とても聖戦とは言えないでしょ
2019/01/28 16:23
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦争は時が流れて行けば行くほど、どんどんと美化されていくものらしい。最近の保守派の人たちの言動を聞いていると、日本軍のアジア進軍はアジアを西洋諸国から救い出すための聖戦であり日本軍はアジア各国で歓迎されていたし、今でも感謝されているという。戦中を戦地で過ごした作家たちの経験、記憶ではそうではないらしい。彼らの記述に日本軍が解放軍であったとは全く書かれていないし、大虐殺であったかどうかは別として、南京で犬畜生以下の行為が「解放軍」により繰り広げられていたことは間違いなさそうである。「俘虜記」にも日本が負けたと聞いて大騒ぎしている台湾人俘虜や俘虜となった日本人を見て「ざまあみろ、はやく首をはねられろ」という表情をするフィリピン人の描写が登場するが、これが当時の本当の姿なのだろう
8月には、戦争についての本を読もうと思って・・
2024/08/17 18:55
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投稿者:ゆき - この投稿者のレビュー一覧を見る
8月には、戦争についての本を読もうと思って・・・
この本は、再読でした。前回読んだ時には感じきれなかった様々な事を今回は興味深く感じました。
とりわけ、作者のその時々の自己分析、他人分析、状況分析。
どんな状況下でも、人間の本質は変わらず、弱く淺ましいものが底に有るのだなと思いました。だからこそ個々人の考えを強く持ち続ける事の大切さが求められる。それは、今の時代により強く求められると思う。
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
これは大岡昇平が経験した、太平洋戦争でのアメリカ軍に俘虜として捕まる直前から復員するまでの経験を基に描かれた短編連作である。ジャンルとしては小説かもしれないが、同時に貴重な記録文学でもある。全編を通して大岡昇平の眼がすごく冷めているように感じるのが大きな特徴だ。
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これは小説?「野火」の方が有名な気がするし、野火の方が小説らしい形。でも、私には俘虜記の後になぜわざわざ野火を書いたのか分からない。文体も内容も完成度が高いと思う。いや、ぜんぜん別物なのかもしれないが・・・。
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「私が今ここで一人の米兵を射つか射たないかは、僚友の運命にも私自身の運命にも何の改変も加えはしない。ただ私に射たれた米兵の運命を変えるだけである。私は生涯の最後の時を人間の血で汚したくないと思った。」「集団の利害の衝突する戦場では今日あらゆる宗教も殺すことを許している」
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2009/07/18-
天神
100年読書
表紙こえー。こういう表現しかできないが、面白い。
2009/07/23-
「捉まるまで」再読。この章が所謂「俘虜記」らしい
【阿諛】という言葉を初めて知った
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10/01/13購入。高校生時代に読んだが、内田の『ためらい』の中に出ていてあらためて読みたくなったのだ。
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久々にものすごく時間をかけて読みました。
戦場での強姦に関する場面など(従軍看護婦なのに実際は従軍慰安婦という感じの、ということや)は正直吐き気がしましたが。
うまく感想がいえません。こういう戦争モノを読むと何も言えません。
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大岡昇平については、私は完全に食わず嫌いをしていた。
よく見かける、生きて帰った途端、軍はだめだって言い出す人の作品だと思っていたのだ。
ところがどっこい(死語?)、全然違う。
戦争、というより日本人ということを突きつけられる。厳しい、との一言。
今でも俘虜ではないか、という一文がねぇ…言葉もない。
これいつ書いているかと考えると、この時代、そして軍を経験した人が、ここまで冷静にあの時のことを、厳しい目で書けるってすごいよなぁ。
戦争の残虐さなんじゃない、人間の恐ろしさ。
日常でも見かける人々がいる。
だからこそ、読み進めていてどこか居心地が悪い。私もその中の一人なのだから。
私も俘虜だ。
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朝日新聞100年読書会の課題。ようやく読み終えた、という感が強い。フィリピンに出征した著者が米軍に捕らえられ、捕虜生活を送り、終戦後に送還されるまでの記録。ときに第三者的に、透徹した視線で綴られている。白眉はやはり冒頭作の『捉まるまで』であろう。水を捨てたがゆえに自分は助かったのだが、それはどういうことなのか、また捕虜となる直前に出会った米兵を撃とうと思えば撃てたのだが、なぜそうしなかったか、細部にわたって執拗なまでに分析を加えている。以下、私見だが。途中までは、その「思考の基礎体力」の高さに圧倒されていたのだが、ある元兵士が中国の女性が暴行に対してまったく抵抗しなかったと語ったことに関連するくだりで、私は気持ちが離れてしまった。著者は「暴行を是認するのではない」とは言っているのだが、生理的嫌悪に加えて、客観的視点を離れてしまったように感じたためかと思う。このくだりがこの作品のメインでないことは重々承知の上で、ここに引っかかってしまった後はすいすいとは読めなかった。
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結構読むのに時間がかかった。割と好きな文体だと感じた。全く未知の世界について描かれていて、ある意味SFよりも非現実的に思えた。
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前半と後半で違う人が書いたように雰囲気が違っている。
前半は俘虜になるまでの戦闘と慣れない俘虜生活。
一文一文に無駄なく意味が込められ、とても男性的な、硬質の文章であった。
後半は慣れ切った俘虜生活から帰国まで。
なんというか長過ぎる林間学校のようである。
俘虜達がユーモラスに描かれている。
俘虜って暇だったんだなぁ…
戦前の日本人はそこまで綺麗好きではなかったようで意外だった。
筆者が自らをインテリと称し、大衆を見下していると明言する書き方も意外であった。
読んでいて気持ちがよい。
もちろん一小市民としてのインテリであることには度々言及されているが。
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著者の太平洋戦争従軍中の体験である、マラリアに罹り倒れていた所を米兵に囚われ俘虜収容所に送還されて終戦・帰国を迎えるまでの一連を記した自伝的小説。
冒頭の「なぜ自分は米兵を殺さなかったか」という問いを、安易なヒューマニズムに帰着させることなく鋭利なまでに自己の内面を掘り下げていく叙述も凄いのだけど、何より驚かされるのは中盤以降淡々と述べられている俘虜収容所での生活模様。それは、皆が思い浮かべるような「戦争時における非人間的で悲惨な」ものでは全くなく、清潔な住居と被服と2700キロカロリーの食事と非喫煙者にも無差別に与えられる煙草。会田雄次 『アーロン収容所』が書いたのとは異なる、もう一つの収容所の姿がここにある。
印象に残ったのは、俘虜について語るときに度々使われる「阿諛者」という言葉。あゆ?つまり、相手の顔色を伺い、相手が気に入るように振る舞おうとするような事だ。分不相応に快適な生活を与えられた者は、相手に対して自ずから卑屈になってしまうのだろう。そして、そんな卑屈な人間は自分も含めて今でも、どこにだっている。だからこそ、以下の一文には痛みを覚えずにはいられなかった、
戦場から我々には何も残らなかったが、不慮生活からは確かに残ったものがある。そのものは時々私に囁く。「お前は今でも俘虜ではないか」と。
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読む前の期待とか推測とか評判とかと違って、えらいへんな本だった。
これ、喜劇のシナリオの覚書きなんじゃないのか・・・?
米兵を撃つの撃たないのといったえらいこと小難しい省察から始まって、捕虜収容所の俗物群像が続き、最後に帰国する。筆は抑え目だが、シニズムになることもなく、徹底した観察力と洞察力で、自己を含めた人間の姿を描写していく・・・てないい方になるのかも知らんが、私も最初はそんなふうに読んでいたんだが、だんだん「なんか、それ、ちがわねーか?」と思うようになってきた。
風刺を目的に、捕虜収容所という限定された舞台での、自分を含めた人間のドタバタを書く喜劇。それを韜晦するために、わざわざこんなこねくり回した小理屈で、関西風に言うと「いちびって」いるのではないだろうか。
芸風で言うと、上岡龍太郎。
そう考えると、米兵を殺さなかった心境の分析は、劇場の雰囲気を演出するためのつかみみたいなもので、「考えてみれば、そんなに難しいことでもないんじゃないのか?」というのを思い切りまくしたてることで、読者の虚を突く。
そして最後は、ワルギルプスの宴というか、岡本喜八の映画の最後のドンチャン騒ぎみたいな演芸大会。ここでは抑えた筆致だった作者まで、当時の世相を安っぽく分析してみて、いわば仮面をかなぐり捨てている。漫画でいえば作者が作中に登場したみたいなもんだ。
これが書かれたのは昭和20年代で、日本の戦後社会そのものを「拡大された捕虜収容所」とみなし、その風刺として書かれたというのが、いちおうの解釈になるかもしれない。作者本人があとがきでそう書いている。
でも、風刺は目的ではないような気がする。群像(社会)を舞台にして喜劇を書けばいやでも風刺になるわけで、単なる結果だと思う。
作者は、単に喜劇が書きたかっただけではないだろうか。
まさに、「文士」
ビートルズの「ペーパーバック・ライター」を贈りたい。
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冒頭の「捉まるまで」を読み、その余りにも緻密で分析的な文体...
まったく新鮮な感覚。
今までに読んだ小説とは明らかに違った文体で、どちらかと言えばノフィクションや思想書的な感じにも思えました。
大岡昇平さんは、大戦末期の昭和19年にフィリピン・ミンドロ島の戦地へ送られます。
そして米軍の俘虜となり、収容所で約一年間過ごすことになる...
本書はその収容所での体験記が大部分を占めていますが、そこでは私達がイメージする収容所の過酷さや悲惨さは殆んど無い。
俘虜には、十分過ぎる量の食事を与えられたために次第に肥えていき、喫煙しないものにも配給される煙草を賭博に用いたり、干しブドウから酒を密造したり米軍の物資を盗んで貯め込んだりしている。
そういった俘虜達の強かさや堕落した姿がリアルに描かれています。
読後、著者はいったい何を一番伝えたかったのだろう...
俘虜生活の実態?
戦争の悲惨さ?
軍隊の不条理?
通訳として米軍と俘虜の間に入った辛さ?
それらの事もあるのでしょうが、やはり一番は『俘虜という状態が彼らに与えたものが解放後もなお、彼らを支配しているのではないかという指摘』だと思います。
これはあとがきによれば俘虜収容所の事実をかりて、占領下の社会を諷刺するという意図もあったようである。
「我々にとって戦場には別に新しいものはなかったが、収容所にはたしかに新しいものがあった。第一周囲には柵があり中にはPXがあった。戦場から我々には何も残らなかったが、俘虜生活からは確かに残ったものがある。そのものは時々私に囁く。『お前は今でも俘虜ではないか』と」