紙の本
どこまで真実なんだろう
2020/07/19 22:07
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
誰が考えても主人公の作家は大江氏本人で、義弟・吾良は故・伊丹十三氏がモデルであることは明白である。妻であり吾良の妹でもある千樫はある事件が元で兄が別人のようになったと考えていて「私が、お母様の代りに、あの美しい子供を生もう。取り替えられて居なくなった本当の吾良が、生まれて来るようにしよう」と決意したことがタイトルの取り替え子という意味だったということは終盤近くになって判明する。吾良が主人公に対して「古義人のことをね、定まり文句で嘲笑するやつがいるね。サブカルチュアに対して差別的な、時代遅れの純文学、純粋芸術志向のバカだとさ」と語る場面が登場する、もちろん、書いているのは大江氏自身なのだから結構、大江氏は自分が世間からどう思われているのか気にしていたりするのかとおかしくなった
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さすが大江
2021/12/28 14:42
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
大江健三郎にとって義兄であり親友でありライバルでもあった伊丹十三の自殺を受けて書かれた作品であるが、大江はどこまでも大江であり、凡百の追悼小説などではなく、あくまで大江健三郎的エネルギーに満ちたものとなっている。
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うーん、正直書いちゃうけど、楽しめないんだよね。この人は誰、なんていう楽しみ方はできても、『同時代ゲーム』のような壮大な神話みたいなものが消えてしまって、やっぱり頭でっかちの作品かなあ
2004/05/26 19:34
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投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
《録音したテープとカセット田亀を残して自殺した義兄で映画監督の吾良。作家 古義人がたどる心の軌跡》
大江健三郎の読者というだけで、ある程度世代が分ってしまう。でも、彼のめぼしい小説しか読んでいない私には、大江ファンならば知っているようなことでも、初めて聞くようなことが多い。ご子息の光さんのことを知って、『洪水は我が魂におよび』の意味に気付いたのだって最近のことだし、まして映画監督の伊丹十三が、大江の本当の義兄で、この小説の吾良のモデルであることは、つい先日知ったばかり。大江に関しても、気分次第のいい加減な読者ではある。
録音したテープとカセット「田亀」を残して自殺した義兄で映画監督の吾良。作家 古義人は、その死の真相を知ろうとする。「出亀」を巡るエピソード、吾良のヨーロッパでの生活、彼を巡る女性の話など、真相が見えそうでいて見えない、持って回ったような文章はいかにも大江らしい。本領が発揮されるのは、四国の山中での学生時代の回想。敗戦後の混乱の中で、国粋的な連中がどのようなことをしようとしていたかを知るのは興味深い。
ここらになると、もう『同時代ゲーム』の世界だ。古義人が書いたとされる作品が、『自ら我が涙をぬぐいたまう日』であることなどもよく分る。吾良の自殺の真相は何だったのか。彼が曝されていた暴力を、現実の伊丹の事件に当てはめるのも一興だろう。でも、正直、タイトルの意味が理解できない。『同時代ゲーム』に見られた壮大さも感じられず、ただ文章に大江らしさを感じるだけと言ったら、怒られるだろうか。さすが、筋金入りのいい加減な読者だと、自らを反省する。
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モデルは?
2023/05/29 00:23
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
これは、大江健三郎さん、ご自分がモデルでしょうか?国際的な作家古義人(こぎと)の義兄で映画監督の吾良(ごろう)が自殺しました。動機か、どうしても納得いかないため、海外へというお話ですが。
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以前これを読まずに憂い顔の童子を読んでしまってえらい目にあった。未読!ていうか続きものってちゃんと書いとけ!
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2006/9/24読了 大江健三郎さんの最近の作品は読んだことがなかったのですが、この作品を読んでもっと読んでみようと思いました。作品の内容を捉えるのも難しくて気楽に読み進めることはできなかったけれども、読んだ後にたしかな手ごたえのようなものを感じました。最終章の千樫を視点人物の中心とした章が一番好きです。引用された言葉などの中に深く心に響くものがありました。
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うーん…。背景を知っているからどうしてもそれと突き合わせて興味本位で読んでしまったけど、まったく知らない場合はどうなんだろう? そして人間心理的なえぐさが、いまいちしっくりこなかった。
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事実に即した小説らしいですが、それについての知識がなかったのであまり心から没頭することはできませんでしたね、すこし残念です。
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読み終わるまでにだいぶん時間がかかった。
義弟吾良の自死がテーマ。
彼の作品は初期のものとごく最近のものしか読んでいなかったので、それらをつなぐ道筋が類推できて興味深かった。
センダックの絵本は子ども達に読んで聞かせ、親しんできた絵本作家だが、千樫の、自分の手元にぐいと引き寄せた解釈には共感できた。
作成日時 2007年07月03日 19:24
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初めて読んだ大江健三郎作品。なんか読みにくい、という噂を聞いていて読まずじまいだったんですが、最近の作品だからか、比較的読みやすかったです。
しかし久々に人間というものをここまで深く描いた作品に出会った気がした。一言でまとめれば「いろんなことが含まれている小説」
小説のタイトルがなぜ「取り替え子」なのかわかった時の感動はひとしおです。
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大江健三郎。
私小説というおうか、自分の人生が語られている。
どこまでが事実で、どこまでが小説としてのことなのか、気になるところではある。
登場人物はおそらくほとんど実在の人物。
古くからの友人であり、義兄である吾朗(伊丹十三)の投身自殺からはじまる。
本の中にたくさんのメタファーがあり、何となく読んでいた私は気付いたり気付かなかったり。
四国の森の少年時代の怖い体験や、
吾朗との「田亀」を通じた通信、ベルリンでの100日間を通して吾朗の自殺を追いかけていく。
最終章では千樫(大江ゆかり、大江健三郎の妻、伊丹十三の妹)が引き継ぎ、
センダックの絵本から妹としての立場で小説を閉じる。
あまりにもたくさんの要素が盛り込まれているため、
読んでいて難しいと感じるし、読み終わっても著者の意図が読めたのかどうかはわからない。
とにかく、読みやすいけれども重く、ずっしりとくる話。
背景についていろいろと説明があるわけではないので、自分である程度知ろうとしなくてはいけない。
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男性に対するマイナスコンプレックスの塊だったよーな…。逆方向の、女性っていう出産できる性に対する超えられない羨望もひしひしと。
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伊丹監督と義兄弟とは知りませんでした。すごい引きずったんですねぇ。
コギト→チガシに話が流れていくところは結構良かったんですが、なんだろうなぁ、うーん。これ難しいな。
「あの事件」について私は中途半端にしか理解できていたいところが問題なのかもしれません。
10.10.01
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大江健三郎氏の小説を二冊読んで、新書を何冊か読んで、気がついたことは、大江健三郎という方は、とても保守的な方なのだということです。でも思想やイマジネーションが革新的なので、わかりづらいと思われてしまうと、過激なことを好んだり、白黒つけなければ気がすまなかったりする人には、理解できなくなり、裁判を起こされるようなことにも残念ながらなってしまうのだなあと、思いました。(もともと文学を知らない人が、文学の奥深さを知るには、魔法使いに弟子入りでもしなければいけません)
大江氏は決して、言いませんが、保守的な傾向に導いたのは、息子さんであろうと、同じ知的障害のこどもを持つ私は、よくわかります。障害のある息子さんを持たなければ、あるいは、もう少し過激な人生を送られていたのかもしれません。故伊丹十三氏と同じように。
たとえば、知的障害の息子が冬の朝方暗いことへの不安から、マンションの玄関で大声をあげたとしたら、そして、その苦情を言われたら、「知的障害なんだから、仕方ないでしょ? 何が悪いの?」とは言えない訳です。それは、子供のために言えないのです。子供は、それをしてはいけない、ということを、大人になるまで、少しずつでも学んでゆかねばいけません。じゃないと、大人になっても、そこここで、大声をあげるような、異常な大人になってしまいます。そうさせないように、教え込むことは、知的障害なので、無理です。そこは、親が周囲に気を配ってゆくしかないのです。
そういうことを繰り返していると、人格が保守的になっていまいます。
仕方が無いことです。
だからこそ、本当に革新的な、そして、過激で華やかな人生を送った伊丹氏を、心から、(青年時代にジャン・コクトー『オルフェ』のジャン・マレーに自分を見立ててくれたほどの、同性愛的な感性をずっと宝石の如く大切にしながら)尊敬し、眩くどこかとおくから、見つめるように、人生の一部にしていた訳です。
最高のワインを味わう如く、最高の文学、最高のイマジネーションを、味わえるのだと思いながら、大江氏の小説を、たくさんの人に読んでほしいなあと、自分も二冊読んだばかりですが、思います。
伊丹十三氏の自殺を取り上げてはいますが、大江氏は決して、一般的な「理由付け」で突き詰めてこの小説を書いてはいません。多くの後悔を文章中に孕みながらも、生と死そして、死を超えた、魂へのいとしい想いを、広い広い空間に投げ出しているかのように、暗い曇天を描きながらも、生き生きと、描いています。
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4日くらい、1章ずつ読み進んでいたのだが、5章目に入ったところで我慢できずに一気に読み終えてしまった。
義兄・吾良の自殺と遺されたカセットテープをきっかけに、主人公・古義人の少年時代の体験が呼び起こされる。
古義人らが少年時代に体験した森の中の練成道場での出来事。
そこでは、政治的な問題や思想を大きく含みながらその集団と進駐軍の軍人、少年時代の古義人と吾良のホモソーシャル、ホモセクシュアルな関係が描かれる。
最終章は主人公の妻の視点に切り替わる。それまで、男たちが主眼に置かれていたこの物語の中で、この章だけは女性が主役にすえられる。取り替えられた、あるいは失われた子どもを「生みなおす」存在として彼女らは表舞台に登場する。しかし、私はこの章について納得がいかない点ある。
一つは、無垢で美しい子どもが無条件に欲望されること。主人公の妻は、子どもの頃から美しく才能あふれる存在だった兄が、森の中の出来事を経て「向こう側」にさらされたことを悔やみ続ける。無垢さや完璧な美しさを失ったとき、子どもは「取り替え子」になるのだろうか。それはそんなにも悲しむべきことだろうか。そして、たとえば「取り替え子」として生まれた子どもは、欠けている部分を他の何かで補うことによって、いつか美しい自分を取り戻さなければいけないのだろうか。
もう一つは、そういう子どもを産むことを女たち自身が望むこと。この作品の中で、女は常に「母」である。「母」は美しい息子を産もうとし、息子は死んでまた「母」の胎内に戻っていくかのようだ。そして、「父」はほとんど不在である。
この作品から読み取ったものを確かな言葉にする術を私はまだ持たないけれど、もっと突き詰めて考えなければいけない作品だと感じた。