紙の本
書いてること半分ブーメラン
2023/10/25 08:59
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ブラウン - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分の頭で考えること、悪文の氾濫への嘆き、読書の心構えにかんして、痛烈な批判と主張を述べている。
一方で、内容それ自体が本書の表現形式への批判として返ってきていている。何かを主張する場合には首尾一貫した態度を持つべきだと考える身としては、自分を棚に上げた著者の態度は唾棄すべきものと映る。せめて対比形式を取れなかったのか。それとも今の私のような感情を読者に抱かせて、著者の思想を逆説的に称揚する風潮を作りたかったのか。天才の考えることは深遠にしても、こう延々と考えさせられても仕方がない。そもそも当時のドイツの世情への批判が大半なのだから、現代にも通じるエッセンスはほんの一握りなのだから。
誤れば車輪の再発明に誘いかねない主張があったり、ドイツ語に対してもはや妄信のような美学を持っていたりと、主張の中立性を疑わざるを得ない態度が見られる。広く普遍的な事象を説く割に、その基盤にある精神が内側に向かっている奇妙なバランス感。矛盾した精神と表現で著された本書は、しかし何故か時折鮮烈なフレーズを持って強く心に訴えかけてくるものがある。それは自己矛盾した内容の拙さを補ってあまりある養分を含んだ、人生の糧だ。
投稿元:
レビューを見る
読書と思索について、ショウペンハウエル先生のお説教ですが、意外と現在に通じるものがありとてもためになる。バカ出版社が悪書ばっか出してふざけんな!なんてことは、日本に限らずかつてのドイツにも言えたことなんだな、と思い知ったりもする。
ただし、ドイツ人は〜とか言葉を大事にせん輩は〜みたいな説教は勘弁。
本と関わる上の原則論として目を通しておきましょう。薄いのですぐに読みきれます。
投稿元:
レビューを見る
”読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。”
”読書しているときは、われわれの脳はすでに自分の活動場所ではない。 それは他人の思想の戦場である。 "
”1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。 ”
”紙に書かれた思想は砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。 ”
投稿元:
レビューを見る
ちょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜おもろい!!! この人おもろい!
彼はこう言ってる、「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく。」 ・・・どーよ? 「ものごとの真をちゃんと思索している人」とそうでない人の違いを上げ、そうでない人を徹底的にたたいている。苦笑
膨大な読書量をこなして調子に乗ってる人。ぜひ読んでください。苦笑
投稿元:
レビューを見る
「パレルガ・ウント・パラリーポメナ」の抄。辛辣だが鋭い分析。蔵書と知識の関係(P5)、著者の3タイプ論(P27)、著作の価値の基準(素材or形式)(P34)、文体論(P56)等々が出色。
投稿元:
レビューを見る
読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく。
表紙に書かれたこの文章がもう最高すぎていうことありません。読書を笑え。
投稿元:
レビューを見る
本を読むことについて考えさせる本。
1800年代に書かれた本ながら、言葉は本質をついており、本を読みすぎると自分でものを考えることができなくなることは共感。特に思索については、最も優れた論文だと思う。
投稿元:
レビューを見る
読むことに没頭したとき、そこにあるのは物である。物は提供される、すでにできあがった形で。そのとき、われわれは決して『物』を考えているわけではない。ただ物を見ているにすぎない。
投稿元:
レビューを見る
3月13日購入。3月15日読了
・読書とは結局他人の思考の道筋を辿り直しているだけである。・多読のしすぎは、自ら思考するということを阻む・世の中の大半の出版物は無駄なものである。・匿名による批判は人間として最低・夜のフクロウ(知の象徴)もびっくりして昼間に泣き叫ぶだろう(比喩)。読んだあとに考えないのは、食べても消化しないのと同じである。思索はいわば、風に操られる火である。学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を読破した人である。考えを書くことは重力に任せばよいが、書かれたものから読み取るのは難しい。考えがまとまっていればおのずと書ける、稚拙で劣悪、蒙昧難解な文を書くということは考えがない証左である。
若干、エリート主義っぽい筆致でしたが、先人の鋭利な寸言はとても含蓄があり味わい深い。美しくそれでいて毒めいた文章には畏怖の念を抱きます。岩波文庫を読むのはこれが始めてですが、比較的読みやすいのではないかと思います。何よりも、今から200年近く前の書物が現代の社会でも通用する考えをもっているということに驚嘆しました。やはり、こういう本こそが、ショウペンハウエルのいう読むべき本なのでしょう。
投稿元:
レビューを見る
読書は古書に限る、といったことを200年前からいっている。確かにそう思う。時間は限られているのだから、よく読み、よく考えたい。
投稿元:
レビューを見る
読書とは他人に物を考えてもらうことであり、熱心すぎる読書家は、思索家、本質的な意味での哲学者になり得ない、と説く。
東洋でいえば「学びて思わざれば」という所。
ショーペンハウアーにとって「大学の文献学者」が哲学者の系譜を名乗り、過去の思索を再解釈して並べなおしたものを彼らの哲学の成果とする事に、並々ならない嫌悪感を抱いており、そうした感覚から産まれた著作なのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
とりあえず著者は天才なるものを信じていて、かつつまらない本ばかりが出版されていることをとても怒ってらっしゃる。インターネットを使っている人間には、この本の中の、匿名で意見を書くことについての主張にはそこまで言わないでも、と思ってしまうかも。
曖昧で読者に深遠な解釈を求めさせるような文を書くなというのにはそうだなーと思った。でも全体的に昔の人の文章だと思う。「talented」という英語も一般的になってしまったし。
投稿元:
レビューを見る
”読書とは他人に考えてもらうことだ”とすることがテーマのようです。だから、読書ばかりに人生を費やしてはならず、自分の頭で考えることが大切であると。
だからといって、読書をしなくていいわけではありません。
投稿元:
レビューを見る
時折読み返したい、読書についての箴言集。時代は変わっても、紙が電子に変わっても、結局「情報」を吟味するのは人。著者は読書において、情報に振り回されることなく、いかに自分の思索を深められるかが重要だと説く。彼は19世紀ドイツの文章の乱れや、それについて問題意識のない著作家らを痛烈に批判する。かの国において多くの人が、身近な「売文屋」が垂れ流す文体、文法を無批判に受け入れる。「新刊」だけに飛びつき、古典には見向きもしない。その果てにあるものは思考、思想の脆弱だと。まるで自分の国について言われているようだ。「…怒りを欠く者は知性を欠く。知性は必ずある種の『鋭さ』を生む」(p.124)。いまの日本で、「怒っている」人はどれくらいいるだろうか。まずはわが身を省みることにしよう。
投稿元:
レビューを見る
多読は他人の思想を受け入れるばかりで、自分の思想が育たないので避けるべきだ。
最近の文章は、文法すら間違ったものが多い。と辛辣に批判。やたら紙面を割いているようにも読めますが。
ショウペンハウエルも多読してたんじゃない?
古人の良い本を読みましょう。最近の人が古人の文章の評論を読むのはアホみたいだ。
自分の本当の思想を書かれた書を読みましょう。お金儲けのために本を出すのは、読者をバカにしている。
ほぅほぅ
厭世論のショウペンハウエルが書かれたものでした。