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  3. 石曽根康一さんのレビュー一覧

石曽根康一さんのレビュー一覧

投稿者:石曽根康一

54 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本幻影の書

2008/12/16 14:07

自己中心的な、余りにも自己中心的な

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ある日、世界は崩壊しました。
それは主観的観点からでしょうか?
おそらく、ポール・オースターは、世界の崩壊は主観的なものと考えるでしょう。
『幻影の書』は世界が崩壊した状態から始まり、
再生しかけ、クライマックスがあり、別のあり方で再生するという物語です。
具体的に世界が崩壊した状態というのは、主人公にとっては、妻と子供を飛行機事故で亡くしたことであり、彼は酒におぼれるわけです。
その一個人を物語は固定カメラで映しているかのようにずっと見つめていく。
それは「ていねい」だとか、「密度が濃い」という言い方もできるでしょうが、僕にはひどく個人的で、自己中心的だと思われます。

世界とは何でしょうか?
〈私の目〉から見たものが世界なのでしょうか?
物語の終盤に、主人公は、〈見えないものは存在しないのだ〉という考えを抱きます。
しかし、果たしてそうなのでしょうか?
なぜ、そんなに主観的に世界を捉えるのでしょう?
この本は映画が主題です。
ですから、〈見る〉という行為に力点を置くのはある程度しかたがないのかもしれませんが、しかし、主人公が視力を失ったら、どう感じるのでしょうか?
そのとき、世界は〈なくなる〉のでしょうか?
しかし、自己中心的な彼のことですから、今度は「触れないものは存在しない」とか言い出すのでしょう。

僕は以前、ポール・オースターのエッセイ集を読んでいて、ひどくアメリカ的で、個人主義的でいやになったことがあります。
『幻影の書』でも、出てくる人物たちは、主人公にとって何らかの意味を持った人物に限られ、プラス、マイナスの作用がなければ、存在しない、というように受けとめられます。
しかし、僕にとって、世界というものは自分が中心のものではありません。
僕は自分が知らないこと、見えないことが「ないのだ」と断言することはできません。
新潮社のつくったオビにはポール・オースターの「最高傑作」だと書いてありますが、首を傾げたくなります。
おそらく、彼はこのベクトルで進んでいくのでしょう。
あくまでも自己中心的に。
そして、それを喜んで日本の読者は受け入れるのでしょう。
1日1ドル以下で生活している人を見たことがないということで、その存在を黙殺しながら。

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紙の本カソウスキの行方

2008/12/15 18:16

「カソウスキの行方」を読んで

5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

なまける、ということについて。
なまける、というのは、本当は100できるのに、
50あるいは、70しかやらないことをいう。
本来的に100できない人に対して、「なまけている」というのは、
言葉の使い方として間違っている。

津村記久子の「カソウスキの行方」は、主人公の兄が働かないことに対する、ベタなイメージが描かれていて安易だと思うのだが、ここに作者である津村氏の限界が表れていると思う。
自分というものがあって、「兄」という他者がいる。
そのときに、どう「兄」を扱うかによって、作者自身の人間観が表れてくる。
「カソウスキの行方」は職場を舞台にした小説で、どこか、「新自由主義的価値観」が底流に流れているように感じられる。
そして、それが作者の直接の声のように感じられて、作者の限界に思い当たる。
山崎ナオコーラや松尾依子にも言えることだが、
彼女たちが描く人間は、彼女たち自身の価値観を反映しているように思えて、ポリフォニックではない。
そして、その彼女たちの価値観というのが、少しでも思想や哲学に触れたことがある人間なら、気づくような深みを備えていない。つまり、浅い。
それに比べて、ドストエフスキーの描く作品には深みが感じられる。
ドストエフスキーと比べるな、と言う人がいるかもしれないが、作家は今まで書かれた全てのテクストと格闘しなければならないのである。それが作家が作家であることの使命である。
彼女たちはまだ若いので、自らの限界を打ち破るチャンスはいくらでもある。

「カソウスキの行方」に話を戻すと、主人公(≒作者)は「兄」をたんに「なまけている」と見ているように感じられる。
しかし、本当にそうなのだろうか?
本当は、働かないのではなく、働けないのかもしれないのだ。
そして、何らかの社会的な援助が差し伸べられるべきであるのかもしれない。
そういうことを描かずに、「母親は私よりも兄が大事」などと家族内の問題に矮小化してしまう。それが作品の奥行きをなくしている。
津村氏や山崎ナオコーラなども「半径3メートルのこと」を書く作家である。あるいは、そういう身近なことしか書けないのかもしれない。そういう世界の捉え方でも、深い人間の捉えかたをすることは可能かもしれない。しかし、今までのところ、そういった「深化」はあまり見られないと、個人的には感じる。
何度も書くように、彼女たちは、まだ若い。今の限界を打ち破るチャンスはいくらでもある。
そして、こういうときに僕は作者を育てていく、批評家がいればなと思う。一線の若手作家を批評する批評家。
出版社は作家を生み出すと同時に、批評家を生み出す努力もすべきだろう。

(追記)上記を書いてから、同氏の『ミュージック・ブレス・ユー!!』を読んだ。これは、少年・少女たちの世界だけを描いたもので、悪くはないが、少し物足りなさ、作者の人間観の提示という点で、そのような印象を描いた。筑摩書房から出た新作は再び大人を描いているようなので、読んでみて、機会があったら、また何か感想を書きたいと思う。

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紙の本犬の人生

2008/10/04 17:05

詩人は殺人者の夢を見るか?

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

こんにちは。
おひさしぶりです。

-->中央公論新社から出ている「村上春樹翻訳ライブラリー」。残すは、『バビロンに帰る ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック2』と『滝への新しい小径』だけになりました。このシリーズのおかげで、廉価にレイモンド・カヴァーに触れることができて、よかったです。
今回の『犬の人生』。全体的にはよかったです。ただ、最後に収録されている「殺人詩人」について書きたいと思ってこの書評を書いています。
この話は、「私」が親交のあった「スタンリー・R」という詩人について語ることで話が進みます。「スタンリー」は「理由もなく両親を殺害し、一片の悔恨の情をも示さなかった」(189ページ)。「私」は彼との思い出を語りながら、ついには処刑されるに至った、「スタンリー」の「スタンリーの最後の言葉」で、この小説は幕を閉じます。
正直、この「スタンリーの最後の言葉」を読んだとき、僕はぞっとしました。ここで、「スタンリー」は明晰に〈透明な〉言葉で、両親を殺害したことを淡々と報告します。僕はこれを読んで、酒鬼薔薇聖斗と名乗った少年の「犯行声明文」に書かれた〈透明な僕〉という言葉を思い出しました。僕にはどうやっても「スタンリー」の主張は承服できない。肯定できない。僕にとっては「スタンリー」の主張は唾棄すべきものだと思えるのです。
訳者の村上春樹は「訳者あとがき」の中で、アメリカでのこの『犬の人生』についての書評をいくつか紹介している。その中に、ミチコ・カクタニのものがある。
「これらの小説は、根を欠いた異質性の奇妙で、シュールリアリスティックなスケッチである。それはあまりにも軽く、あまりにも仮説的であり、今にもふっと蒸発してしまいそうに見える。ストランドの作品の登場人物は全員がストランド自身のようであり、あまりにも死と影の妄想にとりつかれているので、死が私たちの存在をすっぽりと覆ってしまうことになる。そして彼らは日々の生活の喜びや痛みを味わう余裕すら持つことができない」(223―224ページ)。
このミチコ・カクタニについて、村上春樹は「見当違いの聡明さという彼女の救いがたい資質は、ここでも見事に証明されている」(223ページ)と非難している。
たしかにこの『犬の人生』全体について言えば、ミチコ・カクタニの書評は僕個人としてもあまりぴったりはこない気がする。
しかし、「殺人詩人」については、僕はこのミチコ・カクタニの書評はぴったりするのではないかと思っている。
「スタンリー」は「死と影の妄想にとりつかれて」いて、「日々の生活の喜びや痛みを味わう余裕すら持つことができない」、と僕には思える。文学はときに、人をdriveさせる。それは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を訳した村上春樹は知っていることで、『サリンジャー戦記』にも彼はその事実を書いている。また、カポーティの『冷血』には、『カラマーゾフの兄弟』を読み終わった後に、家族を射殺した男が出てくる。このように、ときに、文学は人をdriveさせるのだ。
個人的に、村上春樹は、この「殺人詩人」を訳すべきじゃなかったと思う。
「殺人詩人」以外の小説は楽しめたことは改めて、付言しておきたい。ただ、「殺人詩人」だけは、受け入れられない。肯定できない。承服できない。
さて、あなたはどう感じるだろうか。ぜひ、この『犬の人生』を読んで、感想をbk1の書評に書いていただきたい。あなたにとって「スタンリー」はどう映ったか。彼に共感できるか。あるいは彼は唾棄すべき人間なのか。あなたの意見を待っています。

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紙の本ニッポンの小説 百年の孤独

2007/01/17 23:04

タカハシさんの「ニッポン近代文学」探求

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「ニッポンの小説」とは何か。
言うまでもなく、明治時代から現在まで続いてきた日本語による小説である。
タカハシさんは、この本の中で、明治時代に書かれた小説、つい最近書かれた小説、1960年代に書かれた詩、ベネディクト・アンダーソン、中沢新一、荒川洋治、内田樹、レヴィナス、などが書いた文章を引用しながら、小説とは何か、言葉とは何か、詩と小説の違いとはないか、ニッポンの小説が辿ってきた道とはどんなものか、考えようとする。言葉と政治、言葉の暴力性、この辺の主題は、タカハシさんの『文学なんかこわくない』(朝日文庫)や『一億三千万人のための小説教室』(岩波新書)から引き継がれ、本書でも論じられている。
個人的に印象に残ったのは、タカハシさんが、この本の中で、再三、「死者の代弁をすることはできない」といっていることだ。このことを言い切ったタカハシさんは、とても勇気があるし、正直だと思う。タカハシさんは、小説を書く人が気づいていない、あるいは、気づかないフリをしている事実を言い当てる。
小説を書いている人、新人賞に小説を送っている人、言葉についてちょっと人と違うことを考えてしまう人、小説に興味のある人、言語活動に興味のある人なら、誰にでもお勧めできる。ただし、タカハシさんは、明確な結論を語ってはくれない。おそらくタカハシさんは、さらなる答えを求められたらこういうだろう。「自分で考える!」
ちなみに、タカハシさんは、昨年行われたトークショーでこの本が、三部作のうちの一冊目だといっている。残りの二作にも注目である。

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紙の本翻訳家の仕事

2007/03/29 13:26

翻訳家大集合!

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

様々な翻訳家たちのエッセイを纏めたもの。
翻訳が主な仕事でない人も含まれるが、
全体的には、「翻訳」に関するエッセイになっている。
一つ一つのエッセイは短いもので、だからこそ、十人十色の意見が聞ける。
ただ、著者によって、「翻訳」の捉えかたが違うので、この一冊から、一つの統一した「翻訳観」を導き出そうとするのは、難しいかもしれない。そのへん、読んでいて(各エッセイが短いこともあって)、個人的には多少不満が残った。
でも、これだけ多くの第一線で働いている翻訳家のエッセイをまとめて読むことはなかなかできないだろうから、その意味では貴重な本だとおもう。
各人が訳したものも読んで見たくなる。
巻末の、執筆者紹介にある、各執筆者の印象に残っている翻訳作品も興味深い。
個人的には、伊藤比呂美さんのエッセイには、胸をうたれた。

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紙の本われらの時代 改版

2009/05/06 18:01

読了できず……!

5人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

僕は以前、「村上春樹と大江健三郎は教科書を読むように読んでいる」と書いた。
『われらの時代』は本屋に行ったとき、気になった本で、結局は隣の『同時代ゲーム』を買ったのだが、家に帰ってきてから、読みたくなったので、図書館で予約した。
その前にbk1で購入した『私という小説家の作り方』(新潮文庫)を読んだのだが、その中で大江健三郎は次のように書いている。
「私はこの文章を書く準備に、これまでの作家生活で書いたすべての小説を展望した。私は自分が生きてきた時代と社会をよく描いてきたろうか? いまも新潮文庫版で生きている長篇のうち『われらの時代』『遅れてきた青年』『日常生活の冒険』をその他の版では再刊しないことにした。(中略)小説としてかたちがよくととのえられていない、と感じたからだ」(p160)
それで、『私という小説家の作り方』の裏表紙には次のような文章がある。
「小説中の「僕」とは誰か? ジャーナリズムや批評家をアテにせず小説を書いていくには? なぜ多くの引用をするのか? 失敗作はどれか?」
この「失敗作はどれか?」に当たる文章は全体を読んでみたところ、上に引用した160ページのものしか見当たらない。
まあ、裏表紙の文章は作者本人ではなく、編集部が書くのだろうが、こういう書き方を大江健三郎が拒否しなかったというのは、あまり重視してもいけないかもしれないが、一つの指針になる。
しかし僕はそれでも大江健三郎の小説は全部読む!と気をふるい立たせて、ページをめくっていった。
そして気分が悪くなってしまった。まったく官能的ではない性交渉の描写、猫の流産の描写……、そして主人公兄弟のビールを飲みながらの会話、その会話をし終え別れた後に感じる兄の気持ち。
そういう全部がごたまぜになって、僕は続きを読むという気力を失ってしまった。しかしある意味これは僕にとっては敗北だった。「教科書を読むように、全部」読むことを断念したからだ!
結局、パラパラと最後の方のページをめくってみて、どういうストーリーなのかを確かめて、図書館に返却した。
『われらの時代』の何が僕に合わなかったのだろう。それをうまく言葉にできないが、この作品に近いもの―内容の類似点もある―として講談社文芸文庫の『叫び声』を僕はすすめたい。『叫び声』は僕も読了することができた。
実は村上春樹の小説でも『回転木馬のデッド・ヒート』の中のある小説の断定調の文章にいやになって、その本を最後まで読まず、放り投げたことがある。
つまり、僕は「教科書のように読む」と言いながら、二重の意味で落第生なのだ。
大江健三郎は今も現役の作家だ。講談社の「書き下ろし100冊」で新作を出すみたいだから、それを楽しみにしながら、しばらく経ったら、買っておいた『同時代ゲーム』を読もうと思う。『同時代ゲーム』については、『私という小説家の作り方』でこう書かれている。(一部文章をおぎなった)。
「ノーベル賞の選考委員会評ではこの小説(『M/Tと森のフシギの物語』)と『万延元年のフットボール』がもっとも重視された。それでも私がなお抱くもうひとつの野心は、こうだ。今度は『M/Tと森のフシギの物語』に対して、そうではない(原文傍点)と異化の声を発しつつ『同時代ゲーム』にたちかえってくれる批評家、読者が現れてくれればどんなに倖せだろう……』(p98)
『同時代ゲーム』、期待して読みたいと思う。

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紙の本心理学ってどんなもの

2009/02/16 20:58

『心理学ってどんなもの』を読んで

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

評論家の宮崎哲弥が、毎月出版された新書をすべて読み、ベスト5とワーストを紹介するという仕事をしていた。
その中でたまに岩波ジュニア新書が出てきた。ワーストの方ではなく、ベスト5の方で。
僕は高校生だったときに、3年間で本を5冊くらいしか読んでいない。当然、岩波ジュニア新書とも無縁だった。
しかし、岩波ジュニア新書の中には各学問の初歩を紹介したものがあり、その中には良書もある。

本書は心理学についての入門書である。具体的には進路として心理学を選ぼうかと検討している高校生やすでに大学で心理学を学んでいる学部の1,2年生を対象としている。
僕のこの本への基本的な向き合い方は、「精神分析は現代の心理学でどのように捉えられているのか?」ということだった。それについては、117ページから説明されていて、その説明は、妥当なものだと思われる。
心理学は科学である。著者も書いている。「(前略)一度はフロイトにのめりこむのもいいかもしれません。ただ、そこから脱出してサイエンスの世界に戻ってきてもらわないと困ります」

この本を読んでよかったか、と問われれば、「よかった」と答えよう。ただ、僕には少し物足りなかった。だから、この次に、東京大学出版会から昨年出版された『心理学 第3版』を読んでみようと思っている。

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頭のリフレッシュに

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「かるた」を本に纏めたような本。
下ネタっぽいものから、
ちょっとグロテスクなものまで、
種種雑多な「かるた」がそろっている。
村上春樹さんの翻訳作品とちょっと
絡んでいるところもあって面白い。
読んで、
「あー感動した」
とか思うような本ではありませんが、
頭のリフレッシュにはいいかもしれません。
僕は読んでいる途中、3回吹き出しました。

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紙の本ゲバラちえ子の革命的日常

2007/04/29 21:21

しりあがりさんのマンガはやっぱりおもしろい

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

しりあがりさんの新作です。
「婦人公論」に連載されていたものを纏めたものです。
「ゆるくシュールな」マンガです。
なぜ、主人公の、「ゲバラちえ子」が、チェ・ゲバラのティーシャツを着ているのか、よく分かりません。
彼女が何故、「革命」に没頭しているのかもよく分かりません。
そんなことの理由は示されないまま、日常のちょっとしたことが描かれていきます。
「ジャカランダ」で描かれたような「破壊」は、このマンガにはありません。
雰囲気的には、「地球防衛家のヒトビト」に近いです。
「ちえ子」がアルバイトで入った会社の社長と不倫に近いような関係になるのか?というところは、「婦人公論」の読者を対象とすれば、24歳男のぼくが読むよりも面白くかんじられると思います。
安心して読めるので、多くの人におすすめできます。
エロ・グロはありませんので、ご安心を。

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紙の本日本語は天才である

2007/04/09 21:31

日本語の豊潤さ

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本語の奥深さを実感できる本です。
まず、著者が、「日本語は天才である」と感じるきっかけになった翻訳の実体験が面白い。
”You are a full Moon.””You are a full、Moon”という英文を果たして柳瀬さんはどのように翻訳したのか?
また、”O note the two round holes in onion.”をどう訳したのか?
また、”EVIL-LIVE”をどう訳したのか?
目からうろこが落ちる思いです。
その後、話は、ルビ、方言、いろは歌など、様々な、日本語の森に進んでいく。
ちょっとお説教臭いところもあるけど、それはまあ、良いとして、
全体的に、楽しめる本です。

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暴力とギャグとオマージュ

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「真説」になってから読んでいるのだが、新しい巻が出ると、欲しくなる。つまり、続きを読みたくなる。
過剰な暴力表現とギャグと、オマージュ。
「ドラゴンボール」などの少年漫画を引き継ぎ、さらに、それを発展させる形で、この漫画は書かれている。
暴力表現に胸焼けする感じもないではないのだが、
それも一つの「記号」として捉えられているので、何とか読み進められる。随所にある、80年代・90年代の文物へのオマージュも読んでいて楽しい。

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茂木さんの天才論

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

レオナルド・ダ・ヴィンチを話題の中心としながら、茂木健一郎さんが、「天才」とは何かについて、語ったことを文字に起こしたもの。
前半は、レオナルドの人となりから入り、後半に入るにつれて、一般的な「天才論」、さらにそれとからめて、教育論にまで進んでいく。
個人的には、この本に載っている、レオナルドの絵が苦手だ。見ていて、なんだか、「怖い」という感情を抱いてしまう。それは、この本に書かれているように、レオナルドの絵が、「不安をかき立てる絵」だからなのかもしれない。
111ページには、「意欲のない天才、無気力な天才というのは、あり得ないのです」と書かれている。
ここを読んで、自分は、天才にはなれないなと思った次第である。

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紙の本村上春樹はくせになる

2007/02/18 16:46

村上春樹の読み方その一

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

村上春樹について、書かれた本。
特徴は、1995年を彼の転機だと考えている点か。
しかし、正直に言うと、
『ノルウェイの森』しか読んだことのない
ぼくからすると、ちょっと読んでいて、
分からないところもあった。
村上春樹の作品をほとんど読んでいる人が読んだら、
もっと楽しめるだろうと思う。

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少年マンガ的執事マンガ

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

不思議なマンガだ。
執事が出てきて、活躍?するマンガのようにも見えるし、
女の子が沢山出てくる、少年漫画にありがちのマンガのようにも見える。
だけど、アニメやゲームへの「メタ」的な言及など、
一筋縄ではいかない構造になっている。
僕は、サンデーを購読していた時から、読んでいて、
9巻から単行本では読んでいるのだが、
この巻から読み始めても、なんとなく、話の筋はわかってくるのではないかと思う。
アニメもやっているそうなので、興味のある方は、そちらもどうぞ。

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「フランケンシュタイン」を通して小説の読み方を知る

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

実を言うと、最近bk1に書評を書くのがなかなか思うようにいかなかった。
bk1の書評はいわば、本屋さんのポップのような存在だから、つまらない本に対して、「つまらない」ということは、はばかられる。それに、面白いと思っても、その面白さがなかなか言葉にならない場合も書評は書けない。そんなもどかしさがあって、なかなか書けなかった。
本書は、2005年に発行された本である。
「フランケンシュタイン」という多くの人が名前は聞いたことがあるであろう書物を題材に数々の批評理論というものを概説している。
実は、僕も読むまでは「フランケンシュタイン」というのは、出てくる怪物の名前だと思っていた。でも実は違います。
この本は、前半は「小説技法篇」、後半は「批評理論篇」となっている。前半では、批評理論以前の小説の読み方として、「冒頭」、「語り手」、「焦点化」などのキーワードをもとに「フランケンシュタイン」を読み解いていく。これを読むまで、僕は、「ストーリー」と「プロット」の違いなんて知らなかった!
「語り手」の部分では、いわゆる「信頼できない語り手」なども説明される。この前半部分を読むだけで、これからの、小説の読み方が深くなることは間違いなし!
後半は、批評理論が概観されている。といっても新書だからそんなに専門的にだらだらと議論されているわけではない。そのボリュームが僕にとってはちょうどよく、この本は僕の座右の書といってもいい。
後半の目次は、「伝統的批評」、「ジャンル批評」、「読者反応批評」など。
ただこの本は、批評理論さえあれば、小説は読みこなせるといういわば、「批評理論万能主義」に陥ってはいない。
著者はこう書いている。
〈「読む」ということの土台として、読者の印象や直感が大切であることには変わりはない〉(ⅱ頁)。
その意味でこの本は非常に信頼できる本である。
小説愛好者の方々、ぜひ、ご一読あれ!

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