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ポストモダン的「実践」への徹底批判
2003/10/25 02:28
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:梶谷懐 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の初めの部分や「あとがき」でも書かれているけど、著者の仲正さんは基本的に「わかりやすい思想というものを警戒する」という立場をとっているようだ。確かに、ポストモダンに近いところに身をおきながら、近年のポストモダニスト達の政治的「実践」にはシニカルな目を向ける、という著者のスタンスからは、なかなか一筋縄ではいかない印象を受ける。でもこの本を読んでいて、シニシズムの中にかえって一筋の希望が見えてくるような、そんな不思議な読後感を持った。
この本では、アーレントとデリダという一見立場の違う思想家を西洋的知性の徹底的な批判者として同列に論じるなど、思想史的に見て面白いんだろうな、と思えるところも多いけど、その点については僕は門外漢なので置いておく。ここでこだわりたいのはポストモダニストたちの政治的「実践」を批判したところだ。
というのも、僕は前から高橋哲哉さんのような人が従軍慰安婦問題なんかにのめりこんで発言しているのを見て「なんか違うぞ」と思っていたのだが、その違和感がどんなところから来るのかよくわからなかった。でも、この本を読んでいるうちにそれがなんとなく明らかになってきたように思えたからだ。
仲正さんは、デリダに依拠しながら、ロゴス中心主義に染まった近代的知識人とは、あくまでもエクリチュールを通じて「生きた現実」に近づこうとする、倒錯した欲望に捕らえられた人たちだ、ということを書いていて、なるほどと思った。政治的「実践」に精を出しているポストモダニストたちが陥ってる状況はまさにこれじゃないか。別に彼らが現実の政治問題ににコミットすること自体がおかしいというんじゃない。でも、彼らがコミットすることを選んだのが、なぜ従軍慰安婦問題という「分かりやすすぎる」テーマだったのか、という点には大きな引っかかりを覚える。「政治に参加する」ということなら、たとえば自分の町のゴミ問題から始めたってよかったわけじゃないか。
つまり、高橋さんたちの従軍慰安婦へのコミットメントは、多分書物(ドキュメント番組とかをふくむ)を通して知った「慰安婦達の生きた声」に正義を感じて、それを「ありありと感じ取ろう」というところから出発している点で、明らかにロゴス中心主義的、ロマン主義的なのだ。仲正さんも指摘しているけど、興味深いことにそれは西尾幹二さんのように「国民の歴史」にこだわる人々が「立派だったわれわれ日本人の先祖」の「生きた声」を「ありありと感じ取ろう」としているのに奇妙に呼応しているように思われる。そんなロマン主義の「罠」にデリダにも詳しいはずのポストモダニストたちがはまっているところに問題の根深さがあるのかもしれない。
そんなわけで仲正さんの明晰な批判を共感を持って読んだのだけれど、ただもう少し代替的な(よりマシな)「実践」について突っ込んで論じてほしかったという気はする。ネグリたちが『帝国』で示した「マルチチュード」という概念に希望を見いだしているようだけど、あの本にはむしろ日本のポストモダニストに通じるナイーブさがあるように思えるからだ。できればその辺をもう少し踏ん張って別の可能性を示して欲しかった。
気の短い人たち
2003/09/17 19:58
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は良かった。なぜなら、けっこう現代思想の勉強になるからだ。
この本では、「自己決定」することが悪いということではなくて、「自己決定」するにも、ただ情報だけみんなに平等に与えて、さあこれで各自自己決定しなさいと、言われてもそれには限界がある、ということを教えてくれる。
というのも、そもそも決定する「自己」が、そう簡単に決めることができないと指摘している。ポストモダン以降、普遍性が批判されている今、自己は他人との複雑な関係のなかで構築されるもので、私は今どんな状況にあるのか、ということをその都度確認していかなければ、つまりどんなコンテクストを持つ自己であるのか考えなければいけない。自己決定を進めている人は、おそらくこの「自己」がどんな文脈の中にあるのか、ということを検討するのを忘れているということだろう。
「主体性」を求める西洋思想は、「気の短さ」に由来するという説を紹介していて、なるほどうまいこと言うなあと思わず納得する。要するに、何かを決定するにあたって、時間が短いほどよい。長く掛かれば、それだけ「主体性」が確立していないことになる。このあたり、デリダの音声中心主義批判を思い出す。西洋思想にある音声中心主義だと、よく言われるように「自分の声を自分で聞く」こと良いとされる。その根底にはおそらく直接性と即時性があるのではないだろうか。つまり、自分の声を「直接に」「時間を置かずに」聞きたい、という欲望が音声中心主義だと思う。純粋さを保つには、時間をかけてはいけないのだろう。だから、気が短くなってしまうのだ。
どんな状況にある「私」であるのか。その確認を怠ってしまう。普遍性の確立が困難である現在、面倒ではあるが、自己がどんな「状況」なのかを常に考えることが重要である、ということを学んだ。
自己決定の限界
2007/08/30 02:31
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書を手にした理由は、そのタイトルの衝撃である。私は、「自由」を人類至上の価値と認識しており、「自己決定」を人間のあるべき姿と言う思想を持っている。それを真っ向から否定しているタイトルに衝撃を受けたのである。哲学者である著者は、序言で語っているように、難しい表現で本書を書いている。従って、理解出来ない内容も多々有ったが、全体が語る内容は、理解出来たような気がする。
ユダヤ人虐殺の首謀者アイヒマンを例に挙げ、「「悪」の本質とは、日常的な「陳腐さ」の中で、自分で考える能力を喪失していくことである。」と語る。自己決定していると考えるその考えは、誰かの意見に迎合した考えであると言うのである。考える事の手段である言語でさえ、それは、過去の人々が創り出したものであり、過去の人々の思想が、言語には、隠されている。「自己決定」というのは、幻想であると突っぱねる。
エピローグで哲学的に「分かる」という意味を突っ込んで語る。「哲学・思想」が「分かる」というのは、それまでの「自己」の在り方を見直すきっかけを見出した、ということである。つまり、理解としての「分かる」で無く、実体験を通して、「自らの変化」を体験して初めて「分かる」と言える。単なる知識としての「理解」と「分かる」とは、違うと述べる。私は、これが良く分かる。私は、哲学書を良く手にするが、その思想が、身体に沁み込むのを良く感じる。これを著者は、「分かる」と称しているんだと理解した。
本書は、何でも「自己決定」していると考えていた私の考えのアンチテーゼとして、私に突き付けられた。しかし、著者は、限界の中での「自己決定」を解説したのであると、私は、理解した。
現代思想が現実と切り結んでいることを例証
2007/02/27 20:32
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:YOMUひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
なかなか面白い。特に印象に残った二点を挙げてみよう。
まず前半では、理性ある市民がアウシュヴィッツに加担するに至ったのは、西欧近代が前提とした自由な主体という考えに間違いがあったからではないかというハンナ・アーレントの政治哲学の説明は分かりやすく、説得力がある。1960年、国際法廷に引き出された大虐殺の責任者、アドルフ・アイヒマンは凶悪な犯罪者というより平凡な役人に過ぎなかったという。即ち、「我々のほとんどすべてがアイヒマンになる可能性がある、ということ」である。
では、どうすればいいのか?アーレントは人間の条件の根幹を「言論や説得によって他者に対して働きかける能力」にあるとし、著者の表現では「組織の中でルーティン的に決まったことをやるだけで」はなく、「他者に対して自分の意見を表明し、自らの個性を際立たせることを怠らない」ということである。対話より、暗黙のツーカーをいまだに尊ぶ我々には耳の痛いところであろう。
後半では、フェミニズム系法哲学者、ドゥルシラ・コーネルの「イマジナリーな領域に対する権利」が面白いと思った。これは、自分一人だけではどうすることもできないアイデンティティーをもう一度作り直し、アイデンティティーを「再想像」していく作業を、周囲の他者から助けてもらう権利だという。この着想の背景には、幼児虐待の体験がトラウマになって、売春婦やポルノワーカーとしての「アイデンティティー」を形成するようになったが、そのようなアイデンティティーに違和感を抱く女性などが念頭に置かれている。「理想的な自己」のイメージ形成に向けての再「アイデンティフィケーション」という概念は、魅力的でさえある。
この構想を、我々にも身近な医者と患者間のインフォームド・コンセントに基づく治療法決定の問題や安楽死の場面に敷衍した説明も、コーネルの思想の意義を読者に納得させる上で非常に有効であろう。
このように、一般にはとっつきにくい政治哲学や法哲学を、現実の問題に密着したものとしてここまで解きほぐし、自家薬籠中のものにする著者の手腕は並大抵のものでないことが読者に伝わってくる。
抽象的「主体」の怪しさ
2004/01/04 22:53
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
扱っている問題はいわゆる「現代思想」的なコンテクストのなかにある事柄であるが、それが単なる思想的課題として思想家論、哲学者論として提示されているのではなく、人間性、人道主義、教育論、主体性といったさまざまな問題に即して書かれており、思想的課題がどのように現実にフィードバックされているのか=現実の何を問題にしているのかが、わかるようになっている。
しかし、ここで書かれている問題はそれぞれ新書の一章で充分なものではなく、もっと頁を割いて(それこそ一章で本一冊くらいの分量を)論じられてしかるべきことでもあると思う。序文に「本書は、一応、現代思想・哲学のキーワードに対する「入門書的なもの」のつもりで書いたものである」とあるように、そこから先を考えるのが、読者のつとめでもあるのだが。
ここでまず批判の矢面に立たされているのが、人間の「自然」性、「本質」性といったものであること確認しておきたい。一章で主に論じられているのは、「同一化」とそれを推進するために現れてくる「排除」のことだからだ。「人間」のあるべき姿を想定し、そこからはみ出す人間をありうべからざる人間として排除する。この形態を最も暴力的に、高速に推進したのがナチズムであるが、本書では次のように見ている。
「自らが信ずる「人類=人間性」の未来のためにコミットすることを、「人間中心主義=ヒューマニズム」と呼ぶとすれば、ナチズムは、間違いなく「ヒューマニズム」である」
つまり、人間性という「正義」の基準を決定しようとすれば、その基準から確実にはずれてしまうものが出てくる。そして、その外部=少数者を排除しようという動きの発生を止めることはできないのである。
ここで著者はハンナ・アレントを引きつつ、以下のように言う。
「「人間性」とは何かをめぐって様々な立場の人間が討論し続けている状態こそが、「人間的」であるということになるだろう」
これは結論ではなく、人間性の一元的決定を回避し続けることが、以上に見たような同一化と排除のメカニズムを停止させる手段であるということである。
以降、様々な主題にわたっての「本質」批判が行われている。詰め込まなければ「ゆとり」や自己決定する「主体」が現れてくるかのように考えられている教育に対する批判や、コンテクストをまったく考えない「自己」を想定する発想への批判である。自己や決定、主体性といった概念は、何をどう決定するかというコンテクストが与えられなければ判断しようのないことであり、文中でインフォーム・ドコンセントの例を挙げて説明しているように、情報の提供それ自体が制限されてしまえば、自分が自己決定しているように思えることでも、単に誘導されているだけだということになりかねない。
「自然」な「自己決定」という発想が限りなく怪しいのは、決定する「主体」にすべての責任を放り投げ、決定をうながす方の責任を無限に軽減しようと言うふうに見えるからだ。教師と生徒の例もあるが、そこでは生徒はどう判断すればいいのかの技術自体がなく、結局はまわりの意見に従っているだけだったりする。問題は、どう決定するかをどう促すかにある。
自己決定、自己決定とかまびすしく言われてもそれは、単に責任阻却の論理に見える。
「主体」、と一口に言ってもその主体は制度的に形成されている、というのが現代思想的な認識であると思われる。学校という制度自体が、人間を集団行動に馴れさせ、社会的な人材として形成するための訓練所というふうに言われてもいるし、パノプティコンという牢獄の形態が、囚人に規律を内面化させるための制度であるという話もある。その場合、「主体」というのが人為的に形成されたものを含んでおり、「自然」に現れてきたもなどではないのである。
つまり、「自己決定」という前にその文脈、コンテクスト、制度を考えようということだろうか。