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  3. きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

投稿者:きゃべつちょうちょ

231 件中 31 件~ 45 件を表示

死の影があるから、生が光るということ。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「須賀敦子全集」を3巻、4巻、1巻と読み進めてきたが、
2巻ではじめて、須賀敦子の人生そのものに触れた気がする。
落ち着いた硬質な文章はかわらないが、
ここには須賀敦子の生きたありのままが書かれている。
「ヴェネツィアの宿」では、自身の少女時代から実家の家族のこと。
「トリエステの坂道」ではイタリアで結婚したペッピーノとその家族のこと。
赤裸々に綴られる私小説のようなエッセイに、最初はとまどいをおぼえるほどだ。
もちろん、客観的な視点を忘れていないのでただの生々しさには終わっていないが。

「ヴェネツィアの宿」で心に残るのは、父親との確執とその後の魂の邂逅だ。
大学生という多感なときに、須賀は父親がふたつの家庭を持っていることを知る。
むかしの父親というのは家庭でたいへんな権力を持っていたものだったし、
須賀の家庭でも、強引なお坊ちゃん育ちだった父に誰も逆らえなかった。
しかし父はこわいだけではなく、たとえば須賀がローマに留学した先には、
森鴎外訳のアンデルセン「即興詩人」が小包で届けられたりした。
ここに出てくる場所にはみんな行きなさい、と命令のような手紙を添えて。
須賀の本好きは父ゆずりなのだと、本人もはっきりと全集の4巻でしるしている。
多くのことを教えてくれる尊敬の対象でもあった父。
血のつながり。奥底には断ち切ろうにも断ち切れない強固な鎖があるからこそ、
須賀は思い悩む。無邪気な同級生たちが異星人に見えるほどに。
そうして須賀はある決断を下すのだ。家族が平和を取り戻すために。
この行動力がすごい。おそらく考えるより行動が先に出てしまったのだろう。

「ヴェネツィアの宿」の最終章『オリエント・エクスプレス』は心をゆさぶる。
以前にイギリスに旅行に行ったときに乗ったオリエント急行。
その車内でコーヒーをのんだ、コーヒーカップ。それをぜひ買ってきてくれ。
ミラノの須賀のもとへ、病床の父からの伝言が届く。
ヨーロッパ旅行は父にとってたいせつな青春の一ページだったのだ。
そんなものどこに売っているのか。やれやれといった感じで須賀は探しはじめる。
このコーヒーカップを手に入れるまでが、まさしく父との魂との邂逅なのだ。
色々なことがあり、時はめぐり、あらたな感情のなかで父に向き合う娘の姿。
いま私にしてあげられることはこれしかない。
父のかけがえのない思い出を、どうにかして届けなければ。
須賀は祈りにも似た気持ちで、直接列車の車掌のもとへ赴く。
父の人生のタイムリミットは刻一刻と迫っていたから・・・・・・。
とくにラストの4行は、涙なしに読めない。

「トリエステの坂道」は、詩人ウンベルト・サバに寄せる思いと、
イタリアの家族に寄せる思いが交差する。
トリエステは、憧れの詩人サバが暮らした町なのだった。
須賀はペッピーノと結婚し、ミラノに居を構えることになったが、
ペッピーノの家庭もまた色々な事情を抱えていた。
彼の兄は早くに病死している。そして妹もまたおなじ病気で旅立った。
この家族の事情をはじめとして、全編に死の気配が濃厚にある。
最愛の夫ペッピーノそのひとも、41歳という若さで逝ってしまうのだ。
須賀敦子の文章だから、もちろん、べたべたした感傷的なところはない。
けれども、生きている人間がどうしても越えることのできない壁みたいなものが
この「トリエステの坂道」には、たちはだかっているような印象をうける。
出会った人たち、縁あって思い出をつくった人たちが次々に亡くなってしまう。
エピソードが輝きに満ちていればいるほど、その死はかなしい。
死というのは、それだけで生を摩耗させるものなのかもしれない。
あまり面識がなかった人でも、葬儀というのは疲労するものだ。
肉親や友人の場合はなおさら。言葉にできない疲れと痛みが伴う。
そんな思いを、須賀敦子はいったいいくつ掻い潜ってきたのだろう。
最愛の人を亡くしたときの彼女を考えると、胸に熱いかたまりが押し寄せる。
そんな貴重な思い出を、丹精込めた文章でいま読めることの感慨深さ。
ページをめくれば色々な風景がある。ミラノの霧、ローマの雨、ヴェネツィアの運河。
そこに閉じ込められた、いわば片腕をうしなったと同様の須賀が懸命に生きた日々。
本のなかの彼女は、読者といっしょにいつまでも生きつづける。
どんな人もだれかのために存在しているし、だれかから光をもらうこともある。
そういったことを深く考えさせてくれる一冊だった。

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紙の本三島由紀夫レター教室

2011/08/04 18:36

いま三島が生きていたら、ちょっと毒のあるメイル教室とか書くのかもしれない。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

三島由紀夫がある作家に宛てた手紙があまりにおもしろかったので、
我が家の本棚で熟成していた本書を取り出してみた。
おもわず吹き出してしまうところが何か所もあった。

本書は書簡文で書かれた小説である。
45歳の氷ママ子を筆頭に、濃いキャラクターたちが
手紙でそれぞれの個性を表現していく。
そして、それぞれが言いたいことを言っているだけではなく
きちんとストーリーも進められていく。
ストーリー自体は奇をてらったものではない。
言ってしまえば、五人が繰り広げる男女の痴話ばなしである。
誰かが誰かを好きになり、打ち明けたり、策略をめぐらせたり、
裏切ったり、けんかしたり・・・といった具合。
三島の筆は細部をおろそかにすることをしない。
ある状況における人間の心理(年齢や性別で大きく異なる)が
たくみに描かれていて、興味深いというか、おかしい。

スピードがもてはやされる現代では、
手紙なんてまだるっこしくて・・・と敬遠されがちだが、
この小説ではそういった手紙のまだるっこしさが効果的に使われる。
不便だと思われるような点が美点にさえ見えてくるのだ。
たとえば、書く側と受けとる側の時間のずれは、
おたがいの気持ちに時間という空白をもうけ、ゆとりを生む。
郵便屋さんがポストへしずかに落とす配達方法は、
ほかの手段と違って相手の手間をかけず、邪魔をすることもない。
奥ゆかしすぎてその存在に気付かれることなく終わる場合もあるが、
肉筆の手紙には、内容以外にも伝わることがいっぱいあったりする。

巻末の『作者から読者への手紙』で、
三島は手紙を書くときの注意点を抽出しているが、
小説の中の状況や人物描写のなかに、(手紙の書きかたとは別に)
なるほどとうなづかせられる表現がいくつかある。
自分に言い聞かせたくなるような、心で暗誦したくなるような文章も存在する。
それはどちらかというと、生き方のお手本的なものではなく、
こういったことには気をつけろという、ちょっと意地悪な警句に近いものである。
この乾いたニヒルさがとても魅力的で、
また三島のエンターティンメント系の小説に手を伸ばしたくなる。

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熟成という時間の魔法。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すこしご無沙汰していた須賀敦子の全集だが、読んでいくうちに、
あの透明な感じ、硬質な感じ、それでいてちょっと温かいような感じ。
そういった独特の雰囲気のなかに、じわじわと惹き込まれていった。
1巻にはデビュー作「ミラノ霧の風景」、「コルシア書店の仲間たち」、
「旅のあいまに」がおさめられている。

「ミラノ霧の風景」には、著者のミラノでの記憶の断片たちが綴られている。
時系列もばらばらで、話の広がり方も予想のつかないほうへ行く時がある。
にも関わらず、モチーフであるミラノは、それぞれの章で輝いている。
いっけん、この話からなぜそこへ・・・と思うような場合でも
話が結ばれる最後の数行ではっとさせられる。
語られることに無駄などなく、熟考して練られている上質なにおいに気がつく。
エッセイなのに、短編小説みたい構成された濃密な世界があるのだ。

「コルシア書店の仲間たち」は、時代の波の中で新思想をめざし、
新共同体をつくる実験をしていった若い日々の思い出である。
「ミラノ霧の風景」に出てくる、ミラノにいたときの著者ももちろん若いのだが
「コルシア書店の仲間たち」は、その新しい何かをみんなで目指すというところが
若いというありきたりな言葉にぴったりくる気がするのだ。
しかも、ここが本当におどろくべきところなのだが
そんな若い激しい日々が、(政治と宗教というむずかしいテーマが絡んだ日々が)
思い込みの正義感とか甘ったるい感傷をまったく抜きにして語られる。
どれだけのエネルギーを消費したかわからないくらいのまっすぐな日々。
そのおなじ空気を吸っていた仲間たちの当時とその後を淡々と描く。
著者はイタリアの思い出を書くのにあたって
客観的な目線に徹することを心掛けたのだという。
だから書き出すまでには、時間がかかった。
20年という熟成期間を経て、鮮やかに蘇った著者のイタリアの日々。
時間の魔法がすばらしい効果をあげていて、
抑制がきいた静かな筆致の、味わい深さを出している。
噛みしめるごとに旨味があふれる、シンプルなパンのような。
ここでは本当に淡々と書かれているのだけれど、
ミラノに来てコルシア書店の重要なメンバーであるペッピーノに出会い、
両親の反対を押し切って結婚してしまった須賀敦子というひとは
なんて情熱的なひとだったのだろう。
著者はイタリアに仕事も持ち家庭も持ち、しっかりと根付いていた。
といっても華やかではなく、質素な誠実な海外生活だった。
お金はなかったが、夢だけは無限にひろがっていたし、
なにものにも縛られない自由があった。
もちろんイタリア語を日々磨き、使いこなしていたからこそである。
須賀敦子が日本の有名な文芸作品をいくつも伊訳していたことは
あんがい知られていないことなのではないか。
そうやって磨きあげたイタリア語を、その国の芸術や文化について
その国の人と議論を戦わせるくらいに、雄弁にあやつっていた。
そんな著者だったが、いわゆるセレブ層に対する目線は冷めていた。
富や名声をいちばん大切にする考え方には、
本能的に反発してしまうようなところがあった。
著者は常に、なにを持っているかではなく、なにをやったかで
人を冷静に判断する明晰さを持っていた。
そこが、少女らしいといったらへんかもしれないが
情熱的な国際結婚へつながるまっすぐさ、純真さなのだと思う。

「旅のあいまに」は、過ぎ去ってみればわすかひとときの、
でもその当時は濃密な時間を過ごした、人たちの記憶。
著者にとっては、通りすがりの人々なのだが、
その一瞬の印象がなぜだか心をとらえていて、ふと思い出す。
記憶をたどりながら隠されていた真実に気づいたり
当時とは違う感想にいき着いたり、といった回想録だ。
この中に、
人生には、どうしても譲れない大切なものが少しと
どちらでもかまわないたいしたことないものがたくさんあり、
それをひとつずつ理性で見極め、選んでいく、
というような文章を見つけた。
心に刻んでおきたいような文章がほかにもいくつかある。

3巻、4巻と読み進めてきた3冊目の須賀敦子全集。
ブランクが空いてしまったが、これからもじっくりと
読んでいきたいと思った。

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紙の本アンの娘リラ

2011/04/21 00:59

アンがマリラから受け取ったもの、渡したものが、ふたりめのマリラへ受け継がれる。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アン・ブックスの最終巻とされる「アンの娘リラ」。
(このシリーズには「アンの友達」、「アンをめぐる人々」が
用意されているが、いずれも番外編とされている)

アンももはや6人の子を持つ母親で、結婚生活も20年だが
あいかわらずギルバートは優しくて
アンのことをとても大切にしてくれる。
5人の子供たち(3人の息子と2人の娘)は大学へ進学し、
アンとギルバートの暮らす炉辺荘には
末娘のリラと家政婦のスーザン、犬のマンデーと猫の博士が残る。
4人プラス2匹のちょっと寂しい、穏やかな生活だ。

物語はリラがもうすぐ15歳を迎えるところから始まる。
愛情を存分に受け、のびのびと育った少し甘えん坊の少女リラ。
彼女の夢は、はやくボーイフレンドを持つこと。
こんなふわふわしたリラが、約4年間で
頼もしい女性へ成長していく様子が描かれる。
ちなみにリラという名前は、
アンをグリーンゲイブルスで育ててくれた
マリラ・カスバートに由来する。

リラがはじめてのパーティーへ出かけるときに
マンデーがやけに悲しそうに吠えていた。
着飾ったリラに、憧れだった男の子ケンが声をかけてくる。
リラはとても幸せだった。
パーティーは若さと熱気にあふれていた。
リラのように幸せな子が何人もいたはずだ。
しかし、誰かが悪魔の知らせを持ってくる。
「イギリスがドイツに宣戦を布告した!」
1914年、第一次世界対戦の始まりである。
しかし、このときはまだリラにはわからなかった。
いま暮らしているカナダのプリンスエドワード島に
このニュースがどれだけの影響を与えるかということを。

アンの息子たちは次々と兵士へ志願していき、
ジェム、ウォールター、シャーリーの3人とも行ってしまった。
村には、男の子がたくさんいても1人も志願しない家もあるのに。
マンデーはジェムを見送りに行った駅のそばから離れようとしない。
家に帰らず、駅のそばの小さな小屋で毎日汽車から降りる人を見つめている。ジェムが大好きだったからだ。
兄たちを待ちながら家事を支える日々を暮らすリラ。
祈りながら耐えて、日常をなんとかやり過ごしていくうちに
リラは強さと聡明さを身につけていくのだった。
いつの間にか戦争孤児を引き取るくらいに。
まるでマリラだ。アンを育てたマリラの逞しさだった。
そしてこのふたりめのマリラに、
傷心しているアンはどれだけ助けられたことだろう。

特にリラと仲のよかったウォールターが戦地から送る手紙に涙がこぼれた。
深い、強い、かけがえのないものに対する愛情。
怒りや諦念のような個人的な感情を超えた、大きな思い。
ウォールターの、崇高なまでの志の高さと優しさに胸を打たれる。
モンゴメリーは、最初、アンの話を一冊で完了する予定だった。
だから「赤毛のアン」は完璧でありあの本にすべてが詰まっている、
ともいわれるが、この最後の「アンの娘リラ」も外せないと思う。
ウォールターの手紙には、アンを通してモンゴメリーが伝えたかったことが
凝縮されているように思えるのだ。
戦争のつらさは、平和の尊さを書くためのモチーフなのだろう。
実際に戦争のあった世代の生命に対する切実さは、戦争を知らない世代のわたしには感じることはできないし、軽く語るものでもないだろう。
モンゴメリーが、
この手紙から現代に生きるわたしたちへ伝えてくれるもの。
そのひとつが、
究極の試練の場面での身の来し方というようなことではないだろうか。
そしてそのようなものを発揮する力をつくるのは、
日々の地味な小さな選択の積み重ねなのだろう。

アンを通して読んでみて、彼女が植えてきたいくつもの小さな種が、
みずみずしく育っていることに、改めて感動する。
そうだ、彼女はいつでも、自身の日々の選択に誠実だった。
戦争観とか宗教観とか、現代ではなじまない部分もあるけれど、
普遍の輝きをもつアンの生き方は、
これからも多くの女性のバイブルとなっていくのだろう。

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紙の本エミリーの求めるもの 改版

2011/03/21 22:32

モンゴメリーの魂の叫び、村岡花子の偉業。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「可愛いエミリー」「エミリーはのぼる」につづく
エミリー・ブックスの最終巻。
本書は訳者である村岡花子の最後の仕事となった作品である。
前二巻には訳者のあとがきがあるが、この「エミリーの求めるもの」には
滑川道夫の解説がついており、訳者自身のあとがきはない。
村岡花子といえば、「赤毛のアン」から始まるアン・ブックスを
ひいてはモンゴメリーという作家を、
日本に幅広く知らしめた功績を持つ翻訳家である。

エミリー・ブックスには、表現者の苦悩ともいうべき
作者モンゴメリーの心情がせつせつと綴られている。
母についで父を亡くした少女エミリーが、
親戚の家に引き取られ、じぶんの歩く道を探していくストーリーなのだが、
このエミリーの気性の激しさと時折現れる彼女のスピリチュアルな感性が
すこしだけホラー的要素を加えている。
彼女の暮らすマレー家の古い屋敷や庭やしきたりなどの繊細な描写は
「嵐が丘」や「レベッカ」などのゴシック小説を思い起こさせる。

主人公のエミリーは作家を目指して創作に邁進するが、
書くために、魂をなにかに売り渡すようなことは決してしない。
このエミリーのプライドの高さ、純粋さが
彼女自身の成功を阻んだり、世界を生きにくくさせたりもするのだが、
読者は彼女を応援せずにはいられないだろう。
ここには、書かずにはいられない人間というものの、
喪失と再生の記録がある。
そう、エミリーは、恩師、友人、創作の炎といった
じぶんにとって大切なものを次々にうしない、
どん底におちて、一度死んでしまう。(精神的な意味で)
しかし、彼女は蘇るのだ。

本書の後半からは、結婚というものを意識し始めたエミリーが
あまりにも恋に無防備であり、痛々しい。
収束へむけて、このエミリーのロマンスがクローズアップされ、
物語のトーンが微妙に変わってきているのが残念である。
もう少し、彼女の文学的成功の話のつづきが読みたかった。
しかし、エミリー自身にとっては
ほとばしるものを書いていくこと自体が喜びなのかもしれない。
真の成功とは、じぶんが変わらずにそれをつづけられる状態だという。
エミリーは燃えるような野心も持っているのだけれど。

村岡花子が目の病いと闘いながら、読者への思いを込めて
届けてくれたことを考えると、この作品の価値ははかれない。
この本はすべての、書く人たちの心の支えとなってきたのだろう。
そして、これからもそうありつづけていく作品なのではないだろうか。

ちなみに現在のカバーの装丁は
同じ新潮文庫のアン・ブックスの流れを組むような
風景中心の可愛らしいイラストになっている。

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紙の本薔薇の雨

2010/12/08 23:50

熟成されたウィスキーのような。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

大体が40代から50代の、男と女の話。
おとなの女がおもうこと、おとなの男がおもうこと。
生きること。喋ること。恋をすること。
飾り気のない言葉で、淡々と綴られていくが
その奥にひろがるゆたかな海。

最初の「鼠の浄土」では
夫の連れ子と後妻の心の葛藤が描かれる。
こみいった事情も、リアリティを感じながら
軽やかに読ませてくれる。
そしてラストの小気味よさ。
冒頭がきれいにラストへ繋がっていくのには、
目をみはる。

表題作「薔薇の雨」は、
外国の映画のような趣きがある。
50歳の女と34歳の男。
ふたりともきちんとした仕事を持つシングル。
自立した者どうしの、恋。
女がみせる、少女っぽさとおとなっぽさ。
この話もまた、冒頭がラストへと繋がり、
その引き際の鮮やかさというか粋な感じには、
finという字が浮かんでくる。
モノクロやセピアカラーの映画を観た後のようだ。

この小説は、ほんとうにおとなっぽい。
出てくる人たちは、皆、素敵に歳を重ねている。





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星とか、風とか、花とか、ワンピースとか、ふんわりした気持ちとか。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この作品は雑誌「コーラス」で読んでいて
いい雰囲気だなぁといつも思っていたのだけど、
とくに12月号でぐっときてしまい、
「コーラス」に連載の舞台を移してからの
シリーズの単行本を買った。

知世ちゃんとお父さんのあいだに流れる空気。
なにげないやりとりの中に
相手の立場を考える想像力と優しさがあって
こちらも幸せのおすそわけをもらったような気がしてくる。
耳に痛いようなせりふもあったりして、
でもそれさえも心地いい。

今夜の我が家の晩ごはんは湯豆腐だったのだが、
今回は特別に豆腐を奮発して
普段よりいいものを使ってみた。
豆がぎっしりと詰まっていて
ほんのり甘い、美味しい豆腐だったのだが、
このまんがにも、似たようなものを感じる。
豆腐と一緒にしたら失礼かもしれないけど、
ふんわりしてるのに、中身がぎゅっと詰まってる。
ほのかに甘いけど、しっかりした味わいがある。
そして何より、このちょっと特別な感じ。
すてきなことは日常にあふれているということ。
目先をすこし変えるだけで
見違えるくらいの素敵な雰囲気をつくれるということ。

読んだ後に、こんなにやさしい気持ちになれる本は
なかなかないと思う。
人の善意を前面に押し出してくると
わざとらしさとかあざとさが目についてしまうからだろう。
この本には、そういうものを感じさせない冷静さがある。
やさしさと同時にシビアさも存在しているのだ。
だから、読む人を素直にする。
癒しだけでは終わらない深さがある。
これからもずっと長くつづいてほしい。

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紙の本夕凪の街 桜の国

2010/08/06 02:10

八月六日

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本を閉じてため息が出てしまう。
色々なことを考えさせられてしまう。

夕凪の街」は、
広島に原爆が投下されてから十年後の物語。
「桜の国」は、またさらに時が過ぎ、
主人公の世代が変わっていく。

この本は、丁寧に日常を描写していくことで
多くのことを伝えている。
説明的なことはあまり描かれていなくて、
読む人にゆだねられている。

淡々としているけれど、
内包しているものが、あまりにも深い。
物語の登場人物も、作者も
じぶんの意見を強く主張しているわけではないのに、
すごく強く伝わってくるものがある。

特に心をとらえたのは、「桜の街」で
主人公の七波が、両親に対して思いをめぐらせるシーン。
《生まれる前 そう あの時わたしはふたりを見ていた
 そして確かにこのふたりを選んで
 生まれてこようと決めたのだ》

この本を読んで、ヒロシマのことを少し調べた。
知らなさすぎると思った。
そして、差別や偏見についても。

毎日を生きることについても。

きょう渡そうと思った花束は
きょう渡さなければ、萎れてしまう。

井上ひさし氏は
「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、
 深いことを愉快に、まじめに書くこと」を
信条としていた、と読んだことがある。
この本は、そのすべてをクリアしているのではないだろうか。

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紙の本ナイン・ストーリーズ 改版

2010/07/01 17:29

複雑な音符の束

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

先日の岡田ジャパンの好戦をラジオでたのしんだ。
はっとしたのが選手の動きを伝える際に、
「長髪をなびかせながら」などの描写が入っていたこと。
まるで絵が浮かんでくるようだった。
サリンジャーの描写力もまたすばらしくい。
ささやかな、物語の奥に潜む謎を浮かび上がらせる。
小説という箱の中で、次々とマジックを見せてくれる。

わたしが心に残ったのは「小舟のほとりで」。
母親と息子のなにげない日常のスケッチだが、
ふたりのふれあいの中で
息子の様子がしずかに変わっていくのがわかる。
なんだか少し泣きたくなるような、
抱きしめたくなるような話である。

すべての話は、不安定な感じだ。
ひとつひとつが奇妙な響きを持っていて
それらがまとまって心を揺さぶりにかかる。
シャープとかフラットが付いた音符みたいに。
ちょっと神経を普通じゃないところへ
持っていかれそうな雰囲気がある。

最初の話「バナナフィッシュにうってつけの日」で
強烈なカウンターパンチを受けながら読み進んでいき、
最終話の「テディ」でけむにまかれる。
そして読み終わってからも
「バナナフィッシュ~」のあの奇妙な男の結末が気になり、
グラース・サーガへ手を伸ばすことになる・・・・・・。
(という人が多かったのではないか)

柴田さんの新訳も好評だが、
なんだか読み返すのは、この野崎孝訳なのだ。
ヒステリックな感じのこわさが、よく出ていると思う。


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紙の本幻の女

2010/06/15 20:01

このスリルは江戸川乱歩のお墨つき。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

アイリッシュの短編集が好きだ。
サスペンスともミステリーともいうが、
彼の作品には「スリラー」という言葉が
いちばんぴったり来るのではないだろうか。
初めて読んだ長編の本作に対しても
思ったことはおなじだった。

じりじりと死が迫ってくる恐怖を
緊張感を保ちつつ一気に読ませてしまう。
読者は、いったん物語へ足を踏み入れたら、
事件の残酷さに目をおおい、
絡まった人間関係のせつなさにため息をつき、
刻一刻と迫るタイムリミットに焦燥感を抱きながら、
ラストに辿り着くまで
ジェットコースターから降りることができない。

「自動車に乗っているのは、
 もはや、彼ら二人だけではなかった。
 先刻からつづいている沈黙のうちに、
 いつの間にか第三者が乗り込んできて、
 いま、二人のあいだに席を占めていた。
 それは、氷のような経帷子をまとった恐怖であった。」
(本文より引用)
こういった、ひんやりとした表現が独特である。
落ち着いた中にもぞくぞくとした怖さを感じさせる。

本国で書かれたのが50年以上も前なので
もう古典の部類に入るのかもしれない。
携帯電話も、監視カメラもない時代、
冤罪を着せられた男のアリバイを証明するために
彼と一緒に過ごした女の目撃証言を
一軒、一軒、「足で稼ぐ」というストーリーは
まったく「古典的」といえるのかもしれない。

しかし、ここには、
人間の心理といった普遍的なものが丹念に描かれている。
それは、真実ともいえるのかもしれない。
いまなお読み継がれ、その魅力をあらたに発見できる。
そんな本には必ず、真実が書かれている。
それは事実そのものではなくて、そう感じさせる力のことだ。

「幻の女」を読み進んでいくうえで、大きなポイントになるのが、
彼女が被っていた奇妙な帽子。そして、
一緒に過ごした男自身が、彼女の顔を覚えていないこと。
これらが絶妙に作用して、「幻の女」というストーリーを
練り上げていく。わたしは、ジェットコースターを降りるとき、
つまり最後の一行、刑事のせりふに辿り着いたとき、
「なんてしゃれてる!!」と膝を叩きたくなった。
ウィットとかエスプリとは、まさに、このこと。
古い言い方だが、まるでアイリッシュに
ウィンクされたような、「やられた」感があった。

解説によると、江戸川乱歩が絶賛していたという。



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紙の本西の魔女が死んだ

2012/03/01 17:54

ずうっと通じ合う、ふたりの魔法。

7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

なんてもったいない!!!この本を積んだまま読んでいなかったなんて!
梨木香歩の本には心を深く揺さぶられてしまうのだが、これもまた然り。
なんだか透明感にあふれているのに、奥のほうに沁みてくる。
すてきだった。その一言に尽きる気がする。

この本を読みながら、幼いときに手に入れた『魔法の本』を思い出した。
それはちいさなサイズのピンクの表紙で市川みさこのイラストつきだった。
ルネ・ヴァンダールが書いた本だったと思う。
内容はよく覚えていないけれど、
魔法をつかうのは月の出ている晩がよいと書かれていたような気がする。
あのころは、魔法という言葉にいまよりもっと大きな力が込められていて、
秘密の儀式めいた、すこしだけ怪しいにおいに、ドキドキしたものだ。

「西の魔女」には、しめやかな月の晩よりも、からっとした太陽が似合う。
健康的に晴れた庭で草花のにおいが風にのってくる。
そういうのが似合う魔女なのだ。
こんなにかわいらしくて機知に富んだおばあちゃん、ぜひほしい。
箒にのれなくてもいいから、野いちごのジャムを一緒につくりたい。
まいは、かけがえのない思い出をつくったのだ。
箒にのることよりも、はるかに実用的な魔法を教わったのだから。
現実世界で想像力を駆使するという。
心がこわばって身動きがとれなかったまいは、居場所を見つけた。

続編の「渡りの一日」を読むと、
まいが、きちんとその魔法をつかいこなしていることに感動する。
「東の魔女」として、うまくやっているわけだ。
友だちとのつきあいや、色々な状況で思うことに、魔法が生かされている。
もしかしたら「西の魔女」の魔法がまだ有効なのかもしれないけれど。
いや、自由に跳べる「西の魔女」の魂が「東の魔女」の魂と共鳴しあって
小さな奇跡がたくさん起きるのかもしれないな。

大切な人をなくして、でも自分はまだ生きていて、
だけど泣いて暮らすのはほんの数日だけだ。また通常の毎日へ戻る。
ふと何かの瞬間に思い出して胸がいたむけれど、前よりはいたくない。
そしてその人の思い出は、ずっと生きつづける。
「西の魔女」は、
死んでも、まいの心に決して崩れることのない思い出を刻んだ。
めったなことではびくともしない、丈夫な思い出を。
かけがえのない仕事をやりとげて死を迎えることは潔い。
もちろんせつないけれど。この世界での永遠のお別れは。

考えてみたら、生まれた瞬間から死へカウントダウンしているのだ。
人間が死ぬというあたりまえのことについて、
こんなにあたたかく、やさしく、包み込むように考えさせてくれる。
しかも軽やかに。
そういう本はなかなか見つからないだろう。
ほんとうに、すてきな本だった。

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紙の本シェイクスピア全集 6 十二夜

2012/02/07 13:16

全員が片思い。ロマンチックなラブコメディー。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

シェイクスピアは、ずいぶん前に「ハムレット」を読んで以来、
おどろおどろしくて敬遠していた。
たくさんの人が死んで血しぶきがあがるスプラッタ。
そして嫉妬とか復讐とか人間のおそろしい感情が渦を巻く・・・・・・。
しかし今回、モームの本にも幾度となく出てくる「十二夜」を読んでみたところ、
シェイクスピアのイメージはみごとに一新された。

「十二夜」は、軽妙な恋愛喜劇である。
登場する男女全員が独身のために、構造もややこしくならない。
歴史もからんでこないので、喜劇初心者にはぴったりだと思う。
頭に入れておけばいいのは、主要な人間関係だけ。

オーシーノ公爵は、オリヴィア嬢に首ったけ。
サー・アンドルーもオリヴィアに思いを寄せ、求婚する。
しかし、オリヴィア嬢は、
オーシーノの従僕シザーリオにひと目ぼれしてしまう。
すこしだけややこしいのは、
シザーリオは、実はヴァイオラという女性が男装していること、
(ある事情を抱えているため、男に化けて公爵に仕えている。
劇中にはほぼシザーリオの姿で登場する)
このシザーリオ(ほんとうはヴァイオラ)は、オーシーノが好き。

とりあえずこれだけつかんでおけば、下段の注釈も合わせながら、
シェイクスピアの、おおいなる言葉あそびの世界に浸ることができる。
ウィットが効いてるかと思えば、オヤジギャグも満載。
松岡和子の訳は、読みやすいがひねりも効いていて、
なおかつ、日本人に親しみやすいながれをつくってくれている。
みじかいセンテンスの中に、伝えるべきエッセンスが詰め込まれ、
歯切れのいいテンポで進んでいく。

とくにおかしかったのが第二幕の第五場から。これには爆笑。
ふだん堅物のキャラクターが妄想をふくらませるおかしさ。
このエピソードでストーリーに波が起こされ、惹き込まれる。
本筋とはすこしズレるが、ほんとうの意味で花を添えている。
このかわいそうなマルヴォーリオというキャラクターに
助演男優賞をぜひあげたくなる。

タイトルの「十二夜」とは、クリスマスからかぞえて十二日め、
一月六日の夜のことであるが、劇中では特に触れていない。
一説には、実在したイタリアの若きオーシーノ公爵が、
エリザベス女王に招かれた宴のために書かれたものとされる。
その宴が行われたのが、一月六日の晩だったのだ。
クリスマスのお祝いごとの最後の晩にふさわしい、
賑やかで単純にたのしめるハリウッド映画のようなお芝居。
シェイクスピアはまさにニーズにぴたりと応えたといえるだろう。

興味深い事実として、この「十二夜」は、
「ハムレット」と同時期に執筆されていたらしいこと。
ビギナーのわたしとしては、
シェイクスピアも精神的なバランスを取りたかったのでは!?
と、とっさに思った。
たとえ紙の上であったとしても、人を殺すのはきついのではないか。
(そう考えると、ミステリ作家って、なんて強靭な精神の持ち主!)
しかし、シェイクスピアはこの後に、「オセロー」、「リア王」、「マクベス」
と、徹底的に人間の影の部分を追求した作品を生み出していく。
そして「十二夜」以降の喜劇は、陰影のついた憂いを含むものに
変わっていったという。

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紙の本須賀敦子を読む

2012/01/30 18:05

須賀作品を読むにあたって、課外授業というよりは必修科目。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

文庫化を待っていたので、嬉しい限りだ。
著者は須賀敦子が生前に出した五冊のエッセイと、
とうとう未完のまま遺稿となってしまった小説の序章を考察する。

須賀敦子の文章には、映画や小説を味わっているときのような、
ふくよかさがあるから、漫然と読み流すことができない。
難しい語句を並べ立てているわけではないのだが、
じっくりと噛みしめながら再読していくような文章だと思う。

そんな文章の数々を、『徹底的に読み直し』、
読み落としてしまいそうな部分に光をあてたり、
書かれた当時の作者の状況を振り返ったりしながら、
文章のむこうがわにひそむ作者の思いを探っていく。

とくに、わたしがはじめて触れた須賀作品「ユルスナールの靴」については
著者の考察を興味深く読んだ。
『最初に読んだとき、私は小さくはない戸惑いを覚えた。
 そして現在もその戸惑いは拭いきれていない。』
と、著者は問題提起をしてくる。
そしてあくまでも文章をよく読み込んだうえでの問題点を指摘し、
( 冷静に文章を読んだ人だけが持つような感想が述べられている)
もうひとつの観点をみつけていく。

すぐれた批評というのはこうあるべきなのだと感じる。
著者が語るのは、すべて作品のことである。
憶測がなく、引用が明らかな批評は、読んでいて気持ちがいい。
ときには、そうか、須賀敦子はそう書いているのだから、
そういうふうに考えることもできるんだなと、納得させられてしまう。
問題点を述べるだけではなく、優れた部分を探り出すのも、
作品を読んだ読者には嬉しいはからいである。
自分が探した宝物の数が倍に増えていくような気持ちにさせてくれる。

全編をとおしてクールな雰囲気もいい。
(もちろん、作品に対する敬愛は感じられる)
愛にあふれている評論ももちろんいいと思うけれど、
冷静な目で見なければ見えてこないものがある。
ファンにとっては大事なことであり、読み方の幅をひろげてくれる。

最終章では、須賀敦子がほんとうに書きたかったこと、
書きたくても書き出せなかったジレンマ、
書き始めたのに、作者本人が亡くなってしまったこと、など、
考えさせられることが多い。
「アルザスの曲がりくねった道」という小説が、
もしも出版されているとしたら、
おそらく読者は、須賀敦子の魂の叫びを聞くことができただろう。
〈信仰と文学のあいだ〉で、ずうっと須賀敦子は思索をめぐらしてきた。
それは、彼女が信仰においても文学においてもまっすぐで
混じりけのない澄んだ思いを抱えていたからだろうと思う。
いいかげんな両立ができなかったからだろうと思う。
須賀敦子にとって、欠かすことのできないふたつのエッセンスが溶けあった、
その小説のつづきを、ぜひ読んでみたかった。

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『絵筆は多くの言葉を尽くさなくても伝えられるから好きだ』と言った画家だけれど、文章にもとても惹きつけられる。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「マドレーヌ」のシリーズや、「ヌードル」、「パセリともみの木」など、
色彩あざやかでなんとも味わい深い絵本の作者がルドウィッヒ・ベーメルマンスだ。

ベーメルマンスの死後、孫のジョン・ベーメルマンス・マルシアーノは、
遺稿をみつけて整理し、「アメリカのマドレーヌ」を出版した。
それ以降も、ニュアンスを引き継ぎながらシリーズを刊行している。
ジョンが生まれたころにはもう祖父のベーメルマンスは亡きひとだったが
かれの家にはベーメルマンスの絵が飾られ、多くの著作が蔵書されていたので
作品をとおして、祖父をよく知っている。
そんなジョンが、膨大な資料を仕分けし、作品を改めて深く読み込み、
(とくに生前に書かれた自伝小説を本書に多用している)
尊敬と愛情をこめてつくったのがこのベーメルマンスの伝記なのである。

ベーメルマンスが6歳のとき、その人生の運命の歯車が大きく音をたて出した。
一家はオーストリアの田舎でのんびり暮らしていたが、ある日とつぜん、
父親がある女性と駆け落ちしてしまう。
このとき母親は妊娠していたため、失意のどん底に突き落とされて
ベーメルマンスを連れて、ドイツの実家へ里がえりする。
ベーメルマンスはそれまでフランス人の家庭教師に学んでいたので
当時はドイツ語をしゃべることができなかった。
言葉も環境も不慣れな上、この複雑な状況を受け入れることなど、少年には不可能だった。
学校にはなじめず、離婚した母親の変化にもいらついて反発してしまい、
そのうち学校では不良グループに属し、留年を繰り返して退学になってしまう。
そしてそんな少年たちばかりが通う寄宿学校へ送られることになった。
母親はベーメルマンスを、ホテル経営している叔父のもとへ預けて働かせることにした。
しかし勤務前に飲酒するなど、ベーメルマンスの態度に叔父も愛想をつかし、
系列のホテルへかれを回す。何件ものホテルの責任者がかれをなんとかしようとしたが
どこへ行ってもまったく使い物にならない。叔父はとうとう決断をせまる。
アメリカへ行くか、少年院の一種である更生施設へ行くか。
アメリカという選択肢は叔父のさいごの愛情でもあった。
こんなろくでなしでもアメリカでは成功できるかもしれないという望みを託していたのだ。

ベーメルマンスはもちろん、アメリカへ渡った。
母と離婚した父はニューヨークで宝石商になっていたが、共に暮らすことは叶わなかった。
17歳にしてベーメルマンスは自立しなければならなかった。
叔父が書いてくれたホテルの紹介状をすべて利用して、いくつかのホテルに勤めたあと、
ベーメルマンスはリッツ・カールトン・ホテルに就職する。
ここで、芸術の女神はかれを引き寄せる。このとき仕事を指導してくれた先輩が
ホテルの仕事のほかにフランス語の文法を仕込み、風刺漫画家になれ、と言ったのだ。
ベーメルマンスは素直に従い、才能に磨きをかけていくことになる。
そしてあるVIP客がホテルを訪れたとき、アクシデントが発生する。
ベーメルマンスの筆は勢いあまって、その客を醜悪にしかも写実的にスケッチしてしまう。
そのスケッチが間のわるいことにメニューの裏側に描かれていたため、客はカンカンに。
接客主任がとんできて、ベーメルマンスは経営者に呼び出しをくらってしまう。
ああこのホテルともおさらばかと思いきや、ことは予想外の展開へ。

経営者が、ホテルの常連である画家ふたりにベーメルマンスの件のスケッチを見せて
『才能はあるか?』と聞くと、ふたりとも『あるね!』と答えたのだ。
経営者はベーメルマンスを宴会係に配属、『小さな宴会場をアトリエにしたらいい』と提案。
ベーメルマンスは一応ホテルに勤めながら、ますます才能に磨きをかけることになった。
宴会係のセクションは人間関係がよかったために、この配属が成功し、大繁盛。
なんとベーメルマンスは副支配人にまで上り詰めることになった。

そして交友関係が広がる中で、デイリー・ニューズ社の記者と親しくなり、
連載漫画の契約をかちとる。
かれの運命は勢いの波にのって、ある有名バレエ団のバレリーナと電撃結婚。
幸福はそう長くは続かずすぐに破局を迎えるが
この離婚でベーメルマンスは自分自身をよく見つめなおすことになる。
芸術の道をきわめるためにホテルを辞めることを決意するのだ。
しかし、デイリー・ニューズ紙の連載漫画は不評で、半年で契約を打ち切りに。
悪いことは重なり、ベーメルマンスの紹介でホテルに勤めていた実弟が
職場のエレベーターの事故で命を落としてしまう。
時代は大恐慌の風が吹き荒れて、ベーメルマンスは絶望を舐め尽くすことになる。

この後もベーメルマンスには色々な出会いや番狂わせがめぐってくるのだが、
二度目の妻と再婚してから、かれの人生に順風が吹いてくる。
名作「マドレーヌ」シリーズの誕生、イラストレーターから画家への転身など、
かれが生き生きと芸術に没頭していく後半も、とても興味深くおもしろい。
図版や作品の引用など資料も満載でみどころはたっぷり。しかしそれ以上に
この画家の数奇な運命が小気味よく語られていることに魅力を感じる。
語りのベースになっているベーメルマンスの自伝小説からの引用は、
はっとするような含蓄の深い言葉が時々顔をのぞかせるのだけれど、
ユーモラスで飄々としたその語り口はほんとうに気持ちがよくて
すらすらと読むのがたのしくて仕方ない。読み終わるのがもったいないほど。
まるでかれの絵本に登場するキャラクターのように、おちゃめな人だったのだ。

そしてかなりのページが割かれた「マドレーヌ」の本のメイキングも必見である。
ベーメルマンスは、ダミー本のあとにも綿密な打ち合わせを繰り返し
徹底的に納得のいくものしか作品にしなかったようである。
そして正規のものが出版されると、自分の元には一冊も残さなかったそうだ。
前作をながめることよりも、つぎの作品に、気持ちはいつも向かっていたのだ。

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紙の本五匹の子豚

2011/12/13 17:58

地味だけど技巧が光る味わい深さ。答えがわかっても、解きたくなるクイズ。

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ミステリーはあまり読まないのだが、クリスティーはときどき読みたくなる。
これはそのかわいらしいタイトルと新訳の限定カバーということで、手にとった。
マザーグースになぞらえた重要参考人たちとポアロのやりとりで、
16年前の殺人事件の真実を追う、クリスティーの回想殺人もの。
探偵ポアロの元に現れたのは亡くなった母親とおなじ名を持つ女性。
彼女は一通の手紙を手に固く握りしめていた。
夫殺しの罪により、獄中で病死した母が娘だけに書き残した手紙。
そこには、わたしは夫を殺してはいない、と書かれていた。
母・キャロラインの無実を証明すべく、女性は事件の解明をポアロに依頼する。
ポアロはまず当時の裁判の関係者に会って、参考人を洗い出していく。

夫が殺されたその現場にいた重要参考人は、5人。
5人はいまも存命中で、直接会いに行くことができる。
獄中で死亡したキャロラインのほかに、犯人になりえる可能性がある5人。
マーケットに行った(株の売買で成功した)子豚。
家にいた(引きこもりがち。趣味は薬草学)子豚。
ローストビーフを食べた(欲しいものを手に入れた)子豚。
何も持っていなかった(質素で堅実な)子豚。
ウィーウィーと鳴く(犯人はキャロラインではないと唯一主張する)子豚。
このうち、マーケットと家にいた子豚は兄弟であり、キャロラインの幼馴染みだった。
株で成功し、性格はすこし攻撃的な兄と、ひかえめだが時に大胆な弟。
ローストビーフを食べた子豚は、キャロラインの夫の愛人だった。
富と美貌に恵まれ、自分の欲しいものは必ず手に入れようとする。
ウィーウィー鳴いている子豚は、キャロラインと父親違いの妹。
つまりキャロラインの母が離婚して再婚したときに生まれた妹・アンジェラである。
アンジェラは幼くして障害を持ち、〈ウィーウィー〉と鳴かずにはいられなかった過去が。
何も持っていなかった子豚は、アンジェラの家庭教師。
まじめを絵に描いたような女性だった。

ポアロはこの5人に接触し、事件当時の記憶を掘り起こして書いてくれ、と依頼する。
そしてそれぞれが書いた手記をふまえて、5人を一堂に会し、質問をかける。
この最初の接触のときの会話、手記、質問という構成のながれは見事である。
最初の接触時には得られなかった当人だけが知る事実が、読者を困惑させていく。
殺人がおこなわれたとき、誰が何を思い、そしてその思考はどこからきたのか。
どういう因果関係でそれを思うに至ったか。
事件そのものではなく、そこに至るまでの心理を、
手記というかたちで無理なく描き切り、キャラクターの深部を探る。
そのキャラクターの知られざる一面が否応なく浮き上がる。
読んでいくうち、あれ?こいつもあやしいな。こいつも・・・・・・となってくるわけだ。
そしてそれぞれ手記のなかで語られるいくつかの類似点。
5人のうち、だれかひとりが嘘をついているわけだけれど、
そのことの辻褄を合わせてしまう、みんなの類型的な思い込み。
たった一片の言葉の切れ端を頼りに思考をめぐらせ、
この思い込みを打ち破っていくポアロの推理が冴えわたる。
現場に足を運び、関係者の話を頼りに、当時の風を感じ、においを嗅ぐポアロ。
いにしえの音楽や物語を現代に生き返らせることができるように、
16年まえの殺人事件もポアロによりよみがえるのだった。

小説が中盤にさしかかろうとするところで、ポアロとある男性の会話が書かれる。
「事実というのは、誰もが認めるものを指すのだと思っていましたが」
という男性に対し、
「そうです。だが、事実の解釈となると、また違ってきます」
と答えるポアロ。とうぜん男性はぽかんとしてその意味を求める。
ポアロは歴史上の事実であるスコットランドのメアリ女王について書かれた本を例に、
(たとえば殉教者であると書かれたり、聖女である、または淫乱である、策略家である等)
じつに色々な解釈があり、読者は好きなものが選べるのだ、と答える。
ポアロのこのせりふは、じつにこれからの事件の謎ときのゆくえを暗示していたのだ!
(わたしは、読み終えたあとに深くそう思った)

ちなみに、ここで使われているマザーグースをしらべてみると、
母親が幼児をあやすときに歌う歌のひとつであり、
子どもの親指をつまんで『この子豚はマーケットに行った』とはじまり、
ひとさし指をつまんで 『この子豚は家にいた』とつづき、
小指にきたら ウィー、ウィーと豚の鳴き声をまねして足の裏をくすぐるのだそう。
小指の子豚の歌詞には『この子豚は鳴く、ウィー、ウィー、ウィー』のあとに
『ぼくは迷子になっちゃった』というオチがつく。
(講談社文庫 谷川俊太郎訳「マザー・グース」1より)
新しい父親と、そのもとに生まれた妹。激変する家庭に育ったキャロラインの闇。
この歌詞のオチは小説に登場しないけれど、
複雑な環境のなかで自分を見失いそうにならざるを得なかったキャロラインを
暗示しているような気がするのだ。

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