正しい書評なんてない
2011/06/17 08:15
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
光文社のPR雑誌「本が好き!」で豊崎由美さんの「ガター&スタンプ屋ですが、なにか? わたしの書評術」という連載を見つけたのは連載9回目あたりの頃。うわー、おもしろいと、その後、そのPR雑誌が本屋さんの店頭で無料配布される頃をねらって馳せ参じていました。
ところが、それから数か月して、突然このPR雑誌が休刊。せっかく見つけた宝物を取り上げられた気分でした。しかも、読みそこなった前の号がなかなか見つからない。図書館で調べても、PR雑誌は置いていないこともままある。残念至極。
すっかり諦めていたところが、こうして新書になって刊行されたのですから、うれしさ倍増。しかも、豊崎由美さんと書評に関して造詣の深い大澤聡さんとの対談「ガラパゴス的ニッポンの書評 -その来歴と行方」まで附いていて、待った甲斐がありました。
ところで初出時の「ガター&スタンプ屋」ですが、「ガター」というのは「本の内容を短く書き表わす」ことで、「スタンプ」はいい本か悪い本かの印(しるし)をつけることで、19世紀、いじわる的に使われていたようです。豊崎さんはそれを自虐的に使われています。
この本では連載の内容を15講にして収められていて、連載時でもそうですが、豊崎流の辛辣な文章が、読んでいて小気味いい時もあるし、ちょっと言い(吠え?)過ぎと感じることもあります。
例えば「書評は作家の機嫌をとるために書かれてはならない」なんていう文章は小気味いい部類ですし、村上春樹さんの『1Q84』の書評をめぐる黒古一夫さんとのやりとりは後者の部類にはいります。
もちろん、黒古さんとのやりとりを豊崎さんらしいと感じる人がいてもちっともおかしくはありませんが。
巻末に附いている大澤聡さんとの対談も面白く、そもそも「書評」という呼び名はいつ頃定着したのかという話など、「書評めいた」ものを書いている人間としては興味深く読みました。
大澤さんによると「書評」という言葉は「大正末から昭和初年代」に使われた言葉らしく、その語源についても「書物評論」「新刊書批評」といった言葉の略語という説もあるらしい。しかも「ブックレビュー」という言い方の方が先に使われていたようで、カタカナ言葉があまり好きではない私ですから、いささか面喰いの事実発見でした。
これから書評を書いてみようという人、あるいはすでに書評を書いている人にもこの本は刺激に満ちています。
豊崎さんの「面白い書評はあっても、正しい書評なんてない」という意見に大賛成です。
「縛り」がると「楽しい」
2011/05/21 10:53
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Tucker - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ニッポンの書評」の書評、と言いたいところだが、書いている当人は「読書感想文」のつもりなので、この表現は使えない。
この本は「書評の書き方」ではなく、それ以前の「心構え」について述べている。
(最後の方にテクニック的なこともかいてあるが)
ただし、内容はシンプルで、納得できるものである。
曰く
・書評自体、読んで楽しいものにする。
・ネタばらしには注意
・悪意の垂れ流しは厳禁
等
要するに
・読む人がいる事を意識する
・紹介する本を読みたい
と思わせるという事だろう。
少し耳が痛いのが「援用」の落とし穴。
本を紹介するはずが、本をダシにして自分の主張を展開するようなものであってはならない、というもの。
時々、脱線して違う話を書いていたりするので自戒が必要。
そして、気をつけているのが、「悪意の垂れ流し」
こういうものは読んでいて気持ちのいいものではないので、批判的な事を書く時は、「笑えるがポイントをついている」というものにしたい、と思っている。
ただし、そういう本には、あまり出くわさない上、難しいので一度もやったことはないが・・・。
難しいと思ったのは、「その人にしか書けない書評」というもの。
有名人や知人など他人ならば、何となく「その人しか書けない」というものは分かりそうだが、自分の事となると、サッパリ分からない。
そのうち、分かるようになる、と思いたいが、本の感想をブログにアップするようになってどれだけ経っているか、を考えると「何たるザマ」と思ってしまう。
ところで、この本の中で実践してみようと思った点がある。
それは
・文字制限をつける。
・発表する想定媒体を考える。
というもの。制限があるからこそ、腕の見せどころなのだろう。
これで空白含めず、約800文字。
想定媒体は新聞の読書欄。本好きの大人が読む、という想定。
それにしてもこの文字数で、面白く読ませ、本の魅力を伝える、という事は至難の業だ、ということがよく分かった。
今までダラダラと書いていたが、それがどれほどラクだったことか・・・
プロ書評家の矜持と覚悟
2012/09/15 08:43
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Fukusuke55 - この投稿者のレビュー一覧を見る
自身のblogで取りあげるBookカテゴリーを、「感想文+本にまつわる思いあれこれ」であることを表明しているのですが、お友達から「書評参考になったぁ」というコメントやメールをいただくたびに、blogというオープンなメディアで取りあげることの責任をひしひしひしと感じておりました。
そんなときにあるブロガーの記事で見つけた本書。「一億総書評家時代の必読書」というキャッチも刺激的です。
いつもながら、一気読みしてしまいました。
・・・全編通じて、「プロ」書評家の逞しさ、潔さ、強さ、覚悟・・・が、ぐんぐん伝わってきます。
1.批評と書評の違い
批評は対象作品を読んだ後に読むもので、書評は読む前に読むもの
そう、「初読の興をなるべくそがない」仕掛けのポイントが書評の醍醐味。ネタバレの意味と意義。このあたりは、私のような一般読者のblogであっても、襟を正して真摯に受け止めねばと反省しました
2. プロの書評と感想文の違い
プロの書評には「背景」がある
ネット上に多々登場する、劣悪な書評ブロガーを評して・・・
「・・・中略・・・粗筋や登場人物の名前を平気で間違える。自分が理解できていないだけなのに、「難しい」とか「つまらない」と断じる。文章自体がめちゃくちゃ、論理性のかけらもない。取りあげた本に対する愛情もリスペクト精神もない。自分が内容を理解できないのは「理解させてくれない本の方が悪い」と胸を張る。自分の頭と感性が鈍いだけなのに。・・・後略・・・」(p.114-115)
このご指摘は、書評に限らずネット上に匿名で意見を発信する人すべてに対する警告だと受け止めました。
私はこれまで、トヨザキ社長がおっしゃる「愛情をもって紹介できる本のことだけ」を、自身のblogで取りあげてきたつもりですが、その軸はぶらさずに行きたいと思います。
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書評の書きづらい本というものに、出くわすことがある。その多くは、本の内容と自分との間に補助線を引けなかったということが原因だ。しかし、本書は濃厚な補助線を引けるにも関わらず、実に書評が書きづらい。その善し悪しが、明解に訴求されており、何を書いても待ち伏せされている気分になるのだ。こうして、書き出しに慎重なケアを施している時点で、手の平の上の孫悟空だ。本書は、そんな書評のあるべき姿について語った一冊。鋭い切れ味でおなじみの書評家、豊﨑由美氏がメッタ斬りにしている。
◆本書の目次
第1講 大八車を押すことが書評家の役目
第2講 粗筋紹介も立派な書評
第3講 書評の「読み物」としての面白さ
第4講 書評の文字数
第5講 日本と海外、書評の違い
第6講 「ネタばらし」はどこまで許されるのか
第7講 「ネタばらし」問題 日本篇
第8講 書評の読み比べ - その人にしか書けない書評とは
第9講 「援用」は両刃の剣 - 『聖家族』評読み比べ
第10講 プロの書評と感想文の違い
第11講 Amazonのカスタマーレビュー
第12講 新聞書評を採点してみる
第13講 『1Q84』一・二巻の書評読み比べ
第14講 引き続き、『1Q84』の書評をめぐって
第15講 トヨザキ流書評の書き方
対談 ガラパゴス的ニッポンの書評 ー その来歴と行方 豊﨑由美×大澤聡
前半の争点の一つとして、ネタばらしの是非ということがあげられている。著者はネタばらしについて、断固反対の立場。<物語の勘所に触れなければ批評的な書評は書けないという意見に対しては「それはヘタだから」とお答えしておきます。>とまで言い切っている。しかし、これはフィクションに限定されることではないかと思う。ノンフィクションについての勘所は、読み手によって驚くほどさまざまであるケースが多いからだ
そんなわけで、自分が本書の勘所と思うところを思い切って挙げてみると、それはプロの書評について記してある下記の一文ではないかと思う。
プロの書評には背景があるということです。本を読むたびに蓄積してきた知識や語彙や物語のパターン認識、個々の本が持っているさまざまな要素を他の本がもっているさまざまな要素と関連づけ、いわば本の星座をのようなものを作り上げる力。それがあるかないかが、書評と感想文の差を決定づける。
つまり良い書評とは、本の外部要素を使って、いかにその本について語るかということが肝なのである。
しかし、それ以上にプロの凄味を感じるのは、「批判は返り血を浴びる覚悟があって初めて成立するんです。」という一節。匿名のブログやAmazonのレビュー欄での批判をしている人達に、ツルハシの一撃を加えている。こんな覚悟、到底持てやしない。これぞプロフェッショナル。
この一点を持って、本書は<その人にしか書けない一冊>なのである。辛辣な口調とはうらはらに、本書から滲み出る、強い愛情と覚悟。書評を書く全ての人におススメの一冊。走れ、書店に!
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独自の進化を遂げてきたガラパゴス的ニッポンの書評。文字数が少なく(約800~1600字程度が主流)、ネタばらしに厳しいのがニッポンの書評なのだとか。ネタばらしに関して著者は、絲山秋子(著)『ばかもの』のある書評を例に、書評におけるネタばらしの罪過について言及する。書評はこれからその本を読もうかどうか考えている人のためのもの(批評とは違う)なので、物語の根幹ともなるシーンのネタばらしは、初めてその本を読む読者の歓びを奪う行為になるのです。私も以前はエンタメ作品以外はネタばらししてもいいんじゃないかなと考えていていましたが、素人とはいえ不特定多数の目にふれる媒体に書いている以上、ネタばらしについてはもっと慎重であらなければと感じた次第。
著者の批評はAmazonのカスタマーレビューやブログで書評を書いている人たちにもおよび、ちょっと引用すると、
「ネットで書評をやる人たちに言いたい。あなたたちは適当に気楽に粗筋を書いているんでしょうけど、それを読んで買うか買わないかを決める人だって多少はいるんですよ。粗筋がちがうとか、登場人物の名前や役割が違うとか、別の話になっちゃってるとか、そんなずさんな書評がどれだけ作家の邪魔になっているか」
なんて話も出てくる。ああ、耳がちぎれるくらいに痛い。感想を書きとめておきたくてはじめた記録。こんな大げさなことなのであれば、もうブクログやブログに感想書くなんてやめようかなと思いましたが、ネット上に拡散した今までの感想文をすべて消すことは不可能、かくなる上は、今後はちゃんと読んでちゃんと書くという信念で感想を書きとめていきたいと決意をあらたにしたのであります。
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ブログで書評をしたり、Amazonのカスタマーレビューに投稿したりしている人には必読の一冊。
自分としては、粗筋紹介の大切さが力説されているところが一番はまった。人に本を薦めたいときに粗筋がうまくいえないのが悩みなので。
ちゃんと粗筋が言えないのは内容を理解していないから。自分の読み方についても考えさせられました。
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書評と批評の違いに対して、「読む前に求められるのが書評、読んだ後に求められるのが批評」という定義はお見事。著者は「批評〉書評」と見られがちな日本の傾向を指摘して、多数の書評で知られる自身が批評を書くことへの嫌悪を明らかにするが、著者の批評を一ファンとして読みたいと思うのは僕だけではないと思う。
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数々の書評を読み込まれ、それに対して批評をしながら、「書評」とは何かについて述べている(と思われる)本書。
多くの本と書評を読み込まれている。それはとても労力を要することだし、豊﨑氏の貴重な財産となっていることだろう。
それを元に書かれた本書は、一介の本読みの一人であるワタクシにとって、輝く宝物が詰まっているのかもしれない。けれど、残念ながらワタクシには豊﨑氏の文体が合わなかったのだ。とても有用なことが書かれているのだろうと思いつつも反感ばかりが先に立ってしまい、申し訳ないけれど途中から流すように読んでしまった。
この状況でいつもの「感想文」を書くのもいかがなものかと思いはしたが、備忘録としての感想文を綴っているワタクシであるからして、これは記録しておくべきと考えて、こうして書いているワケだ。
一冊の本に対する「書評」をいくつか並べて、批評するという試みは非常に興味深い。本に関するブログが氾濫する現在、検索さえすればいろんな方の感想を読むことはできるが、いかんせん手間がかかる。そして、その多くがいわゆる「シロウトさん」の書かれたものだ。原稿料を受け取って書かれる「クロウト」の方の書評を並べ読みできる媒体が欲しい。
豊﨑氏の批評の大部分には共感する。読者の楽しむ権利を奪う書評はいただけない。しかし、どこからを「ネタばれ」といい、どこまでなら許されるのか、それは個々人によって異なってくるので、判断は難しいところだろう。私なら、ミステリに分類される本は読む前に一切の「書評・感想」を読まないように気を配っている。簡単なあらすじは目にすることはあっても。
では、ミステリ以外の分野の本はどうなのだろうか。これも読者が自ら読みながら得るであろうと予測できる感動や驚きを削ぐ書評は、やはりNGだと考える。しかし、前述の通り人それぞれであるから、どの書評を良しとし、どの書評を悪しとするかの絶対的な基準はない。
しかしまぁ、アマゾンのレビューなり、「シロウトさん」のブログの書評なりを基準にして買う本を決める人など、そんなにいらっしゃるのだろうか・・・。私には理解できないのだけれど。
「シロウトさん」の書いた文章が本の売れ行きを左右するほどの力を持っているのかしら?と素直に疑問に思う。豊﨑氏はそのことを取り上げて、「シロウトさん」は自分の好きな本の感想のみをネット上で公開すべきと述べている。嫌いな本の感想までネット上にアップして、営業妨害する必要性はないだろうということだ。しかし、アマゾンのレビューも読んでみれば、それが信用に足るものか否かは判断できるし、それを読んで読む気がなくなる本であれば、それだけの本だったというだけのこと。それを上回るだけの惹き付ける力をその本自体が持っていなかったというだけのことではないだろうか。
タイトル買いの多い私は、読んだ結果、期待はずれとなることも無くはない。では、その本に関する感想はブログにアップするなということか。いやいや・・・、それはおかしい。タイトルで釣っておいて、内容が伴っていない本は少なくない。購入する前にどんな本だろうかといろんな情報を得る��格は誰にでもある。その情報の中には対象となる本を薦めるものもあり、買ってまで読む本ではないというものもあっていい。誰も彼もが褒めるだけの書評(「感想」含む)を書いていたら、それこそ参考にならないと私は判断して、本を購入する前に書評等を読むのをやめるだろう。
ま、豊﨑氏はブログ上に書かれたものも「精読と正しい理解と面白い誤読の上で書かれたまっとうな批評なら作者や読者にも届きましょう」と一応述べておられるので、ブログ上の全ての書評なり感想なりを認めていないと言うわけでもなさそうだ。
しかし、ね。匿名で書いている人間が他人の批判をするなんて卑怯だと言い切るのはいささか行き過ぎ。「あなたたちは守られているのよ、何かあればブログを放り投げて逃げてしまえるじゃない」というのだが、自分が積み上げてきたものを放り投げざるを得ない状況に置かれたことのある私にとっては、この一文は納得いかない。それがどれだけ辛いものか、豊﨑氏には理解できないようだ。自分自身の歴史の一部を葬り去るような痛みを伴うのだということをひと言述べておく。
ブログ上でハンドルネームを使っていろんな批評をしている人間の中にも、それなりの覚悟を持って書いている(全てがそうだとは言わないが)。「シロウト」は「シロウト」なりに、自分自身のネット上での名前を背負って書いている。豊﨑氏が「シロウト」のブロガーにどのような恨みを持っているのかは知らないが、「あなたたちは卑怯よ」と言われるのはいい気持ちはしない。
なら、ペンネームを持って書かれている「プロ」のみなさんも卑怯者なのだろうか・・・。その名前で信用を得て、仕事を貰えているのだから「シロウト」とは違うと反論されるのであれば、それは筋違いというものである。「シロウト」だって、自分のハンドルネームでいろんなネットワークを作ってそれ相応の信用を得てきているのだから。違いは、それでお金を稼いでいるかどうかの違いだけ。名前を捨てて逃げることで負うものはそれほど違わない。
とまあ、長々と書いてきたけれど、もう一度じっくりと本書を読むつもりではいる。もう少し気持ちに余裕のあるときに。それだけの内容のある本であるとは思うからだ。
今は「備忘録的な読書感想文」を綴っているだけの私ではあるが、いつかは「書評」というものを書けるようになりたいという目標がある。そのためのヒントをいくつか得ることができた。もう一度、精読してみたなら、更に何かを得られるかもしれないという期待がある。いくらかガマンを強いられる本だけれど・・・。
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書評ブログを取り上げた第10講、Amazonカスタマーレビューがテーマの第11講、具体的に新聞書評を採点した第12講、巻末の対談だけでも、オススメ。
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こうやって、何かしら読んだ本について記しているので、参考になるかもと思い、新聞の書評欄でみて読んでみる。プロの書評を書く人は確かにつらいと思う。ネタばらしをせず、読む気にさせなければならない。自分の意思でなく本を読んで書かなければならないし、文字数の制限もある。このブクログやアマゾンにレビューを書く人には参考になると思う。
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第1講(講義という体裁なので)のタイトルが「大八車(小説)を推すことが書評家の役目」となっていて、その説明が
「わたしはよく小説を大八車にたとえます。小説を乗せた大八車の両輪を担うのが作家と批評家で、前で車を引っ張るのが編集者(出版社)。そして、書評家はそれを後ろから押す役目を担っていると思っているのです。」P.12
のように書かれています。ここの部分を読んだ時、じゃ読者どこ? と思ったのでした。これについては後のほうで書評家と一緒に車を押すような記述がありました。
大八車、こういうものを知っている人がどのくらいいるのか、と思うのと同時に世代的に近いらしいことを知って安心しました。
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軽い感じで、けっこうキツイ事を主張されてます。私は、雑誌や新聞の書評をかなり参考にするタイプで、ネタばれしてても気になりません。むしろその方がありがたいです。
「○○を縦糸に□□を横糸に…」という表現を、使い古された比喩、と言っていたのが面白かったです。書評のあるあるネタです。
書評と批評は違うようです。よく昔の作家が、批評家とケンカしてるのを見ると、私は「だったら自分で書いてみい」と作家に肩入れして見てました。そうではなく、批評家をそれまでに読んだ作品と対比さ、独自のロジックを展開していくのが仕事らしいです。
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著者は様々な雑誌でライターとして活動後、現在も雑誌で書評を中心に活動しているいわゆる叩き上げ系のライターである。基本的には新聞や雑誌などのマスメディアにのせるための書評を念頭に議論しているが、アマゾンのブックレビューなどのネット上の書評に関しても言及している。巻末ではメディア史研究者の大澤聡と対談している。
① 書評と批評
書評の主な機能は紹介という特性の強いインフォメーション機能とクリティシズム機能の二つである。日本において書評は前者の機能の方が強く批評と明確にスタンスを異にする。一方でイギリスやアメリカなどの書評と批評は連続的である。これは日本の新聞・雑誌での字数が少ないという絶対的な制限に由来している。多くの日本の新聞の書評は300~1200文字であるのに対しイギリスの書評は(日本語翻訳で)2000~4000文字である。またこれは小説に関してしか適応できない点であると思うのだが、筆者は「ネタバレ」の程度が吟味されなくてはならないという点も書評に特有であるとして挙げている。
② ウェブと書評
筆者はプロのブックレビュアーとしての矜持からネット上のレビューがいかに無理解で短絡的なままに酷評したものが多いかという点について力説している。確かにアマゾンのベストレビュアーは「参考になった」の絶対数で決まるので質が低くともレビューの数が多ければベストレビュアーになれるという点は改善すべきである。つまり「参考にならなかった」という票も計算にいれてベストレビュアーの認定を行うべきだということだ。ある程度のリテラシーがあればウェブ上にどんな無理解な酷評があっても問題ないという意見には、それは買って読んで自分の見解を確定させたうえでのみ通じる論であり未読の人たちに紹介するという場においては不適切であると反論している。個人的には読んだあとにアマゾンのレビューを見て「へえ、そういう見方をする人もいるのか」程度で本を選ぶのにはあまり用いていないので、必ずしも筆者の反論があてはまらない使い方もある気もしますが。
③ 新聞の書評の未来
筆者は新聞上のレビューが「肯定的なものばかりで参考にならない」ということが生じやすい弱点も認め、同時に海外の新聞が日本のものに比べ批判的なレビューにも寛容である点を指摘している。よって新聞上のレビューに批評性を持たせるためには新聞社と出版の親和性を解消すべきだと主張している。そのうえで批判的なレビューに本の筆者自身が反論する機会が紙面に存在するのが理想であるとしている。
しかしこの親和性の解消はさすがにビジネスモデル的に新聞の枠内で修正できる範疇には無いのではないかと思う。それよりはむしろネット上でモデルを構築する方が効率的ではないだろうか。
本著を読むに際し食いでのある書評論というよりは薄味のあっさりしたレビュアーの雑感であろうくらいに期待していたのだが、思ったよりも多くの論点を潜在的に内包していたように感じる。筆者の書評を書くうえでの心構えは必ずしも全て自分がこれからブログ内で書く上で参考になるとは思わないが、過去二本のレビューを振り返ってみただけでも改善点の多さに赤面した。特に①スノビズム的な文章に陥らない②しかし自分のもてる見識はなるべく活かす③簡潔かつ興味を引くようにという点は自戒としたい。
投稿元:![ブクログ](//image.honto.jp/library/img/pc/logo_booklog.png)
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「第3講 書評の「読み物」としての面白さ」で紹介されている書評が、どれも
素晴らしかった。粗筋紹介、文字数、読者への読欲喚起など様々な制約が
あるからこその、書評の面白さだと思った。巻末の対談内容も興味深い話でたくさん。
MVP:なし
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僕は今まで色々な小説や芸術作品を観ても、「一流とそうでないものの違い」がよく分かりませんでした。
しかし、この本を読むと「一流とはどういうものか」非常によくわかります。
たとえば、この本の筆者である豊崎さんはいつも指定枚数の倍以上の分量を書くそうです。
そこから自分にまつわる部分を削り、知識のひけらかしに近い文を削り、
それでも削り足りない場合はどの引用を活かし、どの引用を捨てるのかという選択になります。
大抵のブログ書評家はここまでやれていないでしょう。
逆にここまでやらなければ、「感想」から「書評」「批評」に昇華できないのであります。
「自分にまつわる箇所を削ったら書き手の味がなくなると反論があるかもしれませんが、
そんな『雑味』が消えて面白くなくなったり個性がなくなる原稿は、
はなから文章の芸など存在していなかったのではないか自身の力量を疑った方がいい」
書評とは「本の星座のようなものを作ること」と豊崎さんは語ります。
様々な本を読んで蓄積してきた語彙や知識としての「背景」を、読んだ本の要素と結びつける作業。
それがあるかないかが感想文と書評との差であるそうな。
そもそもの読書量が少ない僕ではどう考えても感想文しかならないわけです。
amazonのレビューやブログ書評に関しても
・浅い読みしかできず、粗筋紹介も文章も幼稚でネタばらしまで行う悪意の産物
・自分の価値観にあわないものを上から目線で駄作と断じる浅はかさ
と痛烈。
レビューに限らず、2chを含めたネット全体に向けたメッセージと感じました。
本の最終章では豊崎流書評の書き方が紹介されています。
基本的なこととしては「一文たりとも読み飛ばさないこと」
「ダラダラ書くより400~800字と目標を定めるといい。字数の意識が一番足りない。」
おっしゃるとおりです笑 今後意識したいと思います。
今回は削る作業や文字数を意識して書いてみました。いかがですか?