サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

きゃべつちょうちょさんのレビュー一覧

投稿者:きゃべつちょうちょ

231 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本

紙の本パリでメシを食う。

2011/02/04 21:23

グルメのガイドブックではありません。色々な人生のア・ラ・カルト。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

生き方に、正解とかレシピというものは存在しないのだなぁと
改めて思う。
幸せとか成功とかいう言葉の意味も
個人によってそれぞれ違うものなのだろう。

この本は、パリで働きパリに生きる人々のレポート。
フローリスト、カメラマン、テーラー、スタイリスト、
鍼灸師、漫画喫茶のオーナーなど、10人の日本人のお話。

著者が各自にインタビューして綴ったものだが、
シーンの切り取り方や感情の掬い上げ方にぐっとくる。
著者は、取材した人と同じ位置に立ちながらも
着かず離れずの絶妙な緊張感をキープしている。
そこから伝わってくるのは、
話を聞かせてくれた人に対する誠実さだ。

はっきりいってこの10人の話を知ったからどうということはない。
ましてや参考になどならないし、著者はそれを望んでいない。
なんのお手本もなしに、自分自身の内面の声だけを頼りに
パリへ渡り、できることを見つけて生きている。
ただ、そのことに感動するのだ。

登場する10人は、みんなどこかゆったりとしている。
もちろん仕事は忙しいのだろうし、
外国で仕事をするところに行き着くまで紆余曲折。
「パリでメシを食う」ことは生半可なことじゃないだろう。
いろんなことに失望し、試され、迷い、自分しか頼れない。
それでも、ガツガツ、キュウキュウとしたところがないのだ。
大切なものがわかっていて、それを本当に大切にしているのだろう。
がむしゃらにではなく、パリという街でごく自然に呼吸ができる人たち。
彼らの物語はまた明日へと続いていく。

著者の、いい意味での気負いのなさが魅力だ。
淡々とした中にもぬくもりの感じられる文章に
惹き込まれ、ほろりとさせられる。

読み終わったあとのあの素敵な感じは、うまく表現できない。




このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

「塩一トンの読書」

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

この春から、就寝前に読む本は「須賀敦子全集」と決めている。
ほんとうに目を閉じるまでの、短い時間に
少しずつ少しずつ、ページをめくるのは
贅沢で幸せな時間に思える。
いや、正直にいえば、もったいなくて一気に読めないのだ。

マルグリット・ユルスナールというフランスの作家に
対する、須賀さんのひたむきな情熱に引き寄せられて
第三巻から手に取り、読み始めた。

第三巻に収められているのは、
須賀さんの敬愛する作家の作品とその作家論を語る、
「ユルスナールの靴」
ヨーロッパの建築をめぐる歴史に対する深い洞察、
「時のかけらたち」
いずれも、主題をとおして著者の過去へ回帰するという
かたちをとっている。そして、
ローマのゲットを実際に目にして、ひろがっていく思いから
イタリアの中でも格別の、ヴェネツィアで過ごした日々、
「地図のない道」
以上の三冊の単行本の内容のほかに
1993年から1996年のエッセイが入っている。

とくに「時のかけらたち」で感じたことだが、
描写がすばらしい。
古びた大きな教会や、階段や、橋が、そこに構えられていて、
その近くで語らう人々の様子さえ浮かんでくる。
いくつかの歴史的事実が、その建築物をさらに重厚にする。
著者の深い洞察が、あたらしい発見をもたらしてくれる。

須賀さんの文章は、読みやすいのに、
ときどきとても鋭くてはっとさせられることが多々あるが
なかでも、須賀さんが生前の夫と暮らしたミラノのアパートの話。
廊下の突き当たりにある小部屋は、もともと物置だった。
そこに、夫の両親が昔、ユダヤ人を匿っていたことがあった。
小部屋には外からは見れない、小さな窓がついている。
「夫がいない昼間、天井の高いキッチンでアイロンをかけたり、
 夕食の支度をしたりしながら、その窓を見上げると、
 背筋に寒いものが走った。ゲットも、戦時のユダヤ人の話も、
 私にとって遠い出来事ではなかった」(本文より引用)
の一文は、衝撃的だった。

エッセイでは、ぐっと文章の全体がやわらくなり、
微笑ましい印象をうける。
わたしがいちばん好きだったのは「塩一トンの読書」だ。
新婚のころ、須賀さんは姑から言われた。
「ひとりの人を理解するには、すくなくとも塩一トンを舐めなければ。」
その言葉の意味するところは、嬉しいことや哀しいことなど、
色々なことを相手と共に経験すること。
塩一トンというのは莫大な量だから、舐め尽すには時間がかかる。
それだけの長大な時間をかけても、一人の人を理解することは
とても難しいことなのだ、と。
その対人の部分を、須賀さんは読書に置き換えて考える。
「すみからすみまで理解し尽すことの難しさにおいてなら、
 本、とくに古典との付き合いは人間どうしの関係に
 似ているのかもしれない。
 読むたびに、それまで気が付かなかった、あたらしい面が
 そういった本には隠されていて、
 ああ、こんなことが書いてあったのか、
 と、新鮮な驚きに出会いつづける。」

わたしにとって、須賀さんのこの全集はきっと、
そういった存在でありつづけるのだろう。
まだまだ、この本の魅力は語り尽くせない。





このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本お嬢さん

2010/09/27 22:06

ほのぼのしたユーモアのエンタメ系

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

不思議な本である。
かなり強引なストーリー展開に
古めかしさ満載のせりふや描写。
それでも、ひっぱる、ひっぱる。
三島由紀夫の本にしては、
異例の速さで読んでしまった。

「健全で幸福な家庭」のお嬢さまであるかすみは、
ふとしたことをきっかけに、
父親の部下である沢井に心を惹かれる。
その惹かれる理由というのが、
なんともお嬢さまらしすぎて、笑ってしまう。
そしてトントン拍子に、かすみは沢井と結婚するが・・・。

話がぐっとおもしろくなるのは、
かすみが結婚をしてからだ。
夫の帰りを待つあいだに、
かすみが膨らませる心配と妄想の数々。
そして、夫の元交際相手の自殺騒動。
一歩まちがえば、じっとり湿っただけの
あと味の悪くなりそうなメロドラマが、
絶妙なユーモアで軽さを与えられていて、
思わず吹き出すくらいの読み心地のよさ。
そしてラストの意外性と爽やかな読後感。
これは良質なエンターティンメントだと思う。

主人公かすみが無意識に漂わせてしまう
いちいちお嬢さまらしいところ。
これが、ラストでは、
するするほどかれる贅沢な箱に掛けられたリボンの
役目を負うことになる。
つまり、立派な包装がとかれた箱の中身が明かされるのだ。
三島由紀夫の、タイトルのネーミングのセンスに
唸ってしまう。
そしてユーモアのセンス。
重くなりがちな話を、洒脱に小気味よく語る明るさには驚かされる。

解説には、ラストのネタバレが含まれているので
(いつも解説から読んでしまう人でも)
本文を読んでから、という正統派の読み方をお薦めする。


このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本不思議の国のアリス

2010/03/18 18:03

アリスの世界の新しい魅力を発見

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

新訳ということで、読んでみた。
以前に読んだものに比べてたしかに読みやすくなっている。
(角川文庫ではなかったけれど)

今回のこの角川版の大きな特色は
訳者も後で述べているとおり、ルイス・キャロルの
言葉あそびのエッセンスを、いまふうにふんだんに
取り入れてあることだろう。
「原文の楽しさをそのまま日本語に」というのが売りらしい。
原文を全編読んだことがないので比べられないけれど、
楽しさは伝わってくる。
ところどころに出てくる詩も、きちんと日本語で韻が踏んであり、
「マザーグース」の谷川俊太郎訳みたいだった。
ジョン・テニエルの挿画は、まれに梅図かずを先生を思いださせ
不気味だがこのお話によく合っている。

改めて読んでみると、本当に、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」にも書かれているように、「本当によくできた物語」なのだった。意表を突く展開の中にそれぞれクライマックスが用意されており
読者を引き込み、飽きさせない。その点は言葉が新しく生まれ変わったぶん
パワーアップしている感じ。
荒唐無稽なのに楽しめるのは、キャラクターがとても個性的な魅力を
持っているからだろうか。
ティム・バートン監督の映画もとても楽しみである。

ところで、アリスのモデルは実在していたというのは有名だけれど、
その少女が成長して驚くような美女になり、なんとヴィクトリア女王の
四男と恋に落ちたのだとか。身分の差から、ふたりは別れるに至るが
熱烈な相思相愛だったらしい。(こちらは「鏡の国のアリス」の解説)
ルイス・キャロルはアリスがおとなになっていくのをやりきれない思いで
見つめていたのだという。
いつまでもいつまでも少女のままで不思議の国を冒険していてほしかった。けれども現実は物語のように時間を止めてしまうことができない。
「夢オチ」は、キャロルのせつなさ、失望が象徴されているのかもしれない。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

旅の終わりに。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

災難つづきの新婚生活が過ぎ、ふたりは果たしてどうなったのか。
「はじめの四年間」の、その後のローラの日記。シリーズ番外編。
本書はローラの遺稿から見つかった、彼女の旅日記に、
娘のローズが最初と最後の章を書き加えて出版されたものである。

ローズは世界を飛び回ったジャーナリストであり、作家であった。
そして、ローラの編集者でもあったのだ。
ローラがインガルス一家の物語を書き始める前に、
ローズは文筆業で世にひろく知られていた。
ローズの存在なくしてはこのシリーズは生まれなかっただろうといわれている。
ローズはローラの文才をいちはやく見抜き、励まし、指導し、支えてきた。
それに応えてローラも出版社からの締め切りを守り、
「大きな森の小さな家」から「この輝かしい日々」まで、8冊の本を書き切ったのだ。

しかし、本書でローズの書いた最終章を読んで、すこし残念に感じたことがある。
一家の永住の地をついに見つけて土地の契約に行こうとしたその日のこと。
ローラ、アルマンゾ、ローズのワイルダー親子3人にちょっとした事件が起きた。
大事にしまっていた100ドル札がなぜか出てこない。
動揺した母のローラが、ローズに訊ねる。
『うちがお金を持っていること、よその人に喋ったりしなかった?』と。
馬車での長旅の食事はいつもキャンプで、他の移民予定者たちとの接触も多かったからだ。
みなが条件のいい土地を求めて旅をしていた時代だった。
両親はよもやローズが隠しているとは思わなかっただろうが、
小さいなりにそのお金がどれだけ重大な意味を持つのか、ローズはわかっていた。
もちろん誰にも喋ったりはしない。そのあと結局お札は見つかった。
ローズとしてはとくに母親に傷つけられたという心情が書き込まれている。
7歳のローズの気持ちを推し量ってみると、たしかにこういった思い出は
多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。絶対的弱者である子どもが、親に感じる恐怖。
少女の、息苦しいような締め付けられるような思いは、じゅうぶん理解できる。
けれども、ローズはもう7歳の少女ではない。
りっぱにプロの文筆家として、母親とすばらしい仕事を成し遂げているのだ。
ローラの死後、娘のローズにローラの物語のつづきが読みたいという手紙が殺到した。
不動産のセールスマンとして、宣伝文も書いていた経験を持つローズは、
人の心をすばやく読み、何を望んでいるかをつかむことに長けていたはずだ。
母に傷つけられたという思いは、何もここで語らなくてもよかったのではないか。
ローラのファンに、娘としての余裕を見せてほしかったというのは、贅沢だろうか。
「はじめの四年間」にあるが、ローズは生まれる半年前に名前が決まっていた。
安定期に入ったローラが、アルマンゾと一緒に馬車でドライブに出かけた草原には
色とりどりの野ばらが咲き乱れていた。ローラは野ばらが好きだった。
その甘いにおいを嗅ぎながら、お腹の子は女の子だとローラは確信したのだ。
予想どおりに女の子を出産してまもなく、『12月のバラは、6月のバラより貴重』と
さりげなく娘への愛情を込めた、ウィットのある一行を書きつけている。
ローズの誕生が「はじめの四年間」のなかでどれだけ希望を与えていたかが伺える。

ローラの日記は、絵のように細やかな描写が光る。風景が浮かんでくるようだ。
事物や人に対しての観察眼にはおどろかされるが、感情は書かれない。
日記がこうなのだから、これがローラの本来のスタイルなのだろう。
現代、ブログ文化が栄えているが、当時の人々もよく日記をつけていたらしい。
開拓移民だったインガルス一家の娘であったローラにとって旅は日常だったが、
新しいことを発見する興味は尽きなかった。
ワイルダー一家としての旅でも、見知らぬ土地で見聞きするすべてに興奮していた。
夜はキャンプの焚火のそばで、アルマンゾの助けを借りながら、
どんな小さなことも洩らさないようにローラはノートに記していた。
青い罫線の一行に、ローラはこまかい字で三行ぶんを書き、ページを節約していた。
そしてこの日記をとても大切にしていたそうである。
インガルスのとうさんが言っていたように、大きくアメリカが変る時代だったので、
そのときの暮らしを克明に書いておけば、
歴史的に貴重な資料になるのではないかと考えていたためだ。
「わが家への道」には当時の写真も何枚か添えられていて、
馬車でぎっしりの大通りなど、現代とは異なった生活様式を伝えている。

晩年、ローラとアルマンゾは馬車ではなく自動車で、西部へむけて旅に出た。
ローラが物語に書いた、ふたりにとっての思い出の詰まった大草原へも行った。
このころにはすでに、とうさんもかあさんも姉のメアリーも永眠。
結婚した妹ふたりのそれぞれの家に立ち寄って思い出を噛みしめたという。
旅から戻って数年後に、デトロイト公共図書館の分館が設立され、
ローラ・インガルス・ワイルダー分館と名付けられた。
ローラは開館式に招待され、アルマンゾもこのことをたいへん喜んだが
92歳という高齢の彼の体調を気遣い、ローラは出席しなかった。
まもなくしてアルマンゾは心臓発作を起こし、二度と目覚めることはなかった。
ふたりが結婚してから60数年の時間が経っていた。
その後ローラは寂しいけれども穏やかな日々を淡々と過ごす。
ローラが90歳の誕生日をローズと一緒に迎えると、たくさんのお祝いの品や手紙が届いた。
アメリカのあちこちで、ローラの誕生祝いが計画されていたのだ。
それから3日後に、ローラはアルマンゾのもとへ旅立った。人生に終わりを告げる旅へ。

シリーズを読み、関連本にも目を通してローラ自身に触れてみて思ったことは、
豊かな人生、ということだった。
1日は24時間、ひとりの人間に体はひとつ。これは絶対に変えられない。
自分がなにを持っているのかに気づき、工夫し、持っているものを味わい尽くす。
物質的なことにかぎらずに。
そんなローラの生き方は、この先もずっとわたしを魅了しつづけるだろう。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本長い冬

2011/08/18 16:13

シリーズ六作めは、青春篇のプロローグ。吹雪ばかりに塗り込められた白い冬。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

いままで講談社文庫で読み進めてきたが、この本は岩波少年文庫である。
このシリーズは、すべてを統一された書籍で読むことができない。
これは邦訳の版権の事情で、
物語の前半と後半を、それぞれ違う出版社が取得しているためである。
じつはこのシリーズは厳密には、前半が少女篇、後半が青春篇として分かれているのだ。
ローラは、「長い冬」を青春篇の第一部としていて、
意識的に大人の小説へと展開していくつもりだったらしい。

おなじ作品のシリーズを違う翻訳者で読むことは初めてだったし、
ちょっとした語彙やトーンの違いには少々とまどったものの、
「長い冬」という作品の持つ魅力に遜色はなかった。
タイトルどおりにやや暗く重い設定だったにもかかわらず、読ませる力がつよい。
ここからは、淡々とした情景描写だけではなく人物の行動や心理が明細に描かれるからだ。
「農場の少年」までの前半部にはなかったものが盛り込まれ、新鮮でもある。

「シルバー湖のほとりで」に書かれていたように、
インガルス一家は、ふたつの住まいを手に入れた。
鉄道開通にともなってできた真新しい町デ・スメットの住まいと
そこからすこし南へ下った開拓農地の住まいである。
シルバー湖での越冬を終え、春には町と農地を行き来しながら、
父さんはひと足はやく、夏には農地を耕しはじめ、一家は農地小屋に落ち着いた。

ローラがもうすぐ14歳になろうとしている、晩夏のある日。
父さんの農作業の手伝いをしていたときに、池の端に奇妙なものを見つけた。
それはジャコウネズミの巣だった。近づいてみると異様に大きかった。
ローラの背丈ほどもあるし、幅も両腕を伸ばしても足りないくらいにある。
父さんは言った。ジャコウネズミの巣の大きさは、来る冬の寒さに比例するのだと。
ことしは厳しい冬になる。このメッセージは、シンクロニシティのように
インガルス一家を追いかけてきた。
9月におりた早すぎる初霜。10月の猛吹雪。湖からは鳥たちが一羽もいなくなった。
父さんは確実にこの冬の過酷さを察知した。

一家は、デ・スメットの町で厳しい冬を乗りきることになったが、
それは予想以上のものだった。
来る日も来る日も吹雪がつづくのだ。家から一歩も出られない。
まっしろな冬に閉じ込められる。雪はまるで不気味な気配を連れてくる悪魔だった。
頼みの綱だった鉄道は完全に吹雪に道をふさがれ、食糧が運べない。
なんのために町へ来たのだ。ここには店があり鉄道が通っている。
厳しい冬に食糧が確保できるからこそ、農地から引っ越してきたというのに。
町の商店からは食べるものが姿を消した。
住民たちは家に蓄えた食糧がいつ底をつくか、ひやひやしながら食事をした。
鉄道が回復する見込みはさっぱりない。暖をとる燃料である石炭も買えなくなった。
インガルスの父さんは吹雪のない日に橇に乗って農地へ出かけ、干し草を取ってきた。
こよりのようにねじって太い棒にし、ストーブへくべるためである。
干し草ねじりは毎日の日課になった。ローラの手には干し草の傷が無数にできた。
母さんはなんとコーヒーミルですこしずつ小麦を挽いてパンを小さくこしらえた。
食糧事情は深刻だった。各家庭で大切に分け合いながら食べていた主食である小麦。
その小麦が、とうとうなくなりそうなのだ。
ある日、南のほうの農地に小麦を蓄えた農夫がいるという噂が町をかけめぐった。
町の勇気ある若者がふたり、その小麦を町の住民のためにいくらか分けてもらおうと、
橇に金貨の袋とみんなの思いをのせて出発する。
たしかなことなどひとつもわからないのに、危険を顧みず出発したのは
開拓農地から、兄が営む商店へ避難してきていたアルマンゾと、キャップだった。
アルマンゾとは、もちろんアルマンゾ・ワイルダーである。
「農場の少年」は19歳に成長し、念願だった農夫となったのである。
もう、おとなしく従順なだけのアルマンゾではない。
果敢に挑戦し、心理的なかけひきさえこなす青年である。
ローラとの接点はまだないけれど、おなじ町の住民としてお互いに顔は見知っていた。
ローラは小麦を求めて旅立った彼らの消息を案じていた。
へたをしたら死ぬかもしれない。白い悪魔からどうか身を守れますように、と。

「長い冬」で感心するのは、ローラが大人の要素を入れていくと言っていたとおり、
社会に必ず存在するみにくさをうまく描いているところだ。
たとえば、助け合わなければいけないときに、自己中心主義者が必ず輪を乱すこと。
そのほか家族の描写のなかにも、ローラと姉のメアリーとのちょっとした確執や、
父さんと母さんの意見の食い違いなどがけっこう生々しく書かれていて、
どきりとする場面がたくさんある。
毎日のようにつづく吹雪は、人の心までも凍てつかせてしまう。

ローラの暮らしたサウス・ダコタは、夏は暑すぎず快適だが、冬は厳冬で気温は零度以下。
現在の観光の目玉として、キーストーンのラシュモア山国定記念公園が有名である。
巨大な四人の大統領の彫刻(ワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、リンカーン)は圧倒的な存在感をもつが、完成には14年の歳月を要した。
彫刻家ガットスンは400人のスタッフと共に作業に当たったらしいが、
秋から吹雪く山での作業はどんなに過酷だったことだろう。
この過酷な環境のサウス・ダコタ付近のいくつかの州には意外なものが存在していた。
1942年、第二次世界大戦の戦時下で、日系人の強制収容所が急ピッチでつくられたのだ。
粗末な小屋で暮らすことを義務付けられ、すべての自由を奪われていた人々。
決して少数ではない、試練を受けなければならなかった人たちにとっても、
冬の厳しさは追い打ちをかけるように残酷なものだったに違いない。
日系人強制収容所がアメリカにかつてあったという事実さえ知らなかったが、
「長い冬」を読み終えた後で、ワイオミングの収容所跡のテレビ放送を見て、
わたしにとってこの本は、色々なことを考えさせる一冊となった。

さて、とてもシリアスな展開になったが、「長い冬」のラストは軽やかである。
長く、暗い、寒い冬を耐えきったあと、インガルス一家にすばらしい贈りものが届く。
この過酷な状況を超えたからこそ、感じられる、すばらしい奇跡のような瞬間が。
つらい時期は長く、永遠のようにも思われるが、いつか過ぎ去る。
いまはすべての途中にあるのだ。いいときでも悪いときでも。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本おでかけニット vol.1

2010/12/22 00:17

大事な人へ、大事なじぶんへ。手編みはやっぱりあったかい。

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

小物とウェアのレシピが程よいバランス。
小物しか編んでいない人でも臆することなく
手に取ることができそう。

この本の、まず価格設定がいい。
最近では1000円以内で
センスのいい編みもの本を探すことが難しくなった。
(よく探せばあるのだけれど)

表紙にセンスが感じられて、
全体の雰囲気を伝えているものって
かなりの確率で中身も優秀だと思う。
実用書はとくにそれを感じる。

表紙をあけると
まるで北欧に迷い込んだような、
かわいらしい作品紹介の写真。
素朴なんだけれど、おしゃれ心を忘れていない。
デザインは、michiyo、岡本啓子、風工房など。
充実の布陣。(だと思う)

糸の紹介のページがあって
風合いや大体の太さがわかるようになっている。
これもよし。ちなみに糸はハマナカのラインナップ。
ハマナカを扱っていないところはそんなにないから、
通販でも手芸店でも手に入りやすいアイテムなのでは。

編み図はたっぷりとスペースをとって
大きめで載せてくれているのが嬉しい。

「ワンボタンのカーディガン」は輪針を使うのが画期的。
「りすのカーディガン」は、
りすの編み込み模様が、まずめずらしい。
(トナカイはよく見かけるけど)

つくる前から色々とたのしい空想がひろがる。
いまどき、手編みは贅沢な趣味なのかもしれない。
特にセーター類などは、手間も時間もお金もかかる。
既製品を買ったほうがはるかに安くあがる場合もあるから。
でも、じぶんだけのオリジナルは、愛着が違うはず。
編みものをしているとき、手は動かすけれど心は安まる。
編んだ時間の大切な価値は、なにものにも代えがたい。
ウェアは、ベストから挑戦してみたい。





このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

そっと包み込まれたデリカシーが、心に届く。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今回は、対局シーンは少なめ。
将棋のシーンと、その他のシーンが
バランスよくまとまった感じ。
零が、だんだんじぶんを取り戻していく様子が
ほんとうに嬉しくなる。

先崎学の将棋コラムも毎回おもしろい。
専門分野の人は、とかく
専門のことしか目がいかなくなる傾向があるが、
この人はちゃんと「3月のライオン」を
読み込んだうえで、適切な解説をしていると思う。
だからこのまんがのファンも
かなり高い好感度を持って、このページを
読んでいるのではないかと推測する。

さて、三姉妹プラス猫たちは
あいかわらずいい味を出してくれているけれど、
次女のひなたちゃんが、大変なことに巻き込まれてしまう。
彼女が思わずこぼした涙に、零が発するひとこと。
これが5巻のクライマックスなのだけれど、
この何ページかのあいだで、泣いてしまう。
ふたりの思いそれぞれに、感情移入してしまう。
いや、ふたりの思いが、こちらに侵入してくるのだ。
めったに震わせてはいけないところに
そっと(決して無理やりではなく)入り込んできてしまう。
琴線に触れてしまうのだ。

羽海野チカは、ふたりを抱きしめるような思いで
これを描いたのだろうか。
そしておそらくふたりの立場にいるたくさんの人を
抱きしめる思いを持って。
感応してしまう人には、なにかとても壊れやすいものを
そっと包んで差し出してもらったような
気になるのではないだろうか。
「3月のライオン」には、ほんとうにいつも、
大事なことが描きこまれているなぁと感じる。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本大好きな本 川上弘美書評集

2010/09/05 20:13

するする読むうちに、文章の底にある湖の深さに、惹きこまれていきます。

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

おもしろい。
読み始めると、なかなか本を置くことができない。
本書は、
タイトルからわかるとおり、著者の書評集である。

解説の豊橋由美の言葉によると、
「川上さんは、本を読むときに、
 気持ちだけじゃなく、五感を開いているように、
 わたしには、思えます。
 頭だけじゃなく、全身で読んでいるように
 思えるんです。」(475ページ)

まったくそう思う。
著者が全身で本の世界を旅していく感じが伝わってくる。
この本は、川上弘美の冒険譚なのではないか。
読書を通した仮想世界をまるで本当の経験のように
(だけど、もちろん、知ったかぶりはなし)
表情ゆたかに(まるで身ぶり、手ぶりで)語ってくれるから。
生き生きと。だから、こんなにおもしろいのではないか。

紹介されている本の中には、
わたしが大好きな作品や一度読んだ作品もあった。
だが、書評を読んでいると再読したくなってくる。
そして、名前を知っていたけど、手を出しあぐねていた本は
読まないと損なのではないか、という気にさせられる。
とくに、久世光彦の「謎の母」、筒井康隆の「パプリカ」は
ぜひ読みたくなった。

傾向としては、いまの日本の小説の書評が多い。
ちょっと古めの外国文学が好きなわたしには
とても新鮮に感じられた。

きらきらした言葉、心に留めておきたい言葉が、たくさん、あった。
たとえば、山田詠美の「風味絶佳」の書評の中の、一文。

「贅沢とは、なんだろう。
 何かがふんだんにある、ということではないと思う。
 そうではなく、そこにあるものを、
 ぜんぶ味わいつくすことのできる能力を持った人が、
 実際に味わいつくしている。その状態を、贅沢、というのだと思う」
(222ページ)

全体を通して
やわらかい言葉で語られ、ユーモアもたっぷりなのに、
底に流れる、本に対する著者の姿勢があまりにも真剣なので
こちらもとても真剣になって読んだら、目が痛くなった。
読みたい本がたくさん出てきたというのに、困る。
これは、わたしの目の衰えだけの問題ではない気がする。
川上弘美、おそるべし、である。
今回の文庫化によって、どれだけ多くの読者が、
紹介された本を買うことになるのだろうか。






このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本イグアナの娘

2010/04/18 19:38

どうしてこの本が「イグアナの娘なのか」

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

萩尾望都さんの作品を一冊ちゃんと読んだのは
これがはじめて。
だいぶ前に書かれている本だけど
普遍的な内容なので
古くささは感じなかった。
おまけのエッセイを江國香織さんが書いていて
これには嬉しい驚き。

さて。表題作「イグアナの娘」。
どういう話なのか、うっすらと知ってたけれど
ぜんぶ読んでみて、ああそうか。すとんと納得した。
母親の目に、生まれてきた子がイグアナのように
醜くみえる、という情報から
なぜ「イグアナの娘」というタイトルなのかと疑問だった。
なぜ「娘はイグアナ」じゃないのか、と。

タイトルだけではなく、いろんな「すとん」が
この本には用意されている。
現実世界のことなのだけれど、え?どうして?みたいな
萩尾さんの謎かけがあって、
読み進んでいくうち「ああ。そうか」と。

どのお話も人と人とのあいだの隙間というか
じぶんの意識と本能の隙間というか
なんとも言い表しがたい、でも誰もがたぶん抱えるような
そういう隙間を突いてくる。
でもそれは弱みに付け込んで誘惑に負けるといった心の闇を
描いているのではない。
むしろ登場する彼らの苦しみ、ちょっとした悲劇は
前進するための通過儀礼のように感じる。
短編のすべてが、希望を残したハッピーエンドで幕を閉じるからだ。

彼らはじぶんの感情をストレートにぶつけてくる。
「すとん」はここからくるのだろう。
不思議な癒しの力を持っている本だと思う。





このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本私たちのお弁当

2010/03/07 09:46

「お弁当は冷めていてもあたたかい」味わい深い、こだわりの一冊

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 
 何度も繰り返し使う料理本って、じつは少ない。
 そんな中で この本は本当に大好きで何度も読み返してしまう。
 そう。見返すのではなくて読み返す。
 さらっと捲ってもいつの間にかじっくり読んでしまう。
 そこにはお弁当のレシピだけではなく、それをつくる人たちの
 物語があるから。

 実用書としてももちろん使い勝手がよい。
 さくらえびときゅうりのお稲荷さんは
 こじゃれていて美味しかったし、表紙のお弁当は、つくってみると
 しぐれ煮とそら豆の味のコンビネーションに顔がほころんだ。

 この本では、色々な仕事を持ち日々を生きる人たちの、
 お弁当に対するこだわりや工夫が綴られる。
 常備菜や詰め方など参考になるものがいっぱい。
 たとえば、10分でできる!とか、材料はこれだけ!
 と強調するわりにはつくってみると矛盾するような
 不安要素はなし。主張すぎない上品さがいい。
 素材や組み合わせにも普通っぽさが感じられて
 ほかの料理本に比べると それが新鮮である。
 料理をあまり得意としない人にも
 「これならできそう」「これでもいいんだ」と
 お弁当作りのハードルをさげて、テンションをあげてくれる。
 読み終わるとほっこりできるのもいい。 
 
 自分らしさに溢れたお弁当ができあがり、
 ふたを開けて食べるときの、あのわくわくする気持ちって
 本当にいいものです。本の中に出てくる
 「お弁当は冷めていてもあたたかい」という言葉が
 すごくすとんと胸に落ちた。


 好評を博して「もっと!私たちのお弁当」も発売されている。
 このシリーズ、長い時間をかけてスタンダードになりそうな気がする。
 
 
 

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

「どんな母娘でも、戸棚の中に骸骨を秘めている」

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「身体性」と「言葉」の問題から
母娘関係にアプローチした研究はほかに見当たらず、
新しい切り口を提供したかなという自負はあります。
・・・・・・すくなくとも本書は
母娘関係に関する良質のブックガイドたろうと
したつもりです。

以上はあとがきからの引用だが、この本のねらいが
特にこの文章に要約されていると感じた。
「イグアナの娘」や「ダイエット」、「愛すべき娘たち」など
親しみ深いコミックも多数挙げられている。

気になる点としては、フェミニストの人や
シリアスに悩んでいる人には、やや配慮が欠けている内容と
なっているかもしれないこと。

わたしは、齋藤氏の「身体性」という新しい切り口も
おもしろく読んだし、以前に女性が書いた母娘関係の本よりも
視点が広く、これは男性のいい面が生かされている気がした。
ただ、最後の結論づけはいらなかったかもしれない。
これがあることで、結果的に中途半端な位置づけになることを
否めない。

こういった本は、問題の全体像を軽くつかむことで
じぶんのことをサンプルのひとつであると
客観視させることに、価値があるのではないかと思う。
母娘という深い森のなかへ足を踏み入れるというよりは
ざっと周りを散歩するくらいの余裕を持って臨めば、
思わぬ発見が得られるだろうし、
違った景色が待っているかもしれない。

母娘とは、ほんとうに奥の深い関係であり永遠の謎である。
母にとっても。娘にとっても。
できれば、骸骨は隠されたままにしておきたいと願うだろう。
戸棚の扉に鍵をかけて。
しかし、放置で風化できるとは限らないのだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本きょうの編みもの

2012/01/25 14:44

おしゃれで実用的な、真冬のたのしみ。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

おしゃれで実用的な、真冬のたのしみ。

おなじ著者の「編みものこもの」がとても使える本だったので
こちらも購入してみた。
三國万里子さんの本のいいところは、
くわしくてわかりやすい書き方で解説してあること
センスがよく他ではちょっと見かけないデザインであること
おしゃれなスタイリングの写真で、
編みたくなる気分を盛り上げてくれること
だと思う。

今回はフェアアイルベストがくわしく解説されているが、
これがなんとびっくり。
身ごろを編んでから袖を切ってしまうという手法。
外国でそういう編み方があるらしいのは知っていたけど
こんな大胆な方法をていねいに説明してくれる編みもの本は
おそらく日本ではじめてではないかしら。
紹介されている作品の内容は
カーディガンが3点、セーターが4点、ベストが2点、
ミトンが7点、帽子が6点、バッグが2点、
マフラーとショールが1点ずつ。

難点をあえていえば、糸の紹介のページが欲しかったこと。
ほとんどがパピーという高級なメーカーの糸なので、
何号の針に合う糸なのかを紹介してもらえればアレンジがしやすいのに。
まぁ、書いてなくても使用針に合うもので入手しやすい糸で
編んでしまうのですけどね。
(風合いは違うのかもしれないけれど、
びっくりするくらい別のものにはならないので)
あ、でも、フェアアイルベストだけは、切る工程があるので、
必ずシェットランドの糸を使用のこと、と書いてありました。
ほかのだと絡まなくてぼろぼろになるおそれがあるらしいので。

それから本の最初に著者のエッセイが載っていることも魅力。
ほっこりしたすてきな文章を書く人なので、
エッセイをもっと読みたいと思ってしまう。
編みものをする人のエッセイといえば
群ようこの「毛糸に恋して」しか知らないのだけれど、
そういうエッセイってピンポイントに需要があるのでは?
三國さんが出してくれたら、わたしは買います。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本富士日記 改版 上

2012/01/18 19:53

ユーモアがキモ。細かな描写にストーリーが浮かび上がる。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

『これは山の日記です』と作者が書いているとおり、
富士の山荘と東京の自宅を行ったり来たりしながら暮らした日々の日記。
最初のほうは、こんな感じでいいのだろうかととりあえずペンを動かしているが、
中盤くらいからだんだん描写が細やかになり、
後半になるともうワンシーンが小説のように鮮やかになる。
動かしていたペンがすらすらと走っていくような変化を感じられる。
おそらく作者自体も、日記をつけることがたのしくなっていったのではないか。

「富士日記」は些細な山での暮らしのようす、食べたものなどが記されているが、
自然や人の描写がとてもすぐれていて(特に人の言ったことが細かく記録され)
かなり臨場感を持っておもしろく読んでいくことができる。
ああこの場所はこういう雰囲気なんだなとか、この人はこんな人なのかとか。
文章を読んでいると、絵が浮かび上がってくるのだ。
そして真面目な中に光るユーモラスさも見逃せない。

上中下と三冊あるうちの上巻は、昭和三十九年七月から昭和四十一年九月までが綴られる。
昭和四十年夏。江戸川乱歩の死を新聞で読み、富士から東京への方角へ遥拝との記述。
武田百合子は女学生のころ、乱歩の本をかなり愛読していたようだ。
それからしばらくして終戦を待たずして谷崎潤一郎の葬儀に出席すると、
こんどは終戦直後に高見順の葬儀があり、日本の文学史の一幕をみるようだった。
ちなみに作者は終戦ではなく敗戦記念日としるしている。
とくに戦争に対する感情(というか全般に対する個人的感情)は書かれていないのだが
当時の人々がどれだけの無力感を抱えていたのかが、この書き方から伺える。

山と自宅を車で往復するため、車での道中もくわしく書かれるのだが、
そこでの味わい深い記述。
『やまどりのメスが一羽、私の車の前を歩いていく。車が動いていっても、
あわてず、飛び立たず、ゆっくりと道を歩いていく。
ときどき、振り返って胸を反らせて、あとから来る私たちのほうを
ふしぎそうに見つめ、またゆっくり歩いて、自分の曲がりたいところまでくると、
樹海の中へ入っていった。上品な鳥だ。』(本文より引用)

のどかにユーモラスに自然や人を描写する作者はのんびりしていると思いきや、
つぎのような衝撃的な日記もある。
これは霧の出ている九月のこと。御殿場まわりで帰京するときのこと。
見通しのきかないカーブであるトラックがセンターラインを越え、右側通行してきた。
これに正面衝突しそうになり、腹が立った武田百合子はすれ違い越しに窓から
『なにやってんだい、バカヤロ』と言ってやった。すると夫の泰淳が(助手席から)
『人をバカというな。バカというやつがバカだ』とたしなめる。
百合子はこの反応におどろくと同時に激怒し、口答えをする。泰淳も怒る。
さらに百合子の怒りもヒートアップし、車のスピードがあがる、あがる!
『頭のなかが口惜しさでくちゃくちゃになって、右は走るわ、急ブレーキを
かけて曲がるわ、信号が赤だって通り抜ける』
さいわい『朝早かったから車も見かけず、人も通らず』お巡りさんもいなかった。
そして百合子はなじみのスタンドのおじさんに一部始終を話し、同情してもらい、
マツタケまでもらってやっと気が晴れる。家に帰ってからマツタケごはんを炊き、
おいしくて4膳もおかわりしてしまう。泰淳はそんな百合子を見て
『牛魔大王、マツタケめしを食って嵐おさまる』と吹き出したそうだ。
まったくどきまぎさせられたが、最後は笑えるというのが、いい。

また、献立の記述も興味深い。
朝、ごはん、干物、味噌汁。とか、夜、ごはん、白菜の漬物を油いためする、とか、
手製のクッキー。とか。文字だけだとよけいおいしそうに想像してしまう。
それに特にごちそうというわけでもなく、この普通さかげんがいい。
すうっと肩の力が抜けていて、見たそのままが書いてあって、それでいて
不愉快なことはひとつも出てこない日記。
こんなふうに飄々と淡々と、日々を綴ってみたいものだと思う。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

紙の本女ひとりの巴里ぐらし

2011/12/06 20:34

ハンサムガールというよりは、男前とよびたい。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

初出は1955年で、鱒書房から発刊されていたもの。
石井好子の処女作である。
これは1953年5月から、1954年4月末日までの
石井好子が楽屋でつけていた日記がもとになっている。

石井好子は1951年にパリでシャンソン歌手としてデビューしたが、
(このことは文春文庫の「パリ仕込みお料理ノート」に詳しく書かれている)
その後、ベルギー、スペイン、イタリア、ドイツと、
ヨーロッパじゅうを歌い歩くことになる。
しかし、フランス語もままならず、次々に異国の公会堂で歌う暮らしに
石井好子は虚しさを覚え始めていた。
わたしは、やはりパリで歌いたいのだ。
暮らしのためにパリを離れるほかなかったけれど、
やはりパリへ戻ろう。
そんなふうに、決意を固めるところから、この物語ははじまる。
物語といったが、これは石井好子の半自伝的エッセイである。
しかし、まるで一篇の長篇小説を読んでいるかのように、
鮮やかに人間模様が綴られていく。そうだ、これはまぎれもない物語だ。
パリ。モンマルトルの、華やかな、人情あふれる、そしてせつない、物語。

石井好子はパリへ戻ってから、モンマルトルの有名なキャバレーと契約する。
1年間、365日。休日が1度もない契約。
夜の10時からはじまって明け方の3時半までつづくレビュの歌い手として。
そのキャバレーはパリの歓楽街ピガール広場の1番地にあった。
過酷なスケジュール、猥雑な環境のなかでも、石井好子は常に誇りを持っていた。
『自分の心を込めた仕事』に対して。そして役割をまっとうしたのだった。

石井好子が契約を結んだ「ナチュリスト」という店のレビュには、
男女4人ずつのアルティストと15人の踊り子、15人のマヌカンたちが出演していた。
このほかにもちろん楽隊があり、観客席では女給がチップ目当てに立ち働く。
ちなみにマヌカンというのは露出度の高い、若く美しい女性たちで、
レビュに花を添えるが、踊りはあまり重要視されない。
ほんとうに踊るために出演する踊り子たちとははっきり線がひかれている。
そしてアルティストたちと踊り子たちにもはっきりと線がひかれていた。
パリのキャバレーがどういうところなのか、これを読むとわかる。
そしてレビュ(出し物)のときの熱気や興奮までもが伝わってくるし、
そこに出演している人々の色々な事情までもが描かれているのだ。

アルティストというのは、ソリストととでもいったらよいのだろうか。
6場面あるレビュのなかで、それぞれ見せ場を持つ主役たち。
たとえば石井好子は日本の場面で妙な衣装を身に着け『蘇州夜曲』をうたう。
石井好子のほかアルティストをつとめるのは
スペイン人のカルメン(その名のとおりフラメンコを踊る)、
フランス人の歌手リュシェンヌ、イタリア人のアクロバットダンサー、ジョイアナ。
パリの夜は国際色もゆたかに、彩られていくのだった。
4人のアルティストたちはおなじ楽屋をつかい、長い時間を共に過ごす。
ものの考えかたがまるで違うので対立することも多かったが、
それぞれが本音をぶつけ合えた、と石井好子は書いている。
とくにリュシェンヌとは仲がよく、休憩時間に一緒に食事に出たりしていた。
そしてときには店の愚痴や、踊り子やマヌカンたちの噂話に花を咲かせる。
それにしても365日オフがないとは、なんというハードワークだろう。
異国で、しかも外国の人ばかりに囲まれて、
立派に主役歌手をつとめた彼女の歴史に、あらためて感動する。
まだまだ日本人がフランスでそんなに活躍しなかったころに。

パリへ戻る決意を固めるところからスタートした物語は、
このキャバレーとの契約の最終日、レビュの千秋楽のようすを描いて幕を閉じる。
アルティストたちは契約終了が迫った3月がくると、楽屋でカウントダウンを始めた。
夜の10時から朝の3時半まで歌い続けた毎晩の仕事は、決して生やさしいものではない。
石井好子は、でも、私はへこたれなかった。自分を甘やかしもしなかったつもりだ。
と綴っている。そして、指折りかぞえて楽しみに待っていた千秋楽の当日は、
『拍子抜けしたような、淋しい気持ち』になったそうだ。
大きな仕事をやり終えたときの爽快感ではなく、まるで文化祭が終わってしまったような、
ぽつんとしたがっかりする気持ちを表現しているところが、石井好子らしいなと思った。

憧れの地で、自分の足でふんばってきっちりと暮らしていたシャンソン歌手の名は
これからもずっと語りつがれ、彼女の書いたものは彼女の歌と共に永遠なのだ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

231 件中 16 件~ 30 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。