サラリーマン作家の率直すぎる自伝
2024/05/27 15:46
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投稿者:森の爺さん - この投稿者のレビュー一覧を見る
故新田次郎氏は長年にわたり気象庁職員と作家の二足草鞋を履いていたサラリーマン作家であり、気象庁測器課長時代の富士山レーダー設置の経験が小説「富士山頂」の元になっているのは有名な話である。
実際に直木賞作家になった後も退職せずに気象庁勤務は続けていたのだから、気象庁の仕事が好きだったのだろう。夫人である藤原ていさんが満州からの引き揚げ体験を綴った「流れる星は生きている」がベストセラーになったことにより、新田氏が作家を志したというのは有名な話であるが、理系でありながら文章能力もあるという新田氏と子息の藤原正彦氏の親子は理系が苦手な私からすればうらやましい限りである。
ただし、身内に同業者がいるというのは大変な面もあることを、本書の中の夫人(藤原ていさん)からの容赦ない評価を読むと感じたし、「山岳小説作家」という評価にご本人は不満だったことも初めて知った。そして作家自身による自作への回顧も自分が読んだ本がどのような経過で描かれたのかという経緯と、発表後の作品への評判を気にする下りが読んでいて面白い反面で、こんなに正直に書いて良いのかとも思えた。
そして、作家に気象庁の同僚からの冷やかしや人事課長との「退職して作家に専念しないのか」という攻防戦も、実際「富士山頂」では新田氏をモデルとする作家としてかなりな収入を得ている主人公について、公務員の人事・給与を監督する人事院から指摘されるという記載もあったのを読むにつけ、人事担当者にしてみれば自分の勤務先に有名作家がいるのは名誉な反面、厄介でもあり、しかもそれなりに有能な人材であれば尚更悩ましかったろうと思う。
ところで、気象庁おける新田氏の上司であった佐貫亦男氏も航空工学の学者として、東大、日大で教授を務め航空関係の著書を数多く残している佐貫亦男氏だったというのも、読了後に知ったが流石専門的な役所は違うと感じた。
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新田次郎さんは、彼の小説と息子の藤原正彦さんのエッセーに書かれる素顔くらいしか知らなかったが、改めて読んでみると面白い経歴をお持ちである。気象庁に勤められて、満州まで行かれたのち、シベリアに抑留され、あの富士山レーダの建設を終えて、気象庁をやめて作家専業になる。東大出身の職員に囲まれながら、なかなか出世できない職場の中で、小説を書くという二足の草鞋を履き続けて、その両方に足跡を残すというのはなかなかできない。すごい人という言葉を超える内容がこの本にはあると感じた。
生活費のために小説を書き始めたとか、奥様(藤原ていさん)の本が売れたから触発されたとか書いてありますが、もともと文才に恵まれた血筋なでしょう。とても真似できません。
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中央気象台の職員として物書きのアルバイトを始めた時代から、役人と作家の二足のワラジ時代を経て、作家専業なってから逝去する4年前までをつづっている。まったくの素人が中年からプロの作家になれた秘密は、役人時代、毎日夜7時から11時までを執筆にあて、そのペースを崩さなかったという著者の勤勉な性格であろう。職場での嫌な奴、故郷諏訪の人々の複雑な性格など躊躇することなく書かれており、気持ち良く読めた。妻と息子によるあとがきというのも凄い。
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人間の根源を見据えた新田文学、苦難の内面史。
昼働き、夜書く。ボツの嵐、安易なレッテル、職場での皮肉にも負けず。
本書は、気象庁職員にして直木賞作家であった新田次郎による赤裸々な自伝である。新田次郎というと、武田信玄に代表される、歴史作家というイメージが強かったが、創作初期は、山岳小説家であったという事がわかる。(本書を読むと、本人は山岳小説家と称されることを嫌っていたこともわかる)
学歴(東大卒、理学博士)が幅を利かす官界において、専門学校出身の新田次郎は、コンプレックスを抱く。自伝では、生活の足しにするため執筆活動を始めたとあるが、その鬱憤が創作活動へ駆り立てたのかもしれない。(巻末に収録されている、藤原ていや藤原正彦の回想から窺える)
人気作家となるものの、気象庁を退職することを余儀なくされる。これは、作家活動が睨まれたというよりも、当時の役所の人員構成の問題があり、後進に道を譲る事を求められたといえる。著者は辞めるまで葛藤する。このあたり、なかなか生々しい。
本書を読むと、新田次郎はかなりプライドが高かった事が窺える。その負けん気が、富士山気象レーダとなり、数々の作品を生み出したといえるが、一般的な好々爺とは程遠い、本書を、私は楽しく読めたが、好みは分かれるかもしれない。
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新田次郎、山登りを趣味としながら何か手にしづらく、今まで読んだのは数冊であった。
彼は気象庁の役人でありながら直木賞作家という二束のわらじを送る。役人としての仕事の取り組み、小説家としての苦悩。自伝だから少し美化してるかなと思われるが時系列に詳細に描く文体は両方の仕事を真摯に取り組んでる姿が想像できる。
彼が「山岳小説」というレッテルを拒否し、あくまでも小説で人間を描いてると言う場面はいちばん印象に残った。
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「強力伝」で直木賞を受賞し、代表作は「孤高の人」。山に関する多くの小説を残してきた著者の自伝。小説家と編集者との関係を赤裸々に書いているのがおもしろい。
著者は直木賞受賞後も、役所勤めと小説家の2足の草鞋を20年間はき続ける。17時に退社し、帰宅して19時から書斎にこもる生活。小説家になるには、技術や才能もさることながら、本人の作品に向かう集中力と職場や家族の理解が何よりも重要だ。
小説家としては、全集を発表するほどの作品を残し、気象庁職員としては、富士山気象台に巨大レーダー建設の実績を残す。そして、父としては、ベストセラー「国家の品格」の著者である数学者の藤原正彦を子孫に残す。この自伝からは自身を誇る感情を表してはいないが、実直に自分の役割を果たす古き良き時代の日本男子の精神を感じる。
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烏兎の庭 第四部 書評 9.8.12
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto04/bunsho/siro.html
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新田次郎の小説は昔よく読んだが、小説家としてこのような苦悩や葛藤を背負っていたとは思わなかった。
新田次郎と言えば一連の山岳小説が有名だが、小説を書くきっかけになったのは、「給料が少なかったので金を稼ぐため」で、本業である気象庁の仕事と小説執筆を両立させながらも、時に同僚から陰口を叩かれ傷ついていたこと。小説家一本に絞るために54歳で気象庁に辞職願を出したとき、本当は仕事を続けたいという気持ちから、不眠症になったということ。
「孤高の人」で、登山家と船の設計技師という2つを両立させていた加藤文太郎の描写に妙にリアリティがあったのは、作者のこうした背景があったからかもしれないと感じた。
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作家デビューに至るまでの経験を総括しているのではないかと思います。
二足の草鞋を履く・・・本名:藤原寛人さんは、気象庁の技術者でありながら、小説を書き続けました。富士山頂の測候所に携わっています。中でも、以下の文言が印象的です。
この小説は、昭和52年1月に発行(今は絶版になっています)されており実に戦後30年以上を経てから発表となります。何故、この体験を書かなかったのか?については不明ですが、「小説に書けなかった自伝」には、こう記されています。
※以下引用
『「望郷」のでき不出来よりも私はこれを書くことによって憑きものを落としたかった。
私にとっての終戦後の一か年間は十年にも値するほど長かった。引き揚げてきてもなにかの折にその当時の夢を見てうなされた。(中略)「望郷」を書いている最中には毎夜のように当時の夢を見た。しかしこれを書き終えてしまえば夢は見ないだろうと思った。その期待は見事に裏切られた。憑きものは落ちないどころかむしろ忘れかけていた苦しい思い出がよみがえって、夢見はいっそう悪くなった。』
※引用終わり
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公務員技術者としての職業倫理に支えられ、着実に仕事を世に出していった新田次郎の幸せな作家人生がわかる。原稿締切に遅れたことはないというのがその証拠。森博嗣も締切を守らなかったことはないそうだな。
井上靖や新田次郎の作品は、人文系の小説批評からは無視されていたのかもしれないが、国民的作家として死後20年以上たってもきちんと読者は残っている。
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新田次郎の作品は読んだことがないのだが、正社員として働きながら、やりたいことを成功させるためにはどうしたら良いか、何かヒントを得たくてこの本を読んだ。
感想としては、新田次郎の誠実性と体力に感服するばかりだった。
正社員としてのハードな勤務の後での小説家としての二足の草鞋をここまで完璧にこなす人はいないんじゃないかと思ってしまう。
自分もこんな風にできるかといったらきっとそうはいかないだろう。
それでもやってやろうというパワーはかなり湧いてきた。
新田次郎のようにそれを成し遂げたひとがいるのだ、それも40にもなるといった年齢で。
年齢を重ねるごとに体力的にも世間的にも諦めなければならないことが増えていくといった風潮の中で、新田次郎の姿は英雄であり希望だ。
単にがむしゃらに小説を書いていたわけではない、徹底した取材や、投稿作家時代などには他の作品からの勉強をする姿勢など、その誠実性には本当に年齢を感じさせないし頭が下がる思いだった。
今度新田次郎の作品を読んでみようと思う。
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・悪い点は誰かが指摘するから、努めて良い点を指摘する方に回る(八木義徳)
・小説屋であったことは職場でもみんな知っていた。役所では言動を慎み、小説のことは噯気にも出さないようにする。仕事も人一倍熱心に勤めた。人の目は厳しい。麻雀で夜更かししての翌日の会議で居眠りは許されても、復業での居眠りは許されない。11時までには寝る。
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新田作品は、雑誌で映画の紹介をしていたのを見て「劒岳〜点の記」を手に取ったのが初めてです。それから数冊読んで、この本に至りました。
新田氏の文学の歴史が詰まったような作品であって、氏の人柄が垣間見えるものだと感じます。
処女作からまた作品を読み返してみたら、最初に読んだ時と違う情景が浮かぶかもしれません。
特に退職前後の話が印象に残りました。
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新田次郎(長野県上諏訪新田村の次男坊として生まれたことに由来するペンネ-ム)が、中央気象台(現:気象庁)に就職し、妻子と満州国への赴任、ソ連軍捕虜としてシベリア抑留、艱難辛苦のなかで文筆活動を続け、懸賞小説『強力伝』で直木賞受賞、職場での冷ややかな視線、山岳小説家というレッテルに抵抗しながらも、事実を下敷きに幾多の代表作を紡いだ、新田文学誕生の自伝随筆。『流れる星は生きている』の藤原ていサンによる「わが夫 新田次郎」と『若き数学者のアメリカ』の藤原正彦サンによる「父 新田次郎と私」の寄稿文が、堅実公正の人柄を偲ばせる。