著者は指摘する。

新聞については、日経や朝日が電子版を始めているが、まだ紙の新聞に大きく置き換わるところまでいっていない。ただ、雑誌に続いて、その機能を代替してしまう可能性があり、そうなる時代を見越した動きが必要になっている。

読書に関しては、ちまたで言われているような書籍離れは起きていないことがデータとともに示される。むしろ、図書館などの貸し出し冊数は伸びており、健在だ。特に、10代では学校で読書が奨励されているので、読書時間は長い。社会人になるとさすがに読書時間は減るが、ネットの影響で読書離れが起きているわけではない。「伝統的なマスメディアの中で、書籍は現状において比較的インターネットの影響を受けていないメディアだといえる」(p.84)。

ネットの時代にあっても読書が好まれている理由を探れば、そこに、読書にしか果たせない大切な役割が見えてくるはずだ。
ただ、「仕事や研究に役立つ情報を得るメディア」として、2010年の調査で、ネットが書籍、テレビ、新聞などをおさえてトップに立ったことには注目しておいた方が良さそうだ(p.69)。

ところで、10代では、サイトの閲覧方法がPCから携帯電話に移りつつある。PCによるサイト接続は減っているのだ。生まれたときから携帯電話が身近にあり、それとともに育ってきた世代で、ネットの利用形態に変化が起きはじめている。著者は96年頃以降に生まれた世代を”96世代”として紹介している。「ネオ・デジタルネイティブ」の世代と呼ぶそうだ(p.150)。

PCによるネット接続の長い人と、携帯電話によるネット接続の長い人の比較データも興味深い。携帯電話による接続の長い人は、政治的な関心が乏しかったり、政治は難解でよく理解できないと思っている人の割合が多い(p.155)。また、私生活中心主義でもある(p.158)。反面、社交的な傾向が強い(p.163)。つまり、携帯電話を使って、SNSなどのオンラインコミュニケーションで、人とのつながり欲求を満たそうという気持ちが強い。

こうやってメンタリティを把握することは、各メディアが、今後、だれに何の情報を、どんな風に発信していけばいいかの手がかりを与えてくれそうだ。

ほかにも、テレビをつけっぱなしにして、乳幼児を育てたときの社会性の発達阻害など、過去におこなわれた調査の結果にも興味深いものがある。これを「セサミストリート論争」というのだそうだ(p.114)。テレビから人の声を聞くのと、周囲の人から話しかけられて人の声を聞くのでは違うらしい。

書評欄では再現できないほど、著者のメディア論は面白い。「メディアは、それ自体の存在で我々を変えるチカラをもつ」(p.192)と最後をしめくくる。おすすめの一冊である。

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DNA分析は、これほど驚きべき知見をもたらしてくれるのかと改めて驚いた

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 近頃は、生物の世界ではDNA分析が花を咲かせている。それは、人の起源や移動にも適用される。著者は、DNA多型分析によって、日本人の起源に迫る。

 その科学による分析は有無を言わせず、これまでの学術的分析を覆す勢いがある。科学に疎遠な人であっても、DNA分析については、きちんと押さえておかなくてはならないようだ。

 著者はミトコンドリアDNA分析に加えて、Y染色体、成人T細胞白血病ウイルス、ピロリ菌といった素材を用いて、互いに結果を参照する。したがって、その結果を否定することはむずかしい。

 人の起源は約20万年前に東アフリカに出現した新生人類であることを明示する。そして、およそ6万5000年前に、そのアフリカを出て南ルート、北ルート、西ルートで世界各地に広がっていった。
 南ルート:インド→東南アジア→オセアニア→オーストラリア
 北ルート:中央アジア→シベリア・華北→アメリカ・東アジア
 西ルート: 西アジア・中東→北アフリカ・ヨーロッパ

 著者の分析から日本人はすべて北ルートであることが判明した。南方から北上したとする学説は完全に否定されてしまう。

 ただし、シベリア・華北から日本列島に到達する経路と時代はさまざまである。極東・アムールから北海道にわたってきたケース。中国北東部から朝鮮半島をわたってきたケース。長江流域にいた人たちが、黄河流域にいた漢民族の進入を受けて、日本へと避難してきたケースといろいろだ。

 そのため、日本人はDNAのバラエティとしては、世界でもかなり多様性に富む構成となっている。今では日本人にしか見られないハプロタイプも存在し、多様かつ貴重である。単一民族という見方も否定される。それはDNAが教えるところである。

 いろいろな流路でたどり着いた人たちが、その違いを認め、平和に共存してきたらしい。DNAタイプがかなり異なる人たちが、何十にもおよんで存在し、そのまま今日まで保たれているからだ。
 特定の民族が他民族を滅ぼしてしまえば、その民族に特徴的なDNAタイプが多数派を占めて今に至るはず。したがって、さまざまなタイプが残っているということは、先に日本列島に到達していた人々も、あとから避難するようにして到達した人々も、どちらも共存を許したことを意味する。

 著者の学説は、なかなか鋭く、縄文文化ないしは縄文時代、弥生文化と弥生時代という従来の学説までも否定してしまう。
 農耕ひとつを取ってみても、栽培農耕、畑作農耕、ミレット農耕などさまざまなものが日本列島にはあること、地域的なバリエーションもあることから、日本列島全体が縄文時代であったとか、弥生時代であったとか言うことはできないとする。

 著者はDNA分析にとどまることなく、農耕・土器をはじめとする文化の分析、言語の分析にもおよぶ。いろいろな角度から日本の起源に迫っていくのだ。それは、ときに植物相の違いまで言及する。

 言語の分析に関しては、その特徴から10のクラスターに分けている。
 1.道北・道東、2.道南、3.東北、4.東日本、5.関西、6.西日本、7.九州北部、8.九州南部、9.北琉球、10.南琉球

 著者は、近年になってから東京方言が標準化したために失われた日本語の豊かさの喪失を嘆く。
 東京方言は言語としてみた場合に、成熟度や言語機能、音声体系の面から劣り、表現様式が弱いとする。ここにまで話がおよぶと、科学の域を超えて、言語学の世界だ。

 著者は、分子生物学を専門とするが、本書が教えるとおり、その枠内におさまらない学究姿勢をもっている。既存の発想を否定するために、ややもすると筆致が走りすぎる嫌いがあるが、なかなか博覧強記の人である。

 科学に立脚したDNA分析の部分だけでも、著者の披露するものを受け止め、点検してみる意義はありそうだ。文化や言語の部分についても、著者の学説を受け入れるか否かは、読者自身が判断すればよい。

 なかなか刺激に富む学者である。巻末にたくさんの先行研究・論文・著書が載っているので、ほかの研究者の学説と照らし合わせて、読者なりの見当をつけることが大切かと思う。非常に面白い本である。

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土は偉大な存在だと再認識させてくれる

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 著者が冒頭で述べるように、一日のうちで土を一度も踏むこともなく、毎日を過ごしている都会人には、かなり興味深いことが書かれている。何しろ、すべては、この大地に由来するのだから、その働きは多岐にわたる。著者は、務めて分かりやすく書いたとあとがきで述べているが、それなりの教養と、関心の高さはあらかじめ必要としそうな内容である。
 
 前半は土の果たしている機能について書かれている。動植物を養い、これらの寿命が尽きたあとに、分解し、土に返す働きもある。こうした土の働きの多くは、土壌の中にある微生物による。1グラムの土壌には1億から10億の微生物がいるのだそうだ。ほかにも窒素やリン、カリウムなどの養分があり、複雑な働きをして、地球を支えている。

 母なる大地とはよくいったものだが、著者はその機能を多面的に解説してゆく。理科の時間にもこうしたことの断片は学んだのだろうが、こうして総合的に論じてもらうと、土への認識が新たになる。「呼吸する土」というのは、なるほどと思いつつ、もはや単なる物質を超えて、土壌自身が生命体のように思えてくる。

 「土は化学的にも物理的にも簡単な外的条件の変化では動かされない強靱さをもっている」という「緩衝能」の説明では、実に頼もしく感じさせてくれる。たくさんの種類と数の土壌生物たちが、酸性雨や多雨・小雨、病害・虫害による生態系の破綻を防いでいるという。

 ところが、本書の後半に来ると、一転して、近年の大規模に効率性のみが追求された農業のために、土が疲弊している事実が述べられる。窒素が工業生産されて、化学肥料として大量にまかれる。農薬も多用される。
 こうしたことは、単一作物を何年も続けて同じ土地で栽培し続けるために必要とされる。かつては、輪作によって畑が休まされたり、家畜が放牧されて自然と肥料が戻されたりしていた。それがなくなったために、肥料の過剰、農薬の多用が起きている。
 著者の言葉によれば「土力の低下」が起きている。緩衝能によって破綻を防ぐシステムがあるはずなのに、こうしたことが起きているとしたら、深刻だ。

 米国、EU、日本で80年代、90年代以降に環境保全型農業が提唱されている。このことを引き合いに出して、もはや大規模で効率性だけを追い、単一作物を連作し続けるのは、大地でも悲鳴をあげる事態であることを著者は指摘する。

 やはりそうなのか、これまで技術革新によって、農業生産高がどんどん向上し、地球上の人口が増えてきたが、限界が見えてきたのかもしれない。著者はリン酸資源の有限性がネックになるだろうとしている。

 最後に著者は、土を利用しない「植物工場」の可能性と限界にふれる。通常の農業において、太陽エネルギーによって供給されるのに見合うエネルギーを、植物工場には人工的に投入しないといけないという点で限界が生じるとする。

 やはり、長い長い地球の歴史が与えた土を抜きにして、私たちはやってはいけない。それにしても、著者の言うように、その割には、土についての本格的な学習を私たちはしていないという感がする。著者は高齢ではあるが、こうした普及活動の労を執る意義は大きいと思わせるものがあった。

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漁業資源の管理のあり方について有益な提言が多い

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 著者は北海道新聞の記者をしている。水産業界などへの取材と漁業統計を元に、水産資源にまつわる問題を丁寧に描き出す。

 基本となるのは、「レジーム・シフト」という理論だ。これは、現東北大学名誉教授である川崎健(かわさきつよし)氏によって1980年代に提唱された。当初は、異論や反論が相次いだが、ワークショップなどを重ねるうちに国際的に受け入れられるようになっていく。日本では90年代から学会で定着し、今では広辞苑にも収録されている。ただ、まだ一般の人にまで浸透しているとは言えない。

 「大気-海洋-海洋生態系」のつながりに着目した、レジーム・シフト理論は、科学的な説得力を持つ。これを踏まえないと、マイワシやマサバ、サンマなどの漁獲高の変化を正しく捉えることはできない。
 大気の温度が上がり、気圧配置が変化すると、海水温の上昇が起きる。すると、それまで豊かな漁場であったところに流れ込んでいた栄養分豊富な親潮に変化が生じる。冷たい親潮でたくさん発生していたプランクトンの量が減少するのだ。プランクトンを餌にしている魚類であるマイワシは当然減っていく。
 
 これまでは、漁業資源はある程度一定しており、これが減るのは乱獲が原因とされることが多かった。しかし、レジーム・シフト理論によれば、プランクトン量が減るので、マイワシは減るということになる。スケソウダラなどでも説明がつく。逆に、温かくなった海水温への適応に優れる魚類は増えている。

 こうした海洋環境の変化は繰り返し起きることが確かめられている。この理論が認知されて以降、過去にさかのぼって漁獲高を科学的に調べる試みが世界各地で行われ、裏付けるデータが収集された。新しい理論が、日本人により提唱され、世界的に受け入れられる。
 そして、国際賞を受賞するまでになるというのは、なんだか同じ日本人として誇らしい。レジーム・シフトは、1925/26年、45/46年、56/57年、70/71年、76/77年、88/89年、98/99年に生じたとされる。

 一方、著者はジャーナリストなので、広く関係者に取材し、水産資源を管理することのむずかしさを教えてくれる。サンマは北方四島付近から道東沖に流れ、やがて三陸沖、房総沖へと漁場を移していく。そのため、TACと呼ばれる漁獲可能量をめぐる争いは激しくなる。道東の漁業者がサンマの組合から脱退する構えを見せることがあったりして、たいへんだ。
 それぞれに生活がかかっているので、高値で獲れる時期にたくさん獲りたい。しかし、思惑が一致しないとき、どこかで不整合が起きる。このあたりに、漁業という海洋環境に依存した生業の困難を思わせる。農業においても、ある程度計画性を持って栽培しても、天候に左右される要素があるが、漁業の場合はなおさらだ。

 レジーム・シフト理論は、漁業資源の回復期に乱獲をすると、回復しないまま資源が崩壊してしまうことを教える。韓国東海岸のスケソウダラがそうだ。1977年ごろから世界各国が200カイリを宣言し始めたため、それまで操業していた遠洋漁業が締め出しを食うようになる。こうして、各国のつばぜり合いが激しさを増す。魚類自身は200カイリを知るよしもなく出入りするので、その狭間で獲られすぎると、将来の産卵可能な個体となる親魚が減る。

 著者が最終章で言うように、漁業資源は人類のコモンズ(共有物)として、知恵を出し合って、しっかり管理していかないと、漁業の将来は安心できない。
 スケソウ御殿と呼ばれるような立派な家が建ち並んでいた道東からスケソウダラが姿を消したのは悲しいことだが、レジーム・シフト理論によれば、大きな海洋生態系の変化によるものなので、納得がいく。これをベースに、冷静で科学的な議論を進めるべきなのだろう。

 著者は、地球温暖化による影響を心配するが、レジーム・シフト理論と温暖化対策を組み合わせることで、より効果的な水産資源の管理が可能になりそうだ。いずれにしても、著者の提言には耳を傾けるべき余地が大きいと感じた。なかなか読ませるすぐれた一冊となっている。

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紙の本絵でわかる生態系のしくみ

2010/06/13 23:48

イラストが理解を助けるが、意外に本格的な書物

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 書名に「絵でわかる」とあるので、よほど入門的な書物かと思ったが、いたって正統派の書物であった。

 見開きの右ページにイラストがあり、左ページに解説がある。この解説は「ですます調」で書かれているし、著者も平易な表現を心がけたとあるので、一見するとそのような印象を受ける。
 しかし、読んでみれば、なかなか核心をつく重要な記述がたくさん盛り込まれている。著者のいわんとするところを正しく理解しようとすると、意外に素養が求められる。

 その意味では、生物の世界や生態系に関心を寄せる高校生・大学生や、向学心のある社会人向けと言えそうだ。
 著者には、過去にたくさんの著者があり、そうした書物における経験を生かして執筆した書物なのだろう。

 イラストが理解を助けてくれるが、深く理解することも可能にする、すぐれものの書物と見た。安易な入門書とは一線を画している。

 生物同士の相互作用や生態系の危機、植物の生き残り戦略、生態系の極端な変異、生態系の管理、自然再生などの主要概念を網羅的にあつかっており、この分野のことを一通り知っておきたい人には好適な書物だろう。
 イギリスの田園生態系の回復の取り組み、アメリカのグランドキャニオンの再生計画といった海外の事例紹介は、とても参考になる。

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紙の本臨床家河合隼雄

2009/12/31 10:21

河合氏の臨床に望む覚悟のたしかさにうならされる。どこまでも臨床の人であったのだ

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 膨大な著作を残しているので、河合氏の考えにふれた人は少なくないだろう。本書は、その人となりを、近くで見たことのある識者たちの回想で浮かび上がらせていく。

 河合氏は徹頭徹尾、臨床の人であった。文化庁長官をしているときでさえもクライエントを抱えていたようだ。日本でまだ心理学がその地位を確立していないときから取り組み、最後まで臨床心理学に打ち込んだ。

 その業績は比類なきものがある。何しろ海のものとも山のものともつかないころから心理学を志し、未踏の地を自らの足で、次々に切り開き続けたのだから。

 道なき道を行くというのは、考えてみれば、壮大な冒険のようなものだ。お手本があるわけではなく、常に自分で正しい方向を探り続けなくてはならない。
 もちろん、スイスに留学してユング心理学を修得してはいるのだが、それがそのまま日本でも通用するとは限らないから、相当な技量とセンスが求められたはずだ。

 本書が興味深いのは、河合氏に教育分析を受けることのできた至近距離にいた人たちによる素描だ。臨床にのぞむときの河合氏に「怖れ」を抱いた人が多いのは、意外な印象を与えるかもしれない。何しろ、破顔一笑ともいうべき笑顔で知られた人だから。鋭い眼差しに怖れを感じさせたのは、それだけ真剣勝負であったということだろう。

 実際、取り上げられる数々の事例への分析には、河合氏の経験と勘が、これ以上ないというくらい生きている。そこには、なかなか容易には真似できない深さが認められる。経験値が少なくてもダメだが、経験を積めば同じ領域にたどり着けるというものではない。臨床家としての勘とセンスが最後には問われる。

 経験と勘の絶妙のブレンドが同氏の胸中にはあった。それを体得した河合氏の水準は、心理学の燦然たる高みにも思える。

 自身の事例報告では、感極まって嗚咽することがあったというのだから、その打ち込みようは生半可なものではない。

 ある分野の開拓者が、そのまま数々の業績を残し、惜しまれつつ世を去るというのも見事な人生というべきではないだろうか。 

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経済とはこのようにして研究し、分析するものであることを教えてくれる良書

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 政策決定の権限を握る政府の人間は別にして、エコノミストほど、その言動で人々の注意を引きつけながら、同時に半信半疑のまなざしを向けられる存在はいないだろう。特に、将来予測の部分においては。
 投資家は、これから先の経済がどうなるのか、株価はどうなるのかと気にかける。その時、頼りにする存在がエコノミストである。しかし、しばしばあてがはずれて損失を被ったりするため、疑り深くなるのである。
 経済は生き物であり、一定の法則には従っているものの、想定したとおりには進まない。これが経済のむずかしさであり、面白さでもある。どのくらい正確に経済を読み解き、世の人々に示すことができるか、ここがエコノミストの腕の見せ所である。

 著者は2005年に『デフレは終わるのか』を著し、その説得力ある理論展開で好評を博した。本書は、デフレをめぐる状況を概観しつつ、「円の足枷」にはまった金融当局の姿をいくつもの統計データとともに示してみせる。
 著者による過去の複数のデフレを巡る分析は、極めて鋭く、次々に繰り出される統計データの前には、なるほどと頷いてしまう。その意味では、『デフレは終わるのか』と肩を並べるくらい、すぐれた書であると言っていいだろう。
 統計データもなしに、表面化した現象を取り上げて、コラムニスト的に、もっともらしいことを言ってしのぐタイプのエコノミストではない。本物のエコノミストである。統計データも、自分で解析して、グラフ作成をしているのだから、相当な労力を本書に注いだことだろう。

 本書が書き上げられた2007年初頭までの経済分析としては、おそらく右に出る書は少ないと思われる。そのくらいすぐれていると感じさせる。著者は丹念に仮説を立て、統計に当たり、それを裏付けるデータを示してみせる。
 書名の『円の足枷』とは、円高が国力を裏付けるというイデオロギーにとらわれた金融当局の姿勢を指している。著者自身は、どうやら金融当局との強いパイプはないらしく、直接取材して裏付けをとるのではなく、統計データから推定してみせる。そして、これだけのデータを示せれば十分と思われる。「円安とターゲットインフレ」を政策として掲げられないことが、日本の長期にわたるデフレをもたらしたというのが著者の分析の中心である。

 世界的に経済の一体化が進んでいるが、その複雑な事象も図示してみせる。中国や中東のマネーが米国の財政を支えている構図なども、極めて説得力がある。読んでいても、わくわくするほどである。しまいには爽快感まで覚える。そして、最後にどうしても期待するのは、これからどうなるのかという部分である。

 しなしながら、最後に来て、やや歯切れが悪くなる。過去の確定した事実の分析にはすぐれた手腕を発揮するが、現在進行形の問題に関しては、やはり扱いがむずかしいようである。
 最終章と、それ以前の章は別の本であるかのような印象を与える。本書は、このところ世界を動揺させているサブプライムローンが顕在化する以前に書かれたものなので、この問題が射程にはいっていない。この部分に物足りなさを覚えるが、経済は生き物なので致し方ない。著者によるサブプライム問題の分析には別途ふれてみたいものである。

 書き終えてからのタイムラグがあるものの、経済とはこういう風にして研究し、事象を読み解いていくものであることを教えてくれるという意味では、よきテキストと言える。
 本書は、硬い専門書ではないが、単に株価や為替の動向にだけ興味がある人に向けられたものではない。ある程度、本格的に経済に向き合いたい人に、好適な経済書と言ってよいだろう。

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紙の本情報環境論集

2007/12/23 23:58

現代社会の本質を捉えた、もっともすぐれた論考の数々がここには収められている

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 ある書物を読み終えたとき、世界観が一変しているときがある。それは、それまで知らなかった知識を新たに与えられるケースもあれば、自分の中でもやもやしていたものに明快な説明がなされたあとに起きることもある。
 本書は、間違いなく後者に属するであろう。およそ現代人で、ネット社会に無縁でいる人は少ないだろう。たとえPCを操作しない、つまりはデジタルデバイドと呼ばれるような人でも、携帯電話のようなより簡便で扱いやすいガジェットは手にしているだろう。そして、こうしたIT機器がもたらすセキュリティ面での不安の中に置かれている。

 便利さの一方で、こうした機器を用いることで、自分の居場所をいつの間にか教え、また何に興味があり、どこでどんな買い物をしたかといったことが、自分の知らないところでデータベース化されている不安から逃れられない。「不安」の本質は、その正体がよく分からないことにある。自分の抱える不安の正体がよく分からないために不安はいっそう不気味さを増すのだ。

 逆にいえば、不安はその正体をつかめば、ある程度やわらげられる。本書は、現代社会を生きる不安の正体を、丁寧な論考によって描き出してみせる。著者は、学者にありがちな高みから物事を眺めて、「それは、こういうことですよ」というような物言いはしない。常に、読者とともにありながら、自分も捉えがたい不安のただ中にいて、考察を深めていく。

 したがって、一直線に結論にたどり着くような書きぶりをしていない。これは、こういうことではなかろうか、あれはああいうことではなかろうかと、少しずつ歩みを進めながら、読者を導いてくれる。したがって、本書を読み進める作業は、著者とともにする歩みとなり、自分自身でも不安の正体を突き止めることができるようになっている。それが、本書を世界観を一変させてくれる書物であるとする理由である。

 本書の前半は『中央公論』に2002年から2003年にかけて連載されていたものをまとめたものであり、当時から評判を呼んでいたというが、この2007年になってようやく書籍の形を与えられた。この間の情報化社会の進展はすさまじく、本書では触れられていない事象もたくさんあり、そういったことがらは考察の対象になっていないわけであるが、本書の価値がいささかも古びることがなく、落ちてもいないのは、論考があまりにも物事の本質を鋭く突いているためである。新しい事象も、著者の視点をものにしていれば、読者の力で解読可能なはずだ。
 さて、本書は400ページを超える分厚いものであるが、最初の200ページを読めば、十分に現代社会の諸相を理解しえてしまう。管理社会が進み、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いて見せたビッグブラザーの足音を気にしている人も大いに違いない。

 しかし著者は、ビッグブラザーでは現代の管理社会を説明できないとする。どこかに強大な権力があって、監視されているという図式は分かりやすいが、PCや携帯電話を使う我々は、自分たちから個人情報を絶えず発信している。クレジットカードもそうだし、Suicaを使っても、ATMを使っても、自分に関する何がしかの情報を伝えてしまっている。

 そして、これはIT機器を管理する立場にある人であれば、だれでも収集可能なものである。そして、これをネットにいったん流してしまえば、あとはPCからPCへと際限なく伝達され、複製され、消し去ることはできない。この事態をさして、著者は万人による監視、つまりはリトルブラザーの偏在と呼ぶ。これが我々の置かれた社会の実相である。

 強大な権力による中央管理の時代から、環境による管理の時代へと変貌を遂げているというのだ。しかも、自分の情報をカードやその他によって伝えることで、自分が何者であるかを証明し、そうして初めて公的なサービスを受けられる時代に突入するとすれば・・・。

 一方ではプライバシー流出をおそれ、他方では防犯カメラをあまねく配置することでセキュリティを確保しようとしている。防犯カメラは、犯罪者を特定することに役立つが、自分たちも駅やコンビニ・スーパーの防犯カメラに捉えられ、データ解析の対象になる。
このセキュリティ化社会の欲望とプライバシーの喪失が矛盾しながらも、同時並行的に起きている。このような時代に我々はどう身を処すべきか、いや時代に流されないようにするか、それは容易ではない。依然として、不安を抱えながら生きていくほかはない。

 だが、こうして不安の正体が見定められる前と後では世界観が大きく異なる。それを可能にした本書は、事象が複雑化し、本質を捉えるのが困難な時代にあって出色の出来といって過言ではない。決して、哲学書にありがちな難解な言葉を用いて書かれていないので、時代の行く末に漠たる不安を覚える方はぜひ手にとって読んでみてほしい。

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衝撃の向こうにある慄然たるネット社会の姿に立ちつくすばかり

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 書名が内容を言い表す好例は意外に少ない。しかし、本書は「衝撃」という強い語感の言葉を用いているが、それに負けることなく、的を鋭く射ていると言えるだろう。

 メディアの変貌ぶりはすさまじい。もちろん、ネットの伸張のことである。これまでは、新聞やテレビといったマスメディアが情報を伝える媒体として独占的な地位を得ていた。

 ところが、90年代半ばからネットの時代を迎え、個人でもホームページの作成ができるようになり、今ではブログというさらに簡単な情報発信ツールを手に入れた。そして、「オーマイニュース」などのネットメディアと呼ばれる新興勢力が注目を集めている。

 しかし、こうした事象を、業界に詳しい人によって本格的に論じられることは少なかった。
 既存のマスメディアにしてみれば、ネットが伸びると、自分たちがこれまでやってきたことが通用しなくなるので、どちらかと言えば距離を置いてきた。このところ、ようやく大手マスコミもネット重視の姿勢を打ち出し、産経は紙よりもネットで先に記事を上げるようになり、毎日はブロガーとの連携を図り、朝日・読売・日経にいたっては、共同してニュースポータルを立ち上げる準備にかかっている。
 一方、ネットの側は新たなテクノロジーの開発に余念がないものの、自分たちの社会的影響力についての自覚が乏しい。ネットメディアなどは新興勢力ながら、進むべき方向性を見いだすのに苦労しているのが実情だ。「新たなテクノロジーを用いれば何かができそうだ」という予感だけで走っているので、俯瞰的に物事を捉えきれていない。

 そんな中、本書が編まれた意味は大きい。既存のメディアに所属する人、新しいメディアの人、それにブロガーなど、たくさんの人が対論形式で考察を深めていく。話し言葉を書き言葉にしているので、必ずしも読みやすい記述ではないが、難解なわけではない。新しいメディアに興味さえあれば、ワクワクしながら読み進めることになるだろう。

 意見を戦わす人たちも、あらかじめ結論をもって集まっているわけではなく、いろいろな属性の人たちと接触する中で、新しい発見をし、考えをまとめていく。そのおかげで読者は、その場に居合わせているかのような臨場感の中で、読み進めることができる。

 ふだん検索エンジンでグーグルを使っている人は多いはずだが、グーグルをひとつのメディアと見なし、そのジャーナリズム性を議論する場面では、読者も少なからず驚きを覚える。

 いわゆる「グーグル八分」に遭い、グーグルの検索にかからないようになってしまうと、ネット世界には存在しないことになる。今ではグーグルは、新聞社の編集局長のようにニュース価値を決める存在となっているのだ。しかし、このことにグーグル自身は無自覚、書中の言葉を用いれば「無邪気」なのである。

 グーグルは、世界中の情報をフラットに収集するという純粋な動機を持ちながら、ページランクの付け方によって、事の軽重の判断をして世の中に提示している。人々が検索結果を見るのは、米国の調査機関によるとせいぜい30ページほどであり、上位に表示されたものに信頼を置いてしまうという。

 そして、ページランクをあげる手法を探る試みがいくつもの会社によってなされており、手法がうまくいったときには、意図的に「世論形成」がなされるおそれがある。

 ブログの炎上も、これを仕掛ける人たちがいて、人為的に作り出せてしまう。そして、これは実際になされていることだという。
ネットを使う人でスパムメールに悩まされていない人はいないだろうが、スパムメールはコンピュータ・プログラムによって自動的に生成されているのだという。一定のキーワードを設定すれば、幾通りものパターンの文面のメールが自動的にできてしまう。

 そして、これはブログに関してもあてはまるという。したがって、ある新商品やイベントを盛り上げたいときに、同じことを話題にしたブログが同時的に大量に立ち上がるような状況も作り出せるという。これをマスコミの人が、「ネットでは今、この話題で盛り上がっています」と取り上げれば、売り込み戦略は成功となる。

 新しいテクノロジーは、善意にも悪意にも用いられる怖さを秘めている。マスメディアが長い歴史をかけて積み上げてきた倫理規範をネットが持ちあわせていないことを考えれば、歯止めのきかないネットの暴走ともいえる事態が生じてしまう。

 こうした時代に私たちはどう向き合えばいいのだろうか。本書を読み終えたとき、「衝撃」が体を駆け抜けるが、答えがすぐには出て来ない。ウェブテクノロジーの進歩の速さに呆然とするばかりだ。本書は今夏の刊行だが、対論をした当時とのズレをすでに生じているほどなのだから。

 最近の新刊書を見ていると、いかにも書店で人の関心を呼ぼうと待ちかまえているかのような書名が散見される。そして、名前倒れのことが少なくない。しかし本書は、もっと大げさな書名でもよかったのではと思わせるほどの充実ぶりである。

 ネット社会をいやでも生き抜く私たちは、本書のような好著で「ネットリテラシー」を磨いておかないことには、思わぬ目に遭ったり、知らないところで操られる可能性がある。慄然たるネット社会の行く末をかいま見た気がした。

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紙の本〈新釈〉走れメロス 他四篇

2007/05/27 22:28

森見のほどよく力の抜けた佳作は万人を楽しませる

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 森見は『夜は短し歩けよ乙女』で一気にブレイクした。そして、この傑作に続く本書は、ほどよく力の抜けた作品であった。「山月記」「藪の中」「走れメロス」「桜の森の満開の下」「百物語」などの近代のよく知られた作品群を下敷きに、森見ならではの舞台設定で、物語が展開していく。
 森見独特の世界観が広がっているので、実は、もとになった作品群を思い起こせなくても楽しめる。もちろん、もとの作品と照らし合わせながら、森見の想像力のすばらしさを確かめながら読むのでもよい。
 本書に収められた5作品は、登場人物が少しずつ重複しているので、連作となっている。その意味では、あいだを置かずに続けて読みたいところだが、無理にそうしなくてもやすやすと読めてしまう。森見の小説はとても読みやすいからだ。さらに、読者に、「この先どんな風に展開していくのかな・・・」とわくわくしながら読ませてしまう筆致も確かだからだ。
 『夜は短し歩けよ乙女』は、広く評判を得ることを念頭に、かなり力を込めて書いた作品ではないかと思われる。その点、本書の5作品は、肩の力を抜いて書いたように思われる。だからといって手が抜かれているということはない。逆に、力が抜けた分、小説としての味わいが増しているように思われる。森見の力量の確かさを確認できた。
 この5連作もよく構想が練られている。そして、『夜は短し歩けよ乙女』では、やや強引に押し込んだ感のある古風な言い回しや漢語も、本書では収まりがよい。
 京都を舞台として選んでいるが、登場人物たちが、京都の町を右に左に、北に南にと走り回る様が目に浮かぶようだ。その意味では『夜は短し歩けよ乙女』よりも読者に現実感を覚えさせる。
 こういったハチャメチャなことが、現代の街でも本当に繰り広げられていたらさぞかし愉快だろうなと思う。そう思ってしまった私は、森見の小説世界に遊ぶ楽しさを知ってしまったようだ。順番としては、『夜は短し歩けよ乙女』のあとに読まれることをおすすめしたい。

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改革派の官僚が主流をなすような状況はいつ生まれるのか

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 東大数学科卒の異色の財務官僚だった高橋洋一氏の著書だ。経済学科も卒業しており、東大法学部閥の強い財務省の中では異彩を放つ官僚生活だった。ご本人も書いているとおり、数学の才能は相当にずば抜けものがあるようだ。東大法学部卒では、予算などの数字を扱ってはいても、専門的な計数処理には疎く、高橋氏のやっていることは理解できなかったようだ。

 本書は、著者が官僚だった頃の、さまざまな財務官僚、他省庁の官僚、政治家などとのやりとりがかなり赤裸々に語られている。小泉政権下で、改革派として鳴らした官僚といった印象が強いが、実際にはその数学的才能を生かして、ほかの官僚にはできないリスク管理や財投改革をやってのけている。数学的ロジックを適用すれば当たり前のことをただやっただけという風に述べている。

 高橋氏が任官するまでは、国がとてつもない金利リスクを負っていたりしたのが、次々に解決するか、軽減されていく。それはそれですごいのだが、こうした計数処理能力をもった官僚を毎年のようにとらなくてはまずいのではないだろうか。郵政改革も、当時の郵貯の金利の付け方が妥当かどうか、結局のところだれも知らなかったとあっては、おそろしい。霞ヶ関の常識をうち破った人というよりは、ひとつ間違えば大きな損失を国が被るリスクをひとつひとつ片づけていった人ということではないだろうか。

 郵貯に味方するような考えをまとめたというので、郵政省(当時)のあつまりで万雷の拍手を受けたりするが、ただ単にシステムの誤りを修正しただけなので、高橋氏は当惑している。そのくらい、自分たちの扱っている巨額の資金のあやうさを知らないというのは、郵政官僚もそうだが、財務官僚にも怖くなってしまった。

 高橋氏としても2008年に退官しているので、その後を引きつぐ改革、というより「業務改善」が進んでいないようだ。ひところメディアをにぎわせた「埋蔵金」も、本書では50兆円(p.197)とされているが、いったいあのあとどうなってしまったのか? もう使い尽くしたかのようにいう声も聞くがはたして・・・。この点は、高橋氏の新しい著書を読んで、調べてみたい。

 最近では、日本財政は危機にあるとして、政府の債務は1000兆円近くにのぼると、よく新聞・テレビで言われる。本書の時点ではそれは834兆円だ(p.207)。これについては、「粗債務」であって、国際的に用いられる「純債務」ではないと、高橋氏はまず数字のレトリックを指摘する。そして、日本政府は多額の資産をもっているので、純債務は約300兆円に減るという。なおかつ、日本政府は、対外的には、財政は危機にはないと言っているのだから、そもそも矛盾している。

 数字に疎く、霞ヶ関(財務省)の情報を流すだけの日本の新聞・テレビを見ていると、増税やむなしという気持ちになりそうだが、本書では増税ありきの考えを明確に否定している。1.デフレ脱却、2.政府資産の売却、3.歳出削減、4.制度改革、5.増税という順番が小泉・竹中路線の頃は聞かれたと繰り返し出てくる。

 この議論が野田政権下でなくなってしまい、5番バッターの増税だけが登場している。デフレ脱却や、資産売却、経済成長の戦略はどうなってしまったのか? 増税に政治生命や命を懸けてやるという今の首相は、命のかけどころを誤っていると感じる。

 増税で景気が冷えこめば、思うような税収を得られず、さらに増税をするという悪循環が待っているのではないか?

 本書は2008年の本だが、今にも通じる議論が少なくない。それにしても、これだけ改革への抵抗が強い国では、根本的治療はむずかしそうだ。今でも抵抗勢力は、幅を利かせているのだから。
 高橋氏のような改革の意志のある人が、結局は退官せざるを得ないのでは・・・ため息が出る。

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アップル社の製品とサービスに魅了されすぎないように注意

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 今更ながらiPadに注目し始めるのも遅いのだけれども、いいものはいいのだから仕方がない。本書によって、iPadの魅力とアップルの戦略のすばらしさが嫌というほど理解できるようになっている。

 著者はもともと近年のIT技術の中では、”iPhone”に革新的なものを見いだしている。前著の『iPhoneショック』でそのことを著している。続編を出す前に、思ったよりも早く”iPad”というタブレット端末が姿を現した。

 したがって、実は、本書の根底にあるのはiPhoneが切り開く未来だ。ときどき思い出したようにiPadに話が戻る。そのくらいiPhoneが可能にしつつあるライフスタイルには驚きがある。日本ではずっとソフトバンクの独占販売だったのが、昨年ようやくauも第二のキャリアになった(本書はまだソフトバンク独占のころに書かれている)。

 ウェブ2.0時代はあくまでPCの使える自宅や職場などの環境での話であった。それが、屋外に出てもサッと取り出した端末で、PCさながらに情報アクセスできることを可能にしたiPhone。加えて、アプリの提供によって切り開いた高い利便性のポテンシャル。そのすごさに、いち早く気づいて世の中に知らせてきた著者。

 その魅力は、本書を読んでみるしかない。書評もお手上げだ。
 iPhone、アプリ、iTunesストア、というビジネスモデルの革新性は、なかなか表現しがたい。それを本に著してみせた著者の力量 はたしかだ。

 iPhoneとiPadが切り開き、これから可能にしていくであろうライフスタイルにはわくわくさせられる。出版、放送(テレビ、ラジオ)、新聞、映画などが、このプラットフォーム上で融合する。長く「通信と放送の融合」と言われながら、かけ声だけに終わっていたのが、ここに現実のものとする技術的基盤が生まれた。

 こうした動きに日本は遅れがちなようだ。アップルにばかり、いい思いをさせておくほど日本の技術力は後れをとっていないことを、そろそろ証明しなくてはいけない。

 アップルは、製品の優秀性を盾にとり、パートナー企業のビジネス手法の細部にまで、口をはさむ。ひとつ間違えば、横暴な印象も与えかねないところを、ぎりぎり踏みとどまっているのは、ユーザーにすぐれた体験を提供したいというアップルの企業姿勢が、たくさんのファンを生み出しているからだ。

 もともとは日本企業が得意にしていたはずのユーザー本意の製品開発とサービス提供に徹すれば、追いつけなくはないはずだ。しかし、追いかけるほどに、アップルは先へ先へと進んでしまっているのが現実である。
 
 などと書きながら、評者はiPhoneもiPadもいまだ所有していない。今年あたり、たまらずに、どちらかに手を出してしまいそうな予感がする。それが、ジョブズなきあとのアップル製品だとしても。

 ジョブズやアップルに食わず嫌いで、距離を置いてしまっている人は、本書を批判的に読み終えたあとでも、その食わず嫌いが持ちこたえられるかどうか、試してみるのも悪くないと思った。財布の口がゆるいと、いつの間にかアップル製品を買い求めてしまっているかもしれないので、みなさん要注意ですよ。

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チェルノブイリ事故後の貴重な記録。そして今後の課題が見えてくる

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 福島第一原発事故以来、放射能汚染の恐怖にさらされる日々。野菜やお茶の葉、肉牛などから、次々と許容レベルを超えた放射能が検出される。

 「ただちに健康に影響が出るレベルではない」と繰り返される。たしかに、急性の放射線障害を起こしたという話は聞かないが、長期にわたる被爆の影響はどうなのか? 信用できそうな答えを示してくれる専門家が見あたらない。消えない不安。経験のない事態。

 いや、大きな原発事故は福島第一がはじめてではない。チェルノブイリ原発事故が先例だ。あの事故も、周囲に広大な汚染地区を生みだした。
 1986年4月に起きたチェルノブイリ事故。その影響を調べれば、福島第一の事故後、何が起きるのか、ある程度見当がつくのではないか。

 ところが、意外なほど情報が少ない。本書はそんな中、貴重な記録となっている。果敢に現地取材をおこない、事故後の汚染地区の状況をまとめているのだ。

 さて、本書の多くのページは、チェルノブイリ事故が周辺環境に与えた影響について割かれている。事故直後は、不毛の地が広がるとも予想された原発周辺には、驚いたことに豊かな自然が戻っている。

 人が避難させられた分、人による自然破壊がなくなって、多くの野生動植物がすみつくようになった。もちろん、表向きは自然度が高くなったとはいっても、随所に高レベルの放射線が検出される事実を著者はきちんと指摘する。奇妙にねじれた松、繁殖率の低下した小動物、地中で死んでしまう昆虫などが例示される。

 ただ、一般的に環境指標とされることが多い両生類のカエルに関して、著者の取材した「赤い森」では奇形が一匹も見つかっていないという。ヘラジカ、ヒグマ、オオカミ、オジロワシ・・・、おもいもかけず自然動物園が出現している事実を著者は報告する。もちろん、放射能に汚染された状態である。例えば、キノコなど怖ろしいくらいの汚染度だ。

 人体への影響を知りたい読者は、第7章と第8章から読むといいかもしれない。ページを繰るスピードがぐっと速くなる。
 顕著な影響は、放射性ヨウ素を、事故直後に取り込んだ子どもたちに現れている。甲状腺ガンが5年後から急増したのだ。これは日本でも知られている。では、ほかの影響は? 低線量を長期に被爆した人の健康状態は?

 本書は、低線量被爆以外の影響要因との区別をつけるのがむずかしいとする。ウクライナ、ベラルーシといった高濃度に汚染された地域は、貧しいこともあって、社会経済的要因(飲酒、喫煙、栄養不足、劣悪な公衆衛生)が無視できないくらいにあるのだと。

 原発事故の影響を受けた人に関する、信頼のおける健康調査がなされていない。これにはがっかりだ。こういう点にこそ、国際社会は支援の手を差し伸べて、低線量被爆の医学的追跡調査をすべきではなかったのか。

 放射能汚染の不安におびえる私たちへの決定的な答えを本書は教えてくれない。ただし、著者は、遠回しながら、野生の動植物が回復していること、低線量被爆による明らかな健康被害が認められないことから、それほど不安におびえることはないと言いたいようにも見える。

 ただ、読後に思ったのは、現時点で事故から25年が経過しているが、今からでも、汚染地区の人たちの健康調査をしてもいいのではないかということだ。

 どんな手がかりでもいい。情報を集めて、不安に感じている人にもたらせば、いくらか不安を軽減できるし、あらかじめ打っておくべく措置もそれなりに分かるのではないだろうか。チェルノブイリという先例がありながら、国際社会は、その経験を共有できていない。

 サマショールと呼ばれる、汚染地区に戻ってきてしまった人たちのことが取り上げられている。あるいはリクヴィダートル呼ばれる除染作業員が80万人にものぼるという。実際には除染作業に携わっていない人まで混じっているということだが、慎重に抽出すれば、医学的追跡調査は不可能とは思えないのだが。

 「残念ながら、事故が健康に与えた長期的な影響については、これまでのところ、きちんと計画された公平な医学調査が少ないため、ほとんど何も証明できない。とはいえ、ひとつはっきりしていることがある。原子力業界は、ウクライナでも、世界中でも、チェルノブイリ事故の健康調査を推進する活動をほとんどしてこなかったということだ」(p.312-313)

 今からでも、できることはあるだろう。
 健康調査によって明らかになったことを日本に適用し、健康被害を少しでも小さくする。そして、その知見を逆に国際社会に還元していく。こうした国際協力があってもよいように思った。

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紙の本半落ち

2011/06/15 21:11

読者が落ちてしまう秀作

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 本書は、刊行当時ベストセラーになり、映画化もされた。だから、書名はよく目にしていた。しかし、売れたときから時間が経っていたので、少し冷めた気分で読み始めた。

 ところが、いくら読み進めても、特段に引き込まれるような展開にならない。「もっとすぐれたミステリ作家はほかにもいるだろうに、どうして売れたのだろう」などと生意気な気持ちを覚えた。

 この小説に残された謎はただ1点。その真相は、当然ながらなかなか明らかにされない。凝った作家なら、もっと謎をたくさん仕込み、複雑な構成にして、読者を引きつけていくだろう。

 複数の登場人物の視点から、ひとつの殺人事件とその後の自首に至る経緯、裁判、服役が描かれていく。奇をてらわないストレートな展開だ。
 
 そうして9割を読み終えた。不安になった。本書のどこに、ベストセラーになり、映画化までされるものがあるというのかと。自分は何か重要な点を読み飛ばしているのかもしれないとまで思った。
 ついに、謎が解き明かされた。それでも特段の感慨はわかない。淡々と真相を受け止めてしまった。

 ただ、50歳を迎える男の人生の喜怒哀楽が、自分の中にすべり込んできた。自分はまだその年齢ではない。それでも、不思議と理解することができた。これが下地を作ったのである。

 最後の数ページ、いや真相解明後の10行ほどで、突然にそれはこみ上げてきた。主人公の心情と自分のそれとがひとつになった。

 涙がとめどなくあふれでてきた。正直なところ、自分には読書で涙する習慣はない。じーんとくることはあっっても、泣くということはまずない。かぎりなくゼロに近い。それが泣かされてしまったのである。完全に落ちてしまった。

 奇をてらわない素直な筆致で読ませて、ここまで持っていかれてしまったことに愕然とした。

 素直に良書と向き合えば、こんなにも感情を解き放つことができるのであった。そんなことを教えてくれる、掛け値なしの満点の作品である。

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